2008年9月30日火曜日

激辛トウガラシとにらめっこ


5月にいわき市四倉町の種苗店から、キュウリやナスの苗と一緒に激辛トウガラシの苗3株を買った。1株はシンクイムシにやられたが、2株は順調に育って次々と実をつけるようになった。週末、夏井川渓谷の無量庵へ行くたびに真っ赤な実を収穫する=写真

タカノツメよりは大きくて太い。夏、激辛トウガラシを刻んで「辛子味噌」をつくった。大葉やニンニクも刻んで加えた。砂糖に味醂を加え、甘みがほのかにまさる程度に調整したつもりが、辛さが半端ではない。「甘辛」を通り越して「辛甘」だ。砂糖を加え、加えしてなんとか食べられるものにした。

そもそもは冬の白菜漬け用(殺菌と風味付け)に毎年トウガラシを栽培しているのだが、「激辛」に引かれて軽い気持ちで苗を購入したのがよくなかった。悪乗りというほどではないが、思慮不足ではあったらしい。

甕のキュウリの古漬けにも、白菜漬けと同じ理由で激辛トウガラシを加えた。キュウリからしみ出た水分に辛み成分が溶け出しているため、重しと落としブタを取って新しいキュウリを追加しようとすると、手がヒリヒリする。

カミサンが普通のトウガラシの感覚で激辛トウガラシを刻んでマーボー豆腐を作った。口にしたとたん、舌がヒリヒリいって悲鳴を上げた。以来、マーボー豆腐を作る際にはほんの先端をちょこっと加えるだけにしている。それでもかなり刺激的ではある。

わが家から激辛トウガラシをもらっていった若い知人も、頭を突き抜けるような辛さに「炎上」したという。陰干ししたトウガラシの本数は増えるばかりだが、なんとも利用しようがない。白菜漬けを始めるまではそうしてしばらく、激辛トウガラシとのにらめっこが続く。

で、きのう(9月29日)の夜、飲み会の前にちらりと激辛トウガラシの話をしたら、「もらってもいい」という人間が2人いた。タカノツメならぬ「リュウノツメ」に興味津々といった顔をしている。ありがたいことだ。近日中に進呈しようと思っている。

2008年9月29日月曜日

再び「大滝根山が見える」


匿名さんから「平から大滝根山が見える」(9月6日付)に関してコメントをいただいた。「大滝根がふるさと」という小学校の恩師の思い出に触れながら、「先生が話される大滝根の豊かな自然と少年時代の先生の話に限りなく想像力をかき立てられました」と往時を振り返っている。大滝根山の自然の豊かさに関してはその通りだと思う。

山頂に航空自衛隊のレーダーサイトがある。終戦後、レーダーサイトを使用していた米軍から昭和34年、航空自衛隊に移管された。一般人はそれで今も山頂への立ち入りが制限されている。盗掘の憂き目に遭いやすい植物には、それが幸いした。自衛隊が駐屯していることで、結果的に大滝根山の自然が守られてきた、という面は否定できない。

もう25年近く前になるが、いわきの仲間と大滝根山へ登ったことがある。お目当ては劇作家の故田中澄江さんが『花の百名山』でほめたたえたシロヤシオの花。5月末がちょうど花の時期で、山頂付近の基地直下、北西斜面の大群落は行けども行けども白い花の海だった。その下ではアズマシャクナゲの花も満開だった。

秋に川内村役場の骨折りで、いわきの団体がレーダーサイト内の植物観察会を行ったことがある。それにも参加した。トリカブトの鮮やかな紫色の花が印象に残っている。

平から大滝根山が見える、といっても、いわき市役所「9階」のいわき未来づくりセンターにある20倍のスコープを使ってだから、肉眼では難しい。いや、晴れて澄んだ日には肉眼で見える、という話もある。視力が減退した人間には反論できない。見えるにこしたことはないからだ

平ではないが、肉眼ではっきりと大滝根山の山容をとらえたいときには、いわき市川前町の「スーパー林道」こと広域基幹林道上高部線まで車を走らせる。そこからなら、向かい山の感覚で大滝根山が見える=写真

ふるさとの山ながら、南東方面から見るといささか印象が異なる。2つのレーダードームは子どものときから見知った形ではあるが、右手2カ所にアンテナ塔が各3基ある。植物観察会のときに見ていたはずなのに、すっかり忘れていた。もっと右手に見える四角っぽい建物は宿舎だろう。山頂全体に基地が展開していることがよく分かった。

ところで、「スーパー林道」である。いつも利用するたびに「これはオレ1人のための道路だ」という思いにとらわれる。まず対向車と出合ったことがない。9月27日は土曜日だったために、道端に2台(帰りは5台に増えていた)、車が止まっていた。キノコ採りの季節に入ったのだ。

幅員5メートル、延長14キロメートルの「1級林道」は維持管理がどの程度なされているのか。場所によっては、両側からススキが「うらめしやー」「おいで、おいで」をやっていて、急に狭くなる。いずれ「けもの道」になってしまうのではないか。そんな危惧さえ抱かせる「スーパー林道」だ。

ただ個人的には、いわき市のお隣・川内村に住む陶芸家夫妻の家へ行くのに、この「スーパー林道」を利用すると一番早い、という利点はある。

今度、「スーパー林道」から大滝根山を見て分かったのだが、いわき未来づくりセンターでは山頂を見ながら夏井川流域全体に思いが至るのに、「スーパー林道」ではひたすら懐郷の念にかられた。いかんともしがたい心の揺れである。

2008年9月28日日曜日

ヒラガニの逆襲


土曜日(9月27日)の早朝散歩は少々こたえた。西高東低の気圧配置になったために、冷たい北西風が阿武隈の山々から吹き下ろして来る。夏井川の堤防には遮るものがない。「赤井岳颪(おろし)」をまともに受けて前かがみになりながら歩いた。そのあとすぐ、平・沼ノ内で開かれている「土曜朝市」へ出かけた。

朝飯前の食料調達を兼ねながら、出店者や買い物客とおしゃべりをする。モノを買うだけではない、見知らぬヒト同士が言葉を交わしながら笑い合う光景が好ましいから、毎週、土曜朝市への「アッシー君」を務める。

今回は野菜3、魚介1、地豆腐1、パン・炊き込みごはん1と、6ブースに品物が並んだ。風が冷たいので車の中にいると、魚介ブースで「ワッ」と奥さん連が声を出した。見ると、魚屋さん(郷ヶ丘にある「歩ら里」のマスター)の左手の指にカニがぶら下がっている。

ヒラガニだという。近くの魚市場から仕入れて来たばかりで、カニたちはまだ脚やはさみをモゾモゾやっている。はさみを開けて待ち構えているカニに指が触れたのだろう。薬指だったか中指だったかをガッチリはさんで離さない。

隣の野菜ブースの男性が、両手で袋を裂くようにはさみをこじ開けると、やっと指がはずれた。指にはくっきりとはさみの跡があった。無理やりはずそうとすると皮膚が破けて血が流れるところだが、そのへんは浜に近い人たちである。「事件」が解決すると、「カニも必死だわ」、誰言うともなく声がわいて笑いが起きた。

味噌汁にするとうまいそうだ。そのうまさを知っている奥さん連は「カニばさみ事件」などどこ吹く風、手づかみでひょいひょいカニを袋に入れてゆく=写真。魚屋さんは「カニと戯れてください」と言いながら、しばらくブースから離れていた。「ヒラガニの逆襲」は思いもよらないことだったのだろう。

魚屋さんには悪いが、こんな場面に遭遇するとますます「アッシー君」をやめられない。

2008年9月27日土曜日

白菜苗は生きていた


夏井川渓谷(いわき市小川町)にある埴生の宿・無量庵の庭の畑に、夕方、ポットで育てた白菜苗を定植した。翌日はときどき雲がかかるものの、太陽がギラギラ照りつける、苗にはあいにくの天気。ポット苗は活着したが、発泡スチロールの箱にばらまきして育てた苗は直射日光にやられてしおれてしまった、という話を前に書いた。

ところがどっこい、苗は生きていた。定植から1週間後、畑を見ると、どの苗もピンと葉っぱを立てているではないか。ティッシュペーパーのようにぐにゃりとしていた葉が、健気にも太陽の光線に耐え、必死になって根から水分をポンプアップしていたのだ=写真

ところが、またまたところが、である。太陽の試練を乗り越えたと思ったら、虫の食害が待っていた。コオロギだか青虫だかは分からない。が、葉っぱをかじる虫がいるのだ。芯だけになってしまった苗もある。

もともとが「虫の王国」へ人間が分け入り、家を建て、庭をつくったのだ。虫の被害をどこまで受け入れるかだが、週末だけの滞在では予防にも限界がある。芽生えと虫の産卵・孵化が重なって苗が全滅した、なんてこともないわけではないから、気が抜けない。そういう時期に限って、用事ができて無量庵へ出かけられないという仕儀になる。

今週は日曜日(9月21日)に無量庵へ行けず、月曜日の朝、行ってすぐ戻って来ただけだから、じっくり畑の様子を見ることができなかった。虫の食害がどこまで進んでいるのか。きょう(9月27日)午後一番で無量庵へ出かけ、真っ先に白菜苗を確かめようと思っている。いやな予感が空振りに終わるといいのだが。

2008年9月26日金曜日

多彩で多様な秋の雲


ここ何日か、雲がさまざまな表情を見せるようになった=写真。朝は朝で、夕方は夕方で、むろん日中も、形が多様に、多彩に変化する。散歩へ出るとすぐ空を見る。雲を見て思い出す散文と詩が3つある。

散文は、吉野せいの作品「いもどろぼう」(『洟をたらした神』所収)の冒頭部分。

待ちわびた初秋の雨が一昼夜とっぷりと降りつづいて、やんだなと思うまもなく、吹き起こった豪快な西風が、だみだみと水を含んだ重い密雲を荒々しく引っ掻き廻した。八方破れの大まかな乱裁ち。忽ち奇矯なかげを包んだ積乱雲の大入道に変貌しはじめたと見る間に、素早く真白い可愛い乱雲の群小に崩れて寄り添い、千切れてうすれ、まっさおな水空の間あいを拡げながら、東へ東へと押し流されて、桃色がかったねずみ色の層雲が、まるでよどんだように落ちついてでんとおさまった。

梨農家として自然と向き合ってきたせいの観察力の確かさがよく分かる文章だ。そのうえ積乱雲・層雲といった自然科学的な知識に基づく雲の区別ができている。ものすごい勉強家だったのだろう。

詩はまず、吉野せいの文学の師ともいえる山村暮鳥の「雲」。

おうい雲よ
ゆうゆうと
馬鹿にのんきさうぢやないか
どこまでゆくんだ
ずっと磐城平(いわきたいら)の方までゆくんか

この暮鳥の詩を踏まえて、雲に呼びかけた谷川雁の「雲よ」もある。松永伍一流に言えば、過去へ向かう暮鳥の雲と、未来へ突き進もうとする雁の雲だ。

雲がゆく
おれもゆく
アジヤのうちにどこか
さびしくてにぎやかで
馬車も食堂も
景色もどろくさいが
ゆったりとしたところはないか
どっしりとした男が
五六人
おほきな手をひろげて
話をする
そんなところはないか
雲よ
むろんおれは貧乏だが
いゝじゃないか つれてゆけよ

雲から、風からインスピレーションを受ける。もちろん人間や植物からもだが、雲に限っていえば、連想の妙に引かれてやまない。恐竜・チョウチョウウオ・羊・鰯…。想像力が試されるのだ。

ついでながら、「磐城平」を「いわきだいら」と濁って読む中央の人士がいる。ラジオで誤読し、本で誤記するから、いっこうに正しい読みが定着しない。「背戸峨廊(セドガロ)」しかり。間違いが正されるまで声を上げ続けるしかない。

2008年9月25日木曜日

シメジ類を持ち帰ったものの


先日、いわき市田人町でいわきキノコ同好会のキノコ観察会が開かれた。鑑定会が終われば、食菌を除くキノコは袋にまとめて入れられ、山へ返される。食菌は採集した本人が持ち帰るが、1、2本ではいいや、という人も出てくる。もったいないから、その人の分ももらって食菌の数を稼いだ。

ハエトリシメジ、ミネシメジ、アイシメジ、カクミノシメジ、スミゾメシメジ、カノシタ、ムラサキアブラシメジモドキ、ショウゲンジの8種=写真=がそろった。ハエトリ・ミネ・アイの3種は、私の目には区別がつきにくい。鑑定会で違いを学習した。ハエトリは必ず傘の中央が突起する。ミネはとんがらない。アイはどうだったか、忘れた。

いずれにしても、あまり採ったことのないキノコである。本に当たって調理法を考えたが、汁の実・炒め物・煮物と分かれていて、まとめた料理はできそうにもない。まずはゆでて、食べるキノコを除いて冷凍保存をすることにした。人を集めてキノコ汁をつくるときに使うのだ。これまでも採れすぎたときにはそうして冷凍保存をしてきた。

ハエトリシメジは朝の汁の実に限定して食べた。晩酌しながら口にすると悪酔い状態になるというから、夜の楽しみにはとっておけない。ほかはどうしよう。いわき市添野町に住む小川勇勝さんの『野生のきのこ』改訂版(2008年6月発行)をパラパラやって、考え込んだ。

ミネシメジは石鹸臭があり、生食すると中毒する。苦みが強い。アイシメジは生食するとあたる恐れがある。昔からキノコを採集している地元の人たちは、これらを毒キノコ扱いにしているという。そういえば、いわき地方では毒キノコを「ツキヨタケ」と称するところがある。地上性のキノコも、毒キノコは「ツキヨタケ」になる。前にそんな話を聞いた。

小川さんが食べないのであれば、冒険はしない方がいい。ミネとアイは冷凍保存から除外するのだ。キノコ汁を食べたら体がおかしくなった、なんて事態は避けなくてはならないから、自信のあるものだけを保存するに限る。余談ながら、小川さんの本には仮称「ドクワカフサタケ」試食記録、つまり小川さんのキノコ中毒体験記が載っている。

そこまではしたくない。キノコに関しては、食べる欲望より食べない勇気が大切なのだ。

2008年9月24日水曜日

秋彼岸に死者を思う


秋分の日のきのう(9月23日)、墓参りのためにカミサンの実家へ行った。着くとすぐ息子夫婦も1歳5カ月の子ども、つまり孫を連れてやって来た。一緒に墓参りをした。

夏風邪をこじらせて「甘えん坊」に戻った孫は、この数週間、わが家へ来ても親から離れない。抱こうとすると泣く。それが、墓参りでは違った。母親からひょいと渡されて私の腕に抱かれた。泣かずに平気な顔をしている。

孫を抱いて寺の参道(石段)を上る。墓へ行く。柄杓で墓石に水をやる、線香を手向ける。と、孫はまねをしようとする。本堂でお鈴をチーンとやると、やはりチーンとやりたがる。チンパンジーと同じで、瞬間的に学習する発達過程にあるのだ。

寺の参道を下りて道路のそばに立つ石門を指さしながら、カミサンが孫に言った。「●○クンのひいひいジイチャンが立てた(寄進)んだよ。触ってごらん、冷たいから」。孫はそんなことは分かるはずもない。が、石の冷たさを感じさせるのもいいかと、てのひらを触れさせる。

その瞬間、不思議な感慨に襲われた。<死者も生きている>。この孫が今あるのは、両親の、そのまた両親の、さらにずーっと大昔から続く「両親」のつながりの結果だ。記憶にない何代か前の「両親」はともかく、「ひいひいジイチャン」あたりなら、まだ孫が大きくなったときにも血系の想像力の範囲内にあるだろう。

死者は思い出す人間がいる限り、その人間の心の中に生きている。きのうの朝のNHKドラマ「瞳」でも、沿道から死者(遺影)が祭りを見ていたではないか。9月22日はわがオフクロの命日。それもあって、よけい<死者も生きている>と思ったのかもしれない。

夕方、わが家へ帰っていつものように夏井川の堤防を散歩した。土手のヒガンバナを写真に撮っている人がいた。声をかけると「ここはすごいですね」と興奮した様子。ほぼ満開、土手をびっしりと赤く染めている=写真。秋の彼岸の中日、まさに死者と生者、彼岸と此岸をつなぐ花であることを、強く感じた。

2008年9月23日火曜日

きのこ観察会


いわきキノコ同好会(冨田武子会長)の平成20年度第1回キノコ観察会が日曜日(9月21日)、いわき市田人町の「おふくろの宿」を集散・昼食・鑑定場所、元朝日牧場付近など数カ所を採集場所にして行われた。会員10人余が参加した。

朝から雨の予想がはずれて、曇天無風の一日。雨にぬれることもなく、晴れて汗だくになることもない、山の斜面を上り下りするにはちょうどいい観察日和になった。

食菌探しに夢中の会員もいるが、まずは今の時期、どんなキノコが発生しているかを調べるのが、観察会の主目的である。食・食不適・毒に限らず、林内で目にしたキノコをサンプルとして1~2本採集する。それを「おふくろの宿」へ持ち帰り、1種類ずつ調査票の上に並べて鑑定する=写真。結果的には、60種前後は同定できたのではないだろうか。

前日土曜日、キノコ採りの人間が入ったに違いない山である。日曜日も水戸や宇都宮ナンバーの車が道端に止まっていた。これでは「落ち穂拾い」にならざるを得ない。そのうえ愛菌家の心理として、食菌には目がいっても食不適や毒キノコにはなかなか手が出ない。目撃したキノコより採集したキノコの種類が少なくなるのは当然だ。

60種前後というのは、予測の3倍くらい。グループの班長の案内がよかったのだ。複数の人間の目で見て観察・採集する威力である。

鑑定会=写真=では冨田会長が1つ1つ同定した。「ホウキタケ類」や「テングタケ科」といったくくりで名前を特定できないものもあった。色と形がかわいらしいヒメベニテングタケ、めったに発生しないハンノキイグチなどは、スケッチしたり、顕微鏡で胞子を調べたりして、記録と記憶にとどめておきたい種類のようだった。

食菌のハエトリシメジとミネシメジ、アイシメジも並んだ。私にはみな同じに見える。違いがやっと分かった。今回の観察会最大の収穫である。ハエトリシメジは酒を飲みながら食べると悪酔いするというから、朝、二日酔いでないときにみそ汁に入れて食べようかと思う。

2008年9月22日月曜日

いわき市議選を山里からみると


いわき市川前町~小川町にまたがる夏井川渓谷には、小集落(小川分は上流から牛小川、椚平、江田)が飛び飛びにある。

集落を貫く県道小野四倉線沿いにいわき市議選のポスター掲示板が立てられ、9月14日の告示後間もなく立候補者のポスターで埋め尽くされた=写真。立候補者45人全員のポスターが張られてある。と思ったら、違った。1人が未掲示だった。渓谷の上流、川前地区の様子は分からないが、椚平もそうだった。

いわき市は小さな県並みに広い。とはいえ、市域の7割は森林だ。人口の8割は平地の都市部に集中している。つまり、緑が豊かだと言っても山地の人口はたかが知れている。どの陣営もそのことは承知している。それでもポスターを張って認知度を上げようとするのが運動の基本だろう。

未掲示のポスターを山里の視点で考えると、陣営の組織力の限界か、単なる運動員のミスか――ではなくなる。1人欠落した掲示板を眺める住民の気持ちとしては、「この(ポスター未掲示)候補者は山里の住民を捨ててかかっている。ここはいわき市ではないのか」となるからだ。

日曜日(9月21日=投票日)、たまたまいわき市南部の山里へ出かけた。その道すがら、同じ候補者のポスターが欠落しているのを見た。別の候補者のポスターが欠落している掲示板もあった。あらためて「山里への想像力がすっぽり抜けている」という思いを強くした。

選挙ポスターの掲示板には重い意味がある。定数40のところ45人が立候補した。どんな候補者なのか、最初の手がかりにして最後の判断材料が掲示板のポスター、という人がいないわけではないだろう。ポスター未掲示候補者はその判断をしなくてもいいと、みずから否定したことになる。

もっとも、今朝(9月22日)、渓谷へひとっ走りしたら、椚平も牛小川もポスターが埋まっていた。南部の山里まで張り切れなかったということか。                                      
市民の審判が下った。ポスター未掲示候補は浮上できなかった。最も身近な選挙で掲示板に穴が開く、といったことは過去にあったかなかったか。「それみろ」などというレベルを超えて、そのことが気になる。

2008年9月20日土曜日

夏井川の竹林伐採


朝夕散歩する夏井川左岸の向かいは平・山崎。小高い丘に浄土宗の名刹・専称寺がある。そのふもと、同じ浄土宗の古刹・如来寺までの間で河川拡幅工事が行われている。幹線道路を田んぼの中に付け替え、今ある道路を河川敷にする、今どき珍しい「大改造計画」だ。

下流の夏井川橋下で行われている土砂除去工事と連動しているらしい。山崎に住む人の話では、除去した土砂を新しい道路の盛り土に使っている。一石二鳥だが、砂だから強度はどうかというのが、その人の見立てだ。

夏井川橋の上流、専称寺と如来寺の間の岸辺では竹林の伐採工事も始まった。毎日バックホーが入って切った竹を束ねて運び出している=写真

下流の河川敷は流出する土砂より堆積する土砂の方が多い。いったん拡幅された川も、草が生え、ヤナギが生え、竹が生えて流れを狭める。いつかは元に戻るのだ。戻るどころか、異変ももたらす。

夏井川は平・塩と中神谷の境界付近でS字形に大きく右へ蛇行している。河川拡幅が行われたあと、中州ができた。それで流れが変わったか、大水のたびに左岸がえぐられるようになった。で、しばらく前から立ち入り禁止のロープが張られたままになっている

放置しておくと、いつか堤防が切れて神谷の住宅地を洪水が襲いかねない。その対策として、右岸を拡幅して左岸への直撃を緩和しようという作戦なのだろう。行政が市民の生命・財産を守るのは当然だが、なにか「ほころび」の後始末に追われているような気がしないでもない。

夏井川河口の閉塞問題も、近くの人工海水浴場の建設と無縁ではないのではないか。そう感じている住民が少なくない。長いスパンで見ると、かなりの税金が費消されている――。河川改修、海岸改造は何のため、誰のためのものなのか。30年近く夏井川をウオッチングしている身には、そんな疑問も膨らんでくる。

商店街のざわめき


江戸時代は「浜街道」と呼ばれた旧国道の商店街の一角にわが家がある。このところ2階で在宅ワークを続けている。窓を開けると風が通り抜けて行く。音も飛び込んで来る。

日中は久しく、ビルの中で過ごした。ビルは外界の空気をいったん遮断する。騒音をオブラートにくるむ。しかし木造住宅のわが家には、障壁はない。ビルにこもる日々から離れ、久しく聞かなかった地域のざわめきの中に身を置くと、これが暮らしの情景なのだ、ということを実感する。そのなかで人は懸命に生活を立てているのだ。

朝、近くの幼稚園から音楽が聞こえる。園児たちがお遊戯の練習をしているのだろう。隣のコインランドリーからは洗剤の甘い匂い。1階の茶の間にいては分からない芳香だが、呼吸するたびに鼻から体内に入り込む。これは少々つらい。

家の前をひっきりなしに乗用車が行き交う。家並みの先、国道6号を救急車が行く。パトカーのサイレンも響く。ヒヨドリが鳴きながら飛んで行く。

午後2~3時になると、小学生がおしゃべりをしたり、大声を張り上げたりしながら通り過ぎる。夕日が差し込むころには、頭がもうろうとしてくる。机にしがみついていても能率が上がらない。仕事を切り上げて散歩に行く。

秋の雲が漂う気圏の底からあたりを眺める。日ごとに雲の形が変化する。「ヤコブのはしご」が見える=写真=こともある。雲のない空は文字通り虚空、連日青一色だと気持ちがおかしくならないか。                                    
さて、きょう(9月20日)はいわき市議選の運動最終日。連日、氏名を連呼しながらやって来た選挙カーも、夜8時にはマイクを置く。マイクを握る候補者が、ウグイス嬢がどんな調子で「最後のお願い」をするのか、家の2階でじっくり聴くことにしよう。

2008年9月19日金曜日

残留コハクチョウ合流


残留コハクチョウには時々、驚かされる。夏井川河口と横川でつながる仁井田川河口で単独生活をしていた最古参の「左助」が、4キロほど上流の夏井川にいる仲間のもとへ帰ってきた=写真。

9月15日早朝、いつものように堤防の上を歩いていると、国道6号常磐バイパス終点近く、夏井川橋の上流にコハクチョウが4羽いる。前日までは3羽だったが、どうしたのだろう。<まさか1羽はサギではあるまいな>。双眼鏡で確かめたらサギではない。4羽ともコハクチョウだ。

飛べる幼鳥の「さくら」のほかは、翼の折れ具合で確認する。一緒にいることが多い「左吉」「左七」、そして「左助」。残留コハクチョウが全部そろった。「左助」が自力で遡上して来たのだろうか。それはちょっと考えにくい。たぶん、毎日えさをやっているMさんが「左助」を軽トラに乗せて連れ戻したのだ。前もそうだったように。

でも、「左助」が自力で遡上して来たとしたら…。脚を傷めてぴょこたんぴょこたん歩く「左助」だ。必死になって水かきをしながら上流を目指した――と思えば、あっぱれ「左助」と言いたいのだが。

合流を確認してからきょう(9月19日)で5日目、4羽は夏井川橋下流、右に蛇行するいわき市北部浄化センター向かいの浅瀬に移動した。そこは今、夏井川橋上流の竹林をねぐらにしていたサギたちが眠りに就く前の、夕方の社交場になっている。ねぐらは浅瀬のすぐ近く、六十枚橋上流左岸の林に替わった。

ただし、「左助」は「左助」。集団生活になじめないのか、3羽とは少し距離を置き始めた。やがてふらっと流れに乗って下り、河口へ行ってしまうのではないか。そんな孤独癖・わがまま癖の気配が漂う。そうなるとまた、Mさんはあっちでえさをやり、こっちでえさをやりと手を焼くことになる。

2008年9月18日木曜日

「森のゼリー」を採って来た


オオゴムタケは今ごろの季節、湿気がこもる林内の立ち枯れ木や倒木に発生する。全体が黒褐色をした逆円錐形(表面はくりぬく前の臼=うす=に似る)で、見た目はさえない=写真。しかし、シリコン状の弾力がある。ぽよよ~んとした感じが食菌・オオゴムタケの特性だ。

オオゴムタケを取り上げた料理本は少ない。手元にあるキノコ関連本(図鑑を含む)も記載の有無は半々といったところ。たぶん、形と色とが見た目を重視する日本人の感性に合わないのだろう。

7年前(2001年)に発行されたいわき市観光まちづくりビューロー(当時・いわき市観光協会)のポシェットブックス2『いわきキノコガイド』には、オオゴムタケが載っている。それ1つで、私は体験的・専門的な知に裏付けられた格好の案内書、とこの本を評価する。

食べ方をこう紹介している。「外皮を取り除き、さっとゆがいて辛子あえ、マヨネーズあえ、きなこをまぶしてのデザートなどによい」

私は子嚢(しのう)が形成される表面だけを取り除き、薄くスライスして酢醤油で食べる。無味無臭。内部は半透明のゼリー状。プリンよりは硬いがコンニャクよりは軟らかい。はっきりいって珍味である。酒の肴である。以前は「森のなまこ」と形容していたが、今は「森のゼリー」と呼んでいる。洋がらしが合う。

前にも書いたが、普段はオオゴムタケのことなどは忘れている。記憶の底に沈んで埋もれている。ところが、体が大気に反応するらしい。朝晩ひんやりして残暑がきつい今ごろ、<あそこでオオゴムタケを採ったな>と体が教えてくれる。採取した場所が脳裏に写し出されるのだ。そうなると、じっとしてはいられない。朝飯前に車を走らせる。

ピンポイント作戦で直行する。カラ振りも、図星もある。おととい(9月16日)は図星だった。オオゴムタケだけでなく、ヒラタケもあった。今朝もこれから車を走らせて、ヒラタケの様子を見て来ようと思っている。

2008年9月17日水曜日

「天然のキノコ」を買う


いわき市田人町の国道289号沿いにあるギャラリー「昨明(カル)」へ寄ったあと、足を延ばして「森の駅」をのぞいた。「天然のキノコを売っている」という新聞記事が目に留まったので、様子を見たくなったのだ。

それらしいコーナーへ行くと、ウラベニホテイシメジがパックに入って売られていた。4~5本で1,000円、1,200円といったところ。高いか安いかは判断できないが、採る人の苦労や喜びは分かっている。このシメジに関しては10年以上、自分で採りに行かずにもらったり、買ったりして食べている。大小4本で1,200円のパックを買った=写真

なんといっても炊き込みご飯だろう。余りはゆでて大根のおろしあえにする。かんだときのほろ苦さは「これぞウラベニホテイシメジ」となるのだが、自分で採ったわけではないから静かに胃の腑へ運ぶ。

ウラベニホテイシメジは、生の状態では傘がもろく壊れやすい。ところが、ゆでたり炊き込んだりすると弾力性を増す。歯ごたえがいい。「匂いマツタケ、味シメジ」のいわれがここにある。味としてはウラベニホテイシメジよりハタケシメジが上等のような気もするが、旬からすると今はウラベニホテイシメジだ。

先日、そば屋へ寄ったら天然マイタケ入荷の張り紙があった。てんぷら800円。いわきと同じ福島県浜通りの阿武隈高地産だ。マイタケも食べたい、となったらきりがない。いつか自分で採ったものをてんぷらにしよう、と我慢する。十数年前、偶然、シロマイタケを採った。それが忘れられないのだ。

ウラベニホテイシメジも、天然マイタケもカネを払って入手するようになってはおしまい――と思いつつ、時々食欲に負けてしまう。大衆魚ならぬ「大衆食菌」のウラベニホテイシメジくらいは毎年食べたい、と。

それよりなによりシシタケ(方言「イノハナ」)である。この炊き込みご飯はシメジの比ではない。毎年、シシタケの炊き込みご飯を食べずにはいられないのだ。マツタケはほかの人に譲って、シシタケは売っていれば買うことにしているのだが、なかなか店頭には現れない。

2008年9月16日火曜日

ヒガンバナ咲く


散歩はメタボ対策が第一の理由だが、立ち止まるために歩くという側面もある。花・鳥・風・雲に触れていると、耳と目が喜ぶ。橘曙覧の「たのしみは朝おきいでて昨日(きのふ)まで無かりし花の咲ける見る時」に尽きる。そんなときには、足を止めて見入る。

朝はわが家から旧国道を東へ向かい、国道6号を横断して夏井川の堤防へ出る。朝日を背にしばらく上流へと向かって歩いたあと、適当なところで堤防を下り、国道6号を横断してわが家へ戻る。夕方は反時計回り、逆コースで堤防へ出る。

先週の土曜日(9月13日)は珍しく、朝5時台に散歩へ出た。堤防を歩き終えて国道6号へ向かうと、上流の寺から「明け六つ」を知らせる時鐘が響いた。同時に、6時のサイレンが鳴って、花火が4カ所で打ち上げられた。時鐘・サイレン・花火を同時に耳にするのは、そうない。

打ち上げ花火はなにか晴れの日の証しだが、なんだろう。運動会はもう終わった。敬老の日には早い。よく分からないままいて、昼に車で郊外へ出かけたとき、神社の秋祭りが各地で開かれていることに気づいた。告知を兼ねた祝砲だったのだろう。

平市街地の飯野八幡宮でも14、15日、例大祭で流鏑馬神事が行われた。参道では生姜市が開かれた。生姜を手に街を歩いている人がいて思い出したのだった。流鏑馬の騎手は、的を射るだけでなく、馬を走らせながら参道の見物客に向かって扇子や生姜をまく。見物客はわれ先に拾う。別名「生姜祭り」。

夏井川の対岸、愛宕神社では13日夜、「タイモー、タイモー」と声を張り上げて山の参道を巡る松明(たいまつ)奉納が行われた。

よそからやって来て地域に根づいたつもりとはいえ、伝統的な行事には、ニューカマーはお呼びがかからない。祭りの興奮を共有できない地域にコミュニティーが存在するか、となると疑問符が付く。

それはともかく、土地の自然は人間を区別しない。花・鳥・風・雲は平等にあるがままの姿を見せる。夏井川の堤防できのう(9月15日)の朝、ヒガンバナの真っ赤な花=写真=を見た。今年初めての対面である。曙覧のいう「昨日まで無かりし花」だ。こんなときにはやはり心が躍る。

2008年9月15日月曜日

満月の夜、伝承郷で篠笛を聴いた


「伝承郷へ篠笛を聴きに行こう」というので、いつものように運転手役を務める。いわき市暮らしの伝承郷に移築された民家(旧猪狩家)で、中秋の名月(9月14日)の晩、篠笛コンサートが開かれた。

その日、一番列車で夏井川渓谷の無量庵へやって来たカミサンと、夕方、帰宅したばかり。できればすぐ、わが家で月見酒を、といきたかったが、伝承郷で満月を見るのもいいかと頭を切り替えた。アルコールでのどを消毒する時間をずらせばいいだけのことである。

ぱらついていた雨は上がったものの、雲が空を覆っている。会場の旧猪狩家の座敷は、すでに人で埋まっていた。

土間に置かれた折り畳み式のいすに座って待っていると、掛け時計が「ボーン、ボーン」」と6回鳴った。6時が開演時間である。「おおーっ」と詰めかけた人たちからどよめきが上がった。かやぶき屋根の農家にふさわしい、粋な演出である。掛け時計のゼンマイを巻いて時間を合わせたのだろう。

旧猪狩家の向かいには小高い山がある。月はそこから昇る。演奏が続くこと1時間、ときどき雲の切れ目を月の光が明るく照らすものの、月そのものはまだ雲に隠されている。と、少し大きな雲の切れ目ができたとき、山の上に満月が姿を現した。一瞬の出現で、すぐまた月は雲に隠れた。

夜の伝承郷に入るのは初めてだった。それも当然で、夜まで開館時間を延長したのは、伝承郷としては初めてのことだという。園内通路のフットライトがやさしい。民家の奥、2基の照明塔がお祭り広場を明るく照らし出している。篠笛に和する虫の音、といってもにぎやかな音を振りまいていたのは帰化昆虫のアオマツムシではなかったか。

旧猪狩家から離れて屋敷の前の道へ出る。道から見る会場の雰囲気もよかった=写真。――闇の向こうに庭先が明るくともったかやぶき屋根の家が見える。ススキなどが飾られた縁側から座敷には150人ほどの人がすきまなく座り、女人が庭で奏でる篠笛を聴きながら山の端に満月が現れるのを待っている。

かやぶき屋根の下の人間の寄り合い、庭先の演奏、満月。現実に見るのは初めての光景ながら、心地よい既視感に襲われた。

2008年9月14日日曜日

擬似孫から電話が


昨日(9月13日)の夕方、夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵へ着いて、一気に白菜苗の定植作業をした。汗みずくになって体を動かすこと1時間半。地面が闇に包まれ始めた6時半ごろに、ようやく作業が終わった。

狭いスペースだが、およそ30株は育つような長さでクワを入れ、平うねを3列つくった。そこへわが家で育てた苗を植えていく。余った苗ももったいないから、汁の実用に別の場所に植える。

水をやった土に指を差し込むと、中までは十分水が浸透していない。植えたあと、また水をやった。

<あとは=日曜日(9月14日)のこと=天気と気分次第で何でもできる、いや何もしなくてもいい>。ねじを緩めて晩酌を始めたら、電話が鳴った。女の子である。「たかジイ、だれだか分かる?」

「●◎かい?」「違う」。妹の名前を言ってしまった。「声が似てるから」と弁解しても遅い。小学3年生と1年生の擬似孫が両親とわが家へ来て、そこへまた本孫が両親に連れられて来て、一緒になった。で、どこかへラーメンを食べに行った。そんな話を上の子がする。

揚げ句は、バトンタッチをした妹が「もう酒を飲み過ぎてんでしょ。飲み過ぎると頭がばかになるよ」「戸を開けていると蚊が入って来るよ」と説教に及ぶ。「飲み始めたばっかりだから酔ってないよ、それに網戸を付けた=写真=から窓を開けていても蚊は入って来ないの」「じゃあ、◎●バア(カミサンのこと)に代わるね」

いやはや。面と向かって言われるより、電話で言われる方がきつい場合がある。まるでオフクロ。酒は焼酎だが、「これだけは飲む」とカミサンに言って持って来た量の4分の1を残して、ご飯にした。

さて、日曜日。雲が切れて日が差し始めると白菜うねの様子がおかしくなった。ポットからはずして定植した白菜苗は、葉っぱがなんとかしゃんとしている。発泡スチロールに種をバラまきした苗は、土が崩れて根がむき出しになった。それを一本仕立てにして植えたのだが、これがやられた。ことごとくしおれてしまったのだ。

後日、別の場所に移植した苗を補植するしかない。雨が降ればよかったのに、と思っても後の祭りである。

2008年9月13日土曜日

ダンスをする白菜苗


ポットに白菜の種をまいて4週間。いよいよ定植の時期がきた。

きょう(9月13日)は午後、夏井川渓谷の無量庵へ行く。着いたらすぐうねをつくり直し、たっぷり水をやって、日がかげった夕方、白菜のポット苗を定植する。朝に定植すると、活着前に直射日光を浴びてしおれてしまうことがあるのだ。一夜の緩衝時間帯があれば、間違いなく根も新しい土になじむだろう。

この4週間、目の届くわが家で育苗したから安心、というわけでもなかった。葉を食べる虫がいる。大地と違ってポットの土はすぐ乾く。曇りの日はまだしも、快晴になると水分が蒸散して土が白くなる。すると、苗もティッシュペーパーのようにしおれてしまう。

それを放置したら枯れてしまう。その前に日陰に移し、ほてりがさめたら水をやる。しおれた葉は水を含むとどうなるか。のどの渇きをおぼえた人間が水をゴクゴク飲むように、根から茎へ、茎から葉へ、葉の隅々へと水分が行き渡るのが見える。「見える」のは、しおれていた葉がピクン、ピクンと痙攣したように動き出し、立ち上がるからだ。

葉っぱのダンス。そっちのポットでも、こっちのポットでもピクン、ピクン。冬にも同じような光景に遭遇したことがある。霜をかぶって地に伏していた大根の葉が朝日を浴びてピクン、ピクンと立ち上がる。ピクン、ピクンがうねのあちこちで起こる。葉っぱのラインダンス。

白菜苗の葉っぱのダンスは水分が隅々にまで行き渡った証し。そのありさまを見ていると、植物の精妙・精巧な構造に心打たれる思いがする。乾いた土に水が浸透する。じっと湿り気を待っていた白根たちが水分を察知してエンジンをかける。葉っぱの先端へと水分がポンプアップされる。生気を取り戻す葉っぱたち=写真。

定植後は、苗は大地の仕組みに身をゆだねるしかない。人間もまた、太陽と雨と土が苗を育てるのを見守るしかない。初冬の収穫を夢見て、そのときまで。

2008年9月12日金曜日

スズメのお宿とコウモリ


いわき市平の国道6号常磐バイパス終点は「神谷(かべや)ランプ」と呼ばれる。「ランプ」は「本線車道への斜道」を意味するという。その斜道のり面に「草野の森」がある。

バイパスの全線開通を記念して、2000年3月、宮脇昭横浜国大名誉教授の指導で地元の小学生らが照葉樹のポット苗を植えた。照葉樹はいわきの「ふるさとの木」(潜在植生)。これらを密植・混植して「ふるさとの森」を再生しようという試みである。その苗木が育って、若いがこんもりした約800平方メートルの「緑の小島」ができた。

朝晩、散歩の途中にこの森の前を通る。照葉樹になじんでおこうという意味合いもある。なにせ阿武隈高地生まれだから、照葉樹とは縁がないまま大人になった。どれがどの木か、標識板と現物を照らし合わせて頭にたたきこむのだが、すぐ忘れる。それを繰り返す。

この若い森にも鳥たちがやって来る。春は早朝にウグイスがさえずっていた。今は夕方、スズメたちが群れ集まる。スズメのお宿になったらしい。日が沈んで、影絵のようになったスズメたちがワイワイガヤガヤやりながら、止まる枝を探す=写真。

その上をヒラヒラ飛ぶのはコウモリ。毎日、日が沈むと青黒い空を背景に、鳥だかチョウだか分からない飛び方をする。コウモリはしかし、よく分からない。いわき総合図書館で調べたら、アブラコウモリに関するこんな記述が目に留まった。

「平地の人家付近に棲息する」「山間部とか家屋がない森林内には棲息しない」「日中は家屋の天井裏、羽目板の裏、戸袋などに潜んでいる」「夕方まだ明るいうちから飛び出して、空き地の上、川の上などを飛びながら、飛翔している昆虫類を捕食する」「われわれが町中でよく見かけるのは、このコウモリである」

アブラコウモリかどうかは不明だが、コウモリは「草野の森」を通過して、近くの夏井川の上へ虫を捕食しに行くようである。その姿を写真に、と思っても、私のウデでは無理。動きが予測できないし、薄暮時の撮り方が分からない。そうなるとかえって、いつかは写真にと、コウモリへの執着が強くなる。

「草野の森」から住宅街へ入ると、コウモリが目の前までやって来て、ヒラリと方向転換をした。意外と大きい。同じ「影絵」の比較では、スズメより翼が長い感じを受けた。チョウでいえば、オオムラサキを一回り大きくした感じ。これが薄暮時になると、何匹も神谷の空を飛翔するのだ。

2008年9月11日木曜日

「実りの秋」始まる


昨日(9月10日)早朝、夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵へ車を走らせた。畑のキュウリを収穫するのが目的だが、それだけではもったいない。「三春ネギ」を収穫しよう、森のタマゴタケも見てみよう。「実りの秋」の始まりだ――俄然、心が躍った。

自宅から往復1時間、森の散歩小一時間。朝飯前にはわが家へ戻ることができるだろう。

キュウリは思ったより小さかった。日本晴れの日が続いても、朝晩は空気がひんやりしている。肥大スピードが落ちたようである。3日ごとではなく、4日ごとにチェックするのがよさそうだ。

「三春ネギ」は大きくなったのを3本引っこ抜く。そのあとすぐ、森へ入った。タマゴタケは点々と10個ほどあった。そのうち頭を出しかけた3個と、傘を開いた3個の計6個を採る。キュウリ、ネギ、キノコ、それに赤くなった激辛唐辛子が1本。かごの中身がカラフルになった。大葉(アオジソ)も花をつけ始めた。穂ジソをかごに加える=写真。

わが家へ戻って早速、「三春ネギ」を小口切りにして朝食の味噌汁に入れる。曲がりネギにした「三春ネギ」としては初物である。「三春ネギ」は白根も緑の葉も食べる。軟らかい。が、甘みはいまひとつ。もっと冷え込まないと甘みが増さないのだろう。

タマゴタケはカミサンが昼、うどんのスープにした。ファーブルはキノコ好きで、料理も得意だった。『ファーブル昆虫記8 伝記 虫の詩人の生涯』(奥本大三郎訳・解説=集英社刊)にこうある。

「(ファーブル)先生はキノコの研究もすきでしたが、キノコ料理もだいすきでしたから、秋のシーズンになると、さまざまなめずらしいキノコをとってきて(略)友人たちや弟子たちをまねくのです。/『さあ、きょうは珍品のタマゴタケがありますよ。これはあなたもあじわったことがないはずです。これがどんなにおいしいことか……』」

タマゴタケは、フランスでは珍品扱い。そのうえ、煮込むのが「ファーブル先生」の流儀らしい。煮込んだらタマゴタケの真っ赤な色は飛ぶだろう。澄まし汁にして色を楽しむ日本の料理とはだいぶ違う。どんな料理だったかまでは、奥本先生も書いていない。

穂ジソは、カミサンがキュウリを刻んで浅漬けにしたのを昼に食べた。これも「実りの秋」の香りである。

そういえば、いわきキノコ同好会から9月21日と10月5日にキノコ観察会を開くという知らせが届いた。こちらも秋の便りである。久しぶりに参加してキノコを学ぼう、そんな気持ちになっている。

2008年9月10日水曜日

飛んだのは「さくら」


毎日、残留コハクチョウにえさをやっているMさんと久しぶりに話した。

早朝(9月8日)、堤防の上を歩いていると、珍しく遅い時間(といっても6時半過ぎ)に、Mさんの軽トラがあいさつ代わりの警笛を鳴らして追い越して行く。残留コハクチョウが呼び水になって、10月下旬になると仲間が北国からやって来るのだが、今はまだ4羽が暑くてねっとりした日本の夏をしのいだところ。それを何年も支えてきたのがMさん夫妻だ。

夏井川に面した平中神谷字調練場の砂州が、コハクチョウのえさ場である。Mさんがえさのパン屑などを持って来るのを体が覚えていて、朝になるとコハクチョウが砂州へやって来る=写真。

Mさんに確かめたいことがあった。残留コハクチョウ4羽のうち、1羽が空を飛ぶようになった。古い順から「左助」「左吉」「左七」「さくら」だが、飛んだのはだれ?

残留最古参の「左助」は夏井川河口周辺にいる。Mさんの話では、今はまた横川を伝って仁井田川河口へ移動し、橋の下で休んでいる。「夏井川河口は先日の大水でブン抜けたが、またふさがった」。夏井川が川らしく海とつながっている日数はせいぜい1週間か10日くらいだ。かわいそうな川になったものだ。

左の翼をけがしてだらりと下がっている「左助」は、だからそこにいる。ほかの3羽は、国道6号常磐バイパス終点・夏井川橋をはさんだあたりで過ごしている。たいがいは一緒だ。「左吉」は左の翼、「左七」は右の翼が折れている。「さくら」は幼鳥だが、最近は首の灰色が薄くなって大人に近づきつつある。が、体はまだ小さい。

「飛んだのは? 『さくら』」。Mさんの答えは明快である。私の中に奇跡を期待するなにかがあった。「左吉」でもいい、「左七」でもいい、傷が癒えて飛んでくれたら、と。それはやはり無理だった。

「さくら」はシベリアで生まれていわきへやって来た。小さいけれどもシベリアから渡って来た。半分大人になった今は、来春、みんなと一緒にふるさとへ帰っていけるといい。そんな思いである。

2008年9月9日火曜日

草の花に群がるハチたち


夏井川渓谷(いわき市小川町)の集落の1つ、牛小川にはわが週末の埴生の宿・無量庵を含めて家が10軒ある。無量庵の隣にも家があったが、春に解体された。家から谷に続く杉林も伐採された。

杉林跡の斜面が今、太陽の光を浴びてヤブガラシの緑に覆われている。黄色い粒々の花が咲き始めたら、ハチたちがやって来た。キイロスズメバチやクロスズメバチの仲間、ベッコウバチの仲間。そして、小型のシジミチョウたち。

無量庵の軒下にできたキイロスズメバチの巣はサッカーボール大に成長した。すぐそば、カエデの葉裏にできたアシナガバチの巣は大雨に遭って消滅した。それに比べたら、キイロスズメバチの巣は優雅で堅牢、芸術的でさえある。

その巣を支える働きバチたちが、せっせとヤブガラシの群落と巣の間を往復している。朝5時。外はまだうす暗い。起きぬけに巣を見ると、キイロスズメバチがもう動き出している。夕方、うす暗くなってもキイロスズメバチは飛び続ける。人間と違って昼寝などはしないのだろう。土砂降りでも仕事を休まない。雨の日も風の日も働き続ける宿命なのか。

さて、ハチが群れているのを分からずにヤブガラシの葉を引っ張ったり刈ったりしたら、ハチの怒りを買うかもしれない。秋にハチに刺される事故が急増するのは、こうした予想もしない場所でハチと遭遇したときだろう。神社や山道の土手の草を刈っていたら刺されて死んだ――そんな事故がテレビや新聞で報じられる。

無量庵の庭の草も、梅雨時に一度刈っただけだから伸びに伸びている。家の前の草は見苦しいので大鎌で払ったが、畑の周辺、下の空き地は人に頼むしかない。ハチの習性を考えれば、9月は草刈りを避けたい。すると、無量庵はまますます草に埋もれた家になる。

集落でふだん留守なのは無量庵ともう1軒。よく分からないが、心霊スポットのうわさが飛ぶのはこんなところからか。

2008年9月8日月曜日

タマゴタケを食べる


夏井川渓谷の一角に住む知人の家には、竹林も雑木林もある。無量庵の軒下に日よけを兼ねたスダレのようなものをつるしたい、というカミサンの発案で、必要な本数の竹をもらいに行った。もちろん、こちらで切って運ぶのが条件だ。

私の中学校の同級生が平で大工さんをやっている。彼に無量庵の出窓や押し入れの改修、庭木の枝切りを頼んだ。ついでに竹をとなって、2人で森の家へ向かう。同級生の作業の邪魔にならないところで、知人の奥方と話をする。奥方は自然全般についてのボランティア活動をしている。キノコ・チョウ情報を教えてくれた。

チョウはさておき、「私でさえチチタケを採った。タマゴタケも出るようになった」という。チチタケはこの夏、思いのほかに採れた。奥方もあちこちの情報から「チチタケは豊作だったみたい」という。それよりなによりタマゴタケである。無量庵へ戻ると、仕事をする同級生とカミサンを置いてシロヘ向かった。

岩場の手前で小さなタマゴタケが出迎えてくれた。随分小さいなあ。気持ちがしぼみそうになりながら陰へ回ると、あった! 足元に、斜面に、その下の平場=写真=に。指折り数えたら十数本はある。

昼食にタマゴタケの澄まし汁を振る舞った。真っ赤な傘を8等分して、色を飛ばさないように、火を止める寸前、傘を上にして浮かべる。私ら夫婦はいつものように口に運ぶ。同級生も「きれいだね」と言いながら口にする。

昼休みをとったあと、仕事を再開し、私ら夫婦は切り落とされた枝の片付けに追われた。3時過ぎにはすべての作業が終了した。部屋で一服していると、土砂降りの雨。タイミングよく片がついたものだ。

そのとき、人心地ついたからか「腹が痛くなんねなあ」と同級生。「ナニ、半信半疑だったの?」「そういうわけではないけど」。いや、やっぱり心配しながらタマゴタケを口にしたのだ。

そういえば、タマゴタケを食べる前に「キノコの食毒をどうやって見分けるの?」と聞いてきた。キノコの研究会に入って勉強していること、迷信にはとらわれずに食べられるキノコは食べてきたことを話す。ついでにキノコ図鑑でタマゴタケを見せ、食菌であることをさし示す。その段階から警戒が始まっていたのだろうか。

ひとまず腹はなんともない。一夜明けた今朝(9月8日)も、「腹は痛くない」。同級生は自分に言い聞かせたに違いない。

2008年9月7日日曜日

昔のキュウリを栽培


今年は、キュウリはイボイボのあるものを栽培した。古くからある四倉の種苗店で苗を2株購入し、もらった別の苗とは分けて育てた。お盆前、何本か生(な)ったキュウリを実家へお土産に持って行くと、「昔のキュウリだね」と義姉が懐かしそうに言う。それは知らなかった。

イボイボは触ると痛い。かじると歯ごたえがしっかりしている。軟らかいキュウリに慣れた舌には硬すぎるかもしれない。もらった苗は9月に入ると元気がなくなった。「昔のキュウリ」はまだ葉も青々としている。花も咲く。

週に2回のペースで収穫する。が、今回はそれができずに1週間が過ぎた。土曜日(9月6日)、無量庵(夏井川渓谷)へ着くとすぐ畑を見た。キュウリ棚に、遠目にも太く長いのがぶら下がっている。大きいのは35センチ前後、容量としては普通の3本分か。それが4本ある。採りごろの普通の大きさのは5本。ざるに入れるとずしりとして重かった。

肥大したものはキュウリもみにするしかない。刻んで塩でもむか、味噌をからめるか。4本はそうやって、何日かに分けて食べることにする。まず、無量庵でキュウリもみをつくって酒のさかなにした。土曜朝市で買ったイカがあるので、それは刺し身にする。

キュウリもみを口にして、皮をむくのを怠ったのを反省する。キュウリが肥大するということは皮も厚くなるということだ。皮をむかないといつまでも硬いよろいが口に残る。

余ったキュウリはたっぷりの塩と重しをして古漬けにする。それが甕に積み重なって入っている。キュウリから水が出て表面に白い膜が張ったとき、一度煮沸して戻したほかは、ほったらかしのままだ。カビを抑えるために激辛トウガラシも入れた。甕の水に触れると少しヒリヒリして痛いのはそのためだ。

「昔のキュウリ」は古漬けにしても歯ごたえがいいのだろうか。パリパリと音を立てるだろうか。晩秋にはその答えが出る。

2008年9月6日土曜日

平から大滝根山が見える


いわき市役所は昭和48(1973)年にできた。8階建てで、屋上に展望室があった。今はシンクタンクの未来づくりセンターが入居している。展望室の名残は固定されたスコープ=写真。結構な倍率(20倍)だ。

あるとき、スコープで大滝根山の頂上が見えるという話を聞いた。早速、確かめる。左右から沈み込む稜線のあわい、11時の方向にスコープを当てる。と、山頂に白く丸い物体が見えた。航空自衛隊大滝根山分屯基地(第27警戒群)、つまりレーダーサイトの施設の一部だ。間違いない、大滝根山は市役所から、平から見えるのだ――。感動した。

大滝根山は標高1,193メートル。阿武隈高地の主峰である。南東斜面からしみ出した水は、夏井川となって福島県浜通り南部、いわき市の新舞子海岸で太平洋へ注ぐ。私はその反対側、大滝根山の北西で生まれ育った。町を流れる川は福島県の中通り、阿武隈川へ注ぐ大滝根川だ。

物心づいたときに既に頂上にはレーダーサイトができていて、こぶ状の施設が2つ、肉眼でも町からはっきり見えた。この「こぶ」が大滝根山の景観を壊していると嘆く大人もいた。

いわきに根を生やした今は、毎日、夏井川を見て暮らしている。週末には中流の夏井川渓谷で過ごす。年に数回は最上流、大滝根山の周辺を通る。要するに、水源から河口まで夏井川を絶えず意識して暮らしている、私の胸中には夏井川が流れているのだ、と言ってもよい。

大滝根山がいわきの平、とりわけ市役所の「9階」から見えるという事実は、私の中では結構重い。市民が、行政が「生きた体」としての夏井川流域全体に思いを致し、思索を深めるための象徴になりうるからだ。

夏井川は故郷の山から水を運ぶ懐かしい川であるだけでなく、いわき市の今を支える命の川でもある。鳥の目で見て虫の目で歩くためにも、時々は未来づくりセンターでスコープをのぞくとしようか。なによりいわきの未来を考えるシンクタンクの司令室から夏井川流域全体が見通せるなんて素晴らしいことではないか――などと、勝手に解釈しながら。

2008年9月5日金曜日

堤防の道でバッタリ


夕暮れが早くなった。ふと気づいたら5時をかなり過ぎていた。在宅ワークでくらくらした頭を切り替えるために、朝とは逆コースで散歩へ向かう。家の前の旧国道を、知り合いが自転車でやって来た。たがいにペコリとやってすれ違う。

夏井川の堤防へ出た。まだ空に明るさが残るものの、少しずつ木下闇が濃くなってきた。やって来る人の顔も「かはたれ」に近づきつつある。同じ散歩組のおばさんとすれ違いながら、あいさつを交わす。ずっと先、点のようになって歩いたり、立ち話をしたりしている人もいた=写真。

と、10メートルほど先、自転車でやって来た若者が急に止まって、首から提げていたカメラをバッグにしまい始めた。こちらもカメラを首から提げている。なんとなくバツが悪いような感じですれ違いざま、ちらっと横顔を見て驚いた。バードウオッチングのつながりで4月に知り合ったばかりの大学生1年生(京都からいわきへ帰省中)ではないか。

「○○クン?」「ハイ」。ヤアヤアとなって、少し立ち話をする。「やせたんじゃないの」「5キロやせました」「(鳥の写真の)ブログ、だめだよ、1カ月に一遍くらいでは。また更新なし、○○は生きてるのか、って言う人の気持ちが分かるよ」「忙しくて、京都では写真を撮りに行けないんですよ」

彼の存在は日本野鳥の会いわき支部の会報「かもめ」を介してかなり前から知っていた。なかなか活発なジュニア会員だった。私は支部員ではないが、仕事がらみで毎月、会報が送られてきたので、支部と支部員の動きをある程度は把握できていた。で、新聞のコラムに取り上げたのがきっかけで、彼と知り合ったのだった。

新舞子海岸へチドリを観察に行った帰りだという。堤防の道にも面白い偶然が用意されている。いつかまたの再会を約束して彼と別れた。

2008年9月4日木曜日

ポット苗はすぐしおれる


白菜の種をポットにまいて、芽吹いた苗を育てている。ポット育苗10日目といったところだろうか。本葉が2枚、3枚、4枚と数を増してきた。朝、庭へ出て縁側のポット苗をのぞくのが日課になった。

曇天続きで気づかなかったのだが、ポットの土は太陽の光を浴びるとたちまち乾く。日光が当たるポットとそうでないポットがあって、あるとき見たら、一列だけ土の色が白っぽくなっていた=写真。苗も一様にうなだれていた。

慌てて日の当たらないところに引っ込める。すぐ散水するわけにはいかないから、夕方になるのを待った。水をやる。間もなくイキボエがあがって(いわき語で、元気・勢いが出て)、葉がしっかりしてきた。

手元に置いてあるから安心、なんて慢心していると痛い目に遭う。手元に置くからこそ、こまめに世話をして、葉っぱが、土が発する信号をキャッチしてやらなければならない。なにより今まで、こんなに苗をじっくり観察したことがなかったのだ。

さて、9月1日にホームセンターへ行ったら、本葉が靴ベラ以上に大きくなった白菜苗を売っていた。そちらと比較すればあせってしまうが、今年は自分のペースとしては早めに種をまいたのだ。もっと早く種をまいて育てた苗を売っているからといって、苗の未熟を心配することはない。

とはいえ昨日(9月3日)、別のホームセンターで58円の白菜苗を見たら、ようしオレもと闘志がわく一方で、苗を買って植えてもいいかな、なんて気持ちが揺れた。ジクッとして強い苗をどこまで育てられるか、だ。

2008年9月3日水曜日

残留コハクチョウの秋


昨日(9月2日)の朝は6時に散歩へ出た。このところ6時半過ぎになることが多かったが、9月の声と同時に生活リズムが戻ってきたのだ。

どこかへ行っていた残留コハクチョウ3羽(夏井川河口にいる「左助」を除く「左吉」「左七」「さくら」))が、砂州の広がる夏井川のチョウレンバ(平中神谷字調練場)にいた。前日の昼、そこへ3羽が戻ってきているのを見てホッとしたばかり。

8月末の大水のあとである。ヨシやほかの草が茂りに茂る河川敷だが、チョウレンバへはまっすぐ延びた一本道がある。その道に濁流の置土産の泥が堆積していた。ひびが入りながらも乾ききってはいない。踏み込むとズブッと足が沈みこむ感覚がある。田んぼではないが、田んぼに道ができたようなものだ。長靴の跡、犬の足跡、人間のはだしの跡…。

はやる気持ちを抑えながら足を運ぶのだが、泥にはやはりちょっと躊躇する。道のわきの草を踏みながらチョウレンバへ出た。と、「さくら」がこちらの姿を見て下流へ向かった。「左吉」「左七」は水に入りながらも、そうは動かない=写真。「左吉」は体が汚れている。過酷な夏だったらしい。

岸辺に立っていると、右岸の堤防上に軽トラックが現れた。コハクチョウたちに毎日えさをやっているMさんだ。Mさんが大きな声で「さくら」と「左吉」に呼びかける。「『さくら』、下へ行ってはダメ。『左吉』、『さくら』ごと(注=『さくら』を)連れて来なさい」。「さくら」も「左吉」も言うことをきくものではない。

川は左に鋭くカーブしている。だから左岸に砂州ができる。チョウレンバから見ると右岸の堤防はかなり高い。川幅もざっと30~40メートルはある。その川をはさんで軽トラのMさんと久しぶりに対面した(はずである)。とりあえず会釈をして車を見送る。

9月。夏の暑さに耐えてきたコハクチョウたちには、しのぎやすい秋のステージが戻ってきた。10月下旬には仲間がいわきへやって来る。シベリアでは今、オオハクチョウやコハクチョウ、ガン・カモたちが旅立ちの準備をしていることだろう。

2008年9月2日火曜日

乱れ雲が絵本に化けた


昨日(9月1日)は久しぶりに青空が広がった。とはいえ、次第に翳って、夕方にはすっかり雲に覆われた。秋の天気は長続きしない。刻々と変わる。先週後半もそうだった。青空の下に入道雲、入道雲の下に黒雲。土曜日(8月30日)午後、常磐から平へ戻る途中に見た東の空は、なかなか騒がしかった。

空の雲は2層に分かれ、高いところをゆっくり動く入道雲とは逆に、水分を大量に含んだ黒雲が低層を東から西へ、あるいは南から北へと早足で動きながら、絶えず姿を変えていた。夕方、散歩へ行くと、黒雲は西の方で高々と成長し、激しく自己主張をしていた=写真。

翌日曜日は朝、曇りがちだったのが次第に晴れて、午後には久しぶりに青空が広がった。さいわい、いわき地方は豪雨を免れた。

朝は雲の裂け目にうっすらと青空がのぞいていた。その下を、北茨城市の天心記念五浦美術館へ車を走らせた。美術館に着いたら小雨がぱらつき始めた。猫の目天気だから仕方ない。急ぎ足で館内へ入る。

「ごんぎつねと黒井健の世界」最終日。運転手役だったのが、夢中になった。見たことがある。というより、読んだことがある新美南吉、宮沢賢治の童話の世界を、黒井健が絵にしている。

自分で文章を書いた絵本の原画もある。『雲へ』。小さかったころ、空を飛んだことがある「ぼく」。その少年が空を飛びながら、地上を眺めている。半分は雲の上にいて天上の世界をのぞき、半分は雲の下で下界を眺めている。

これは死んだ「ぼく」だ。初めて死を意識した少年の心象だ。「ぼく/そらを とんだことが あるよ/ほんとだよ/ずーっと まえ/くもまで いってきた」。孤独と沈黙の死の世界から、下界を、生の世界をのぞいて、痛切に生きることの大切さを思う。言葉にしたら、そんな人生最初の根源的体験を具象化したのだろう、と思った。

「ぼく そのあと/なんども とんでみようと/おもったけど/もう とべなかった/でもね くもまで いったのは/ほんとだよ」。内部のリアリズムではそうなる。

売店で『雲へ』と、賢治の詩に絵を添えた『私のイーハトブ』を買った。いろんな雲が描かれている。黒井健は「雲の画家」だった。

2008年9月1日月曜日

税金が川を流れて行く


8月31日の午後、夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵へ出かけた。同月28日深夜から29日朝にかけて、渓谷の上流・川前町で大雨が降った。渓谷はどんな様子か、2日たってやっと確かめに行くことができたのだった。

無量庵も、無量庵の畑も無事だった。家が解体され、斜面の杉林が伐採されて空き地になった隣は、と見れば、土砂流出もほとんどない。いつもと同じ風景だった。渓流だけがチョコレート色に濁って増水し、たけり狂っていた。

無量庵の対岸の森もふだんと変わりがない。木守の滝の手前、「崩れ」(落石個所)も無事。キノコも夏と秋の端境期に入ったらしく、これといったものはなかった。

そうそう、無事でないものが1つあった。渓谷を代表する景勝「籠場の滝」のすぐ上流、県道小野四倉線沿いに設けられた駐車場ののり面がまたまた大水でえぐられた。籠マットを何段にも積んだのでもう大丈夫と思っていたら、一番段数の少ないはじっこ(下流側)がやられた=写真。

すぐそばに大岩が露出している。それが増水すると「堰」になり、駐車場の側にも流れができて、籠マットの上の斜面が水の圧力に抗しきれずに崩れたのだろう。無事なのり面に残った漂着物(植物の茎の残がいなど)からみて、崩れたのり面から下流へかけての道路が一部冠水したようである。これしきの増水でやられるとは、というのが、偽らざる感想だ。

去年、駐車場ができたと思ったら、大水にやられた。今年、春から夏にかけて籠マット強化の工事が行われたと思ったら、またまた一部がやられた。税金がどんどん川を流れて行く。