2008年10月31日金曜日

粟津則雄館長の朗読コンサート


きのう(10月30日)、いわき芸術文化交流館「アリオス」で「秋の午後の朗読コンサート~いわき市立草野心平記念文学館 粟津則雄館長を迎えて」が開かれた。急遽、チケットが回ってきたので、出かけた。

前半はいわきの若いバイオリニストとピアニスト2人が演奏を披露し、休憩後の後半、粟津館長がピアノ伴奏にのせて草野心平の詩を朗読した=写真。いわきで粟津館長の朗読と語りを愛する人は多い。じっくり聴いたことがないので、いい機会になった。

「秋の夜の会話」から「噛む」まで、粟津館長が心引かれてやまない心平の詩10篇を朗読した。

「秋の夜の会話」はやさしい声音<寒いね/虫がないてる/もうすぐ土のなかだね/瘠せたね/どこがこんなに切ないんだろうね/腹とったら死ぬだろうね/さむいね>と野太い声音<ああさむいね/ああ虫がないてるね/土の中はいやだね/君もずゐぶん痩せたね/腹だろうかね/死にたくはないね/ああ虫がないてるね>を使い分けて、いかにも会話をしている雰囲気を出す。

<るてえる びる もれとりり がいく。/ぐう であとびん むはありんく るてえる。/けえる さみんだ げらげれんで。/……>と「カエル語」でつづられた「ごびらっふの独白」はフランス語風、そのうえシャンソン調。そして、<くらあい天だ底なしの。>で始まる「わが抒情詩」の<ああああああ。>の重く暗いため息。役者顔負けの演技力だ。

それもそのはず。あの尊顔が買われて、映画だかテレビだかの時代劇に出演したことがあるという話を聞いたことがある。「越後屋、そちも…よの」かどうかは分からない。が、いるだけで存在感を醸し出したことは確かだろう。

「知的巨岩」ないし「知的ブルドーザー」とでも形容したくなる人が、きめこまやかに心平の詩を朗読した。これから耳の穴の奥の奥で、<ああああああ。>が反響し続けるに違いない。

2008年10月30日木曜日

11月12日から石川葎展


いわき市平の市街地は旧磐城平藩の城下町。その商家に生まれ、書家としての生涯を歩んだ石川葎(本名・美子)さん(1928~2001年)の作品展が11月12~16日、いわき市暮らしの伝承郷で開かれる。

石川さんの書は独特の味わいがあり、いわき市発行の刊行物のタイトル、銘菓の文字、店の看板などでいわき市民にはすっかりおなじみだ。書家としての石川さんを知らなくとも、銘菓や看板を介して、市民は日常的に石川さんの書に接している、といってもよい。

真骨頂は近代詩文。詩はおろかエッセー、俳句、箴言などを渉猟し、共振・共感した字句を掬い取り、書作品として造形する。作品展にはそれらを主に60点余が展示される。石川葎展実行委員会が主催し、いわき市暮らしの伝承郷といわき地域学會が共催する。

実行委の一人として図録の校正を担当した。その作業で得られたことを二、三紹介しながら作品展をPRしたい。

西脇順三郎の詩集『旅人かへらず』の最終連「永劫の根に触れ/心の鶉の鳴く/野ばらの乱れ咲く野末/砧の音する村/樵道の横ぎる里/白壁のくづるる町を過ぎ/路傍の寺に立寄り/曼陀羅の織物を拝み/枯れ枝の山のくづれを越え/水茎の長く映る渡しをわたり/草の実のさがる藪を通り/幻影の人は去る/永劫の旅人は帰らず」を書いた作品がある。

石川さんの関心は現代詩にまで及んでいた。このことに、まず驚く。俳諧にも通ずるような西脇順三郎の哀愁と諧謔を好んだ、ということだろうか。あらためて石川さんの確かな眼力を知る展覧会になることだろう。

山村暮鳥の詩集『雲』の序文の一部を書いた作品=写真=は、いわき総合図書館に眠っていた。別の作品を撮影に行ったら、「もう1点ある」と言われて、日の目を見ることになった。今回の作品展の目玉になる大作だろう。縦約70センチ、横は観音開きで270センチ余になる。書かれてあるのは次の言葉。

「だんだんと詩が下手になるので、自分はうれしくてたまらない。詩をつくるより田を作れといふ。よい箴言である。けれど、それだけのことである。よい詩人は詩をかざらず。まことの農夫は田に溺れず。これは田と詩ではない。詩と田ではない。田の詩ではない。詩の田ではない。詩が田ではない。田が詩ではない。田も詩ではない。詩も田ではない。なんといはう。実に、田の田、詩の詩である。」

いわき駅前再開発ビル「ラトブ」がオープンして1周年。集客力の切り札としていわき市文化センターから中央図書館が引っ越し、いわき総合図書館として開館準備を進めてきたからこそ、所在が確認されての「蔵出し」となったようだ。

そして、もう一つ。きのう(10月29日)の全国紙のコラム。シラーのこんな言葉が引用されていた。「未来はためらいつつ近づき、現在は矢のように速く飛び去り、過去は永久に静かに立っている」。これもまた、石川葎さんの好む言葉だったらしい。図録に収録されている。

石川葎さんの芯をなしていたのは「時間・永劫・瞬間・矢・循環」といったものへの想像力だろうか。石川さんの書と石川さんが選び取った言葉と、その両方を堪能できる展覧会になるはずである。

2008年10月29日水曜日

ニホンミツバチの巣箱拝見


カミサンの知人が自分の家の庭で飼っているニホンミツバチの蜂蜜を持って来てくれた。常温でも長く保管できるという。

たまたまカミサンとその家を訪ねたら、ミツバチの世話をしているご主人がいて、いろいろと話を聞かせてくれた。

カミサンの知人の家は車がバンバン行き交う国道沿いにある。庭が広い。昔は畑だったという。国道からは見えないが、古くからの家が集まっている。畑が点在し、夏井川にも近い。

ニホンミツバチはもともと庭の木のうろに営巣していた。ご主人が巣箱を作ってやると、気に入って数が増えた。今では3カ所に巣箱が置かれてある。

静かなブームになっているのだろうか。週末を過ごす夏井川渓谷の小集落でも、住民が丸太をくりぬいて庭に設置し、ミツバチを飼い始めた。毎日散歩している堤防そばの家でもビニールハウスの前でミツバチを飼っている。ミツバチを飼うと世話が大変、いや忙しさが楽しさに変わるのだとか。遠出もままならないわけだ。

知人のご主人が作った巣箱にはのぞき窓が付いている=写真。それで中の様子が分かる。楽しくないはずがない。

蜜源の花はどこにあるのか。夏井川の河原は今、セイタカアワダチソウの花盛りだ。当然、蜜源になる。川向かいの山にある寺の方まで、2~3キロは飛んで行くそうだから、結構広い範囲から花の蜜と花粉を運んで来るらしい。

わが家の軒下にはアシナガバチが巣を作った。洗濯物を干すくらいなら、気が立って襲って来ることもない。こちらの巣は文字通り、蓮(はちす)の根の切断面を思わせる。まだ何匹か巣の外にいて見張っている。カミサンの知人のハチは、ニホンミツバチというところが健気でいい。

2008年10月28日火曜日

夏井川渓谷のダイモンジソウ


夏井川渓谷の岩場に群生するダイモンジソウの花が満開になった=写真。先日、秋のいわきをきれいにする市民総ぐるみ運動の一環として、住民が渓谷沿いの道路でごみ拾いをした。半住民の私も加わった。そのとき、一緒に歩いたKさんが対岸の岩場を指さしながら「咲いてる、咲いてる」と教えてくれたのだった。

「大」の字に見える花は白く小さい。それが群生しているから、岩場が霜をかぶったように見える。指摘されなければ、それとは分からない。

渓谷随一の名勝「籠場の滝」の上流、湿った岩場のくぼみに、あるかないかの苔が張りついている。そんなところから根出葉を広げ、長い柄の先に「大」の字の花をつける。アカヤシオもそうだが、ダイモンジソウ、イワタバコなど、渓谷の植物は生息地に厳しい環境を選んだ。土壌の少ないところで生きている。それだけで大したものだと思う。

そんな植物は、盗掘して庭に植えてもすぐ枯れる。いや、その前に岩場から足を滑らせて渓流に転落ということになりかねない。対岸から双眼鏡で大群落を眺める、という手が一番だ。

清潔感の漂う白花。渓谷の集落の住民はダイモンジソウをひそかに愛している。「咲いてる、咲いてる」と、なにか小鳥のひなを見るようにいうのが、その表れだ。

2008年10月27日月曜日

三春ネギ、芽を出す


夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)の無量庵の前に広がる林は、ツツジ系とヤマザクラ系の葉が赤みを増してきた。十数年前には見られなかったセイタカアワダチソウの黄色い花も岸辺の空き地に散見される。10月24日の雨と風で葉も相当落ちたらしい。木の枝がよく見える。

先週の日曜日(10月19日)には、人に頼んで刈ってもらった庭の草を堆肥わくにぶち込んだ。庭がきれいになったと思ったのも、つかの間。土曜日(10月25日)に来てみれば落ち葉が散乱している。仕方がない。風に掃除をまかせるしかない(ほっとくしかない)。

菜園に入って、白菜の虫捕りをする。無量庵へやって来たら、真っ先にとりかかる仕事だ。5~6匹は必ずいる。点々のフンを目安に葉を開き、葉裏をのぞいて虫を探す。アオムシ、ハスモンヨトウ。翌日、見るとまたいる。

そして、肝心の三春ネギ。10月の連休に種をまいた三春ネギが芽を出していた=写真。かれこれ2週間が過ぎて、10センチ近い背丈になった。先週の日曜日は地面からかすかに緑色がのぞいている程度だったので、この1週間でグンと芽が伸びたことになる。

先端に黒い種の殻を付けているものもある。ヘアピンのように二つに折れ曲がった芽が、やがてピンと一本の針になる。そんな感じでネギは芽を伸ばす。芽が出れば、まずは一安心だ。

越冬対策としてはもみ殻をまいてやるとか、周りに刈り草で壁をつくってやるとかすればいいのだろうが、今年は寒冷紗をかぶせるつもりでいる。無事冬を越したなと思っても、春先、ネキリムシにやられて苗が目減りする。

もう幼虫が地中に忍び込んでいるかもしれない。が、防寒・防虫の意味を込めて試してみることにした。なんでもやってみることだ。

2008年10月26日日曜日

還暦親睦会


15歳から20歳までの5年間、ないし4年間を一緒に学んだ仲間の還暦親睦会が夏井川渓谷(いわき市小川町)の旅館で開かれた。最初の担任の恩師も駆けつけた。呼びかけに応じた十数人が一夜、学生時代に戻って旧交を温め、イワナの骨酒=写真=などを楽しんだ。

すでに還暦を迎えた仲間がいる。これから迎える仲間もいる。同じ日、会社の仲間が還暦祝いをしてくれるので親睦会にはやむなく欠席、という仲間がいることも紹介された。いずれにしても、還暦なんてピンとこない――というのが、みんなの反応だった。

70歳を過ぎた恩師が60歳の教え子に向かって、当然ながら「あなたたちはまだまだ若い」と言って励ました。定年退職をして再雇用された、ノウハウを生かして独立した、全く違う分野に転身した、と生活環境は変わったものの、何もしないでいられるほど現実は甘くない。老け込むひまはないのだ。

私も独立して満1年。親睦会と「独立記念日」が一緒になった。組織を離れてみると、なぜだか学生時代のことが思い出されてならない。なにかやり残していないだろうか――。よく恩師の住まいに押しかけ、書棚からさまざまな本を借りては気に入った作品を書き移した。その一つが、ときどき頭をよぎる。

「生命は増大すると/ひとがぼくらにいうとき、それは/女たちの肉体がもっと大きく/なることではない、木々が/雲の上に/そびえはじめることではない、/ひとが花々の最も小さなものの中へ/旅行できることではない、/恋人たちが愛の床に幾日も/とどまっておれるということではない。/それはただ単に/単純に生きることが/むつかしくなるということだ。」(ウージェーヌ・ギュヴィック)

そう、やり残しているのは「単純に生きる」ことだ。よけいなことはしない。そんな戒めの詩を思い出した「同級会」でもあった。

2008年10月25日土曜日

そして「さくら」は去った


週半ばの10月22日早朝、夏井川の残留コハクチョウはと見れば、1羽が減って3羽になっていた。今年の春、体力がなくて残留した「さくら」が飛来した仲間のもとへ去ったのだ。

今年の初飛来(10月16日)以後、北からやって来た1羽を加えて、5羽がいわき市北部浄化センター向かいで羽を休めていた。ここではMさんがえさをやる。しかし、鳥インフルエンザウイルスの感染を心配して、上流の平中平窪ではえさやりを中止した。

平塩の越冬地にも、近くのサケのやな場直下、平中神谷字調練場の砂州にも、コハクチョウは姿を見せる。が、どうにも今年は落ち着かない。22日には、30羽ほどが調練場にいたが、すぐ15羽ほどが、次いで4羽が飛び立ち=写真、旋回してどこかへ消えた。

体力がついてときどき飛ぶ姿が目撃されていた「さくら」は、合流した1羽に誘われるようにして仲間に加わったのだろう。いわきにいるか、いわきを離れて南下したか。群れの中ではまぎれてもう分からない。

「左助」「左吉」「左七」、そして「さくら」の4羽だけになったのは4月初旬。以来、200日近くを4羽が一緒に過ごした。「左助」はときどき群れを離れてはMさんに連れ戻されていたが、「さくら」は暑い夏も、大水の日も「左吉」「左七」に寄り添って離れなかった。

「さくら」はこうしてみると、仲間の飛来をじっと耐えていたのだろう。野生復帰はうれしいことだが、毎日えさをやり続けてきたMさんには寂しいことでもあるに違いない。ウオッチャーもしばらくは「1羽が欠けた」意識をぬぐえない。

2008年10月24日金曜日

街なかのキノコ


近所の家の庭にキノコが生えた。見たら、テングタケ=写真=だ。「毒キノコです」「あら」。奥さんとわが家のカミサンとで大笑いになった。2人とも食べられたら儲けもの、とでも思っていたに違いない。

庭といっても家が1軒建つくらい広い。生け垣に囲われて芝が生え、ソメイヨシノと松、カキなどが枝を広げている。生け垣のたもとにテングタケが散在していた。

褐色の傘に白い粒々(幼菌を包んでいた膜のかけら)が付着しているから、一発でテングタケと分かる。傘が赤ければベニテングタケだが、ベニはまだ見たことがない。先日、いわき市田人町の朝日山で採取したのは同じテングタケ科のヒメベニテングタケ。ベニは傘の直径が10~20センチになるが、ヒメは3センチほどでしかない。

ベニテングタケは絵本の表紙になるのでなじみ深いとはいえ、実際には標高の高い山か北国へ行かないと見られないようだ。いわきでは見たことがない。代わりに、テングタケは街なかの公園でも見られる。いわき芸術文化交流館「アリオス」と地続きの平中央公園。ここの歩道そばに群生していたことがある。

アリオスの建設中には見ることができなかったが、菌糸はまだ地中に張り巡らされていることだろう。

キノコは食べられるかどうかだけではなく、形や色の美しさ・奇怪さ・おかしさに引かれるようになると、より面白くなる。すると、街のなかを歩いていてもキノコが目に飛び込んでくる。キノコの胞子は、山だけでなく街なかでも飛び交っている。秋になるといつもそんなイメージを抱く。

2008年10月23日木曜日

夏井川渓谷紅葉ウオーキングフェスタ


小欄で何度か紹介しているが、夏井川渓谷の埴生の宿・無量庵の隣の家が解体されて更地になった。谷に続く杉林も伐採された。この、轄然と開けた新風景(実際には家が建つ数十年前の風景の復活)=写真=を生かしたイベントが、11月16日に開かれる。

「夏井川渓谷紅葉ウオーキングフェスタ」。小川町商工会(紅葉ウオーキングフェスタ実行委員会)が主催する。協力団体に東北電力や所有者、江田地区のほか、地元の牛小川地区が名を連ねている。

秋の「いわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動」最終日、牛小川で早朝、県道のごみ拾いが行われた。作業終了後、フェスタの話が出て、何人かがウオーキングの案内人を務めることになった。森の道を知っているのは、やはり地元の人間。半住民の私も案内人の一人に加えられた。

イベント内容をかいつまんで言うと、更地を会場に、朝9時半開会式を行い、東北電力の和太鼓グループ(鼓響会)の演奏を聴いたあと、対岸へ渡り、「阿武隈高地森林生物遺伝資源保存林」の遊歩道約2.5キロを往復する。スタート地点にある水力発電所も、ウオーキング参加者に限って公開される。折り返し地点では上流から岸辺に流れついたごみ拾いを実施する。会場へ戻ったあとはアトラクションを楽しみ、2時に閉会する。

会場では地元の新鮮な農産物ときのこ汁を販売する。ほかに手作りのうまいものコーナーも企画されている。こちらはウオーキング参加者でなくてもOKだろう。

夏井川渓谷のイベントとしては川前町の紅葉ライトアップがある。が、小川分では紅葉時期、江田駅前に直売所ができるくらいだった。昔、牛小川でも青年団がおでんを売ったことがあると、前に聞いたことがある。それ以来のイベントになるのだろうか。

いずれにしても「新風景」と「エコハイキング」を結びつけたイベントが待ち遠しい。「来たときよりもきれいにして帰る」。山野へ分け入って楽しむときの原則を身につけるチャンスでもある。そのことをウオーキング参加者に伝えようかとも思っている。

2008年10月22日水曜日

命かけたえさやり


1年を通して夏井川の残留コハクチョウにえさをやっているMさんと、きのう(10月21日)の朝、堤防の上で話した。こちらは白鳥ウオッチングを兼ねた散歩の途中、Mさんは軽トラを運転してのえさやりの帰り。市役所の職員が「白鳥にえさをやらないでほしい」と言いに来たそうだ。

「渡って来た白鳥はともかく、飛べずに残った4羽には命がけでえさをやってんだ、見殺しにしろというのか」。さわらぬ神にたたりなしの役所の物言いに、Mさんは怒った。今さら手のひらを返したような仕打ちはできないではないか――そんな口ぶりである。

今年の晩春、十和田湖畔や北海道の野付半島、サロマ湖畔で、北帰行途中の白鳥が死んで見つかった。白鳥からは鳥インフルエンザウイルスが検出された。「えさやり中止」の発端はこれだろう。が、鳥インフルエンザウイルスはそうそう人間には感染しない。そのことを基本におかないと議論がねじ曲がる。

厚労省も啓発しているが、①死んでいる鳥や衰弱している鳥には素手で触らない②鳥の排泄物に触れたら手洗い・うがいをする③フンを踏んだら念のために靴底を洗う――ことで予防できる。大量にウイルスを吸い込まない限り、感染の心配はない。白か黒かではなく、やり方を変える、マスクや手袋をして注意深く接する、ということも一案なのだ。

福島市の阿武隈川では関係者に絞ってえさやりを続行することになった。現実的な選択だろう。Mさんも4羽のえさやりを続けるつもりのようだ。「けさ(21日)、残留4羽と合わせて8羽がサケのやな場下流にいた。新しい4羽がえさをがつがつ食っていた」という。

夏井川白鳥を守る会がえさやりを中止したため、平中平窪に飛来するコハクチョウは川に降り立っても腹を満たせない。すぐ飛び立ってえさを探しに行く、あるいはえさを求めて南下する、といったことを繰り返しているのではないだろうか。

どうやら「えさやり中止」は全国的な傾向らしい。人間の善意を支えに、いやそれに依存してこれまでやって来たコハクチョウたちは、突然の知らんぷりにパニック状態になっているに違いない。平塩~中神谷の夏井川でも落ち着かない。姿を見せた=写真=かと思うとすぐ飛び立ち、「冬水たんぼ」を探して旋回する。しかし「冬水たんぼ」は神谷にはない。

えさやりを中止するなら、行政も間に入って各地に「冬水たんぼ」を増やす、くらいのことはしてやるべきではないか。白鳥が本来の野性を取り戻すためにも、そうした代償措置が必要だ。白鳥にマイクを向ければ「人間はなんて身勝手なの」というに違いない。

2008年10月21日火曜日

阿武隈の水源を歩く


先週土曜日(10月18日)、双葉郡葛尾村へ行って来た。福島県中山間ふるさと事業「あぶくまの水源を歩こう――葛尾川源流(五十人山)散策と、間伐材を利用したクラフト」に、いわきから手を挙げた40人余の1人として参加した。全体の参加者はおよそ90人というから、半数がいわきの人間だったことになる。

常磐湯本町のSさんがまとめ役になり、自分の経営する旅館のマイクロバス2台を提供した。去年も同じようなイベントがあって、やはり誘われて葛尾村へ出かけた。昼食付きのイベントに一銭もかけずに参加できる、というのがミソ。

今年は昼食におにぎり、お煮しめ、漬物、凍み餅のじゅうねん(エゴマ)餡などが振る舞われた。甘く香りのいいネギと豆腐のみそ汁がおいしかった。料理を担当したJAふたば女性部葛尾支部の関係者に聞くと、「ただのネギだ」という答え。昔からの地ネギに違いない。売っている店はないかと聞けば、「はて」。自家消費用の生産にとどまっているのか。

阿武隈高地は分水嶺の東側で太平洋へと一気に駆け下る。そのため、浜通りの市町村にはそれぞれV字谷が展開する。いわきで言えば夏井川渓谷、双葉郡なら木戸川渓谷、高瀬川渓谷などだ。双葉郡の西隣、現田村市常葉町で生まれ育ったとはいえ、双葉郡は分水嶺の向こう側の世界、どこをどの川が流れているのかは今もよく分からない。

今回のイベントでは、そのへんをはっきりさせたい思いがあった。阿武隈高地を奥の奥まで分け入って、この目で確かめたい――機会があれば足を向けるようにしているのは、そのためだ。

木戸川はいわき市小川町の戸渡(とわだ)が源流、国道288号(都路街道)沿いの渓流は熊川。江戸時代、磐城平藩と相馬藩の境はこの熊川だった。葛尾川は浪江町に入って高瀬川となり、河口近くで請戸川(泉田川)に合流する。葛尾川も、請戸川も地図で見る限り、水源は旧岩代町を吸収した二本松市の日山(標高1,055メートル)のようである。

五十人山は、いわば葛尾川支流の水源。ふもとの「みどりの里ふれあい館」を集合・昼食・木工・解散場所にして、四合目にある水源を目指した。散策とはいっても山登りには変わりない。いわき組はウオーキングスタイルがほとんどで、急遽、木の枝をつえ代わりにえっちらおっちら歩を進めた。およそ10人ごとに「森の案内人」が付いて、いろいろ説明してくれる。

水源近くに直径60センチほどのブナの木があった。若くはないが大木ではない。案内人に勧められて、参加者が次々とブナの幹を抱きしめ、耳を当てた=写真。水源は杉林の中にあった。ちょろちょろ水音がする。知り合いの女性が俳句のようなものを詠んだ。中七の「水の産声」がしゃれていた。

帰路は登山道そばの雑木林に入ってキノコ採り、といっても今年はとっくに出終わったという。クリタケを3個採った。毒キノコもない。あきらめてすぐ登山道へ戻る。

昼食の後で磐城森林管理署長の講話を聴いた。水田用に張り巡らされている農業用水路と同様、森林も関係者だけでは維持管理が難しくなっている。地域住民も参加して地域の森林や用水路を守っていこう――そういう機運を盛り上げたい、ということだろう。

そのためには現実を見て、知って、理解し、できれば少し手を貸してもらいたい、という目的のイベントと受け止めた。

2008年10月20日月曜日

「いわき鹿島の文人画とその周辺」展


遅ればせながら、いわき市暮らしの伝承郷で開かれている「いわき鹿島の文人画とその周辺」展(10月26日まで)を見た。私にとっては長く「幻の画家」だった荒川華関(1870~1941年)の画業に触れるまたとない機会となった。

会場入り口正面にデンと飾られた屏風の山水画に圧倒される。六曲の「松雨楼閣」=写真。昭和5(1930)年の作だという。

そびえたつ山のつらなりを遠景に、手前の山あいに何軒かの楼閣が立っている。楼閣の前には梅が花開き、裏山の尾根筋には松が林立している。遠景と楼閣のある近景を白い帯のような霧か雲がつないでいる。画面右下にあるのは水の世界らしい。渓流をたたえる湖か。

山水画に現実の風景を探すのは意味がない。無粋だ。が、妙にリアルなものを感じる。「『夏井川渓谷の隠れ里』(小川町上小川字牛小川)ではないか」。そういう意識で見ると、また違った味わいがある。いや、ますます画面にのめり込んでしまう。

山水画の特徴は省略と強調だろう。「松雨楼閣」にアカヤシオを加え、楼閣を普通の民家に切り替えると、いよいよ私のなかでは夏井川渓谷の小集落になる。週末をそこで過ごす人間の思い込みとして、夏井川渓谷を山水画に描くとしたら「秋雨楼閣」以外にはあり得ない――そんな磁力を発する大作だ。

さて、荒川華関は農業にいそしみ、鹿島村長を務めた実業の人でもあった。与謝蕪村や渡辺崋山らの系譜につらなる文人画に優れ、漢詩や書もよくしたという。雅号の華関は、勿来の関の山桜にちなむということも、今回初めて知った。

戦後すぐ鹿島村長を務めた八代義定(1889~1956年)もまた、農業のかたわら考古学と歴史の研究を続けた。荒川華関といい、八代義定といい、鹿島には文人村長が生まれるなにか特別な土壌があるのだろうか。

話を戻す。華関の弟子の橋本華涯(1914~1984年)の作品「松林白瀑」を見た瞬間、夏井川渓谷の籠場の滝を思い浮かべた。やはりどこかにリアルな感覚がはたらいているのだ。夏井川渓谷を下敷きにして、初めて山水画に没入し、興奮した。

2008年10月19日日曜日

寄贈本2冊


ある集まりで作家の吉原公一郎さん(いわき市平出身)と一緒になり、吉原さんから最初の単行本『松川事件の真犯人』の文庫版(祥伝社文庫)をちょうだいした。同じ日、学校の後輩が企画・編集した『わたしの幸福ノート2009年版』(飛鳥新社編集部・編)がメール便で届いた=写真

『松川事件の真犯人』のカバーには「昭和二四年八月一七日午前三時、福島県松川町の東北本線で列車が転覆し機関士ら三人が死亡した『松川事件』。戦後三大謀略事件の一つである。偽(にせ)の自白、証拠の捏造(ねつぞう)と隠滅(いんめつ)、でっち上げだらけの捜査、消された目撃者、諜報機関員、謎の米兵……。平成の今こそ読まれるべき迫真のドキュメント」とある。

『わたしの幸福ノート』は「365日、書くだけでハッピーになれる本!」だそうだ。①今のままでいいの?このノートに書けば、新しい「わたし」が見つかります②毎日、書き続けていると、「わたしの幸福」のリズムが、つかめます③こうすれば幸福になれます、四季の暮らしのアイデア&レシピつき――。

吉原さんの本はルポルタージュながら、推理小説のような謎解きの味わいがある。それに、知人の父親が松川事件の捜査員だったと、昔、聞いたことがあるので、それも頭に入れてじっくり謎解きを楽しもうと思っている。

『わたしの幸福ノート』は一言でいえば、かなり独創的な手帳兼日記帳だ。一例が「今日の気分」を記号で表すコーナー。「◎…とっても元気」「○…まあまあ」「□…ほどほどに、普通」「△…ちょっと……」「×…う~ん、ダメ!」。記号だけで物足りなくなったら、右側の方眼紙のメモ欄に書き込む。「書く」ことに親しんでほしい、という願いが込められている。

後輩は学生のころ、ささいな事柄でもAとBはこんなに違うといったことを、例を挙げて説明する癖があった。この本(日記帳)のきめの細かさは、まさに彼の本領発揮といったところだ。企画会議でアイデアを披露したとき、どのくらいの人間が本の中身をイメージできただろうか。                                         
ともかくもアイデアをいっぱい駆使してできた本であることには間違いない。面白そうだから、後輩の企みに乗って日記帳として使ってみようかと思う。

2008年10月18日土曜日

コハクチョウが来た


いわき市平中平窪の夏井川に50羽近いコハクチョウが飛来した=写真。おととい(10月16日)、夏井川白鳥を守る会の人たちが確認した。第一陣がこれだけ大挙してやって来たのは初めてだという。

守る会が最初に確認した数は45羽(うち幼鳥7羽)。きのうの朝は3羽増えて48羽になっていた。夏井川第三の越冬地・小川町の三島にも何羽か姿を見せたらしい。何羽かは両方を行き来しているものと思われる。

おとといの朝8時半前、茶の間にいると「コー、コー」と鳴きながら上空を通過する鳥がいた。姿は見えずともコハクチョウであることは明らかだ。すぐ散歩へ出る。平中神谷と塩の付近は、夏井川第二の白鳥越冬地。しかし、川面にコハクチョウの姿はなかった。平窪へ向かったのか。

あとで守る会のホームページを開くと、16日に初飛来の記事が載っていた。先の大水で中州と岸の間に小さな流れができた。鳥インフルエンザ対策と転落防止を兼ねて、白鳥に直接触れないよう岸辺にネットを張ったという。新聞によれば、えづけも中止するらしい。

一方の神谷。きのう早朝、いつものように夏井川の堤防を散歩しながら双眼鏡で見ると、残留コハクチョウ最古参の「左助」が仲間3羽と一緒にいた。毎日世話をしているMさんが河口から軽トラに乗せて市北部浄化センター向かいの砂州へ連れ帰ったに違いない。白鳥飛来の知らせを受けたのだろう。夕方には1羽増えて5羽になっていた。

「左助」は、残留組だけではすぐ孤独癖を発揮するが、仲間がいっぱいいるとかえって離脱しにくいらしい。昨シーズンはMさんに連れ戻されて、そのまま仲間のもとにとどまった。今年残留した「さくら」も飛べるところまで体力が回復した。間もなく半年ぶりに家族と対面することになる。

飛来2日目の朝、守る会の記事に刺激されて平窪の夏井川へ車を飛ばした。48羽が長く一列になって羽を休めていた。コガモにオナガガモもいた。心がほころぶ光景だが、今年は鳥インフルエンザのせいでなんとなく近寄りがたい。そんな自分が嫌でも、感染源になるわけにはいかないではないか、と言い聞かせて帰る。

2008年10月17日金曜日

救急車で病院へ


おととい、いや正確には昨日(10月16日)の未明、救急車に乗った。

久しぶりに田町(いわき市平の飲み屋街)=写真=へ繰りだしたら、シンデレラタイムを過ぎた。それでもしつこくママさんとおしゃべりしながら飲んでいると、酩酊状態の男性が入って来た。男性は少しの時間いてタクシーを呼んだ。運転手がドアを開けて到着を告げると、席を立った。その直後、運転手が戻って来て言った。「お客さんが階段で転んだ」

急いで駆けつけると、男性が前のめりになった状態で階段の踊り場に倒れていた。後頭部から血を流している。その血が見る間に床を染めていく。ママさんに救急車の手配を頼み、男性の後頭部を手で押さえた。意識はある。が、出血は止まらない。数分後、救急車が到着し、隊員に男性をゆだねた。

店に戻って赤く染まった手を洗い、道へ下りて男性の様子をうかがっていると、隊員が「救急車に乗ってくれ」という。男性が店に来たのは2回目。ママさんはどこの誰だか分からない。それでも私と2人、同乗を促された。

男性は一人暮らしらしい。老いた母親がいるが、連絡が取れるような状況ではない、そんなことが耳に入る。なかなか受け入れ病院が決まらない。やりとりを繰り返した末にようやく搬送先が決まった。いわき市立総合磐城共立病院である。

「ピーポー、ピーポー」と鳴らして搬送を終え、医師たちに男性をゆだねると、救急車は署へ戻った。帰り際、若い隊員が手をふく布を渡しながら「勇気ありますね」と言った。なんのことだか。素手で男性の後頭部を押さえ、血にまみれたことか。勇気も何もあったものではない。アルコールでマヒした頭がとっさに手を出すように命じただけだ。

私たちを残して救急車が(勝手に)帰ったあと、看護師さんがけがの程度を説明してくれた。大丈夫ということで、ようやく放免される。タクシーで店へ戻り、階段の血を洗い流し、ママさんの車に送られて帰宅したら、朝の5時になるところだった。本当の朝帰りである。

カミサンは「あらっ」、いつものパターンで遅くなった表情だったが、事情を説明すると2時が5時になったワケを了解した。二日酔いというより、酔ったまま朝を迎えた。仕事にならない。すぐ寝た。夕方、正気に戻る。「あれはオレの姿だったか」。酔いから醒めてみれば、事の重大さ、怖さが胸に迫ってきた。

2008年10月16日木曜日

アミタケを採って考えた


中学校の同級生が近所に住んでいる。山国育ちだから自然には詳しい。大工さんである。彼に頼んで、夏井川渓谷にある無量庵の台所や出窓、押し入れなどを直した。あるとき、無量庵でキノコの話になった。

「山根(彼の故郷の田村市常葉町山根)の人たちはアミタケ=写真=を食べないんだ」。「えっ?」と私。「いわきではみんな夢中になって採っぺよ」。なぜかアミタケをまたいで過ぎるのだという。アミタケよりうまいキノコが採れるのか、イグチ系のキノコに対して禁忌が存在するのか、あるいはまた別の理由があるのか、それは分からない。

そのとき、『川内村史・資料篇』が頭をよぎった。幕末の資料にシイタケ・コウタケ・ムキタケ・マツタケの値段が書いてある。

江戸へ出荷するのはシイタケとコウタケ。安政7(1860)年3月時点での相場は、シイタケ1両当たり1貫550匁、コウタケ2貫400匁とシイタケの方が高い。シイタケはささかご・むしろ包みにして平城下から、コウタケは箱に入れて送った、とある。

慶応2(1866)年12月になると、これが3~2倍にはね上がる。1両当たりシイタケ中級品500匁、シシタケ(コウタケ)1貫400匁。ムキタケはよく分からないのだが「三割二分」、マツタケは大小5本で100文と考えられない安さだ。大冷害が起こったらしい。

現在の貨幣価値に換算するといくらになるか。「鬼平犯科帳」の池波正太郎さんは1両を6~8万円とみていた気がする。別の人は12万円という。幅をもたせて換算すると、シイタケはキロ1万円強~2万円強(安政7年)、コウタケは7,000円強~1万4,000円強(同)、マツタケは1万円で8本強~4本強(慶応2年)の計算になる。

コウタケはともかく、シイタケが飛びぬけて高いのと、マツタケがそれほどでもないのは、なぜだろう。シイタケとコウタケは乾燥が利くが、マツタケはそうではない。マツタケは結構みんなが採っていて、流通する範囲も平城下とか三春城下とかの近郊止まりだったのではないだろうか。要するに、現代のような高級品ではなかった、ということだ。

この前初めて、シイタケらしいものを夏井川渓谷で採った。アミタケも無量庵の裏山で2、3回、20個前後採った。マツタケやコウタケ(シシタケ)はしかし、はなから採るのをあきらめている。それでいいと思っている。採って金を得るプロではないのだから。

2008年10月15日水曜日

「地球市民フェス」終わる


8回目のいわき地球市民フェスティバルが10月13日、小名浜港のアクアマリンパークで開かれた。今年はリニューアルされた「さんかく倉庫」の小名浜潮目交流館を初めて会場に加えた。日中は風もなく、晴れて絶好のイベント日和になった。

いわき市民間国際交流・協力団体連絡会といわき市が共催した。①知ってください私たちの活動を②あなたにもできる海外支援③留学生と仲良くなろう④世界の味に舌鼓――の4本立てで、カミサンがやっている「シャプラニールいわき連絡会」=写真=の裏方として私も参加した。

イベント参加者とボランティアの学生らが総出でテントを張り、テーブルやいすをセットしたあと、自分たちのブースへ戻って飾り付けをした。

フェスティバルに参加した団体はあまり変わらない。20代から80代まで、1年ぶりに会う人が十数人はいただろうか。それに擬似孫、本孫も親たちと来た。人と会う。人と交流する。国際交流の前に、国内の、いわきの、来場者との、フェスティバル参加者との交流があった。

ところが、裏方をして分かったことだが、一部のフェスティバル参加者の意識と行動の乖離が、学生ボランティアには解せなかった。駐車場誘導に携わった学生が「大人は勝手だ」とフンガイしていたという。

車をどこに止めるか。商売をしている「いわき・ら・ら・ミュウ」からみれば、イベント会場近くにスタッフの車を止められたら、客の車が止められない。で、スタッフの車は一番遠い所(アクアマリン側)に止める、という取り決めになった。それでもいろいろ理屈をこねて会場近くに止める大人がいたのだという。

メゲルな若者、そんな現実を学んで強くなっていくんだよ。いいところは実践する、悪いところはまねしない――でいくしかない。汗をかかない大人はいる。でも、汗をかく大人はいっぱいいる。その逆に、汗をかかない学生ボランティアもいたような気がするな。世間をぎゅっと凝縮させたフェスティバルではあった。

2008年10月14日火曜日

飯野八幡宮抜穂祭に遭遇


先週土曜日(10月11日)の朝、自宅から夏井川渓谷へ向かう途中の農道で、飯野八幡宮神撰田の抜穂祭(ぬきほさい)に遭遇した。

神撰田は平中塩にある。両側に田んぼが広がる農道を車で行くと、大きな倉庫の前に幼児と母親、年配の人たちが集まっていた。バックミラーに飯野八幡宮の白いテントが映った。「抜穂祭か」。きびすを返して様子を見る。1枚の田んぼに縄が張られ、所々に弊束が飾られている。北側の小川江筋寄りに陣取って祭事が行われるのを待った。

9時45分。倉庫のそばで花火が打ち上げられた。花火師が火をつけるとすぐ炎と白煙が上がり、頭上で音が炸裂した。打ち上げられた瞬間を写真に撮ったら、白煙が写っていた。めったにないシャッターチャンスである。

神撰田近くにある平商業高校の女子生徒10人がふんする「刈女」と、白い装束(浄衣?)を身にまとった宮司らが江筋の方へ移動した。「野辺参り」とでも言うか、水稲の生長を支えた江筋の水に感謝する意味もあるのか、江筋にかかる小さな橋からしずしずと神撰田へ歩き始めた一行=写真=は、神撰田の前で口をそそぎ、テント内での神事に臨んだ。

やがて、鎌を手にした「刈女」が神撰田に入る。横一列になって一握りの稲穂を刈り取る。刈女はそれでお役目終了、である。同八幡宮が運営するたかつき保育園の子どもたちも同じように稲刈りを体験した。あとは氏子らで組織する「八十八膳献穀会」におまかせ、となるわけだ。

献穀会は毎年、「御田植祭」と「抜穂祭」のあとに会報「結(ゆい)」を発行している。近く発行される会報に頼まれて原稿を書いたので、これも何かの縁に違いないと「抜穂祭」の様子をウオッチングした。偶然とはいえ、「結」が引き寄せた、楽しい道草だった。

2008年10月13日月曜日

いわき地球市民フェスティバル


きょう(10月13日)午前10時から夕方近くまで、小名浜港・アクアマリンパークで「第8回いわき地球市民フェスティバル」が開かれる。

カミサンが関係しているシャプラニールいわき連絡会も参加する。で、前日の準備、当日早朝の荷物搬入に駆り出されるのが恒例になった。きのうも午後から、小名浜への運転手とテーブル・いす・パネル・支柱搬入の力仕事に加わった。そうしないと、すぐ口から火を噴くマシンガンでハチの巣にされる。

「シャプラニール=市民による海外協力の会」は、創立が1972(昭和47)年。会報によると、草の根の立場で海外協力を実践している民間団体(NGO)で、バングラデシュ、ネパール、インドで農村開発やストリートチルドレン支援など、当事者主体を原則にして活動している。

草創期のリーダーがいわき出身のわが友人だったので、彼が組織を離れたあともシャプラニールと関係を保っている。

現地の女性が生活向上のために作った手工芸品を輸入・販売し、彼女たちの仕事づくりに協力する先端(末端ではない)が日本列島に点在している。わが家でも、カミサンが手工芸品を置いて気に入った人に買ってもらっている。

フェスティバルは、改装なった「さんかく倉庫」の「小名浜潮目交流館」と外を使って、今年初めて屋内外で行われる。

きのう、館内で行われていたイベントの終了を待って、パネルと支柱によるブースづくりをした。屋外では「遠野町物産展」とフリーマーケットが行われていて、結構なにぎわいだった。

夕日が山の端に近づくころ、予定していたテント張りのための準備などは、同時開催の「エコポイントフェスティバル」との関連もあって、当日早朝に――ということになった。

解散したのは午後5時。胸騒ぎするような夕焼けになった。夕日の沈む山はどこだ。湯の岳はずっと右側にある。勿来・田人方面の仏具山か明神山か。雲が切れて水色の空も見える。一緒にいたボランティアの19歳の少年が思わず手を合わせた。

そのあとみんなと分かれ、夫婦で駐車場へ戻ると、赤々と燃えている空に「光背」が走った=写真。ケータイで写真を撮る人があちこちにいた。同じような感動にふるえていたのだろう。西方浄土を体現する阿弥陀仏はこれか、と思った。

一夜明けて今、朝の5時すぎ。7時半集合というから、7時前には車に荷物を積んで出発しなくてはならない。

2008年10月12日日曜日

ナラタケ大量採取


きのう(10月11日)の続き。いわき市民がよく訪れる平の里山へキノコ採りに入った。前の日と違って、お目当てのウラベニホテイシメジは採れなかったが、ナラタケが大量に採れた。2日続けての採取である。

お年寄りが1人で、集団で林内に入っていた。こりゃだめだ。さっさとあきらめて斜面のやぶから遊歩道へ出たら、沢の倒木にびっしりキノコが生えていた=写真。よく見るとナラタケだ。が、これもウラベニホテイシメジ同様、十年以上採っていない。

まずは1本1本、裏返してひだが虫に食われていないかどうかを確かめる。たちまちかごにいっぱいになった。間違いなくナラタケだが、万一ということがある。図鑑より体で確認する方が早い。下痢したら、そのときは廃棄処分だ。

そうして前日に採ったもの、次の日に採ったものと、2日間、ゆでて大根のおろしあえにした。腹痛にも、下痢にもならない。毒見の結果、ナラタケであることを確かめた。

ナラタケも食べ過ぎると下痢をすることがある。たぶん柄をつけたまま食べるからだろう。柄は黒ずんだところが硬くなっている。その部分は折って捨てる。そうすると、たくさん食べても下痢にはならない。体験的にいえることではある。

ナラタケと分かった以上はゆでて冷凍保存をする。人寄せしたときにキノコ汁にするのだ。相当の量を確保したから、あとはアミタケ、アカモミタケ、ウスヒラタケ、その他と種類を稼いで雑多なキノコ汁にできるかどうか、だ。

キノコは大量に採れたからといって、なかなか人にやれるものではない。嫌いな人がいるし、万一体調が悪いところへ食べておかしくなった、などといわれても責任の取りようがないからだ。で、つい採れた自慢ばかりになってしまう。

2008年10月11日土曜日

キノコとノーベル賞


今年のノーベル物理学賞に決まった日本人3人のうちの1人、京都産業大学教授益川敏英さん(68)はなかなか茶目っけのある人のようだ。

テレビのワイドショーで奥さんが言っていた。「『キノコは人類の食べるものではない』などと、たいそうなことを言う」と。これには笑った。単にキノコ嫌いなのだろうが、さすがは「理論屋」である。

「よし、『非人類』になってキノコを採って来よう」と里山へ向かった。昔は1年に50回以上入った平市街の「ウラヤマ」だ。遊歩道が縦横に張り巡らされている。その道からそれて林床に足を踏み入れると、灌木とクモの巣が待っていた。

幸先よくウラベニホテイシメジが目に入った=写真。もう十数年、採ったことがない名菌だ。なんでこんなにすぐ採れるのか。自分でも首をかしげたが、理由がないわけではない。十数年前に採った場所である。記憶がそこへ足を運ばせたのだ。

採りごろの3本を採取したものの、あとは空振り。3本目はしかし、わが家で見たら、傘の模様がウラベニホテイシメジではなかった。かすり模様もクレーターもない。毒キノコのクサウラベニタケである。両者はそれほどよく似ている。欲が冷静さを失わせたようだ。

夜、シメジご飯にした。ここ10年ほどは買ったり、もらったりしてシメジご飯にしていたが、自分で調達したのだから、うまさは倍になる。ところが、カミサンはうんざりした表情で言った。「キノコはもう食傷気味」。ノーベル賞の益川教授と同じ人類になったようである。

2008年10月10日金曜日

実家の近所が火事


関東圏にいる姉から電話がかかってきた。阿武隈の山の町=写真=にある実家の1軒先の隣家が火事になったらしい、という。

小学校の同級生の家ではないか。びっくりして実家に電話をした。義姉(ねえ)さんが説明してくれた。9月、真夜中に同級生の家の離れが燃えた。「うち(実家)の物置も延焼するかもしれない」と、一時は観念したそうだ。

翌日、いわき総合図書館へ行って福島民報と福島民友をめくった。9月13日付の社会面にベタ記事が載っていた。「12日午前1時25分ごろ、田村市常葉町字上町××、無職○×□△さん(81)方から火を出し、鉄骨木造2階建て住宅約230平方メートルを全焼した。/三春署と田村消防署が原因を調べている。1階は倉庫で、出火当時、○×さんは2階で寝ていた」

○×さんは、むろん知っている。同級生の母親だ。向こう3軒のうち2軒と両隣も、その隣も同級生の家。親で生きているのは○×さんだけではないか。無事でよかった。

常葉町は昭和31年の4月、強風が吹き荒れる夜に大火事に遭った。わが実家も含めて一筋町の大半が焼け野が原になった。表の通りが拡幅され、家の裏に道ができた。消防車が入れるようにした防火対策である。

で、わが実家を含めた隣と隣の3軒では大火事のあと、母屋の裏に倉庫(物置)が建った。同級生の家の倉庫は、同級生が家業を継いで結婚したあとに隠居家を兼ねるようになったわけだ。隣の家の倉庫も延焼したという。大火事以来の町中の火事ではなかっただろうか。

実家の倉庫が延焼したら梅漬けやキュウリの古漬け、塩蔵キノコなどの保存食材が灰になっていた。そのことも含めてだが、同級生の母親が無事だったことと、実家の物置が無事だったことで少し安心した。

2008年10月9日木曜日

キュウリの古漬け


この夏は栽培したキュウリが結構な数になった。自分で買った苗のほかに、親類から届いた苗がある。実り始めたら食べきれない。そこへ「キュウリが生(な)ったから」と、何人かから届く。

まずはぬか漬け(浅漬け)である。一日3食、キュウリのぬか漬けが食卓に上る。余ったキュウリは古漬けに回す。狭い台所にぬか漬けと古漬けの甕が2つ、歩いて邪魔にならないところに分けて置いた。

ぬか漬けも忘れると古漬けになるが、保存用には最初から塩だけの古漬けにする。たっぷりの塩と激辛トウガラシを加え、しみ出た水分としおれたキュウリを雑菌から守る。1カ月もすれば、ぺちゃんこになった飴色の保存漬けができる=写真

ぺちゃんこにするのがコツだ。落としぶたをして重しをのせる。押しつぶすくらいの気持ちがないと、いい古漬けはできない。一度、かわいそうだからと軽い重しをしたら、ぺちゃんこにならずにふやけて崩れ、腐敗した。

甕にたまった水分をときどき煮沸して甕に戻す。これも滅菌対策。激辛トウガラシは料理にはあまり使えないが、漬物には効果的だ。甕の水分に触れるだけでヒリヒリするから、雑菌も敬遠する。

収穫期を過ぎたら、一度濁った水分を捨てて漬け直す。押しぶたからはみ出たキュウリはぺちゃんこになりきっていないから、それらを中心に並べ直して再度圧(重し)をかける。よくもまあ水が出るものだというくらいに、水分がしみ出てきてキュウリを覆う。ここまできたら、あとは食べるだけである。

パリパリした歯ざわり。キュウリの古漬けは、これが決め手。塩も抜ききらずに、かすかにしょっぱ味が残る程度にすると、おいしく食べられる。おふくろの味でもある。

さてそうなると、気温が下がって、ぬか床の乳酸菌の活動も鈍くなる。ぬか漬けから白菜漬けに切り替える時期がきたようだ。キュウリの古漬けをつなぎに食べながら、11月に入ったらすぐ白菜漬けをつくろう――そんなことを考えている。

2008年10月8日水曜日

サケ採捕始まる


いわき市平の夏井川をサケが遡上する季節になった。10月最初の週末、川を横断するやな場が完成し、本格的な採捕が始まった。場所は平中神谷の調練場。対岸は平山崎。わが散歩コースの途中にある。

夏井川鮭増殖漁業組合が県の許可を得てやな場を設けた。福島県水産試験場のHPによると、県内に帰って来るサケはシロザケである。当然、夏井川のサケもシロザケ、ということになる。

組合が採捕し、人工採卵をして育て、年が明けて放流した稚魚が北の海へ渡って成長し、3~5年後に帰って来る。県内全体では10河川で約5,000万尾を放流し、回帰するのは0.8%の40万尾にすぎないのだとか。

夕方、対岸のやなのはじっこに立って川下を見つめている人たちがいた=写真。鮭増殖漁業組合の関係者だろう。こちらの岸では投網を手にした人もいる。前日は対岸で投網をやっていた。遡上して来たシロザケが見えるらしい。

秋が深まり、ときに大水になってやなが水に沈むことがある。砂州が広がる調練場の岸辺には力尽きたサケのむくろが点々と横たわり、その上流、新川との合流地点あたりでもやなを越えて遡上したものの、息絶えたサケが岸辺に横たわっている――そんな光景がこれから冬の間続く。

サケが遡上する季節になると、いつも抱く思いがある。最寄りの小学校で、児童がサケの生と死を見つめ、考える授業をやってはどうか――。

息子たちが小学生だったころから、その思いが秋になると強くなる。四半世紀も前にPTAの会報にも書いた。子どもたちが少しでも生き物の生と死に思いを寄せられるように――。その気持ちは今も変わりない。いや、孫が生まれてから、さらに強くなった。

大人も子どもも、川を、子孫を残そうとするサケを、ひいては自分を見つめてほしい。バカのひとつ覚えのように、やな場が設けられ、サケの死骸が目につくようになると、その思いに回帰する。

2008年10月7日火曜日

「ワラぼっち」と「ハセがけ」


稲刈りの季節に入った。山里を巡っていて面白いのは、稲穂の干し方が違うことである。

夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字江田~牛小川)は杭がけの「ワラぼっち」型=写真。ところが同じ渓谷の上流、川前町では「ハセがけ」型だ。一つ山を越えた三和町も「ハセがけ」型である。夏井川下流の平あたりでは両方が混在するという。

「ワラぼっち」は1本の支柱に丸く360度、束ねた稲穂を寝かせて干す。大人の背丈ほどの円柱になる。「足」がある。NHK「ダーウインが来た!」の「ひげジイ」みたい、とカミサンはいう。「ハセがけ」は何カ所か、杭をばってんにして長い丸太を架け、それに束ねた稲穂を垂らす。

寝かせて干すか垂らして干すかの違いだが、なぜ地域によって、あるいは農家によってやり方が違ってきたのか。調達できる丸太の有無の差か、日光と雨風を考慮したうえでの乾燥の遅速、効率性の認識の違いか。いつも秋になると疑問に思う光景だ。

混在地区がある以上は、「ワラぼっち」文化圏、「ハセがけ」文化圏といったくくりができるほど、単純ではなさそうだ。

むしろ混在する地区でなぜそれを選んだのか、「昔からそうしてきたので」という答えの先までいって、違いを明らかにできたら面白い。こういうのは小学校の総合的な学習の時間向きではないか。

もっとも、今は機械が刈り取りから脱穀・乾燥までやってしまって、田んぼには裁断された稲ワラしか残らない、というところもある。「ワラぼっち」も、「ハセがけ」も過去の風物詩になってしまうのだろうか。

2008年10月6日月曜日

再びキノコ観察会へ


きのう(10月5日)、いわき市三和町の雨降山(地元では「テンキチョウ」という)で、いわきキノコ同好会の観察会が行われた。9月21日の朝日山(田人)に続く今年2回目の山入りである。

標高770メートル。山頂付近の雑木林に入ったが、わが「小隊」は、これぞといったキノコにはお目にかかれなかった。「コウタケを採ったところがある」。リーダーが必死になって記憶を探った。が、結局は分からずじまい。

キノコの食・毒を知って知識を深めるのが観察会の目的である。そして、オオスズメバチに遭遇したときの対処法も。「ハチが飛んでいても、手で払ったりしないで。そんなことをしたら攻撃されるから、静かにその場を離れるように」。入山前に会長が注意を促した。

道端に、イノシシがミミズを探してラッセルした跡はあったが、スズメバチには幸い遭遇せずに済んだ。

三和ふれあい館が集合・昼食・鑑定会場になった。採集終了時間は11時半だが、おおむね上がるのが早かった。キノコが少なかったのだ。

私が採集したキノコはミヤマタマゴタケ(猛毒)=写真、クサウラベニタケ(毒)、その他。ほかの人も似たり寄ったりで、さながら「毒キノコ観察会」である。食べたらいちころで死ぬ猛毒菌はミヤマタマゴタケのほかにシロタマゴタケがあった。

キノコ採集の目安は毒キノコ。毒キノコも生えないよう場所には食菌も生えない。毒キノコしかないということは、すでにベテランが食菌を採りつくしたことを意味する。20人前後の参加者がいて採集した食菌はウラベニホテイシメジ(大)、コウタケ(小)、ハタケシメジなど数えるほどだった。「落ち穂拾い」のようなものである。

三和へは夏井川渓谷の無量庵から出かけた。川前から差塩(さいそ)経由で山を超えればすぐだが、去年の大雨で土砂崩れが起き、いまだに全面通行止めになっている。夏井川沿いの道を小野町の夏井までさかのぼり、そこから再びいわき市へ入ってぎりぎりの時間に集合場所へ着いた。

帰りは逆ルート。収穫なしで無量庵へ着く。が、なんとも面白くない。すぐ裏山へ入った。早朝から車が止まっていて、何人もキノコ採りの人間が入っているところだ。落ち穂拾い覚悟で急斜面を登り、「わがシロ」へ行ったら、アミタケが出始めたばかりだった。採集時間はせいぜい5分。それで裏山を下りた。やはり「ヒマラヤよりウラヤマ」(辻まこと)である。

2008年10月5日日曜日

イチゴばあちゃん


スーパーカブに乗って平・沼ノ内の土曜朝市にやって来るおばあさんがいる。「高いな、まけろ」などと男言葉を使って、なかなか存在感がある。近くに家があるという。ネギや水稲、イチゴを栽培している農業のプロフェッショナルだ。朝市では魚がお目当て。

きのう(10月4日)、久しぶりにおばあさんが現れた=写真右端。魚屋さんが魚市場から戻って来るまでの間、お茶を飲みながら雑談をした。というより、おばあさんの話を聴いた。

一本太ネギを3反歩作っている。イチゴは1反5畝。ネギは出荷するが、イチゴは出荷をやめて自家消費に切り替えた。それで孫からは「イチゴばあちゃん」と呼ばれている。ほかにいろいろ作っているらしく、「ニラとイチゴとネギで入母屋造りの家を建てた」。家はおばあさん自身が方眼紙を使って設計したという。肝っ玉母ちゃんである。

「きょうは稲刈り。息子が来て刈ってくれる。息子でもただでは帰せない。魚を持たせてやんだ」。<一日魚屋>をやれるほどいっぱい魚を買った。「とにかくここの魚は安いから、それで買いに来るの」

75歳。実家は魚屋さんの生家の近所で、魚屋さんが生まれたときから知っている。小さいときの呼び名のまま、「○■ボー」と魚屋さんに語りかける。目をかけてもらっていたらしく、魚屋さんはおばあさんに頭が上がらない。

おばあさんからいろいろ教えてもらった。ネギは1万6千円を出して種屋さんから種子を買う。自分で採種してもフニャフニャしたものしかできない。硬く緻密なネギをつくるためには毎年、種子を買わなくてはならない。いわゆるF1品種なのだろう。

「サトイモは7回土をかけて育てる」「毎日3人に会ってしゃべるとぼけない、と言うな」。なんだか聞き書きをしたくなるようなおばあさんである。

2008年10月4日土曜日

コハクチョウ情報届く


匿名さんからまたコメントをいただいた。「朝、花火が上がった。何があるのか。花火情報があるといいのだが」といった意味のことを書いたら、平下神谷(草野)にある花園神社の子育(ごだち)参りの花火かもしれない、というご教示だった。

白鳥(コハクチョウ)についても触れられていた。10月2日の朝のこと。「クワックワッという声に『うそー もう?』、と思いながら空を見たら白鳥の群れが東の海の方から平の方へ向かって飛んでゆきましたね」。この時期にすごいことである。

それとは別に何度も書いている残留コハクチョウだが、4羽のうち3羽はいわき市北部浄化センター向かいの砂地にいる。一番若い「さくら」はこの春、北へ帰ることができなかった。体が小さく、非力な感じがするのは、今も同じ。北から渡って来たのだから、飛べないわけではない。春は体力的に弱っていて取り残されたのだろう。

それが、毎日えさをやっているMさんのおかげで飛べるところまで元気になった。私は2回飛んでいるところを目撃した。3羽がいる場所の近くに住む人は、結構「さくら」の飛行を目撃しているのではないか。

気になるのは残る1羽、最古参の「左助」だ。先日、Mさんに連れられるかして3羽の所へやって来たのに、またまた仲間から離れてどこかへ行った。たぶん河口だろう、と前に書いた。

きのう(10月3日)夕方、夏井川の堤防を利用して新舞子海岸まで車を走らせたら、河口の対岸(右岸)、ヨシ原の切れ目の砂地にべったり腹をつけて休んでいた=写真(拡大しても米粒に満たないが)。孤独癖は直らない。

「翼を持った隣人」を眺めるのが好きで、首からカメラをぶら下げ、手には双眼鏡を持って、朝晩、散歩へ出かける。なかでも残留コハクチョウは姿を見ると安心し、見えないと気になる存在になった。匿名さんの情報を加味すれば、間もなく夏井川に仲間がやって来る。いや、すでに「冬の使者」飛来のカウントダウンが始まった、といってもいいのかもしれない。

2008年10月3日金曜日

アレチウリ繁殖


夏井川の堤防を散歩していて、土手に見たこともない植物が生えているのに気がついた。スイバやギシギシは子どものころから知っている。名前が分からなくとも前から目にしている植物もある。ところが秋口だったか、つる性植物が堤防のてっぺんまで這い上がっていて、「なんだこれは」と首をかしげたのだった。

葉の形はゴーヤーやキュウリに似る。ウリ科の植物である。カラスウリか。いや違う。何日か思いを巡らしているうちに、アレチウリではないか、そう思った。違いない。

前に図書館で河川の生物を調べたことがある。それによると、アレチウリは北米原産の1年生のつる性植物で、日本では1952年に静岡で発見されたのが最初。急激に分布域を拡大し、現在では全国的に見られる厄介な外来植物だという。特に、河川敷で分布が広がっている。

外来生物法(特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律)で規制されている侵略的な植物である。これらの生物を予防するには①入れない②捨てない③広げない――が大原則になる。ところが、現実はどうか。

夏井川の河川敷の「ニューカマー」をよく見ると、果実がトゲだらけといったアレチウリの特徴を示している。
                                       
昔からのつる性植物にクズやヤブガラシがある。それらも生えている。が、アレチウリはその上をいく。クズだろうが、ヤブガラシだろうが、その上を覆ってしまうのだ。クズもヤブガラシも全面展開ということはない。が、アレチウリは一帯を全面的に覆ってしまう=写真

アレチウリの繁茂しやすいところと、そうでないところははっきりしている。一言でいえば、草刈りの有無である。手をかけている土手にはアレチウリは生えない。生えても刈られるから目立たない。が、放置された河川敷ではセイタカアワダチソウが占領してしまうように、在来の植物をグリーンシートで覆ってしまう。                  
ハナモモと思われる木はアレチウリの枯れ草に覆われて葉があらかた落ちた。 この葉のシートが日光を遮断して下の植物を枯らす。アレチウリの最も厄介な点がこれだ。   
  
私が見た所は、下流の六十枚橋から上流の平神橋あたりまでのほんの一部にすぎない。アレチウリだらけになっている場所がある。実態調査と駆除が必要ではないか。

2008年10月2日木曜日

秋の夕空晴れて


きのう(10月1日)の朝は傘をさして散歩した。雨は上がったものの、なにか空中に浮遊している微細な雨のかけらがある。雨なら散歩を休むのに、雨ではない。が、なんとなくてのひらがぬれる感じがする。首にかけたデジカメが気になって傘を手にしたのだった。

太平洋の河口までは歩いて1時間ほどの、いわき市の夏井川の堤防。市北部浄化センターの向かい側(右岸)に、残留コハクチョウが3羽いる。最古参の「左助」が合流して4羽になったのも、つかの間。「左助」はまたまたどこかへ消えた。流れに乗って河口の方へ移ったのだろう。

花火が上がった。7時。相変わらずなんの花火か分からない。だれか「花火打ち上げ情報」を発信してくれないものか。これこれ、こういうことで「ドカーン」とやるのだと。場所、時間も含めて。花火の音を聞くたびにしょうもないことを考える。

日中はわが家の2階で、昼寝抜きで仕事に集中した。午後には天気が回復し、夕方近くにはすっかり鉛色の空が晴れ上がった。部屋が明るくなったので、南向きの窓を開けると、全天青の中にふんわりと白い雲が漂っていた。

5時前に散歩へ出た。夕日が黄金色に燃えながら山の端に入ろうとしていた。雲がちらほら浮かんでいれば、これも赤く染まって大火事の様相を呈したことだろう。

「西高東低」になりきらない、ゆるやかであいまいな気圧配置の下にいるらしい。雲がホッカリ浮かんでいる。海辺の波を連想させる雲は木版画の多色刷りのように、白、ピンク、灰色に染まっている。

夏井川の堤防そばにある工場の煙突、いや煙突といえるのか。煙というより白い蒸気のようなものが天へとまっすぐ伸びている=写真。面白い、と思った。この一日、雨が過ぎて、雲が過ぎて、日没前に青空が戻ってきた。晴れて風のないやすらかな景色と時間を、まっすぐ天に吐き出される蒸気が体現している。

散歩コースでは唯一の工場である。一番自然から遠い存在である人工物も、こうしてぴたりと風景の中にはまることがある。発見といえば発見だった。

2008年10月1日水曜日

小名浜測候所が無人に


小名浜測候所がきのう(9月30日)で有人観測を終了し、きょう、無人の「小名浜特別地域気象観測所」として再スタートした。長年、同測候所職員の目と耳による生物季節観測データを重宝してきた人間としては、寂しさと同時に割り切れなさが残る。

同測候所の生物季節観測は、植物が延べ18種目、動物が15種目だ。初霜・初氷・初雪などの観測も手がけた。

植物季節観測はツバキの開花(平年値1月17日)から始まる。これは当然ヤブツバキだろう。続いて梅の開花(平年値2月18日)、タンポポの開花(同3月16日=ニホンタンポポだろう)、ソメイヨシノの開花(同4月8日)・満開(同4月14日)ときて、途中、延べ11種目の観測をはさんでイロハカエデの紅葉(同11月25日)・落葉(同12月12日)で終わる。

動物季節観測はウグイス初鳴(平年値3月17日)、モンシロチョウ初見(同4月6日)、ツバメ初見(同4月11日)、ホタル初見(同6月28日=ゲンジボタルだろう)などのあと、5種類のセミの初鳴を観測し、エンマコオロギ初鳴(同8月16日)、モズ初鳴(同9月26日=いわゆる高鳴き)で終わる。

同測候所は9月23日のモズ初鳴で生物季節観測を終えた。イチョウ黄葉(平年値11月12日)と落葉(11月29日)、イロハカエデの紅葉・落葉は観測できずじまいとなった。

小名浜測候所でのソメイヨシノの開花観測は「東北に桜前線が到着した」ことを意味する。誰か、たとえば最寄りの小学校の理科クラブなどが観測を引き受けてくれないものか。今もあるかどうか、昔は学校の校庭の一角に「百葉箱」があった。その延長線上で子どもたちがソメイヨシノを観測し、開花を発表する。専門機関の発表とはまた違った意味合いで楽しい行事になるのではないか。

子どもじみているといわれるかもしれないが、生物季節観測に関しては小名浜測候所の職員に負けていられない、という思いがあった。ソメイヨシノの開花で後れをとっても=写真、ウグイス初鳴、ツバメ初見では勝った、などと一喜一憂をしていたのである。

いずれにしても、いわき(小名浜)での生物季節観測の公式データはこれで途切れる。いわきの「自然と人間の交通」を見続けたいと思っている人間には、かえすがえすも残念でならない。と同時に、これまでの業務については感謝の杯を献じたい、そんな気持ちでいる。