2008年4月30日水曜日

左助はえらい


先日の大雨で夏井川河口まで流された残留コハクチョウの「左助」が4月24日、仲間3羽のいる平中神谷字調練場へ戻って来た=写真(左から2羽目)。

<コハクの世話をしているMさんが軽トラに乗せて連れ帰ったのだろうか>
今度会ったら尋ねようと思っていた矢先の早朝、堤防の上を歩いていた私の後ろから、Mさんがえさをやりに軽トラでやって来て、止まった。

「左助を連れ帰ったんですか」
「違うの、自力で戻ったんだ。びっくりした」
左助が流された次の日から、Mさんは調練場と河口の2カ所でえさをやるようになった。そんなある日、左助に
「『おじさん、もういやだぞ。これから雨が多くなるから。上に戻れ』って言ったら、『ガオ』って鳴いたんだ。次の日の朝、(調練場へ)来たらいるんでないの。言葉が通じたのかな」
「通じたんですよ」

左助が仲間のいる調練場まで自力で戻って来たのは、これが初めてだ。途中、六十枚橋の下流あたりまでは遡行しても、それから先へは進めなかった。

老いてなお力を振り絞り、今までできなかったことを成し遂げた左助は、えらい。

左助の世話を始めて7年というMさんは、すっかり左助に元気をもらったようで、
「頑張ります」
大きな声で私に「宣言」した。

2008年4月29日火曜日

シロヤシオの気品



夏井川渓谷の春は忙しい。アカヤシオの花が散ると、シロヤシオ(ゴヨウツツジ)の花が咲き出す=写真。

4月初旬から点々と花をつけ、中旬以降は全山ピンク色の点描画となったアカヤシオだが、ほかの木々の芽吹きと同時に花を散らし始め、4月27日の日曜日にはほぼ姿を消した。

渓谷はぽやぽやとした新芽でパステルカラーに染まっている。一番「山のいのち」が感じられる時期でもある。その薄緑色の風景画にところどころ白い点々が見られるようになった。シロヤシオだ。

シロヤシオは毎年確実に花を付けるというわけではない。全山白い点描画になる年もあれば、まったく花が目立たない年もある。アカヤシオのようには安定していないのだ。

例年だと、ゴールデンウイークに入ってから開花する。5月の花と言ってもよい。ところが、今年は少々開花が早い。いや、アカヤシオもそうだが、全般に植物の開花が早まりつつある印象を受ける。地球温暖化の影響がここにも及んでいる――そう危惧せざるを得ない。
アカヤシオの花時には行楽客が殺到する。ゴールデンウイークには「花より観光施設」なのか、シロヤシオは行楽客の目にもふれずひっそりと咲いているだけである。それがいっそう私には好ましい。「アカヤシオの艶麗」のあとには「シロヤシオの気品」が際立つ。

2008年4月28日月曜日

「川前のカツラ」がすごい


これから何日かは「植物紀行」になるかもしれない。あしからず。

夏井川渓谷の少し上流、いわき市川前町の川前駅近く、夏井川右岸にカツラの巨木がある。市川前支所のだれか(地域振興担当員?)が先日、「川前のカツラの花が満開」とPRしていたのを、いわき地域情報総合サイト(「いわきあいあい」)で知った。

それによると、カツラは同支所から約100メートル上流の右岸にあり、十数本が密生しているように見えるが、根元は一つだ。雌雄異株で、川前のカツラは雄株という。花が終わると新緑が美しい。そう言われてもピンとこない。 この目で確かめることにした。

ほぼ2週間前(4月13日)、雨の中を見に行く。川前駅へ通じる橋の上から上流を見やると、それらしい木があった。が、雨に濡れてまで観察する執念は持ち合わせていない。

で、2回目。4月27日の日曜日、「夏井の千本桜」を見に行った帰りに、今度は左岸・県道側からじっくり観察した。カツラは確かに幹が十数本並び立っていて、鮮やかな新緑に包まれていた=写真。

福島県内には国指定天然記念物の「赤津のカツラ」(郡山市湖南町)がある。高さ25メートル、幹回り9メートル、推定樹齢350年という。いわき市の保存樹木・田人町旅人字和再松木平のカツラは高さ11.7メートル、幹回り3,5メートルというから、スケールは「赤津のカツラ」の半分以下だ。この「川前のカツラ」はまず、「田人のカツラ」をはるかにしのぐのではないか。「赤津のカツラ」ともいい勝負になるのではないか。

いわき市の天然記念物にも、保存樹木にも指定されていないノーマークの大木だ。初めて見る人はただただ圧倒されるに違いない。それほどの重量感がある。川前のお宝(地域資源)としては一級品だろう。この新しい巨木の「発見」で、川前に人の耳目を集める「新しい物語」が生まれる可能性が出てきた。という意味では、有意義な観察になった。

「川前のカツラ」は今すぐにでも市の天然記念物にしていいのではないか。

2008年4月27日日曜日

夏井の千本桜


田村市の大滝根山を水源とする夏井川は、67 キロ先のいわき市・新舞子海岸で太平洋に注ぐ。夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)はほぼその中間に位置する。マイカーなら平の街も、隣の小野町も同じ「30分圏内」、行きやすい。

小野町の「夏井の千本桜」が見ごろだという。土曜日、私は夏井川渓谷の無量庵に泊まった。日曜日、カミサンが一番列車で江田駅に降りた。カミサンを拾い、そのまま車を飛ばして千本桜へ直行する。朝7時半過ぎには千本桜が花盛りの夏井川の岸辺に着いた=写真。

夏井川の堤防が完成したのを記念して、地元の人たちが延々5キロにわたってソメイヨシノを植えたのが生長し、ちょうど観賞するのにいい樹齢になった。テレビなどで紹介されるケースが増えたこともあって、花時には各地から詰めかけたマイカー客などでごった返す。混雑に巻き込まれるのがいやだから、早朝の花見行となった。

田村地方を代表する桜といえば「三春の滝桜」だが、ほかにも結構「名木」がある。映画で有名になった船引町の「小沢の桜」、そして人気が急上昇しているのがこの「夏井の千本桜」だ。

私は同じ田村地方の常葉町で生まれ育った。わが実家の町の裏山に、福島県の「緑の文化財」に指定されている「早稲川舘(わせがだて)ザクラ」がある。樹齢700年近いヒガンザクラの大木である。これも「名木」の一つと言ってよい。

「早稲川舘ザクラ」は、私が子供のころは集団遊びの目印のひとつだった。集合場所であり、かくれんぼの基点であり、幼年から少年に変わるときの木登りの挑戦の場でもあった。

そのころは桜の花などにはまったく興味がなかった。だから、小学校入学後の行事かなにかで小学校より高いところにある中学校のグラウンドで見た満開のソメイヨシノ、そして次の年の大火事で一気に満開になった小学校のソメイヨシノのほかは、桜の花に魅せられた記憶はない。

中学校を終えていわき市へ移り、やがて就職・結婚・子供の誕生と一連の流れを経験したあとの、中年にさしかかったころ、だったと記憶する。

たまたまゴールデンウイークに帰省し、町裏のなだらかな畑を過ぎて「早稲川舘ザクラ」に会いに行った。なんとその大木が花をいっぱい付けて待っていたのだ。初めて目にする花盛りの大木。息を飲んでしばし立ちすくんだ。

「夏井の千本桜」からだと、そこまではやはり「30分圏内」。行けばすぐだが、ここは我慢して、30分ほどいて渓谷へ引き返す。だれかが無量庵を訪ねてくるかもしれないからだ。

「早稲川舘ザクラ」は咲き始めたろうか、満開になったろうかなどと、心は大滝根山の上を行ったり来たりした。

2008年4月26日土曜日

カラス営巣


毎日、ほぼ同じコースを散歩していると、けし粒くらいでも風景の変化が目に止まる。

国道6号バイパス終点の夏井川橋そば。堤防からそれて平中・下神谷(かべや)の住宅地へ戻ろうかというあたりの対岸(右岸)にある木のこずえの真下、幹と枝のまたにシミのような「逆三角形」が見えた。双眼鏡を向けると親ガラスがいる。既に産卵して温めに入ったのだ。

ある日の夕方、いつもの散歩コースを変更して、三脚に望遠レンズを装着したデジカメをかついで橋を渡った。眼下に広がるヨシ原のどこかでキジが鳴いている。橋上からうまく見つけられたら、それこそ「鳥の目」で面白い写真が撮れそうだ。

右岸が真下に見えてくるとおばさんが2人、草むらで菜の花を摘んでいた。橋を渡り、河川敷に下りる。随分広い。何年か前、ごみの不法投棄が発覚した場所だといえば「了解」、となる人もいよう。

ゆっくりゆっくり営巣している木に近づく。芽吹いた緑から巣のある木はヤナギの高木と分かる。が、よく見るともう一本、約20メートル離れた裸木にも巣があって、カラスの尾羽がはみ出している=写真。ヤナギの巣は裸木の三分の一ほどだ。カラスが抱卵している気配はない。つくりかけのまま放棄された――そんな雰囲気である。

カラスが巣をかけた裸木は枝ぶりが変わっている。図鑑その他で調べたら、野生化したニワウルシらしい。この木が少しばかり厄介物だと知ったのは後日。いずれそのことは報告したい。

で、カラスの子育てだが――。3年前に上流の右岸(平北白土)で、やはりヤナギの高木に営巣したのを観察したことがある。毎朝、会社へ行く途中、双眼鏡を当てて手帳に記録をとった。

それによると、抱卵に気づいたのは4月13日。それからほぼ3週間後の5月2日あたりにひなが孵ったようである。5月13日の夕方には親ガラスが巣を離れたあと、黒い頭を二つ確認した。6月に入るとすぐ、巣立ったらしい。6月5日以降はまったくカラスの記述がない。

今度も同じような経過をたどるのだろう。あと何日か後にはひなが孵る。さらに1カ月後にはひなが巣立つ。

人間が暮らす社会の隣、堤防でくくられた河川敷にも「生きものの社会」がある。「いのちのドラマ」が満ちている。

2008年4月25日金曜日

アーティチョークを植える




いわき市平のギャラリー「界隈」で4月12日から22日まで、阿部幸洋(いわき市平出身の画家でスペイン在住)の個展が開かれた。駆け出し記者のころ、彼は20歳になるかならないかで、今はない平の「草野美術ホール」で個展を開いた。それを取材して以来(ということは35年以上)、義兄弟の付き合いをしている。

アーティチョークを描いた絵があった=写真右。別名「チョウセンアザミ」。日本のアザミと違ってかなり大きくなる。「外国のアザミ」という程度の意識でその筋の権威が名づけたのだろう。

阿部の知り合いから本物のアーティチョークが個展の会場に届いた。その話になって、「食べたい」と言ったら、阿部が「どうぞどうぞ」と言う。家庭菜園をやっていると、白菜や大根などアブラナ科以外のものを栽培したくなる。ハウツー本に「新野菜」としてキク科のアーティチョークのつぼみが紹介されていた。それが頭をよぎったのだった。

後日、阿部から連絡があった。約束した日に個展会場へ行くと、アーティチョークが2株、白い花が咲けば香りのいいショウガ科のジンジャーが2塊入っている袋を手渡された。さあ、こうなったら人間の都合は言ってられない。翌早朝、起きぬけに夏井川渓谷の無量庵へ車を走らせた。そこにあるわが菜園に植えてやらなくては――。

アーティチョークはすでに長い長い葉を何枚も伸ばしている。通常だと7月下旬あたりに花をつけるらしい。活着したら支柱を添えてやろう。そう考えながら植えて、たっぷりと水をやった=写真左。ジンジャーは球根を切り分けて増やすという。それぞれ半分にして、芽が伸びている方を上にして植えた。

1枚の絵が本物の植物を呼び寄せ、食い意地の張った人間がそれをもらって畑へ運び、さああとはどうなることやら。じっくり観察をつづけることにしよう。

2008年4月24日木曜日

わが家の「特異週」


10月10日は雨の降らない「特異日」。それで、東京オリンピックの開会式が10月10日に開かれた。同じように明と暗が交錯する「特異日」がある。正確には「特異週」というべきか。私が実感するのは4月16~22日の1週間だ。

次男が4月16日に生まれ、カミサンの父親が何年か前の同じ日に死んだ。そして先日、若い友人から電話があった。「娘が生まれました」。誕生日は4月16日だという。

翌4月17日は、私の生まれ育った田村郡常葉町(現田村市常葉町)が昭和31年、大火事に遭った日だ。私は小学校の2年生に進んだばかりだった。阿武隈高地にある常葉町のソメイヨシノは、例年だと4月末あたりが開花期。その年だけは、焼け残った小学校の校庭のソメイヨシノが4月18日に一気に花を咲かせた。桜もやけどするくらいに熱かったのだろう。

4月21日は2人いる擬似孫のうち、長女が誕生した日である。その妹は今年、小学校に入学した。翌4月22日には私の長男の息子、つまり男の孫が昨年、産声を上げた。

男の孫は10カ月になる前から歩き始めた=写真。で、長男のオジがおととい、4月22日の誕生日に「一升もち」をつくった。一升もちを背負っても孫は歩きとおしたのではないか。そんなことを想像しながら、4月22日の夜はわが家でグビッグビッとやった。

そして昨夜(4月23日)はカレー。擬似孫がやって来るときはいつもそうである。擬似孫たちの振る舞いを楽しみながら、またまたグビッグビッとやった。男の孫と、生まれたばかりのまだ見ぬ姫君を思いながら。

2008年4月23日水曜日

赤黒く恐ろしい夕焼け


ブッドレア会の4月講師例会が先夜、いわき市常磐の古滝屋で開かれた。講師は評論家でいわき市立草野心平記念文学館長の粟津則雄さん。粟津さんは「日本人の心とことば」と題して、心とことばの奥深いところ(つまりは詩、と私は解釈したが)で結びついている個人的な体験を主に語った。

最初は小学校へ上がる前に見た「赤黒く恐ろしい夕焼け」の記憶。その夕焼けが、心とことばの奥深いところと結びついた一番早い出合いだったという。それから少年時までの記憶として、粟津さんは海岸の松籟と波の音(これに「無限」を感じたという)、町全体が「きれいな興奮」(柳田国男)に包まれる秋祭り、夏の花火大会を挙げた。

中学生でアルチュール・ランボーを知り、旧制高校時代に枝垂れ桜の怖さ、すごさを知って、「梅好き」から「桜好き」になった。詩人(たとえばランボー)に助けられた――とも語った。戦争末期の暗い時代、粟津さんはランボーに支えられて「時代にはむかう牙」を磨いた。

そして、宮沢賢治の「永訣の朝」を読んだときの衝撃。草野心平、小林秀雄との出会い。「永訣の朝」は、粟津さんにとっては「事件」だった。草野心平、小林秀雄は「決定的な存在」となった。

2007年10月、粟津さんが東京新聞夕刊に連載した「ことばの泉」が集英社新書として出版された=写真(平・石森山「せせらぎの道」で)。それを記念しての講師例会である。

粟津さんが個人的な体験を通じて語った「日本人の心とことば」は、日本の自然の営み、人間の営みと深く結びついたものだった。

2008年4月22日火曜日

白菜漬けから糠漬けへ


4月に入って漬けた白菜の出来が、いまひとつよろしくない。水の上がりが遅い。すぐ水の表面が白濁する。寒さが緩んで酸化のスピードが早まったのだろうか。

スーパーへ買い物に行ったついでに、カミサンににらまれながら、白菜の新物(四つ割りで130円弱=値段が高い)を1株分買って来て、漬けた。この春最後の白菜漬け=写真=だ。

新物だからまあみずみずしい。四つ割りをさらに三等分して一日縁側で干し、塩をまぶして桶に並べた。重しは6キロ。十分すぎるくらいある。ところが、それでも水の上がりが遅い。塩が足りないのだろうか。白菜の重量の3%で十分なのだが、そしてそれを少し超えるくらいの目安で塩を振るのだが、2回続けて漬かる日数が遅れた。

漬物がないと、なにか忘れ物をしたようで落ち着かない。1,2回そんなことがあった。で、先週のこと。しびれを切らして白菜を取り出したら、まだパサパサしている。塩がなじんでいない。あと2日くらいは我慢しなくてはならないだろうと考えて、つなぎに白菜キムチ(発酵食品)を買って来た。日曜日(4月20日)には田村市常葉町の実家から、兄夫婦が白菜の切り漬けを持って遊びに来た。願ってもないお土産になった。

さて、上がってきた白菜の水の表面が白濁するのは糠漬けの準備をしなさい、というサインでもある。糠床を覆っていた塩を取り除き、新しい糠を加え、野菜の捨て漬けをして、まず大根とキュウリを漬ける――。糠漬けは5月の連休明けあたりからと考えていたが、少し早めることにしよう。

2008年4月21日月曜日

左助はどこへ行った


翼をけがして北国へ帰れなくなったコハクチョウの最古参、「左助」の姿が見えない。

残留コハク4羽が、いわき市平塩から少し下流の平中神谷字調練場の砂地へ移動したのは4月15日。低気圧が接近して大雨に見舞われた金曜日(4月18日)には、まだ4羽が調練場にそろって休んでいた。

翌土曜日も雨は降り続いた。水位が上がって砂地が水没すると、コハクたちはやや下流に移動した。ヤナギの木の間越しに姿が見えたが、数は確認できなかった。

左助は年に一、二度、大水に流される。自力で調練場へ戻ることもあったが、近ごろは体力が落ちたらしい。河口で一夏を過ごしたこともある。その左助を、コハクの世話をしているMさんが軽トラに乗せて上流の仲間の元へ連れ戻したのが、コハクチョウが飛来する前の昨秋。

20日、日曜日午後6時前。街へ出かけるついでに車で堤防へ出た。夏井川の水はだいぶ引いて、調練場には砂地が戻っていた。コハクは3羽のみ。双眼鏡で確かめたら、左助の姿がない。流されたか。

今朝(4月21日)6時前、河口へと車を走らせた。と、河口までは目と鼻の先、沢帯(ざわめき)公園がある左岸の波消しブロックの上に、左助がいた=写真。やはり一気にここまで下って来たのだ。

ひとまず安心して堤防を戻ると、調練場でMさん夫婦が3羽にえさをやっていた。左助の話を聴く。

――左助はどうも単独行動が好きらしい。一緒にいても1羽、ポツンと離れて休んでいる。大雨で増水したから案じていたら、その通りになった。しばらくはこのままにしておいて、仲間と一緒になりたいような素振りのときは連れ戻そうと思う、という。

懸念されるのは、次の大水だ。夏井川河口が砂で閉塞されるのを防ぐため、河川管理者が横川に石を積んで流れを遮断した。それで今は夏井川の水がストレートに海へ注いでいる。「左助が海に流されなきゃいいのだが」。Mさんの新たな心配が始まった。

2008年4月20日日曜日

アカヤシオの花は残った




金・土曜日と荒れ狂った低気圧がようやく東の海上へ抜けたらしい。4月20日、日曜日の夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)は、朝7時ごろには雨も上がり、無量庵の近くのやぶからウグイスのさえずりが聞こえるようになった。風が運んでくるのか、時折、天気雨が谷間を走り抜ける。

無量庵の対岸、V字谷の森に群生するアカヤシオの花が今週も美しい。春の嵐で花が吹き飛ばされたのではないか――前日の夕方、心配しながらやって来たのだが、よく頑張って持ちこたえてくれた。

行楽客が来る前に朝風呂に入った。湯船につかってひげをそり、アカヤシオの花を眺めた。午前10時から渓谷の集落の鎮守「春日様」の祭礼=写真左=を兼ねた花見が行われたが、朝風呂はその清めのようなものでもある。

1週間前に比べると、対岸の森は一段と鮮やかに、にぎやかになった。ヤマザクラ=写真右=がアカヤシオに負けじと谷や中腹や尾根で咲き乱れている。木々も芽吹いて黄、黄緑、茶、赤茶色の点描画を展開している。

谷間を縫う道路沿いにはハナモモ、ヤブツバキ、トウゴクミツバツツジの花。無量庵の庭に植えた2本のシダレザクラが、水力発電所の社宅跡にあるソメイヨシノが満開になった。早々と散った白梅の代わりに、わが畑ではまだ高田梅の花が咲き残っている。

午後には客人が数人、無量庵へやって来た。梅・桃・桜の「三春」どころではない。夏井川渓谷は、家によっては庭木の花と合わせ「七春(ななはる)」「八春(やつはる)」の真っ最中だ。そのことを少し自慢した。

2008年4月19日土曜日

春の嵐


夕べ(4月18日)、横なぐりの雨と風の中、電車でいわき駅から湯本へ出かけた。いわき駅へ着くと高校生がホームにあふれていた。初めての経験で最初は分らなかったのだが、強風で列車に遅れが出たのだった。

夕方5時台、常磐線の上りはおよそ20分間隔で2本の普通列車が運行される。後の電車に乗ろうとしたら、前の電車がまだ着いてない。約20分遅れで折り返し運転になった。

帰りは遅れがさらに大きくなった。かえって私にはそれが幸いした。

時刻表では午後10時過ぎの電車がある。早めに湯本駅へ行って待つことにしたが、雨風がひどい。若い仲間が駅まで送ってくれるという。駐車場まで歩いている間に、若い仲間に別の仲間から携帯電話が入った。列車が1時間20分ほど遅れて泉駅を出たことを告げた。

それ、急げ! 傘をたたんで駐車場へ走り出す。車の助手席に乗り込んで駅へ向かう。湯本駅へ飛び込むと間もなく電車がやって来た。結果的に時刻表より30分ほど早くいわき駅へ戻ることができた。

いわき駅の外階段にはおちょこになった傘が散乱していた。そうならないように傘を半開きにして、風向きに合わせて傘の向きを変えながら歩くか、傘をたたんでぬれて歩くかのどちらかだが、道行く若者は傘を開いたままだから、見る間に傘がおちょこになっていく。すると、あとは簡単にポイ、である。

一夜明けた19日未明、雨は小降りになった。が、風は強い。車で夏井川の堤防へ出た。河川敷のサイクリングロードが見えるから、思ったより水位は上がっていない=写真。数は確認できなかったが、残留コハクチョウがヤナギの木の間に見えた。

低気圧が凶暴化している。――酒席で隣り合わせた知人は「地球温暖化で水害が多発する」と語り、タクシーの運転手は「強風で車があおられる」とまゆをひそめた。近所の家の夏ミカンが、今朝はほとんど落果していた。

裏山や家や庭木など、より細部にまで土砂災害や風水害が及ぶようになった。年に何回かはそうした心配をしなくてはならなくなった。これは異常事態だ、という意識だけは持ち続けることにしよう。

2008年4月18日金曜日

ドロボーした作物旨いか


散歩、ドライブ、買い物…。さまざまな時間に夏井川の堤防を利用する。そのつど散歩をしている人を見かける。

人によって時間は決まっているらしい。早朝はつえをついたおばさん、犬と飼い主、黙々と歩くだけのアスリート風中年男性、等々。あいさつを返す人もいれば、無視して通り過ぎる人もいる。

私の散歩はコースこそ一定しているものの、気持ちの上ではあっちにふらふら、こっちにふらふら飛び回る蝶と同じだ。目に映るもの、耳に届くものに反応し、「あれっ」と思ったものには双眼鏡を当てる。

幕末の歌人橘曙覧の「たのしみは 朝おきいでて 昨日(きのふ)まで 無かりし花の 咲ける見る時」「たのしみは 常に見なれぬ 鳥の来て 軒遠からぬ 樹に鳴きしとき」に似た散歩ではある。

気まぐれだから、遠くまで足を延ばすこともあれば、コースの途中からあぜ道に折れて戻ることもある。そんなときに「発見」した怒りの立て札=写真=だ。「告!!/農作物を取るな/ドロボーした作物旨いか/警察に通報してある/地主」。畑の菜の花を勝手に摘み取る人間がいたのだろう。

堤防に咲いている菜の花を摘む人がいることは前に書いた。その延長線上で人の畑の菜の花まで手が伸びた。宅地に囲まれた畑である。近所の人以外は知らないあぜ道、早起きをして、散歩を装って取りに来たか。

現に早朝6時すぎ、レジ袋にいっぱい菜の花を摘んだ人と河川敷のサイクリングロードですれ違ったことがある。「こんな早い時間に」と少し驚いた。

2008年4月17日木曜日

天日燦として焼くがごとし


4月中旬に入って、日の出が5時を切るかという時節になった。早朝散歩の時間も、それで少しずつ早くなっている。

6時。家から道路へ出ると、もう太陽が屋根の上に昇っている=写真。どんな心の作用か分からないが、なぜか焦ってしまう。

なぜ焦るのだろう。心当たりは一つ。夏井川渓谷の無量庵に泊まった翌日曜日、日の出前に畑仕事をする。太陽が昇り出したときには、もう仕事が終わっている。どうやら肉体をフル動員した朝飯前の労働が、わが家にはない。その落差が焦りにつながるようなのだ。

詩人山村暮鳥はヨシノ・ヨシヤ(吉野義也=三野混沌)の詩句「天日燦(さん)として焼くがごとし、いでて働かざる可(べ)からず」にとても感動したらしい。1,400行にならんとする自分の長編詩「荘厳なる苦悩者の頌栄」のタイトルのわきに、この詩句を引用しているのはその表れだろう。太陽の下、大地に二本足で立って、額に汗して、肉体をフル動員して働く。それはそれで大切なことだ。

が、そんなことをしたらすぐ熱中症にかかってしまう。私はつたない家庭菜園の経験からそのことを知っている。「天日燦として焼くがごとくなる前に、いでて働かざる可からず」か、「天日燦として焼くがごとし、家で寝ていよ」のどっちかなのだ。

労働への過剰な賛辞が暮鳥の個性と限界を示しているのではないか。朝、太陽に遅れをとると、いつも焦りとともに暮鳥の感動癖が思い起こされる。同時に、ヨシノ・ヨシヤの盟友、猪狩満直のこんな言葉も。「田園詩人よ。君等は勝手に田園を賛美するがいい。労働を賛美するがいい。円光をきせるがいい。自然美に酔ふがいい。僕はあっさり君達と手を切らう」
まあまあ、そうムキにならないで――。昭和13年、40歳で亡くなった若い満直の顔を虚空に浮かべて、私は言葉をかけてみる。夏井川の河原ではキジが鳴き、ウミウが橋を飛んで渡り、上空ではヒバリが歌っている。自然美に酔ってもいいだろうよ、と。

2008年4月16日水曜日

望遠レンズで試し撮り


若い仲間からデジタルカメラ用の400ミリ望遠レンズを借りた。子供の運動会か発表会にしか使わないからいいですよ、という。願ってもないことだ。

花を撮る。人を撮る。その程度なら、普通のレンズでもなんとかなる。鳥の写真は、そうはいかない。被写体自体が小さいから、いくら近づいて撮ったつもりでも、画面の中ではけし粒か米粒にしかならない。

早速、いつもの散歩コースで望遠レンズの威力を試す。最初は三脚なしで。

国道6号バイパス終点近く(いわき市平下神谷)、夏井川橋の中央の橋脚にチョウゲンボウが止まっていた。近づきすぎると飛び去るから、端の橋脚に隠れるようにしてレンズを向ける。デジスコ写真のようなわけにはいかないが、カメラのモニター画面にはそれなりに大きく映る。数枚撮って、意気揚々とわが家へ帰った。パソコンに取り込んで再生したら、なんとピンボケ・手ぶれ。とてもじゃないが使い物にならない。

やっぱり三脚が必要だ。昔、三脚を使って鳥を撮っていたときがある。2階の隅の方に三脚が綿ぼこりをかぶってあった。それをきれいにして、石森山へ入って植物の試し撮りをする。花は動かないから、離れたところからでも撮れる。葉の大きなエンレイソウを撮ったら、まずまずだった。鳥のつもりで花を撮る――そんな使い方もできるのだ。

朝、仕事を始める前に望遠レンズをデジカメに装着し、それを三脚に付けて、夏井川の堤防を車で行く。キジがカップルで現れる。チョウゲンボウがなにやら鳥を捕まえて羽をむしっている。車を止めて三脚を構えると、既に姿はない。

ではと、対岸で休んでいるコハクチョウを狙った。それが、この写真=左から左吉・左助・幼鳥(毎朝えさをやっているMさんは「さくら」と名づけた)・左七。

生態と表現を兼ね備えた鳥の写真を撮ろうと思ったら、こんなやり方では無理である。が、大事なのは人であれ生き物であれ、日々の営みを継続して記録すること。それを文と写真で伝えられるかどうか、である。

2008年4月15日火曜日

夏井川渓谷のサンシュユ?


「この木は随分、早く芽吹くんだな」。夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)をくねくね縫う県道を歩いていたら、ちょうど人間の頭の高さで「木の芽」を吹いている若木が目に入った。

「木の芽」にしては、どこかおかしい。黄色みが強い。サンショウが芽吹くと一見、そんな形になるが、こちらの葉芽は4月10日あたりに開き始めたばかりだ。第一、若木にはトゲがない。

なんだろうと考えているうちに、記憶がよみがえった。いわき駅前の再開発ビル「ラトブ」でどこかの社中の生け花展が開かれたときに見た、サンシュユ。それに似ている=写真。

『図説 花と樹の事典』(柏書房)によれば、サンシュユはミズキ科の落葉高木で、中国・朝鮮半島が原産地。3~4月、葉に先立ち小枝の先に散形花序を出し、黄色四弁の小花が密集してつく、という。

花期は合っているが、外来種である。わざわざ急斜面に植えるような奇特な人はいないだろうから、サンシュユではない? 夏井川渓谷を対象にした『阿武隈高地森林生物遺伝資源保存林調査報告書』にもサンシュユの名はない。でも、どう考えてもサンシュユ以外の樹木が思い浮かばないのだ。

サンシュユだとしたら、鳥が実を食べてフンと一緒に落ちた種が芽生えたか。そんなことはサンシュユであり得るのか。いわき総合図書館で、折に触れて調べているのだが、答えはまだ見えない。

2008年4月14日月曜日

アカヤシオを眺めながら


夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)のアカヤシオ、通称「岩ツツジ」の花が満開になった。磐越東線江田駅の上流、字椚平(くぬぎだいら)~牛小川の対岸の山が、谷筋から頂上まで点々と淡紅色に彩られ、壮大な点描画と化した。

13日、日曜日はあいにくの曇天。それがかえって観賞するには幸いした。晴れれば午前中はアカヤシオが逆光に入って見えにくい。光と影が薄い分、花の色がはっきり見てとれる。

さて、行楽客が来る前に(ということは、朝飯前に)うねを耕さなくてはならない――。朝、8時前。無量庵の庭の畑にいると、隣の広場がにぎやかになった。早々とやって来た行楽客が車を降りるなり「アララララ、きれいだこと」と感嘆の声を上げる。毎年見続けている人間にも、今年は格別の美しさだ。週末と色鮮やかなときとがちょうどいい具合に重なったのだろう。

朝飯前にうねを耕し終える。今日の仕事は終了とのんびりかまえていたら、三春ネギの苗に黒い虫が取り付いているのを見つけた。苗がいっぱい食いちぎられている。すくすく育っていたのがトラ刈り状態だ。アカヤシオの花どころではない。かがんで虫退治を始める。これを1時間おきにわが家へ帰るまで何回か繰り返す。ほかの虫もそうだが、そのつど虫が見つかるのだ。

私とは別に、この日、カミサンと同級生が2カ月に一度の食事会を無量庵で楽しんだ。まず二番列車でやって来た同級生2人を夫婦で江田駅まで迎えに行く。無量庵へ戻ると、私は畑で虫退治を再開し、3人は部屋でアカヤシオの花を眺めながらおしゃべりをする。そのうち庭へ出てなにやら立ったりかがんだりしていた。

そうこうするうちに昼の食事会になった。女性3人が台所に立ってなにやかややっていた料理がこたつの上にそろう=写真。

煮物とチキンロール、ポテトサラダは調理師の免許をもつ知人が作った。ほかに、畑から採ってきた白菜の菜の花のお浸し、庭で摘んだヨモギやカンゾウのてんぷら。「桜ご飯」というのも出た。桜茶にする代わりに、それを炊き立てのご飯にまぜたという。塩味が効いている。桜の花の香りも一緒にいただく。

ガラス戸越しにアカヤシオの花を眺めながら、夫婦2人ではやったこともない、なんとも質素でぜいたくな食事会になった。

2008年4月13日日曜日

住善寺のシダレザクラ


いわき市平上神谷地内にある住善寺のシダレザクラ(エドヒガン)がきれいだというので、4月11日に行ってみた。わが住まいから車でほんの数分の距離だが、近くに桜の名木があるなんてことは知らなかった。いや、市の保存樹木に指定されているから活字の上では承知していたはずだが、場所を確かめるまでの興味はわかなかったのだ。

住宅地図で見当をつけ、集会所の駐車場をちょいと借りて参道を上って行ったら、満開の桜が目に入った。境内の真ん中に幹回り2.4メートルというシダレザクラの古木があって、何カ所かで枝に支柱が添えられていた。

ちょうど寺を管理しているおじさんがいたので話を聴く=写真。満開の時期は過ぎて花が散り出した。支柱は桜自身が枝の重みに耐えかねて幹が裂けたための措置だという。道理で、幹には「ギブス」がはめられている。痛々しい。

周囲には柵が設けられてある。枝は四方八方に長く伸び、柵のそばに立つと大きな花の傘に入ったような感じ。その枝が噴水のように垂れ下がり、花を付け、葉を広げるのだから、枝を支える幹のふんばり力は並大抵ではない。「葉を広げるともっと重くなるから」とおじさんは桜の枝を見上げながら教えてくれた。

市の保存樹木のうち、桜は住善寺と同じシダレザクラが6本、ヤマザクラが2本、計8本ある。小川諏訪神社のシダレザクラはライトアップされることもあって、今や人気ナンバーワンといってもいいだろう。それに比べたら、住善寺のシダレザクラは知る人ぞ知るといった感じで、ひっそりと花を付け、ひっそりと花を散らす。

それでも江戸時代は磐城平藩の貴顕、内藤露沾公が花見に足を運ぶほどの名所として知られていたようだ。

 世や匂ふみだれうぐひす昼桜
 刷毛もやはさくら産出す田面海
 桜かな梅見廻りて空穂所化(しょけ)
 桜寺立つけ見たし村子供
 神谷寺野田の藤かも桜棚
 花や時新田の往来数珠の音

露沾が住善寺で詠んだ句である(雫石太郎編『内藤露沾全集』)。そのころから「桜寺」だった。といっても、寺に見るべき桜があれば、そこは住善寺に限らず「桜寺」になる。住善寺に近い一山寺でも、露沾は花見に立ち寄り「削立杉戸まばゆしさくら寺」の句を残している。

山中にある住善寺のシダレザクラは、杉林の陰になっているために田んぼの中を走る道路からは、まったく見えない。それもあってか、今まで桜に気づかなかった。灯台下暗し。ニュートラルな気持ちでわが住む地域を歩くと、またなにか新しい発見があるかもしれない。

2008年4月12日土曜日

いわきのつるし飾り


4月10日、久しぶりにギャラリー「木もれび」(いわき市好間町榊小屋)を訪ねる。カミサンの知り合いの「ぴょんぴょん堂」さん(平)がお弟子さんと「押し絵」の作品展を開いている(14日まで)。で、運転手として「お供」をした。

会場に入ったとたん、あでやかな色彩に囲まれて息を飲んだ。古裂(こぎれ)のちりめんを現代風に生かした作品が、壁に、テーブルに、畳にズラリと並んでいる。羽子板、衝立(ついたて)、額絵、小物…。最近、人気を集めている「つるし雛」もある。

押し絵はちりめん細工の一種。絹織物ならではのやわらかな質感、豊かな色と紋様を利用して、作品をつくる。案内状には「伝統の形の中に新しさを感じ、ゆったりと流れてゆく時に想いを重ねてひとつひとつの夢を作品に表現」したとある。古裂が多様な表現となって現代によみがえった。

「ぴょんぴょん堂」さんの創作の原点という、生家の「つるし飾り」が展示されていた=写真。芽吹いて間もないヤナギの枝に、動物や兵士や、江戸時代の若者や娘や、やっこなどの押し絵がさがっている。平の商家では昔、仕事を終えた夜、人が集まって雛祭りに飾る押し絵を作ったという。この「つるし飾り」を「ちんころ」と言う人もいるが、「そうは言わなかった」と「ぴょんぴょん堂」さん。

旧暦の3月3日は、今年は4月8日だった。ちょうどその時期に合わせて作品展が開かれた(のだろう)。ヤナギもやわらかにあおめいている。季節とともに行事を楽しんだ昔の人たちの心の豊かさがしのばれる。とりわけ、新川だか夏井川だか、川の岸辺からヤナギの枝を取って来てそれに押し絵を飾る、そのゆかしさが。

いわき地方の「つるし飾り」については、民俗学専攻の学習院女子大非常勤講師山崎祐子さんが編集した『雛の吊るし飾り』(三弥井書店・平成18年刊)が詳しい。

山崎さんは、祖母が所有していた「つるし飾り」97点(「お志ゑ雛様 おつるし物」と書かれた箱に入っていた)について、概略を記し、1点1点の目録を作成した。

それで、『いわき市史』には触れられていない「お志ゑ」(押し絵)の「つるし飾り」の一端が分かった。むろん、平の商家では「(お)つるし物」と言っても「ちんころ」とは言わなかったことも。

2008年4月11日金曜日

新しいダンスを始めるときだ



夕方、帰宅したらカミサンが「ハイッ」と四角い封筒を手渡した。中に入っているカードを取り出して開けると、急に英語の歌が始まった。びっくりして腕が伸びた。

英語だから、なにがなにやら分からない。ただ左半分に日本語でこんなことが書いてあった。「退職おめでとうございます…」。カミサンの同級生からのメッセージだった。

彼女はアメリカ合衆国のカリフォルニア州に住んでいる。カミサンがなにか送ったついでに、私が会社をやめたことを伝えたのだろう。お返しのなかに、私あてのカードが入っていた=写真。

カードには英語でこんなことが書かれてあった(意訳)。

新しいダンスを始めるときだ
新しいリズムを学ぶときだ
新しいステップを学ぶときだ
今が最高なんだから

要するに、人生を楽しみなさい――そういう意味なのだと思う。だから、「ご苦労様」ではなくて「おめでとう」なのだ。

この前はイタリアから国際電話がかかってきた。やはりカミサンの同級生からだった。このブログを読んでくれている。いや、「『アカヤシオの谷から』が読めなくなって寂しい」(かつて新聞連載時に、ネットにも文章がアップされていた)――その言葉に触発されてブログを始めた、というのが正直なところだ。

表現したものをネットで公開するといっても、私は、たいていはだれか特定の人間を思い浮かべながら書く。昔、世話になった人だったり、なんとなく縁遠くなった男だったり、彼岸に行ってしまった人間だったりと、それはいろいろだ。

今度はカリフォルニアも視野に入れて、彼女の流儀に合わせて、一つ二つひねってなにか書いてみようか、などと思う。なにやら心が新しいダンスを始めたようだから。

2008年4月10日木曜日

「私、CD出したの」


いわき駅前再開発ビル「ラトブ」に市の総合図書館が入居している。姪が図書館を見たいと言うので、ほぼ毎日利用している私が案内した。5階で待ち合わせをし、郷土資料コーナーや専門書、ビジネス支援コーナーなどを巡ったあと、4階に下りて大部分を占める文学書コーナー、児童図書コーナーを見て回った。

このまま家(好間)へ帰すのも情けない。オジの面子もあるので、ラトブの3階でコーヒーをごちそうすることにした。

席に着くと、姪が1枚のCDを取り出した=写真。
「私、CD出したの」
今は素人でも簡単にCDを出せる。本で言う自費出版かと思ったら、そうではない。
「歌ってるわけじゃないの。作詞したのがCDになったんだ」
「エツ、プロか! それはすごいじゃない!」

それから根掘り葉掘り、姪の話を聞いた。

姪は東京にある音楽関係の事務所とつながっていて、作詞を手がけている。コンペを経てティアナ・シャオという、中国生まれでアメリカ国籍をもつ少女の日本語詞を書いた。英語詞はティアナ・シャオ自身が書いた。会ったことはないが、合作だ。

ティアナ・シャオという子がすごい。

検索すると、4歳で小学校に入学し、飛び級を重ねて15歳で名門コーネル大学に入学した。現在は同大で数学を学ぶ最年少17歳の2年生だ。四川・広東語、英語、仏語、日本語を操る天才少女というから、話題性には事欠かない。

日本で歌手デビューをしたのはもちろん、音楽関係者の目に留まったからだが、彼女は宇多田ヒカルと「デスノート」などのアニメで日本語を覚えたのだとか。「私にとっての歌は、花にとっての水のようなもの。音楽がないと私は乾いてしまう」と、記者のインタビューに答えている。

最初のシングル「Sweet Obsession」(直訳されば「甘い強迫観念」)に姪の日本語詞が入っている。最初の2行「眠れない夜を 持て余しながら/ひざを抱え 鳴らない携帯を見つめてる」に、いかにも今どきの日本の女の子の生態が現れていると感じた。女の子は彼に恋焦がれている。「何ヲシテイルノ?声ヲ聞カセテ…」。それさえ言えずにメールを待ち続ける。かみ合わない恋の歌だろうか。

印税が入る道を選んだといっても、姪が作詞家の卵から孵れるかどうかはこれからの努力と運次第。今回の作詞デビューも、CDが売れなければカネにならないのだ。

ファーストシングルは1月に発売された。パッとしないうちにセカンドシングルが発売される段取りらしいから、オジとしては、ここは「Sweet Obsession」を宣伝して姪を応援したい――そんな心境である。

2008年4月9日水曜日

アリオスで「能」を見た


いわき芸術文化交流館「アリオス」が4月8日、1次オープンをした。「こけら落とし」はいわき市民のための能を知る会主催による「アリオス完成披露能公演」である。この半年の間に能・狂言関係書をあさるようになったので、「『百読』は一見にしかず」と春の嵐のなかを出かけた。

なぜ「能」か。自分でも不思議なのだが、自然と人間の関係について思いを巡らし、江戸時代の俳僧一具庵一具(1781―1853年)について調べてきたら、そこへたどりついたというしかない。

一具は出羽の国で生まれ、磐城平山崎の専称寺で修行した旧浄土宗名越派の坊さんだ。幕末、江戸で屈指の俳諧宗匠となった。

一具が仲間の俳人の句集に書き与えた序文に「瑜俰(ゆか)論に腰舟とあり…」というくだりがある。「瑜俰」は「ヨーガ」だと分かるが、「腰舟」は何のことやら――。一具を調べるようになって二十数年たっても疑問符はついたまま。

そこへ、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」に市立いわき総合図書館がオープンしたから、本の森に分け入って調べを再開した。「腰舟」はどうやら仏陀の奇跡(超能力?)の一つらしい、ということが分かってきた。そうして仏教関係の本を読みあさっているうちに、「能」と出合ったのだった。

この世にあるものはすべて仏性がある、すなわち「山川草木悉皆成仏/草木国土悉皆成仏」(法華経「薬草喩品」)の思想が、世阿弥らが活躍した室町時代のころから民衆に受け入れられるようになった、と本は言う。現代の自然環境問題を考えるときにも、この「山川草木悉皆成仏/草木国土悉皆成仏」の考えは無視できない。いや、この思想を捨ててきたからこそ環境問題は深刻になってきた、といってもいい。(宮沢賢治をこの視点から論じてもいいように思うが、今は深入りしない)

で、この「薬草喩品」を取り上げた能がある。「芭蕉」だ。一具・自然環境―仏教―能・狂言ときて、金春禅竹作とされる「芭蕉」を知った。知ったのはいいが、能を生で見たことがない。そこへ、アリオス完成披露の能公演があると聞いて飛びついた、というわけだ。

前置きが長くなった。
公演の演目は「羽衣」(能)・「舟渡婿」(狂言)・「小鍛冶」(能)の三つ。素朴に感じたままを記すと、次のようになる。
① 重力を感じさせない歩き方(「羽衣」)=無重力空間の宇宙遊歩のような(重いものを軽く、軽いものを重く?)
② 現代にも通じる掛け合い(「舟渡婿」)=落語やかつてのドリフターズのコントを連想する(現代の笑いは狂言からきている?)
③ 序破急の見事さ(「小鍛冶」)=ラベルの「ボレロ」を思い出す(能をそう評する人もいる)

「アリオス」は完成間際に一度、館長らの案内で見て回ったことがある。それから半年余。フリーになって、たまたま1次オープンの日に能公演を見ることができた。

ここは「アリオス」に敬意を表して、ちゃんとネクタイをしめていこう――そんな気にさせるだけの期待の高さがあった。やはり、「『百読』は一見にしかず」。着飾った中高年の人たちを見るのも久しぶりだった。

旧平市民会館の緞帳(棟方志功原作)が縮小された陶板となってロビーに飾られてある=写真。平市民会館時代に、コンサートなどで訪れたことがある人には懐かしい。記憶を大事にする「アリオス」、その意志の表れと勝手に受け止めることにした。

2008年4月8日火曜日

ソメイヨシノと菜の花と


ふだんは早朝のわが散歩コースから眺めるだけのいわき市北部浄化センターだが(単に遠いので)、夏井川の堤防に沿って植えられた約60本のソメイヨシノの花がほぼ満開になった。堤外、つまり川に面した土手と高水敷には職員が種をまいた菜の花が、これまた満開だ。

土手の黄色と堤防の上のピンク色=写真=と、全長200~300メートルに及ぶ横長の風景画に、毎日その辺りを散歩している人はついつい吸い寄せられる。私もここ何日か、すっかり寄り道をするようになった。

晴れて穏やかな日曜日、6日の午後遅く――。その日は夏井川渓谷で朝を迎えたので、ソメイヨシノと菜の花に対面するのが夕方近くになった。

堤防に立つと、河川敷に人がいっぱいいる。
犬を連れて散歩する人、連れ立って歩く夫婦、自転車の少年、菜の花にカメラを向けている若者…。

休日にこれだけの人の往来を見るのは初めてだ。遠くから来た人もいるだろうが、おおかたは近所の人に違いない。近くに花がきれいなところがあるよ――。それで、足を運んだように思われる。私同様に。

浄化センターはその役目からして、近くにあっても市民の意識からは遠い存在だ。が、この季節は多くの市民が堤防や河川敷から花に目を向ける。そのために浄化センターの職員は花の世話をしている、といってもいい。

今日、8日は夜明け近くに風が強まり、雨がパラつき出した。傘をさしてまで散歩する勇気はない。「花散らし」の雨にならないといいのだが、そして今日はいわき芸術文化交流館「アリオス」の1次オープンの日だが、と思いつつ、

「たのしみは 空暖かに うち晴れし 春秋の日に 出(い)でありく時」(橘曙覧)

などと、しょうことなく口にしたりして朝を迎えた。

2008年4月7日月曜日

アカヤシオ咲く


夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)のアカヤシオ(岩ツツジ)が咲き出した=写真。4月5日の夕方、無量庵へ着いたら対岸の山がところどころピンクに染まっていた。咲き出しにしては花の量が多い。この週末の好天が一気に開花をうながしたのだろう。

翌6日は朝5時に起床する。しばらく部屋で過ごしたあと、無量庵の庭の畑にホースを延ばし、うねにたっぷり水をやって「絹さやえんどう」と「はつか大根」の種まきの準備をする。夜も晴れていたから、庭には霜が降りている。鼻水が出る。足のつま先が痛くなる。それほど空気が冷たい。

そうこうするうちに、カミサンが平から列車でやって来る時間になった。私が土曜日に無量庵へ来ると、用事がない限りはカミサンが翌日曜日、磐越東線の一番か二番列車で江田駅までやって来る。時間に合わせて駅へ車を走らせるのが、ここ十数年のならわしになった。「夫婦円満の秘訣は一緒にいない時間をもつこと」だそうだ。

一番列車は7時5分に着く。その直前に駅の下の県道わきで待機する。カミサンが降りて来る。江田駅で降りるのは、よほどでない限りカミサン1人だ。

無量庵へ戻ると、畑仕事を再開する。カミサンは部屋を掃除する。アカヤシオの咲く時期になると、客人が増える。少しは部屋をきれいにしておかなければとなるのは当然だ、私がしないから。

それと、朝の10時前後になって花見(もちろんアカヤシオ)のためのマイカーが詰めかけ始めたら、畑仕事などやっていられない。好奇の目にさらされるのがいやだから、早々と予定の畑仕事を終えて家の中に退散する。農家がそうであるように、「朝飯前の仕事」が大事なのだ。

夜は酒を飲む。風呂は朝に入る。アカヤシオの咲く時期は、「展望風呂」がかえって観光客から展望される(のぞかれる)ようになる。6日も畑仕事を終えて、身をかがめて風呂に入り、さっさと出た。

あとは「動物園のサル」にでもなったような心境で過ごす。ずかずか庭へ入り込む人がいる。家の中を見て「あら、人がいる」などと声を発する人がたまにいるのだ。

6日の客人は、娘が3人の若い友人一家。晴れて風も弱いので、庭にいすを持ち出し、3人が遊ぶのを見ながら、私はひなたぼっこをした。早起きしたので居眠りもいいかと思ったのだが、孫のような娘たちのふるまいが楽しい。

隣の広場でもひっきりなしにマイカーが現れては、人が入れ替わり立ち替わりしている。道路にも車があふれる。アカヤシオが咲き出した最初の週末がこれだから、満開になる今週末(12、13日)は、天気次第では大混雑になるだろう。

ついでながら、3月31日にアップした「夏井川渓谷の駐車場」のことだが、「1週間で災害復旧工事が終わるのは解せない」といった意味のことを書いたら、やはり1週間で終わるはずはなかった。標識自体、工事終了日が「3月31日」から「7月14日」に修正されていた。

2008年4月6日日曜日

いわき絵のぼり


まずは、いわき市教委発行の『いわき市の文化財』から。「いわきには男子の誕生を祝って、端午の節句に、子供の母親の実家から絵のぼり(こばたともいう)を贈るならわしがあった。男子が強くたくましく育って欲しいという願いをこめた縁起物である。五月の空に武者絵のはためく風情はいわきの風物詩でもあった」

4月4日のNHK「ワンダフル東北」を見た。タイトルは<ここに技あり・いわき▽風を読む干物づくり▽歴史を守る宮大工▽のぼり作り>。いわきの優れた職人とその技を紹介していて、引き込まれた。

<のぼり作り>では旧知の石川進・貞治さん兄弟が登場した。平の郊外にある石川さんの工房が映る。一見、農家風である。やがてカメラは石川さん兄弟と進さんの息子さんの3人が「こばた」の武者絵を製作している様子をとらえる。

映像を通じてとはいえ、初めて兄弟の仕事の現場を見た。貞治さんが描いた下絵に3人が色を染める。進さんが「ぼかし」という技法について説明する。グラデーションのことだと思うが、なにか格闘しているような、張り詰めた雰囲気がある。真剣勝負と言い換えてもいい。茶の間で見ているこちらも、思わず姿勢を正した。

やがて貞治さんが新しく考案した武者絵=写真・NHKテレビから=の話に移った。超縦長の「こばた」に絵を描くことの難しさと、それゆえの創意工夫、やりがい。貞治さんの筆が力強くはねる。そして、「2代目石川幸男」襲名の話。

「石川幸男」とは、兄弟の父親のことだ。生前はいわき市の無形文化財(いわき絵のぼり製作技術)に認定されていた名人である。その名を、弟の貞治さんが襲った。進さんの配慮も含めて拍手を送りたい。

そういえば、同じ絵のぼり製作技術でほかに2人(高橋晃平、宇佐美シヅイさん)が無形文化財に認定されていたが、いずれも亡くなった。さいわい後継者がいる。宇佐美さんの場合は孫が伝統を受け継いだ。旧知の父親と飲み屋でばったり会ったとき、「私の息子がその孫」と知って、いささか驚いた。

再び『いわき市の文化財』から。「戦後、材料難と社会情勢の変革の中で製作機会が減少し、技術者が極端に消滅してしまった」。新しい後継者はそれこそ、先代から受け継いだ技能を伝承し、「健全な製作を続ける貴重な存在」だ。
数が少なくなったとはいえ、端午の節句が近づくと、いわきの郊外では「こばた」がはためくようになる。間もなくその季節を迎える。

2008年4月5日土曜日

カタクリ無残


いわき市平近郊の里山へ、十数年ぶりにカタクリの花を見に行った。そこは当時から杉林と化していた。光が十分、林床に届くような環境ではなくなっていた。そばの空き地では不法投棄が繰り返されていた。

何度も通った記憶を重ねながら林道を行く。それらしいところで横道に車を入れたら、前方の山の様子が記憶と違っている。そこではない。バックして林道へ戻り、次の横道に着いたら、奥の奥まで沢と空き地と斜面の映像がよみがえってきた。

入り口にバラ線が張られて車の出入りができないようになっていた。奥の沢には不法投棄された冷蔵庫などが転がっている。不法投棄がよりひどくなったのだろう。

杉林に入ると、杉の落ち葉が分厚く堆積していた。人の手が加えられているような気配はまるでない。「カタクリは」と見るのだが、目に付くのはアオキの芽生えばかり。

あちこち目を凝らしているうちに、やっとカタクリの小さな葉を見つけた。杉が育って葉が密生し、その落ち葉が邪魔になって、いよいよ光が林床に届かなくなったのだろう。数が激減している。足の踏み場もないほど群生していたのが、あっちにちょっと、こっちにちょっと。花を付けているのはごくわずかだ(写真)――これではカタクリ群生地とはとても言えない。

十数年前、「ここのカタクリは滅びるだろう」と感じたのが、その通りになりつつある。それを目の当たりにして「アイド(哀怒)リング」してしまった。

――ただ、人間の勝手な振る舞いがカタクリを滅ぼすのだと認識しつつも、一方では林道でこんな光景に出合って気持ちがやすらいだ。男性が1人、竹ぼうきで路肩の落ち葉を掃いていた。林道がせいせいしていたのはそのためだったのか。

こうして陰徳を積む人間がいる限り、まだまだ大丈夫だと思った(何が大丈夫かは分からないが)。

2008年4月4日金曜日

いわきの新しい夜景


いわき駅前「ラトブ」の市立いわき総合図書館は、毎月最終月曜日が休館日だ。6階にある産業創造舘も同様で、図書館利用者としては、その日は朝から気が抜けたビールのようになってしまう。

その最終月曜日夜、「ラトブ」の3階で飲み会があった。まだ暗くなる前に「ラトブ」に入ったから、図書館が入居している4、5階の明かりがどうなっているかは分からなかったが、当然消灯されていただろう。とすれば、解体工事中のいわき駅ビル「ヤンヤン」と合わせ、駅前は西側半分が暗く感じられたはずである。

その逆が、図書館の開館日だ。平日は夜9時まで開いている。
ある日の夜、用事があって駅前を通った。闇の中で「ラトブ」の4、5階が煌々と輝いている=写真。その時の感動をどう表現したらいいだろう。

夜の森に迷い込んだ旅人の目の前に現れた光の館。あるいは、夜の海を漂うボートを迎えた光の母艦。ないしは、ノンベエに「おいで、おいで」と呼びかける巨大な誘蛾灯。

これはいわきの新しい夜景ではないか――そう直感的に思った。
新しいランドスケープ(景観)は夜景だけではない。「ラトブ」の4~6階から遠望する阿武隈の山並み、夕焼け、これにも人は目を奪われる。「ラトブ」の高さが新しい風景の視点場を提供するようになったのだ。オープン直後には三脚を立てて山に沈む夕日を写真に納める人がいたが、さもありなん、だ。

ペディストリアンデッキが完成すると、ストリートミュージシャンが「ラトブ」の夜景をバックに演奏する、なんてことがあるかもしれない。デッキはすると、デートスポットにもなるだろう。夏は夜景を生かしたイベントを――なんて、ついつい考えてしまうのだった。

2008年4月3日木曜日

サクラ咲く


今朝(4月3日)は少し早めに散歩へ出かけた。

【コハクチョウ】いつものように平中神谷と塩の境に立って、双眼鏡で夏井川に残留しているコハクチョウを確認する。「左助」「左吉」「左七」のほかに、幼鳥1羽がMさんにえさをもらって食べていた。

下流へ向かって岸辺のサイクリングロードを歩いていると、堤防の上からMさんが車を止めて話しかけてきた。
「(3羽のほかに)1羽が残った」
「幼鳥ですか」
「(うなずきながら)普通より小さい」
「体力がないんですかね」
「飛べるんだけど、どこかけがしてるようなんだ。帰って行くのは無理だっぺ」」

Mさんの世話で体力が回復することを祈るしかない。そうなれば、これから何度か立ち寄るだろう、南からの北帰行グループに合流して飛び立てるかもしれない。

【ソメイヨシノ】国道6号バイパスの橋の下をくぐり、さらに進む。市の北部浄化センターがある。センター前の堤防は菜の花が満開だ。センターの敷地のはずれまで行って、堤防沿いに植わってあるソメイヨシノの本数を数える。およそ60本。「百本桜」ではなかったが、やはり見ごたえがある本数だ。

見ると、チラホラ花が咲いている=写真。犬を連れて散歩をしている男性がケータイをかざして写真を撮っていた。私もデジカメで「パシャパシャ」やる。
ときどき顔を合わせる「散歩仲間」のおばさんがあいさつをして通り過ぎる。
男性が「咲きましたね」と声をかける。
男性もやはりサクラの開花を待望していたのだろう。

堤防の上のピンクと土手の黄と、間もなくここは鮮やかな絵の世界になる。

【サイクリニスト】堤防を上流へ向かって歩いていると、市役所OBのHさんが自転車でやって来た。
「塩のソメイヨシノはどうですか」
「駄目だね。天狗巣病にやられて」
咲くことは咲くが、パッとしない――ということか。
ところで「どちらへ」
「仁井田浦の方へタラボをチェックに」

サクラが咲き出すと、ふらふらと浮かれ歩きたい気分になってくる。Hさんも「歩き神」にそそのかされたクチなのだろう。

そう言えば、堤防の近くにあるTさんの家の「四季咲きサクラ」もチラホラ花を付け始めた。

還暦同級会


「載ってる」。カミサンが4月2日付の福島民報を開いて言った。
中面に「同級会」欄があって、田村市(旧常葉町)の常葉中昭和38年度卒生の記念写真(2月9日撮影)が掲載されている。幹事のS・H君が投稿した=写真。

「還暦祝いを兼ねて同級会を郡山市の磐梯熱海温泉栄楽館で開きました。県内外から合わせて66人の懐かしい顔がそろいました。/魔よけの赤いストラップをさげて記念写真に納まった後、祝宴。思い出話に花が咲きました。少々飲みすぎの同級生もいたようで、翌日部屋の鍵がわからなくなり大騒ぎをしたりと、大いに盛り上がりました。再会を祈念して散会しました」

1次会、2次会のあと、部屋へ戻って有志が3次会を敢行した。「少々飲みすぎの同級生」とは私のことで、「翌日部屋の鍵がわからなくなり大騒ぎ」をしたのも私だった。還暦間際になっても、やることは変わらない。

「宴のあとの頭痛と反省の朝」だったが、「胸に深く刻み込まれた宴の夜」でもあった。

夫と死別や離別を体験した同級生がいる。一様に「いろいろあったが、元気でやっている」と笑顔を浮かべた。

「花すすき誰もかなしみもち笑顔」

私はこんなとき、いつも1989年に亡くなったいわき市の俳人、故志摩みどりさんの句を思い出す。そして、舌頭で静かに句を転がしてみる。「誰もかなしみもち笑顔」。そんな再会が今回もあった。

2008年4月2日水曜日

菜の花を摘まないで


わが散歩コースでソメイヨシノの花を楽しもうと思ったら、まずいわき市北部浄化センターの「百本桜」だ。千本はないから百本にしたが、数えたわけではない。百本もないかもしれない。いずれ数えようと思っている。

その敷地の外、夏井川の堤防の菜の花が満開になりつつある。ある日、小さな札が立った=写真。「お願い/この菜の花は堤防の美化のため、種を蒔(ま)きました。大事に育てていますので、花をつまない様ご協力ください(またこの花は観賞用で食用には適しておりません。)/北部浄化センター」

前に夏井川の堤防で摘み草をする人がいる話を書いた。いるどころか、かなりの人が堤防に来て菜の花を摘んでいることが、これで分かる。

ここの菜の花は整然と生えているので、誰かが種をまいたのだろうとは思っていた。
3月19日にはごみ収集車が河川敷に下りて、作業員が大水の置き土産(ごみ)を片付けていた。

なるほど、こうした努力があって、堤防はきれいに保たれているのだと感じ入ったものだ。

堤防の菜の花は、人為的に種をまいたものと、大水がもたらしたものと二つある。摘むのも、食べるのも人の勝手だが、年に何度かある大水は堤防に土の栄養分を運ぶと同時に、重金属などの汚染物資も残す。

菜の花はだから、見るだけにとどめるのが無難ではないだろうか。ソメイヨシノの花が咲き出すと、いよいよ見ることが楽しくなるよ。

2008年4月1日火曜日

そして、いなくなった


いわき市平塩の夏井川に逗留していたコハクチョウが3月31日、幼鳥の1羽を除いてとうとう飛び立った――。

その3日前の3月28日早朝、ふだんとは逆コースで散歩を始め、堤防に立ってコハクの数をカウントしたあとに歩き始めると、後ろから「おはようございます」と聞きなれたMさんの声がした。

Mさんは1年中、対岸の「山崎の里」から軽トラを駆ってコハクへえさをやりに来る。冬鳥のコハクチョウがなぜ1年中か? 翼を折って飛べなくなった個体がいるのだ。残留年数の多い順からからいうと、「左助」「左吉」「左七」(「左七」はやはり飛び立てなかったらしい)。

いつものコースだと、えさやりを終えたMさんの軽トラに、すれ違いながら会釈をする。あるいは散歩の時間が少し早くなると、Mさんがあいさつ代わりに後ろからクラクションを鳴らしてえさやりに向かう。秋に3羽の仲間が飛来し、どんどん数を増すと、Mさんは忙しくなった。いつからか奥さんもえさやりに加わった。それが冬中続いた。

軽トラを止めたMさんが語る。
「左助が岸に上がっていたので、『左助、寂しくなるけど我慢しろよ』って言ったら、『ガオッ』って鳴いたんだ」
「そうですか。平窪(塩の上流の越冬地)では(3月24日に)完全にいなくなったようですね」
「そう、(夏井川白鳥を守る会から)電話がかかってきた」
「ここでは3羽がいるから、引きずられて残っているんですかね」
「今朝も11羽がやって来たんだよ」と、助手席の奥さん(この時点では、数は40羽。それが29日には半分になり、30日には4羽になった。31日に確認すると、残留組の3羽と幼鳥1羽だった=写真)。

ということは、数こそ前の日と変わらないが、個体は入れ替わっていることになる。塩の何羽かが北へ去り、もっと南にいた何羽かがやって来て羽を休める、という構図だ。

いわきを去ったコハクチョウの軌跡はどうか。誰も分からないが、ヒントになる本がある。『鳥たちの旅――渡り鳥の衛星追跡』(樋口広芳=NHKブックス)だ。

1990年4月10日、北海道のクッチャロ湖で送信機をのり付けされたコハクチョウの「のり子」はサハリンへ渡り、大陸のロシアへ飛び、北極海に注ぐ巨大河川「コリマ川」を北上して河口に到達し、やや北東部に移ったところで通信が途絶える。そこは「大小何千もの湖沼からなるツンドラ地帯の一大湿地」、つまりコハクチョウの繁殖地だ。

「クッチャロ湖からこの繁殖地までのり子が飛んだ距離は3083キロ、3週間あまりの旅だった」と同書は言う。ちなみに「のり子」は1986年から毎年、長野県の諏訪湖に飛来し、送信機を付けられた1990年の秋には幼鳥1羽を連れて現れた。色足環で確認された。

ハクチョウの寿命がどのくらいかは分からない。が、北の繁殖地と南の越冬地をハクチョウがどう往来するのかは、この本から少し分かった。長野もいわきも、シベリアから見たら同じような距離にある越冬地だ。

ひとまず、残留組の3羽と幼鳥1羽を除いて、人間と同じく年度末に塩のコハクチョウは去った。

心配なのは幼鳥である。体力がないのか、けがをして飛べないのか、単にノンビリ屋なのか。去年も南から北帰行中に立ち寄って何日か滞在するグループがあったから、そのグループがやって来たときに同行できればいいのだが――。