2009年2月25日水曜日

井上靖の散文詩


この欄もきょう(2月25日)から2年目。引き続きみなさんへの感謝と自戒を胸に書き続けていきたいと思いますので、よろしくお願いします。というわけで――。

井上靖は大作家だから敬遠してきた。しかし、散文詩の書き手でもある。こちらは、いつかは読んでみたい、という気持ちがあった。いわきの作家・故草野比佐男さんが日本農業新聞に「くらしの花實」を連載し、460回目に井上靖の散文詩「十月の詩」を取り上げた。

詩集『北國』所収。短い4つの文で3連を構成している。文としては「起承転結」、連としては「ま・さ・お」だ。「くらしの花實」では「まくら」をピックアップし、解説のなかで「さわり」と「おち」の文章を紹介した。次がその全文。

<はるか南の珊瑚礁の中で、今年何番目かの颱風の子供たちが孵化しています。/やがて彼等は、石灰質の砲身から北に向って発射されるでしょう。/そのころ、日本列島はおおむね月明です。刻一刻秋は深まり、どこかで、謙譲という文字を少年が書いています。>

スケールの大きなイマジネーションが胸に響く。で、いわき総合図書館にある限りの井上靖詩集を借りて来て読んだ。奇をてらうわけではない。日常をうたい、遠い過去に思いを寄せ、自分の青春を振り返り、戦死した仲間を引き寄せる。深い諦念の愛に包まれて心が洗われる。そんな感覚に襲われた。

その中でも、われら庶民と同じ日常の断片をえがいたものがある。2月13日のこの欄で、酔っぱらいにとっては百円ライターは天下の回り物、と書いた。酔っぱらいでなくても100円ライターは天下の回り物だった。「ライター」という詩。

<そろそろ百円ライターの点火(つき)が悪くなったと思っていると、頃合でも見はからったように、そいつは姿を消し、別のライターに替っている。買い替えたわけではない。古い奴は家出し、誰かが忘れて行った新しいのが、そのあとがまに坐っているのだ。二つのライターの交替たるや鮮やかだ。>

これを詩の前半に据え、後半では早春の陽光が失踪した冬に替わり、自分の心の内部でもまた気持ちの交代が行われ、<やりかけの仕事の全部を、明るい春の庭で焚いてしまいたい烈しいものが、昨日までのおだやかな思いに取って替っている>と書く。こういう、家出・失踪とたたみかけて焼却へと転がす流れは見事というほかない。

シルクロードの旅ばかりでなく、日常の些事に目を留め、心を寄せて、文字に凝縮する。それは一日の終わりの夕暮れ=写真=だったり、孫のしぐさだったり、ある人の死だったりする。揮発する日常は記録されることであとから来る者の栄養になる。砂漠からやって来た旅人が最初に飲む水のように、言葉が汚れたと思ったら井上靖の散文詩を読もう。

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