2009年1月12日月曜日

いわきの前方後円墳


いわき古代史研究会の講演会が1月10日、ティーワンビルのいわき市生涯学習プラザで開かれた。福島大准教授の菊地芳朗さんが「いわき市玉山古墳とその時代」と題して話した=写真

いわき市四倉町の「里山」に眠る玉山古墳は、東北でも有数の「前方後円墳」(前方が西、後円が東)である。昭和55(1980)年、福島県指定史跡に登録された。この時点では、大きさが108~118メートル、築造年代が5世紀前半と推定された。

平成16(2004)年から4年間、測量と計11カ所のトレンチ(試掘坑=溝)調査が行われた。菊地さんは専門家として「調査指導」を担当した。その結果分かったことを、自分の見解も踏まえながら紹介した。

まず、試掘調査で判明したこととして、菊地さんは①規模=墳長112~113メートル、後円部直径60メートル、前方部前端幅40メートル以上、前方部長約55メートル②後円部が大きく、前方部が特に大きく広がる形状になる③築造年代は出土土器から古墳時代前期後半でも末に近い時期、暦年代で4世紀中~後期にさかのぼる、という。

北側がかなり削られている。現在の地形からは想像できないが、もともとは「そんじょそこらにある古墳(前方後円墳)ではない」(菊地さん)。思った以上に大きいのだ。東北地方で3~4位、東日本でも50位前後の規模だという。

詳細な成果はさておき、特に私が心引かれたのは埋葬された人物像と場所だ。玉山古墳は仁井田川の左岸にある。墳丘からは太平洋(仁井田川河口)が見える。川・海、つまり水上(海上)交通権を掌握していたいわき地域の首長の墓ではないか――というのが菊地さんの見解だ。

仁井田川の西隣、夏井川でもそうだが、古代の港は河口から内陸部にある浜堤(ひんてい=砂丘)と交差する場所に築かれた。菊地さんは仁井田川河口付近に港(津)が存在し、被葬者がこれを大きな権力基盤とした、とみる。いわきは海のほかに、阿武隈高地を越える東西幹線道路の出発・ゴール地点、海岸部を南北に貫く街道の要所、つまり陸上交通・海上交通の結節点である――というのは現代も同じ。

あの世へ行っても、自分が支配していた世界、最も輝いていた場所と時間を見続けていたい――そんな心情が海の見える丘に「前方後円墳」をつくらせたのだろうという話に、大いにロマンをかきたてられた。その人物がいつかは解明されるに違いない。

平面的・空間的な「浅いいわき」はそれなりに知っているつもりだが、時間軸を加えた4次元の「深いいわき」となると、まったくお手上げ。ディープないわきを学ぶまたとない機会となった。

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