2008年7月9日水曜日

昭和2年生まれのまなざし


せわしない明け暮れに、ふと庭のアジサイが目に止まる=写真。ただボーっとして花を眺める。それだけで少し心が穏やかになる。そんなときに、なにか深いところからわいてくるものがある。たとえば、「『昭和2年生まれ』のまなざし」という言葉――。

城山三郎さんの最後の随筆集と銘打たれた『嬉しうて、そして…』(文藝春秋刊)を読んでいたら、「昭和二年生まれの戦友へ」という題で同年生まれの作家吉村昭さんの死を悼む文章に出合った。

吉村さんは『城山三郎伝記文学4』に「昭和二年生まれの眼差し」という題で解説文を書いた。その一部。「私は、昭和二十年夏に敗戦という形で終った戦争に対する考え方は、その時の年齢によって相違するということを、エッセイに書いたことがある。極端に言えば、一歳ちがうだけで戦争観はことなっている」

で、城山さんの小説「大義の末」を読んだ吉村さんは「自分の戦争についての考え方が氏のそれと確実に合致し、それは同年生まれであるからだと思った」と確信する。その文章の一部を紹介しながら、城山さんは「戦友」である吉村さんとの思い出をつづり、故人の冥福を祈った。

同じ歴史小説の大家、4歳年上の司馬遼太郎さんが取り上げた人物は坂本竜馬や西郷隆盛、大久保利通など。「カッコいい英雄が登場して活躍することが多い」のに対して、城山さんら「昭和2年」組は「カッコいいヒーローはどうしても書けない」のだという。ゆえに司馬さんの作品と吉村さんの作品は対照的である、というのが城山さんの見立てだ。

「藤沢周平さん、北杜夫さん、結城昌治さんも昭和二年生まれである」と書く城山さんの「戦友」にもう一人、私はいわきの作家の故草野比佐男さんを加えたい。7月6日のこの欄に「『人名事典』にも間違いがある」という題で草野さんのことを書いた。

その中では触れなかったが、亡くなるほぼ1年前に発行された、いわきの総合雑誌「うえいぶ」の巻頭随想「玉川村金成」で、昭和20年の敗戦間際、農蚕学校の学徒援農隊として送り込まれた先での理不尽なふるまいを告発しながら、草野さんは「二度と再びあのような経験はしたくない、どんな人間にもおのがじしの生き方が保障される国であってほしい」と、“遺言”を若い世代に託した。

理不尽なふるまいに及んだのは教師や上級生や区長たち。「同年の吉村昭も、戦中に最も怖かったのは町内の隣組長や国防婦人会の女たちなどだったと述懐している」という一行を草野さんは添えた。草野さんの司馬遼太郎観も、城山さんと共通している。草野さんは司馬遼太郎の小説は、「『小説』ではなくて『大説』だ」といった意味のことをどこかに書いていた。

昭和2年生まれは、敗戦のときには18歳だった。22歳ではなく18歳だった、というところがポイントだろう。18歳という一番多感で白紙の胸に突き刺さったやじりは抜けない。城山さんは国会で個人情報保護法(2003年成立)の審議が始まると、敢然と反対の声を挙げた。驚き、そして感銘を受けたのを覚えている。反戦・護憲・平和が城山さんら「昭和2年生まれ」の共通した「まなざし」だったのだと思う。

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