2008年7月31日木曜日

ネコは涼しいところへ


おととい(7月29日)、きのうと少し乾いた空気が戻ってきた。粘りつくような蒸し暑さが小休止しただけでも心地よい。とはいえ、小一時間も歩けば汗まみれになる。エアコンのないわが家では扇風機が欠かせない。

ネコもこの暑さがこたえるらしい。日中は思わぬ所でゴロ寝をしている。今は使わなくなった子どもの机の下、洗濯機=写真=や冷蔵庫、タンスの上、人間のベッド。場所も茶の間よりは暗く涼しい北側の部屋や通路で休んでいることが多い。

窓という窓、戸という戸を開けているので、よそのネコが忍び込むのも簡単だ。台所に上がり込んで飼いネコのえさをカリカリやっている。「コラッ」と一喝すると、台所の窓から、茶の間から慌てて逃走する。茶碗が落ちて割れたこともある。

庭の木からひさしに跳び移り、屋根瓦を伝って2階のテラスにやって来たあと、開いている窓から入り込んで階段を下りて来るネコもいる。飼いネコがその手で家に帰還したのを見て学習したらしい。

さすがに家の中に入り込んで涼んでいるような野良ネコはいない。いや、1匹いるか。どこかの飼いネコなのか、茶の間で人間が休んでいると、しばらくして急ぎ足で目の前を通り過ぎる。飼いネコかと見れば、そうではない。で、一喝すると、こちらを振り返って牙をむく。はむかうそぶりを見せる。これにはたまげた。

それはともかく、暑さ対策は飼いネコより野良ネコの方がたけている。車の下に潜り込む。日陰のコンクリートのたたきに身を投げ出す。飼いネコはそのへんが不慣れなのか、人間と同様、室内でげんなりしている。自分を人間だと思っているらしい。

2008年7月30日水曜日

堤防の土手に咲くオニユリ


朝夕散歩する夏井川の堤防には、実にいろいろな草が生えている。川寄りの堤外の土手はあまり草刈りが行われないために、スイバなどが茂りに茂る。民家が建ち並ぶ堤内の土手は畑と混在していることもあって、農家の人が実にていねいに草を刈る。

その堤内の土手に1カ所だけオニユリの咲いているところがある=写真。最近、そこだけ残して何度目かの草刈りが行われた。一昨日(7月28日)、すっきりした土手をバックに刈り残された草が花を付けているのを見て、オニユリと分かった。

堤防の上、車の通行が許されている道を走って確かめたが、オニユリが咲いている土手はそこだけだった。近所の人が植えたものに違いない。

堤防の花を見るにつけ、草を刈る人にはその人なりの美学のようなものがあるのを感じる。しゃにむに草刈り機でなぎ払うわけではない。秋にはヒガンバナが土手一面に咲き出す。そのときも花茎が出ていれば草刈り機をそっとずらす。

季節ごとに土手に生え、咲く花は異なる。一種の「すみわけ」だ。早春にはスイセンが咲き、やがて帰化植物のマツバウンランが群れ咲く。今はヤブカンゾウの花が終わりを迎えつつある。ニラもほかの葉に負けずに葉を伸ばす。

人間と同じで地中にはヒガンバナやオニユリや、その他さまざまな草たちの根が張りつき、絡み合い、ひしめき合っている。多少はストレスを感じつつも花開く時期を譲り合っているから、なんとかうまく生きていられるかのようだ。

セイタカアワダチソウは河川敷を占領し、川寄りの土手に群生している。ところが、民家が張り付く側の土手には一本もない。草刈りの有無が違いを生んだのだろうか。だとしたら、ことは簡単だ。昔からの里の景観は、人間が手を加え続けた結果として形成され、守られてきた。

オニユリの花から堤防の土手の1年をなぞっていたら、不意にセイタカアワダチソウのことが思い浮かんだ。土手のあちらにあっても、こちらにはないことに、気がついたのだった。

2008年7月29日火曜日

啄木展/記念講演会


いわき市立草野心平記念文学館で開館10周年記念企画展「石川啄木 貧苦と挫折を超えて」が開かれている(8月24日まで)=写真。7月27日には詩人の中村稔さんによる記念講演会「啄木の魅力」が開かれた。

まだ根なし草だった21歳のころ、東京のアパートでしばらく寝込んだことがある。何をする気にもなれない。食欲もない。かろうじて本を読むことだけが生存している「しるし」だった。ドストエフスキー、宮沢賢治、石川啄木、鮎川信夫、大岡信、ポール・ニザン…。このあたりを読みつないで救われた、という思いがある。

なかでも啄木の短歌は、悲しい涙ではなく苦い笑いをもたらす栄養剤として、何度も読み返したものだ。例えば、次のような歌。

<手も足も出ずと呟きて手も足も投げ出して寝る男の顔かな>

カネはない。食べるものもない。万事休してSOSのはがきを出すと、ちゃんといわきの学校を卒業して東京の会社に就職した同級生がアパートへやって来る。寝込んでいる私を外へ連れ出しては、私鉄の駅に近い店ですき焼きをおごってくれるのが決まりになった。

それやこれやで3カ月も過ぎると、少しずつ立ち上がる気持ちがわいてきた。年が明けて、春には大阪万博が開かれる。ちょうどそのころ、親類の口利きで万博会場の駐車場誘導員になった。

<あたらしき心もとめて名も知らぬ街など今日もさまよひて来ぬ>

豊中のタコ部屋から大阪へは電車ですぐだった。「現代詩手帖」を買いに行っては、タコ部屋で読みふけった。そんな若造だったから、10代の後半には、年上の友人から借りて中村さんの詩集『鵜原抄』を読んだ。それが最初だった。

中年以後は、意識して中村さんの詩を読み続けている。思潮社の現代詩文庫『続・中村稔詩集』は、週末を過ごす夏井川渓谷での愛読書だ。中でも詩集<浮泛漂蕩>(全編)には敗戦時に18歳だった中村さんの戦争観、つまり「昭和2年生まれのまなざし」のようなものが感じられる。

啄木、中村稔とくれば、なにをさしおいても聴きにいかなくては。というわけで、渓谷から文学館へ駆けつけた。詩人であると同時に弁護士でもあるすぐれた世俗の人、中村さんの啄木観はクールで優しい。

<新しき背広など着て旅をせむしかく今年も思ひすぎたる>

啄木のこの「新しき背広」を受けて詠んだ萩原朔太郎の「旅上」、<ふらんすへ行きたしと思へども/ふらんすはあまりに遠し/せめては新しき背広をきて/きままなる旅にいでてみん。>に触れながら、二人を対比する。「朔太郎は親が医者、道楽息子だから新しい背広を着て旅に出ることもできたが、啄木はそう思うだけで『今年も過ぎた』」。好きな歌の一つだという。

「日常をうたって短歌の革命を起こした」「初めて『散歩』という言葉を使った」――。中村さんの講演からいくつか刺激を受けたものがあるので、考えがまとまったらいずれ誰かの意見を聞いてみたい。

2008年7月28日月曜日

キャロルとスナイダー


「プレイボーイ」9月号の新聞広告には驚いた。総力特集「生きる意味を知る言葉 詩は世界を裸にする」だと。<池澤夏樹が選ぶ20世紀の詩人10人>と<『プレイボーイ』が選んだ世界の詩人たち>を取り上げている。

早速、本屋へ出かける。若いころ、何度か買ったことがあるような、ないような。それ以来だから30年余はたつ。レジの前でドキドキするようなことはなかったが、総力特集を除けば、いかにも「プレイボーイ」誌らしい。生まれたままのイヴ路線は健在だ。

ゲーリー・スナイダー(米国)。気になる詩人の一人である。「キャロルに」と献辞が添えられた「道をそれて」という詩が紹介されていた=写真。一言でいえば「山中深く/二人並んで/岩を超え 森に分け入っていくこの散歩」をうたったものだ。スナイダーは森を巡る人間なので、かねて興味を抱いていた。

で、キャロルとはキャロル・コウダのことだ。スナイダーの妻になった日系アメリカ人。キャロルにささげられたスナイダーの詩集『絶頂の危うさ』(原成吉訳=思潮社刊)に、キャロルの母ジーン・コウダをうたった詩「コーヒー、市場、花」がある。

<ぼくの義理の母は/アメリカ生まれの日本人で/仲買人には手強い/頭が切れる商売人/裸足で働きながら育ったのは/サクラメント川が作るデルタの農場。/日本が好きではない。/コーヒーのマグを片手に/朝早く、窓辺にすわって/(1行あき)桜の花を見つめている/ジーン・コウダ/かの女に詩はいらない。>

詩集の最初の注釈「キャロル」と合わせて整理すると――。キャロルの母、ジーンは日系アメリカ人で、カリフォルニア州ドス・パロスで農業(稲作)を営んでいた日系二世のウイリアム・コウダと結婚し、2人の娘メアリーとキャロルをもうけた。

「稲作」「コウダ」とくれば、すぐ思い浮かぶのはいわき市小川町出身の「ライスキング」国府田敬三郎。『国府田敬三郎伝』に当たるまでもない。キャロルは「ライスキング」の孫だ。敬三郎・愛恵夫妻の間にウイリアム(真一)・エドワード(敬二)・フローレンス(米子)の3人の子どもがいて、ウイリアムはジーンと結婚する。

注釈に戻れば、キャロルは何年か小学校の先生をやり、医師助手の資格を取って診療所で働いた。登山家・ナチュラリスト・鳥類研究家・環境保護活動家と多彩な顔をもつ。1991年、スナイダーと結婚し、その年にガンの宣告を受けた。闘病生活を続けたが、2006年に亡くなる。享年58。

いわきとは直接関係がないといえばその通りだが、勇躍渡米し、辛酸をなめた末に恒産を築いた一世、アメリカ人として太平洋戦争にも志願して戦った二世、多文化社会のなかで生きるキャロルら三世、四世のつらなりとアメリカ社会への広がりが垣間見える。

それぞれのルーツへの関心は違っていようが、キャロルに祖父の生まれ育ったいわき市小川町はどう映ったか。関心があったか、なかったか。スナイダーと同様、キャロルも気になる存在になった。

2008年7月27日日曜日

天然氷のオンザロック


夏井川渓谷にヒグラシの輪唱が響く夕方、万緑の対岸を眺めながら独酌を始める。ちょうどもらったばかりのいわきの地酒「又兵衛 原酒」がある。オンザロックにした。氷は天然氷である=写真。

極寒期の1月末、対岸の「木守の滝」にできた氷柱をかち割って持ち帰り、冷蔵庫の冷凍室に入れた。毎年、梅雨が明けると「氷室開き」と称して、ひとりオンザロックを楽しむ。そのときまで半年弱、天然氷を眠らせておくのだ。

いつもの土曜日だと、「マルト平窪店」でカツオ半身を買い、包丁を入れて酒の肴にし、李白をまねて「一杯一杯復一杯(イーペイ・イーペイ・フー・イーペイ)」といくのだが、今回(7月26日)は平沼ノ内の土曜朝市で手に入れたイカがある。朝はイカ刺しにしたので、晩はバター炒めだ。

米をといでご飯を炊く。自宅から持参した酒のつまみをそろえる。イカはゆでてあるので、輪切りにして炒める。さあ、用意はできた。グラスに天然氷を入れて酒を注ぐ。冷えたところをグビッとやる。温かいイカを口に入れる。間に、やや酸味のあるキュウリの古漬け、甘く煮付けた巻き貝、インゲンの素揚げを口に運ぶ。味と歯ごたえ、温度の落差・変化が食事の単調さをカバーする。

グラスを電灯にかざすと、ほんのり白い煙が立った。指の熱が伝わって「霧」が発生したのか。それともグラスを持ち上げた瞬間、昼のほてりが残る空気が急冷されて「霧」ができたのか。

ヒグラシの輪唱が終わったら、人間の音楽が始まった。CDではなく、カセットテープで井上陽水、河島英五、U2、エンヤを聴く。いずれも現役のころ、職場の若い仲間や知人がプレゼントしてくれたものだ。

天然氷はゆっくり凍るので緻密、だから溶け方もゆっくりしている。カセットテープをかけ直し、グラスに「又兵衛」を注ぎ足しているうちに、1時間余が過ぎた。それでも氷はまだ殻付き落花生の大きさで残っている。また氷を入れたら飲み過ぎるだろう。珍しく自分にブレーキをかける。9時前にはご飯を食べて床に就いた。

2008年7月26日土曜日

チョウゲンボウの停空飛翔


夕方、夏井川の河川敷にあるサイクリングロードを歩いた。日没までは1時間余、まだまだ昼の蒸し暑さが残る。上着を汗でびっしょりぬらした熟年ウオーカーもいた。

首からデジカメをぶら下げるのはいつものことだが、レンズを換えた。105ミリのズームレンズが家の中から出てきたので、それを装着した。なにかあれば試し撮りを――。身構えながら行くと、早速、被写体が空に現れた。ハヤブサの仲間のチョウゲンボウだ。

チョウゲンボウが随分低い所でホバリング(停空飛翔=空中静止)をしている。散歩の人間が近づいても気にしない。旋回してはホバリングをし、ホバリングをしては旋回する。二度ほど草むらに舞い降りたが、獲物(ネズミ?)をつかむまでには至らなかった。いつも成功するとは限らないのだろう。

鳥とはいえ、重力に逆らって空中に静止しているわけだから、ホバリングにはかなりのエネルギーを使う。メスはそれで、より体の小さいオスをパートナーに選ぶのだという。体の大小でホバリングの時間に差が出、獲物を捕らえる回数が違ってくる。となれば、子育てにも影響する。

チョウゲンボウのホバリングを見ると、私は決まって体操競技のつり輪を連想する。筋肉隆々とした男子選手にとって、腕を水平にして体を支える「十字懸垂」や、下向きに垂直に立てた腕で体を水平に支える「水平支持」は力のみせどころに違いない。その延長で重力を感じさせないホバリングにもぐっと力が入るのだ。

レンズを通して見ると、チョウゲンボウのホバリングは影絵になる。山にもやがかかっているくらいだから、晴れの日より光は弱い。それでもめったにないチャンスだ。目いっぱいレンズを伸ばしてシャッターを押し続けた。デジスコのような写真ははなから無理だが、証拠写真にはなる。

空に浮かんだ小さな影絵である。写真にしてみると、尾羽の広がり具合や翼のかたちが分かる。私のレベルではまあまあの出来というべきか=写真。

2008年7月25日金曜日

ノウゼンカズラと竹ぼうき


ノウゼンカズラの花が咲き出した。赤みがかった「ラッパ」が次から次に色の音楽を奏でる。一夜明ければそのままの形で地面に落ちている。一日花らしい。

中国原産の落葉つる植物だが、鮮やかな花が好まれるのか、あちこちの庭に植えられてある。この十数年、四季を問わずに見てきたノウゼンカズラも、どっさり花を付け始めた。週末、平から夏井川渓谷へ泊まりに行く途中の道沿いにある。

民家の庭の一角、もとは外灯かなにからしい鉄柱に巻きついたつるはニシキヘビ並みに太い。それが夏になると独立樹のように葉をまとい、花を咲かせる=写真。花の時期には必ず根元に竹ぼうきが立てかけて(というより、つるして)ある。毎朝、地面に落ちた花を掃き集めているに違いない。この十数年、変わらない光景だ。

それ以前にも竹ぼうきはつるしてあったことだろう。なにしろ花の数が半端ではない。それが、毎朝落ちているのだからほうってはおけない。花をめでながらも掃き掃除を日課にしなくてはならない人間の心理が、つるされた竹ぼうきによくあらわれている。

1週間に一度、その前を往復するだけの人間にさえ印象深い「ノウゼンカズラの木」だ。毎日通勤・通学しながらその前を通る人にはなおさら忘れ難い植物だろう。ノウゼンカズラといえば真っ先にこの花が思い浮かぶのではないか。夏の原風景の一つといってもいいくらいの美形として。

そして、私には竹ぼうきが物語る花と人間のかかわりがゆかしく思われる。花言葉は「名声・栄光・名誉・女性」。なるほど、誇り高く妖艶な感じがしないでもない。

2008年7月24日木曜日

「あっ、ラジオ体操だ」


早朝6時からまりに散歩へ出る。同じ散歩組の大人とすれ違っても、子どもには会わない。それが、親子でサイクリングをしたり、遊園地で子どもたちがおしゃべりをしたりしているのを見かけるようになった。

ある日、いつもの時間より小一時間遅れて散歩へ出た。と、近くの県営アパートの内庭に子どもたちが集まっているのが見えた。その先、スーパーの駐車場にも子どもと親たちが集まっている=写真。すぐ音楽が聞こえてきた。「♪新しい朝が来た 希望の朝だ…」。懐かしい歌である。「ラジオ体操会」が始まったのだ。

散歩の時間が少し早かったために、夏休み恒例の行事が行われていることを知らなかっただけで、子どもたちは親がそうしたように早起きして体を動かしている。半分は寝ぼけまなこで。

散歩コースの中では何カ所でラジオ体操会が行われているのだろう。偶然目にして分かったのは3カ所、いずれも新興住宅地だ。

今の「ラジオ体操の歌」は昭和31(1956)年3月に発表されたという。作詞藤浦洸・作曲藤山一郎。初期のテレビ放送でおなじみの人がコンビを組んだ。子どもたちはその年の夏休みから「♪新しい朝がきた…」を耳にし、歌いもしたわけだ。

私はそのとき、小学校2年生。ラジオ体操会は小学校の校庭で行われた。朝起きて学校へ駆けつけるのがつらかったのを覚えている。ただし、そのあとは子どもの時間。朝食を済ませると、町内の神社へ集合して夏休みの宿題をやる「緑陰教室」が待っていた。それが終われば川へ水遊びに行くか、町の裏山へセミ捕りに行くか、どちらかだ。というわけで、急に少年時代の情景がよみがえった。

半世紀も前のそれと目の前のラジオ体操会は、しかし同じではない。今は子どもの数と同じくらい大人がいる。昔はもっと子どもの自主性にまかせていたような気がするのだが。それも子どもに目をかけすぎるくらい目をかける時代の反映か。

2008年7月23日水曜日

夏井川渓谷の駐車場復活


夏井川渓谷随一の景勝、「籠場の滝」の少し上手に、県道小野四倉線に沿って駐車場がある。昨年秋、完成直後に襲った台風9号で川がはんらんし、岸辺ののり面がズタズタにえぐられた。まずは秋の紅葉シーズンにと整備されたのが、シーズン前に立ち入り禁止になった。

今年3月下旬に災害復旧工事が始まり、実質3カ月ほどで駐車場が復活した。

今度は籠マットが何段にも組まれている。わきに設けられていた工事の案内標識では、籠マットは現行マットの上に階段状に2段、計3段とする計画だったのが、復旧したのり面を見ると最大7段になっている=写真。

上流側から7段→6段→5段→4段→3段→2段→1段(現行マット)と、水流・水圧を計算して段数を調整したようだ。再びのり面がえぐられるようなことがあってはならない。そんな稚拙な仕事では恥の上塗りになる――というわけで、随分と念入りにやったものか。

夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)では最近、岸辺の杉林(私有地)が伐採されたために1カ所、ぽっかり開けた空間が出現した。無量庵の隣である。籠場の滝付近のこの駐車場も、もとは川に沿う細長い杉林(私有地)だった。ここも駐車場になって空間がぽっかり開けた。

無量庵の隣の空間は、眼下の渓流と対岸の森を眺めるにはいい場所になった。岩盤と赤松、ほかの木々のバランスが絶妙なポイントが真向かいに現れた。復旧なった駐車場からの眺めも広い。谷から深い山のてっぺんまで見渡せる。

何年か後には、岸辺にやぶができて部分的に視界が遮られるようになるだろう。現出した二つの「新景観」を目に焼き付け、記録し、楽しむには、今が一番か。

2008年7月22日火曜日

軒下にハチの巣が


日曜日(7月20日)、夏井川渓谷の無量庵へ息子が子ども(つまり孫)を連れて遊びに来た。廊下に立つとすぐ、風呂場へ通じる洗面所の軒下を見上げながら「ハチの巣がある」と言う。言われた方を見ると、ソフトボールよりは大きい、丸い巣があった=写真。盛んにハチが出たり入ったりしている。巣をつくっている最中だ。

1週間前には気づかなかった、というよりなかったはずだ。ここ何日かで働きバチたちがせっせと巣材を運び込み、球状の巣を築き始めたのだろう。2メートルも離れていない同じ軒下に直径10センチ大のハチの古巣がある。焼き物でいえば、新旧ともに同じ「練り込み」。アシナガバチの古巣も風呂場の壁に残っていた。どうもそこら辺はハチの巣に格好の場所らしい。

何年か前の朝、カミサンが風呂場のわきで草刈りをしていて、キイロスズメバチに刺されたことがある。やけどをしたような痛みが治まらないので、いわき市立総合磐城共立病院の救命救急センターへ車を走らせた。前日、よその町でハチに刺された男性が死亡する事故が起きていた。冷静ではいられなかった。

ドクターの指示で、点滴を打ちながらしばらく様子を見ることにした。呼吸困難といった急変はなかったため、カミサンはやがて帰宅を許された。ドクターの言葉が耳に残っている。「今度刺されたら、すぐ救急車を呼ぶように」

巣をつくっているのは同じキイロスズメバチである。カミサンが刺されたときは、風呂場の板壁のすきまに巣があった。その出入り口のそばで草を刈っていたためにチクリとやられたのだ。

軒下や樹枝の巣は、大きいのでは直径50センチを超えるものもあるそうだ。カミサンはむろん近づくべきではないが、ハチたちを刺激しないように巣の真下に行かなければ、まず大丈夫だろう。農家がそうするように、秋がきて「空き巣」になれば、「家宝」として床の間にでも飾っておくか。

とはいえ、そこにハチの巣があると知らずに近づく人間がいないとも限らない。注意喚起の立て札を軒下の前に設け、近くの窓には開放注意の紙を張ろうか、などと考えている。8月になると、息子の仲間が何日か泊まる予定というから。

2008年7月21日月曜日

「木もれび」の庭のキノコ


「いわきアート集団はアートの表現で地域社会とコミュニケーションを図り、アートと市民の協働の『場』づくりを大切にし、アートを気軽に楽しみ親しめる事を目的にしています。ジャンルは絵画、彫刻、版画、書、写真、陶芸、織染、布、クラフト、等々の作家集団です」(展覧会案内状から)

いわき市好間町榊小屋のギャラリー「木もれび」で「いわきアート集団」の2期展覧会が今日(7月21日)まで開かれている。1期は6月(5~9日)に開催された。

で、昨日の日曜日(7月20日)午後、夫婦で出かけた。ひととおり作品を見たあと、テラスで芝生の庭を眺めながらお茶をごちそうになった。前に来たときと違って、庭がところどころ盛り上がっている。ン! キノコではないか。

1つ2つ採ってテーブルに置くと、がぜん興味を示す女性がいた。アート集団の一員の木版画家だ。彼女は庭をへめぐり、大きな木の葉と、形も色も異なるキノコを何種類か採って来た。

そこからが、私などとは違っていた。木の葉を皿代わりにしてキノコの形や大小、色を見ながら並べる。<おや、アートと同じ行為だ>。私は食・食不適・毒の三つに分類することしかしない。版画家はそんな実用性とは程遠い世界から心を遊ばせる。

彼女の並べ方に刺激を受けて、じっくり庭を歩いてみた。すると、また何種類かキノコを採集することができた。彼女もまた何個かキノコを採って来た。森に比べたら猫のひたいのような庭だが、それでもアイタケなど10種類のキノコが採れた。もっとあるかもしれない。

さて、わがカミサンも調子にのって、茶わんと一口まんじゅうが載っていた皿にキノコを飾った。料理の盛り付けと同じ要領で手が動く。意味よりバランス――がポイントらしい。

キノコを会場のアクセントとして誰かの作品のそばに置いた。意外と存在を主張する。<タイトルと作者名をつけたら、立派な作品だ。キノコがアートになる>と再度、思った=写真。

2008年7月20日日曜日

ヤマユリと梅雨明け


昨日(7月19日)、東北地方の梅雨が明けた。梅雨入りは6月19日で平年より9日遅く、梅雨明けは平年より4日早かった。梅雨期としては、31日間は短い方だろう。期間中の降水量は101.5ミリ、平年の7割弱というから、空梅雨だった。

この日午後、いわき市文化センターでいわき地域学會の市民講座が開かれた。講師は不肖、この私。「三春ネギのお話」と題して1時間ほど駄弁を弄した。歩くだけでも熱中症になりそうな蒸し暑さの中、足を運んでくれた人たちには深く深く感謝したい。雑談(質疑応答)のなかで市販ネギの味気なさを訴える人が何人かいたのが、面白かった。

週末である。市民講座のあと、夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵へ車を走らせた。渓谷の緑のトンネルに入ると、道端のヤマユリが大輪の花を咲かせていた=写真。火曜日(7月15日)にはまだつぼみだったから、水曜日以降に一斉に咲きだしたらしい。蒸し暑さにげんなりし、しゃべり疲れていた頭と体が、急にシャキッとした。

記憶の蓄積の作用とでもいうのか、ヤマユリの白い花を見るとすぐ入道雲の広がる夏空を連想する。

阿武隈高地で過ごした子ども時代、町の裏にある雑木山が遊び場の一つだった。夏休み、セミを捕りに山へ行くと、道端にヤマユリの白い花が咲いていて、強烈な香りをまき散らしていた。毎年、ヤマユリの花を見るとその記憶が立ち上がり、梅雨が明けて夏がきたことを実感するのだ。

無量庵にあるヤマユリの花を1輪、つぼみを1輪切って、テーブルに飾った。小中学生の夏休み初日、梅雨が明けた日、今年初めてヤマユリの花を見た日――。独酌しながら、それらの重なりを面白おかしく感じているうちに、やはりまだ屈託とは無縁だった子どものころの夏休みの思い出が次から次にわいてくるのだった。

2008年7月19日土曜日

クチナシの花咲く


いわき市の国道6号バイパス終点「神谷ランプ(本線車道への斜道)」に、照葉樹で構成された「草野の森」がある。平成12(2000)年3月、事業の完成を記念して、植物生態学者の宮脇昭横浜国立大学名誉教授の指導で、地元の小学生らがポット苗を植えた。それが活着して森らしい雰囲気をかもしだすようになった。

斜面にはタブノキ・シイ類などの高木、平地にはヒラドツツジやクチナシなどの低木が押し合いへしあいしている。花も地味ながら、ヒラドツツジから始まってマルバシャリンバイ、トベラ、ネズミモチと交代し、今はクチナシに出番が回ってきた。

しばらく緑色のつぼみでいたあと、ほぐれて白と緑色の煉り込み状態になり、一気に清楚な白い花を咲かせる=写真。純白の色はやがて汚れたように黄色く染まる。朝晩、そこを通るが、香りはそんなに強くない。クチナシの花の芳香は真夜中が一番強いという。

それで思い出した。まだ18歳の学生だったか、仕事に就いたばかりの22歳だったかは定かではないが、夜、平旧城跡にある恩師夫妻の家を訪ねると、庭の一角に闇から浮き出るようにして咲く白い花があった。すぐ強い香りに包まれた。そのとき初めて、それがクチナシの花だということを知った。

夫は画家、妻は音楽家という恩師夫妻から、さまざまなことを学んだ。武満徹、黛敏郎、菅井汲といった「同時代の芸術家」を知ったのもその家でだった。

クチナシの花は、生まれ育った阿武隈高地では見た記憶がない。それもあって、恩師夫妻の家で出合ったクチナシの花が強烈な印象として残ったのだろう。クチナシの花を見ると、渡哲也の歌よりもなぜか武満徹の音楽を思い出す。

2008年7月18日金曜日

落果する庭のプラム


わが家の小さな庭にプラムの木がある。長男の小学校卒業だか、中学校入学だか忘れたが、「記念樹をどうぞ」という便りがあって苗木を購入したのだった。たぶん小学校の卒業記念だろう。

それから二十数年がたつ。植えて何年後かに実が生(な)りだした。初めのころは実の生るのが面白くて、せっせと収穫した。が、子供たちが家を出ると口にするのは夫婦だけ。枝という枝にびっしり実を付けるから食べきれるものではない。で、ついつい家へ遊びに来た人に迷惑も顧みず分けてやる、という仕儀になる。

今年も実が赤くなってきた=写真。「早くプラムを取ってちょうだい」。カミサンが口を酸っぱくして言う。そのつど、「うー、うー」と生返事を繰り返す。3日、4日とうっちゃっておいたら、落果が始まった。庭の方から饐(す)えたにおいも漂ってくる。いよいよ木登りするしかないか、と観念した。

剪定は過去に一度したきり。肥料もやらない。まったくの手抜きだが、実だけは立派に生る。よく見ると、何カ所か枝が折れていた。鈴生りの実を支えきれなくなったのだ。こずえの方の実はあきらめて、腕が届く範囲の実だけを収穫する。それでも結構な数だ。

サクランボと同じで、赤く黄色い実がうまい。果肉が締まっていて甘酸っぱいのだ。木の上でそれを食べたら、少年時代の情景が思い浮かんだ。そのころはプラムなどというハイカラな名ではなく、「スモモ」(別名ハタンキョウ、略して「ダンキョ」とも)と呼んでいた。

思い出は思い出として、3個も食べるともういけない。あとはカミサンに渡して「好きなようにしてくれ」となる。今年も遊びに来た人に押し付けるようになるのだろうか。

2008年7月17日木曜日

インゲンの素揚げ


日曜日に野菜を直売する「三和の里うまい菜市」では、主催者がちょっとした手料理を持ち寄って客に振る舞う。去年、Nさんがつくったインゲンの素揚げを食べて病みつきになった。

作り方はいたって簡単。取り立てのインゲンを素揚げにして、おろしショウガとニンニクを加え、薄めためんつゆにひたしておくだけ=写真。冷蔵庫で冷やしたのを取り出して酒のさかなにする。ひんやりして、軟らかい。夏の暑い盛りにはもってこいの一品だ。

わが菜園のつるなしインゲンが花を咲かせ、実をつけるようになった。自分で栽培して分かったのだが、インゲンはしっかりしていて軟らかいのがイノチだ。いわきは山間部の川前・三和が産地。かつては「インゲンといえば川前」の高い評価を市場で得ていた。「うまい菜市」のインゲンも川前に負けてはいない。

『昆虫記』で知られるファーブルは無類のインゲン好きだった。『ファーブル伝』イヴ・ドゥランジュ著/ベカエール直美訳(平凡社刊)に、こうある。

「この世に神様の野菜があるとすれば、それはぜったいにインゲンだ。インゲンはそれだけであらゆる長所をもっている。しなやかな歯ざわり、心地よい旨味、豊富さ。そのうえ、廉価で滋養がある。(中略)プロヴァンス語はその役目をうまく表現して、インゲンのことを『グンフロ=グス(腹を膨らませる豆)』と呼んでいる」

フランス料理に欠かせない食材とはいっても、庶民が口にするもの、という点では東も西もない。それをうまく食べようと一工夫したのが、素揚げのめんつゆびたしだ。ハマにはさまざまなカツオ料理がある。それと同じように、ヤマにはさまざまなインゲン料理があるのだ。

「三和のスローフード」の一つ、「インゲンとナスの油みそ」は夏のピリカラ食欲増進おかずだ。冷蔵庫に入れておけば1週間~10日はもつという。「インゲンとジャガイモの煮物」は定番。阿武隈高地では普通に食される。「インゲンの佃煮」なるものもある。

素揚げだけでなく、インゲンをもっともっと楽しもう。といっても、カミサンに料理の注文を出すだけではしかられる。油みそなら、なにか加えるものを増やすなどして独自のものができるかもしれない。論より証拠を示せ(自分でやりなさい)、ということになりそうだが。

2008年7月16日水曜日

ハチクマのいる谷


日曜日(7月13日)の早朝、いわき市小川町上小川の磐越東線江田駅前で会った野鳥の会いわき支部の「行動隊長」氏は、「夏井川渓谷のハチクマ」がお目当てだった。そのことをおととい(7月14日)、紹介した。

彼との話で、久しぶりにいわきの野鳥の現況を知った。野鳥を含む夏井川渓谷の生き物について二、三、分かったことを書く。

まず、夏鳥のアカショウビン。何年か前に一度、「キョロロロロー」という鳴き声を聞いた。その話をすると、この渓谷に来てもおかしくないという。幻聴ではなかったのだ。

アカショウビンのえさは大半がカエル。すぐ思い浮かぶのは渓流のカジカガエルと林内のアカガエルだ。渓流には赤土の層がないので、アカショウビンが渓谷で営巣するとすれば、キツツキの古巣を利用するはずという。以後、鳴き声は聞かないから飛来・繁殖はないのだろう。

冬に渓谷の小集落でニュウナイスズメを見たことがある。一度きりだったので見間違いかと思っていたが、いわきへもいっぱい渡って来る。見間違いではなかったのだ。同じ冬鳥のアトリは一度、大群が渓谷へ現れた。いわきでは少ないという。主に西日本で越冬する。

エゾハルゼミが渓谷に生息していること、夏鳥のコムドリがいわきの市街地で繁殖していることなども、「行動隊長」氏の話で分かった。

さて、「行動隊長」氏お目当てのハチクマは夏鳥である。ハチの幼虫を好んで食べるから「ハチ」、同じタカの仲間のクマタカに似ているから「クマ」、合わせて「ハチクマ」という名前をちょうだいした。狩りをしているとすれば、渓谷の高い尾根=写真=に巣があって、そこから徐々に谷へ降りて来るらしい。

ハチクマが飛来したからといって簡単に見られるものではない。この日、「行動隊長」氏はスコープを装着した三脚をわきに置いて、双眼鏡で空を追った。ハチクマの代わりにすぐ、裏山を旋回するサシバのつがいをスコープでとらえた。松のこずえに雌が止まっていた。つがいで飛び交っていたからひなが孵ったのかもしれないという。

スコープの威力はすごい。すぐそばにいるような鮮明さでサシバが羽を休めていた。デジスコ写真はそうして撮影するものなのだと納得した。ただし観察より撮影を優先するアマチュアカメラマンがいる。むやみに巣に近づくと子育てを放棄する鳥がいるが、そのことには思いが至らないのだ。そういう人間に限ってマナーも悪い。ごみを置いてくる。

人間と自然の交通とは何か。人間が一方的に自然から資源を収奪するだけなら、その資源はいずれ枯渇する。野鳥の写真が撮れればいいというだけの人間の感覚もそれに近い。鳥に迷惑をかけない、来たときよりきれいにして帰る――自然に身を置く人間には、この慎み深さが要求される。

慎み深いうえに考え深い「行動隊長」氏はしばらくねばっていたようだが、ハチクマにはたぶん出会えなかっただろう。代わりにホオジロやサシバを観察して十分、満足したはずである。

2008年7月15日火曜日

夏野菜の収穫


キヌサヤエンドウの収穫が一段落ついた。夏井川渓谷にある「週末菜園」だから、取り残しがあると実(み)が過熟になっている。表から裏から、上から下から、丹念にエンドウのつるをチェックして、若く未熟なさやを摘み取る。1週間単位でみると、咲く花の数は相当なもの。合計すればかなりの量を収穫したことになる。

峠を越したサヤエンドウに代わって、キュウリ=写真=とつるなしインゲンが取れ始めた。キュウリを取り残すとヘチマのように肥大する。サヤエンドウは1週間に一度でもなんとかなったが、キュウリはそうはいかない。生長が早いので、3日に一度は菜園をのぞくようにしなくてはなるまい。

今年はこれがきつい。なにせレギュラーガソリンが1リットル当たり180円前後とくれば、キュウリ2、3本を摘み取るのに平のまちから車で往復40キロ、リッター20キロとして360円はかかってしまう。遠出もできない、菜園にも行けない――では、庶民の不満・怒りは鬱積するばかり。こんな事態を招いた政治に批判の矢が向かうのは必定だ。

菜園自体がかかえる問題もある。三春ネギは順調に生長しているようにみえたが、ネキリムシがあちこちにひそんでいた。苗床でもかなりのネギ苗がちょんぎられた。今度は太く長くなった若ネギだ。毎週、数本がかじられて倒れている。毎回指で土をほぐし、指輪のように丸くなって出てきたネキリムシをブチっとやる。この繰り返しだ。アーティーチョークの葉も、それで姿を消した。

7月もはや中旬。よその菜園、たとえば平地の夏井川のそばにある畑では、早くも秋野菜の準備に入った。石灰を散布して中和し、元肥えを施して、月遅れ盆あたりには白菜や大根の種をまく。そういう段取りで作業を進めているのだろう。

広いスペースが取れるところはそれもできるが、わが菜園は文字通りの「ベジパッチ」だ。空いたスペースが少ししかない。去年は白菜を栽培したから、今年はアブラナ科の野菜を休まなくてはならない。代わりになにを作ったものかと思案が続く。

2008年7月14日月曜日

クイナではなくキジの雌だった


7月13日朝7時、磐越東線江田駅前の県道で――。

土曜日の夜、私はたいがい夏井川渓谷の無量庵に泊まる。翌日曜日は、カミサンが一番か二番列車でやって来るので、時間をみて最寄りの江田駅へ車を飛ばす。13日もそうして、一番列車が着く前に江田駅へ向かった。

駅に近づくと、はるか前方の道路をトコトコ歩いている雌鶏大の鳥がいた。<クイナか>。私の車と鳥の距離はざっと100メートル。すぐ駅の直下、2軒の店にはさまれた道路沿いの広場に停車すると、カメラを持って鳥を追った。

ちょうど同じタイミングで対向車が現れた。鳥に気づいて徐行し、鳥が民家の庭へそれると、私の車の前の道路で停車した。

その車にかまわず、私は鳥を追った。生け垣の先、草が茂った庭に鳥がいて、私が顔を出すと慌てて姿を隠した。かろうじて2回、シャッターを押すことができた。ピンが甘い。どこに鳥がいるかは、写真からはなかなか分からない=写真=が、とりあえずは映っている。

車に戻りかけると、道路に立ってあいさつする人がいる。道路に止めた車の持ち主だ。なんと野鳥の会いわき支部の「行動隊長」とでもいうべき知人ではないか。会うのは数年ぶりだ。彼も<クイナか>と思って車を減速し、すぐキジの雌と分かって車を進めたという。クイナであれば、その場で車を止めて撮影に入ったことだろう。

なんでこの時間に? 「夏井川渓谷にハチクマがいるという情報が入ったものですから」。ハチクマはタカの仲間だ。同じタカの仲間のオオタカや、夏に渓谷へ渡って来るサシバは承知しているが、ハチクマは初耳だ。俄然、興味がわく。

立ち話をしていると、一番列車が着いてカミサンが降りて来た。けげんそうな顔をする。それはそうだ。その時間に私が人としゃべっているのは初めてだから。

時間と場所と「クイナ」と、二人を引き合わせてくれた偶然に感謝し、「ハチクマの観察が終わったら、無量庵へ寄ってよ」ということで、その場は別れた。続きは後日。

2008年7月13日日曜日

夏井川渓谷の「崩れ」後日譚


夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)の両岸には幾重にも国有林が広がる。磐城森林管理署の区分では、わが無量庵の真ん前(右岸)は「いわき市三和町下永井字軽井沢国有林3い林小林班外」だ。

東北電力が水力発電所の導水路をチェックする巡視路が川に沿って伸びている。行楽客の遊歩道を兼ねる。1カ所、落石が常態化した斜面がある。最近、大きな落石があったために、立ち入り禁止のロープが張られた。で、そこを「崩れ」と呼んで行楽客に注意を喚起せねば、という話を書いた(7月1日)。

昨日(7月12日)、対岸へ渡ると通行が可能になっていた。「崩れ」のそばに「国有林野許可標識」が立っている。東北電力が巡視路敷76平方メートルを借り受けた、というのが内容だ。

まず、その地が「いわき市三和町…班外」であることが、それで分かった。電力が「崩れ」に残っている浮石を除去して巡視路敷に集めるために、森林管理署の許可をもらったのだろうか。にしては、借り受け期間が落石前の平成19年4月1日~同22年3月31日になっている。面積も小さい。

道端から川岸側に大量の石が積まれてあった=写真。浮石を除去して、道に沿って帯状に石をそろえたのだ。細長い面積、たとえば19メートル×4メートル=76平方メートル=を想定すると、借り受けた巡視路敷はそこか、となる。

見上げると、斜面の浮石はかなり減っていた。注意しながら通り過ぎる。久しぶりに森の奥へと分け入った。林内は特に変わった様子もなかったが、澄んだ声で鳴いている鳥がいた。オオルリではない。キビタキでもない。クロツグミだろうか。キノコは、乾きかけたドクベニタケが1個あるだけ。

帰路、再び「崩れ」を観察する。落石の供給源とみられる岩盤が中腹にのぞいていた。なんだか岩が層を成している感じである。その層に沿って風化・剥離が起きるのか。当面は危険度が下がったとしても、時間がたつとまた崩落が起きる。それを忘れると痛い目に遭う。

夕日が尾根に沈んだころ、無量庵で独酌を始めた。「崩れ」の斜面が滑り台のようになっているのを思い浮かべながら、グイっとやっていると、裏山からかすかに「カナカナカナ…」が聞こえてきた。今年初めてのヒグラシの声。夕方にはニイニイゼミが物寂しげに鳴いていた。それも今年初めて聞いた。梅雨の晴れ間、夏井川渓谷にも夏の色が濃くなってきたようである。

2008年7月12日土曜日

勿来は今も「副都心」?


北茨城市の茨城県天心記念五浦美術館で、いわき市の写真集団ZERO作品展(7月9~13日)を見た帰り、植田ショッピングセンター=写真=で買い物をした。「キュウリがないよ」とカミサンが言うから、昔、3年間勤務した植田で用を足すのもいいか、と思ったのだ。

キーテナントのイトーヨーカ堂が撤退したあとに入った藤越で、キュウリ・ナス・ピーマンなどを買う。ついでに2、3階をのぞく。「完全閉店セール」をしている店があった。

再開発ビルが建って様変わりしたいわき駅前と、私が着任したときから数えて27年変わらない植田駅前と、二つを比較しているうちにだんだん悲しくなってきた。<勿来地区は相変わらずいわき市の『副都心』か>。勿来地区出身の知人と、勿来地区のことをしゃべったばかりだったから、よけいそう思ったのかもしれない。

私は、いわき市が「超広域都市」のために、いまだに全体像がつかめない。で、それをカバーする手段として、いわきを三つの流域の連合体とみることを勧めている。北から言うと、夏井川(旧平市が中心)、藤原川(旧磐城市=小名浜)、鮫川(旧勿来市が中心)だ。それが一番、自然にかなった地域観だと信じているのだ。

モータリゼーションと「土建行政」が縄をよるようにして郊外の開発を招き、中心市街地の空洞化をもたらした。その反省も踏まえて、広いいわきではなく住民により身近な場で行政を展開するには、流域ごとに地域をみる、そこで自主的なまちづくりを進める――というのが私の考えだ。

いわき駅前が「いわきの中心市街地」になったのは、「一市一中心市街地」の建前による。中心は二つも三つもないというが、そもそもいわき市は楕円球のような「多焦点都市」である。中心は一つではないのだ。再開発ビルと芸術文化交流館で活気づく平、ウオーターフロントに磨きのかかる小名浜、そして「副都心」のままの勿来。

税金面ではかなり貢献しているが、予算面ではかなり割りを食っている。いっそのこと、勿来は遠野・田人と連合して、つまり「鮫川流域共同体」として独立してはどうか、あるいは平と同じように駅前を再開発してはどうか。あらためてそんなことを考えさせられる買い出しになった。

2008年7月11日金曜日

総合図書館長の憂鬱


まちづくり団体のサポーター「いわきフォーラム’90」のミニミニリレー講演会が先日(7月8日)、いわき市文化センター会議室で開かれた。回を重ねること292回で、小宅幸一いわき総合図書館長が「いわき市立図書館における平成20年度事業について」と題して話した。

食欲をそそられる題ではないが、総合図書館(いわき駅前再開発ビル「ラトブ」4、5階)の現状を知るにはいい機会である。久しぶりに例会場へ足を運んだ。

館長の話では、総合図書館の入館者は平日で約3,000人、土・日・祝日には4,000人超のときもある。貸し出し冊数は平均3,300冊で以前の2倍強になった。特にビデオ・DVD・CDといった視聴覚資料の閲覧・貸し出しが好評で、今まで図書館とは縁遠かった市民が足しげく通う呼び水になっている。これが入館者増の大きな要因の一つという。

地域ネットワーク化を推進したのも大きな特徴だ。地区図書館・公民館と総合図書館を結ぶ連絡車が毎日午前、午後の各1回運行している。最寄りの公民館へ出向いて読みたい本を申し込むと、それがあとで公民館へ届く。総合図書館オープンに合わせてスタートしたサービスである。図書館はこのシステムをもっとPRしていいのではないか。

悩みもある。4階の「子ども」コーナーには児童図書の書架のほか、遊具をそろえたプレイルームがある。これがざわつきの要因になっているため、遊具を取り除いて「母と子が向き合う空間」に組み替えた=写真。高校生のマナーの悪さにも苦慮している。

4階は北側が「子ども」コーナー、南側が「生活・文学」コーナーで利用者の出入りが多い。土・日曜日には雑踏状態になる。貸し出し業務について言えば、図書館のカウンターは列車(本)で旅する人々が交錯する駅の窓口に似ている。多少ざわつくのは当たり前だろう。私は、4階はそれでいいと思っている。

5階の「いわき資料」コーナーで調べ物をしているときには、確かにざわつかれては困る。が、幸いそんな目に遭ったことはない。水を打ったような静穏なイメージが保てるなら、それにこしたことはないが、くしゃみくらいは誰でもする。なにがなんでも静かにさせろというモンスター市民がなかにはいるらしいから、図書館長の憂鬱は尽きない。

当面の課題はレファレンス機能の充実だという。市民からの問い合わせに、図書館だけではこたえられない場合がある。その道、その分野に精通している市民がいるわけだから、その存在を把握し、了解をとって連絡網を構築しておけば、素早く市民の要望に対応できる。この人材バンクは市民の知的体力を上げるうえで大きな財産になろう。

6月に総合図書館が特別整理期間に入り、2週間近く休館した。すると「売り上げがダウンした」という「ラトブ」の商業者の話が館長の耳に入った。裏を返せば、文化・教育施設である総合図書館が「ラトブ」の経済にも寄与していることになる。文化がカネを生む時代がきたのだ。

各地から「ラトブ」の視察が相次いでいるのは、経済で疲弊した駅前地区(中心市街地)を再生するには、経済では無理、文化で――という思いが列島に充満しているからではないか。「一周遅れ」から「トップランナー」に躍り出たいわき総合図書館には、地元のみならず全国の期待がかかっている。

図書館内部のシステムを完全にするには2週間弱の特別整理期間では短い。が、「ラトブ」に同居する商業者の声も無視できない。総合図書館長は毎日、応用問題を突きつけられているような思いだろう。苦は楽の種だ。

2008年7月10日木曜日

飛んだのは「左七」?「さくら」?


夕方、家へ帰ったのはいいが、まだ昼の熱気が外にこもっている。日没時間を測りながら、ふだんより40分前後遅れて、6時半ごろ散歩へ出かけた。

夏井川(平中神谷)の堤防に着くか着かないころ、「コーコー」と鳴きながら川の上空を旋回する白い大きな鳥が目に入った。コハクチョウだ。この春、残留組に加わった幼鳥の「さくら」か。最古参の「左助」は仁井田浦で孤独を楽しみ、「さくら」と一緒にいる2羽のうち「左吉」は左の翼を、「左七」は右の翼をけがしている。飛べそうなのは「さくら」しかいない。

堤防の上に立つと、目前の夏井川にコハクチョウが2羽いて、旋回中の1羽が着水するところだった。<幻覚ではないだろうな。今、確かにコハクが1羽、空を旋回していた>。ちょうど散歩している人がいたので、確かめる。

「今、飛んでましたよね」
「シラサギですか」
「いえ、ハクチョウです」

急いでコハクチョウがいる岸辺へ行くと、1羽の姿が見えない。「左吉」と「さくら」はなにごともなかったかのように浅瀬にいる。「左七」はどこだ。飛んだのが「左七」だとしたら近くにいるはずだが、姿がない。

①上流の中洲に「左七」がいれば、飛んだのは「さくら」②中洲に「左七」がいなければ、飛んだのは「左七」か「さくら」のどちらか③「左吉」と「さくら」がそのまま浅瀬にいたとしたら、飛んだのは「左七」――とりあえず、中洲にある「白い物体」を確かめなくてはならない。家へ戻って、車で堤防へ出た。

と、今度は3羽がそろっている=写真。「左七」がどこからか戻って来たのだ。中洲の「白い物体」が消えていれば、上流から「左七」が下って来たことになる。それを確かめに行く。「白い物体」は残っていた。ごみだった。

3羽がいる岸辺へ戻る。対岸のどこかでじゃんがら念仏踊りを練習しているのだろう。太鼓と鉦(かね)の音が聞こえて来た。「チャンカ、チャンカ…」を聞くうちに、だんだん頭が冷静になる。

飛んだのは「左七」? 1羽が飛んでいたとき、「左吉」と「さくら」は寄り添うように岸辺にいた。それは間違いない。「さくら」が着水して、大急ぎで「左吉」の所へ戻るような時間はなかった。いずれまた旋回するはずだから、そのときにちゃんと確かめればよい。新たな楽しみができた。

2008年7月9日水曜日

昭和2年生まれのまなざし


せわしない明け暮れに、ふと庭のアジサイが目に止まる=写真。ただボーっとして花を眺める。それだけで少し心が穏やかになる。そんなときに、なにか深いところからわいてくるものがある。たとえば、「『昭和2年生まれ』のまなざし」という言葉――。

城山三郎さんの最後の随筆集と銘打たれた『嬉しうて、そして…』(文藝春秋刊)を読んでいたら、「昭和二年生まれの戦友へ」という題で同年生まれの作家吉村昭さんの死を悼む文章に出合った。

吉村さんは『城山三郎伝記文学4』に「昭和二年生まれの眼差し」という題で解説文を書いた。その一部。「私は、昭和二十年夏に敗戦という形で終った戦争に対する考え方は、その時の年齢によって相違するということを、エッセイに書いたことがある。極端に言えば、一歳ちがうだけで戦争観はことなっている」

で、城山さんの小説「大義の末」を読んだ吉村さんは「自分の戦争についての考え方が氏のそれと確実に合致し、それは同年生まれであるからだと思った」と確信する。その文章の一部を紹介しながら、城山さんは「戦友」である吉村さんとの思い出をつづり、故人の冥福を祈った。

同じ歴史小説の大家、4歳年上の司馬遼太郎さんが取り上げた人物は坂本竜馬や西郷隆盛、大久保利通など。「カッコいい英雄が登場して活躍することが多い」のに対して、城山さんら「昭和2年」組は「カッコいいヒーローはどうしても書けない」のだという。ゆえに司馬さんの作品と吉村さんの作品は対照的である、というのが城山さんの見立てだ。

「藤沢周平さん、北杜夫さん、結城昌治さんも昭和二年生まれである」と書く城山さんの「戦友」にもう一人、私はいわきの作家の故草野比佐男さんを加えたい。7月6日のこの欄に「『人名事典』にも間違いがある」という題で草野さんのことを書いた。

その中では触れなかったが、亡くなるほぼ1年前に発行された、いわきの総合雑誌「うえいぶ」の巻頭随想「玉川村金成」で、昭和20年の敗戦間際、農蚕学校の学徒援農隊として送り込まれた先での理不尽なふるまいを告発しながら、草野さんは「二度と再びあのような経験はしたくない、どんな人間にもおのがじしの生き方が保障される国であってほしい」と、“遺言”を若い世代に託した。

理不尽なふるまいに及んだのは教師や上級生や区長たち。「同年の吉村昭も、戦中に最も怖かったのは町内の隣組長や国防婦人会の女たちなどだったと述懐している」という一行を草野さんは添えた。草野さんの司馬遼太郎観も、城山さんと共通している。草野さんは司馬遼太郎の小説は、「『小説』ではなくて『大説』だ」といった意味のことをどこかに書いていた。

昭和2年生まれは、敗戦のときには18歳だった。22歳ではなく18歳だった、というところがポイントだろう。18歳という一番多感で白紙の胸に突き刺さったやじりは抜けない。城山さんは国会で個人情報保護法(2003年成立)の審議が始まると、敢然と反対の声を挙げた。驚き、そして感銘を受けたのを覚えている。反戦・護憲・平和が城山さんら「昭和2年生まれ」の共通した「まなざし」だったのだと思う。

2008年7月8日火曜日

日曜日の新聞


夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)の無量庵は、週末に雨戸を開けるだけだから新聞はない。私が無量庵へ通い始めた十数年前に一度、Mさんが新聞の勧誘に来た。Mさんとは初対面だった。あとでMさんに皮肉っぽく言われたが、そのとき、けんもほろろに断ったらしい。

仕事で関係することが分かってからは、よく顔を合わせるようになった。

月に3、4回、私が無量庵に泊まると、翌朝には何部か玄関先に新聞が置いてある=写真。渓谷の小集落へ配達に来たついでに、サービスで置いていくようになったのだ。私がセミ・リタイアしたあともそれは変わらない。いつか常駐するようになれば、当然、Mさんに連絡して新聞を取る。

さて、Mさんが渓谷へ現れるのは早朝5時前後。こちらはまだふとんの中だ。いつもサービスを受けるだけでは心苦しい。土曜日の夜、お茶菓子類を入れた紙バッグを、メモとともに玄関先に置いた。

メモにはこう書いた。「いつもありがとうございます 少しですがみなさんで食べてください 元気でやっています」

翌朝5時過ぎに玄関を開けると、新聞があった。私のメモが、返事を書き加えて新聞にはさまれていた。「ありがとうございます いただきます。7月6日、5:45分 はれ」。なんだろう、5時前には来ていたはずだから1時間ほど違っている。遅れていると勘違いして慌てて配達していたのか。

ま、それはともかく、Mさんとはメモを介して9カ月ぶりに“対話”した。辞めるあいさつをしていなかったという思いが、それで少しやわらいだ。今度は早起きして、庭にある畑の作物を見ながら話を聴こうかとも思う。いろんなことに精通している人なので。

2008年7月7日月曜日

クズは米国では侵略的外来生物


いわき総合図書館放出のリサイクル雑誌、「ナショナルジオグラフィック」2005年3月号をパラパラやっていたら、特集「侵略しつづける外来生物」が目に止まった。その<米国編>中の「緑の洪水」と題した見開き写真=写真=に、こんな絵解きがかぶさっていた。

「米国ジョージア州の自宅で、車を覆い尽くす勢いで繁茂したクズの蔓(つる)を取り払うジェイソン・ミルサップス。クズは、1800年代末に土壌の流出防止用と家畜の飼料用に日本から輸入され、米国の60万ヘクタール以上の土地に広がった。『1日に30センチも伸びる。終わりなき闘いです』と、ジェイソンの母親は話す」

クズは、日本人には普通のつる性植物。そして、米国はかつてそれを必要としたことがあるので、「あれっ」と思った。

世界大恐慌のあと、アメリカはルーズベルト大統領になり、「ニューディール政策」が展開される。最大の事業が「テネシー河谷開発」(TVA)だ。ダム堰堤の土砂流出を防ぐためにクズが植えられたのを、昔、本で知った。そうしたことが、今では裏目に出ているというわけだ。奄美大島のマングースと同じではないか。

TVAは日本の国土総合開発の見本になった。「草の根民主主義」はTVAから生まれた。クズも随分貢献したものだ――と、ずっと思っていたが、現実は違っていた。

米国南部はクズの生育に適していた。想像以上の繁茂・拡散をとげたばかりに、有害植物・侵略的外来種に指定されたという。

クズの「繁茂・拡散」は、日本人には当たり前のことだから、夏はほかの草と一緒に刈り払う。手を抜こうものなら電信柱のてっぺんまで、クズの葉に覆われる。「ナショナルジオグラフィック」の写真は、夏草刈りをする日本のムラの慣習からみると、放置しすぎの状態。よくそこまでほったらかしたものだ――となるのだが。

2008年7月6日日曜日

「人名事典」にも間違いがある


2005年9月22日に満78歳で亡くなった、いわき市の作家草野比佐男さんの本を集中的に読み返している=写真。「農家林家」としては暮らしが立ちゆかなくなった昭和40年代半ば、転職を考えた草野さんは一度、阿武隈山中の自宅から平の街へ出かけて興信所の面接を受ける。

採用が決まると、しかしその場で就職を断る挙に出た。「田畑か収入かの二者択一」が胸の中に沸き起こり、「田畑」を選んだのだ。以来、貧窮の底に沈もうともむらに立てこもることを決意し、出稼ぎ・転職が当たり前になったむらのありようを、悪政を、農民の変質を告発する文章を書き続けた。

草野さんといえば、ロングセラーの詩集『村の女は眠れない』だろう。4年前には『定本 村の女は眠れない』が出た。

定本のあとがきによれば、『村の女は眠れない』は最初(1972年)、たいまつ社から出た。次に74年、光和堂が発行元になる。そして2004年、梨の木舎から定本が刊行された。

たいまつ社版と光和堂版では内容にかなりの取捨や入れ替えがある。定本は「光和堂版とほとんど同じだが、一編まるごと、また部分的削除と書き直し、字句の訂正、たいまつ社版からの追加、未収録作品の追加などを行い、配列の順序も多少変えた」(あとがき)。同じ詩集『村の女は眠れない』でも、版を変えるごとに手を入れている、その執念はなかなかのものだ。

ついでに、こんなことも明かしている。講談社日本人名大辞典「(昭和)47年刊行の『村の女は眠れない』はテレビで放映された」(たいまつ社版に依拠)、現代日本朝日人物事典「1974(昭和49)年に発表した詩集『村の女は眠れない』は、(中略)NHKから放送されて反響を呼んだ」(光和堂版に依拠)とあるが、事実は逆。

正しくは「書名と同題の一編が読まれたドキュメンタリー番組の評判によって、図らずも(詩集が)世に出た」。人名事典にも間違いがあるから、鵜呑みにはできない。

2008年7月5日土曜日

石森山のヒラタケ


このところ、1カ月に一度は平市街地の裏山・石森山へ行く。フラワーセンターへ直行する西側の道ではなく、草野方面から絹谷を経て山に入る東側の林道を利用する。そっちの方が家から近いのだ。

かつて1年に50日以上は通った経験から、キノコの出る時期がくると勝手に記憶がよみがえる。そうなるともう、いても立ってもいられない。昨朝(7月4日)も雨上がり、ヒラタケの映像が頭の中にちらつき出したから、平の街へ行く前に、30分ほど石森山を歩くことにした。

絹谷から入り、途中で車を止め、山の方へと続く遊歩道を探索する。目当てはヒラタケと梅雨キノコ。奥へ進むと、立ち枯れの木にピークの過ぎたヒラタケが数個、うなだれるようにして生えていた。別の木にはしっかりしたヒラタケがあった=写真=が、手が届かない。カメラを向けるだけにする。

ヒラタケ・アラゲキクラゲ・エノキタケの菌糸が共存するアカメガシワの木は、幹の途中からノコで切り落とされていた。誰かキノコを採りにのぼって幹が折れたりでもしたらコトだ――というわけで、「危険な芽」を摘んだものか。そんなのは自己責任だと思っている私は、“定点観測木”の切断にいささかムッときた。

同じ道を戻る途中、杉林に続く土手が少し崩れているのに気づいた。イノシシが下りて来たか、上って行ったかした跡だ。その辺りではいつもこうした「イノシシ道」が見られる。

そういえば、7月ももう4日。ニイニイゼミが鳴き出してもおかしくない。羽化したばかりのオニヤンマらしきものが頭上高くパタパタやりながら上昇していくのを見て、セミの映像が頭に浮かんだ。絹谷の里ではクリの花が咲いていた。

2008年7月4日金曜日

「三春ネギ」の種子確保


夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)の小集落では、ネギは自家採種をしたのを栽培している。いわき市に隣接する田村郡(夏井川の上流~水源地帯)から伝わってきたらしく、地元の人は「三春ネギ」と呼び習わしている。地ネギである。

私も10年ほど前、集落のSさんに苗をもらって栽培を始めた。2、3年は自家採種に失敗したが、冷蔵庫に冷暗保存をするやり方を覚えてから、秋に種子をまくとちゃんと発芽するようになった。

今年はネギ坊主が未熟なまま枯れたので、秋にまく種子がない。何年か前にも同じようなことが起きた。原因はネギに対する愛情不足、というよりは過保護だった。

冬は寒いだろうと掘り起こして、北風除けの細工をしたところへ移し替えたら、かえっておかしくなったらしい。冬には地上部が枯れる品種なのに、枯れないように手をかけたのが裏目に出たのだ。

今年定植したネギ苗のうち何本かを残せば、来年の6月にはネギ坊主ができる。それから種子を採ればいいのだが、今年の秋にまく種子がないのはなんとしても悔しい。

Sさんの奥さんに「ネギ坊主が余っていたらもらえないだろうか」と言ったら、「種子を採っておくから」という。その種子を先日、奥さんがわが週末の埴生の宿「無量庵」へ持って来てくれた。花茎が倒れてネギ坊主が土をかぶったために、土も一緒、ごみも一緒だ。それで支障はない。

平に住む篤農家のSさんから種子をきれいにする方法を聞いているので、自宅へ種子を持ち帰って、早速、それを実行する。

まずボウルに金ザルを重ね、ごみや土と一緒にネギの種子をザルにあける。そこへ水をたっぷり張ると土はボウルの底に沈み、種子はザルの底に残る。中身のない種子は軽いので浮いてくる。その種子は発芽しないから、容赦なくごみと一緒に捨てる。

あとは新聞紙に濡れた種子を広げ、一晩軒下に置く。朝にはサラサラに乾いている=写真。次にするのは、乾いた種子を乾燥剤と共に空き缶か空き瓶に入れて、秋の種まき時期まで冷蔵庫にしまっておくことだ。

昔ながらの農家と違って、プレハブと似たような家では、夏場はかなり室温が高くなる。ネギの種子は高温と湿気に弱い。だから乾燥剤を入れて冷蔵庫へ、というわけだ。

そこまで終えると、これでひとまず「三春ネギ」のいのちを切らさずにすんだ、という安心感が広がる。「三春ネギ」の黒い種子は、私にとっては農家の種モミのようなものだ。主(水稲)と副(野菜)の違いは、もちろんあるが。

2008年7月3日木曜日

キジを撮る


平の街の行き帰りに夏井川の堤防を利用する。車にはデジカメと400ミリの望遠レンズ。チョウゲンボウが橋げたに止まっていたり、キジが河川敷にいたりすると、すぐ車を止めて被写体にカメラを向ける。

人馴れした残留コハクチョウはともかく、チョウゲンボウもキジも人間の姿を見ようものなら、たちまち飛び去る。仕方ないから運転席の窓を開けて、体をねじるようにしてシャッターを切る。だいたいが手ぶれを起こしているので、使い物にならない。

チョウゲンボウはそうやって4、5回、キジは十数回、今までにカメラを向ける機会があった。車のドアを開けようと視線をそらした瞬間、被写体の姿が消えていたことがある。あまりに間近すぎて慌てたために、レンズの交換が間に合わなかったこともある。

たまたま望遠レンズを装着しているときは、被写体が姿を見せない。先日、それがぴたりとはまった。

街からの帰路、堤防の上を走っていると、河川敷の畑の棚の上にオスのキジが休んでいた。車からの距離はざっと15メートル。窓を開けて望遠レンズを向けると、なんとか分かる大きさで画面に納まる。一気にシャッターを押した。

今は関西にいる「かずまさ」クンのブログ「かずまさのデジスコの世界」に登場するような鮮明な鳥の写真は無理だが、この欄ならなんとか使えそうなものが2コマあった。しかし、手ぶれには変わりがない。

車の窓を三脚代わりに使えばよかったのに、チャンスとみて少し興奮したのがまずかった。冷静に対処していれば、もっとましな写真が撮れたはず――。パソコンに写真を取り込みながら、そんなことを思った。

で、またチャンスを待った。7月1日の朝、いつものように車で堤防の上を走っていると、オスのキジが土手にいた。今度は心静かに望遠レンズを装着し、車をバックさせ、そっと窓を開けてカメラを向ける。前回からは6日ぶり、キジの写真を狙い始めてからだと半年あまりかかって、ようやく「この程度ならいいか」という写真が撮れた=写真。

2008年7月2日水曜日

リサイクル雑誌入手


いわき駅前再開発ビル「ラトブ」の4、5階に入居しているいわき総合図書館は、正月2、3日の休館日を除くと、休みは毎月、月末の月曜日1回だけ。6月は30日がちょうどその日だった。

翌火曜日は7月1日。1年の半分が終わり、マラソンで言えば折り返し地点にきた。胸の内でわが半年を振り返りながら、開館直後の5階へ本を返しに行った。と、入り口の前に人だかりができている。

エレベーターとエスカレーターから図書館入り口へと続く通路の壁面に沿って、リサイクル雑誌がずらりと並んでいた。それを目当てに人がやって来たのだ。早い人はもう束になった雑誌をバッグにしまいこんでいる。

入り口に見知った職員がいたので聴いた。
「だれでもいいの?」
「どうぞ、どうぞ」
「よし」
「早く、早く」
本を返してすぐ人垣に加わった。

2005年の「ナショナルジオグラフィック」誌と去年の「スポーツイラスレイテッド」誌を手に入れた=写真。「ナショナルジオグラフィック」誌は以前、定期購読をしていたので「しめた!」である。「スポーツイラストレイテッド」誌は、日本語版はないからもちろん英語。一瞬ためらったが、誌面をめくるだけでも楽しいだろう、と手が出た。

わが家へ帰ってカミサンに言うと、「婦人雑誌はどうだった、あった?」と聴く。そんなところまで気が回らないから「知らない」と言うと、たたみかけてきた。「もう一度見て、あったら持って来て」「ハイハイ、分かりました」となったものの、目当ての婦人雑誌はなかった。あったら、いの一番に消えているに違いない。

前は本もリサイクルに回されたが、総合図書館ができてからは方針が変わったのか、雑誌だけになった。蔵書39万冊でスタートし、将来100万冊を目標にしているのだから、当分放出するわけにはいかないのだろう。

値上げ、値上げの7月1日。ちょっとした古書市気分をタダで楽しめるイベントではあった。そのあと、自動貸出機が一時故障したから図書館職員はあおざめただろうが。

2008年7月1日火曜日

落石で立ち入り禁止に


夏井川渓谷の小集落、いわき市小川町上小川字牛小川の対岸は三和町。深い山を越えて下れば下永井字軽井沢の集落だ。対岸へ渡るには夏井川第二発電所のつり橋を利用する。水量が少なければ、岩がゴロゴロしている渓流を渡渉することもできる。

対岸には水力発電用の導水路があって、遊歩道を兼ねた巡視路が川に沿って延びている。私はときどき、この道沿いに続く渓谷林を奥まで行ってみる。一帯は「阿武隈高地森林生物遺伝資源保存林」に指定されているから、むやみに山の方へは入り込まない。

土壌が少なく岩盤が露出している厳しい環境だけに、渓谷林ではアカヤシオやシロヤシオといったツツジ類のほか、モミと松などの常緑針葉樹が目立つ。アカマツはほぼ松食い虫にやられた。岩盤は今もときどき崩落している。落石が巡視路に散乱しているので、それと分かる。

数年前、知人夫婦が牛小川の無量庵へ遊びに来たとき、対岸から大轟音がとどろいた。木々もワサワサ揺れるのが見えた。落石だった。夏井川に注ぐ「木守(きもり)の滝」の手前が、その現場。30センチ大の石が4、5個、巡視路に散乱していた。戦闘機の爆音と間違えるほどの轟音に、近所のおばさんも「ナニゴト?」と家を飛び出してきた。

それと同じ場所でまた落石があった。久しぶりに対岸を歩こうとしたら、すぐ立ち入り禁止のロープに遮られた。畳半畳くらいの三角形に近い石からその半分くらいの石まで、何個かがロープの先の道をふさいでいる=写真。私が見知ったなかでは一番大きな落石だ。斜面のモミの樹皮もその衝撃でべろりとはがれていた。その場所を、これから「崩れ」と呼ぶことにしよう。

「崩れ」には剥離・崩落した岩盤のかけらがゴロゴロしていて、モミなどの幹に支えられてはいるものの「浮石」状態になっている。そのため、森の奥へと足を踏み入れるときには、私は必ず「崩れ」の斜面を見上げながら素早く通り過ぎる。これまではたまたま静止状態だっただけ、ということが今度の落石でも分かった。

街を歩いているような、のんびりした感覚では、この巡視路は歩けない。いのちの危険に直面しているのだという認識、とっさの危機回避能力、すなわち野性をよみがえらせておかないとけがをする。

この程度の落石でも人間を震撼させずにはおかないのだから、「岩手・宮城内陸地震」で起きた山崩れや土石流は想像を絶するほど強大・凶暴なものだったに違いない。夏井川渓谷といえども絶えず死の危険がひそんでいる。そのことを行楽客も肝に銘じておいてほしいのだが、やはりどこかに街歩きの気楽さが漂う。「崩れ」の近くに注意喚起の標識が必要だ。