2009年1月25日日曜日

乾浩著『斗満の河 関寛斎伝』


今は水戸に住んでいる知人のN君から、昨秋、電話がかかってきた。話したのは二十数年ぶりか。歴史小説作家の乾浩さんという人と知り合いで、乾さんがいわきとも関係する『斗満の河 関寛斎伝』(新人物往来社刊)=写真=を上梓した。ついては、いわきの人々に本を紹介してくれないか、ということだった。

関寛斎(1830~1912年)は「最後の蘭医」と言われた医師である。今の千葉県で生まれ、佐倉・順天堂で蘭医学を学び、長崎に遊学したあと、徳島・阿波藩の藩医となり、戊辰戦争では官軍の「奥羽出張病院頭取」(野戦病院長)として従軍した。

官軍は上野での戦いのあと、奥羽越列藩同盟の討伐戦に入り、奥羽出張病院も平潟から平へと移動した。寛斎は敵味方の別なく傷ついた兵士の治療をしたほか、地元の漢方医に西洋医学の速成教育を施して治療を手伝わせ、いわき地域における医療近代化のさきがけになった、という。

いわき総合図書館でチェックしたら、『斗満の河 関寛斎伝』があった。が、ずっと「貸し出し中」である。これではいつまでたっても埒が明かない。師走に予約を入れて待つこと2週間、やっと新年になって小説を読むことができた。戊申戦争140年ということで、いわきでも関寛斎に関心が集まっているのだろう。

乾さんは関寛斎の晩年により強く光を当てた。本の帯に「明治35年、73歳で北海道開拓を志した関寛斎。30数年におよぶ医師としての地位・名誉を投げ捨て、北辺の地・斗満の開拓に命を懸けたその苛烈な生きざまを描く書き下ろし歴史長編」とある。斗満は「トマム」。東方やや南に雌阿寒岳を望む、現在の陸別町・斗満がそれだ。

寛斎は貧困にあえぐ人たちを見過ごせなかった。食料を与えるために斗満開拓に情熱を傾けた。しかし、彼が掲げた理想的農業、牧畜村落の建設も、息子との農場経営をめぐる考えの相違から挫折し、結局は夢と終わった。(「あとがき」から)

この夢見る力、高い志、思想を現実化する強靭さ……。団塊の世代は「楽隠居」を決め込む前になにかやることがある、そんな思いを抱かせる本だ。ついでながら、関寛斎については司馬遼太郎が『胡蝶の夢』のなかで取り上げ、徳冨蘆花が『みみずのたはこと』のなかで書いている。

さらにもう1つ。いわきから北海道開拓に入って挫折した人物に詩人猪狩満直(1898~1938年)がいる。満直の入植地は雌阿寒岳南方の舌辛(現釧路市阿寒町)。舌辛と斗満とは直線距離にしてざっと50キロ、というところか。寛斎と満直とでは時代がずれるが、同じ北海道の大自然を相手によく戦い、よく負けた。

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