2009年2月28日土曜日

こんにゃ食う


先日のことである。夕方、企画展準備手伝いのカミサンを迎えにいわき市暮らしの伝承郷へ行ったら、テレビのクルーが来て生中継をしていた。そのあとにも奥の民家で「民話語り」の生中継があるという。ギャラリーの1人に加わった。

伝承郷で活動している「キッズ民話語りの会」の指導者が「桃太郎」を語る。動員された子どもたちが聴き手になって「あー、それから」と合の手を入れる=写真。桃が川の上流から流れてくるときの様子が、「ドンブラコドンブラコ」ではなく「ツンプクカンプク」だった。

20代後半、3歳か4歳の息子を寝かしつけるために「桃太郎」を語ってやった。が、「ドンブラコドンブラコ」ではどうも面白くない。手垢にまみれている。いろいろ本を漁ったら、「ツンプクカンプク」と語るローカルな「桃太郎」があった。これだ。以来、「桃太郎」の桃が流れてくる様子は、私の中では「ツンプクカンプク」である。

民話の語りを聴きながら、2月16日に見たNHK[鶴瓶の家族に乾杯]が頭に浮かんだ。民話の里の遠野市で、小学1年生だったかが「豆腐とこんにゃく」を披露した。こんにゃくに方言の「こんにゃ(今夜)食う」を引っかけた笑い話だ。

棚から落ちて大けがをした豆腐をこんにゃくが見舞う。「お前はなんぼ棚から落ちてもけがすることがないからいいな」。豆腐がこんにゃくをうらやましがる。すると、「いやいや、おれだって生きたそらねえ」。こんにゃくが言う。「ほだって、毎日『今夜食う(こんにゃくう)、今夜食う』って言われるもの、生きたそらねえべや」

それはそうだ。「こんにゃ=今夜」の方言世界に暮らした者には、こんにゃくの言い分がよく分かる。

民話は土地の精霊が生み出した方言に徹するのがいいのではないか。なまじよその人にも分かってもらおうと、共通語に近い「方言もどき」にすれば味わいは失われる。土地の精霊だってあきれて逃げて行く。そんなことを考えながら、しかし、これは民話に限らない話だぞと思った。

観光でもなんでも本物のローカルを磨きあげることだ。地域はそれでいっそう輝きを増す。

2009年2月27日金曜日

ウグイスの初音を聞く


夏井川の岸辺でもほんのり春の気配が感じられるようになった。曇天の朝、河原のヤナギの芽鱗が赤みを増し、白い“水滴”をいっぱい付けていた。よくよく見ると、“水滴”は小さな銀ねず色のつぼみだった=写真。芽鱗を脱ぎ捨てたのだ。

夏井川のこちら側、平中神谷は堤防の内側に国道6号とJR常磐線が走る。ほぼ透き間なく家が立ち並んでいる。あちら側、平山崎は水田の広がる農村地帯。背後に小高い丘が連なる。その対岸からきのう(2月26日)、ウグイスの谷渡り(「ケキョ、ケキョ、ケキョ」)が聞こえて来た。と、すぐ「ホー、ホケキョ」。今年の初音だ。

2月中に初音を聞くのは何年ぶりだろう。東北で一番早く春が訪れるいわき市とはいえ、ウグイスがさえずり始めるのはおおむね3月になってから。昨年はこちら側の同じ場所で3月7日に初音をきいた。小名浜測候所の職員が目を凝らし、耳を澄ませて記録してきた「生物季節観測」結果によれば、小名浜でのウグイス初鳴日は、昨年は3月9日だった。

小名浜測候所での記録をならすと、いわき(小名浜)でのウグイス初鳴の平年値は3月17日である。去年秋、測候所は無人化されたから、「生物季節観測」は市民がそれぞれ個人的に実施していくほかない。いずれにしても、春は早まり、秋は遅くまで滞留している、といった印象が強まっている。

近所の庭木にも春がきざしてきた。アカメヤナギは早くからつぼみを膨らませ、蕊が立ち上がってきた。そばのジンチョウゲも赤く小さなつぼみが開いて白い花をのぞかせている。強烈な香りを漂わせるのも近いだろう。

ともかくウグイスの初音である。寒い空気の層が1枚めくれて、そこに明るい空気の層が入り込んできたな、と感じる。

2009年2月26日木曜日

「左助」、ついに合流


きのう(2月25日)早朝、夏井川の堤防で久しぶりにMさんと話をした。Mさんは毎朝、ハクチョウにえさをやっている。その帰り道、私と出くわすと軽トラを止めてひとことふたこと、ハクチョウ情報を伝えていく。

「『左助』がようやくみんなと合流した」。表情を緩めながら教えてくれた。「いつですか」「うーんと、おとといかな」。今週の月曜日(2月23日)か。

そういえば、月曜日の夕方、朝とは逆コースで散歩をしていると、残留コハクチョウの「左助」と「左吉」の2羽がサケのヤナのすぐ下流にいて、今にも水没しているヤナを乗り越えそうな気配だった。あれから「よっこらせ」とヤナを越えて、少し上流(平・塩地内)にいる仲間のところへたどり着いたのだろう。

Mさんと別れたあと、塩の大集団を双眼鏡でチェックした。コンクリートブロックの護岸に立つと、えさをくれる人間だと思ってか、一斉にこちらへ向かって来る。えさをくれそうにもないと分かるとすぐUターンする。なんて現金なやつらだ。「パブロフの白鳥」ではないか。

そのとき撮ったのが上に掲載した写真だ。中州の左端にいるのが「左吉」、その隣でべたっと座り込んでいるのが「左助」。周囲の小さい鳥はカモメの仲間。

夏井川では、上流から小川町・三島、平・平窪、平・塩~中神谷地内の3カ所でハクチョウが越冬する。わが散歩コースはちょうど塩~中神谷の越冬地と重なる。

中神谷の夏井川には秋と冬の間、サケを捕獲するためのヤナが設けられる。ヤナが設けられる辺りを、翼をけがして北へ帰れなくなった4羽のコハクチョウが行ったり来たりしていて、Mさんが1年中彼らの世話をしている。

残留コハクチョウは古い順から「左助」「左吉」「左七」と名づけられた。昨年加わった「さくら」は、仲間が戻って来た秋には飛べるようになって姿を消した。「左七」も仲間にまぎれこんで分からなくなった。Mさんの話では「さくら」もここにいる。

孤独癖のある「左助」とのんびり屋の「左吉」が、今シーズンはどういうわけかヤナの下流の中神谷字調練場にとどまり、ヤナの上流、300~400メートルのところでにぎやかにしている仲間のところへは行こうともしない。かえってオオハクチョウの幼鳥など20~40羽を引き寄せる呼び水になった。 

Mさんは、できればえさやりを1カ所で済ませたい。ところが、「左助」らがそんな調子だから調練場でえさをやり、塩の越冬地でえさをやり、「左助」と「左吉」の姿が見えなければ軽トラで河口の方まで探しに行き、と人知れず苦労を重ねてきた。

約200羽の大集団に合流した「左助」は、数十羽のときと違った行動を取るのだという。「パン屑なんか見向きもしなかったのが、争って食べてんだ。群集心理が働くんだべね」とMさん。

いずれにしても北へ帰る時期が近づいている。別れの挨拶を兼ねてしばし一緒に過ごす気になったのだろう、と勝手に解釈することにした。(その通りだったかもしれない。けさ=2月26日=見たら、「左助」と「左吉」は調練場に戻っていた)

2009年2月25日水曜日

井上靖の散文詩


この欄もきょう(2月25日)から2年目。引き続きみなさんへの感謝と自戒を胸に書き続けていきたいと思いますので、よろしくお願いします。というわけで――。

井上靖は大作家だから敬遠してきた。しかし、散文詩の書き手でもある。こちらは、いつかは読んでみたい、という気持ちがあった。いわきの作家・故草野比佐男さんが日本農業新聞に「くらしの花實」を連載し、460回目に井上靖の散文詩「十月の詩」を取り上げた。

詩集『北國』所収。短い4つの文で3連を構成している。文としては「起承転結」、連としては「ま・さ・お」だ。「くらしの花實」では「まくら」をピックアップし、解説のなかで「さわり」と「おち」の文章を紹介した。次がその全文。

<はるか南の珊瑚礁の中で、今年何番目かの颱風の子供たちが孵化しています。/やがて彼等は、石灰質の砲身から北に向って発射されるでしょう。/そのころ、日本列島はおおむね月明です。刻一刻秋は深まり、どこかで、謙譲という文字を少年が書いています。>

スケールの大きなイマジネーションが胸に響く。で、いわき総合図書館にある限りの井上靖詩集を借りて来て読んだ。奇をてらうわけではない。日常をうたい、遠い過去に思いを寄せ、自分の青春を振り返り、戦死した仲間を引き寄せる。深い諦念の愛に包まれて心が洗われる。そんな感覚に襲われた。

その中でも、われら庶民と同じ日常の断片をえがいたものがある。2月13日のこの欄で、酔っぱらいにとっては百円ライターは天下の回り物、と書いた。酔っぱらいでなくても100円ライターは天下の回り物だった。「ライター」という詩。

<そろそろ百円ライターの点火(つき)が悪くなったと思っていると、頃合でも見はからったように、そいつは姿を消し、別のライターに替っている。買い替えたわけではない。古い奴は家出し、誰かが忘れて行った新しいのが、そのあとがまに坐っているのだ。二つのライターの交替たるや鮮やかだ。>

これを詩の前半に据え、後半では早春の陽光が失踪した冬に替わり、自分の心の内部でもまた気持ちの交代が行われ、<やりかけの仕事の全部を、明るい春の庭で焚いてしまいたい烈しいものが、昨日までのおだやかな思いに取って替っている>と書く。こういう、家出・失踪とたたみかけて焼却へと転がす流れは見事というほかない。

シルクロードの旅ばかりでなく、日常の些事に目を留め、心を寄せて、文字に凝縮する。それは一日の終わりの夕暮れ=写真=だったり、孫のしぐさだったり、ある人の死だったりする。揮発する日常は記録されることであとから来る者の栄養になる。砂漠からやって来た旅人が最初に飲む水のように、言葉が汚れたと思ったら井上靖の散文詩を読もう。

2009年2月24日火曜日

注がれた愛情


いわき市暮らしの伝承郷で企画展「注がれた愛情――お雛様と子どもの着物展」が開かれている=写真。市民から伝承郷に寄贈された雛人形約30組と、「宮参り」や「七五三」などの晴れ着、日常着の子どもの着物約100点が展示されている。3月22日まで。

わが兄弟は女が一番年上の姉1人、わが子は2人とも男。明るく華やかな緋毛氈(ひもうせん)の世界とは無縁できた。小さいころ、近所の幼なじみの家に招かれ、雛飾りの前で何か甘酒のようなものを飲んだ記憶があるが、定かではない。端午の節句に関してはかやぶき屋根のショウブの葉と、湯に浸かったときのショウブの甘い匂いを覚えている。

「お七夜の献立と贈り物の一例」という小パネルに興味をそそられた。昭和25(1950)年2月に生まれた男児のお七夜に親戚や産婆さんを招いて祝った記録である。親が書き残しておいたのだろう。

まず、献立。おふかし・吸い物(鶏肉・ナルト)・煮しめ・なます・ひやし豆・魚(頭付き)・タコの刺し身・ホウレン草のおひたし・茶菓子(生菓子)・ミカンの10品が並ぶ。質素でも豪華でもないがやや上等の献立、という印象を受けた。

おそらく献立は今つくっても大差ないだろう。が、贈り物は時代を反映する。リンゴ・ベビー服・反物・帽子・着物綿入れ・白米3升・セルロイド玩具といったモノ、200円、100円、500円といったお金が30軒前後の親戚から寄せられた。敗戦から4年半、やっと世情が落ち着き、生産活動も上向きつつある時代。これだけ愛情を注がれた男児はきっと幸せに育ったに違いない。

父母、祖父母、親戚、そして地域の住民から愛情を注がれて子どもは育つ。その記憶が子どもの宝になる。ときには孤独を強いられる人生の支えになる。「愛された」という記憶があれば、人は決して最後の一線を踏み外さない。そんな意味のことを池波正太郎は「鬼平犯科帳」や「仕掛人藤枝梅安」で書いている。

それが現代ではほころびを起こしつつあるように感じる。親にしてみれば「注ぐ愛情」だが、子どもにしてみれば「注がれた愛情」である。「愛された」という子どもの記憶が細ってきているようなのだ。親はシャワーのごとく愛情を注ぎたまえ。おばさんたちでいっぱいの華やかな会場の隅っこで、そんなことを思った。

2009年2月23日月曜日

ようやくヒヨドリ来襲


夏井川渓谷(いわき市小川町)に「梅前線」が到着した。無量庵と道路との境に梅の木が植わってある。花が数輪咲いているのに気づいたのは、先の日曜日(2月15日)。この日、「葉ボタン」状の畑の白菜にもヒヨドリがやって来た。葉の食害は想定済みなのに、今年は1月後半になっても現れない。ようやく2月中旬になって来襲した。

もちろん、ヒヨドリの来襲を待ちわびていたわけではない。必ず来て食害するから、「どうぞ、お食べください」と気持ちを切り替えて、精神の安定を保つことにした。すると、来ない。来ないと気になる。暖冬で雪もない。えさに不自由しなかったのだろう。

葉をついばみ始めたら早い。やわらかい内側の葉っぱから同心円状につついては、置き土産にフンを落としていく=写真。白い球果あり、紺色の球果あり。近所の家の庭で草木の実をついばんだあと、畑に現れたのに違いない。

きのう(2月22日)もまた、ヒヨドリが畑の付近を飛び交っていた。人間が姿を見せると一声鳴いてすばやく近くの木に飛び移る。姿を消すと舞い降りる。観察力は鳥の方が勝っている。

1週間前は気温が上がり、ウラギンシジミと思われるチョウもヒラヒラ飛んでいた。冬も終わりに近づき、春が駆け足でやって来るかと思ったら、この寒さだ。無量庵の対岸の「木守の滝」にしぶき氷ができた。しかし、小さく薄く透けて見えるから、ひところほどの冷え込みではない。

寒暖を繰り返して気温は徐々に右肩上がりになっていく。足踏みしている春も歩きだすごとに木々をやさしくなでる。マンサクの花はまだだが、岸辺のネコヤナギは銀ねず色のつぼみをいっぱいつけていた。「梅前線」の次に夏井川渓谷に到着するのは「ヤブツバキ前線」か。いや、もう来ているかもしれないぞ。

2009年2月22日日曜日

阿寒・満直・雨情


月に1回、いわき湯本温泉の「野口雨情記念湯本温泉童謡館」でおしゃべりをする。そのための材料集めをしていると、新しい興味・関心がわいて横道にそれ、本筋の調べが追いつかなくなるときがある。たとえば、童謡、金子みすゞ、雨情……。そこから山村暮鳥、猪狩満直、関寛斎へと転がって、頭の中がいわきと北海道でごちゃごちゃになる。

乾浩さんの小説『斗満(とまむ)の河 関寛斎伝』を読んで、いわきの戊申戦争とも関係する蘭方医関寛斎の北海道開拓時代を知った。すると、いわきの詩人猪狩満直の北海道開拓時代が気になって、手元の資料をぱらぱらやってしまう。

明治の寛斎と昭和の満直では、時代は重ならない。が、距離的に近いところで大地と格闘していた。寛斎は北西の方から、満直は南の方から雌阿寒岳を眺めながら生活した。いや雌阿寒岳から見られていた、という点では共通する。で、「阿寒」が1つのキーワードになる。そこに、今度は雨情の詩碑がからむ。

雌阿寒岳と雄阿寒岳のふもとの阿寒湖畔に平成17(2005)年11月、雨情の詩碑が建立された。ざっと100年前の明治40~42年に北海道で新聞記者生活を送った雨情は、昭和15(1940)年夏に北海道の各地を巡る。阿寒では7・7・7・5調の連詩をものした。その1つ。「遠く雄阿寒 群立つ雲は 釧路平野の 雨となる」が碑に刻まれているという。

満直にも北海道に詩碑がある。猪狩満直生誕100周年を記念して、いわきの市民有志が平成10(1998)年10月、当時阿寒郡阿寒町(現釧路市)の農村公園内に詩碑を建立した。満直の代表的な詩集『移住民』から「種選り」が刻まれた。

その3年半後には、いわき市暮らしの伝承郷に移設された猪狩家(満直生家)の前庭に「帰郷」と題する満直の詩碑が立った=写真。いわき市と阿寒町と、満直を介して響き合う関係を築こう、という願いを込めての詩碑建立だった。

さて、ここまでからまってくると、別のアイデアもわいてくる。乾浩さんにぜひ、北海道開拓時代の満直に光を当ててほしい、そして、たとえば『阿寒の原野 猪狩満直伝』なるタイトルの小説を書いてほしい――と思うのだ。駄目だろうか。

2009年2月21日土曜日

「トトロの家」のよう


知人の親の家が解体されることになった。築50年前後、空き家になってからでもかなりの時間がたつ。必要なものはあらかた運び出してある。残った本なり家具なり、ごみとして出す前に見てよかったらどうぞ――。そんな連絡が入った。

リサイクル業者ではもちろんない。が、カミサンが古着のリサイクル団体に所属し、別のルートでリサイクルの食器類を必要とする個人も知っている。ということで、声がかかれば見に行く。私が欲しいと思うものは当然、ことわっていただく。自然・人文・社会科学なんでも可で、辞書や事典、専門書が多い。

その家は旧城下町(近世)より古い、旧・旧城下町(中世)のはずれにあった。平屋で和洋折衷、広いリビングルームには暖炉もある。持ち主は炭鉱関係の技術者だった。狭い通りからさえ遠く離れた林に沈んでいる家、いわば「トトロの家」のような印象を受けた=写真

もとは農地ではなかったろうか。家の前に小さな農業用水路があり、家の裏には川が流れている。川と家との間には孟宗竹と木々が茂っている。冬の防風とブラインドを兼ねた林だ。林のわきには畑もある。

車を前提にした今の社会から見たら、<こんなところに>と口をあんぐりしてしまう不便な場所だ。そこだけ時間が止まっている。「トトロの家」でなければ、「剣客商売」の老剣客・秋山小兵衛とおはるの住む鐘ケ淵の「隠宅」を林の中に移した感じ。

「別荘」と言った方がふさわしいが、家族が泣き笑いしながら過ごした立派な生活の拠点だ。昔は歩いてバスや車が往来する通りまで出た。それが普通だったのだろう。そんなはじっこにある家だから道が狭い。途中から車をバックさせながら狭い橋を渡って家の庭に入った。

「トトロの家」はやがてログハウスに生まれ変わるらしい。ということは、本当の別荘か隠宅になるのだ。街から遠く離れた森や海辺に隠れ家を求めるのは、よくあること。町の一角でも、場所によっては立派な隠れ家ができる。遠い近いではない。やすらげるかどうか。やすらげる空間なのだろう。

2009年2月20日金曜日

再びいわき公園へ


いわきニュータウン内にある福島県立いわき公園は、福島県内では最大級の規模だという。先日、初めて足を踏み入れた。1回だけではその広さ、全体像がつかめない。カミサンが企画展の準備手伝いで公園内のいわき市暮らしの伝承郷へ通ったのを機に、アッシー君を兼ねて公園を巡った。

公園は暮らしの伝承郷を除き、大きく5つに分けられる。メーンエントランスゾーン、アミューズメントゾーン、遊びのゾーン、スポーツゾーン、そして林間アドベンチャーゾーンだ。林間アドベンチャーゾーンを主に、歩いた。

最初に足を踏み入れたのは谷底の堤を一周するピクニックゾーン。アスファルト舗装の遊歩道が続く。歩きにくい道だということを前に書いた。作業用の軽トラが走っていたから、それも考慮してのことだろう。2回目以降は別の道から林間アドベンチャーゾーンに入った。ピクニックゾーンと違って、遊歩道にはチップが敷き詰められている。心地いい。

谷の上空に架かる「森のわくわく橋」はちょいとスリリングだった。橋の長さ約166メートル。世界で初めて採用された「外ケーブル併用吊り床橋」だという。歩行者専用橋で、林間アドベンチャーゾーン側のニュータウン住人の生活橋にもなっている。強風が吹いていたが、揺れはほとんど感じなかった。耐風安定性に優れている。

林間アドベンチャーゾーンは2つの点で気に入った。ところどころ樹木に名札が付いている。で、クスノキとタブノキ(イヌグス)、ウワミズザクラとイヌザクラの違いが分かった。ムラサキシキブの冬芽、キブシのつぼみも目に焼き付けた。樹木の学習ができる。そして、野鳥の写真も撮れる。これがよかった。

メジロやヤマガラはスズメより小さいから、150ミリ程度のレンズでは米粒程度にしか映らない。はなから撮るのをあきらめていた。ところが、林間アドベンチャーゾーンでは2、3メートル先の木の枝とか草むらに現れる。しかも、すぐには逃げない。シャッターを押すチャンスがある。

留鳥のヤマガラ、冬鳥のジョウビタキの雌、漂鳥のルリビタキの雄=写真=と雌を初めてカメラに収めた。キジバトも至近距離で撮影した。カルガモのように大きい水鳥だけでなく、コゲラやシロハラ、アカハラといった鳥も、満足のいく出来栄えではないが撮ることができた。

冬芽や葉痕、樹肌(皮目=ひもく)などで樹種を調べる。葉が落ちて見通しのよい冬場に野鳥をウオッチングする。テーマを絞って踏み込めば、いわき公園は結構楽しいところだと、認識を新たにした。ついでながら、暮らしの伝承郷の企画展「注がれた愛情――お雛様と子どもの着物展」はあす(2月21日)、開幕する。

2009年2月19日木曜日

夏井川河口開削工事


ギリシャ神話に「シジフォスの岩」がある。一般には「シジフォス(シシュポス)の神話」として知られる。アルベール・カミュの評論「シジフォスの神話」で初めて知った、という人が多いのではないか。かくいう私もそうだ。

シジフォスは、告げ口・誘拐・近親婚・策略などが渦巻く神々の世界でゼウスの怒りに触れ、罰として地獄で巨大な岩を山頂まで押し上げることを命じられる。あと少しで山頂に着くというときに、岩は下まで転げ落ちる。シジフォスはまた下から岩を押し上げなければならない。すると、岩はまた山頂から転げ落ちる。この、終わりのない苦役。

「シジフォスの岩」は「徒労」を意味するという。無益で希望のない労働、絶望的状況などのたとえにも使われる。なぜこの話を持ち出したかというと、夏井川河口の開削工事に「シジフォスの神話」が重なって仕方がないからだ。

先日、夏井川河口へ行ったら閉塞部で黄色いバックホーとブルドーザー、ダンプカーが稼働していた=写真。太平洋を背にバックホーが砂をすくい上げ、ダンプカーがそれを「池」に埋める。ブルドーザーが同じく砂を「池」に押しやる。横に広がった「池」に浚渫した砂を捨てて、川の水がまっすぐ海へ流れるようにしようというわけか。

開削工事の発注者は福島県いわき建設事務所。昔から夏井川は河口閉塞と無縁ではなかった。が、こんなに開削工事をしなければならなくなったのは、ここ最近のことだろう。夏井川自身に、寄せてくる海の波をはねのける排泄能力がなくなった。山が荒れ、ダムができ、人工海水浴場ができた。そんなことが絡んでいるのではないか、という人もいる。

今度の開削工事費用は、落札結果を見る限りでは500万円弱らしい。工事をするたびに500万円前後が砂に消え、海に飲み込まれていく、ということだ。人間がつくった「シジフォスの砂」である。

2009年2月18日水曜日

専称寺の梅の花が見える


いわき市平山崎の小高い丘に専称寺がある。かつては浄土宗名越派総本山の大寺院だった。山裾を、新川を飲み込んだばかりの夏井川が右に蛇行していく。そこも修行の場だった。山号の「梅福山」にちなんで、旧平市時代に梅の木が植えられた。その数ざっと500本。今は「名越派総本山」としてよりも「梅の名所」として知られる。

先日、ふもとの参道入り口に立つ石柱の文字を初めて読んだ。向かって右の石柱には「奧州總本山専稱寺」、左の石柱には「名越檀林傳宗道場」と刻まれてある。専称寺は浄土宗名越派の元締めで大学も運営していた――というところだろう。

この大学で学んだ高僧・名僧は数多い。名越派を研究する知人らの論文で知った中で記憶に残るのは、江戸時代前期の無能上人(1683―1718年)と貞伝上人(1690―1731年)。それに、私もいささか研究のまねごとをしている幕末の良導悦応上人こと俳僧一具庵一具(1781―1853年)だ。一具は出羽に生まれ、専称寺で修行し、俳諧宗匠として江戸で仏俳両道の人生を送った。

無能上人は今の福島県玉川村に生まれた。山形の村山地方と福島の桑折・相馬地方で布教活動を展開し、31歳で入寂するまで日課念仏を怠らなかった。淫欲を断つために自分のイチモツを切断する、「南無阿弥陀仏」を一日10万遍唱える誓いを立てて実行する――そういったラディカルな生き方が浄土への旅立ちを早めたようである。

貞伝上人は津軽の人。今別・本覚寺五世で、遠く北海道・千島のアイヌも上人に帰依したという。そこまで布教に出かけたのだろう。太宰治が「津軽」のなかで貞伝上人について触れている。貞伝上人が忘れ難いのはそれもある。

無能上人は、江戸時代中期には伴嵩蹊が『近世畸人伝』のなかで取り上げるほど知られた存在だった。今は岩波文庫で読むことができる。

行脚中に投宿した、若くハンサムな無能上人に家の娘が一目ぼれする。夜、忍び込んで後ろから無能上人を抱いたが、寝ずに座ったまま念仏を唱えていた無能上人は――。カゲロウが木を動かそうとするように、カが鉄牛を刺すように徒労に終わった。あとは文庫本で確かめてよ、だ。

朝晩、夏井川の左岸から対岸の専称寺を眺めながら散歩する。無能を、貞伝を、一具をちらりと思うときがある。いや、絶えず誰かを頭に思い浮かべている。

3日ほど前だったか、いつものように堤防の上を歩いていると、ほのかな梅の香りに包まれた。民家の梅の木が満開だった。川向こうの専称寺の山腹も肉眼ではっきり白く見えるほどに梅が開花していた=写真。ふもとと、日当たりのいい庫裏の後ろと。中腹の学寮(学生の学問・宿泊所)跡の梅林はまだだが、去年に比べると随分早い。

去年は春分の日あたりが見ごろだった。今年は2~3週間早く満開になりそうだ、と私はみている。専称寺を眺めながら、そこに蓄積してある四次元の文化に尊崇の念をいだく。檀徒ではないが、気になる寺だからこそ梅の開花にも一喜一憂をする。

2009年2月17日火曜日

夏井川に野焼きの煙が


おととい(2月15日)の日曜日朝、いわき市小川町の国道399号を車で行くと、あちこちから煙が上がっていた。道端には消防車が待機し、すぐそばの小川に人が出て土手の枯れ草を燃やしていた。小川は田んぼの真ん中を流れる夏井川の支流だ。

さらに行くと、夏井川本流の方でも煙が上がっている。夏井川渓谷へ向かう前に、煙の方へ、小川町のメーンストリートへと寄り道をした。小川公民館へ折れる橋のたもとの夏井川でも土手の枯れ草焼きが行われていた=写真。晴天、無風。最高の野焼き日和である。

いわきの平地では春先恒例の行事だ。枯れ草を焼き払うことで草地が林になるのを防ぐ、害虫を焼き殺す――といった、水害と衛生・農業被害予防の効果が期待できる。土手と河川敷の草も灰を得てよみがえる。マスコミはこれを「春を告げる風物詩」と形容する。

廃棄物処理法でいう「野焼き」が禁止されて以来、すべての野焼きがダメなのだと誤解する向きが増えた。たとえば「どんと焼き」、いわき地方でいえば正月の「鳥小屋」行事、家庭の落ち葉焚き、剪定枝の焼却などは、例外として認められている。

水害・農業被害予防ばかりでなく、草木灰を確保する意味もある。そうしたエネルギー循環型の風習・慣例まで否定するいわれは、法律といえどもない。何年か前、全国紙の地方版に野焼きを批判する記事が載った。頭でっかちな記者の勇み足ではないか、と思ったものだ。

ただし野焼きが許されるといっても、それは天然の高分子化合物に限っての話。石油を原料にした人工的な高分子化合物(プラスチック類など)は「野焼き」が禁止されている。家庭ごみだからといって、落ち葉焚きのついでにゴムも合成樹脂も燃やしていいわけではない。

さて、小川町で野焼きが行われた同じ日に、わが平中神谷の夏井川でも野焼きが行われた。きのうの朝、散歩をして分かった。枯れたヨシ原もあらかた黒い灰に変わった。

ほかはどうなっているのか。あとで河口から小川町までの平地をグルッと見て回ったら、先日に行われたところ、日曜日に行われたところと局所的・部分的に野焼きのあとが散見された。枯れヨシを焼く習慣は、いわきでは寡聞にして知らないと前に書いたが、認識不足だった。

平・中平窪、平・塩~中神谷のほか、小川町・三島の夏井川にもコハクチョウが逗留している。日曜日、三島の野焼きは回避された。これまで同様、コハクチョウが北へ帰ったあとに実施される(のだろう)。農の営み同様、緩やかに対処するやわらかさが田舎には残っている。

2009年2月16日月曜日

いわき公園のニワトコ


福島県立いわき公園。いつか歩いてみたいと思っていた、いわきニュータウン内の「里山」だ。一角に「いわき市暮らしの伝承郷」がある。そこへ用事のできたカミサンを車で送り届けたあと、公園に入った。

案内標識に従って「林間アドベンチャーゾーン」の遊歩道を歩く。遊歩道はアスファルト舗装がなされている。街の中の歩道と変わりがない。歩くたびに着地したときの衝撃が脳天に響く。靴底が硬いのだろう。

フラワーセンターのある石森山も人の手が入っている。が、基本的に遊歩道は土のまま。夏井川渓谷は腐葉土の遊歩道だ。適度に弾力があるので、歩いていてもかかとの衝撃が吸収されて脳天に響くことはない。心地がいい。

ま、それはともかく「いわき公園」は広い。大きい。すり鉢の底に横たわる「神下(かのり)堤」を巡るようにして戻った。ケータイの万歩計でおよそ7,000歩、時間にして2時間弱。それすら「林間アドベンチャーゾーン」の一部でしかない。さすがは県立、大規模な公園ではある。

ウイークデーの午後だというのに、ウオーカーがかなりいた。石森山の遊歩道ではほとんど人に会ったことがない。夏井川渓谷の遊歩道では年に1、2回、キノコ採りの人間と遭遇する程度。ニュータウンの住人なのだろう。ニュータウンは広いから、車でやって来るウオーカーもいるようだ。

みんな歩くことに専念している。ここは「里山」の装いをしているが、都市公園と同じではないか。そんな疑問に襲われる。カントリーボーイにはちょっと違和感がある。カメラをぶら下げてあっちにふらり、こっちにふらり、では不審者に近い。

私は鳥獣虫魚と草木・菌類に関心がある。きょろきょろしながら行くから、どうしても歩みが遅くなる。それで、ニワトコの葉が開き始め、カリフラワーのような緑色のつぼみがのぞいている=写真=のが分かった。

堤にはカルガモが、オオバンが、アオサギが、キンクロハジロがいた。ウグイスも岸辺の裸木をちょんちょんと移動していた。さえずりは聞かれなかった。カルガモは、ここでは人間に対する警戒心が薄い。ウオーカーと接する機会が多くて、人間はちょっかいを出さないことを学習したのだろう。

駐車場に「公園内の植物の採取禁止(山菜 きのこ サカキ 花 樹木 等)」の立て札があった。この「里山」は管理された公園だった。

2009年2月15日日曜日

須賀川の曲がりネギを食べる


田村市の実家へ帰った折、お土産にたくわん・キュウリの古漬け・須賀川の曲がりネギ=写真=などをもらった。実家の近くのスーパーで曲がりネギも買った。

スーパーで買った曲がりネギは郡山産だという。葉先がカットされ、皮がむかれてややしわしわだ。「阿久津曲がりネギ」だろう。いわきでも買って食べたことがある。須賀川の曲がりネギは別名「えびネギ」と呼ばれる「源吾ネギ」か。土付き、枯れた葉先付き。カットも、皮むきもしていない。畑から取れたばかりのものをもらったらしい。

「阿久津曲がりネギ」は白根も青い葉も甘く、やわらかく、とろみがある。それについては前に書いた。須賀川の曲がりネギはどうか。いつものようにジャガイモとネギの味噌汁にした。甘い。やわらかい。風味もある。とろみは、「阿久津曲がりネギ」ほど濃厚ではない。さっぱりしている。

甘く、やわらかいネギの種子は市販もされている。いわき市平中神谷のわが住まいの近く、といっても1キロ余離れた所に住む知人から、先だって長ネギをもらった。もともとがネギの産地として知られている旧神谷村の旧家だ。「昔からの『神谷ネギ』か」と聞けば市販のネギで、種を採って栽培を続けているという話だった。

私が栽培している「三春ネギ」も甘く、やわらかく、香りが高い。私は、「三春ネギ」は「阿久津曲がりネギ」と同じ「加賀群」で、「阿久津曲がりネギ」の親類だとみている。須賀川の曲がりネギが「源吾ネギ」だとしたら、こちらは「千住群」でやや異なる。とはいえ、食味・風味では遜色がないのだから、どちらも「マル」だ。                               
普通に売られている、太くて立派な「一本ネギ」は味もそっけもないので、今はほとんど食べない。地ネギが手に入らなくなったとき、仕方なく買う程度だ。ネギは言うまでもなく、甘みとやわらかさと香りがイノチ。そこから地ネギを見直してみてもいいのではないか、という思いがずっとある。

2009年2月14日土曜日

レース鳩の末路


2月初めのことである。夏井川渓谷(いわき市小川町)からの帰りに、ついでだからと平市街にほど近い石森山へ寄った。遊歩道に足を踏み入れるやいなや、森の奥へ飛び去る大きな鳥がいた。

遊歩道に沿ってせせらぎが流れている。そこで水を飲んでいた?なんてことはありえない。獲物を捕らえて食事をしていたのではないか。目を凝らすと、せせらぎに鳥の羽がいっぱい引っかかっている。その上流、水際に羽が散乱し、中央に両翼をたたんだ状態で絶命している鳥がいた。すでに上半身は食べられてない。

左足にみかん色の足環、右足に紺色のチップが付いている。レース鳩だ。すると、飛び去った鳥はオオタカか。空中でレース鳩を捕らえ、せせらぎに舞い降りて食事中だったのだ。人間がやって来たためにやむなく獲物を放棄した、というところだろう。

実はその日、夏井川渓谷の遊歩道にも鳥の羽が散乱していた=写真。こちらはきれいに食べられたあとらしく、翼も足も残っていなかった。小鳥らしい。捕食者はタカの仲間と思われるが、よくは分からない。

レース鳩と言えば、18年前の秋のことを思い出す。降りしきる雨の中、双葉郡川内村からいわき市へ入る山岳ルート(国道399号)を車で走行中、一番高い峠で衰弱していたレース鳩を保護した。足環から茨城県日立市の飼い主と連絡が取れた。翌々日には鳩を引き取りに来たが、あまりに遠距離だと「そちらで処分してくれ」となるのだとか。

このとき、飼い主は人を介して青森県の南端から78羽のレース鳩を放した。早いのでは4時間後に鳩舎へ戻った。結局、18羽が帰らずじまいだった。私が保護したときは放鳥から丸4日たっていた。若鳥のためにいきなりの遠距離レースは無理だった、ということである。

猛禽に襲われる。衰弱して地面に降り立てば獣に襲われる。レース鳩は人間の都合で過酷な運命を背負わされた。

石森山でオオタカのえじきになったレース鳩はその後どうなったか。翌日確かめに行ったら、むしりとられた羽以外は影も形もなかった。オオタカが舞い戻ったか、血のにおいをかぎつけて獣が現れたか。せせらぎとは反対側の遊歩道の草が一部、血で染まっていた。イタチかテンが持ち去ったに違いない。ときどき森はちらりと鮮烈なドラマを見せる。

2009年2月13日金曜日

もらいもの


仕事で知り合った人がマンションを引き払うことになった。古着や台所の食器、ベランダのベンチなど、不用品がいっぱい出た。「どうですか」という。あらかた引き取ることにした。自転車も譲り受けた。

古着はいわきのNPO法人「ザ・ピープル」に出せばリサイクルが可能だ。食器も新しくリサイクルカフェを開くので欲しいという人がいる。すぐ、そちらへ回した。

コーヒーミル、かつお節削り器、梅漬け用の甕、いす、自転車タイヤの空気入れ、風呂のかき回し棒、火ばしのほか、かけや、ミニショベル、ハンドスプレー、三本熊手、剪定ばさみといった園芸用具=写真、将棋盤のように厚い鉢物の木の盆、レンガ、アロエの鉢などもあった。

コーヒーミルとかつお節削り器、甕はわが家の台所に収まった。アロエの鉢は軒下に置いた。園芸用具は夏井川渓谷の無量庵へ運んだ。たいていの道具はそろっているのだが、夫婦が野菜と花とばらばらに土いじりをするときがある。だぶってあっても邪魔にはならない。

タイヤの空気入れはとりわけありがたかった。ホームセンターへ買いに行かなくては、と思っていた矢先に、手に入った。ネコ(一輪車)のタイヤの空気が抜けて運搬の用をなさなくなっている。これで、秋に刈ったまま放置してある枯れ草を集めて堆肥枠に入れることができる。車に積んでおけば自転車にも使える。

カネは天下の回り物。飲み屋で酔っぱらいがよく忘れる100円ライターとコウモリ傘も天下の回り物。ライターはすぐ次の人へリレーされ、コウモリ傘はやがて不意の雨のときに生かされる。 生活用具もまたコーディネーターがいれば天下の回り物になる。
要る人と要らない人をどうつなぐか。たまたま今回は要る団体と人がいて、右に左にさばけた。リサイクルビジネスまでいかなくとも、要と不要をつなぐ「情報交差点」があってもいいかな、なんて思った。「ザ・ピープル」はその点、見事に古着活用の道を確立している。

2009年2月12日木曜日

昭和30年代の冬の夏井川


いわき総合図書館内の「愚庵文庫」を目で漁っていたら、草野悟郎さんのエッセー集『百合』が引っかかった。新書版で、奥付に非売品、昭和37(1962)年2月発行とある。通称「ゴロー先生」。詩人草野心平のいとこで、当時、平二中の校長を務めていた。生徒会誌や新聞などに発表した文章が収録されている。

なかに<早春幻想>と題された、生徒向けの文章がある。書き出しはこうだ。「今朝も夏井川に氷が流れる。この冬三度目のことである。夏井川に氷の流れる朝は、格別寒さがきびしいのだと人々は云う。たしかに寒い。しかし二月もなかばとなれば、さすがに陽の光がちがう。明るさがちがう。はっきりと目には見えないが、春はもう近くに忍び寄っている」

自然は争わない、調和を保って移っていく。ところが、人間はあせっている、いらいらしている。どんな人間にも花は咲く。生徒諸君、木々や草々の誠実と賢明を学ぼう――というのが文章の趣旨だが、ここでは冒頭の夏井川の氷に絞りたい。

ざっと半世紀前の冬、夏井川=写真=には上流から氷の流れてくることがあった。東北で一番早く春が来るところとはいえ、冬はいちだんと厳しい寒気に包まれる、そんな日々もあったのだ。

今はどうか。流氷を見るなんてことはまず考えられない。この30年余の間でも、夏井川の岸辺が白く凍りつくような厳冬は、2回、いや3回くらいではなかったか。「ゴロー先生」と同じく、平二中学区内の夏井川を毎日見て暮らしている者には、半世紀前の流氷は夢まぼろしに等しい。

今年は暖冬のまま推移した。旧小名浜測候所の梅も2月8日には開花した。いわきに住む気象庁OBが確認した。昨年より7日、平年より10日早い。おととい(2月10日)早朝には夏井川の河川敷で、この春初めてキジの縄張り宣言を聞いた。そろそろウグイスも歌いだす準備に入ることだろう。

2009年2月11日水曜日

不況は細部に宿る


阿武隈の山の町の話だ。世界同時不況のアラシがひなびた里にも吹き荒れていた。いわき市レベルでは、どの企業がどのくらいリストラをしたのか、などということはよく分からない。実態が統計的な数字にかすんでしまう。

去年秋以来、経済に急ブレーキがかかっているのは、いずこも同じ。阿武隈のわがふるさとでは、師走に入ってバタバタと企業が倒産した。某メーカーの子会社でもリストラが始まった。着地点は見えない。もっと厳しい状況が待っているかもしれない、という。

倒産で職を失った人間、リストラで派遣・準社員切りに遭った人間は、分かっているだけで50人余。潜在している失業者も含めると150人くらいはいるのではないか、というのが地元の見方だ。首のつながっている正社員でも操業短縮の憂き目に遭っている。1週間のうち操業するのは3日間だけ、あとは休みだという。未曾有の事態だ。

合併して市になったとはいえ、もともとの町の人口は6,300人強。15歳以上の就労人口はどのくらいか分からない。が、そのなかで50~150人が職を失い、かなりの人数が操業短縮を余儀なくされているとなれば、影響は甚大だ。まさに、不況は細部に宿る。

個々の生活防衛策といってもたかが知れている。それでも手を打たないではいられない。例えば、理髪店。月に1回散髪していた客が1カ月半のサイクルになり、何か行事があるまで待つ――といった風に変わってきた。となれば、スナックだって閑古鳥が鳴く。

しかし、だからこそ「憂きことのなおこの上に積もれかし限りある身の力試さん」(山中鹿之助)という気持ちを持つことも大切になる。ふるさとの山=写真=はそんな人間の慟哭だけではなく、希望と克己を見守っている。

2009年2月10日火曜日

「全力学問」の先輩


例えば、商家のあるじが一日の仕事を終えて趣味の俳諧に興じたり、調べ物をしたりする。これを「余力学問」という。

侍も、寒村の名主も、アフタファイブには「余力学問」にいそしんだ。極端な言い方をすれば、読み書きのできる人間はたいがい発句を詠んだ。江戸時代後期、特に幕末へと近づくほど俳諧は大衆化する。娯楽と交遊を兼ねたものでも、知的好奇心が庶民の間で渦を巻いていた。世間に「余力学問」が浸透していた。

手近な俳諧はともかく、町人学者の本居宣長・木村蒹葭堂・伊能忠敬・山方蟠桃などは「余力学問」の代表選手だろう。

先月(1月)上旬、1年先輩の父君の葬式が執り行われた。通夜が始まる前に式場でしばし先輩と話をした。10代の終わりから先輩の家へ遊びに行っていたから、遺族や親族とも顔なじみである。88歳の母君は達者だった。いつもの温顔で迎えてくれた。

先輩から誰彼の消息を教えられた。同じ1年先輩のEさんは勤めを終えて大学に通っている、という。先生?ではない。「大学生になって国文学を学んでる。若い格好をしてるよ」。驚いた。61歳。「余力学問」ではなくて「全力学問」だ。

学生時代、Eさんとは陸上競技部で一緒だった。一緒に同人雑誌も出した。社会人になってからは風の便りを聞くだけになった。が、今度の「全力学問」はEさんらしい決断だと思った。経済的に許されるなら、若いときにしただろうことを、定年を迎えて実行する。子育てを終え、仕事を終えた今、Eさんの心を突き動かしたのは一生の「宿題」だった。

「団塊の世代」の「長男」であるEさんの気持ちが、「次男」である私にはよく分かる。「少年老い易く学成り難し」だが、今一度学ぶ気持ちが長い伏流水の時間を経てあふれ出てきたのだ。

伊能忠敬は隠居した51歳から測量学の勉強を始めた。「余力学問」から「全力学問」に切り替えた。これである。Eさんにならって少しは「全力学問」の時間を持たないといけないか。夕日に照らされるオオハクチョウ=写真=の若鳥を眺めながら、自問した。

2009年2月9日月曜日

北風吹き荒れる


この週末、インターネットで道に雪がないことを確かめ、ノーマルタイヤで田村市常葉町の実家へ行って来た。

夏井川に沿って阿武隈高地をさかのぼる。いわき市との境の峠を越えて田村郡小野町に入ると、一面の銀世界。道の両側には点々と汚れた雪のかたまりが残っていた。除雪車が出たのだろう。聞けば、冬のアラシになった1月31日にドカ雪が降った。1週間余り前のことである。これだから、早春に車で実家へ行くときにはタイミングが難しい。

ちょうど1年前、中学校の還暦同級会が1泊2日の日程で、磐梯熱海温泉で開かれた。いったんふるさとの神社に集合して祈祷をしてもらうため、前日、列車とバスを乗り継いで実家へ帰った。同級会の翌日は、いわき組数人がワゴン車で駆けつけた同級生の車に便乗して、いわきへ直帰した。

これがマイカーだったら、地元組と一緒に実家へ戻らなくてはならない。それでもよかったのだが、なにか胸騒ぎがした。同級会の翌日、阿武隈高地は大雪に見舞われた。マイカーで行っていたら、チェーンを買って、装着して、と難儀したことだろう。

さて、今年の土曜日(2月7日)午後、車で常葉町内=写真=に入ったあとだ。神社の脇を通り過ぎるときにちらりと見たら、人垣ができていた。1年前の還暦同級会を思い出す。昭和24年生まれ、つまり1年後輩の還暦同級会が行われる、と直感した。祈祷をしてもらったあと、私らがそうしたように磐梯熱海温泉へでも向かうのだろう。いい同級会を!

その翌日のきのう。雪こそ降らなかったものの、阿武隈高地は強風に襲われた。早々と実家を立った。前日とは逆のコースで夏井川に沿って駆け下る。夏井川渓谷の無量庵へ寄ったが、なにかするどころではない。さっさとわが家へ戻った。磐越東線は列車が走っていたものの、ダイヤ通りにはいかないようだった。常磐線は列車の運休が続出した。

阿武隈の山の向こう、田村郡では雪煙が上がった。山のこちら側、いわきの川前では砂煙が上がり、小川町三島の夏井川では水煙が上がった。春の天気は荒れるときつい。

2009年2月8日日曜日

オニグルミの葉痕


冬の夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)を巡る楽しみの1つに、冬芽と葉痕観察がある。何度も書いているが、わが埴生の宿(無量庵)の畑は、午前中は表土が凍ったまま。生ごみを埋めるにしても、しばらくはぶらぶらしているしかない。

で、朝はだいたい森に入ったり、家の前の県道を歩いたりしながら、あれを見たりこれを見たりして過ごす。幼児が体を動かしながら次々と興味・関心を切り替えていくように、途切れることなく見る対象を変えていく。渓流・樹形・野鳥・雲・キノコ・滝……。それらがアドリブの音符となって歌を構成しているような感覚に包まれる。

その中でも見飽きないのが、県道沿いの谷側に1本生えているオニグルミの葉痕だ。葉痕は1つひとつ違う。枝の尖端に頂芽をいただく葉痕は「兜をかぶったミツユビナマケモノ」、その下にある葉痕は「モヒカン刈りの面長プロレスラー」、左右に伸びる枝のすぐ上の葉痕は「目覚めたばかりのヒツジ」=写真

葉痕だから直径は1センチにも満たない。意識してみなければ、それとは分からない。見れば、その輪郭がサルやヒツジ、ときにヒトの顔の輪郭とだぶる。その輪郭の中に散りばめられた維管束痕が哺乳類の目・鼻・口を連想させる。なんとなくとぼけた味が漂う「温顔」がいい。皮肉家もフフッと口元を緩めるに違いない。

当然、オニグルミ以外にもさまざまな形の葉痕がある。フジは困って眉を寄せた肥満顔。アジサイは長い頭巾をかぶった三角顔。ナンテンは三角錐だ。パンダ顔のクズ。下向きの冬芽の上に仏の顔を浮かべたシダレザクラ。サンショウは十字架を背負った殉教者のよう。

葉が開き、花が咲いているときにはさっぱり識別できなかった木も、冬に葉痕で特定できる場合がある。恋する人の名前を知りたいためにあの手この手を使うのと似る。冬はルーペが欠かせない。

2009年2月7日土曜日

「調練場」の字名の由来


会社から自宅に仕事場が変わって以来、少しずつ地域(いわき市平中神谷)のことが気になりだした。「会社人間」から「社会人間」になった、などとはまだまだ言えない。が、移り住んで30年余。初めてじっくり地域の歴史に目を向けるようになった。単純な話、この地の夏井川で越冬するコハクチョウへの関心から、そんな気持ちが生まれたのだ。
 
「南・北鳥沼」という地名が足元を掘るエンジン役になった。いまだに中神谷の地名と実際の場所が一致しない。コハクチョウを介して少しずつ分かってきた、といった感じだろうか。「調練場」という奇妙な字名をもった夏井川の砂地=写真=がある。それもコハクチョウを介して知った。

「調練場」はどうやら江戸時代の地名らしい。藩政時代、磐城平藩を治めていた内藤侯が延岡へ移ったのち、中神谷村は磐城平藩から分かれて笠間藩に組み入れられる。この分領の庶務をとるために神谷陣屋が置かれた。夏井川の河原が陣屋藩士の兵式調練場になり、それがそのまま字名になったと、志賀伝吉著『神谷村誌』にはある。

近代になって誕生した夏井川左岸の旧神谷村のうち、鎌田・塩村は磐城平藩として残り、上神谷村、上・下片寄村は中神谷村同様、切り離されて笠間藩に属した。戊申戦争では最初、中立を保っていた神谷陣屋だが、それに怒った奥羽越列藩同盟軍に攻められる。となれば、あとは本藩にならって官軍に付くしかない。神谷陣屋は一時、四面楚歌の憂き目をみた。

明治維新後はほかの村と同じく米・麦中心の単純経済だった。明治30(1897)年に常磐線が開通すると、平町はめざましく発展する。神谷村から平町の企業に、官公庁に、国鉄に勤める人間が増えた。やがて炭鉱が栄えると野菜作りも盛んになった。神谷村はいわば「兼業農家」のハシリの地。それで経済的には随分豊かな村になった、ということである。

神谷陣屋の処刑場は中神谷の「川中島」にあった。ここは文字通り、今も夏井川の流れに重なる。「調練場」の少し上流だ。「川中島」の処刑場といい、「調練場」といい、神谷陣屋でも河原は村のはずれの生と死を分かつ場所、川は此岸と彼岸を隔てる境界だった。その歴史を知らずに、朝晩、鳥だ、花だとのどかに歩いていたのだった。

2009年2月6日金曜日

鹿島神と海上の道


鹿島神宮(茨城県)の祭神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)。武の神、航海を守る神、境の神だそうだ。

先日、いわき地域学會の定期総会に先立ち、会員でいわき古代史研究会長の渡辺一雄さんが「鹿島神の北進」というタイトルで記念講演をした=写真。古代、鹿島の地は大和朝廷の東国経営、陸奥開拓の拠点だった。朝廷は8~9世紀にかけて、まつろわぬ荒ぶる神の蝦夷を討伐した。そのルートとして鹿島からの海上の道が想定される、という。

朝廷は武の神である鹿島神をまつり、討伐の成功を祈った。鹿島神とともに北進した結果、福島県の浜通りなどに鹿島神社が多く鎮座するようになった。東北の鹿島神は海からやって来たわけだ。

鹿島信仰は鹿島神宮のある茨城県を中心に、隣接する福島、栃木県などで盛んだという。鹿島神社の数を県別にみると、茨城はダントツの306社、次いで福島74社、栃木47社、宮城29社、千葉20社と続く。

現在、いわき市内には13の鹿島神社が鎮座する。わが生活圏にも立鉾鹿島神社がある。海から夏井川をさかのぼってやって来た、と先人の書物は教える。古代の会津・中通りはというと、鹿島神社は信夫郡の1社のみ。渡辺さんは宮城に河口を持つ阿武隈川をさかのぼって信夫にたどり着いたのだろう、と解説した。こちらも海から川へのルートだ。

さて、そこで想定されるのは海と川を結ぶ「水の道」である。素人はそれだけでほかの道はないと思ってしまう。それが主ルートだったとしても、「水の道」だけでヒト・モノ・文化が往来・伝播したわけではない。当然、「陸の道」もある。そのことを渡辺さんは強調した。いや、1つに絞る(単純化する)のは危険だ、ということを言いたかったのだろう。

河川交通と言っても、いわき市の夏井川の場合はせいぜい平地の小川町止まり。その先は渓谷である。「魚止めの滝」があるように、人間の往来も、物資の運搬も「水の道」から「山の道」に切り替わる。当然、横にそれるルートもあったろう。今もそうだが、人は「たこ足配線」のような道を利用して生活している。

思考もまたそうでありたいものだ。たこ足のように広げたり狭めたり、絡めたりほぐしたりしながら、先へ、あるいは脇へと転がっていく。個人の知などは本人が考えるよりももっと皮相的でしかない、事は単純ではないんだよ――ということを再確認する講演会だった。

2009年2月5日木曜日

アセビ咲く


どうやら夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)の自然も春の目覚めの準備に入ったらしい。無量庵の庭にあるアセビの若木が数輪、花を咲かせていた=写真

アセビはツツジ科の常緑低木。早春(3~4月)、枝先に釣り鐘状の白い花をつける。昔はその花によく似た電球の傘があったように記憶するが、確かではない。ま、それはさておきアセビの花である。2月2日に咲いているのを確認した。少し早過ぎはしないか。

それに刺激を受けて、夏井川渓谷は「籠場の滝」の先まで県道小野・四倉線を歩いた。無量庵の畑や土手のオオイヌノフグリがブルーの小花をつけているのは先刻承知。目当ては木の花だ。マンサクは咲いていないか、アブラチャンはどうか、ヤシャブシは――。今年初めての「木の花探し」である。

「籠場の滝」付近の路上高く、ハンノキが枝を広げている。枝には赤黒い雄花序がいっぱい垂れ下がっている。こちらは冬に開花するから、花が咲いていても驚かない。それ以外の草木はやはりまだまだ冬の眠りに就いていた。庭のアセビはせっかち過ぎた。

でも、日だまりに入るとムンと暖かい空気に包まれた。上昇気流の卵。夏井川渓谷でこの冬初めて体感した暖気だ。「寒さの冬」と「光の春」の綱引きがあちこちで行われている。場所によっては「光の春」が優勢になってきた、ということだろう。

年明けすぐから1個、また1個と、なめるようにして探した無量庵の庭のフキノトウも、だいぶ頭を出してきた。見ればすぐそれと分かる。不思議なのはヒヨドリ。畑の白菜を総攻撃するものと覚悟していたら、まだ葉っぱをつついた形跡がない。周囲にえさが残っているのだろう。

未収穫の白菜は鉢巻きをしなかったので、すっかり「葉ボタン」状になった。芯部の黄色い葉も光合成で緑色に変わった。ただの青物である。それもまた一歩か二歩、春に近づいたあかしだろう。

2009年2月4日水曜日

節分、そして立春


今日(2月4日)は「立春」。「リッシュン」と口にするだけでなんとなくさわやかな気分になる。コハクチョウたちも人間以上に「光の春」を体感しているに違いない。暖冬である。朝晩の飛翔=写真=が頻繁になった。

で、昨晩は「節分」。豆まきをやった。これが、私は嫌でたまらない。やりたくない。やるにしても静かにやりたい。「それではダメだ」とカミサンがいう。

「大きな声で『鬼は外~、福は内~』って言わないと、鬼が入って来るでしょ」「鬼はとっくにいるじゃないか、ここに。それに、オレは慎み深いんだ。囁くだけにする」「ダメ、あんた、男でしょ!」と鬼の形相にはならなかったが、いやはやねじを巻かれてやるしかない。中程度の声を出して「鬼は外~」とやった。

なぜ声を出すのが嫌かと言うと、長男ではないので子どものころから「鬼は外~」をやった経験がない。幼児期の記憶では、私ら次男以下はもっぱら豆を拾って口に入れるだけだった。それが1つ。

もう1つは、ふるさとの町(田村市常葉町)が大火事になったことによる簡素化だ。そのとき小学2年生だったから正確には覚えていないが、大火事の翌年(昭和32=1957=年)から、イワシの絵と「鬼は外、福は内」の文字を書いた紙(はがき大)をしかるべき場所に張って、豆まきを省略するようになった。

この簡素化はおそらく「新生活運動」と関係している。被災による生活再建を支えようという側面もあったに違いない。わが実家では以来、この慣習を守っている。「鬼は外~」を念ずるだけになった。沈黙の節分である。

一方で昔からの伝統を守る家もある。で結婚以来、尻をたたかれながらやってきた。「福ます」にいった豆を入れ、<さあ、やるか>というときに、飼い猫が私の資料にマーキングをした。怒って追いかけたが、猫の足は早い。「鬼は外~」だけでなく「猫は外~」と言ってやる。そのうち、「あんたも外~」といわれるかもしれないが、知ったことではない。

あとでカミサンが「玄関を開けてやった? 開けないと鬼に聞こえないでしょ」というから、「開けなかった」と返すと、あきれて声もなかった。<鬼がかわいそうだ。鬼が泣いてるぞ>と開き直ってさっさと晩酌を始めた。

2009年2月3日火曜日

エノキタケが渓谷の庭に


2月1日は午後から、いわき地域学會の講演会・総会・懇親会が開かれた。日曜日である。いつもだと夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)の無量庵へ出かけてこたつで昼寝をしたり、森に入ったりするのだが、会員なのでそうはいかない。

で、翌日、つまりきのう(2月2日)、無量庵へ車を走らせた。冬の森を巡る目的の1つは何回も書いているが、天然のエノキタケと対面することだ。市販されているモヤシのエノキタケは、食卓にのぼれば食べる。が、あれはエノキタケのまがいもの。天然のエノキタケを写真に撮る、採取する、豆腐汁にして食べる――いつも頭に描いて森に入るのだが、だいたいは空振りに終わる。

渓谷の「木守の滝」はすっかりしぶき氷が解けていた。いったん冷え込んだと思ったが、それは人間の勝手な体感にすぎなかった。たぶん、氷塊を手に入れるのは、今年は無理だろう。

それよりなにより、森の荒れようはかなりのものだった。1月31日の冬のアラシが枯れ木を倒し、枯れ枝をそこら中に吹き飛ばしていた。場所によっては歩きにくいところもあった。いつものコースを往復して帰る。先週まで立っていたサンショウの古木が根っこから倒れていた。立ち枯れ赤松の巨木も梢から徐々に折れ、はがれて、背丈が縮んでいた。

エノキタケは発見できなかった。いつからか、それが当たり前と思うようになった。で、念のために無量庵の庭の周りを巡った。と、藪の中の木の根元にエノキタケが数個、傘を広げていた=写真。何だ、「ヒマラヤよりウラヤマ」ではないか。

こんなことは時々起きる。頭でこうだろうと思って行動すると空振りに終わる。期待しないで足元を巡ると目的のものがある。キノコだからだろうか。そうは思わない。思い込みに支配されてしまうのだ。

一晩、エノキタケを水にひたして傘のごみを取った。今朝、これから豆腐汁をつくる、いやつくってもらって食べる。節分のいい記念になるだろう。

2009年2月2日月曜日

ヨシを刈る人


わが散歩コースである夏井川の堤防の外側(河川敷)にヨシ原の広がっているところがある。ヨシ原のそばにはサイクリングロードが設けられている。冬はおおむねコハクチョウをウオッチングするために堤防の上を、夏は南から渡って来たオオヨシキリのさえずりを聴くために下のサイクリングロードを歩く。

四季を通じてキジが見え隠れし、チョウゲンボウがネズミを狙って上空を旋回している。水辺にはサギ類、そして冬になると現れるコハクチョウ、カモ類。川に接するヨシ原は結構、生き物の多いところだ。

枯れたヨシを材として利用するには、真冬に刈り取りをする。夏の日除けに使う葦簀(よしず)、ヨシの衝立、ヨシ葺き屋根……。ただし、おととしも、去年も夏井川のヨシは放置されたままだった。ところが先日、ヨシ原の一角が刈られてぽっかりすきまができていた。次の日早朝、そこで1人の男性が刈ったヨシを束ねていた。初めて見る光景だ。

葦簀にするのだろうか。だとしても、売るほどの数はつくれまい。運び終えたあと=写真=を見る限り、量的に多くはない。もっと小さいもの、たとえば衝立か、それに類したものか。まさかケーナ(ヨシ笛)をつくるようなことはないだろうな、などと思い巡らしたが分からない。

日本は「豊葦原(とよあしはら)」のクニ。ヨシの広がる湿地と湿気が特徴の島国だ。しかし明治以後、開発が進んで湿地が減り、ヨシ原も減った。琵琶湖に象徴されるように、現在はヨシ原を復活・再生する動きが広まっている。

春の芽吹きを助けるために、冬、枯れヨシを焼き払う伝統を守っているところもある。いわき地方では、堤防の野焼きをしてもヨシ原を焼き払う習慣はない、というより寡聞にして知らない。

いずれにせよ、枯れヨシに昔ながらの「資源」を見いだした人がいた。自然にはたらきかけて人間の生活に生かすウデを持っている人がいた。そのウデを生かしてなにか人間に役立つ新しい用具ができないものか。膨大な「資源」を横目に、ウデを持たない人間はしばし、「考える葦」ではなく「考える足」になって夢想するのだった。

2009年2月1日日曜日

冬のアラシ


きのう(1月31日)は低気圧の影響で朝から激しい雨と風に見舞われた。早朝散歩は当然、取りやめ。土曜朝市への買い出しもパス。これだけ荒れれば中止に決まっている――というわけで、行くのをやめたのだった。

10時すぎにいわき駅前の再開発ビル「ラトブ」内にあるいわき総合図書館へ本を返しに出かけた。

道々、横なぐりの風と雨が木を激しくゆさぶっていた。バス停留所の標識が倒れ、発泡スチロールの箱が路面を走っていた。道路工事などに用いられる円錐形の赤いカラーコーン(塩ビ製)も道路の真ん中に横たわっている。車が減速してすり抜けていた。

家へ帰ったら、カミサンの幼なじみのNさんが来ていた。南相馬市(旧原町市)から常磐線で来るはずの親類が、列車が運休となったのでレンタカーに切り替えた。時間ができたから顔を出したのだそうだ。では、高速道にも影響が出たことだろう。そんな悪天候なのに、午後になるとカミサンが行きたいところがある、という。

いわき市泉町の「アートスペース泉」へ出かけた。旧知の志賀葉月さんの創作人形展初日である(2月11日まで開催)。妖艶な女性の人形の数々に、志賀さんが磨いてきた手技と美への執念を感じた。妖艶さとリアルさとが表裏をなしている。そこまで仕事が深化していることにうなった。

帰りは海岸道路を利用した。海はシケていた。波頭が崩れると、しぶきが強風に散らされ、激しくゆれる白いレースのカーテンのようになる=写真。三角波の「ウサギ」がはねるどころではない。「ウサギ」がまぎれてしまうほどの波の荒れようだ。小名浜で最大瞬間風速29.3メートルを観測した。1月としては過去最高だという。

それでいつも思うのだが、このごろは低気圧が発達して台風のようになる。低気圧が凶暴化しているのだ。低気圧がそうなら、台風はどこまで凶暴化するのか。そんな怖さを感じる。