2008年12月21日日曜日

『神谷郷土史』が面白い


「風の人」から「土の人」になって30年余。わが家のある神谷(かべや=いわき市平)の里の歴史が気になりだした。息子たちの「ふるさと」である。同居はしていないが、1歳余の孫がこれから泣き笑い、歩き回り、走り回るフィールドでもある。

江戸時代には笠間藩の分領(飛び地)だった。夏井川を境にして、西の磐城平藩(いわき市の中心地・平)とは一線を画していた。夏井川を渡ってマチへ行くとき、「平へ行く」(「マチへ行く」ではない)となるのは、そうした史実の影響らしい。

地名に「南・北鳥沼」がある。コハクチョウが神谷の空を飛び交うようになった。地名から推して新しい現象ではない。昔からそうだったのではないか。で、ちょっと神谷の歴史を調べてみよう、という気になったのだ。

昭和26(1951)年発行の『神谷郷土史』を読み始めたら、これがおもしろい。著者は神谷市郎氏、発行所は平市役所神谷支所。昭和25年5月、神谷村が平市と合併し、村長の神谷氏が神谷支所長になった。その神谷氏が「神谷村の歴史を残したい、それが村長に課された使命」と筆を執った。

読み始めてすぐ「南・北鳥沼」が出てきた。一帯は細流が幾筋にも流れる「せせら川」の「草野」(ヨシ原)で、集落ができると「草野郷神野里(かみのさと)」と呼ばれるようになった。地頭の赤目崎なにがしが親子で鳥を狩りに来た際、歌を詠んだのが地名の由来だとか。 ヨシ原であるからには、狙いは水鳥のカモなどだったろう。

次に、幹線道路。大昔の街道は最初、立鉾山の北にあり、立鉾鹿島神社(当時は立鉾大明神)が焼失して山の南に再建されると、南に新設された。江戸時代の「浜街道」、明治になっての「陸前浜街道」、そして私たちが今、「旧(6号国)道」と呼び習わしている道がそれである=写真

戦後の昭和22年から3年間は「神谷中学校」があった。独立校舎建設にストップがかかり、シャウプ勧告(戦後、GHQの要請で結成された日本税制使節団の報告書。団長がカール・シャウプという人だった)もあって、平市と合併した。いやせざるを得なかった。今の平二中がそうして誕生した。
                            
ネギ・ニンジンが特産物、ともある。ネギは大正末期から広く栽培されるようになった。と、まあ、こんなことが『神谷郷土史』に書かれてある。

最初の収穫は、「神谷」と「南・北鳥沼」の地名が野鳥や狩りと深い関係にあったこと。昔の「郷土史」には我田引水も少なくない。が、今を学び直す教材としては結構、有効なのではないか。そんなことを、神谷氏のほかに、戦前の歴史家諸根樟一の著作物などを読んでいると感じる。

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