2008年5月31日土曜日

糠漬け再開


大型連休に入るあたりのある日、塩のふとんをかぶって冬眠していた糠味噌を、「おい、起きるんだよ」と胸の内で言いながら目覚めさせる。甕に入った糠床は米糠がはぐくんだ乳酸菌の宝庫。微生物が生きている「浅漬けのベッド」である。

アイスピックでガチガチになった塩のふとんにひびを入れる。塩のかけらを、そろりそろりとはがす。糠味噌に手を突っ込んでかきまわす。糠床は冷えびえとしている。それから、糠床に新しい糠や塩やタカノツメを加え、ダイコン葉などを捨て漬けにしたあと、同じダイコンの白根を四つ割りにしたのを入れる。糠漬けの再開だ。

冬の白菜漬けと違って、糠漬けは「漬ける」というより「入れる」、そしてキュウリなどは次の食事時間に「すぐ取り出す」=写真=といった感じが強い。物によってはそんな早さで食べごろになるから、頭は絶えず野菜と糠床を思いやっていなくてはならない。

最近、いわき総合図書館から借りた本を読んで分かったことがある。福岡県は糠漬けの本場だという。それが米とともに東へ、東へと伝わって、東北地方のいわき(その先まで行っているだろうが)まで糠漬け文化がやって来たのだ、おそらく。

年中、糠漬けができる九州と、冬は糠床が冷えるためにたくあん・白菜漬けに切り替えるしかない東北と、地域によって漬物文化のかたちは異なる。阿武隈高地のわが実家には、糠床はなかった。夏は味噌漬けと、そのつどつくる塩の浅漬けだったに違いない。

糠漬けは水稲を起源とする「弥生文化」。ゆえに「米の道」は「糠味噌の道」だった、と言ってもいいのではないか。九州に住む作家梨木香歩さんが「糠床小説」(『沼地のある森を抜けて』)を書きおろしたのも、濃厚な糠漬け文化と乳酸菌にそそのかされてのことに違いない。

「――その昔、駆け落ち同然に故郷の島を出た私たちの祖父母が、ただ一つ持って出たもの、それがこのぬか床。戦争中、空襲警報の鳴り響く中、私の母は何よりも最初にこのぬか床を持って家を飛び出したとか」(『沼地のある森を抜けて』)

糠床は非常時に、真っ先に持ち出す家宝である――100年も、200年も同じ糠床を使っている家では、そうらしい。

2008年5月30日金曜日

「左助」がいない


朝、いつもの時間より遅れて散歩へ出た。平中神谷(かべや)と下神谷の住宅地を抜けて夏井川の堤防へ着いたのが6時50分くらい。

先日、ここで十数年ぶりにカッコウの鳴き声を聞いた。遠回りしてでもカッコウの声を聞きたい――。浄化センターのある下流へ向かって歩き出すと、すぐ「おはようございます」。後ろから聞きなれた声がした。翼をけがしてシベリアへ帰れなくなったコハクチョウに、毎日欠かさずえさをやっているMさんだ。

Mさんは奥さんを助手席に乗せて、対岸から軽トラで毎日、堤防の上の道をやって来る。いつもだと、とっくにえさやりを終えて帰宅している時間だ。問わず語りに「左助がいない」と言う。「わがままで孤独癖がある」という左助を探して堤防を往復したために、帰宅する時間が遅くなったのだ。

残留コハクチョウは4羽。古い順から「左助」「左吉」「左七」の成鳥3羽と、今年シベリアへ帰れずに残った幼鳥の「さくら」だ。「さくら」は体がかなり小さい。体力がないところへけがでもしてか、北帰行がかなわなくなったのだろう。

Mさんは続けた。「河口まで行って来たけど、左助はいなかった。きのう(5月25日)の夕方は浄化センターの向かい(右岸)にいたのに」。私も夕方散歩をして、それは確認している。

「上流の仲間のところへ戻ったんじゃないですか」「上には3羽がいるだけ」=写真=とMさん。平・平窪の越冬地から流れ着いて、平・塩~中神谷をコハクチョウの第二の越冬地にしたパイオニアだ。この7年の間に何度も左助は姿をくらましている。

「夏になると茂みにしけこむことがあるから、今度もそうかなぁ」。左助を熟知しているMさんは、私と別れると車をゆっくり走らせながら、大声を出して呼びかけた。「サスケー」。声を聞いたら茂みから姿を現すはずだが、そんな気配はない。

左助は年を取って、左脚が悪くなった。カクンカクンとかしぐように歩く。Mさんはそれこそハクチョウになって空から探したい心境だろう。

2008年5月29日木曜日

ウグイスさえずる「草野の森」


いわき市平下神谷(かべや)地内の国道6号バイパス終点「神谷ランプ(本線車道への斜道)」に「草野の森」(約800平方メートル)がある=写真。かたやバイパス、かたや6号本線にはさまれた、住宅地のそばにある広場の、小さな半月形の「緑の小島」だ。

ある日早朝、いつものように散歩の途中で立ち寄ると、まだ高さ2~3メートルの若い「照葉樹の森」の中からウグイスのさえずりが聞こえてきた。ウグイスが縄張りにするまでに森が育ったのだ!

バイパス全線開通を記念して、平成12(2000)年3月、ここに公園が整備された。ランプのり面に、植物生態学者の宮脇昭横浜国立大学名誉教授の指導で、地元の草野、平六小の児童や地区民らがポット苗を植えた。

宮脇さんは「ふるさとの木によるふるさとの森」の再生を願って、精力的に活動を展開している。基本は、その土地本来の潜在自然植生を中心に、その森を構成している多数の樹種を混ぜて植樹する「混植・密植型植樹」だ。それを、いわきのこの地でも実施した。

半分は森、半分は広場の公園に設けられた写真の樹種識別盤によると、植えられたポット苗はタブノキ、スダジイ、アカガシ、アラカシ、シラカシ、ハマヒサカキ、ネズミモチ、ウバメガシ、ウラジロガシ、モチノキ、ヒメユズリハ、ヤブニッケイなど約25種。植樹から8年がたって若い森になりつつあるとはいっても、落葉広葉樹が広がる北の山国で生まれ育った私には、照葉樹はさっぱり分からない。

いわきの海岸部や平地の潜在植生は、照葉樹だとは承知している。が、見て分かるのはヤブツバキ、トベラ、マルバシャリンバイ、クチナシ、マサキ、アオキぐらいで、タブやカシ類になると識別盤から「これがそうか」と眺める程度にすぎない。

識別盤と地べたの立て札から、寒いときはカンツバキが咲き、少し前はヒラドツツジが周囲を彩るように満開になり、今はマルバシャリンバイとトベラの白い花が開き始めたことが分かる。いずれクチナシも香り高く白い花を咲かせることだろう。

「混植・密植」と聞いてすぐ思い出すのは「団塊の世代」だ。一志(いっし)治夫著『魂の森を行け』(新潮文庫)に「高木や亜高木など何種類もの木を不規則に植えることで、競争、我慢、共生をさせ、高木、亜高木、低木、下草が豊かに育つ森をつくる」とある。要するに「競争・我慢・共生」の矛盾が木々に活力を与えるのだ。

「草野の森」を安易に人間社会にたとえるわけではないが、これは「わが人生の縮図」にして「生涯学習の森」である。1歳の孫が大人になるころには、私は此岸と彼岸のどちらにいるかは分からない。が、間違いなく仰ぎ見るような森になっていることだろう。ウグイスのさえずりから、そんなところまで時間が飛んだ。

2008年5月28日水曜日

三春ネギ苗定植


三春ネギ苗に黒い虫がついて葉を食害した、きのう(5月27日)の話の続き。

週末に夏井川渓谷の無量庵へ出かけ、庭の菜園に設けた苗床で三春ネギを育てた。3分の1強はカブラヤガ(あるいはタマナヤガ)の幼虫に食いちぎられたが、残りはなんとか太さが鉛筆大になり、丈も30センチメートル前後に生長した。

5月18日に定植用の溝を切った。スペースは4畳半一間ほど。そこにうねを四つつくって溝に石灰をすきこんだ。1週間後の25日朝、夜来の雨が上がったところで無量庵へ車を飛ばす。苗床を見るとやはり黒い虫が1匹、ネギ苗に巻きついていた。すぐブチッとやる。

苗床はせいぜい座布団1枚分だ。移植ベラを土にさしてグイッとやり、土塊をほぐして苗をばらす。太い苗、細い苗を選り分けたあと、太い苗を溝に並べる。

3条は太い苗を少し離して、最後の1条は細い苗を束ね、束ね植えた=写真。細い苗は芽ネギとして食べられればいい、捨てるのはもったいないから――。といえば聞こえはいいが、なんとなくけちくさい精神が作用したらしい。ネギが収穫期を迎える秋までの「つなぎ」になれば、と。

わが生まれ故郷の田村市常葉町、広く阿武隈高地では8月、「曲がりネギ」にするために「やとい」という斜め植えをする。もちろん「一本根深ネギ」も作っているから、すべてそうではないが、「曲がりネギ」に関しては今が仮の定植、8月が本定植というところか。

三春ネギ苗を植えたことで今年も食べながら種を採る準備は終えた、というだけでなにやらホッとする。あとは太陽と土と雨と人間の「四者会談」がうまくいくかどうかだ。

2008年5月27日火曜日

三春ネギ苗の黒い虫


「三春ネギ」の苗は、3月末あたりまでは順調に生育した。

秋に苗床をつくり、種をまいた。芽を出したネギ苗はかじかみながらも冬の寒さを耐えた。これからぐんぐん大きくなるぞ、と思った4月半ばに「あれっ」、目が点になった。苗床の中心部分がスカスカになっている=写真。地際部分からネギ苗が切れて散乱しているのだ。

おまけに、ネギ苗には3~5ミリほどの黒い虫が巻きついている。大根やカブにつくカブラハバチの黒い幼虫なら、手を触れるか触れないうちにポトリと落ちる。そうはしない。ということは、カブラハバチではないのだ。

とりあえず黒い虫をつまんでつぶす。それでOKではない。こういう虫は、次から次に地面からわいてきて波状攻撃を仕掛ける。こちらも30分、1時間と間をおいてチェックする。そのつど黒い虫がネギ苗に取りついている。それをつまんでブチッとやる。

気づいてからほぼ1カ月半、週末に夏井川渓谷の無量庵(わが菜園のあるところ)へ行くたびに、まず黒い虫がネギ苗に取りついているかどうかを見る。と、必ず何匹か苗にからみついている。すかさず捕殺する。つぶした数は、合計すれば100や200ではきかないかもしれない。

で、虫の正体は? ネットで検索し、いわき総合図書館から幼虫図鑑などを借りて調べ、ルーペで見たりした結果、色はいささか違うのだが「ネッキリムシ」(根切り虫)の一種、カブラヤガ(あるいはタマナヤガ)の幼虫らしいことが分かった。初齢虫は夜昼なく活動して野菜の葉を食害する。

ネギ苗床のへりの土を指でまさぐっていたら、黒い虫の何十倍もの大きさになった「ネッキリムシ」が1匹丸くなって出てきた。これも共犯者だ。

カブラヤガ(あるいはタマナヤガ)の攻撃は今年初めて体験した。前も「ネッキリムシ」の被害に遭ってはいたが、歩留まり率からするとたいしたことではなかった。今年は3分の1以上はやられただろう。週末菜園の限界、といえば限界だ。

それでも残ったネギ苗は5月に入るとグングン太く大きくなった。定植の目安は鉛筆大の太さ。いよいよ、である。

2008年5月26日月曜日

乾し海苔


「焼き海苔(のり)」が当たり前になって、香り立つような「乾し海苔」とは無縁になった。物の本には、焼き海苔は乾し海苔中の最上品の裏表をていねいに焼いたもので、香気が高く、風味は優雅――とある。確かに、乾し海苔を焼いた、というよりあぶったときの香りと食味はなかなかのものだが、市販されている焼き海苔がそうだといわれると、判断がつきかねる。見た目は美しくても、香りをあまり感じないのだ。

「乾し海苔」は、保管も面倒だ。缶に入れておかないとすぐしける。入れていても湿気の影響は受けるから、食べる段になって火にあぶる。すると、しんなりしていたのがパリッとなる。口に入れると香りがある。かみごたえもいい。

それは、しかし私の記憶では昭和30年代前半までのこと。いわきで仕事をするようになってからは、食べる海苔はことごとく焼き海苔だ。あの香り高い乾し海苔はないものか――ずっと思い続けていたのが、ひょんなことから手に入った。カミサンの友達が宮城産の乾し海苔を持ってきてくれたのだ=写真。

火にあぶってパリッとさせる。かむ。もちもちっとする。おむすびを包む。ガムのように海苔が伸びる。弾力がある。

乾し海苔を焼き海苔に仕立て直したものもある。再びカミサンの友達が持ってきてくれた。産地は相馬市。松川浦で取れた海苔が原料だろう。焼き海苔だから火にあぶる必要はない。乾し海苔の食感半分、焼き海苔の食感半分、といったところか。

『いわき浜紀行』(平成14年・うえいぶの会刊)に故和田文夫さんが「いわきのノリ」を書いている。それによると、いわき地方では昭和の初めころ、地物の「永崎海苔」、あるいは「横内海苔」(久之浜)を行商する人がいた。いわきの地海苔は――いちどは食べたいものだが――すたれたか、あっても自家用に細々と生産されているだけにすぎなくなったことだろう。

私はネギに興味があって、「一本太ネギ」ではない地ネギ(たとえば「三春ネギ」)を栽培している。種を採って、育てた苗を植える――それと同じで、海苔も個性のある食品をとなれば、「地海苔」を探すしかない。ローカルに徹して、時間をかけて(情報が少ないので)、少しずつ。

2008年5月25日日曜日

カッコウが鳴いた


いつものように5月24日朝6時、夏井川の堤防へ出ると、いきなり耳に届いた。「カッコー、カッコー」。十数年ぶりに聞くカッコウの鳴き声だ。空は曇り、海の方は霧も出ているようだが、心は急に晴れやかになった。

国道6号バイパスの終点・夏井川橋とその下流・六十枚橋の間の右岸、平荒田目(あっため)方面=写真=から朗々とした声が聞こえる。屋敷林か電信柱のてっぺんで鳴いているに違いない。双眼鏡で探すが、姿は発見できなかった。

前に聞いてはっきり覚えているのは、平成元(1989)年5月だ。霧に視界を遮られながら熊野大権現が鎮座する御斎所山(いわき市田人町)の頂上へと参道を歩いていると、ふもとの方からかすかにカッコウの鳴き声が聞こえてきた。郭公の初鳴き遠し霧四方――なんてへぼ句が口をついて出た。

そのあとも1、2年はカッコウの鳴き声を聞いた気がするが、定かではない。で、小名浜測候所の生物季節観測データをチェックしたら、観測項目には入っているが平年値も、統計年数も空欄のまま。職員もやはりかなりの年数、鳴き声を聞いていないのだ。

ちなみに福島はカッコウ初鳴日の平年値が5月17日、統計年数が27年で、今年は昨年より9日早い5月14日だった。

5月13日にこの欄でカッコウの鳴き声を聞かなくなって久しいと書いた。カッコウのメスが托卵する鳥の一種、川岸のオオヨシキリは、今や結構な数になった。それをようやくオスが察知したらしい。ただし、「沈黙の夏」にならずに済むかどうかは、オスが夏井川を気にいるかどうかにかかっている。ひと夏、朗らかな「カッコー、カッコー」が聞かれることを祈るばかりだ。

2008年5月24日土曜日

平六小の調べ学習


夏のような暑さになった昨日(5月23日)、平六小で野外学習が行われた。1、2年生は文字通りの遠足だったが、3年生以上は縦割りで班を編成し、学区の「神谷(かべや)の町を歩こう」をテーマに地域を探検した。

「調べ学習」というもので、3年生は「自然」、4年生は「福祉」、5年生は「環境」、6年生は「神谷のよさ」が課題だ。

午前10時前、堤防の上を車で通ったら、夏井川にいっぱい子供がいた。隣組の回覧で「平第六小学校だより」を読んでいたので、遠足=調べ学習とすぐ分かった。「山学校」ならぬ「川学校」である。サケのやな場がある(今の時期は撤去)調練場の広い砂地は、まるで運動場だ。この日だけは川遊び解禁、子供たちの歓声が水辺に響き渡っていた。

堤防の上に座り込んでいるグループもいた=写真。ちょうど対岸の河川敷にキジのオスが3羽いて、毎日、「ケーン、ケーン」と鳴き交わしていることを教える。フィールドノートに書き加えられたかどうかは分からない。が、子供たちは興味津々といった顔つきで耳を傾けていた。

同小ではいわき市小学校教育研究会の委嘱を受けて、「生活科」「総合的な学習の時間」の研究を進めている。その研究の一環として、「神谷の町を歩こう」が実施された。縦割り班編成による3~6年生の異学年交流も、子供たちには楽しみだったらしい。

毎朝、神谷の町と夏井川の堤防を散歩するだけでもさまざまな発見がある。昨日までなかった花が咲いた。夏鳥のオオヨシキリがやって来て鳴き出した。畑の芽ネギが日増しに大きくなる――。子供たちの「神谷発見」を支えるのは、ほんとうは大人たちの「総合的な生涯学習の時間」だ。

2008年5月23日金曜日

キジの縄張り


夏井川の河口に近い平野部は、風景としては空が主役だ。朝夕の散歩の楽しみは空の雲の七変化。堤防の上に立つと、それがよりはっきりする。

その空の下、開けた河川敷でキジのオスがよく鳴いている。わが散歩コースの平中神谷地区(左岸)は堤防のそばまで家が張り付いているが、右岸の平山崎地区は昔ながらの田園地帯だ。河川敷には竹林と畑が連なり、県道をはさんで水田が広がる環境が、キジには都合がいいのだろう=写真。

1羽が鳴くと、必ず少し離れたところで別の1羽が鳴く。それが下流の方まで延々と続く。肉眼では黒い粒でしかないキジも、双眼鏡で見ると、赤い肉だれと気品のある緑黒色の体がよく分かる。対岸ばかりでなく、こちら側に来ているときもあるから、川の両岸が同じオスの縄張りとみてよい。

ある朝6時ごろ、いつものように堤防の上を歩いていると、右岸の3カ所からキジの鳴き声が聞こえた。音源を探ると1羽は畑の真ん中に、ほかの2羽はそれぞれ離れて河川敷の砂地に近い草むらにいる。肉眼でもはっきり見える。

3羽の距離を歩いて測った。AキジとBキジの間は240歩(一歩90センチとして216メートル)、BキジとCキジの間は100歩(同じく90メートル)である。真ん中のBキジの縄張りは、中間で線引きをすると108メートル+45メート=153メートルになる。

少し余裕をもたせて200メートルごとに縄張りがあるとすると、現にその程度の間隔で「ケーン、ケーン」と鳴いているのだが、オスのキジは1キロメートルに5羽、河口まで4キロメートルとして25羽がそれぞれ縄張りを持っていることになる。もう少し狭めて150メートルごとにオスがいるとすると、33羽だ。これはいくらなんでも多いか。

キジが河川敷の自然度を測る物差しになるかどうかは分からない。が、いないよりいるにこしたことはない。河川敷に限って推計すると、夏井川流域全体ではオスのキジ数は335羽になる。上流の滝根町(田村市)と小野町(田村郡)では、夏井川はほとんど河川敷がないからキジはいまいが、なんだか楽しくなる空想ではある。

2008年5月22日木曜日

いわき・遠野の山里を訪ねる(続)


知人がいわきの山里(遠野町)に移り住んだ。どんなところか、遠野へ用事があって行ったついでに夫婦で訪ねた。

前は「定来」だったのが「定住」に替わった。草刈り機と耕運機を買った。草刈り機は隣人に勧められた。耕運機は人力で畑を耕すのに限界を感じたから、という。

隣組はぱらっと10軒前後。近年、倍になったらしい。私が週末を過ごす夏井川渓谷の集落も隣組は10軒だ。

夏井川のV字谷では、家は散在していると言っても狭いところに寄り集まっている。かたや鮫川流域のそこは、なだらかな斜面が遠くまで広がっている=写真。知人の家の近くこそ住宅は4軒あるが、あとはどこにあるのやら。そのくらいそこは開けて見晴らしがいい。

青くかすむのは田人の山並みだと思う、と知人。家の前の畑で一仕事を終えて、夕方、縁側で景色を眺めながら酒を飲むのは最高だね――。私が言うと、知人は「景色がいいから買ったんだ」。

エアコン、テレビ、冷蔵庫などは前の持ち主の物。仏壇と、もらうのを遠慮した耕運機のほかは、ほぼ「居ぬき状態」で手に入れた。

自分に深く沈む夏井川渓谷の無量庵もいいいが、自分を広く解放するそこもいい。カッコウも鳴くだろう――。あとで聞いたら、それらしい声を聞いたという。いよいよ再訪したい場所になった。

2008年5月21日水曜日

「水戸黄門」は見ない


若い漫才コンビやアイドルが出てくるバラエティー番組は、もういい――そんな年代になった。かといって、テレビを見ないですませるほど枯れてはいない。テレビ番組は、基本的には週単位の繰り返しだ。「何曜日の何時からは何番組」と決まっている。見る番組が最近は絞られてきた。

いわゆる夜8時のゴールデンタイムは、晩酌をしながらの視聴ということになる。が、これがなかなか難しい。地デジの何、BSの何と、リモコンをカチャカチャやってもおさまらないときがある。

ゴールデンタイムの中で超長寿番組とくれば、真っ先に思い浮かぶのは「水戸黄門」だ。火曜日にひっかけた(そんなことはない?)NHKの「歌謡コンサート」も長い。「歌のグランドショー」「歌のゴールデンステージ」「歌謡ホール」の時代を足すと、歌謡番組としての歴史は半世紀近くになる。

ちょっと前までは、歌謡番組は見向きもしなったものだが、このごろは見る時間が増えた。BS2の「蔵出し」もちょくちょく見る。三波春夫と村田英雄、三橋美智也と春日八郎=写真=は、子供のころの思い出が重なって懐かしかった。きのう(5月20日)は大泉逸郎の歌をしみじみと聴いた。

「水戸黄門」への反応は、それらとは少し違う。なにしろ親が見ていて若いときからなじんでいる。テーマソングに体が反応する。近所の悠々自適組はついに「水戸黄門」を見るようになったという。生まれ故郷の同級生も1人、春先の還暦同級会で「水戸黄門」を見ていると打ち明けた。

年を取ると食べ物の好みが変わるのは、小さいころ、おひたしなどの老人食を食べていたからだという。昭和30年代ころまでは3世代同居が当たり前だった。お年寄りにはお年寄り用の料理が出た。子供はそれも食べて育った。年を重ねると老人食に変わっていくのは、体がその記憶を呼び覚ますかららしい。

「水戸黄門」にも老人食と同じ原理がはたらくのか。白か黒かの単純な勧善懲悪の世界。白と黒の間には薄い灰色、濃い灰色、その他さまざまな灰色がある。世の中、単純ではないよ――そう思いなしてきたのに、だんだんシンプルな世界に入っていく。あらためて「水戸黄門」は見ないとブレーキをかけるのだが、先のことは分からない。

2008年5月20日火曜日

いわき・遠野の里を訪ねる


大型連休に小名浜で開かれた「いわきの匠と技展」で、「遠野の匠」の一人、木桶樽職人(女性)にタガが緩んだ古い木桶の修理を頼んだ。ご本人はいなかったが、会場にいた息子さんが引き受けてくれた。

後日、連絡があって遠野へ取りに行く。遠野と言っても岩手の遠野ではない。いわき市遠野町。鮫川流域の山里だ。

川辺にある職人の家は一見、普通の民家である。道路から見れば仕事場は地下1階、川から見れば2階建ての1階だ。ご本人に道路側から下の仕事場へ案内される。天井が低い。

「あれつ、蒸し釜じゃないですか」
仕事場にでんと蒸し釜が置いてあった=写真。
「暖をとるのに使ってるの。時々ご飯も炊くんだよ」
「私も昨日(5月18日)、蒸し釜でご飯を炊いたばかりです」

なんという偶然だろう。私は非日常の、お遊び程度の蒸し釜利用でしかないが、ここではちゃんと暮らしのなかで生かされている。

このごろは、蒸し釜を使うすし屋がテレビで紹介されたりするが、庶民の暮らしの場ではすっかり遺物になった。形を説明できて、炊き方を知っている世代も、下は50代後半止まりだろう。面白いことに、東京生まれの人間は蒸し釜が分からない。主に東北限定のローカルな炊飯器だったか。

何年か前、いわき市平で蒸し釜を製造していたという人の話を聞いたことがある。3軒のメーカーがしのぎを削っていて、それぞれどこかに特徴があった。「○×式」と呼ばれていた。福島県浜通りの相双地区はおろか中通り、遠くは山形、岩手県辺りまで貨車で送ったそうだ。瓦製造業者が兼業するところもあった。

ついでながら、蒸し釜は小学生でも使える簡単炊飯器。昔の生活に戻れとは言わないが、原料も燃料も石油を使わない点では立派なエコ炊飯器だ。学校の教材にならないものか――などと、あらぬ方向へ考えが巡った。

2008年5月19日月曜日

蒸し釜炊飯第二弾


夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)の無量庵には蒸し釜がある。朝、それでご飯を炊いた。あらかた焦げてしまった1回目の教訓を生かして、木炭の量を半分にする。米は前回と同じく3合にした。

火力が半減したからか、上竈の温まり具合がだいぶ遅くなった。湯気出しから立ち昇る熱気も弱い。前は15分もするとご飯の焦げたにおいがしたものだが、今回はその時間になってようやく上竈の半分が温まってきたな、といった感じである。

25分が過ぎると、上竈がよほど温かくなってきた。湯気出しに手をかざすと熱い。蒸し釜に耳を近づける。かすかな音がする。ラジカセを止める。どこか土の中からかすかに聞こえるような音。そう、水道管から水が漏れているような音だ。「コポカポ、コポカポ」が、だんだん大きくなって「ゴボガボ、ゴボガボ」になる。

35分経過。「ゴボガボ」が急に静まる。が、白い湯気はみえない。ここは勘と経験がはたらいた。上の湯気出しと下の通気口に蓋をして、むらしにかかる。

羽釜=写真=を取り出して蓋を開けたら、いい具合に炊きあがっている。焦げてもいない。やや軟らかいのは少し水が多かったからだろう。2回目にしてはまずまずといったところか。

燃料の木炭の分量はだいたい分かった。耳を澄ますことの大切さも分かった。あとは白い湯気だが、おそらく米3合では羽釜から湯気が噴きこぼれるまでにはいかないのだ。羽釜の容量にしては少なすぎるのだろう。人が来たときに5合くらい炊いたら白い湯気が噴くかもしれない。次はそうしようと決めた。

2008年5月18日日曜日

田植え最終章


小川江筋と愛谷江筋はいわき市北部の水田を潤すツインの大動脈だ。小川江筋は平野部の夏井川左岸を、愛谷江筋は同じく夏井川右岸をカバーする。

水田に水が張られ、代掻きが行われて、大型連休に始まった田植えも、ようやく最終章を迎えつつある。夏井川流域全体が青々とした稲田に変わったことだろう。

水源の大滝根山(標高1,193メートル=わが生まれ故郷の山)から始まる夏井川の、この時期の流れを想像してみる。

石灰岩地帯からしみ出した水は小さな渓谷を刻み、里の川となって、滝根町(田村市)や小野町(田村郡)の水田を潤す。

いわき市に入ると今度は大きな渓谷が迎える。夏井川は深いV字谷を刻みながら、山里の小集落の水田に次々と水を供給する。小川町の扇状地に出ると、あとは海岸部まで広がる水田地帯だ。小川江筋と愛谷江筋の取水堰が待っている。

水源から河口までの距離はわずか67キロメートル。私は、河口まで5、6キロメートルという辺りの夏井川を毎日、見て暮らしている。流域の水田に水を供給してやせ細り、川底をさらした夏井川=写真=は、この時期ほんとうに痛々しい。

逆にそれが珍しいのか、飼い犬を放してジャブジャブ水遊びをさせる人間がいる。浅瀬で石投げをする中学生がいる。ゴルフの練習をする人間がいる。

4羽の残留コハクチョウはたまらない。犬も人間も安易に近づくから、この時期は居場所が定まらない。2キロ近く上流へ移動したかと思えば、次の日はずっと下流の浅瀬にいる。

夏井川も、コハクチョウも田植えが終わるまで、今しばらくは辛抱の日々が続く。

2008年5月17日土曜日

ニシキギが裸になった


家の庭にニシキギが植わってある。マサキの生け垣もある。先日、ふと見たらニシキギの葉が1枚もない。マサキも全体の4分の1近くが裸になっていた=写真。ガの一種、ミノウスバの幼虫が孵化して葉を食害したのだ。

ミノウスバの幼虫との闘いが始まったのは、およそ20年前。植物に興味を持って名前を覚え始めたときだ。ミノウスバはそれ以前から食害を続けていたはずだが、植物に興味がないから食害にも気づかずにいた。

一度、食害されてマサキとニシキギが丸裸になったので、次の年からは孵化して葉を食害し始める時期がくると、じっくり葉を眺めるようになった。

既に幼虫が散開しているときがある。その場合はこうもり傘を開いてひっくり返し、枝葉をゆすって、糸を垂らして降りてきた幼中をその中に集める。あとはまとめて始末する。孵化したばかりで幼虫がまだ一かたまりになっているときには、そこだけ枝を切り取って始末する。この時点で幼虫を始末できたら安心だ。

年によって食害の程度は違うが、ゴールデンウイークが始まるころにチェックして始末する、ということを心がけてきたので、去年まではほとんど問題はなかった。それを、今年は怠った。ミノウスバ自身も孵化する数が多かったのだろう。

葉っぱがなくなったら、葉っぱのある木へ移動しなくてはならない。毎日毎日、育ちきっていないミノウスバの幼虫が木から降りて来て、近くの物置の壁をはい上がっているのが見られる。何匹かは家の中にまで入り込んだ。初めてのことだ。

危機管理と言ったら大げさだが、起こり得る事態を想定して早めに手を打っていたら、こんなことにはならなかった。油断大敵。雑草は種を持つ前に引き抜け。問題の芽は小さいうちに摘み取れ――。会社も、家も、無事であるためには「アヒルの水かき」が必要だ。

2008年5月16日金曜日

夏井川河口に「滝」ができた


先日、夏井川の左岸堤防の道を車で河口まで行った。堤防は、最後は90度左に曲がって横川の堤防となる。横川はその先、仁井田浦で仁井田川の河口とつながっている。横川は、河口と河口を海岸と並行してつないでいることから、そう呼ばれるようになった。

曲がるとすぐ、横川に変なものがかかっていた。石でできた堰堤、とでも言おうか。横川の、あるいは夏井川の水の流れを遮る「ダム」らしい。夏井川は河口が閉塞しやすい。そうならないように夏井川と横川を、石を積んだ堰堤で遮断しようと河川管理者は考えたわけだ。

で、その効果はあったのか。先日見たときには、河口は細いながらも海とつながっていた。

きのう15日に行ったら、どうだ。石積みの堰堤から水が激しく音を立てながらオーバーフローをしていた=写真。滝が連続する渓流の早瀬と同じように白く泡立ちながら、である。どちらへ? 横川へ行かないように堰堤をつくったはずの、横川へ。見ると、河口は砂でふさがっていた。それで休みなくやって来る水の行き場がなくなって、石の堰堤を越えて横川へ流れ込んでいた、というわけだ。

大正2(1913)年に脱稿、同11年に刊行された『石城郡誌』に、夏井川河口の様子としてこうある。「時に奇と称すべきは旱天(かんてん)の水害なり盖(がい)老魃(ばつ)逆を逞(たくまし)ふするに方(あた)り、川水漸(ようや)く涸(か)れ其(そ)の勢ひ海沙(かいさ)を排寡(はいか)する能(あた)はず。河口塞(ふさ)がつて通せず、…」。1世紀近く前も河口閉塞問題には頭を悩まされていたのが分かる。

かといって、今の河口閉塞問題が自然現象だとはとらえたくない。ダムが上流に建設された。人工の海水浴場ができた。その他もろもろの要因が、この100年近い間に積み重なった(のではないか)。

夏井川を管理する行政の知識と知恵は、そうした歴史的変遷を踏まえたものなのかどうか。第一、石だろうがなんだろうが、川をせき止めることは川の生物の通路を遮断することになるが、それについてはどう考えたのか。

つまりはイマジネーションの問題。もっと言えば、生物学的河川工学とでもいうべきものが大切なはずだが、そうはなっていないのではないか。毎日、夏井川を見て過ごしている人間には、そうした疑問が膨らむばかりである。

2008年5月15日木曜日

「ふっつぇ」と「やご」


バレイショはこの数年、種芋を植えたことがない。でも、取り残した小芋が毎年、種芋になってあちこちから芽を出す。葉っぱは立派でも芋はピンポン玉程度にしかならないから、過剰な期待はしない。シソもミツバもこぼれ種から発芽する。おひたし(ミツバ)や薬味(シソ)にはそれで十分だ。

土地(夏井川渓谷の小集落・牛小川)の言葉でこれを「ふっつぇ」という。『いわきの方言調査報告書』には「ふっつぇ=どこからともなく種が飛んできて、知らぬ間に自然に生えること」とある。

種をまいたわけではない。種芋を植えたわけでもない。が、土中から芽が出てきた。うまく育てばそれなりに収穫できる。野菜や山菜についてはそんな余得がたまにある。

「やご」という言葉もある。『いわきの方言調査報告書』によれば「植物の切り株から出る新芽・新しい枝」のことだ。

4月はいっぱい白菜の菜の花を摘んだ。グンと伸びてきた花茎を折り取ると、今度は脇から次々に花芽が出てくる=写真。それを再び三たび折り取っておひたしにする。この量産状態の花芽が「やご」だと、集落の住人から教わった。

「ふっつぇ」と「やご」。ふだんは忘れているが、晩春から初夏になると妙に生々しく思い出される言葉だ。

2008年5月14日水曜日

山里のワサビ田


山里のとある森に知り合いの夫婦が住んでいる。ダンナは休日になると「ワサビ田」をつくるのに余念がない。

4月中旬、夏井川渓谷の無量庵でグータラしていたら、夫婦が採りたての葉ワサビと、茎を刻んで味をつけた「酒のつまみ」を持って来てくれた。ピリリとした辛さのなかに甘みが漂う「酒のつまみ」は、春だけのぜいたくな逸品。カミサンがつくり方を教わった。わが家へ帰ると早速、「酒のつまみ」が出た。

以来、「ワサビ田」が気になってしかたがない。で、先日、森の中の家を訪ねた。山道を車で駆け上がると、飼い犬が鳴き出し、家の下の雑木林からダンナが姿を現した。林の奥に「ワサビ田」がある=写真。前はミニ水田だった。

そのへんに大きな石がゴロゴロしている。畑を開くにも、林を整備するにも邪魔でしかたがなかった。それが、「ワサビ田」を作り始めてからは土留めに利用できる。作りかけの石垣を見てダンナの執念に舌を巻いた。石はいくらあっても足りないくらいだという。

家の周囲の森に手を入れてきた結果、そばの沢水は日照りにも枯れなくなった。それを利用しての「ワサビ田」だ。最初はほんの一握りのワサビだったのが、小流れに沿ってびっしりと生え、林の中へと続く「ワサビ田」(畳に換算して計15畳くらいか)を葉で覆うようになった。

「ワサビ田」づくりはまだ2年だが、なにやかにや森に働きかけるようになってから、相当の歳月がたつ。好きだから、ということだけでできることではない。

家のそばの沢は竹林になっている。イノシシがタケノコを掘った跡だという穴が生々しい。お土産にタケノコとクレソンと若いワサビの茎をもらった。

2008年5月13日火曜日

カッコウの「沈黙の夏」


いわき市小川町上小川字牛小川の夏井川渓谷で5月4日、カッコウの仲間のジュウイチの鳴き声を聞いた。その前、4月28日には平の石森山で同じ仲間のツツドリの「ポポッ、ポポッ」を聞いた。ホトトギスはまだだが、来れば町や里や山でも鳴き声が聞かれるだろう。

日本へやって来るカッコウの仲間は、ツツドリ・ジュウイチ・カッコウ・ホトトギスの4種。平野だとか山だとかの場所を抜きにして、夏井川流域で耳にした鳴き声の記憶でいえば、同流域へ到着するのはツツ・ジュウ・カコ・ホトの順だ。

どういうわけか、カッコウの鳴き声はもう10年以上、いや20年近くだと思うのだが、聞いていない。

まだ息子たちが小学生のころ、私が住む平中神谷では国道6号を越えた夏井川の対岸、平山崎あたりから「カッコー、カッコー」というのどかな歌声が聞こえてきたものだった。夏井川の堤防へ出て、声を便りに双眼鏡で姿を探すと、たいていは岸辺の大木のてっぺんで鳴いているのが見えた。

わが生活圏に関していえば、上流から平北白土、山崎、そして上・下大越のどちらか、3~4カ所でオスが鳴いていた。それが途切れたのは、夏井川の「ふるさとの川モデル事業」(平・鎌田~河口)で改修工事が行われたときからだ。

岸辺のヨシ原が刈り払われ、ヨシに営巣する夏鳥のオオヨシキリが姿を消した。と、オオヨシキリの巣に托卵する同じ夏鳥のカッコウも姿を消した。オスがさっさと見切りをつけてどこかへ去り、「沈黙の夏」が始まった。やがてヨシ原が復活し、オオヨシキリが戻って来ても、カッコウのオスはいまだに現れない。

北白土の夏井川右岸、堤防そばに屋敷林がある。その左端、頭一つぬきんでたケヤキ=写真=のてっぺんがカッコウの歌い場(ソングポスト)だった。

初夏になり、オオヨシキリが渡って来てにぎやかになると、決まってカッコウの幻の声を聞く。「カッコウの鳴かない川」でいいのか。「カッコウの鳴く川」づくりをしないでいいのか。人間中心の川づくり(まちづくり)はもういいだろう――と。

2008年5月12日月曜日

吉野せいと夏井川渓谷


『洟をたらした神』で田村俊子賞と大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した作家、吉野せい(1899―1977年)に『暮鳥と混沌』(1971年歴程社刊、のち彌生書房刊)がある。暮鳥は詩人山村暮鳥、混沌はせいの夫で詩人の三野混沌。2人の交友を、書簡などを通して描いた、せい最初の単行本(評伝)だ。

せいが、農業のかたわら考古・歴史を研究していた八代義定とともに、いわきの山里を訪ねたくだりがある。せいは20歳を過ぎたころ、八代の自宅(現いわき市鹿島町)の書斎「静観室」に通い、思想書や哲学書、文学書を読みあさった。八代はそんなせいを連れて、よく貝塚や土器の発掘に立ちあわせたという。

「ある日は川前まで遠征して、帰途は人影もない夏井の渓流沿いに小川村まで歩いたこともある。水は海しかみていない私は、渓谷の美しさを、水の清らかさをはじめて見た」

そんな折、せいは八代の引き合わせで、「静観室」でやがて夫となる三野混沌と出会う。『暮鳥と混沌』ではそうなるのだが、今日はせいと渓谷の話だ。

せいと混沌が出会うのは大正9(1920)年。八代は同年、福島県史跡名勝天然記念物調査委員会委員史跡担当となる。それであちこち動き回り、ときにせいを調査に連れて行くこともあった。だから、せいが夏井川渓谷=写真=を初めて目にしたのはその年、21歳のころだったろう。なぜかといえば、翌年には混沌と結婚しているからだ。

88年前の夏井川渓谷の様子が、渓谷を見たせいの感動が、わずか70字余りのなかに凝縮されている。「人影もない夏井の渓流沿い」の道は明治以降に整備された「磐城街道」(現県道小野・四倉線)で、今もふだんは人影がない。当然、そのころは未舗装だったと思われる。

「海の乙女」が瞠目した「渓谷の美しさ、水の清らかさ」は、今はどうか。松食い虫がはびこって渓谷の赤松はあらかた枯れた。上流からのごみが岸辺を覆っている。水量も減った。小野町に首都圏のごみ焼却灰を埋め立てる最終処分場ができてからは、とても清らかだとは言えなくなった。

それでも夏井川渓谷は、わが心の洗濯場に変わりはない。そして、渓谷の上流、川前の住民有志が数年前から渓谷の美化活動に取り組んでいる。これも心に新しく熾(おき)をもたらした。

2008年5月11日日曜日

四十数年ぶりの蒸し釜炊飯


カミサンの実家にある物置を解体したとき、以前使っていたという蒸し釜=写真=が出てきた。湯気出しをふさぐ上蓋が一部欠けているほかは、なんとか使えそうだ。週末に過ごす夏井川渓谷の無量庵へ、蒸し釜を運んだ。

蒸し釜は中央部が膨らんだ縦長円形の素焼きの道具で、炭を燃料に羽釜をかけてご飯を炊くのに使う。空気を取り入れる四角い小さな穴のある下竈と、湯気出しの筒が頭についている上竈のふたつからなっていて、羽釜のご飯が湯気を噴いたら下竈の空気口と上竈の湯気出しに蓋をして酸素の補給を断ち、余熱でご飯をふっくら炊き上げる。

ガス釜もいいが、炭を熾して蒸し釜でご飯を炊くのもいい。というより子供のころ、蒸し釜でご飯を炊くのが兄弟の役割だったので、なつかしくなったのだ。蒸し釜で炊いたご飯の味も。

親は床屋をやっていて、客があれば夜遅くまで店を開けていた。で、ついつい朝は起きるのが遅くなる。子供に、家の前の道路の清掃やご飯炊きの仕事が回ってきた。

鉄の羽釜で米をとぎ、炭を熾して蒸し釜に入れ、その上に羽釜をのせて上竈をかぶせる。漫画なんかを読みながら蒸し釜の前にじっとしている。勢いよく湯気が上がったら、素早く上と下の穴に蓋をする。それで羽釜の底が少しこげたご飯が炊き上がる。この蓋閉めのタイミングが遅れるとご飯があらかた焦げてしまう。

ある日、カミサンが知り合いの骨董店から鉄の羽釜を持ってきた。ちょうどうまい具合に蒸し釜の置き台にかかった。買いましょうとなって、無量庵へ泊まった翌日、炭を熾して蒸し釜でご飯を炊いた。四十数年ぶりの挑戦だった。

上竈の表面がだんだん熱くなる。羽釜のなかで米が煮立っている音がする。蒸し釜特有のお焦げのにおいがかすかに立ち昇る。さあ、あとは湯気が噴くのを待つばかりと構えていたが、湯気はほとんど透明だ。そのうちお焦げのにおいが強くなってきた。ヤバイ! すぐ蓋を閉めた。

失敗である。3分の2は焦げた。残る3分の1のご飯を食べながら、反省する。おそらく炭の量が多かったのだろう。羽釜の容量に見合った炭でいいのに、張り切って入るだけ炭を入れた。火力がオーバーだったのだ、おそらく。次はもっとうまくやらなくては。

2008年5月10日土曜日

「ゲリゲといふ蛙」に再会した


いわき市立草野心平記念文学館で「草野心平のカエル展」が開かれている。6月29日まで。

「カエルだけを書いているわけではない」。心平は「カエルの詩人」と呼ばれるのを好まなかった。が、カエル抜きでは心平を語れない。そこで正面から、「心平とカエル」ではなく「心平のカエル」を取り上げることにしたわけだ。

個人蔵の心平自画像(色紙の墨絵で、「ゲリゲといふ蛙」の題が付けられた、いわば戯画)が展示されていた=写真。1989(平成元)年5月にいわき市文化センターで「詩人草野心平とふるさと展」が開かれた。そのとき、この自画像が展示されていて、私は心平の内面がむきだしになっているのに強い印象を受けた。1988(昭和63)年11月12日に心平が亡くなったことによる、名誉市民追悼の「ふるさと展」だった。

没後1年余が過ぎた1990(平成2)年、「歴程」が2月号で追悼特集を組む。そのなかに「ゲリゲといふ蛙」の自画像を所有する心平のいとこ氏が自画像について言及している。それを今度読んで、遅まきながら「そうだったのか」と了解するものがあった。

「ゲリゲ」は、詩「ヤマカガシの腹のなかから仲間に告げるゲリゲの言葉」の「ゲリゲ」である。「ゲリゲ」は心平自身だったのだ。

 痛いのは当り前ぢやないか。
 声をたてるのも当り前だらうぢやないか。
 ギリギリ喰はれてゐるんだから。
 おれはちつとも泣かないんだが。
 (略)
 こいつは木にまきついておれを圧しつぶすのだ。
 そしたらおれはぐちやぐちやになるのだ。
 ふんそいつがなんだ。
 死んだら死んだで生きてゆくのだ。
 おれの死際に君たちの万歳のコーラスがきこえるやうに。
 ドシドシガンガン歌つてくれ。
 (略)

「死んだら死んだで生きてゆくのだ」。心平の代表的な詩句の一つである。それを戯画に託していとこ氏に贈った。いとこ氏は「その当座は、あまり深く見たり考えたりしなかった」が、あとになってゲリゲの詩を読んでびっくりする。「これだ。これはまさしく心平さんだ。心平さんの生きざまそのままだ。心平さんこそ、ゲリゲの辛抱と努力と友愛をもって、自分の天分を生かしきった人だ」と了解する。

20年近く前に見て引き付けられ、忘れがたく思っていた「ゲリゲといふ蛙」に再会して、なぜそうだったのかが、自分なりに分かった。「死んだら死んだで生きてゆく」、その思想がかみしもを脱ぎ、突っ立った髪の毛の下で裸になって渦巻いていたのだ。いとこ氏とはまったく理解が違っているかもしれないが。

2008年5月9日金曜日

土手のマツバウンラン


毎朝、ときには夕方も歩く夏井川の堤防は、すっかり濃い緑に覆われた。菜の花は依然、黄色い花を咲かせ、ノエンドウやスイバが密集して次から次へと花を付けている。

河川敷のサイクリングロードは、所によっては丈高く生えた草で視界が狭まりつつある。一方で、近所の人が草刈り機を持ち出し、土手を丁寧に散髪する。それで部分的にすっきりしたところもある。

そのすっきりした土手に見たこともない花が群生していた=写真。針金のような茎が20センチほどスッと伸び、青紫色の花をいっぱい付けている。ラン科の花か。

家に帰って『検索入門野草図鑑』(長田武正著・長田喜美子写真)で調べたら、北アメリカが原産の帰化植物、マツバウンランだった。ラン科ではなくてゴマノハグサ科だったが。

「1941年日本に侵入が気づかれ、現在近畿以西から九州にかけひろがりつつある」とあったが、それは昭和59年発行時点での話。西日本どころか東日本にもマツバウンランが生息範囲を広げてきた。何年か前、いわきでもマツバウンランが生えていると新聞記事になった記憶がある。

花そのものは3ミリほどとごくごく小さい。それがかわいいのか、マツバウンランを愛する同好会のようなものもあるらしい。そのへんはなんとも複雑な気持ちではあるが、花にはやはり引き付けられる。

2008年5月8日木曜日

川辺に侵入するニワウルシ


川辺にある木はヤナギ類――は先入見にすぎなかった。確かにヤナギ類が多い。早々と芽吹くから印象も強い。が、仔細に見ると結構いろんな木がある。

ハリエンジュ(ニセアカシア)の幼木がある。オニグルミの若木がある。人の手で植えられたソメイヨシノの幼木がある。花が咲いたので分かったヤマザクラの若木もある。幼木・若木は、成木とは幹の肌合い、色合いがまるで違う。葉痕を手がかりにして識別するが、専門家ではないから大半は分からない。

国道6号バイパス終点の夏井川橋近く、右岸のニワウルシ(葉痕はハート型で上部中央に冬芽がある)の高木にカラスが営巣し、卵を温めている話を2週間近く前に書いた。

ニワウルシは中国南部が原産。英語名は「ツリー・オブ・ヘブン」(神樹)で、その名にあやかって、いわき市常磐湯本町の温泉神社境内入り口には高さ14メートル弱、幹回り1.6メートルのニワウルシがある。いわき市の保存樹木に指定されている大木だ。先日見てきたが、樹齢を重ねているせいか、樹肌はなかなか渋いものだった。

このニワウルシが各地で野生化しているという。特に、河原に侵入すると短期間のうちに大きな樹林に生長して、洪水時に水の流れを阻害する。カラスが営巣したところがその樹林になっている=写真。

どのくらいニワウルシが侵入しているのか。夏井川橋から河口までの間の河原を左岸の堤防上からチェックしてみた。双眼鏡で枝ぶり・芽吹きの様子を見たら、ニワウルシの幼木と思われるものがかなり散在している。が、枯れヨシ原に分け入って枝を見ると、葉痕はヒツジ顔のオニグルミ。ニワウルシではなかった。

素人目には幹の白っぽさ、枝の張り具合、葉の開き方がニワウルシに似るが、生長したオニグルミは葉を開くと、雄花序を長く垂らす。今がその時期だ。一方のニワウルシは枝先にある葉のかたまりが赤から緑になってきた。ちょうどチアガールが手にするボンボンのような形である。

河口からバイパスの夏井川橋までの河川敷では、ニワウルシの群落は1カ所にとどまる。次は橋から上流だ。少しずつ川辺の樹木を見て行けば、なにか今までとは違った川の嘆きが聞こえるかもしれない。

2008年5月7日水曜日

「セドガロ」宣言


いわき市立草野心平記念文学館専門学芸員の小野浩さんから『草野心平――昭和の凹凸を駆け抜けた詩人』(歴春ふくしま文庫)=写真=の恵贈にあずかった。

平成15年、福島民報が心平生誕100年を記念して「天の詩人」を連載した。小野さんは心平の「生涯」を担当した。本は、連載時の文章に加筆した第一部「昭和の凹凸を駆け抜けた」と、第二部「草野心平のかたち」、第三部「草野心平と磐城平の詩人年譜」からなる。

専門学芸員ならではの資料の読み込み、調査の蓄積に裏打ちされた安心な本――というのが、第一印象である。そして、なによりも私が評価したいのは、(本の趣旨からすれば副次的なものにすぎないかもしれないが)第二部の「五 心平が故郷に残した形――心平が命名した『背戸峨廊(せどがろ)』」だ。

「背戸峨廊」(夏井川の支流江田川)はいつの間にか「せとがろう」と誤読され、道路の案内標識にまで誤記されるようになった。3月3日にこの欄で「背戸峨廊のこと」と題して、そのへんの経緯を書いたから、詳しくはそちらを見ていただきたいが、影響力のあるエッセイストや新聞が誤記するから、ますます誤った読みが一人歩きをするようになる。

いわき市観光物産協会も誤記・誤読を追認・助長しているフシがある。先の大雨で橋が流され、「トッカケの滝」から先が通行禁止になっていた背戸峨廊が、工事が終わって5月3日から入山できるようになったという記事を、同協会がネットで配信した。検索用キーワードに「せとがろう」「せとがろ」があって、「せどがろ」「せどがろう」がないのはなぜか。本家本元がこの調子では、誤記・誤読は垂れ流しされ、増殖されるままだ。

小野さんの本はこうした誤記・誤読に待ったをかける遮断機となる。いや、なってもらわないと困る。「磐城平」を「いわきだいら」と誤読されていい気分でいられるはずがないのと同じで、「せとがろう」では不快な気持ちをぬぐえない。

地元の人間が江田川を「セドのガロ」=「セドガロ」と呼び習わしていた。終戦後、中国から故郷へ引き揚げてきた草野心平が地元の人間と江田川を探索して、「セドガロ」に「背戸峨廊」の漢字を当てた。これが真実であり、始まりである。

『草野心平全集』第8巻所収の「背戸峨廊の秋」には、「背戸峨廊」に「せどがろう」のルビが振られてある。で、私はこれまで「せどがろう」で通してきたが、これからは原点に帰って「セドガロ」と呼ぶことにする。

2008年5月6日火曜日

ゴールデンウイーク最終日


ゴールデンウイーク後半はこうしてああして――と仕事の予定を立ててはみたものの、大体ははずれてしまった。いつものことである。予定通りだったのは、5月4日の日曜日に夏井川渓谷の無量庵へ行って野菜苗を植えたことぐらいか。

家の用事が半分、休み気分が半分でガソリンの消費量を気にしながら、あちこち動き回った。行く先々でイベントが行われていた。そのイベントが目的の場合もあった。朝市、展覧会、フリーマーケット、展示会、買い物…。世の中が休みのときにはこちらも気持ちが休みたがっているから、仕事に身が入らない。

昨日(5月5日)は、カミサンが急に「いわきの匠と技展」を見に行こうと言い出した。今日6日まで小名浜のいわき市観光物産センター「いわき・ら・ら・ミュウ」で開かれている。一種の骨董品と思うのだが、古い木桶があってタガが緩んでいる。それを直してもらおう、というのがカミサンの魂胆だ。

平の自宅から海岸道路へ出て小名浜へ向かった。霧がところどころ出ている。サーファーが集まる永崎海岸は、海が乳白色のベールに包まれていて、波も見えない。場所によって随分霧の出方が違うようだ。

小名浜港へ近づくと、めったにない大渋滞である。少し時間はかかったが、ら・ら・ミュウとアクアマリンの中間、倉庫を利活用した小名浜美食ホテルの駐車場にすべりこむことができた。小名浜美食ホテルの中も、ら・ら・ミュウの中も、それをつなぐアクアパークも人で埋め尽くされていた。

「匠と技展」もにぎわっていた=写真。いわき市遠野町の木桶樽職人(女性、と言ってもだんなさん亡き後仕事を継承した)は不在だったが、息子さんらがいて修理を引き受けてくれた。直ったら遠野の仕事場へ取りに行くことにして、木桶をあずける。

そのあとはゆっくり会場を見て回った。旧知のこけし職人のSさんとしゃべる。いわき船箪笥の「からくり」にも触れた。「飛騨匠」ならぬ「遠野匠」が言葉としてあることも知った。それも売り方の一方法だろう――などと、展示会をじっくり堪能した。

今日はもうそういうわけにはいかない。休み気分に一区切り付けて仕事に没頭することにする。

2008年5月5日月曜日

「霧のマチ」いわき


車で海岸線の道路へ出たら、うっすらと海霧がかかっていた。いわき市では初夏になるとよく海霧が発生する。

この場合の霧は「移流霧」と呼ばれるものだろうか。移流霧は、暖かく湿った空気が冷たい海面に流れ込み、空気が冷やされて起きる。暖流と寒流がぶつかり合うところで発生しやすいという。

ついでに言えば、霧とは「ごく小さな水滴が大気中に浮かび、漂っている現象」で、「水平視程1キロメートル未満」のものを指す。同じ水滴浮遊現象でも「もや」は「水平視程が1キロメートル以上10キロメートル未満」と、霧よりはちょっと見通しがよい。

5月3日の日没前、夏井川の堤防を散歩した。いつの間にか海の方から霧の塊がのして来て、遠くの山や建物が見えなくなった=写真。翌4日夕方は海の方が霧でかすんでいたが、内陸の平中神谷まで霧に包まれることはなかった。

濃霧注意報は、濃霧によって交通機関への支障が予想されるときに地元気象台が発令するという。浜通りの海岸部ではしばしば霧の発生が予想されるようになった。

そこで思うのだが、この霧を逆手に取ったらどうだろう。九州の由布盆地は霧で有名だ。北海道の釧路市や函館市、そしてロンドン、サンフランシスコも。霧は交通の妨げになるかもしれない。が、立派ないわきの地域資源だと考えれば、いろんな演出効果が期待できる。

たとえば、先日オープンしたばかりの「小名浜美食ホテル」。霧がロマンティックなベールとなって付加価値を高める、といった発想があってもいい。「夜霧の小名浜美食ホテルへどうぞ」とでもPRすれば、「行ってみるか」となる人間がいないとも限らない。霧の写真コンテストだって、やればできる。

まあ、ただの思いつきだが、考えを深めることは無駄ではないのではないか。

2008年5月4日日曜日

野菜苗を買う


ゴールデンウイーク後半に入った。早い農家では田植えを行い、家庭菜園では夏野菜の苗植えに精を出す人が多かったことだろう。

ホームセンターの折り込み広告にもナス・キュウリ苗「69円」「68円」といった文字が躍る。それで、わが菜園にも苗を――と四倉の種苗店を訪ねた。老舗である。値段はホームセンターの倍だが、見た目にも苗がしっかりしているのが分かる。午後になるとしおれるような扱いの悪い店とは、品物に対する気持ちのかけ方が違う。

店頭にずらりと苗が並んでいる。と、不意にツバメがやって来て、頭上で鳴いた。手の届きそうな天井に巣がある。巣づくりを終えて抱卵の段階に入ったのだろうか。メスが巣にいて、オスがえさを運んでくる――そんな役割分担のようだ。店内にも巣があった。ツバメは客の少ない店には巣をつくらないという。この店はしたがって繁盛していることが分かる。

今年は4月3日に内郷の国道6号で初めてツバメを見た。小名浜測候所の生物季節観測では初見が4月5日だから、2日早かった。

ま、それはともかく、キュウリとナス苗各2ポット、激辛のトウガラシ3ポットを買った=写真。カミサンはテッポウユリを買った。なぜテッポウユリを? カサブランカと勘違いしたらしい。

今日はこれから夏井川渓谷へ車を走らせ、無量庵の庭の菜園に苗を植えることにする。テッポウユリは、私は関知しない。

2008年5月3日土曜日

立ち枯れ赤松折れる


夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)の両岸、落葉樹と針葉樹のまじる天然林には、松食い虫にやられた赤松の大木が、白骨となってあちこちに立っている。

私が渓谷の無量庵で週末を過ごすようになってから、まる12年がたつ。松は当時から松食い虫にやられて「茶髪」になったり、樹皮が剥落して白骨化したりする「病変」が続いていた。この12年間は、それが顕著になった時期でもある。

高い尾根のキタゴヨウはまだ緑だが、低い尾根から中腹にかけての赤松はことごとくやられてしまった、と言ってもよい。12年前はまだ緑だった葉が、翌年あたりから茶が交じり、赤い樹肌がさめて、気がつけば葉も樹肌も消えていた。今は白い卒塔婆のように立っている――そんな赤松の大木が何本もある。

直径1メートル以上の大木となると、こずえは相当高い。それが、立ったまま死んでいる。いつ折れて倒れるのか。森の中へ入るたびに、びくびくしながら前を通り過ぎる。

1週間前のこと。無量庵の庭から対岸の森を眺めたら、1カ所だけ、前の週と様子の違うところがある。変に空きスペースができているのだ。しばらく眺めていて気がついた。立ち枯れ赤松が幹の途中から折れて、下部の木々を折ったり払ったりしたのだ。外側は白骨状態だが、折れ口は妙に赤みが濃い=写真=ので、それと分かった。

立ち枯れが目立つようになってから十数年、いよいよ折れ倒れる赤松が出始めた――と考えて警戒するにこしたことはない。夏井川渓谷では、小規模な落石は日常茶飯事だ。嵐のあとの倒木も常態化した。それに加えて、立ち枯れ赤松が折れ倒れる時期に入ったのだ。

峻厳と優しさとが同居する自然のなかで、自然の一部となって暮らし、遊び、学ぶ。そのためにも、渓谷は危険な場所だと思い知ること、自衛することが求められる。街の中にいるのと同じ感覚で森に入れば、落石のみならず倒木をとっさに回避できない。直撃を受けたら最悪の場合は死に至る、ということを頭の隅においておきたいものだ。

2008年5月2日金曜日

ブロガー「kapu」さん



いわき市郷ケ丘で用事を済ませたついでに、カミサンと近くの輸入雑貨の店「オルドナンス」=写真=をのぞいた。年に数回、運転手兼お邪魔虫になって店を訪ねる。

ひとわたり店内を眺めたあと、お茶が出て、なにかの拍子にブログの話になった。「私もやっている」という。「『kapu』の雑多日記――雑貨屋『kapu』のひとりごと…」が、彼女のブログだ。カウンターにあるパソコンで、すぐ開いて見せてくれた。

店の近所の公園の写真が載っている。4月29日の朝、開店前に散歩して「発見」した緑の空間だ。「こんな店もあります」と別の写真になったとき、カミサンが叫んだ。「ブラリ(歩ら里)だ」。ン! 朝市で魚を売っている人の喫茶店が郷ケ丘にあると聞いていたが、それが「オルドナンス」の近くにあったのだ。

毎週土曜日、知り合いが主宰している平沼ノ内の朝市へ買い物に行く。いつからか魚を売る人が参加するようになり、にぎわいがいちだんと増した。

あるとき、スーパーカブに乗ってやって来たばあちゃんが魚を指さして値段を聞いた。「○×円です」「高いな、×○円にしろ」「はい、分かりました」。ばあちゃんの迫力に圧倒されて即座に値引きをしてしまう、そのやりとりが好ましかった。

その人が「歩ら里」の経営者のSさんだ。いつかは魚料理を食べに行こうと思いながら、場所が分からずにいたのが、「kapu」さんのおかげではっきりした。

道順を聞いて早速訪ねる。それらしい家、といっても普通の住宅のような店構えだが、その前にSさんがいて、なにやらやっていた。カミサンが声をかけると恐縮して言った、「今日(4月30日=水曜日)は休みなんです」。また来る楽しみができたではないか。

この偶然の連鎖をなんと言おう。ブログの話から、いつかは行きたいと思っていた店が見つかり、その店の経営者までいて、店が定休日とは。

ネットから得る情報と生身の世界から得る情報とがうまく融合すれば、暮らしはより楽しく、面白くなる。そんなことを感じた一日だった。

2008年5月1日木曜日

ガソリン補給


「昭和の日」(4月29日)の前日夕方、車のレギュラーガソリンを補給するために、会員になっている現金値引きのガソリンスタンドへ寄ったら、「品切れ」だという。

「あした(4月29日)朝7時に入荷しますんで、そのときにお願いします」。見知ったスタッフからおわびとお知らせの書かれたコピーを渡された。4月29、30日の2日間に限って来店すればティッシュペーパー1箱をサービスします――コピーは引き換え券を兼ねていた。

5月1日から暫定税率が復活し、ガソリンの大幅値上げが予想されるために、いわゆる「駆け込み給油」が急増した。タンク車が来て補給したにもかかわらず、夕方には品切れになった、というから、スタンドは日中、てんやわんやだったのではないか。

スタンドは道幅が狭い旧国道沿いにある。わが家も同じ旧国道沿いにある。家からスタンドまでは1キロ強か。翌29日の朝はちょうど7時にスタンドへ着いた。と、既に先客の車が並んでいた=写真。2人のスタッフが右に左に走り回って給油・会計をするが、間に合わない。

やっと私の番になった。スタッフは私の顔を見るなり、ハイオクのガソリンを入れ始めた。慌ててドアを開け、「レギャラーだよ」と告げるが、機械は止まらない。前の車に乗っていたときはハイオクだったために、記憶の刷り込みが勝手に働いてハイオクを選んでしまったのだろう。

会計の段になって「レギュラーの値段にしてありますから」。それはありがたいことだが、この間違い、駆け込み給油に対応しきれないあせりが招いたものではないのか。その証拠に、ティッシュの引き換え券を受け取っていながら、品物を渡す余裕がない。別の車に頭がいっている。催促すると、またまた慌てて袋を破いてティッシュ1箱を差し出した。

スタンドから旧国道へ出ようとしたら、既に渋滞が始まっていた。続々と車がやって来る。 次の日の午後、スタンドの前を通ったら、スタッフは6、7人になっていたが、それでもてんてこ舞いのありさま。「昼飯なんか食うどころではなかっただろうな」。スタッフには同情した。

「生活が第一」を掲げる野党がある。政府・与党も同じようなことを言う。国会のせめぎあいからガソリンの値段(つまり税金)が下がったり上がったりするなんてことは、本来、あってはならないことだと思う。政治の最大の目的は庶民の「無事」を維持することではないか。そのための議論が機能しない国会になっている。いわき市選出の国会議員に問いたいものだ。いったいどうなってるんだと。

ガソリンを安売りするスタンドの前の道路は、昨日(4月30日)も大渋滞したことだろう。