2008年6月21日土曜日

芝刈りにも美学がある


入梅前後はあちらこちらで草刈りが行われる。水田、堤防、土手、空き地…。夏草が生い茂って対向車両とすれ違いにくかった道路も、草が刈り払われてみるとすっきりして走りやすくなる。

ただ、同じ草刈り機を扱っているのに、刈られた草が整然と並んでいるところと、四方八方に散らばっているところがあるのは、どうしてか。草刈り技術のレベルの差には違いないが、その人の美意識も関係しているのではないか。

というのは先日、好間川のほとりに立つギャラリー「木もれび」(6月23日まで「ハーブの香りに包まれて花と遊ぼう!」展開催中)の庭=写真=で芝を刈っていた職人さんに話を聴いたとき、職人の美学のようなものを感じたからだった。

職人さんは今回初めて「木もれび」の芝刈りに入った。最初に芝を見たとき、今は刈らなくてもいいのではないかと思ったらしい。が、依頼主は芝をきちっと刈ってもらいたいから、彼を呼んだのだ。カネをもらう以上は依頼主の要望に沿って芝刈りを行わなくてはならない。

おそらくこういうことだろう。芝生はフカフカしてこそ芝生だ、土があらわになるほど刈り込むべきではない。それを「芝をいじめすぎてもなぁ」と彼は表現した。頭髪で言えば、依頼主が五厘刈りを頼んだのに、五分刈りがいいですよと逆提案するようなものだ。「大地の理髪師」としてのこだわり、美意識である。

「大地の理髪師」は金属の丸のこ刃ではなく、ナイロンひもを回転して芝を刈った。「人が見て、『なんだ、この芝刈りは』なんていわれるのがいやだから。刈り残しがないようにしないと」と、何度も庭を行ったり来たりして作業を続けた。

この職人さん同様、堤防の草刈りもその人の技術と美意識が出る。というより、ウデが上がればおのずときれいに刈り払えるようになるから、ますます見栄えがよくなる。道ばたに刈られた草が散乱したままになっているのは、片付けることにさえ思いが至らない初歩的な人の仕事だからだろう。そういったところは歩きづらいし、見た目も悪い。

草刈り・芝刈りに限らない。家庭菜園でもうねや支柱の並びが美的なほど実りは多い。美しい仕事は実用にかなうのだ。

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