2008年3月31日月曜日

春の冠雪


いわきの山はうっすら雪化粧をしても、太陽が顔を出せばたちまち素顔に戻る。平の市街地からだと、水石山(みずいしやま)の頂上に少し雪が残っているな、と分かる程度だ。

で、今日(3月31日)。市役所では退職職員が冷たい雨の中を、後輩に見送られながら去った。別れの様子を想像しながら机に向かっていると、なにやら雨がやんだ気配。

正午に窓から外を眺めたら、驚いた。雲が切れて山並みが見える。その山並みがうっすらと雪をかぶっている。冬にさえ見られなかったほどの雪の量だ。

確かに今朝は寒かった。冷たかった。それで、朝の散歩は雨を理由に休んだ。

街への行き帰りに通る平塩の夏井川そばのソメイヨシノも、今朝は白い花びらをちらりと見せてはいたものの、雨に濡れて、かじかんで、つぼみを開くまでにはいかなかった。

雨と山の冠雪と、年度末と。退職市職員諸氏には忘れがたい「最後の日」になったことだろう。

夏井川渓谷の駐車場


夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川地内)を代表する景勝地といえば、「籠場(かごば)の滝」である。滝の上手、県道小野四倉線沿いに去年(2007年)、マイカー用の駐車場ができた。岸辺の杉を伐採し、「かごマット」(昔流にいえば「蛇かご」)で基礎を固め、その上に土を入れてのり面をつくり、路面がきれいにアスファルト舗装された。

ところが9月5日、台風9号が福島県内を襲うと様相が一変した。のり面がえぐられ、アスファルトの路肩がギザギザになった=写真。できてすぐ使いものにならなくなったのだ。

台風9号は山間部を中心に、冠水や土砂崩れなどの被害をもたらした。降り始めからの総雨量が500ミリ近くに達したいわき市三和町は、特に被害が甚大だった。夏井川渓谷にあるわが無量庵の庭でも、桐の木が幹から折れてそばの畑をふさいだ。

で、今年の3月22日夜、牛小川の集落で年度末の総会が開かれたときのこと。
終わって懇親会に移ると、よもやま話が始まった。「籠場の滝」の駐車場が話題に上った。

「あの日(台風9号が来襲した日)の早朝、非常召集がかかって駐車場のそばを通ったら、川が増水して道にひたひたかかっていた」とTさん。
そのあと、そこを通過したKさんは「もう水が道路にあふれていて、怖かった」。
どこまでが川で、どこからが道路か、分からなくなったのだ。

「籠場の滝」のすぐ上流は道路との高低差がわずかしかない。大水が出ると道路が冠水し、魚が泳いでいたりする。「10年に一遍、いや20年に一遍くらいかな、そうなるのは」。T、Kさんが言う。たまたま駐車場ができた直後に、「20年に一遍」の大水が襲った。「造ったらすぐやられた」と別のKさんが応じる。

「『かごマット』をもっと高くすればいいんだよな」が、そのときの結論だった。

福島県いわき建設事務所の釈明はいかに――と言っても始まらない。が、県の技術職員の高度な知識と、地元に住む人間の知恵と経験則がドッキングしていれば、のり面がえぐられるようなことはなかった、ということは言える。

なぜか。3月30日に牛小川へ出かけたら、駐車場に災害復旧工事を告げる標識が立っていた。工事のポイントは「かごマット」を3段に増強することだ。地元の住人が経験的にそうすべきだ、と言っていたことである。

夏井川渓谷は間もなくアカヤシオ(岩ツツジ)の開花時期を迎える。アカヤシオはいわき市の平野部のソメイヨシノとほぼ同時に花を咲かせる(小名浜測候所は3月30日午後、桜の開花を発表した)。ということは、今週末の4月5、6日あたりから夏井川渓谷はマイカー利用の行楽客で込み始めるのだ。

解せないなのは標識に表示されている工事期間である。「3月24日~3月31日」で何ができるのだろう。駐車場はまだ壊れたままの状態。一気に31日に仕上げる?といっても、この雨である。

とにかく夏井川渓谷の花見(むろんアカヤシオ)に間に合うように復旧する、という意志を示しているのだとしたら、それはそれで歓迎すべきことではあるが。

2008年3月30日日曜日

「産業観光を編集する」とは


いわき市の「常磐炭田関連遺産」15件、「八茎鉱山関連遺産」1件の計16件が経済産業省の近代化産業遺産に認定されたのを記念して、3月29日午後、「ヘリテージシンポジウムinいわき」(いわきヘリテージ・ツーリズム協議会主催、いわき市共催)がいわき駅前再開発ビル「ラトブ」で開かれた。

社会経済生産性本部研究主幹丁野朗さんの基調講演「近代化産業遺産の活用手法とその事例」のあと、里見庫男同協議会長をコーディネーターにパネルディカッションが行われた=写真。

丁野さんの講演で強く印象に残ったものがある。
今、産業観光(ニューツーリズム)に求められている「ニュー」として、丁野さんは①価値観の「ニュー」②資源の「ニュー」③編集視点の「ニュー」④事業手法の「ニュー」⑤人格資源の「ニュー」、の5点を挙げた。

価値観や資源や手法などは大事なものだから、新しい発想・視点で見直せ、というのは当然だ。人格資源は主にボランティアのことだから、それも分かる。なかで③には「やっとそんなことを言う人が現れたか」とうれしくなった。

丁野さんは「価値観変化に対応した新たな観光・まちづくりのための装置や仕組みが求められる」から、「新しい編集視点を持て」という。言い換えれば、全体の「物語」をつくって、そこにある部分としてのモノやコト(たとえば「廃墟」や「なにかの跡」)の「意味」を分からせるように工夫しなさい、という。それが、丁野さんのいう「編集視点の『ニュー』」だ。

私なりにたとえれば、そこにある木(意味)を見せる(分からせる)ためには空想の森(物語)を育てなくてはならない。その空想の森の物語をつくるのが「編集」なのだ、ということになる。

「産業観光を編集する」といえば、なんとなく違和感を持つ人がいるに違いない。が、「編集」とは本や雑誌をつくることだけではない。明日の自分の一日の予定を組み立てる。何時になにをして、何時にはどこそこへ行って、何時にはだれそれと会う――これも一種の「編集」とみなすことができる。人間は絶えず自分を、自分と社会とのかかわりを「編集」しながら暮らしているのだ。

暮らしの場に「編集視点」を置くと、観光客がどんなことに喜び、感動し、怒り、悲しみ、笑うかが見えてくる。「物語」はそこから始まる。その「物語」が自分の生活なり考えなりと重なり合ったとき、旅人はたぶん深く心を揺さぶられる。
観光はカネが落ちる・回る――だけでなく、哲学や文学とドッキングした「知的生産の場・機会」にもなっているのではないか。丁野さんの「編集視点」の話を受けて、私はそう思った。映画「フラガール」は、その意味で最大級の「編集作業」だった。

2008年3月29日土曜日

やはらかに柳あをめる


ふだんより少し早く、といっても20分ほどだが、今朝(3月29日)6時過ぎ、塩(いわき市平)の夏井川へ直行した。双眼鏡で確かめると、まだコハクチョウが20羽ほどいる。

それからきびすを返して岸辺のサイクリングロードを歩き始めた。と、不意に石川啄木の短歌が口をついて出る。「やはらかに柳あをめる/北上の岸辺目に見ゆ/泣けとごとくに」。対岸の岸辺の柳が朝日を浴びてうっすら緑色に染まっていた。まさに「やはらかに柳あをめる」だ。

ここは東北の最南端。北上川ではないから歌に詠まれた柳と同じかどうかは分からない。が、たとえばカワヤナギは本州~北海道南部の日当たりのよい川岸に生息するというから、同じ柳が生えていてもおかしくはない。

で、「やわらかに柳あおめる夏井川、岸辺歩けば笑みもこぼれる」。いちだんと春の気配が濃くなってきた。

散歩コースに咲く花も明るく華やかになりつつある。露地のヒアシンス、ムスカリ、ジンチョウゲ、鉢植えのパンジー。大ぶりなハクモクレンの花もあちこちの庭で開き始めた。

夏井川の堤防沿いに2カ所、ソメイヨシノの並木がある。どちらもつぼみが大きく赤く膨らんできた。一両日中には、気の早いつぼみが花を開くかもしれない。

2008年3月28日金曜日

山崎の里


私の住むいわき市平中神谷は、夏井川をはさんで平山崎と向かい合っている。

神谷は堤防のそばまで住宅が建ち並び、人がよく堤防を歩いている。私もその1人だ。
対岸の山崎は、神谷とはまったく違って田園地帯である。田畑が広がる中に旧「浄土宗奥州総本山」で「浄土宗名越派本山」の専称寺、その「故本山」の如来寺がある。

山崎の下流、河口までの右岸一帯はいわきの古代文化の発祥地だ。なかでも平下大越の「根岸官衙(かんが)遺跡群」は平成17年7月14日、国史跡に指定された。

四次元の世界で根岸近辺を見れば、「斑鳩(いかるが)の里」が立ち現れる。山崎には中世から近世にかけて、「東北地方の民衆布教の発信地」(圭室文雄明治大学教授)だった一大仏教大学兼文化センターが見えてくる。歴史的にはとてつもないワンダーランドが対岸に展開している。

いずれその説明をするときがあるだろうが、今はのどかな田園地帯から届く「春便り」だ。

神谷側の堤防を歩いていると、決まって対岸の山崎側から鳥の声が聞こえる。
まず、ウグイス。私が初音(初鳴)を確認したのは3月7日。小名浜測候所の生物季節観測では3月9日だから、今年は測候所に勝った。

そしてキジ。朝な夕な、「ケンケーン」と河原で鳴く。27日には姿まで見せた。
「キョシー、キョシー」。変な鳴き声がするので、対岸を見ると、明らかに植物とは異なる黒点が目に留まった。双眼鏡で確かめたら雄のキジだった。

夏井川の流れをスムーズにするため、師走から1月にかけて山崎側の岸辺で竹や木を伐採する工事が行われた=写真。それでできた空き地に現れて、真っ赤な顔とメタリックグリーンの胸を輝かせながら、えさをついばんでいたのだ。

川をはさんでいるから、まったく無防備である。初めてじっくりと雄キジの採餌(さいじ)姿を見ることができた。

それより下流、国道6号常磐バイパスの夏井川橋にいるチョウゲンボウは、私の知る限りでは上下流2カ所の木のこずえに休み場を持つ。一つは神谷側の柳の木、もう一つは大越側の高木。落葉樹だが、樹種は分からない。枝とは異なる黒点がこずえに見えるので、肉眼でもすぐ分かる。それからじっくり双眼鏡で確かめる。

夏井川が澄んでいれば、ウミウだかカワウだかの潜水姿も追える。夏井川は浅い。その上をカワセミがメタリックグリーンの弾丸となって一直線に飛んで行くこともある。

川と河原は生きた水族館であり、鳥類園であり、植物園でもある。

2008年3月27日木曜日

三春ネギの話(つづき)


3月23日に書いた「三春ネギの苗床」のつづき。

『福島県農業史 4各論Ⅱ』にネギの記述がある。それによると、ネギは福島県内でも古くから栽培されてきた。「いわきネギ」「源吾ネギ」「阿久津ネギ」などの品種が育成され、普及しているという。

この「いわきネギ」は、現在栽培されている「いわきネギ」のことだろうか。それとも古い地ネギのことで、現在の品種とは違うのではないか――そんな見方もできるが、未調査なので深入りはしない。

「三春ネギ」を調べるには、まず『三春町史』に当たらなければならない。詳細な記述があればそれで終わり、それでよし。が、どこをどうめくっても「三春ネギ」の記述がない。
「三春ネギ」をめぐる探索の旅はここから始まった。旅は今も続いている。
これはだから、単なる推理に基づく経過報告に過ぎない。

手がかりは二つある。曲がりネギであること。甘く軟らかく、香りが高いこと。
それを基本に、田村郡三春町のスーパーでネギ苗(店の人に「田村ネギ」と言われた)を買って定植したことがある。同じく田村市常葉町のスーパーでも曲がりネギを何度か買って、植えたり食べたりした。

須賀川市の「源吾ネギ」は「岩瀬郡浜田村(現須賀川市)の安藤源吾が昭和3年(1928)に『合黒一本太ねぎ』から選抜したものといわれ、肉質が軟らかく、香気があり食味が優れている。また、分けつが少なく軟白部が太く栽培しやすい。定植時に伏(ふせ)込んで植えるため、軟白部が曲がるため別名『えびねぎ』の名がある」(『福島県農業史』)。特徴は共通しているが、須賀川市である。「三春ネギ」との関連はひとまず脇において考えねばなるまい。

郡山市の「阿久津曲がりネギ」はどうか。去年は「秋の好天に恵まれ、特有の甘く、柔らかく、風味のいい三拍子そろったネギが育ったという。収穫の最盛期は2月末まで続き、主に県内のスーパーで販売される」(07年12月8日付福島民報)。これも形や食味で共通しているように思われるが、郡山市である。「三春ネギ」と関連づけるのは強引過ぎるだろう。

ここで探索の旅はしばらく停滞した。暗礁に乗り上げた状態といってもいい。
光が差したのは「岩城街道」を調べていたときだ。

岩城街道の着点は磐城平城下である。起点は①須賀川宿の奥州街道分岐点②郡山宿大町辻③本宮宿舟場④その他(「『歴史の道』岩城街道 本宮―平」福島県教育委員会)とあり、「郡山より三春まで」の項に「阿久津問屋」の記述が見られる。それで、阿久津は阿武隈川東岸(右岸)の村だということが分かった。江戸時代には、そこに会津荷専用と郡山出しの2軒の荷物問屋があった。阿武隈川は船で渡った。

阿武隈川東岸といえば、これはもう田村郡である。今でこそ郡山市西田町阿久津だが、同市に吸収合併されるまでは、阿久津は田村郡西田村に属していた。三春町とは地続きもいいところだ。

「阿久津ネギ」は生産地は変わらないが、行政的には「田村郡」から「郡山市」に変わった。もともとは「田村のネギ」だったのだ。隣接する西田村と三春町で生産されたネギだから、「三春ネギ」(知名度の高い方が売れる)となったか。そうだとしたら、ストンと腑に落ちる。

――夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)の集落=写真=で栽培されている「三春ネギ」のルーツを探っているうちに、ようやく「阿久津ネギ」あたりまでたどり着くことができた。両者の関連性は、私のなかでは無論、不明である

2008年3月26日水曜日

ぺんぺん草がアートに!?


付き合いが三十数年になる還暦間際のM子(カミサンとは幼なじみ)がやって来た。フラワーアレンジメントの講習を受ける娘に付き添って東京へ行ってきたという。

娘を除くと受講生は全員、都内の人間。先生は男性(栃木県出身)で、業界では知られた存在らしい。緑(葉物)だけのアレンジメントを、先生が披露した。「丈の高い緑と低い緑を組み合わせるのがコツ」。ポイントを教えると、あとはそれぞれの感性で、自由に――が先生の流儀らしい。ちなみにM子は絵かきだ。夫婦で自宅を訪ねたときに感じたのだが、部屋の飾りつけはなかなかのものだ。それをなんというのだろう。インテリア? フラワーならぬルームアレンジメント?

あとで花材の話になったそうだ。エコな流れはフラワーアレンジメントの世界にも及んでいるのか、身近な暮らしの場に生える野草も立派な花材として扱われるようになった。

花材にナズナがあった。「田舎(いわき)では『ぺんぺん草』って言うの。そこらへんにいっぱい生えているよ」。先生は当然、「ぺんぺん草」がナズナの異称であることを知っている。M子の説明に苦笑しながらうなずいた。

ただし、野にあるナズナは虫にくわれて花材には向かない。フラワーアレンジメントにはハウスで栽培したナズナを使っているのだという。春の七草をハウスで栽培しているのだから、別に不思議ではない。

何年か前、ネコジャラシ(エノコログサ)が花材に使われているのを見て驚いたことがある。それからだいぶたつ。派手な色物だけでなく、素朴で質素な野の緑も――という気分がさらに広がってきたのだろうか。

なんだかナズナが照れたり、戸惑ったりしているような気がしてならない。で、こちらは花材ではなく、カンゾウの若芽とセリ、ヨモギ、クレソン=写真=を摘んで食材(てんぷら)にした。わが家の「味の春一番」である。

2008年3月25日火曜日

総合図書館でピッ


いわき駅前の再開発ビル「ラトブ」に市の総合図書館が入居している。私はここでほぼ毎日、郷土の資料をチェックしている。新聞社にいたときには、記者が取材して書いた原稿をチェックして、いわきの「今」を理解したつもりになっていた。すべて自分でやり始めたら、理解が浅くて分からないことだらけである。いわきに限ったことではないとしても、1人の人間が立ち向かうには、いわきは広すぎるのだ。

手元に置きたい資料はたいがいコピーする。この前、地域を巡回する移動図書館「いわき号」から借りた本と、総合図書館から借りた本、計3冊の一部をコピーするために総合図書館へ持ち込んだ。

すると、ゲート=写真=で「ピッ」となったのだろう。すぐカウンターの女性がすっ飛んでき来て言った。「なにか手続きの終わっていないものがあるようなんです」。「ん? ここで借りたのが2冊と、移動図書館で借りたのが1冊あるだけなんだけど」。女性は3冊をカウンターへ持って行って「手続き」の再確認をした。なにやら同僚と話しているのが耳に入った。「移動図書館のは、そうなる」とかなんとか、男性が言っている。
「失礼しました」。女性が私に本を戻した。

<そうか>と、私は思った。
カウンターの脇のゲートは手続きの済んでいない本をチェックするためにあるのであって、移動図書館の本の「持ち込み」は想定していない。しかし、移動図書館の本にも電子的な仕掛け(ICタグ)がしてあるから、そして移動図書館ゆえに貸し出しは昔ながらの方法で行われるから、電子的な手続きは未了のままである。それを持ち込んだためにゲートが反応(正確には誤作動というべきか)した。

図書館はいろんな人がいろんな風に利用する。私のように、「持ち出し」ではなく「持ち込み」をする人間もいる。ゲートは「出る」「入る」に関係なく、通過したときに手続きを取っていない本をすばやく通知するだけだとしたら、実際そうなのだろうが、「持ち込み」に関してはまるで役に立たない。

疑われた人間も、「ピッ」となって職務を遂行したカウンターの女性も、これではなんだか嫌な思いをしてしまう。図書管理システムを構築した大手業者のスタッフが図書館の職員と一緒に仕事をしているはずだから、そのへんはうまく改善してほしいものだ。

持ち込んだときにゲートで「ピッ」となった本は、出るときにも「ピッ」となる。そんなことは嫌だから、カウンターの女性にわけを言って本を預け、ゲートの外の返却コーナーを経由して本を持ち帰った。

2008年3月24日月曜日

白菜漬けとハクチョウ


これが今シーズン最後の白菜漬けかな、と思いながら、今朝(3月24日)、3キロを漬け込んだ。

種まき時期が遅れ、冬に入って生長が止まったわが菜園の「ミニ白菜」5株と、朝市(いわき市平沼ノ内)で買って来た大玉1株を割り裂いて干したのに、夏みかんの皮とタカノツメ、昆布を加えた。塩は白菜の重さの3%と決めている。

夏みかんは寺の境内にわんさと実っているのを、お坊さんに断ってもらってきた。去年と今年と、寺で法事を営んだ。お坊さんに夏みかんの話をすると、「どうぞ、どうぞ。いっぱい持ってってください」。去年は内側の綿を取らずに使ったので、白菜が少々苦く漬かった。それで今年は、包丁を当てて皮だけをむいて天日に干した。中身は焼酎のお湯割りに加えて味と香りを楽しんだ。
タカノツメはわが菜園で取れたものを、同じく天日に干した。

漬け込み作業はものの10分もあれば終わる。あとは3、4日して水が上がり、しんなりしてくるのを待てばいい。

と、ここまで書いてきて、「これが今シーズンの最後かな」と言えるものがもう一つあることを思い出した。いわき市平塩地内の夏井川に逗留しているハクチョウたちだ。昨夜、晩酌をしていると「コウ、コウ」と鳴き交わしながら家の上空を通過して行く集団がいた。そう言えば、土曜日は真ん丸い月が煌々と輝いていた。

満月の夜、ハクチョウたちが鳴き交わしながら北へ帰って行く――。いつからか、胸に抱くようになった幻想だ。今朝、夏井川へ行ったらハクチョウは100羽前後になっていた。やはり、相当の数が昨夜、旅立ったのだろう。

2008年3月23日日曜日

三春ネギの苗床


夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)にある畑は、極寒期には表土が10センチ近く凍る。生ごみを埋める穴を掘ろうにも、スコップでは歯が立たない。そこで、時間があれば太陽が少し土を解凍する午後まで待つ。時間がなければツルハシで凍土を割るか、落ち葉をためた堆肥わくに散らすか、する。

畑といっても10メートル四方程度のミニ菜園だ。秋に種をまいた白菜が30株ほどできた。白菜漬けにして食べるのだが、夫婦2人には30株は多過ぎる。防寒用に鉢巻をして、大半を畑に残した。
畑のそばにある「無量庵」は、ふだんは雨戸を閉めたままで人の気配がない。それをいいことに、1月の後半になるとヒヨドリが来襲を始めた。結果はヒヨドリと人間とで白菜を分け合った、という話は前に書いた。

その菜園の一角に、秋に種をまいた「三春ネギ」の苗床がある。菜園で越冬した野菜は白菜とこのネギ苗だけだ。

土の凍結予防と雑草対策を兼ねて苗床に籾殻を敷いたが、それだけでは足りない。土が凍るとネギ苗も先端が霜枯れて黄色みを帯びてきた。そうして極寒期を耐えたネギ苗は今、本来の青みを取り戻し、ボールペンの芯ほどの太さに生長した=写真。定植するのは5月。それまでは苗床で生長するのを見守ることになる。

ところで、なぜ牛小川で「三春ネギ」なのか――だが。

牛小川の集落では、おのおの自家消費のために自分で種を採って「三春ネギ」を栽培している。いわゆる地ネギ(伝統野菜)である。

何年か前、「無量庵」の近所のトシオさんの家でごはんをごちそうになったときのことだ。ネギと馬鈴薯のみそ汁を口にしたとたん、子供のころに食べたネギと同じ味がして感激した。ネギが甘くて軟らかい。聞けば「三春ネギ」だという。

私は田村郡(現田村市)常葉町で生まれ育った。実家に確かめたら、やはり昔は「三春ネギ」を食べていた。いわき市で暮らすようになってからは、店で売っているネギがどうにもいただけない(味もそっけもない)、と感じていたので、ここは「三春ネギ」を握って離さないようにしなくては――と、気持ちを集中した。

で、まずはトシオさんからネギ苗を譲ってもらい、「三春ネギ」の栽培を始めた。翌年からはネギボンコ(ネギ坊主)から種を採った。が、保存の仕方が悪くて2年続けて失敗した。最初は長梅雨の湿気で種が腐り、2回目は廊下に置いておいて駄目にした。秋の種まき時まで冷蔵庫に保管しておく、と知ったのは3年目である。これでやっと発芽させることができた。それから少しずつ栽培・自家採種にも慣れ、「曲がりネギ」にする仕方も聞きかじって、まねをするようになった。

さて「三春ネギ」には、「産地が田村郡三春町」であるということだけでなく、「三春から伝わって来たネギ」という意味もあるのではないか――。私は、今はそう思っている。

牛小川はいわき市川前町をはさんではいるが、田村郡小野町に近い。夏井川でいえば上下流の関係だ。川に沿って道が続いている。「三春ネギ」はこのルートをたどって牛小川までやって来た。それは間違いないことだろう。

では、「三春ネギ」とはどんな品種か、という話は、後日にしたい。畑仕事があるので、きょうはここまで。

2008年3月22日土曜日

専称寺の朝日


春分の日は雨。21日も雨のち曇り。というわけで、今朝(3月22日)、起き抜けに梅の名所の専称寺(いわき市平山崎)へ行ってきた。お目当ては梅、ではなくて朝日。春と秋の彼岸の中日、朝日が本尊の阿弥陀三尊を照らし、夕日が本尊の後光になる――そんな風に本堂が造られているのではないか、という話を聞いていたので。

夕日は15年近く前、見に行った。確かに、本堂の裏山(鞍部になっている)に沈むのが分かった。で、今度は朝日である。

朝の5時半過ぎ、山上の境内に立つ。左手に蛇行しながら東流する夏井川。そこに逗留しているハクチョウが朝日にほんのり赤く染まって飛び交っていた。正面から右手にかけては沖積平野。その先に太平洋が広がる。

磐城平藩の中老、鍋田三善(1778~1858年)は専称寺について、自著『磐城志』にこう記す。「山門の外、坂の中段左右に寮舎が5軒並んでいる。また南側、横に入り組んで5軒がある」。寮舎は坊さんの卵が寝泊まりして修行するところ。それが江戸時代には10軒あった。住持が引退したあとに住んだ「寂光院」は庫裏の東にあり、「東海の眺望類ひなし」と三善は絶賛する。

今も専称寺からの眺望は比類がない。今朝はそのうえ雲ひとつない日本晴れ。
海から昇った太陽は本堂の中央から見ると、1時の方向にある=写真。真っ正面ではないのがちょっと残念だが、ふもとも、中段の梅林も、本堂も朝日に照らされて美しい。
おのずと朝日に手を合わせたい気分になった。

命どぅ宝


新垣勉のCD『命(ぬち)どぅ宝』=写真=をいわき総合図書館から借りて、車の中で聴いている。CDを借りられる期間は本と同じ2週間だが、枚数は2枚までだ。著作権の関係で制約があるのだろう。

なかに東京空襲60年「愛と平和のひろば」イメージソング、「青い空っていいな」が入っている。作詞は安増武子、作曲・編曲は淡海悟郎という人だ。

詞の2連目に体が反応した。


青い空っていいな
でもあのとき東京の空は赤かった
燃える炎が天を衝(つ)いて夜空を染めた
灼熱地獄に苦しみながら罪なき人が
数十万も闇の中に消えていった


3月1日にこの欄で「大火事の夜」を書いた。還暦同級会に、小学2年生のときに体験した大火事の夜、どこへどうやって逃げたか、同級生に「取材」した話だ。
「あのとき東京の空は赤かった/燃える炎が天を衝いて夜空を染めた」
半世紀前の「あのとき」がやはりそうだった。
「あのとき常葉(現田村市常葉町)の空は赤かった/燃える炎が天を衝いて夜空を染めた」のだ。

30歳のころまで、大火事の夜の記憶が不意に押し寄せてくることがあった。それで21か22歳になるころ、こんな詩を書いた。


むかいの河を見な 軟弱の火がふかい胎をよび ひとりの女のために いま 地球の眼のなかで 男たちは 水のないさむい臍を歌にうたつてるんだ
でれでれ笑う 酒くさい火の種子は いつたい 何処(ど)つからきた オロチのように 貪婪で火があるならば 風が死ぬとかまどに封されて なぜ 眠るしきやあない?
血なまぐさい入道雲に かつて 梯子があつたころ みだらな火を 神からあの男たちが盗んだのよ それが唯一のはじまりだつたのよ
蛇の恥毛や 血塗りの卵を 土星の藪にかくすこと おまえの指は ひかりのなかで 暗躍する
かなしみの眼の水深を あんたは 測れない あんたの絶望は 太陽のまつくろな情痴そのもの <しめつ せよ オロチのめだま みずさしよ くうきをもやすちようちんよ> 焼きもどすのね 地球よりひろい密室を いつしゆんに
さびしい蛇なのよ はなよめは だから 地獄の意志で うたうのよ 地球をうめた骨盤で 菫のような水をのむ おいでおいでを あの 臍の予言を そのときよ 羞恥をすてた恥に 武装させるのは もえる舌の波動にも けれど 微熱の地球は ふりむかない
オロチより さらにはげしく火を吹いて にくたらしい放火魔に あんたはなるんだわ 劣弱を暗示したきよじんより もつとがんこな右手となつて 菫いろした盗みをはじめなさい
おお! おまえは何を知つている おまえの饒舌は 星のない地球のまひるそのもの 太陽の背は いつもあつく ふりむかぬ ひとりの女のために 呪われた眼は呪われてあれ おまえの血は 一滴もまだ 空に ながれていやしないんだ
菫のさんげきは 何処つか 明るすぎるわ だけど 自爆した潜水の夢のかけらは なんばんめの指で いつたい かき集めたらいいのでしよう?
だしぬけの風景に 仕組まれた 火の暗黒を 若い地球のでつち上げだと 男たちの さざなみは いうのです
女の波だつたかみの毛は 岩をわる導火線 あるいは高圧線でも 何でもない むしろ悲惨と栄光は まき毛の<闇ニ向ツテシタ話>
沈め 橋 夢のたつまきで建立された橋(夢みがちな 冬の暴力を 乳首も うたえ)
ついに邪悪な火 ついに放火魔 ついに未来だ さても 思い出


詩を解説しても始まらない。ただ、あまりにも暴力的な火に圧倒され、うちのめされて、震えているしかなかった――その感覚だけは分かってもらえるだろうか。今も空襲や大地震のニュースに接するたびに、子供の私と同じ子供がそこにいる、という気持ちに襲われる。

2008年3月21日金曜日

尾根の雑木


雑木の生い茂る山は、冬には葉が落ちて、1本1本の木の姿が分かる。「山眠る」、である。
眠っている山は、ある意味では殺風景(色がない)、ある意味ではせいせいしていて(林床まで光が届く)、嫌いではない。夏井川渓谷がそうだ。

裸の森に入って落ち葉を踏みしめながら歩く。仰げば、四方八方に伸びた木の枝が青空に突き刺さっている。その鋭さ、その繊細さ、その不ぞろいさには舌を巻く。
ところが、森全体を眺めるとどうだ。個性的な1本1本の木が、あるリズムをもって調和し合っている。とりわけ、稜線の連なりはほれぼれするほどに美しい。木の高さ、間隔がそろっている。ヒラメの縁側のように=写真(いわき市三和町の雑木林。磐越道の高速バスから撮影)。

私は冬、葉を落としてきれいに並んだ尾根の木々を見ると、必ず「ヒラメの縁側」の直喩に襲われる。それを修正するために、最近は髪の毛を突っ立てる若者のヘアスタイル「ソフトモヒカン」をイメージしようとするのだが、いまひとつしっくりこない。

さて、渓谷のずっと下流、平野部の夏井川では柳が芽吹き始めた。あるかないかのさみどり色が日を追って濃くなり、春光に包まれて躍っている。木の芽は吹き始めると早い。

夏井川渓谷の「ヒラメの縁側」も、あと1カ月もたてば木の芽に覆われて姿を隠す。

2008年3月20日木曜日

天の蛇口


けさ(3月20日)、雨上がりのすきをついて散歩へ出かける。全天、鉛色の雲。

住宅が軒を連ねる小道で、胸から脇が黄橙色のアカハラに出合った。冬鳥のツグミとほぼ同じ大きさの漂鳥だ。久しぶりの対面である。

国道6号を横断し、夏井川の堤防へ出る。頭上に架けられた夏井川橋をうかがうと、いた。チョウゲンボウが橋げたに1羽、近くの橋脚の作業台にもう1羽。すでにつがいになっていたのか、つがいになろうとしているのか、私には分からない。が、車がビュンビュン通り過ぎる下で、工場が日夜稼働し、人間が行き交うそばで、なにかこれからいのちのドラマが始まるような予感がして、わくわくした。

ずんずん堤防を行くと、岸辺ですばやく反転する鳥が目に入った。胸と腹が白い。一瞬、ツバメか?と思ったが、時期的に早すぎる。胸の黒帯が途切れているところから、シロチドリと分かった。

ハクチョウたちはMさんにえさをもらって食べたあとらしく、三々五々休んでいる=写真。
そこへえさを持った男性が対岸に現れた。目ざとく男性を見つけたハクチョウがそちらへ動きだすと、ほかのハクチョウたちもぞろぞろ後に続く。飛んで近づくせっかち組もいた。
<おい、こら。えさをもらって食べたばかりだろ。人が姿を見せたら、条件反射的にえさをくれると思って体が動くのか。野性の誇りはどこへ行った。情けない>などと胸の中で文句を言いながら、すぐ<そうさせたのは人間。人間が野性をそぎ落としているのだ>と反省する。

ハクチョウたちのいる上空を、海からのして来たカモメが2~3羽舞っている。そうして日中、そこへとどまっている。カモメはハクチョウのえさは食べない。えさのおこぼれにあずかる魚が目当てか。

小一時間でバードウオッチングを兼ねた散歩が終わるころ、キジとウグイスの鳴き声が対岸から響いた。頭上の電線ではセグロセキレイがさえずっている。満足して帰り始めたら小雨がぱらつき出した。ちょうど散歩の時間のときだけ、天は蛇口を閉めていてくれたのだ。

ある本の間違い


著名なドイツ文学者のI・O氏は、自然に関するエッセーもよく書く。手元に森の生物を扱った『森の紳士録――ぼくの出会った生き物たち』(岩波新書)と、日本の川を巡った『川を旅する』(ちくまプリマー新書)がある。

『川を旅する』には、いわき市を流れる夏井川が出てくる。「小川郷近辺」というタイトルで、夏井川と詩人の草野心平が紹介されている。

読み始めてすぐ、違和感に襲われた。
①心平が育った「上小川辺りは夏井川の支流にあたる」。えっ、本流そのものでしょ。
②「小川のほとりの小天地は、広大な磐城平(いわきだいら)の大空にひらいている」。「いわきだいら」ではなく「いわきたいら」ですよ。小川の隣、旧平市のことで、藩政時代には磐城平(いわきたいら)藩がおかれていた。
③心平に名誉村民の称号を与えたいわき市の隣村は川内(かわうち)村で、「川内(せんだい)村」ではない。なんで「せんだい」なの?
④「草野心平が逝(い)ったのち、寺の和尚(おしょう)さんが詩人の蔵書をゆずり受け、天山文庫をつくった」。ついに、ここであ然ぼう然となった。

『川内村史』(第1巻通史篇=写真はその口絵で、右上が天山文庫、右下がそこでくつろぐ草野心平)によると、天山文庫は昭和41年7月、1階211平方メートル、2階29平方メートルの茅葺(かやぶ)き真壁造りの正方形の建物として完成した。心平がピンピンしていたときのことだ。そもそも「天山文庫」は、村が用意した心平の夏の別荘のようなものである。
 
心平と川内村を結びつけたのは、一つにはモリアオガエル、二つにはモリアオガエルのことを昭和24年2月1日付の読売新聞福島県版に書いた心平のエッセーに反応して、村の禅寺の坊さんが心平に誘いの手紙を書いたからだ。
昭和28年、心平は初めて川内村を訪れる。以来、川内詣でを繰り返し、モリアオガエルの繁殖地「平伏沼(へぶすぬま)」で歌を詠んだり、村内の小学校の校歌をつくったりする。で、村議会は心平を名誉村民に推戴することを決めた。褒章は年100俵の木炭。心平は木炭(2年目からは辞退する)のお返しに蔵書3000冊の寄贈を決め、うち2000冊を、木炭を運搬して来たトラックに載せて村へ届けた。
 困ったのは坊さんだ。一時、寄贈本を寺で預かっていたが、いつまでもそうしているわけにはいかない。村役場にかけあった結果、仮称「心平文庫」の設立が議会で決まった。今の「天山文庫」はそうしてできたのである。

なぜこんなにミスの連鎖が起きたのだろう。編集者がぼんやりしていた、としか思えない。当然、苦情は入っているだろうから、改版時には加除訂正がなされた本を見てすっきりしたいものだ。

2008年3月18日火曜日

会津の雪つり


高速バスでいわき市から会津若松市へ行った話の続き。

鶴ヶ城と福島県立博物館に近い「鶴ヶ城・合同庁舎前」が、「いわき・郡山・若松線」の終点だ。バスを降りて歩き始めた瞬間、「なんだ、これは」と目を奪われたものがある。

「裁判所」(福島地裁会津若松支部)の生け垣に細い竹のすだれがかかっていた=写真。園庭の木にもこずえから縄が張られてあった。単純に縄で縛ったものもある。雪国特有の「雪囲い」と「雪つり」だ。

裁判所だけではない。県博では、生け垣を覆うように鉄パイプを支柱にして板が張られてあった。まだその上に雪が残っているところもあった。

<よかった、いわきに住んで>。ほとんど反射的に思った。
雪国には雪国の文化がある。それを認めたうえで、コケが生えるほどいわきに住みついてしまった人間には、秋の終わりにしなければならない冬の備えがこたえる――そう直感したのだった。

福島県は風土や歴史、人間の暮らし方などの違いから、大きく地域が三つに分けられる。西から山脈を境に「会津」「中通り」「浜通り」と続く。

私は真ん中の「中通り」で生まれ育った。そこから15歳で「浜通り」の平市(現いわき市)へやって来たとき、「平には冬がない」と思ったものだった。
春・夏・秋ときて、ちょっと寒い秋の次に、再び春がくる。それが私の感じた「浜通り」、つまりいわき市の季節感だった。
雪国からいわき市へ嫁いできた女性たちの言葉も、いわきの冬の気象のありがたさを物語る。「冬でも洗濯物が干せるんですものネ」

いわきに住んでいることは、太陽の恵みをたっぷりいただいていることなのだと、私たちはどのくらい自覚できているか。
会津行の翌17日、会津に春の訪れを告げる「彼岸獅子」が会津若松市内で繰り広げられたという新聞記事を読んで、春を待望する会津の人々の気持ちが少し分かったような気がした。

「暑さ寒さも彼岸まで」などという一般的な受け止め方ではなくて、彼岸獅子を目にすると、「もう雪かきや雪下ろしをしなくてもすむ、本当に春が来たのだ」と体が反応するのだろう、おそらく。

堤防の菜の花


きのう(3月17日)の午後、いわき市平中神谷の夏井川堤防を車で通ったら、摘み草をしている熟年夫婦がいた。私も前にやったことがあるので、すぐ分かった。「菜の花摘み」である。

川の堤防には結構、「野菜」が生えている。大水で種が流れ着いたり、風で種が飛ばされたりして、根づき、芽生えるのだろう。葉っぱを見ると、なぜかアブラナ科の植物が多い。カブのようであり、大根のようであり、からし菜のようでもある。ほとんど野生化してしまったから、食べてもあんまりうまくない(からい)のではないか。

それだけなら好みの問題だが、私はもっと違った理由で堤防の摘み草をやめた。川のそばの土地は大水をかぶることで上流から栄養が運ばれ、肥沃土になる。昔はそうだった。今は肥沃土どころか、重金属が堆積する汚染土のイメージが強い。「野菜」の根が重金属を吸収しているのではないか、という思いを断ち切れないのだ。

「たのしみは空暖かにうち晴れし春秋の日に出(い)でありく時」という、橘曙覧(たちばなのあけみ=幕末の歌人)の歌がある。熟年夫婦もそのクチだったに違いない。ただし、堤防の上に車が止まっていたから、「ありく(歩く)」のは車でということになるが。

堤防に「野菜」があった。菜の花を摘んでおひたしにしましょう、今夜――わくわくしながら花茎を摘んだに違いない。夕方、散歩しながら見たら、いくつも花茎が摘み取られていた。想像した通りだった。
春到来。
次はノノヒョロ(ノビル)を掘り取る人が現れることだろう。

2008年3月17日月曜日

高速バスに乗る


3月16日の日曜日、高速バスで会津若松市へ行って来た。路線名はいわき・郡山・若松線。初めて知ったのだが、いわき側の発着地は「いわき駅前」ではなく、いわき市明治団地に隣接してある新常磐交通のバスプール、「上荒川」だ。

会津行の目的は福島県立博物館の企画展「おかえりなさい!ミス福島」を見ること(館内で手に入れたチラシには「80年以上も昔、市民たちの国際親善の試みが人形に託された」とあった)。
アメリカから贈られた「青い目の人形」(福島県内に残る17体のうち15体を展示した)と、その答礼としてアメリカへ贈られた日本人形1体(これが「ミス福島」と呼ばれた)の展示最終日で、カミサンと一緒に県博をじっくり体感した。
ついでに隣の鶴ヶ城を仰ぎ見、街へ戻って、七日町通りと野口英世青春通りを歩いた。

初めての会津若松散策である。
観光案内マップを手に、土産物屋さんに入ったり、喫茶店で紅茶を飲んだりした。セイロンティーはおいしかった。昼には「白虎ラーメン」というものを食べた。山菜を主に、16の隠し味を加えたという、その店自慢のラーメンだ。

日の出(いず)る海のいわきから日の没する海の新潟を結ぶ磐越道、その中間にある盆地・会津の食文化はどうか、などと詮索したわけではない。が、旅の記憶で最後まで残るのは飲んだり食ったりしたこと。悪くはなかった。バスから眺めた磐梯山も、青空をバックにニョキッとそびえたっていて、すごかった=写真。

と、ここまで書いてきて、主題はマイカーを運転しなかったことだった、と悟る。
高速道をとばす緊張感や、駐車場を探すイライラから解放されて、タクシーを使い、自分の足を使って、のんびりと見て回る。出発時間に支配されるとは言え、高速バスもまた「お抱え運転手付きのマイカー」になる。とりわけ、午後のけだるい時間の昼寝は、バスならではのものだ。

ついでながら、「いわき好間」ないし「いわき中央インター」バス停から乗らずに、始発地の「上荒川」から乗ったのは、パーク・アンド・ライドの込み方が違うからだった。

週末は「いわき好間」も「いわき中央インター」も駐車場がマイカーでほぼ満車状態になる。「上荒川」ならすいている、というアドバイスを受けた(それで「上荒川」が会津若松行きの発着地と知った。福島と郡山行きも同じ)。
で、そうしたら、「いわき好間」は満車の表示、「いわき中央インター」も満車に近い状態だった。
「上荒川」発着を知らなかったら、車を止められずにうろうろしているうちにバスが来る、そんな事態にもなりかねなかった。

2008年3月16日日曜日

おでこツルツル

「タカじい」の名付け親が娘2人を連れてわが家へやって来た。
娘は4月から小3と小1になる。擬似「孫」である。

「孫」たちはまず、ネコどもを抱いて「いじくりこんにゃく」にする。ネコどもは早々に茶の間から退散する。

長女は作詞をする。それに母親が曲をつけた。最初は照れていたが、「タカじい」のために歌ってくれた。

次女は絵をかくのが好き。早速、チラシの裏に鉛筆を走らせて、少女の絵をかきつづけた。
なかに少し大人っぽい女性の絵がある。聞けば「○×ばあ」、つまりカミサンだと言う。

「タカじいの顔もかいてよ」
催促すると、
「かけない。だって、おでこツルツルだもの」

<なんてことを言うか>
テレビのわきに孫や子供の写真が飾ってある。20代の「タカじい」の写真もある。それを見せて、「これならかけるだろう」。次女はうなずいて鉛筆を走らせた。
黒々とした髪の毛をもつ、小学生のような「タカじい」が「○×ばあ」の隣に書き加えられた。

かき終えると次女がからみついてきて「おでこツルツル、おなかポンポコ」と唱えながら、わが腹を指でつついた。

2008年3月15日土曜日

花前線2


けさ(3月15日)、用事があって夏井川渓谷の無量庵へとんぼ返りで行ってきた。道を往復しながら、花前線をチェックした。

ヤブツバキの花は渓谷の出入り口、高崎(いわき市小川町)から地獄坂を上って渓谷の前半、江田駅近くまで満開に近い=写真。その先はどうかと見ると、籠場(かごば)の滝の手前、山側の木に1輪が咲いていた。ヤブツバキの花前線もようやく無量庵のある牛小川へ到着したようだ。

牛小川では、日だまりのアセビが白く小さな花を鈴なりにつけて、風にもまれていた。マンサクはすっかり満開になって、黄色いぽやぽや毛を青空に広げていた。畑にはオオイヌノフグリの青い小花。原っぱではフキノトウがいっぱい頭を出して、今にも薹(とう)が立ちそうな気配だ。

今年初めて車の窓を全開にした。
小川江筋の取水堰がある小川町三島の夏井川には、ハクチョウの姿はなかった。
平野部の平中神谷へ戻ると、道端にヤブツバキの花が散乱していた。平野部ではとうに落花が始まっている。

ムシカビ


冬虫夏草に詳しい某新聞社の支局長がいる。私と同い年で、4月には定年退職をする。実質的にはすでに自由の身になっているらしい。

ある酒席で菌類の話になった。というより、会ってしゃべると、いつか菌類の話になってしまう。

「夏井川渓谷は冬虫夏草の宝庫だと思うよ。いろんな昆虫が生きてたときの姿のままで死んでる、節々が白くなって。この前はカマキリがそうだった」
支局長氏は「ン?」といった表情になって、
「それはムシカビじゃないのかな」
「えっ、ムシカビってのもあるの?」
冬虫夏草とムシカビの違いは菌類でいう「柄」があるかないか、だという。
そういえばカマキリには柄がなかった。ただのムシカビというわけか。

後日、ネットで調べたら「昆虫病原糸状菌という意味では冬虫夏草の仲間だが、冬虫夏草のようでないムシカビ。蚕の硬化病の原因となる白きょう病菌の仲間」とあった。

支局長氏が関係している日本冬虫夏草の会のHPは、冬虫夏草研究の第一人者、故清水大典氏の見解として、未記録の寄主例としてカブトムシやクワガタ、カミキリムシの成虫などがあり、これらの虫から不完全型ではない、子嚢(しのう)果(「柄」の先にできる袋状の結実部=普通のキノコで言えば「傘」か)の生じた冬虫夏草が見つかれば間違いなく新種、という話を紹介している。

夏井川渓谷にある無量庵の庭では、カマキリのほかに、イナゴ、ガなどのムシカビも見つかっている。唯一、トンボだけは節から「柄」が出ていたから、冬虫夏草のヤンマタケ(不完全型)だった。

今年も正月明けに無量庵の庭をじっくり見て回ったら、木の幹にぴたっと止まった状態で菌にやられたカミキリムシがいた。図鑑に当たるとキボシカミキリの雄らしかった=写真。一瞬、「新種?」と胸がときめいたが、そうは問屋が卸さない。これもムシカビである。

こうして注意深く見ていれば、いつかは夏井川渓谷産の新種の冬虫夏草に出合える、というのは能天気すぎるか。

2008年3月14日金曜日

左助と左吉


3月14日朝6時半、いわき市平・塩の夏井川岸辺。
「ハクチョウおじさん」のMさんが「コーコーコーコー」と大声を出してハクチョウを呼ぶ。すると、ハクチョウが一斉に羽ばたきだし、鳴き声を発して岸辺に密集する。「芋を洗う」どころの騒ぎではない。たじろいでしまうくらいのにぎやかさだ。

ピーク時には300羽以上いたハクチョウだが、今は
「200羽くらいですか」
「そう、カモもだいぶ減ったね」
くず米と賽の目に切ったパンを夫婦でまきながらMさんが言う。

「『左助』はどこですか」

「左助」というのは左の翼を折って飛べずに残留しているコハクチョウのことだ。上流から流されてきた「左助」が呼び水になって、塩が夏井川第三の越冬地として定着した。塩にはほかに、左の翼を傷めた「左吉」、右の翼を傷めた「左七」が残留していて、3羽が2羽と1羽に分かれたり、また一緒になったりしながら、夏の暑い盛りを耐えしのんだのだった。

「『左助』はあそこ」
Mさんが指さした方を見ると、いた。左の翼がだらりと下がっているので、分かる=写真。が、歩き方が変だ。ピョコタンピョコタンしている。
「左の足が悪い。年取ったからかな」
「前からなんですか」
「そう。まだ歩けて、泳げるからいいが」
Mさんは「左助」が気になってしかたがない。

「左吉」が近くを横切った。
「『左吉』は痩せてんだ。『左七』は分からなくなった。傷が治って飛んでったのかもしれないなぁ」
「左七」は前から5メートルくらいは羽ばたくことができたから、飛ぶ力が回復したのか。そうだとしたら結構なことだ。

これから日を追ってハクチョウの数は減り続ける。えづけの時間の騒々しさがうそのように静かになって、「左助」と「左吉」だけになる。その日も近い。

確定申告

フリーになって初めて、確定申告というものを体験した。

会社にいたときは総務部門が年末調整の手続きをしてくれた。が、今度はそうはいかない。「税金が戻ってくるかもしれない」という話に乗って、いわき市役所へ行った。旧知の某課長氏らに相談すると、「8階の大会議室で受け付けていますよ」とアドバイスしてくれた。

源泉徴収表、生命保険の領収書など、必要と思われる書類は携行したから、話は早かった。

係員が資料を眺め、聞き取りをしながら、電卓でパチパチやって数字を書き込んでいく。30分もたたずに計算が終了した。「税金が○×万円ほど戻ります」。思わずにっこりして、「ありがとうございます」。声が弾んだ。

税金は戻るものやら、取られるものやら――何日も逡巡していたのがうそのようにすっきりした。で、ついつい係員に感謝の気持ちがわいたのだった。

あとで課長氏らに報告したら、くぎを刺された。「来年は源泉徴収がありませんからね。『カネがないから市・県民税は払えない』なんて言わないでくださいよ」

そういえば、課長氏はそちらの方へ異動するとかしないとか、新聞に出ていたのを思い出した。

2008年3月13日木曜日

専称寺の梅


昨日(3月12日)、いわき市平の専称寺へ梅の花を見に行った。山号の「梅福山」にちなんだものか、全山梅の木だらけである。市観光物産協会のHPで確かめたら約500本はある。

かつて東北各地からお坊さんの卵(学生)が集った浄土宗の「名越(なごえ)壇林」(今で言う大学)は、いつからか「梅の名所」に代わった。旧平市時代、市の観光課長だか誰だかが音頭を取って苗木を植えたのがそもそもの始まり、と聞いた記憶がある。

ふもとの畑にある梅の木や、午後も日の当たる斜面の上部の梅の木は、ほぼ満開だった。石段を上り始めると梅の香りに包まれた。土曜日(8日)に来たときよりも、いちだんと香りが強い。

中腹の寮舎(学生が寝泊まりして学んだところ)跡の梅の木は、午後には日陰になる。それで、8日にはまだつぼみが硬かったのが、12日にはそれぞれ数輪、花をつけていた。11日の暖気で早く目覚めたものもあった、というわけだ。

午後5時過ぎ。中腹の梅林にたどり着くと、1台の車が上の本堂の方からやって来て止まった。若いお坊さんが車の窓を開けた。

「梅の花を見に来られたんですか」
「ええ」
「花はまだですね。彼岸のころが見ごろでしょう。どちらからいらっしゃったんですか」
「川(夏井川)の向こうから。毎朝寺を見ながら散歩してるものですから、どんなんかなぁと思って」
「そうですか。今日は早く閉めましたけど、ゆっくりご覧になっていってください」
「ありがとうございます」

<そうか、昼間はこの若い人が寺にいて、夕方になると戸締まりをして帰るのか>
平の市街地にある九品寺の住職が専称寺の住職を兼務しているから、九品寺の関係者なのだろう。専称寺はかつて浄土宗の旧名越派本山として君臨した。九品寺はその末寺である。

そういえば、専称寺は春と秋の彼岸の中日、裏山に沈む夕日が本尊の後光となるように設計されたのではないか、という話を聞いたことがある。阿弥陀が山あいからニュッと顔を出す、いわゆる「山越え阿弥陀」と同じ思想だ。

実際、裏山は尾根が鞍部になっていて、彼岸の中日には夕日が鞍部の中央に沈む。本堂の板壁をはずしたら、ちょうど阿弥陀如来の後光になって人間を西方浄土に誘うことだろう。

<彼岸の中日には、満開の梅と夕日を見に来るか>
振り向けば、近くの夏井川でコハクチョウたちが盛んに鳴き交わし、飛び交っていた。

2008年3月12日水曜日

チョウゲンボウのいる橋


散歩にはカメラと双眼鏡を欠かさない。夏井川の堤防や河川敷にも季節の花が咲き、野鳥がやって来る。カメラは主に花やハクチョウを撮るため、双眼鏡は野鳥を観察するためだ。

ここ何日かは国道6号バイパスの終点、夏井川橋でハヤブサの仲間のチョウゲンボウを観察している。いつもの散歩コースをたどって橋に近づく。と、橋脚に取り付けられた作業台の柵=写真=に、黒く小さなかたまりがくっついている。双眼鏡で確かめると、やはりチョウゲンボウだ。ハトくらいの大きさだから、タカの仲間としては小型の部類に入る。

この橋では3年続けてチョウゲンボウを観察している。今は1羽だが、去年と一昨年はつがいで羽を休めていることが多かった。4羽になったときもある。橋の下にはヨシ原が広がっている。チョウゲンボウの大好きなノネズミなどがいっぱい生息しているのだろう。

「キキキキキキ」。あるとき、けたたましい鳴き声が響き渡った。見ると、チョウゲンボウがどこからか飛んで来て、橋げたに止まるところだった。近くの電信柱に止まって辺りを見回していることもあったから、いよいよ橋はすみかであり、休み場であり、子育てハウスに違いない。

休んでいるときのチョウゲンボウは実に物静かだ。太陽が殊のほか好きなのか、夕方は夕日に向かってじっとしている。朝は朝で、朝日に向かってじっとしていることが多い。

ただし警戒心は強い。堤防から眺める程度ならチョウゲンボウも平気だが、河川敷に降りて橋脚に近づくと一発で逃げられる。間合いを測るのが難しい鳥だ。

2008年3月11日火曜日

白いアラゲキクラゲの子


3月11日の朝9時すぎ、いわき市平の石森山の某遊歩道を歩いた。いつものように草野方面から絹谷林道に入って、目的の遊歩道をさかのぼる。といってもざっと30分、沢を往復するだけだ。この時期の目当てはエノキタケである。

前日の10日、いわき地方は雨に見舞われた。雨上がりの翌11日、エノキタケが顔を出したかもしれないと考えると、いてもたってもいられなくなった。

立ち枯れのアカメガシワをチェックする。この2カ月余、いつも雨上がりに「定点観測」をしている木だ。小さなアラゲキクラゲがびっしりなっている。前からそうだから、それは採らない。

エノキタケはと見れば、かきとられたあとが生々しい。樹皮がはがされて、そこだけ白っぽくなっている。が、11日に採られたものではない。まだ寒いときにチェックしたら、樹皮ごとはがされていた。その名残である。

キノコ採りの純粋さと狡猾(こうかつ)さがそこにある。キノコの形・色、神出鬼没さに引かれつつ、食菌は自分で独占したい――という矛盾。今度もその矛盾を抱えながら、見に行ったのだった。

3~5ミリほどの、ボタン状の白いキノコが発生していた。アラゲキクラゲの幼菌である=写真。前に見ていた幼菌は少し大きくなって臙脂(えんじ)色に変わっていた。アラゲキクラゲは白(ソフトクリーム色に近い)からだんだん赤みを帯びて茶色になっていく、というのが、それで分かった。

人間の耳以上に大きくなるのもあるが、今の時期はそんなことはない。簡単に成長するものではないのだ。

<人間だって同じだよな>と自分に言い聞かせながら、車に戻ってラトブへ出掛けた。

甘エビの「焼き尾頭」

北茨城市といわき市の南部を巡っているうちに、夕方近くなった。日曜日である。家に帰ってカミサンに料理をさせるのは気が引ける。小名浜の某魚直売店でヒラメの刺し身と甘エビを買った。

パックの値段がそれぞれ600円。買うか、買うまいか逡巡していると、きた。「さあ、これから3分間安売りタイムだよ」。人のよさそうな店員が黒のマジックペンで値段を500円に書き直す。
「買った!」。勢いにつられて、つい手が伸びた(もっとも金を払ったのはそばにいたカミサンだが)

刺し身は主に私が食べ、甘エビは主にカミサンが食べた。
甘エビの頭と尾っぽは捨てずに残すように、とくぎをさす。「明日の晩、焼いて食べるから」

で、次の日の夜。
パソコンに詳しい若い友人がやって来た。パソコンを開いてガチャガチャやったあと、目の前にあった甘エビの「焼き尾頭」を見て、「食べていいですか」という。「どうぞ、どうぞ。ほかの人は皿の隅に寄せるけど、オレにはうまくて、うまくてしょうがないんだよ、塩サケの皮とエビの尾っぽが」

私がエビの「焼き尾頭」に目覚めたのは、30歳になるかならないかのころだったろう。職場の後輩が「エビの尾っぽはうまいですよ」と、海老天(えびてん)をきれいに食べた。魚の食べ方も美しかった。骨だけが皿に残る。皿までなめるような勢いだった。

そのうまさを若い友人はとっくに知っている。うれしくなると同時に、<いつか「痛風予備軍」なんて言われるかもしれないぞ>と少し心配になった。

2008年3月10日月曜日

賽銭が消えた

お寺で義母の7回忌の法事を行った。
お坊さんと雑談をしていたら、賽銭箱を指さしながら「初めてやられました」という。
「200円しか残っていませんでした」

お坊さんは兼務住職。ずっと賽銭箱をそのままにしておいた。カギもかけていない。10円、50円、100円と、1人ひとりの浄財は小額でも、積もればそれなりの額になる。「2000円くらいはあったでしょう」とお坊さん。

気づいたらなくなっていた。盗(と)ったと見せない巧妙な手口だった。「カギをかけておくと壊される。かえって修理代が高くつくから、カギはかけないというお寺もあります」。それにならったのだろう。

確かに、盗りにきた人間は何が何でも中に手を入れる。カギがかかっていればこじあける。夢中になってやっていたところを、「後ろから近づいて腕をねじりあげたこともあります」という。

バチあたりは昔からいる。
が、こうした小さな寺(と言ったら失礼になるか)にまで現れるとは。
困窮している人間が確実に増えている証しか。

2008年3月9日日曜日

天狗の重ね石


春光に誘われて、久しぶりに「天狗の重ね石」と対面した。
夏井川の支流、中川渓谷にある。

中川は、いわき市川前町の神楽山(かぐらやま=808メートル)から発し、夏井川渓谷で本川に合流する。その短い流路で随一の奇観が「天狗の重ね石」だ。

明治の博学、大須賀筠軒(おおすがいんけん)が書いた「磐城郡村誌十」(下小川・上小川村・附本新田誌)には<天狗ノ重石ト唱フルアリ、石ノ高四丈、礧砢(らいか)仄疂(そくじょう)頗フル奇ナリ>とある。現代風に言えば<天狗の重ね石というものがある。石の高さはおよそ12メートル。大小の石が傾きながら重なっていて、とても珍しい光景だ>くらいの意味だろうか。
昔から奇観として知られていたようである。

神楽山から谷をうがって流れてきた中川は、「天狗の重ね石」で鋭く屈曲する。「重ね石」が壁になって、西を向いた流れが一転、東へ向かうのだ。水のヘアピンカーブである。

「重ね石」を真横から見るたびに、私はあいきょうたっぷりのゴリラの横顔を連想する。それが、真正面から見ると、ガラリと様相を変えて船のへさきになる。谷底に近づくほど石はやせて細くなる。岩盤剥離(はくり)も進行中だ。岩肌がところどころ赤みを帯びているので、それと分かる。

おおむね花崗岩でできている夏井川渓谷(中川渓谷も)は、落石の常襲地帯だ。
石がはがれ落ちたあとの岩盤は一様に赤みを帯びている。これが、長い間風雨にさらされると、色あせ、しらちゃけて、その辺にころがっている石と同じ色になる。

地質学的な時間で見れば、いつかは「天狗の重ね石」も消滅する――「天狗の重ね石」を南から眺め、北から眺めしながら、今度もまた、そんなことを思った。

2008年3月8日土曜日

車はどこにある

いわき駅前の再開発ビル「ラトブ」は地下1(B1)、2(B2)階と1階の半分が一般の駐車場だ。総合図書館の利用者は2時間、同じく買い物客は500円以上で無料となる。

毎日3~4回は車で出入りする。最初はB1、次はB2、B1、B2と、止める階も場所も変わる。

止めた場所を頭に入れておかないと、出るときになって「あれ、車がない。何階に止めたんだっけ」と慌てる仕儀になる。

先日も、B2に止めたのに、その前に止めたB1の記憶が邪魔をして、B1で車を探してしまった。

似たような人が結構いる。
あるとき、若い女性3人組がB2でエレベーターに乗ったと思ったら、すぐB1で降りた。「車がない」。あせったことだろう。慌てるのはジイサン、バアサンに限らないのだ。

駐車場で首をかしげたり、足を止めたりしている人も、同じクチだろう。こちらの記憶が正常に作動している限りは、そ知らぬふりをしてさっさと通り過ぎる。けげんな表情などをしてはならない。

カーディーラーのT氏が家に来たので、「車がない」話をしたら、「私も東京ディズニーランドで往生しました」という。「初めて遊びに行ったとき、気分が高揚していて、どこに車をとめたかなんて、ちっとも気にもしなかった。大駐車場ですからね、帰りに自分の車を探し出すのが大変でした」

T氏はこんな話もした。
ある大型店の駐車場は2、3階がまぎらわしい。「車がない。盗まれた」。ユーザーから連絡が入って、一緒に3階を探したが、ない。1階にもない。2階に行ってやっと自分の車と対面した。ユーザー氏は3階を2階と思い込んでいた。そう思い込んでも不思議ではない構造になっている、というのが、T氏の見立てだった。

初めてラトブの地下駐車場を利用する、という人の車を先導したことがある。「車がない」。性格的に慌てふためくに違いない人だから、エレベーター乗り場のドアを開ける段になって振り向かせ、「B1の、この方向。ちゃんと記憶して!」と念を押した。たぶん大丈夫だったろう。

2008年3月7日金曜日

Sさんのスイセン


3月6日の早朝、いわき市平中神谷の夏井川堤防でSさんに会った。Sさんは川の近く、国道6号沿いに住んでいる。

「植えたスイセンが咲いたかな、と思って様子を見に来たんだ」
「あのスイセン、Sさんが植えたんですか」

年が明けてすぐ、岸辺のサイクリングロード沿いにスイセンが点々と芽を出しているのに気づいた。およそ70カ所、株数にして100株以上はあるだろう。それが今は、10センチほどに花茎が伸びて(それしか伸びなかった、というべきか)、つぼみを持ち始めた。

「まだ咲いてなかった」
「日当たりはいいけど、風当たりも強いから、日だまりの庭のスイセンのようにはいかないんでしょうね」

翌7日は早朝ではなく、夕方に散歩をした。
見ると、スイセンが数輪、咲いている=写真。

植えた人が誰だか分からなくても、花が咲けば心は温まる。いとおしくなる。植えた人が分かっていれば、いとおしさは倍加される。ただのスイセンの花ではなくなるのだ。

春の光を浴びて風に揺れるスイセンの花を見ていたら、対岸(平山崎)から「ホーホケキョ」、ウグイスの初音が届いた。福島気象台では3月4日に初鳴を観測しているから、それよりは3日遅い。が、いわきではもしかしたらこれが最初の初音情報か。

目でも、耳でも春を感じ取れる時節になった。

朝市


土曜日は、平沼ノ内の朝市へ出かける。
県道小名浜四倉線沿いの「はーぶの里」で、道端に「朝市」ののぼりが立つ。

野菜がある。手作りパン・カレーコロッケ・まぜごはんと季節の加工食品(この前は「ふきのじみそ」を売っていた)がある。地魚がある。

ブースというほどではないが、生産者がテーブルに陣取る。野菜は3、4人。魚は1人。パンやコロッケは「朝市」主宰者のMさん。

カミサンが各テーブルを巡り、満遍なく品物を買う。野菜や魚は一品50円、100円、高くても200円。1カ所だけで買う、というわけにはいかないから、バラ買いをする。正直に言うが、野菜は立派なものではない。家庭菜園で作られたものだ。その不ぞろいさ加減がいい。

魚が人気らしい。で、2月下旬には買い物客が殺到して車の出入りがままならなかったそうだ。

3月1日に行ったら、駐車場の地面に車はここですよと、1台1台止められるようにロープが張られてある。おかげで来る車、来る車が整然と枠内に止める。Mさんのご主人がひとり、手作業でロープを張った。

朝市の楽しみは何だろう。品物を買うことか。もちろんそうだが、売っている人の顔を見て、話をして(買う人同士も)、いつもとちょっと違ったひとときを過ごす。

と同時に、新鮮なおいしさを味わえることだろう。

たとえば、ヤリイカ。その日の早朝、市場に揚がったヤリイカが朝市に出る。「刺し身がうまい」と勧められれば、家に帰ってすぐ、カミサンが調理をする。朝の刺し身である。

朝飯前の食材探し、これが朝市の魅力といってもいい。

2008年3月5日水曜日

静電気

車を運転して目的地に着く。ドアを開ける。車から降りて閉める。と、「バチッ」。静電気で火花が起きたのだ。

この「バチッ」は、慣れればOK、というようなシロモノではない。いつも感電して「痛(イタ)ッ!」となるから、ビクビクしながら車を降りる。車だけならまだしも、建物でも「バチッ」とくるときがある。

私は今、いわき駅前の再開発ビル「ラトブ」であらかた昼の時間を過ごす。地下駐車場に車を止めて、車外に出る。「バチッ」とこないときは、軽やかな足取りでエレベーターの乗り場へ向かい、駐車場とエレベーター乗り場を仕切るドアのノブをつかむ。と、そこで「バチッ」とやられる。「ナンダ、この建物は」と初めは腹が立ったが、なんのことはない、冬場の乾燥期が続いて私自身が帯電していたのだ。

インターネットで情報を探ったら、こういうことらしい。
車を運転しているうちに、車の背もたれと自分の背中がこすれて帯電する。外へ出てドアを閉めようとした瞬間に、蓄えられた電荷が「バチッ」と火花を発して放電する。それが痛さの原因だ。

予防策は意外と簡単だった。
足を地面につける前に、車の金属部分に触れる。それでアースされた状態になるので、火花放電はなくなる。それでもドアノブの「バチッ」が心配だ。そんなときにはコンクリートの壁に手を触れてからドアノブに触るといいですよ、とあった。

早速、5日から二つを実行している。結果はOK。車を降りるときも、ドアノブに触るときもビクビクしなくてすむようになった。

タガが緩む

琺瑯(ほうろう)引きの容器で「白菜の切り漬け」をつくっている間に、白菜用の漬物桶を洗って乾かしておいたら、すっかりタガが緩んでしまった。板と板との間にすきまさえできている。水を入れると、すきまから水がジャージャー漏れる。

こうなると、すぐには使えない。たらいに水を張り、そこへ水を入れた桶を浸けて、板にたっぷり水分を吸わせてやる。そうしないとすきまがなくならないのだ。

一昼夜、桶を水に浸けておいたら、やっと水漏れが止まった。

桶が桶でなければ白菜漬けはできない。白菜から水が出て初めて、白菜はしんなりと塩になじみ、昆布で旨味を、干したかんきつ類の皮やタカノツメで風味を増す。

白菜漬けは冬場の食べ物。作ってもあと2回くらいだろう。一度に2株、4キロ前後を漬け込むと、20日間くらいは食べられる。2カ月でざっと3回というのが、わが家の白菜漬けのサイクルだ。

3月、4月と白菜漬けを食べたら、黄金週間明けには糠漬けに切り替える。それが例年のパターンである。

そのとき、使い終わった桶をどう保管するか。使わないでおくと、やはり乾く。で、物置の暗い所に、タガが緩まないように伏せておく。重力を利用するのだ。伏せておけばほこりもたまらない。
桶は使い続けてこそ桶だが、使わないときにも桶の特徴を生かして保管してやらないといけないようだ。

2008年3月4日火曜日

花前線


いわき市平中神谷の夏井川堤防――。
春霞に誘われて、3日の夕方、散歩をした。あとで知ったのだが、春霞は黄砂だった。
阿武隈の山並みが絹のカーテンの向こうで次第に影絵と化し、赤い太陽が稜線に向かって沈もうとしている。太陽の光を一筋長く反射している川にはハクチョウとカモたち。

対岸の小高い丘の上にある梅福山専称寺(浄土宗)を見れば、境内の斜面が所々、白く染まっている。「梅の名所」で知られる寺もいよいよ、ふもとから中腹にかけて梅の花が満開になりつつあるらしい。

小名浜測候所の生物季節観測によれば、いわきでは梅は2月15日に開花した。平年より3日早く、昨年より7日遅い。ヤブツバキも意外と早く、昨年12月24日には開花した。前年より5日早い(平年値は1月17日)。

家の近所を歩くと、あちこちの庭で白梅が満開だ。近くの神社のヤブツバキも赤い花を付けている。2日に平のお城山を歩いたが、そこの梅も、ヤブツバキも花盛りだった。

二つの花前線は今どのあたりか。

2日に確かめたところでは、白梅は小川町上小川字牛小川(夏井川渓谷)に到着した。ヤブツバキはまだそこまでは行っていない。渓谷の入り口、小川町上小川字高崎の東北電力夏井川第3発電所あたりにとどまっている。

とはいえ、黄砂が舞い、霞が漂う季節になった。花前線はこれから駆け足で夏井川をさかのぼって行くことだろう。渓谷ではマンサクの花が咲き出した。

2008年3月3日月曜日

春が来た


3月2日の日曜日、いわき市平の郊外に車を走らせた。

私はこの十数年、休日を夏井川渓谷で過ごしている。と、書きながら、「過ごす」ということに多少、違和感がある。時間に余裕があれば前の晩から一人で行くのだが、「自由業」の今はかえって雑用が増えた。渓谷の集落からみれば、一泊二日なら多少は「留まる」と言っても許されるだろうが、日帰りでは「来る」でしかない。

で、最近は日曜日の早朝、カミサンを起こして「おい、行くぞ」となる。カミサンは、以前は日曜日に列車で夏井川渓谷へやって来た。日曜日の早朝、一番列車か二番列車で「小さな旅」を楽しむ。それを、夏井川渓谷の最寄りの駅である江田駅まで迎えに出る。

そして、3月。
1日は土曜日、2日は日曜日、晴れ。
週末と月の替わりが重なったこともあって、2月とは鮮やかに空気と風景が変わるのが分かった。

わが家を出たら、平の中神谷・上神谷、小川町上小川の町中や片石田近辺でスコップをかついだり、手にしたりしている人が歩いているのを見た。同じ小川町の上平では、夏井川支流の堤防の野焼きが行われていた。

<ああ、江はらいだな>

動脈のように張り巡らされた田んぼの用水路の泥を払い、ごみを除去する、春恒例の共同作業である。これを各地で一斉にやるのだろう。堤防の野焼きも、農作物の害虫を減らすためには欠かせない作業だ。

畑に出ている人は見かけなかったが、いわきの浜の知人は1日に馬鈴薯の種芋を植え付けるための準備を始めた。3月の声を聞く同時に、今年の農作業が始まったと、はっきり言える。

夏井川渓谷でも春を実感した。無量庵の菜園の白菜があらかたヒヨドリにつつかれて穴があいていたのだ=写真。
師走、白菜に防寒用の鉢巻をしてやった。が、2月になるといよいよ山野にえさが乏しくなったのか、ヒヨドリが襲来するようになった。それを承知で何株かは鉢巻をせずにおいていたのだが、ヒヨドリに遠慮はない。結局、人間とヒヨドリとで白菜の収穫を分け合ったようなかたちになった。

背戸峨廊のこと



エッセイストの辰濃和男さん(元朝日「天声人語」筆者)は自然への愛情、造詣が深い。その文章から、人間はいかに自然に生かされているか、自然の恩恵を受けているか、といったことを深く考えさせられる。

辰濃さんが描く自然は、観光客が「ああ、きれいだね」と眺めて過ぎ去る絵はがきのような自然ではない。そこへ分け入り、体感し、考えたことを、温かく気品のある言葉でつづる。だから、雑誌などで名前を目にすると必ず文章を読む。単行本も買う。

『歩けば、風の色――風と遊び風に学ぶ2』は愛読書の一つだ。中に「背戸峨廊を歩く――草野心平の『水の道』」が収められている。「背戸峨廊」は夏井川の支流・江田川(えだがわ=いわき市小川町上小川)の愛称だ。夏井川渓谷の近くにある。

「背戸峨廊」の文章を読みたくて『歩けば、風の色』を買った、と言ってもよい。
いかにも「背戸峨廊」の厳しさが出ている。が、一つ気になったのが「背戸峨廊」のルビだ。「せどがろう」ではなく「せとがろう」になっている。入手した資料が「せとがろう」となっていたのだろう。

「背戸峨廊」の4文字を分解すると――。
まず、「背戸」。どんな辞書でも「背戸」は「せど」である。「家の裏手の川」をさして「背戸の川」という。その背戸である。方言でもなんでもない。れっきとした共通語だ。次に「峨廊」。文字通り「峨峨たる回廊」である峡谷を表現している。

「背戸峨廊」はいわき市小川町出身の詩人草野心平が名づけたと言われているが、地元の受け止め方は少し違う。「せどがろう」に心平が字を当てた、というのが当たっている。それにはこんな背景がある。

江田川と山をはさんで夏井川に注ぐ川がある。加路(かろ)川という。江田川は猟師かイワナ釣り師しか入り込まないような峡谷。それよりは開けた加路川流域には、小集落が点在する。加路川を視野に入れて暮らす人々からすれば、江田川は「かろ」がなまって「せどのがろ」、つまり「山の裏手の加路川」ということになる。
その人たちが呼び習わしていた「せどのがろ」(「せどがろ」)に心平が「峨峨たる回廊」のイメージを重ね合わせた、と言えばより事実に近いか。

一人歩きを始めた「せとがろう」は道路の案内標識にも及んでいる。同じ小川町の下小川に設置された標識は「背戸峨廊」の下の英語表記が「Setogaro Gorge」=写真上=だ。早い機会に訂正してほしい。ついでながら、辰濃ファンとしても『歩けば、風の色』が次に改版されるときには、「せどがろう」とルビが直るのを願っている。

いわき市立草野心平記念文学館ができてからは、学芸員が「『せどがろう』ですよ」と念を押すせいか、さすがに「せとがろう」と間違ってルビが振られた記事は少なくなった。

さて過日(2月20日)、「背戸峨廊」のコース最奥部「三連(みれん)の滝」の氷結写真が新聞に載っていたのに刺激されて、一番手前の「トッカケの滝」をのぞいてきた。「三連の滝」よりはかなり下流のためか、滝の氷はほとんど解けてなくなっていた=写真下。

峡谷にも春の光が躍り始めたようである。

2008年3月1日土曜日

「ペドロの作文」

アントニオ・スカルメタというチリ生まれの作家がいる。映画「イルポスティーノ」の原作「ネルーダの郵便配達人」を書いた。(と言っても、先日初めて知った。BS2をかけたら、たまたま「イルポスティーノ」をやっていたのだ)

「イルポスティーノ」はまさに「ネルーダの郵便配達人」の物語だ。
イタリアの小さな島で亡命生活を送るチリの国民的詩人、パブロ・ネルーダ(1971年にノーベル文学賞を受賞)のもとへ、毎日、郵便物を届ける。
やがて交流が始まり、郵便配達人は詩に目覚める…。

原作を読みたくなって、いわき駅前の市総合図書館へ行ったら、ない。代わりに「ペドロの作文」(絵=アルフォンソ・ルアーノ)という絵本がある。早速、借りてきて読んだ。

チリのアジェンデ政権がクーデターで倒れ、軍事独裁が始まる。
ある日、学校へ軍人がやって来て「わが家の夜のすごしかた」というタイトルで子供たちに作文を書かせる。
9歳のペドロ少年は、両親がのんびりとチェスなどに興じている様子をつづる。
実際には独裁に反対し、「自由な国がいい」と思っているのだが、本当のことは書けない。書けば両親が連行される――そんな不安がチェスの作文を生んだ。

作文を読んだ父親が愁眉を開く。絵本もそこで終わる。
「『そうか』パパがいった。『こんど、チェスを買ってこなくちゃな』」

8歳や9歳の少年でも大人の魂胆を見抜いてしまう。それをペドロ少年は文字通りの作文でこたえ、両親を救った。

大火事の夜

若い仲間の「本や ふるさとマルシェ」のブログ(2月28日「かぼちゃと防空ずきん」)を読んで触発されたので書く。

中身は彼のブログを読んでもらうとして、わがふるさとの田村郡(現田村市)常葉(ときわ)町が昭和31年4月17日夜、吹きすさぶ西風に「一筋町」(俗に「ふんどし町」という)の3分の1が燃えて灰になった夜、同級生はどこへ、どう避難したのか。

それを、今年(2008年)2月上旬に開いた中学校の「還暦同級会」(その年齢を迎えたので早々と実施した)でやっと確かめることができたのだった。

同級生が数人、いわき市にいる。何年か前から毎年、忘年会をやるようになった。去年は春に夏井川渓谷で花見もした。ある年の忘年会で、なんとはなしに大火事の話をしたら、それぞれが違ったことを話した。

そのころ、常葉町には小学校が4校あって、幹線道路(現国道288号)沿いの3校の児童たちが中学校では一緒になる。小学校名でいえば、西から西向(にしむき)小・常葉小・山根小(もう一つ、大滝根山に近いところに関本小がある。同小の児童はそのまま関本中に進んだ)。

大火事に見舞われたのは真ん中、常葉小学区の町場。西向小出身の同級生は「東の空が真っ赤になっていた」。山根小出身の同級生は「西の空が真っ赤になっていた」。ところが、私同様、家が焼け落ちた常葉小出身の同級生は、火の粉に追われるように山を越えて逃げた。

<大火事体験は一人ひとり違うのか>

以来、同級生に会って酒を飲めば「あれ、ほれ、あの火事」(と、だいたいできあがりつつあるときに)「町が焼けたとき、どう逃げた」と聞くのが習い性になった。

で、還暦同級会である。

酒を酌み交わしながら、何人かから「あのとき、どこへ逃げた?」と聞いては、メモを取り続けた。

私と一緒に町の裏山へ避難し、翌早朝、私とともに全国紙の記者に写真を撮られた同級生(道路の斜め向かいに住んでいた)は
「おじたちのカバンも肩からさげていたんだ」。
<そうだった>
私は自分のランドセルだけ。彼は自分のランドセルのほかに、中学生のおじたちの肩掛けカバンを二つ、たすきがけにしていたような記憶が突然、よみがえった。

近くの同級生は、東の坂の上、町外れ近くから路線バス(その日の運行を終えて車庫にでも止まっていたのか)に乗って山根小学校へ逃げたという。入学前、よく一緒に遊んだ女の同級生もバスでそっちの方へ逃げた。徒歩で逃げるしかなった男の同級生もいた。

私と一緒に逃げた同級生は、こんなことも言った。
「『○×の小屋に逃げろ』って言われたんだけど、そこにいたらオレたち焼け死んでいたね」

道路に出て西空をながめ、紅蓮の炎と火の粉の艦砲射撃に立ちすくんで、ただただ走り回る大人の影絵を眺めているしかなかった小学校2年生の私と彼と、近所のおばさんたち。

記憶にはないが、初めて知った「オレたち焼け死んでいたね」。
<そうだったのか、T君>
50年が過ぎてもぞっとすることがあるものだ。