2008年6月3日火曜日

「セドガロ」と二箭会


草野心平のいとこで長らく中学校の校長を務めた故草野悟郎さん(通称「ゴロー先生」)に『父の新庄節』という随筆集(昭和62年刊・非売)がある。中の『縁者の目(上・下)』に「背戸峨廊(セドガロ)」命名のエピソードが紹介されている。

敗戦をはさんでゴロー先生一家が今のいわき市小川町へ帰郷し、中国から心平の家族が心平の生家へ引き揚げ、心平もやがて長男、次男を連れて戻って来る。するとすぐ、心平の発案で何でもいいから、村を明るくすることをやろうという自由な集まり「二箭(ふたつや)会」ができた。

「二箭会」はむろん、心平の生まれ故郷の二ツ箭山にちなんだ名前だ。疎開していた知識人の講演会や、村の誰もが歌える村民歌(「小川の歌」=作詞は心平)の製作、子供たちによる狂言、村の青年によるオリジナル劇の上演などを手がけた。

江田川(背戸峨廊)を探索して世に紹介したのも「二箭会」の功績の一つだったと、ゴロー先生はいう。

「元々この川(注・江田川のこと)は、片石田で夏井川に合流する加路川に、山をへだてて平行して流れている夏井川の一支流であるので、村人は俗に『セドガロ』と呼んでいた。この川の上流はもの凄く険阻で、とても普通の人には入り込める所ではなかった。非常にたくさんの滝があり、すばらしい景観であることは、ごく限られた人々、鉄砲撃ちや、釣り人以外には知られていなかった」

私が聞いていた話とほぼ同じである。というより、探検に加わった当事者の一人の貴重な記録である。「セドガロ」に関する一番正確な文章がこれだと断言してもよい。

ゴロー先生は続ける。「セドガロ」の噂を江田の青年から聞いて、一度皆で探検してみようということになった。

「私たちは、綱や鉈(なた)や鎌などをもって出かけて行った。総勢十数名であった。心平さんは大いに興を起こして、滝やら淵やら崖やら、ジャングルに一つ一つ心平さん一流の名を創作してつけて行った=写真は背戸峨廊入り口のルートマップ板。蛇や蟇にも幾度も出会った。/その後、心平さんはこれを旅行誌『旅』に紹介して、やがて、今日の有名な背戸峨廊になった」

「セドガロ」という呼び名がもともとあって、心平がそれに漢字を当てた。滝や淵の名前は確かに心平が創作した。それも「二箭会」あってのことだ――ゴロー先生はそのことを書き残しておきたかったのだろう。「セトガロウ」だの「セトガロ」だのはやはり間違い、ということがこれからも分かる。

いわき観光まちづくりビューロー(6月1日、市観光物産協会を発展的に解消して発足)は自信をもって間違いをただし、「セドガロ」の普及に努めてほしいものだ。

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