2008年4月17日木曜日

天日燦として焼くがごとし


4月中旬に入って、日の出が5時を切るかという時節になった。早朝散歩の時間も、それで少しずつ早くなっている。

6時。家から道路へ出ると、もう太陽が屋根の上に昇っている=写真。どんな心の作用か分からないが、なぜか焦ってしまう。

なぜ焦るのだろう。心当たりは一つ。夏井川渓谷の無量庵に泊まった翌日曜日、日の出前に畑仕事をする。太陽が昇り出したときには、もう仕事が終わっている。どうやら肉体をフル動員した朝飯前の労働が、わが家にはない。その落差が焦りにつながるようなのだ。

詩人山村暮鳥はヨシノ・ヨシヤ(吉野義也=三野混沌)の詩句「天日燦(さん)として焼くがごとし、いでて働かざる可(べ)からず」にとても感動したらしい。1,400行にならんとする自分の長編詩「荘厳なる苦悩者の頌栄」のタイトルのわきに、この詩句を引用しているのはその表れだろう。太陽の下、大地に二本足で立って、額に汗して、肉体をフル動員して働く。それはそれで大切なことだ。

が、そんなことをしたらすぐ熱中症にかかってしまう。私はつたない家庭菜園の経験からそのことを知っている。「天日燦として焼くがごとくなる前に、いでて働かざる可からず」か、「天日燦として焼くがごとし、家で寝ていよ」のどっちかなのだ。

労働への過剰な賛辞が暮鳥の個性と限界を示しているのではないか。朝、太陽に遅れをとると、いつも焦りとともに暮鳥の感動癖が思い起こされる。同時に、ヨシノ・ヨシヤの盟友、猪狩満直のこんな言葉も。「田園詩人よ。君等は勝手に田園を賛美するがいい。労働を賛美するがいい。円光をきせるがいい。自然美に酔ふがいい。僕はあっさり君達と手を切らう」
まあまあ、そうムキにならないで――。昭和13年、40歳で亡くなった若い満直の顔を虚空に浮かべて、私は言葉をかけてみる。夏井川の河原ではキジが鳴き、ウミウが橋を飛んで渡り、上空ではヒバリが歌っている。自然美に酔ってもいいだろうよ、と。

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