2009年1月2日金曜日

初日の出を拝む


2009年の最初の日は未明に元朝参りをしたあと一眠りし、いつもの時間に起きて散歩へ出た。国道6号常磐バイパス終点部に夏井川橋がある。そこから初日の出=写真=を拝んだ。

堤防から夏井川橋に接続する階段に20人近くが陣取り、初日の出を待っていた。去年も同じように橋の上から初日の出を拝んだ。が、人は数えるほどしかいなかった。今年は散歩で顔を合わせる人も子どもを連れていた。何組かは車でやって来たが、どこか近所の老夫婦といった風情。盛んにケータイで写真を撮っていた。

初日の出を拝むと、決まって出羽で生まれ、磐城山崎(いわき市平山崎)の浄土宗名越派総本山・専称寺で修行を積んだ俳僧一具庵一具(1781~1853年)の発句を思い出す。専称寺は散歩コースの対岸、小高い丘の上にある。

いつもかう拝まれたまへ初日の出
元日も生飯(きめし)くひに来る雀かな

人間が初日の出に手を合わせるのは、旧年のけがれをリセットしてまっさらな1年を始めたい、という願望が作用するからに違いない。時間が循環するからこそ日常の中に非日常を発見して再出発を図る。「今年こそは」がかなわないことと知りながらも、祈らずにはいられない。そんな人間の隣ではスズメが元日にも日常を生きている。この落差が面白い。

散歩しながら目にしたことだが、朝日が昇ると堤防に出て拝むお年寄りがいた。特別に信仰心が篤かったわけではあるまい。日の出の荘厳さにうたれ、誰に強制されることもなく自然に手を合わせる。今日も無事に過ごせますように――その姿から、素朴な自然への畏怖と感謝を感じ取ったものだった。

理屈をこねれば、一日一日が「初日の出」とともに始まる。胸の前に手を持ってこなくとも、胸の内で手を合わせれば「初日の出」を拝んだことになる。要は自然と共にあることを念じられるかどうか、だ――などと思いを巡らせるのも、日の出とともに散歩を続けているからだろうか。

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