2009年3月24日火曜日

火災旋風


大分・湯布院の高原で野焼きが行われた。野焼き参加者のうち4人が焼死し、2人が重軽傷を負った。「火災旋風」に巻き込まれたとみられる――。テレビの検証番組で「火災旋風」を知り、急に52年前の大火事の記憶がよみがえった。

小学2年生になったばかりの4月中旬のこと。阿武隈高地にある田村郡常葉町(現田村市常葉町)で、町のあらかたが焼ける大火事が発生した。すぐ消えると思っていたのが、そうではない。家で夕ご飯を食べようとしていた矢先、東西に延びる通りで人声がする。その声がだんだん慌ただしく、大きくなる。

外へ出て驚いた。西空が真っ赤に染まっている。乾燥注意報が出ているなか、火の粉が北西の強風にあおられて屋根すれすれに飛んで来る。そうこうしているうちに紅蓮の炎が立ち昇り、かやぶき屋根のあちこちから火の手が上がる。町はたちまちのうちに火の海にのまれた。住民は着の身着のままで避難した――。

天を焼くように肥大する炎。何丁ものマシンガンから放たれたような火の粉。あれが「火災旋風」一歩手前の「火災合流」だったのかと、半世紀がたってようやく分かった。

「火災旋風」は炎の竜巻だ。広範な都市火災や山火事の際に炎を伴う旋風が発生し、さらに大きな被害をもたらす、非常に危険な現象だという。高温のガスや炎を吸いこむと呼吸器が損傷される。それによって窒息死に至る。気管支がやけどして水ぶくれを起こし、呼吸ができなくなるのだ――昔、火災の際の焼死例としてドクターに聞いたことがある。

熱せられて上昇気流が発生し、そこに周りの空気が入り込み、ますます炎が大きく高くなる。天が焼ける――のけぞる高さにまで炎が駆けのぼるのを見たのはそのときが初めて、というよりこの50年余の間でもそれっきりだ。

いわきに住む同級生と忘年会をしたときや、去年開かれた還暦同級会の席で何人かに「大火事のとき」を聞いてみた。私は町並みのすぐ裏にある山のふもとの畑に逃げたので、町並みが炎に包まれる様子も、わが家が燃え落ちる様子も目にしている。ほかの同級生も近くに逃げたと思っていたら、そうではなかった。

炎に追われるように、東へ東へと逃げた同級生がいる。歩いて。被災を避けるために営業所の車庫から移動した路線バスに拾われて。西と東にある別の小学校の児童は町の中心が赤く燃え上がるのを見続けていた、という。

隣家の親類のおばさんが焼死した。死者はおばさん1人だった。ほかに数人が重軽傷を負った。翌朝、見たものは焼け野原となった町並み=『常葉町史』の口絵=と、わが家と思われる周辺に横たわっていた家畜の死骸、焼けてひん曲がった10円玉など。

10代後半に原民喜の「夏の花」を読んだとき、被爆直後の広島の超現実的な風景と、大火事後の光景が重なった。そんなもろもろを思い出させる「火災旋風」の検証番組だった。

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