2009年2月6日金曜日

鹿島神と海上の道


鹿島神宮(茨城県)の祭神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)。武の神、航海を守る神、境の神だそうだ。

先日、いわき地域学會の定期総会に先立ち、会員でいわき古代史研究会長の渡辺一雄さんが「鹿島神の北進」というタイトルで記念講演をした=写真。古代、鹿島の地は大和朝廷の東国経営、陸奥開拓の拠点だった。朝廷は8~9世紀にかけて、まつろわぬ荒ぶる神の蝦夷を討伐した。そのルートとして鹿島からの海上の道が想定される、という。

朝廷は武の神である鹿島神をまつり、討伐の成功を祈った。鹿島神とともに北進した結果、福島県の浜通りなどに鹿島神社が多く鎮座するようになった。東北の鹿島神は海からやって来たわけだ。

鹿島信仰は鹿島神宮のある茨城県を中心に、隣接する福島、栃木県などで盛んだという。鹿島神社の数を県別にみると、茨城はダントツの306社、次いで福島74社、栃木47社、宮城29社、千葉20社と続く。

現在、いわき市内には13の鹿島神社が鎮座する。わが生活圏にも立鉾鹿島神社がある。海から夏井川をさかのぼってやって来た、と先人の書物は教える。古代の会津・中通りはというと、鹿島神社は信夫郡の1社のみ。渡辺さんは宮城に河口を持つ阿武隈川をさかのぼって信夫にたどり着いたのだろう、と解説した。こちらも海から川へのルートだ。

さて、そこで想定されるのは海と川を結ぶ「水の道」である。素人はそれだけでほかの道はないと思ってしまう。それが主ルートだったとしても、「水の道」だけでヒト・モノ・文化が往来・伝播したわけではない。当然、「陸の道」もある。そのことを渡辺さんは強調した。いや、1つに絞る(単純化する)のは危険だ、ということを言いたかったのだろう。

河川交通と言っても、いわき市の夏井川の場合はせいぜい平地の小川町止まり。その先は渓谷である。「魚止めの滝」があるように、人間の往来も、物資の運搬も「水の道」から「山の道」に切り替わる。当然、横にそれるルートもあったろう。今もそうだが、人は「たこ足配線」のような道を利用して生活している。

思考もまたそうでありたいものだ。たこ足のように広げたり狭めたり、絡めたりほぐしたりしながら、先へ、あるいは脇へと転がっていく。個人の知などは本人が考えるよりももっと皮相的でしかない、事は単純ではないんだよ――ということを再確認する講演会だった。

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