2008年12月31日水曜日

「魂の俳人」住宅顕信


ある集まりで粟津則雄さん(いわき市立草野心平記念文学館長)があいさつに立ち、小林一茶の発句を3つ紹介した。

死神に選(よ)り残されて秋の暮
死下手(しにべた)とそしらば誹(そし)れ夕炬燵(ゆうごたつ)
又ことし娑婆塞(しゃばふさぎ)ぞよ草の家

粟津さんの『日本人のことば』(集英社新書)によれば、一茶には終始一貫「娑婆塞」、つまり「はみ出し者」「余計者」意識が付きまとっていたらしい。だから、心の深いところに響くなにかがあるということだが、あいさつのポイントは別のところにあった。

1年が終わり、新しい1年が始まろうとしている。「『娑婆塞』にならぬよう、努力します」。年を重ねてなおそう言える慎み深さに感服したのだった。

さて、締めくくりの日に、今年知った「魂の俳人」住宅顕信(すみたくけんしん)のことを書いておきたい。昭和62(1987)年2月、25歳で、白血病で死んだ自由律の俳人である。秋口、NHKハイビジョンで特集「若さとはこんな淋しい春なのか――住宅顕信のメッセージ」が放送された。私は見なかったが、番組自体は承知していた。

翌日、知人に会ったら住宅顕信の話になった。知人は前から知っていて、句集も持っている。テレビも見たという。こちらは名前をかすかに覚えている程度だったから、完全に聞き手である。本も見せられた。自由律俳句に没頭し、尾崎方哉に心酔した。なにかヒリヒリした感じの「1行詩」が立っている――作品からはそんな印象を受けた。

すぐいわき総合図書館へ走ったが、住宅顕信の本はなかった。本屋にもなかった。注文した2冊、『ずぶぬれて犬ころ』(中央公論新社)と『住宅顕信 全俳句集全実像』(小学館)=写真=が、やがて手に入った。

若さとはこんな淋しい春なのか
ずぶぬれて犬ころ
夜が淋しくて誰かが笑いはじめる

住宅顕信の代表句だが、ほかにも

気の抜けたサイダーが僕の人生
重い雲しょって行く所がない
両手に星をつかみたい子のバンザイ
水滴のひとつひとつが笑っている顔だ

などの句に心が引かれた。まっすぐに、ひたむきに、自分と向き合っているからこそ立ち上がることばの木。ひとつひとつが根っこを生やした木だ――そんな印象を抱いた。最後に、もう一句。

枕元の薬とまた年をむかえる

そういう人生も、健康な人のそばにある。よいお年を!

2008年12月30日火曜日

2008年、いわきのキノコ


いわきキノコ同好会の総会・学習会兼懇親会が、一昨日(12月28日)、平・お城山の平安荘で開かれた。1年を振り返りながら、キノコ談議に花を咲かせる日である。会費を納め、スライドで学習し、会員の「成果」に耳を傾けながら、巡り来る年の「キノコ生活」に思いをはせた。

9月21日と10月5日に実施した観察会の記録や、個人の観察・採取情報などを加えると、2008年のいわき市のキノコ発生状況は次のようなものだった。

今年の梅雨入り・梅雨明けは平年並み、どちらかと言えばカラ梅雨傾向だった。夏は少雨・高温で蒸し暑くなり、チチタケ類が例年になく出現(大豊作)した。        
 
秋口の観察会では、キノコの出がいまひとつの中、思ったより多くのキノコが確認された。冨田武子会長による同定数は22科55種、不明菌33種。キシメジ科・テングタケ科・フウセンタケ科の個体数が多かった。

続く10月の観察会では19科66種が同定され、21種が不明菌とされた。キシメジ科・イッポンシメジ科・フウセンタケ科・ベニテングタケ科の個体数が多かった。

私の個人的な「成果」は、なんといっても師走に入ってから採取したヒラタケだ。大きくしっかりした個体がびっしり倒木に生えていた。3分の1は「ヒラタケ白こぶ病」=写真=にやられていたが、大半は無傷だった。

懇親会でも「ヒラタケ白こぶ病」の話題で盛り上がった。私は今年初めて「ヒラタケ白こぶ病」に遭遇した。が、ヒラタケ栽培農家では前々から被害が発生し、原因が分からずにいた。いわゆる「虫こぶ」の一種である。毒ではないにしても、気持ち悪いから食べない。当然、商品にはならない。

コウタケやマツタケ、クリタケなど、秋本番に発生するキノコはどうだったか。例年より早く出て、早く姿を消したらしい。いつも採取するクリタケは、例年、発生日がほとんど変わらない。で、その日前後にシロへ行ったが姿はなかった。結局、収穫ゼロ。

10月18日に阿武隈高地の双葉郡葛尾村で<福島県中山間ふるさと事業「あぶくまの水源をあるこう――葛尾川源流(五十人山)散歩と、間伐材利用のクラフト」>が実施された。いわきからマイクロバス2台で参加した。キノコ観察も組み込まれていたが、秋のキノコは「とっくに出終わって」いた。全体としては「キノコ大不作」の年だったのである。

キノコ談議の中で、方言名と和名が一致したキノコがある。クロカワ(和名)。夏井川渓谷の小集落・牛小川ではこれを「ツチカブリ」と呼んでいる。素人目には、クロカワの発見は難しい――ということも懇親会で学んだ。

こうして少しずつ「キノコ力」がついていくのが、「自然に親しみ、自然を大切にする心を養い、会員相互の親睦を図り、キノコ研究の普及・推進を目的とする」同好会のいいところである。

2008年12月29日月曜日

「冬水田んぼ」のコハクチョウ


先日、匿名さんから情報をいただいた(「コメント欄」参照)。いわき市平の絹谷の耕土にコハクチョウが20羽、さらに十数羽、2つのグループに分かれて羽を休めていたという。

「えさやり中止」以来、コハクチョウが各地の田んぼで目撃されている。平・中神谷の田んぼでも見た。「白鳥おじさん」のMさんによると、夏井川からひと山向こうの平・高久の田んぼにもいるらしい。朝、塩の夏井川から河口の方へ、あるいは山の方へと飛んで行くグループがいる。それぞれにえさ場を持っているのだろう。

コハクチョウが飛来するいわき市の川は2つ。鮫川と夏井川で、数の上では圧倒的に夏井川が多い。そのため、夏井川では分散行動が起き、飛来地が3カ所になった。平・平窪をキーステーションに、上流の小川町(三島)と、下流の平・塩~中神谷でコハクチョウが羽を休めている。

山で雪になった雨上がりの午後、平窪の田んぼ道を通った。道沿いの田んぼが「冬水田んぼ」になっていた。そこへコハクチョウ(オオハクチョウが交じっていたかもしれない)が舞い降り、盛んに稲株をつついていた=写真。くちばしの付け根の黄色模様が泥で見えない個体や、額まで泥だらけの個体がいた。

「ピチャ、ピチャ、ピチャ……」。100羽以上が一斉にくちばしを動かすから、さざ波のような音が絶えず響いている。これが、コハクチョウ本来の採餌行動なのだろう。

塩では対岸(山崎)の河川敷に上がり、生えている草をついばんでいるグループを見かける。朝、Mさんのやるえさに近づかないグループもいる。えさをまくと寄り集まるのがほとんどだが、そのグループだけはポツンと離れたままだ。野性を固持している姿がすがすがしい。

寒さがいちだんと募って、「コハクチョウの数が多くなってきた、1月がピークだね」とMさんは言う。Mさんは命をかけたえさやりの帰り、私が堤防の上を歩いていると、必ず軽トラを止めて一言二言、声をかけてくれる。それでコハクチョウ情報には随分明るくなった。

河口にいると思っていた残留組最古参の「左助」が昨日(12月28日)、サケやな場下流の残留2番手「左吉」のところへ上がって来た、という。「オレも助かる、河口さ行がなくていいから」。あとはやなをはさんで目と鼻の先にある、塩の大群に合流できるかどうか。そこには残留3番手の「左七」や、飛べるようになった「さくら」もいるはずである。

Mさんは、「左助」が「左吉」をリードしてやなを越えることを願っている。が、「左助」より元気な「左吉」が踏みとどまっている限りは、そうなる保証はない。「左助」にはいつも驚かされる。

2008年12月28日日曜日

白菜の古漬けが「キムチ」に


白菜漬けが2回、うまくいかなかった。食べられるが、水の上がりが悪い、発酵が進んで色が悪いという話を、12月25日に書いた。その続き――。

ある朝、食卓に白菜キムチが出た=写真。誰かからもらったのだろう。最初はそう思ったが、古漬けに「キムチの素」をまぶしたのだという。まぶしたばかりなのでエキスはまだ白菜になじんでいない。が、トウガラシの赤と適当な辛さが、見た目の色と酸味を中和し、いかにもキムチらしい雰囲気を出している。少し寝かしたらもっとキムチらしくなるだろう。

何年か前、「白菜キムチ」に挑戦した。見事に失敗した。使い残しのオキアミがしばらく冷蔵庫の中で眠っていた。糠漬けを再開したときに「うまみの素」として糠床に加えたが、2回目の「白菜キムチ」はなし。以後は塩漬けオンリーになった。

手製の「白菜キムチ」をいただくことがある。スーパーで「発酵食品」と明記された韓国のキムチを買うことがある。それ以外の「もどきキムチ」は食べない。やはり、うまみと風味が違う。

「キムチの素」はうまくできている。自己流で失敗したときのことを思えば、格別だ。これが手に入っていたら、もっと前から「白菜キムチ」をつくっていただろう。手抜きでも本物の「白菜キムチ」には違いないのだから。

やっとわが菜園で栽培した白菜を収穫した。中が黄色くなるのを選んで種を買い、ポットを用意して月遅れ盆にまいた。その後、苗を定植して3カ月半。3玉を八つ割りにして漬けたら、いいころあいに水が上がった。台所から少し冷暗な場所に桶を移したのがよかったか。

いずれにしても、白菜漬けのレパートリーが1つ増えた。それだけで白菜をつくる喜びが増えた、というものである。私の喜びや落胆は単純なのだ。

2008年12月27日土曜日

わが「誤字」に笑う


作家の森本誠一さんは、本業のほかに「写真俳句」にも力を入れている。まねをするわけではないが、このごろ、写真を撮るのが面白い。デジカメが体の一部になりつつあるような感じ、ということを前に書いた。

「散歩写真」だ。夏井川渓谷(いわき市)の上を通過するジェット旅客機にカメラを向ける=写真。鳥に、花に、落ち葉に、けもののフンに……。「オート」一辺倒だったのが、フラッシュをたかない方法やマニュアルにして接写する方法も覚えた。

アンデルセンの肖像を彫った木口木版画を手に入れたときには、横顔の「だまし絵」になっている頭髪をアップした。そのときの文章(12月18日)に誤字があった。カミサンの旧友が絵はがきで知らせてきた。私には「内緒に」という絵はがきを、カミサンが見せた。見たからには訂正しなければならない。

「無料サービス」とすべきところが「無量サービス」になっていた。笑った。ラーメンを食べた店が、無量に近い無料サービスをするからだ、というのは言い訳。紙媒体で仕事をしていたときにも、ときどき誤字が活字になった。「新約聖書」が「新訳聖書」になり、「改装」が「改葬」になった。冷や汗が三斗は出た。

カミサンの旧友は、自己分析ができる人でもある。「もともと私は、自分のことは棚に上げて人様のあげあしをとる性分ですが……」。この率直さがいい。少女の好奇心を持ち続けている。

さて、誤字の指摘をありがたく思って拝読していたら、「ん?」となった。「誤字」の字がどうも「誤字」ではない。誤字らしいのだ。「自分のことは棚に上げる」、まさにその通りではないか。よほどカメラで接写しようかと思ったが、やめた。
 
人生は喜劇だから、なんとか生きていられる。そういうものらしい。

2008年12月26日金曜日

淳ちゃん、さよなら


阿武隈の山々が雪をかぶった日=写真=の未明、学生時代にクラスメートが入り浸った喫茶店のマスターが急死した。そのことを、おととい(12月24日)、この欄の終わりに書いた。きのう、通夜へ行って来た。

社会人になってからは、同級会のあとや、近くで仕事があったときに顔を出す程度になった。それも昔のことだ。すっかりごぶさたしていた。

奥さん(喪主)の顔を見たとたんに、涙がにじんだ。あまりにも突然の死である。まだ事実を受け止めきれていない――奥さんは目をうるませながらも、気丈に振る舞っていた。

焼香台のすぐ後ろに棺が安置されていた。窓が開いている。奥さんを振り返ると、うなずいた。最後の別れをしてちょうだい――。

「相変わらずおれたちより髪の毛がふさふさしてるじゃないの、淳ちゃん」。鼻を中心に赤いあざのようなものが点々とある。端正な顔にはふさわしくない。風呂場で倒れていたというから、そのときできたものか。「でも、死に顔もハンサムだよ」。いわき市の「喫茶じゅん」店主。享年69。

わがホームドクターの自宅の斜め向かいに店がある。ホームドクターもマスターとは昵懇だったらしい。花輪が飾ってあった。

かつては、平駅(いわき駅)近くの三田小路で営業をしていた。今の駅前再開発ビル「ラトブ」の南、パチンコ屋の隣辺りだろうか。そのころにマスターを知った。40年余前だ。

昭和41(1966)年のことだったと思う。学校の文化祭があって、パンフレット作りをまかされた。当然、広告も取らなくてはならない。「喫茶じゅん」を拠点に、マスターにアドバイスを受けて周辺の店や事務所を回った。広告取りの過程で意識はしなかったが、後年、一緒になる人間を知った。

なぜ「喫茶じゅん」だったのだろうか。通うきっかけはマスターの親類が同学年にいたからだが、10代後半の人間をまっとうにみてくれた、それが一番だったと、今思う。同じ目線で接してくれたのだ。教訓を垂れない。それを、マスターから学んだ。      
                                        今日は告別式の時間に仕事で人と会わなくてはならない。だから、ここでさよならを言う。「淳ちゃん、やすらかに」

2008年12月25日木曜日

スイセンと干し柿


近所の家の庭や道端でスイセンの花が咲き出した。散歩の折、「もう咲いてるよ」と教えてくれたのは、子どもが小学校へ通っていたときのPTA会長さん。11月のことである。ハシリとしては早い。で、年末のこの時期、花がよく目につくようになったのだが、これも早い印象がある。

赤井岳颪(おろし)が吹き渡る夏井川畔のサイクリングロード。知人のSさんが植えたスイセンも、数株がつぼみを膨らませていた。年内には開花するだろう。この場所でスイセンが花開いたのは3月7日だった。例年、春先に開花していたとすれば、2カ月余り早い。

左に蛇行する下流の土手のスイセンは、大水が栄養分を運んで来るのか、丈高く、花も鮮やかだった=写真。風当たりがちょっと弱いのかもしれない。

ヤブツバキだって随分早い時期から咲いている。小名浜測候所が無人になる前は、職員が肉眼で開花を確かめていた。開花の平年値は1月17日、2006年の冬は12月29日、昨年の冬は12月24日に開花が確認された。年々早まっている。職員がいたら、今年も12月の早い段階で開花が確認されていたはずだ。

暖冬である。「寒風が吹かないから、干し柿がかびてしまった」。そんな話も聞いた。アメリカのカリフォルニアから届いたクリスマスカードにも同じことが書いてあった。日系3世に嫁いだカミサンの同級生が、干し柿づくりを試みた。3分の1はうまくいったが、あとの3分の2はかびてしまい、畑に埋めたという。

向こうでも家庭菜園に精を出している。いや、週末は家庭菜園で過ごすのが欧米流。ドイツのクラインガルテンなどはその典型だろう。これからは畑や庭を相手に、干し柿づくりのようなことを「いろいろムダもふくめてやれるので楽しみですね」とあった。

確かに、自然を相手にする以上はムダも覚悟しなくてはならない。菜園の収穫がおもわしくなかったり、漬物が不出来だったりすると、自分のウデの未熟さを痛感する。

この冬、2回続けて白菜漬けに失敗した。食べられることは食べられるのだが、水の上がりが悪かったり、発酵が進みすぎて色が汚れたりと、散々だった。塩が足りなかったのだろうか。暖冬が影響したのだろうか。気を取り直して再挑戦するしかない。そのへんは十分「ムダ慣れ」して強くなったのだから。

2008年12月24日水曜日

日陰はアイスバーンだった


「天皇誕生日」のきのう(12月23日)早朝、夏井川(いわき市平中神谷)の堤防へ立つと、阿武隈の山々がすっぽり雪をかぶっていた。平地では雨、山では雪になったのだ。午後には、山の雪はあらかた消えた。雪が間近に見えるところは――。

夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)から支流の中川に沿って、「広域基幹林道上高部線」が伸びている。終点の荻(川前町)近くで阿武隈高地最高峰の大滝根山が見える。<雪をいただいた大滝根山の写真を撮りたい>。夏井川渓谷の無量庵へ灯油を運んだついでに車を走らせた。

海岸部から小川町の片石田あたりまでは平野が続く。片石田の先、高崎からは阿武隈高地に分け入り、「地獄坂」でいちだんと標高が高くなる。夏井川渓谷はV字谷となって続くが、牛小川あたりでも標高は200メートルほど。道路に雪はなかった。

神楽山(802メートル)が水源の中川は急流となって夏井川へと駆け下る。「スーパー林道」(上高部線)も同じで、始点の牛小川から坂と急カーブが14キロほど続く。標高が一気に高くなる。

林道を上りはじめて数分は鼻歌まじりのドライブ。ところどころ日陰の道端には雪が残っていた。落葉樹は枝が雪をかぶって白と黒の二重の墨彩画になり、モミも綿ではなく本当の雪を飾って「ホワイトクリスマス」を演出している――などと眺めながら進んだら、様子がおかしくなってきた。

日陰の路面に残っている雪の面積が少しずつ大きくなる。そのうえ車のタイヤに踏み固められて雪がザラメ状になっている=写真。中川の上流、川前町・外門(ともん=土地の人は「田代」と昔の地名で呼ぶ)までは、まだまだだ。

怖い。<大滝根山の冠雪の写真はあとでもいいか>。日陰になってアイスバーンに入ること3回、先へ行くのをあきらめた。タイヤを替えたばかりとはいえ、ノーマルに変わりはないのだ。

途中で引き返すと、少し風景を観察するゆとりができた。ブドウのように真っ赤な房状の実をいっぱいつけている木が目に入った。平から向かって夏井川渓谷の始まる辺り(高崎)にもある。あちこちにある、という木ではない。あとで調べたら、イイギリだった。

わが家へ帰って夕方、再び夏井川の堤防へ出たら、朋友がケータイを鳴らした。学生時代に仲間が入り浸った喫茶店のマスターが急死した、という。秋に夏井川渓谷で「同級会」をした翌日、何人かがマスターの店を訪ねた。われわれよりは少し兄貴分の早過ぎる死に、夜はグラスを挙げた。

2008年12月23日火曜日

草木灰をつくる


1年に一度、夏井川渓谷(いわき市)の無量庵で草木灰をつくる。1年の間には庭木の剪定枝がたまる。初冬には梅の木を剪定する。部屋を修繕すれば木片が出る。それらをドラム缶で一緒に焼却するのだ=写真

廃掃法では、「野焼き」は禁止されている。が、例外規定がある。農林漁業を営むためにやむを得ないものとして行われる焼却、日常生活を営むうえで通常行われる軽微な焼却として、キャンプファイアーや庭先での落ち葉たき、枝草の焼却などは許されている。「法律違反だ」などと誤解されるのもいやだから、一応は調べてから始めた。

木には癖がある。なかでも枝に短い小枝をいっぱい付けた梅は厄介者だ。ドラム缶に入りやすいよう、ナタで枝を切り払うのだが、軍手がたびたび小枝に引っかかる。ウツギはその点、楽だ。木の股を切り割ればストンとドラム缶に入る。キリの枝も燃えにくいが、ドラム缶には入れやすい。

昔話にある「花咲かじいさん」は、この草木灰をまいて枯れ木に花を咲かせた。灰はなかなかの優れものだ。土壌を中和し、殺菌する。土を温める。キャベツに振りまけば青虫が逃げる。キュウリの塩漬けに塩と同量の灰を加えると、キュウリの緑色が長持ちする、ともいう。

冬場は市販の石灰のほかに、防寒効果を兼ねて草木灰を用いる。ミニ菜園だから、1年に一度の枝草焼却で十分な灰が確保できる。刈り草も堆肥枠に収まりきれないほど残っている。これもいずれ灰にしようと思う。

廃掃法を持ち出すまでもないが、刈り草や剪定枝は「不要物(廃棄物)」ではない。燃焼することによって資源(灰)に変わる。循環型社会ともなればなおさら、見直されなくてはならない農の営みの1つだろう。

漬物にはまだ灰を使ったことがない。やるとすれば来年、キュウリを作ったときだが、周りの人にそれとなく聞いてから、灰を使うかどうか決める。

2008年12月22日月曜日

夏井川渓谷の冬の日


V字谷の夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)では冬場、朝日が尾根から顔を出すのは9時前後だ。正確には、一番低いところにある無量庵に日が差し込む時間のことで、線路の上にある家ではちょっとばかり早い時間から光に包まれる。

午後は、同じく3時からまりには太陽が尾根に隠れる。とても夕日とは言えない時間帯だ。太陽が遅く出てきて早く引っ込む。なにかやろうとすれば、昼間の短さを計算に入れなくてはならない。そして、日がかげるとたちまち寒くなる。

遅い朝日が、逆に好都合のときもある。葉を落とした森に光が差し込む写真を撮りたい、となっても慌てる必要がない。9時過ぎに森に入っても十分だ。放射冷却で霜が降り、作土が凍っているときには、畑にクワなどを入れるのはお昼近くなってから。それまでは森を巡るか、こたつに入って本を読むかして待つのが一番だ。

で、いつもの散策コースを逸脱して岸辺の岩場を上ったり下りたりする。岩盤がせり出し、渓流の真ん中にいる感覚で空を仰げるところもある。砂地や泥地にはテンかイタチと思われる獣の足跡。早瀬にはカワガラス。こちらを目ざとく見つけては慌てて飛び去る。「今、ここにいるのはおれとおまえだけだよな」。そんな寂しさが支配している。

「籠場の滝」のそば、幹のように太く、竜のように曲がりくねって岩盤に食い込んでいる赤松の根があった=写真。高さがわずか1メートル前後、多くは20センチほどの赤松の幼樹も対岸の岩盤の上に生えている。葉が赤く枯れかかっているものがある。もともとが厳しい環境のうえに、文明が酸性雨をもたらした。幹のような根を張るたくましさを、はたしてどのくらいの幼樹が持っているだろう。

こうして冬至の日、いつもの倍の時間をかけて、夏井川渓谷の水辺をじっくり眺めた。遅い朝日と凍った作土のおかげである。きょう(12月22日)からは「一陽来福」を受けて日に日に昼が長くなる。寒さはこれからが本番だが、気分は日に日に明るくなる。

2008年12月21日日曜日

『神谷郷土史』が面白い


「風の人」から「土の人」になって30年余。わが家のある神谷(かべや=いわき市平)の里の歴史が気になりだした。息子たちの「ふるさと」である。同居はしていないが、1歳余の孫がこれから泣き笑い、歩き回り、走り回るフィールドでもある。

江戸時代には笠間藩の分領(飛び地)だった。夏井川を境にして、西の磐城平藩(いわき市の中心地・平)とは一線を画していた。夏井川を渡ってマチへ行くとき、「平へ行く」(「マチへ行く」ではない)となるのは、そうした史実の影響らしい。

地名に「南・北鳥沼」がある。コハクチョウが神谷の空を飛び交うようになった。地名から推して新しい現象ではない。昔からそうだったのではないか。で、ちょっと神谷の歴史を調べてみよう、という気になったのだ。

昭和26(1951)年発行の『神谷郷土史』を読み始めたら、これがおもしろい。著者は神谷市郎氏、発行所は平市役所神谷支所。昭和25年5月、神谷村が平市と合併し、村長の神谷氏が神谷支所長になった。その神谷氏が「神谷村の歴史を残したい、それが村長に課された使命」と筆を執った。

読み始めてすぐ「南・北鳥沼」が出てきた。一帯は細流が幾筋にも流れる「せせら川」の「草野」(ヨシ原)で、集落ができると「草野郷神野里(かみのさと)」と呼ばれるようになった。地頭の赤目崎なにがしが親子で鳥を狩りに来た際、歌を詠んだのが地名の由来だとか。 ヨシ原であるからには、狙いは水鳥のカモなどだったろう。

次に、幹線道路。大昔の街道は最初、立鉾山の北にあり、立鉾鹿島神社(当時は立鉾大明神)が焼失して山の南に再建されると、南に新設された。江戸時代の「浜街道」、明治になっての「陸前浜街道」、そして私たちが今、「旧(6号国)道」と呼び習わしている道がそれである=写真

戦後の昭和22年から3年間は「神谷中学校」があった。独立校舎建設にストップがかかり、シャウプ勧告(戦後、GHQの要請で結成された日本税制使節団の報告書。団長がカール・シャウプという人だった)もあって、平市と合併した。いやせざるを得なかった。今の平二中がそうして誕生した。
                            
ネギ・ニンジンが特産物、ともある。ネギは大正末期から広く栽培されるようになった。と、まあ、こんなことが『神谷郷土史』に書かれてある。

最初の収穫は、「神谷」と「南・北鳥沼」の地名が野鳥や狩りと深い関係にあったこと。昔の「郷土史」には我田引水も少なくない。が、今を学び直す教材としては結構、有効なのではないか。そんなことを、神谷氏のほかに、戦前の歴史家諸根樟一の著作物などを読んでいると感じる。

2008年12月20日土曜日

なぜ「湯たんぽ爆発」?


新聞・テレビを見ての印象だが、若い世代の暮らし向きが変わりつつあるようだ。例えば、漬物。スーパーやコンビニで小さなパックをささっと買っていたのが、自分でつくる人が増えた。はじめは一夜漬け程度でも、経験を積むと糠漬けを、白菜漬けを、たくわん漬けを、となる。

経済が停滞し、自由に使えるカネが減った。消費一辺倒では暮らしが立ちゆかない。「経済」に「エコ」や「安全」が加味されて、できることは自分の手で――という生活防衛意識が作用するようになったのだろう。

生活技術の復活と言いたいところだが、昭和30年代の高度経済成長以来、核家族が3代も代わって昔ながらの生活技術は途絶えた。若い世代には新たな生活技術の構築だ。土鍋や湯たんぽが売れているのも、理由は同じ。生活防衛とエコ。

ところが、おととい(12月18日)のテレビには驚いた。湯たんぽに水を注いでじかに熱するものが出回っている=写真。口ぶたをしたままやって爆発した。そんな事故が少なくないらしい。やかんにはふたに小さな穴があいている。蒸気の逃げ口だ。湯たんぽの口ぶたを閉じたら、その逃げ場がない。蒸気機関車ではないから最後は爆発する。

生活技術が途切れることなく伝承されていれば、まずはお湯をわかして湯たんぽに入れる。ホウレンソウを切ってはゆでない。ゆでてから切る。そうした知恵は経験に裏打ちされて初めて身につくものだ。

世界同時不況が未曾有(「みぞう」と読む)の速さで進行している。アメリカ追随の小泉改革以来、日本はすっかり冷たい社会になった。せめて家庭では家族が向きあい、手づくりの食べ物を口にしたい。そのための生活技術である。家庭の復活、いや創造である。公民館もそのへんを意識して市民教室を企画してはいかが。

2008年12月19日金曜日

ウミネコは「冬鳥」


おととい(12月17日)の午後、用事があって新舞子海岸(いわき市)へ車を走らせた。仁井田川の河口へ近づいたらウミネコが乱舞していた。車を止めて、橋のたもとから海と川がぶつかりあうところを見た。ウミネコがわんさと浮かんでいた。浮かんでは飛び、飛んでは浮かび、を繰り返していた=写真

真水を押し戻すように、海の波がバサッ、バサッと寄せる。そこにウミネコたちの「ごちそう」が集まっているのだろうか。ちらっと群れのはずれを見たら、背中が金緑色のウミウが数羽、海面から顔を出していた。

ウミネコと言ったが、すべてウミネコとは限らない。なかに1羽、ウミネコより大きな茶色い若鳥が目についた。ワシカモメ? つぶさに見たら、セグロカモメもオオセグロカモメもいたかもしれない。総称して「かもめ」。いわき市の「市の鳥」が市制30周年(1996年)を記念して「かもめ」になったのは、そんな事情からだ。

ウミネコは、いわきには1年中いる。ただし、夏場にいるのは繁殖活動に参加しない若鳥。成鳥は青森あたりの繁殖地へ去り、冬に南下してくる。成鳥に関して言えば、カモメ一般はいわきでは「冬鳥」だ。「夏北冬南」の漂鳥だ。むろん、カムチャツカ半島の方から渡って来るカモメもいるだろう。

翻って、夏井川河口から4キロほど内陸部に入ったわが散歩コース――。コハクチョウはさておき、水辺には冬鳥のマガモ・オナガガモ、きのうはオオバンまでいた。堤防沿いにはツグミ・ジョウビタキ。イソヒヨドリも、工場の屋根に止まっているのを何回か見ている。塩屋埼灯台あたりからやって来たのではなく、北から移動して来たものだろうか。

私のカメラでは、ツグミのような小さな野鳥は写せない。この前、メモリーカードがトラブルを起こしてシャッターが切れなくなった。息子はバックアップ用にもう1台カメラを持っていた方がいいという。必ず壊れるから、と。小さな野鳥も撮れる「白モノ」は無理だが、もう少し性能のいいレンズと進化したボデイがあってもいいかなとは思う。

ところで、夏井川河口である。砂山が膨らんで海と完全に切り離された。夏井川と仁井田川は横川でつながっている。夏井川の水は直角に左折して横川に流れ込み、仁井田浦で仁井田川を飲み込んで太平洋に注いでいる。今や、そこが夏井川河口だ。夏井川の延長距離と河口の場所が書き換えられるのも時間の問題か。

2008年12月18日木曜日

木口木版画の「アンデルセン」


先日(12月14日)、夏井川渓谷の無量庵で落ち葉を堆肥枠に入れ、「内城B菌」をまいた。森を巡ってヒラタケに遭遇した。そのあとのことである。カミサンと帰宅途中、ある店でラーメンを食べた。

この店がなんともおかしい。旅館であり、銭湯であり、食堂であり、雑貨屋であり、「55円ショップ」であり、家具のリサイクルショップでもあるのだ。ここまでやるか――店へ寄るたびに苦笑がわく。

一言でいえば、俗悪、まがい物を意味する「キッチュ」に近い世界。室内が徹底して大衆路線で彩られている。質より量。小より大。少々値の張るラーメンがそうだ。食べきれない。窓の棚や壁に沿って、ゆで卵などの無料サービスコーナーがある。その数がまたすごい。つい、ゆで卵に手が出た。

唯一、高価な雑貨として壁に絵をかけて売っている。ぶったまげた。値段は伏せるが、それなりに評価されている知人の小品と思われるものがある。有名版画家の作品もある。本物だ。まるで土産品扱い。「偽物じゃないの?」。カミサンが知ったかぶりをするのを制して、売り値を半分にまけさせて木版画を買った。

木口木版画だ。シルクハットをかぶったアンデルセンの肖像をきめこまやかに彫り込んである。そこに、版画家はいろいろ仕掛けを施した。向かって右側の後ろ髪は、実はアンデルセンの横顔=写真。ほかに、左目のわきのあざ(しわ?)、下くちびるの影が「だまし絵」になっている。眉毛の影もそうかもしれない。

目に止まった作品は昔、知り合いのギャラリーで見た記憶がある。これは推測だが、ギャラリーを介して作品を購入した法人ないし個人がいて、なんらかの理由でほかの物と二束三文で放出したのが、その店にたどり着いたのだ。

掘り出し物はどこに埋まっているか分からない。頭をニュートラルにして、見聞きするものに素直に反応する――そうすると、神様がおまけをくれるときがある。アンデルセンの木版画はまさにそれだった。

知人の作品と思われるのは、1つは布を素材にした抽象的な小品(現役)、もう一つは雪景色をリアルに描いた油彩画(故人)。値段のつけ方がなんともアンバランスなところがいい。きらいではないから、今度行ったら「たたき買い」をしようかな、などと思うのだが、値段が今のままかどうか。

2008年12月17日水曜日

まつ毛が痛い


3週間くらい前から右目に「異物感」があって、なんとなくうっとうしい気分に支配されていた。パソコンと向き合っていると、目の付け根に痛みがこもる。寝て起きたときには、痛みが引いてすっきりしている。しかし、また仕事を始めると目元に痛みが押し寄せる。首を右肩の方に90度かしげると痛みがやわらぐのが不思議でならなかった。

今週(12月15日~)に入ってすぐ、仕事で人に会った。すると、痛みが鋭くなって涙さえ出始めた。夜には痛みと涙が止まらなくなった。洟水まで出る。カミサンに頼んでガーゼを目に当て、セロハンテープでとめてもらった。それでも痛みはやわらがない。

いよいよ目医者に診てもらうしかないか。きのう(12月16日)、朝一番でカミサンの勧める眼科へ行った。カミサンもちょっと前、目に何か異常を感じたかして診てもらったら、軽いドライアイだった。パソコンとは無縁である。単純な加齢現象だろう。

私は日に5時間以上はパソコンの液晶画面とにらめっこをしている。ドライアイになるなら私の方だが、目が乾いた感覚はない。それなのに痛みがあるのはどうしてか。市販の目薬を点(さ)し点しキーを打ち続けたが、痛みはとれなかった。

自覚症状を記入し、問診、視力・眼圧の検査を済ませたあと、先生が検眼装置をあてながら右目のまぶたを裏返した。「とれたまつ毛が詰まってます」。涙の出口から涙と一緒に出てしまえばよかったのだが、ひっかかったままになっていたのだ。まつ毛を取ってもらうと、スーっと痛みが引いた。

軽い炎症を起こして目やにも出ている、というので、抗菌薬の点眼剤をもらった=写真。左はカミサンの点眼液。「一日4回、3日ほど点眼して症状が治まったら、様子を見てください」。来なくてもいい、ということだ。

素人は勝手に病気を想像して悩んだり、苦しんだりする。ネットでいろいろ調べたところで本当の判断はできない。さっさと専門家に診てもらうのが一番。とは言うものの、やはり医者へは行きたくない。多少憂鬱な気分で出かけたら、まつ毛が痛かった――で拍子が抜けた。「症状が進めば結膜炎でしたよ」と、薬局の女性には言われたが。

今日はこれから、血圧と尿酸の薬をもらいにかかりつけの内科へ行く。狭い待合室には人生の先輩がずらりと座っているときがある。きのうの診療所もそうだった。内科もあって、そちらの先生はインフルエンザにかかって休んだ。患者にうつすわけにはいかないからだ。それでも待合室には戦前から生き抜いてきた人たちの長い人生がいっぱい詰まっていた。

2008年12月16日火曜日

夏井川渓谷の「松枯れ」の正体は


いわきキノコ同好会の役員会(12月11日)での話の続き。「ヒラタケ白こぶ病」のほかに、夏井川渓谷の「松枯れ」が話題になった。「あれは松くい虫でしょ」。私が言うと、「酸性雨だよ」と一斉に反論された。

昔、植物の専門家に言われたことが頭をよぎった。「針葉樹は酸性雨に弱い。夏井川渓谷の松枯れはそれだろう」。そして、若い植物研究者は「夏井川渓谷の松枯れは、松くい虫が原因」と言った。見解が2つに分かれた。両方とも正しいのだ。そのことをキノコ同好会の役員会で、あらためて知った。

週末を夏井川渓谷の無量庵で過ごすようになってから、13年余がたつ。1月に阪神・淡路大震災、3月に地下鉄サリン事件が起きた平成7(1995)年初夏、無量庵の「管理人」を引き受けた。無量庵は昭和40年代、義父がいわき市平の街なかの古い建物を解体・運搬して建てた。もちろん業者に頼んで。

そのころ、渓谷の斜面の赤松はまだ元気なように見えた。が、年を追って松葉に赤いメッシュが入り、「茶髪」が増え、やがて葉のない、白い幹と枝だけの「卒塔婆」になった。毎年、その数が加速度的に増した。今は、尾根筋のキタゴヨウも「卒塔婆」になりつつある。

キノコ同好会での話は、こうだった。酸性雨が降ると土中にしみこんだ雨で松の根がやられる。当然、松は衰える。衰えたところに松くい虫が侵入する。若く元気な松には、松くい虫は侵入しない。

マツタケを採ったことはない。が、マツタケが減っているのは、ひとつには酸性雨によって松の根がやられ、松の根と共生するマツタケ菌がやられるからだといわれる。赤松にもマツタケの出やすい樹齢がある。わが無量庵の真ん前に散在する老大木ともなると、マツタケの生産性よりは風格だ。それが今は立ち枯れ、幹が途中から折れて斜面にぶっ倒れたままになっている。

キノコ同好会での話を受けて、あらためて夏井川渓谷の斜面を見たら、若い松にも茶色いメッシュが入っていた。全体が「茶髪」になったものもある=写真。若い松の「茶髪」は最近の現象だ。

元気な若い松は松くい虫に負けないというから、やはり酸性雨が「主因」なのだろう。酸性雨で弱ったところに松くい虫が追い撃ちをかける。つまり、「副因」。そんな負の連鎖で夏井川渓谷の松は次々に立ち枯れているのだ。すると、次はモミか。

春のアカヤシオ。秋の紅葉。夏井川渓谷独特の景観はモミや赤松、キタゴヨウの緑との対比で輝く。これが壊れつつあるということだろう。

2008年12月15日月曜日

「ラストダンス」をヒラタケと


おととい(12月13日)、キノコの「ヒラタケ白こぶ病」を報告した。森の小さな異変は地球温暖化という大きな病と無縁ではないだろう――。それを、夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)でも確認した。

小雨の降るきのう早朝、夏井川渓谷の無量庵へ出かけ、こうもり傘をさして森を巡った。とっくに秋のキノコは終わっている。目当ては冬のキノコだ。あってもなくてもいい。エノキタケを探した。エノキタケはなかった。代わりに、ヒラタケの大物がかたまって生えているところに出くわした。

いつものコースからちょっと逸脱するか。わきに入ってヤブこぎをしたら、大きな倒木に何種類かのキノコが生えていた。1つは雨に濡れて黒々としたホットケーキ大のキノコ、幹の反対側をのぞくと黄色地に赤みがかかったエノキタケ風のキノコが群生していた。

黒っぽい「ホットケーキ」を横から下から眺めると、まぎれもないヒラタケだ。大きさといい弾力といい、これほど立派なものに出合ったことはない。ヒラタケと分かった瞬間、体が変なステップを踏んでいた。「マイタケ伝説」はうそではないのだ。ヒラタケでも踊り出すのだ。

しかし、3分の1は「白こぶ病」にかかっていた。それが夏井川渓谷にまで北上して来たことに、いささかショックを受けた。

「白こぶ病」にかかったものを残してヒラタケを採ったあと、反対側にある色の明るいキノコをじっくり観察した。脳味噌がヒラタケで湯気立っている。エノキタケと思い込んでいるかもしれない。いや、もっと勝手に解釈してナメコではないか、と思いこんでいるかもしれない。冷静さを欠いているから怖いのだ。

ちらっと脳裏をよぎったキノコがある。猛毒のニガクリタケ。1つ採って噛んでみた。苦みがあるような、ないような。判断がつかない。が、傘の表面にぬめりがない。柄もまるでエノキタケと異なっている。白っぽいい。ニガクリタケと判断して採るのをやめた。ヒラタケで十分ではないか、と。

さて、ヒラタケをどうやって持ち帰るか。かごも、袋も持っていない。いい具合に雨もやんだ。こうもり傘を開いて「かご」の代わりにした=写真。自然はいつも人間の想像力を超えて作用する。師走にヒラタケと「ラストダンス」を踊るとは、思いも寄らなかった。

2008年12月14日日曜日

「元気市」で「内城菌」購入


わが家から車で5分ほどの所に、プレハブ小屋の野菜直売店「元気菜野菜市場」=いわき市平下神谷=がある。行くと休みという日が続いて、しばらく足が遠のいていた。その直売店の行事を新聞折り込みチラシで知った。「12月『元気市』(13,14日)のお知らせ」で、特殊有機肥料「内城菌」のPRもしている。

以前、落ち葉を入れた堆肥枠にこの特殊有機肥料をまいて水をかけ、ビニールシートで覆っておいたら、短期間で落ち葉の分解・発酵が進んだ。効果のほどは先刻承知の助だ。初日の13日、「内城菌」を2袋くらいは買うつもりで出かけた。

主宰者のUさんがいた。会うのは2年ぶり、いや3年ぶりだろうか。お茶をよばれたあと、15キロ入りの「内城菌」を買った=写真。紙袋に入ったものはサービスだという。前に購入したときには、わざわざ夏井川渓谷の無量庵まで運んでくれた。今度もおまけがついた。

Uさんに聴いていた話などを総合すると、この特殊有機肥料、正確には「内城B菌」というらしい。「内城」さんが発見した土壌菌(「内城菌」)を分別生ごみに添加し、8~10時間、発酵装置にかけて中熟の生成物をつくる。この生成物が飼料や土壌改良材になる。「内城菌」によって生成された肥料で「内城菌」を含んでいるから「内城B菌」というわけだ。

前に使ったときの印象を言うと、見た目は「カレー粉」。そして、もともとが生ごみだから食べ物系のにおいがする。湿りを帯びるとB菌が活発に働き始める。で、畑や堆肥枠にまいたら水をかけてやる。逆に、保管しているときには湿気を避けなくてはならない。袋の中で醗酵が始まっても意味がないからだ。

無量庵には、街の厄介者の落ち葉が20袋ほどある。「新川西緑地」のケヤキの落ち葉をごみ袋に詰めていた知り合いから、「燃えるごみ」として出すのなら、と譲り受けて運んだのだった。これを堆肥枠に詰めて、B菌をまいて水をかけてやれば、そう日をおかずに表面が有用菌で白く覆われ、分解・発酵が進んで熱を持つようになる。

堆肥を切り返すと湯気が立つ。このときの満足感がちょっとたまらない。

今朝(12月14日)はこれから無量庵へ出かける。5時半、外へ出て様子をうかがうと小雨が降っていた。この程度なら堆肥枠に落ち葉を入れて踏みつけ、B菌をちらしてやれば水をまかなくとも済む。雨にぬれて分解・発酵が始まるはずである。        
         
作業は1時間もかからないだろう。午後は街へ戻って、いわき地域学會と120周年を迎えた國學院大學院友会共催の「獅子舞・じゃんがら念仏踊り」を見る。いや、踊りの輪をつくろうというイベントに参加する。

2008年12月13日土曜日

「ヒラタケ白こぶ病」を知る


おととい(12月11日)、所属しているいわきキノコ同好会(冨田武子会長)の役員会があった。終わってキノコ談議に入り、今年の「成果」を報告し合った。1人が里山でマイタケを採ったほかは、景気のいい話は聞かれなかった。

今年最大のニュースは、いわきでも「ヒラタケ白こぶ病」が発生したことだろう。冨田会長から聞いて、ピンとくるものがあった。今年の夏以降に現れたウスヒラタケのひだに、異常なほど粒々ができていた。それだ。四半世紀の間キノコを見てきて、初めて目撃した。粒々を払おうとしたが、こびりついて離れない。気持ち悪くて食べる気にはならなかった。

天然ヒラタケだけでなく、栽培ヒラタケもやられたという。冨田会長のもとへ持ち込んだ人がいて、「ヒラタケ白こぶ病」が分かった。見た目が悪いから商品にはならない。掲載の写真は10月に発生した里山のウスヒラタケで、不鮮明だがひだには「白こぶ」ができている。それを意識して撮ったわけではない。当時は症状を知らなかったのだから。

九州・中国と西日本で発生していたのが、北上してきたのだという。新潟県森林研究所によれば、考えられる感染経路はこうである。

キノコバエの一種(ナミトモナガキノコバエ)に運ばれて来た線虫がヒラタケのひだに付着する。すると、ヒラタケは虫こぶ(白こぶ)を形成する。ヒラタケ属の仲間は、栄養菌糸(キノコ=子実体=ではない、ヒラタケ本体の菌糸)上の分泌器官からオストレアチンという毒素を出し、それに接触した線虫を動けなくする。そして、食べてしまう。

線虫が「白こぶ」をつくったのではなく、線虫に侵入されたヒラタケ自身が防衛策として「白こぶ」をつくり、しかも食べてしまう。大したものだ。冨田会長の話に、みんな目を丸くした。しかし、そうすると線虫は何のために寄生するのか。菌糸の攻撃をかいくぐり、産卵して次世代へと命をつなぐものがいるはずだ。そうでなければ意味がない。

それはともかく、栽培ヒラタケの対症療法は寒冷紗をかけてキノコバエの侵入を防ぐことだという。

この「ヒラタケ白こぶ病」、北上して来た点が気になる。線虫を媒介するキノコバエが東北へと生息範囲を広げているのだ。今までなかったモノ・コトが起きたり、現れたりする。森の小さな異変は地球温暖化という大きな病と無縁ではないだろう。

2008年12月12日金曜日

ハクチョウは朝、海へ?


いわき市平・塩の夏井川を休み場にするコハクチョウは、数が毎日異なる。朝7時、双眼鏡でおおよその数を調べる。現在は150羽から200羽の間といったところだ。ちょうど「白鳥おじさん」(Mさん)にえさをもらったあとの時間帯、何羽かが決まって朝日に向かって飛んで行く。

そのあと昼にかけて、塩のコハクチョウは数が減る。わが家にいてよくコハクチョウの鳴き声を聞くようになったが、それはどこか海辺へでも遠征する途中の「声かけ」に違いない。河口に残留組最古参の「左助」がいる。「左助」が呼び水になっているのか。

というのは、おととい(12月10日)、夕方の散歩の時間を早めて午後3時台に夏井川の堤防へ出たら、朝とは逆にコハクチョウが小グループで、何波にもわたって海の方から帰って来るのが見えたからだ=写真

鳴き交わし、あるいは無言で、2羽、9羽、5羽、3羽……と三々五々、夕日に向かって飛んで来る。いちいち振り返ることはしないから、塩の夏井川で一休みをするグループがいるのか、もっと上流の平・平窪に直行するのかは分からない。

きのうの午後4時前、海辺の店へ行くのに夏井川の堤防を利用した。どこか田んぼにコハクチョウたちがいるのではないかと考えてのことだが、すでに夕日に向かって移動し終わったらしい。河口部には1羽もいなかった。「左助」も見当たらなかった。4時10分、夕日が小高い丘に沈んだ。

コハクチョウには「コハクチョウの時間」がある。海辺からの帰還は、冬至までは3時台、「一陽来福」のあとは徐々に遅くなって4時台に? 散歩する人間と同じく、コハクチョウも朝日・夕日を目安に採餌・休息を取るということだろう。自然の成り行きではある 。

あしたは平・沼ノ内の土曜朝市。帰りに海辺の道を巡って様子を見てみようかな。

2008年12月11日木曜日

平伏森の「太郎橅]


八幡平国立公園の国有林(十和田市)に、一本木(単幹)としては「日本一のブナ」がある。先日、テレビで知った。幹周り6.01メートル。昨年(2007年)10月、福島県北塩原村のブナ(幹周り5.8メートル)を抜いて、国内最大と認定された。地元の人は「森の神」と呼んでいるらしい。

今年10月25日には、巨木の周囲に木製の保護柵が設けられた。「森の神」の見学者が急増したため、土が踏み固められて根がダメージを受けないようにしたのだという(デーリー東北)。

幹周り6メートルと言えば、大人4人がゆるゆる両腕を伸ばし(1.5メートルほど)、手をつないでやっと回るくらいの大きさだ。<ん! そのくらいのブナなら阿武隈高地でも見たぞ>

いわき地域学會図書16『あぶくま紀行』は文章で、『川内村史』第2巻・資料篇は口絵でブナの巨木を紹介している。「あぶくま紀行』の口絵にもブナの写真がある=写真左が『川内村史』、右が『あぶくま紀行』=が、そちらは田村市常葉町の鎌倉岳で見かけたブナだ。

「昨年(平成5年のこと)の春、地域学會の数人と川内村の平伏沼(へぶすぬま)の近くにブナが残っているというので、ピクニックがてら観察に出かけた。(中略)行ってみて驚いた。幹回りは大人4人が手をひろげてやっと回るくらいの太さの巨木」だということを、植物の専門家湯沢陽一さんが書いている。

ピクニックには私も同行した。モリアオガエルの繁殖地として、昭和16(1941)年、国の天然記念物に指定された平伏沼の奥に、巨木がデンと鎮座していた。平伏の森の「山太郎」だから「太郎橅」と呼ぼう、と提案した。で、今も仲間内では「平伏の太郎橅」で通じる。

「太郎橅」の幹周りは、正確にはいくらあるだろう。「とてつもなくでかい」という印象はあるのだが、『川内村史』の口絵写真には人間がいないから、比較ができない。左側一番下の、「幹」のような枝に大人が上って座ったが、まるで幼児のようだった。

いつか川内村の石井芳信教育長に会ったら、「太郎橅」の実測調査を提案しよう。「日本一のブナ」と認定される可能性があるし、そうでないとしてもモリアオガエルを守る「平伏森の神」として、その存在を知ってもらう意義は十分あるのだから。

2008年12月10日水曜日

個展を見に山里へ、新開地へ


日曜日(12月8日)の午後、夏井川渓谷の無量庵からいわきICに直行し、常磐自動車道を利用して、いわき市南部の田人にあるギャラリー「昨明(カル)」を訪ねた。帰りは一般公道を使い、区画整理事業で生まれた新しいマチ・泉玉露の五丁目にあるギャラリー&カフェ「ブラウロート」をのぞいた=写真は小野(上)、安斉さんの個展の案内状

「昨明」は鮫川支流・四時川を縫って走る国道289号沿いにある。スーパーリアリズムを手がける小野重治さんが、14日まで個展を開いている。ちょうど本人がいたので、いろいろ話を聴いた。作品目録に収められた画歴をみると、私が彼に出会ったのは25年余前だ。35歳と27歳。お互いに若かった。

高木のハクモクレンとタイサンボクの白花を、花と同じ高さで大きく描いている。いったん写真に収めたものを見ながら描き込んでいくという。被写体が被写体だけに、花に合えるのは年に1回だけ。時期を逃すと来年まで待たなくてはならない。

にしても、同じ目線で花を見るのは至難の技だが? とっておきの場所があるという。坂道からちょうどいい位置で花を撮影できるのだ。なるほど、それでミツバチかハナアブの「虫の目」でタイサンボクの花びらと蕊(しべ)に接近することができるわけだ。光がやわらかい。花びらの裏から光が当たり、微妙な陰影を表現した作品に引かれた。

新開地にある「ブラウロート」へは、いつも一発でたどりつけない。整然としたマチはどの区画も同じに見えて、私には分かりづらいのだ。「鉄の彫刻家」安斉重夫さんが28日まで個展を開いている。ここでもご本人と話すことができた。楽しくなる作品展だ。

鉄を切ったり、溶接したりして、9割までは作品をつくる。残りの1割は見る人にゆだねる。触ったり、たたいたりしてもらうことで作品が完成する。触り方やたたき方で完成にバリエーションが出てくる。人が参加する作品づくりを好ましいと思った。

「物語性」を強く打ち出す安斉さんだが、音の出る彫刻としての「遊び」にも力を入れる。たたけば打楽器。はじくためのスティールもあって、つまびけば弦楽器。鉄の彫刻が鉄の楽器になるのだ。西洋の音階に基づくクラシックよりは、アジアやアフリカの民族楽器とコラボレーションをしたら面白い。

小野さんの虫の目が見た大輪の花、安斉さんの鉄の音楽――。ギャラリー巡りの楽しさがこんなところにある。

2008年12月9日火曜日

日曜日にいわきで「初氷」


日曜日(12月7日)は、午前中、夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)の無量庵で過ごした。三春・郡山方面を巡る予定だったが、お目当ての「阿久津曲がりネギ」が前日、平のスーパーで手に入った。出かけなくともよくなった。そうなると、やり残していた畑仕事が気になる。

早朝8時過ぎには、無量庵に着いた。V字谷である。尾根から中腹にかけては朝日が当たっていた。が、谷底に近い無量庵は日陰のまま。玄関の外にある手水鉢の水が凍っていた。途中、平野部にある「冬水(ふゆみず)田んぼ」も凍っていた。朝の散歩を兼ねて観察してきた限りでは、2008年冬のいわきの「初氷」だ。

海岸部にある小名浜測候所がまだ有人観測をしていた昨年は11月24日、おととしは11月25日が、いわきの「初氷」だった。小名浜の「初氷」の平年値は11月19日。12月7日の「初氷」は平年より18日遅いのだが、これほど観測日が離れると自信がなくなる。平地でも何日か前に氷が張ったのではないか、と思ってしまうのだ。

それはともかく、7日・日曜日の明け方は格段に冷え込んだ。氷もそうだが、無量庵の庭は霜で真っ白だった。白菜も白く霜をかぶっていた。霜の結晶はまるで針、いやトゲ状だ=写真。尿酸の結晶もこれか、これを複雑にしたものか、と連想が働く。無量庵の中にある寒暖計は氷点下4度を指していた。

「三春ネギ」の苗に寒冷紗をかぶせ、結球を始めた白菜にビニールテープの鉢巻きをした。ともに防寒対策だが、ネギ苗は虫よけと落ち葉の堆積防止、白菜はヒヨドリの食害防止を兼ねる。ネギ苗は根元で光合成をするという。落ち葉で光が遮られると、それができない。草を抜きとり、落ち葉をさらい、半円のパイプを利用して「ドーム」をつくった。

激辛トウガラシも霜に当たった実を枝ごと切り、輪ゴムで束ねて風呂場のタオル掛けにつるした。冬場はほとんど風呂を利用しない。展望用に窓を大きく取ってあるから、朝は日が差し込む。温室代わりになるので、トウガラシもすぐ乾燥するだろう。

あと、年内にしなければならない作業は、ほんとうはもう終わってなければならないサヤエンドウの防寒対策だ。そのへんから枯れたササを切って来て、芽が出たサヤエンドウの「コート」代わりにする。稲わらが一番だが、米を作っていないので手に入らない。なんでも身近にあるものを活用するのが、まねごとであっても農の営みの基本だ。

白菜は毎度、ヒヨドリとの競争になる。年が明けて1月も後半に入ると、鉢巻きをしていても攻撃される。中がえぐられて壺のようになったものは、漬物にはならない。春先に菜の花が咲くのを待つしかなくなる。あえて菜の花を食べたくて種まき時期を遅らせる人もいるが、そんなうねの余裕はない。

とにかく敵はヒヨドリ。ヒヨドリがいるためにのんびりしてはいられない。

2008年12月8日月曜日

「つまらないからよせ」


11月中旬のことだが、どのテレビ番組を見たものかとリモコンでガチャガチャやっていたら、「トゥエルビ」の<宝塚「名作の旅」>が目に止まった。「イーハトーブ 夢」後編。淳紫央というタカラジェンヌが宮沢賢治の岩手を旅する番組だった。

宝塚歌劇団の星組東京特別公演・バウ音楽詩劇「イーハトーヴ 夢…宮沢賢治『銀河鉄道の夜』…」の映像をからめながら、番組は進行する。賢治の人生を「銀河鉄道の夜」とシンクロさせて描く詩的な一編、というのが詩劇の売りらしい。宝塚が宮沢賢治を取り上げること自体、驚きである。

公演の映像に端正な「賢治先生」が現れた。タカラジェンヌだから当然だが、「雨ニモ風ニモマケズ」を朗々と、堂々と吟ずる=写真。「北ニケンクワヤソショウガアレバ/ツマラナイカラヤメロトイヒ(北に喧嘩や訴訟があれば/つまらないからやめろと言い)…」。このくだりでハッとなった。「つまらないからよせ」という詩があったぞ。

いわき市は昭和61(1986)年、「非核平和都市宣言」をした。市民有志が中心になって短期間に何万人もの署名を集め、市と市議会を動かした。その原点が、元いわき短大学長の故中柴光泰さんが書いたソネット(14行詩)「つまらないからよせ」だった。

原爆をつくるよりも/田をつくれ/それとも/詩をつくれ/(1行あき)これが存在するものの一念だ/さきごろ咲き出した水仙も/そう言っていた/日ごろ無口な庭石も/そう言っていた/(1行あき)田にはくらしがある/詩にはいのちがある/しかし原爆には何もない/ただ限りなく/つまらないだけだ

賢治の「ツマラナイカラヤメロ」に、中柴さんの「つまらないからよせ」が重なった。中柴さんは賢治の詩句を意識して書いたに違いない。テレビを見ながらそう確信したのだった。

漢学者を父に持ち、英文学者として、また明治の歌僧天田愚庵の研究者として、1世紀の生涯を歩んだ中柴さんは、年下であっても他者への尊厳を忘れず、ウイットと警句をもって座を楽しませてくれた。

生涯で唯一書いた(と思われる)詩が、落語風味の対句仕立てで非核化を訴えるこの作品だった。重いテーマを日常に引き寄せ、軽く爪ではじくその落差が面白い。誰にでもできる芸当ではない。非核と非戦をこんなふうに表現した人はほかにいるだろうか。あらためて中柴さんの知のダムの広さ、深さに思いが帰っていく。

16歳のときの英文法の先生として、新聞記者になってからは人生の大先輩として、絶えず謦咳に接することができたのを、私は今もありがたく思っている。彼岸に渡ってもなお中柴さんは「存在するものの一念」を秘めてこちらを見ているに違いない。

2008年12月7日日曜日

平で「阿久津曲がりネギ」を買う


12月に入ったら、最初の日曜日に田村郡三春町へ行って「ほうろく焼き」を食べ、郡山市のスーパーへ足を延ばして「阿久津曲がりネギ」を買う。そう決めていたのだが、きのう(12月6日)、いわき市平のスーパーで「阿久津曲がりネギ」が手に入った=写真

「三春ネギ」を調べているうちに、この田村郡(今は三春町と小野町だけ。ほかは合併して田村市になった)の地ネギは、地続きの「阿久津曲がりネギ」と同系統の「加賀群」、つまり近縁種か同種ではないか、と思うようになった。

「三春ネギ」は白根だけでなく、緑の葉も食べる。香りが高く、甘く、軟らかい。「阿久津曲がりネギ」もそうだという。しかし、これが「阿久津曲がりネギ」、というのを食べたことがない。この舌で確かめねばと、かねがね思っていた。

例によってカミサンの運転手を務め、鹿島町の「創芸工房」で「望月真理・刺繍教室展――布に遊ぶ・アジアに遊ぶ」を見た。主宰者の望月さんがいて、カミサンとなにやら話を始めた。この先生、辛辣だがユーモアに富む。聞くともなく聞いているうちに、何度もおかしくなって笑った。

その帰り、買い物があるというので、郡山に本社のあるスーパーへ寄った。<もしかして「阿久津曲がりネギ」が入荷しているかもしれない>。それが当たった。「阿久津曲がりねぎ保存会」が生産した「曲がりネギ」を6本1束198円で売っている。<なんだ、明日、三春・郡山へ行かなくてもよくなったじゃないか>

酒のあと、晩ご飯に合わせてジャガイモと「阿久津曲がりネギ」の味噌汁を食べる。お椀を口に持ってくると香りが立った。かむと軟らかい。甘みはどうか。「三春ネギ」より濃厚だ。「とろみ」まである。

この「とろみ」は、葉の内側にある「ぬめり」が加熱されて変化したものだろうか。だとしたら、「三春ネギ」の比ではない。「阿久津曲がりネギ」には「ぬめり」がぎっしり詰まっている。

で、すぐ思ったのは、私と保存会とでは栽培技術に開きがあり過ぎることだ。「三春ネギ」は「ぬめり」が少ないのか、私の栽培法が劣悪で「ぬめり」が足りないのか。自問すれば、おのずと答えは分かる。だから、ここは「私の三春ネギ」と「阿久津曲がりネギ」はイコールではない、とだけ言っておこう。

なによりネギの形が違う。「私の三春ネギ」は細い。「阿久津曲がりネギ」は径2センチほどもある。まさしく「太ネギ」だ。

そういえば、夏井川渓谷(小川町・牛小川)の住民が栽培する「三春ネギ」は、半住民である私の「三春ネギ」よりは大きくて太い。もう一度、地元の人たちに作り方を学ばなくてはならないようだ。

2008年12月6日土曜日

神谷の里を飛び交う白鳥


わが住まいの近くに「南鳥沼・北鳥沼」というところがある。地名を漢字から追いかけるのは愚の骨頂とはいえ、「鳥沼」は夏井川下流域の氾濫原に位置する。かつては水鳥のサンクチュアリ(聖域)だったのではないか。

近世には、あえて大水を人間の住む側に引き入れて水害を緩和する「霞堤」が設けられていた。志賀伝吉著『夏井川』によれば、笠間藩の神谷陣屋は「甲州流防河法」を採用し、塩村(いわき市平塩)と接する中神谷村(同市平中神谷)の十二所を無堤とした。それで大水が出ると神谷平野は遊水地と化した。同時に肥沃土が運ばれて来た。

江戸時代初期には、夏井川左岸の山際に「小川江筋」が開削される。その結果、新田開発が進んだ。「鳥沼」は、そのころにはもう水田になっていたことだろう。「霞堤」は近代になると、しゃにむに川の流れを封じ込める「連続堤」に変わる。ますます「鳥沼」と鳥のつながりは失われていった、に違いない。「鳥沼」は、今は宅地に変わった。

神谷の里は古来、水害常襲地帯だ。今も大雨になると道路が冠水する。頑丈な堤防ができたからといって安心はできない。河川改修をした結果が、逆に水害の危険性を高めている、とさえ私は思っている。

それはさておき、水鳥の代表ともいうべきコハクチョウが毎日、神谷の上空を飛び交っている。早朝散歩のときは、105ミリのレンズでも撮れるほどすぐ上空をよぎることがある=写真。朝ご飯を食べているとき、仕事をしているときも、空から「コー、コー」という鳴き声が降って来る。ハクチョウは午前中、こんなに飛び交うものなのか。

神谷の上流、平窪の夏井川の越冬地ではどうか。昼前、集団で近くの田んぼにいるのをよく見かけるから、やはり活発に飛び交っているのだろう。

それで思うのだが、「鳥沼」は人間の生産にはあまり役に立たない場所だった。おかげで、水鳥たちには格好の休み場となった。ガン・カモはおろか、鶴さえいたのではないか。そんなことを地名に引き寄せて空想するのである。

えづけの努力が実ってコハクチョウが飛来するようになったことは否定できない。にしても、自然(コハクチョウ)は自然(休み場)を求めてやって来る。コハクチョウたちが神谷の上空を飛び交うのは、水鳥に連綿と受け継がれてきた遺伝子(湿地探索能力)がかつての「鳥沼」という休み場を透視し、かぎ当てるからではないか――というのは、あまりにも飛躍しすぎる。分かっていて、なお夢想を楽しみたいのだ。

2008年12月5日金曜日

ジュリーの還暦・新作アルバム


還暦を迎えた「ジュリー」こと沢田研二の新作アルバム「ロックン・ロール・マーチ」を買った日、わが家に20代の女性が営業に来てカミサンと話をしていた。こちらはすぐにも歌を聴きたいから、CDの封を切ってラジカセにセットしながら女性に聞いた。「沢田研二、知ってる?」「えっ、知りませんが」。こりゃダメだ。60歳と20代では話がかみ合わない。

20代の女性が聴く音楽って、なに? というより、20代の心をつかむ同世代の、同時代の音楽は、私には分からない。が、当然あるだろう。私が10、20代のときは、数あるグループサウンズのなかでも「タイガース」、そのなかでもジュリーだった。

同年齢だから、だけではない。声と顔にほれたのだ。「かっこいい」というやつだ。やがてソロになって、デビッド・ボウイよろしくあやかしの世界にたゆたっても、なにか心引かれるものがあった。ジュリーはジュリーのまま。そして、ファンであるこちらもあまり進化せずに年を重ねた。

秋口、全国紙の「ひと」欄に彼が登場した。新作アルバムのなかに、憲法9条賛歌がある。「わが窮状」。「60歳になったら、言いたいことをコソッと言うのもいいかな」という言葉に打たれた。それでCDを買い、車の中で聴いている。

新作アルバム中の「ロンググッドバイ」は、メンバーから離れた1人の友をうたった「極私的作品」だ。岸部一徳とジュリーが作詞し、森本太郎が作曲した。曲の雰囲気が故河島英五のいくつかの歌と共通している。涙ぐみながら歌っているようにも感じられた。

そうこうしているうちに、きのう(12月4日)朝のテレビで、ジュリーが12月3日、東京ドームで還暦記念コンサート「人間60年・ジュリー祭り」を敢行したことを知った。コンビニへスポーツ紙を買いに行って、コンサートの様子を確かめた=写真、CDは新作アルバム

なんというエネルギーだろう。昼と夜と、少しの休憩をはさんで6時間半にわたって計80曲を歌ったという(ま、私もそのくらいの時間は街で飲み続けることがあるが)。記事に「40歳の時は60歳をジジイと思ってました。でも、そうではないんですね」というくだりがある。私も11月に還暦を迎えて、同じ感慨を抱いた。3割引きというのは言いすぎだから2割引き、48歳くらいの気持ちのままだろうか、と。

同じ還暦コンサートの記事にこうあった。「ジュリーが泣いた。26曲目の『いくつかの場面』。(中略)歌詞と同様に抱きしめるポーズをすると涙があふれた。故河島英五さんの作詞、作曲で75年発売の曲」。自分の人生を振り返るとき、河島英五の歌があるのだ。

きのう、たまたま社会保険事務所へ行って年金を受け取る手続きをした。なにか新しい道に踏み込んだ気がした。「さあ、おれもコソッとなにかやるか」。ジュリーの「わが窮状」と還暦コンサートに後押しされて、カラ元気がわいてきた。

2008年12月4日木曜日

朝日に輝く川霧


きのう(12月3日)の早朝、いつものように散歩へ出かけたら、朝日に照らされた夏井川の水面から霧が立ち昇っていた=写真。堤防に立った瞬間、逆光の中に「湯気」が見えた。カモたちが霧の中をシルエットになって飛び交っていた。

ところが、霧が発生しているのはそこだけ。樹木に朝日が遮られている上流の川面は、まるでなんともない。

時間は7時ちょっと過ぎ。福島県で一番早く朝日が昇り始めてからおよそ30分、といったところか。海上に雲が残るだけの快晴とくれば、夜間に放射冷却現象が起きた。空気が冷たい。その寒さと朝の太陽の光のコラボレーションが霧になったのだろう。

晩秋からこのかた、放射冷却現象は何度か起きている。が、朝の散歩のときは太陽が顔を出したばかりか雲に隠れているかしているために、川から立ち昇る霧は見ていない。5月には、海霧が夏井川に沿って内陸部へ進入して来るのをよく見かけたものだ。霧としてはそれ以来である。

中通りでは前夜から濃霧が発生し、東北自動車道や磐越自動車道が朝まで通行止めになった。テレビが「湿度が高い中で急激に気温が下がったため」と報じていた。こちらは夜からだから太陽とは無関係である。

夜の明けるのが遅くなり、日の暮れるのが早くなっている。それに合わせて、朝の散歩は6時出発が6時半になり、夕方は5時出発が4時になった。自然の移り行きに合わせるしかない。

通勤・通学者には、そんな「フレックスタイム」はない。夏も冬も、春も秋も、時計が決めた時間に家を出なくてはならない。現役のころは、私もそうだった。が、今は人と会うとき以外は、時間への向き合い方がゆるやかになった。一面ではアバウトに、一面ではルーズに。

単純なことをいえば、夜が明けたら散歩へ出る。日が暮れたら酒を飲む。時計の時間ではなく、自然の時間に合わせて行動するのだ。

川霧から発して、思考はいつの間にかそんなところをへめぐっていた。

2008年12月3日水曜日

雨粒の衝撃


夏井川渓谷の無量庵に家庭菜園を「開墾」して10年余がたつ。種まきと定植、そして日照りが続いたとき、ホースを伸ばして水をやる。隣の電力社宅跡にある井戸を借りて水道管をつなぎ、ポンプアップをして生活用水にしている。この水を畑にも使うのだ。

野菜に散水するとき、いつも地べたにいるアリや葉っぱのクモの目線が脳裏に浮かぶ。晴れているのに突然、空から「雨」が降ってくる。なんだ! どうして? アリどもはパニックに陥るに違いない。

アリからみたら予想もできない天気の急変だ。巨大な水のかたまりが降って来る。次から次に降って来る。直撃されたらたまらない。アリは私でもある。いつからか、自分を極小にしてみる癖がついたのだ。昔、NHKで放映されたアニメ「ニルスのふしぎな旅」の主人公、乱暴で怠け者のニルス・ホルゲションのように。

そのアニメだったか、別の番組ないし映画だったか忘れたが、小人になった少年が、如雨露(じょうろ)の水に流される。人間が如雨露を使ってやる散水が小人には大雨になり、土をぬらした水が洪水になるのだ。日曜日(11月30日)夜のNHKスペシャル「雨の物語」を見ていて、そんなことを思い出した。

「水の森」吉野・大台ケ原。ハイスピードカメラがとらえた雨粒が虫をたたき落とす。それをすかさずアマゴが水面から顔を出してパクリとやる。ホコリタケ=NHKテレビから=が雨粒の衝撃を利用して、てっぺんの穴から胞子を飛ばす。

ホコリタケは別名キツネノチャブクロ。成熟すると「ひよめき」に小さな穴が開く。けとばすとその穴から煙(胞子)が出る。雨でもいい、人間のけとばしでもいい、というキノコの「知恵」には恐れ入る。

日本有数の多雨林、大台ケ原の雨の落下速度は時速40キロだという。同じ速さの車に人間がはねられたら死傷する。小動物にも天から降って来る猛スピードの雨はかなりの衝撃に違いない。

そんな極小、あるいは極大の世界、つまり自然界のことに、ときどき想像力を働かせる。人間だけ相手にしていると、自分がなんだか危ういところに入り込んだような気がして落ち着かなくなるのだ。

そうと意識しているわけではないが、年に何回かは「自然と人間の交通」について考える。鳥の目になり、虫の目になる。星の目になり、石の目になる。風の目になり、花の目になる。釣りをしないから、あまり魚の目にはならないが。要するに、夏井川渓谷は思考のバランスを取り戻す生きた教室なのだ。

2008年12月2日火曜日

森の「濡れ落ち葉」


夏井川渓谷の広葉樹はあらかた葉を落とした。林床も、林内の小道も落ち葉で覆われている=写真。これが、やがては腐葉土になる。「自己施肥」というやつだ。

晩秋から春先、渓谷林の小道を歩いていると「おやっ」と思うときがある。落ち葉を踏む感触が変わるのだ。

晴れた日が続いたあとに森へ入ると、「カサッ、カサッ」と足を運ぶたびに音がする。落ち葉が乾いて反り返り、ふわふわしたじゅうたんができる。それをラッセルして歩くようになる。

雨上がりには、全く様相を変える。濡れた落ち葉が元の葉の形に戻り、土にへばりつくようにぺちゃんこになっている。踏んでもほとんど音を発しない。濡れると「形状記憶装置」がはたらくのだ。

まさしく「濡れ落ち葉」だ。道にべったり張りついてはがれない。これを世の奥方は嫌う。

いわき~郡山を往復するJR磐越東線は、運転手にとっては夏井川渓谷が一番の腕のみせどころ。蒸気機関車の時代には、江田信号場(現江田駅)でスイッチバックを行い、勢いをつけて渓谷を駆け上がることもした。

この時期、線路に落ち葉が積もって車輪が空回りすることもあったと、渓谷の集落の古老に聞いたことがある。濡れ落ち葉が原因だ。古老は落ち葉の時期になると、毎朝、線路の様子を見たものだという。濡れ落ち葉で列車が難儀するのは忍びない。そういう心根が、(たぶんどこでもだが)地元の人間にはある。

落ち葉は、農家にとっては天から贈られた貴重な畑の肥料だ。渓谷の道路で毎年、道端に吹き寄せられた落ち葉を袋に詰める農家の老夫婦がいる。健在ならば今年も間もなく現れる。

2008年12月1日月曜日

『阿武隈のきのこ』を読む


阿武隈菌類研究会長の奈良俊彦さん(いわき市常磐西郷町)が、『阿武隈のきのこ』(阿武隈の森に親しむ会発行)を出版した=写真。15年間にわたって観察してきた阿武隈高地の菌類データが1万件を突破したことから、自分で撮影したプロ級の写真とセットで一冊にまとめた。

菌類そのものの形態的特徴はほかの図鑑にまかせることにしたのだろう。『阿武隈のきのこ』は、初心者よりはちょっと上の愛菌家向けに編集された。

いわき市を含む南東北のご当地本で、①季節を春・梅雨・夏・秋第一陣・秋第二陣・晩秋・冬の7季に分類②発生確認日を月ごとに上・中・下旬の3本の棒グラフで表示③奈良さん流のキノコの調理法を紹介――しているのが大きな特徴だ。

7季は、春=3月初旬~梅雨入り直前、梅雨=梅雨入り(南東北の平年値6月10日)~40日間、夏=梅雨明け~8月末、秋第一陣=9月中心、秋第二陣=10月中心、晩秋=11月、冬=真冬、と定義している。年間を通して森を巡っている経験からいっても、この定義は妥当で分かりやすい。

キノコは1年中発生している、キノコを正しく知ってもらうためにも「キノコは秋」の固定観念を打破したい――という思いがよく表れている。

かつては年に何回か、観察会や忘年会で奈良さんと顔を合わせ、キノコにかける情熱、知識から多くを学んだものだ。今度は『阿武隈のきのこ』からいろいろ学ぼうと思う。特に、キノコの調理法からは多くの恩恵を受けそうな予感がする。

例えば、ハツタケは炊き込みごはんがお薦め、アイタケはてんぷら、アンズタケはオムレツに……、といったあたり。どう調理したものか悩んでいたキノコだけに、大いにヒントになる。奈良さんは、私には「キノコの伝道師」だが、それは一面で料理にかける「キノコ愛」がひしひとと伝わってくるからにほかならない。

最後に1つ注文。本屋で『阿武隈のきのこ』を見つけたのは11月下旬。すぐ購入し、パラパラやって奥付を見たら、発行年月日が書いてない。はずしたのか、抜けたのか。発行年月日は本のへそのようなものだ。まだ本屋にあるものには、奥付に発行年月日の追加シールを張った方がいい。