2009年4月30日木曜日

渓谷の鉄橋を行く列車


夏井川渓谷(いわき市小川町~川前町)は木々が芽吹き、いちだんと緑の色を増してきた。とっくにアカヤシオの花は散り、ヤマザクラの花も高い尾根を除いてあらかた散った。とはいえ、まだ全山が若葉色に染まるほどではない。ホオノキのように芽吹きの遅い木がある。

あちこち展覧会巡りをしているうちに夏井川渓谷の無量庵へ行く日が遅くなった。1週間に一度のサイクルが10日以上になって、「みどりの日」の昨日(4月29日)昼、我慢できずに無量庵の雨戸を開けに行った。

ついでに、たけの伸びたサヤエンドウに合わせてつるをからませる胴縄を張り、三春ネギ苗にとりついている黒い虫をつぶした。対岸の森を巡った。さて、あとはどうするか。森の中で閃いた。いや、2月の失敗の記憶がよみがえった。<渓谷に架かる鉄橋を渡る列車の写真を撮ろう>。

夏井川渓谷の上流、無量庵から車でおよそ15分の川前町にその鉄橋がある。2月初旬の朝、田村市常葉町の実家から無量庵へ戻る途中、鉄橋が目に入り、いわきからの2番列車が通過するころあいだったので、「にわか撮り鉄」になった。山側に坂道がある。そこから鉄橋がよく見える。

ただし、そのときは時間の計算が狂って待ちきれずに車へ戻った。すると、すぐ列車がやって来た。当然、写真は撮れない。「撮り鉄」に必要なのは辛抱。それを頭の隅っこにおいて再挑戦しようというわけだ。

推測した時間とそう変わらない午後1時48分ごろ、いきなり山陰から列車が鉄橋の上に現れた=写真。列車はトンネルに入るとき、警笛を鳴らす。そのイメージで鉄橋でも、と思っていたが、普通に、静かに鉄橋の上を走る。

背景の雑木山はまだ芽吹きの途中。ずっと手前、眼下の田んぼには人がいて、畔の草を刈っている。夏井川には人が渡る程度の簡易な橋が架かっている。その先、がっしりした橋脚の上に線路が走り、今しも2両編成のディーゼルカーが空中を行くところだ。それを何コマか撮った。

せいせいした。せいせいしながらも自分に言い聞かせる。<おれは“鉄っちゃん”ではない、瞬間的に“撮り鉄”になっただけだ>。渓谷を行く列車の写真は撮っても、わざわざよそへ撮りに行くことはない。いや、磐越東線に限って言えば、どこでもカメラを向ける。磐越東線限定の“撮り鉄”である。

2009年4月29日水曜日

江戸時代の捕鯨絵巻


またまた展覧会へ行って来た。25日、いわき地域学會巡検で仙台へ。伊達政宗の祖母・栽松院(久保姫=いわき出身)の墓を詣でたあと、仙台市博物館の企画展をのぞいた。26日、福島県立美術館・ワイエス展。そして、27日。今年度最初の、いわき市暮らしの伝承郷企画展「捕鯨絵巻に描かれる町と村」=写真はポスターの一部=へ。こちらは5月17日まで開かれている。

江戸時代初期、磐城平藩を治めた内藤家伝来の「磐城七浜捕鯨絵巻」(いわき市指定文化財)が目玉だ。ハマにはクジラを追い、クジラと格闘する漁民。南北に貫く街道にはマチとムラ、山や川。黒船来航に備える海岸図もあった。

江戸時代、自分の住んでいるところはどう描かれていたのか、地名はどうだったのか。どの絵図も磁力と魅力を発している。想像力をかき立てられる。仲間と来た人は自分の生活圏と絵図を照らし合わせながら、「あそこはどう、ここはどう」と、本人と仲間と絵図との三者会談をしている。それが狙いでもあるのだろう。

初めて見る絵図が多かった。郷土史の本でよく目にする「鮫川河口漁業図」(天明3年=個人蔵)をはじめ、「菊田浦海岸図」(江戸後期=個人蔵)、わが住む「磐城郡中神谷村絵図」(江戸後期=個人蔵)などを中心に、じっくりと見た。

でも、と思う。ここは民俗学をベースにした施設で「歴史資料館」ではない。今につながる生活文化のために歴史資料を生かす、という意味では了解できるが、歴史そのものが主役になってはいないだろうか。今回は、いわきの歴史についての知識は得られても、暮らしのありようや知恵のヒントは得られなかった。

文化施設は冬の時代。カネもヒトも減らされ続けている。伝承郷の企画展も今回から有料(大人は320円)になった。北風をやわらげるのは市民のパワーでしかない。もっともっと市民のコレクションと手技と知恵を結集して、企画展を立体化すべきだろう。それこそネットワークを駆使して協働作業を進める必要がある。

2009年4月28日火曜日

ワイエス展を見に福島へ


おととい(4月26日)の日曜日、福島県立美術館で開かれている「アンドリュー・ワイエス 創造への道程(みち)展」を見に行って来た。浜通りの南端・いわき市から美術館のある中通りの北部・福島市までは遠い。マイカーでは疲れるので高速バスを利用した。

県立美術館=写真=を訪れるのは何年ぶりだろう。前の「ワイエス展 ヘルガ」(1990年)、そして「蛎崎波響とその時代展」(1991年)以来だから、18年ぶりか。40代前半だったので、当然のようにマイカーで出かけた。遠かった。その記憶があるから今回は高速バスに切り替えた。

午前9時半の開館時間からそうたたないうちに、美術館に着いた。福島駅東口から、案内の人に尋ねて「ももりんバス」(2コース)に乗った。料金100円。「1コース」だと遠回りになる。帰りは駅まで歩いた。感覚的にはいつもの散歩時間とあまり変わらない。3キロ強か。

企画展は文字通り、ワイエスの「創造への道程」を理解できる展示になっている。鉛筆や水彩による習作からテンペラなどによる完成作品まで、ワイエスの芸術が生まれる過程をじっくり見ることができた。

鉛筆と紙による習作にはうなった。例えば、後ろ姿のクリスティーナの頭髪。髪の毛の1本1本が緻密に、やわらかく表現されている。プロは鉛筆1本でここまでできるのだ。

キノコや野草が好きなので、よく写真を撮る。しかし、撮っただけでキノコや野草の細部をよく見ていない。つまり、知らない。それではダメだ。よく観察するためにはスケッチをしなくてはならないというわけで、わが家の近くの公民館で開かれる市民教室「基本のえんぴつ画」の受講を申し込んだ。5月中旬に始まる。

プロでさえすごい努力をしている――ワイエスの鉛筆画は、軽い気持ちで市民教室に参加する私のねじを巻いてくれた。鉛筆から始まる絵の修練。1本1本の線をおろそかにするな。絵を描いたこともなく、鉛筆でスケッチをしたこともない私だが、ワイエスの習作を見て市民教室が待ち遠しくなった。

2009年4月27日月曜日

政宗の祖母はいわき生まれ


戦国大名伊達政宗の祖母・栽松院(「裁松院」と表記する資料もあるが、墓碑に従う)の終焉の地を訪ねる、第47回いわき地域学會巡検が4月25日に行われた。栽松院は今のいわき市好間町の生まれ。亡くなったのは今の仙台市青葉区根白石。2つの地はなんとなく地形的に似通っている。栽松院は「ふるさと」に抱かれて死んだのだ、と実感できた。

ざっと500年前、栽松院は戦国大名岩城重隆の長女として、いわき市好間町大舘に生まれた。そこに岩城家の本拠、飯野平城があった。幼名を久保姫という。

久保姫はやがて伊達晴宗に嫁する。政略結婚だ。略奪結婚だったという説もある。長男鶴千代丸は岩城家との約束にしたがって岩城家の後継ぎ(親隆)となり、次男輝宗が伊達家を継ぐ。その子供、つまり久保姫の孫・政宗が次の代になって名をはせる。

当然、伊達家にもいろいろあった。が、祖母は孫がかわいい。孫も祖母を愛慕する。戦う男たちを支えるのは盲愛、偏愛を含めて、父を、夫を、子を、孫を愛する女たちだ。とりわけNHKの大河ドラマ「天地人」を見ながら感じるのは、同時代に培われた政宗と栽松院(久保姫)の深いつながり。それもあって、いわき地域学會の巡検が担当者によって企画されたのだろう。

祖母と孫――そんな観点から政宗の祖母の久保姫、いや栽松院に光が当てられるといいのだがと、いわきの人間は考える。

栽松院の墓は仙台市泉区根白石の白石城址内にある。泉ケ岳の麓だ。菩提寺の宝積寺が明治維新で廃寺になったあとは、近くの満興寺に栽松院、夫・晴宗、孫・政宗の位牌が安置された。この寺は政宗が墓参に来たときの休憩所だったという。

大型連休初日。あいにくの雨がかえって幸いしたか、ETC利用の車列もなく、全体に予定より1時間早くスケジュールを消化することができた。

満興寺では、栽松院のふるさとからやって来たというので、資料と茶菓子を用意して歓迎してくれた。一行約30人は位牌に焼香し、手を合わせて栽松院の在りし日に思いをはせた=写真

一行はこのあと墓にもうで、伊達と岩城の深いつながりを思いながら、あらためて根白石と好間との風景が似ていることを胸に刻んだのだった。

2009年4月26日日曜日

歯の治療終わる


右上の「親知らず」がぐらぐらして、食事のたびに痛みを感じるようになった。かかりつけの歯医者さんに駆け込んだら、若先生しかいない。「親知らず」は歯茎の腫れと痛みが止まったら抜きます、虫歯も1本あるのでそれも治療します、という説明だった。

それから週に2回のペースで歯医者通いが始まった。2回目は旧知の大先生が治療をしてくれた。抜くのはいつでもできます、できるだけ抜かないようにやってみましょう、という。ほっとした、ということを前に書いた。

虫歯の治療を先行させ、「親知らず」の歯茎の腫れが引いたところで、何回かかみ合わせの調整をする。すると、痛みも治まり、食事をしてもそう気にならなくなった。ある日、若先生が上の歯の歯石を除去してくれた。前に一度経験しているが、歯石の除去は治療完了のサインのようなものだ。

案の定、大先生が下の歯の歯石を除去すると治療が終わったことを告げた。「この年になって32本残っているのは珍しい。かぶせたりしないで様子をみましょう。痛むようだと早めに来てください」。ちょうど1カ月で通院から解放された。外へ出るとツバメ=写真=がスイッと目の前を過ぎた。はれやかな気分になった。

今は大先生のアドバイスを受けて食後に食べカスを取り除くブラッシングをしている。1回は練り歯磨きをつけるが、あとはブラシを当てるだけ。でも、こうして教えに忠実なのもまだ痛みの記憶が残っているから。いつの間にか自己流に戻ってしまう。意識して癖にしないとブラッシングは長続きしない。

2009年4月25日土曜日

里見さん追悼番組


FMいわきで4月27日から5月2日までの6日間、里見庫男さんの追悼番組が放送される。「文化関連」の座談会に出席してくれというので、平の「大町スタジオ」へ収録に行って来た=写真

里見さんは福島県教育委員長として、いわき地域学會の初代代表幹事として、いわき市観光物産協会長として、その他さまざまな市民団体の旗振り役として、いわきの内外に広く深く足跡を残した。それらを振り返りながら里見さんを追悼しよう、という番組だ。

里見さんは商工会議所時代にスタートしたいわき市民コミュニティ放送(FMいわき)の初代社長。その縁故も少しはあるのだろうが、連続で追悼番組を放送するくらいの仕事はしてきた人だから、タイムリーな企画ではある。

もらった資料によれば、27日・観光関連、28日・教育関連、29日・文化関連、30日・番組審議会、5月1日・シーウエーブまちづくり倶楽部、2日・まちづくり関連の追悼番組になる予定。

文化関連では山名隆弘、馬目順一、吉田静枝さんと私の地域学會4人の座談会になった。といっても、司会のアナウンサーと順を追って語るというかたち。馬目さんがいわき地域学會設立の経過を紹介し、それぞれが里見さんとの出会い、エピソードを語った。

地域文化という点では、後世に正確な記録を残そうと出版活動に力を入れてきた。それこそが大きな業績――と言いたかったのだが、どこまで表現できたか心もとない。放送時間はいずれも午後3時半から30分ということなので、時間がありましたらどうぞお聴きになってください。

2009年4月24日金曜日

記念日


4月は新年度スタートの月。なにかと慌ただしい。それに加えて、個人的にもいろんな“記念日”がある。「今日は○×の命日」「今日は□△の誕生日」などと、カレンダーを眺めてはわが家の来し方行く末を思ったりする。

中旬には義父の命日が巡ってくる。次男の誕生日と一緒だ。翌日は旧田村郡常葉町が大火事に見舞われた日。下旬に入ると孫の誕生日がくる。そして今年、新しい命日が加わった。初代のいわき地域学會代表幹事里見庫男さん、4月6日没。

ほかにもう一つ、個人的な“記念日”が増えた。カミサンの知り合いにOさんという人がいた。10年ほど前に亡くなった。で、春と秋の彼岸の中日には先祖の墓のほかに、足を延ばしてOさんの墓参をする。彼女の命日が4月22日であることを、創作つるし細工の「十五屋お照」さんのブログで知った。

「お照」さんとは先週の土曜日(4月18日)、あるスナックで初めて話をした。カミサンとはこれまた旧知の間柄で、コンテナハウスで「十五屋」を開いていたときに、カミサンの「アッシー君」をつとめて店内をのぞいたことがある。

ブログによれば、Oさんは「お照」さんの理解者だった。命日の日に墓参りをした。そのブログのなかで、Oさんが生前、私の話をしていた、ということを紹介している。

Oさんは、あんかちゃんか(めちゃくちゃ)な「お照」さんの話に引かれたのだろう。私を引き合いに出して、文章にまとめてもらったら、というようなことを言った。もちろん、私は知る由もない。

「お照」さんは偶然出会った私の顔を見ながら、「Oさんがこの人だよって教えてるような気がした」と書く。Oさんが引き合わせたのだろうか、と聞かれたら、そうかもしれない、と答えるしかない。

孫の誕生日とOさんの命日が一緒では、いよいよOさんが忘れ難い存在になった。もともとカミサンには忘れ難い人だからなおさらだ。たまたま命日の4月22日に撮影したウラシマソウの花の写真がある。それをOさんにたむけよう。

2009年4月23日木曜日

夏井川で新たな工事


自称「夏井川ウオッチャー」だ。朝晩の散歩に、川を越えて平市街地へ行くときに夏井川を見る。夏井川を見ながら河口へ、水源の大滝根山の向こう側にあるふるさとへ、ということも時にはある。週末にはその中間の夏井川渓谷で過ごす。

息をするのと同じように、夏井川を見て暮らしている。ふるさとの山から流れてくる夏井川は私自身だ、という思いがないわけではない。

田村郡小野町と田村市滝根町のことは分からないが、いわき市内では夏井川の改修工事が途切れずに行われている。河口では堆積した砂を除去する工事が行われている。平野部の上流、小川町下小川でも改修工事が行われている。平山崎では土砂除去工事と県道付け替え工事が行われた。そして、今度は平の市街地の東端、東日本国際大学のある平・鎌田で工事が始まった=写真

もうかなり前のことで記憶もあいまいなのだが、国がらみの「ふるさとの川づくり」事業が行われた。親水空間をつくる、というのが目的だった。で、鎌田では川幅が広げられ、親水のための広場や階段が設けられた。それはそれで機能している。

ところが、その結果として徐々に中洲ができ、そこに草が生え、木が茂り始めた。中洲は肥大して中島になった。去年はこの中島で木の伐採が行われた。それはそうだろう。ふだんから川の流れが二つに分かれている。流れが阻害されているわけだから、水害の要因になりかねない。

親水空間をつくるとした「ふるさとの川づくり」は、考え方としては悪くない。しかし、事業が実施されて見た目がきれいになったのもつかの間、鎌田から下流の改修個所は年を追って砂の堆積が進んだ。流れに勢いがない川を広げたのだから、浅瀬に砂が取り残されてたまる。中洲ができる。川幅が狭くなる。そんなことは毎日、川を見ていれば分かる。

河川行政の思想は現実に耐えられない――ということか。

2009年4月22日水曜日

タケノコ朝採り


春が駆け足でやって来た。朝晩散歩する夏井川の河川敷も、芽生えた草で緑一色になった。対岸に1カ所、竹林がある。このところ、毎日のように車が止まっている。人の姿もちらほら見える=写真。タケノコの朝採りだ。

今月12日に夏井川渓谷(いわき市小川町)で「春日様」のお祭りが開かれた。小さな社(やしろ)にお参りしたあと、今年の宿で「なおらい」が行われた。ワラビのおひたしとタケノコの煮物が出た。地物だという。例年より早く山菜が顔を出している。タケノコだけは平年通り、なんてことはない。竹林があれば旬のタケノコを求めて人が入り込むわけだ。

タケノコは夏井川渓谷の別の集落に住むH君の家へ行けば採り放題だ。コゴミ(クサソテツ)もワラビも無量庵の近所にある。煮物に刺激されてチェックしたら、まだ影も形もなかった。場所によって発生に遅速があるのだろう。 
                                        先日、渓谷の隣人Tさんから「もちタラボ」の苗木を10本前後もらった。無量庵の畑の隅に植えたら活着して芽吹いた。まだ鉛筆くらいの幼樹だから盗られる心配はない。が、これが育って、「さあ、芽を摘むか」というときに盗られてなくなっていると腹が立つ――Tさんをはじめ、渓谷の住民はだれもがそんな経験を持つ。

目ざとい人はコゴミであれワラビであれ、そこにあればすぐ手を出して摘む。他人の土地だろうとなかろうと関係ない。そのへんがマチ場の人間と山里の人間との軋轢を生む要因になる。

そんなことをあれこれ考えていたら、きのう(4月21日)夕方、カミサンの幼友達がコゴミとヤマウドを持って来てくれた。「おすそ分け」だという。早速、旬の味を楽しんだ。初物を食べると寿命が延びる――なんとなくそんな気持ちになるものだ。

2009年4月21日火曜日

アカヤシオ散る


日曜日(4月19日)、夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)へ出かけたら、アカヤシオ(岩ツツジ)の花はなかった。今年はやけに慌ただしく姿を消したものだ。

地元の人の話では、満開になった4月12日以降に雨が降り、風が吹いた。その風に吹き飛ばされた。見事なほどきれいに、一斉に散った。例年だと4月第一・第二・第三日曜日と、週末に3回はアカヤシオの花見ができる。

今年は4月5日、12日で終わった。代わって咲き残っているのがヤマザクラ。「あれがアカヤシオかしら」とマイカーでやって来た行楽客は首をかしげる。「先の日曜日がピークでした」と教えると、がっかりした表情になる。

夏井川渓谷の春は「五春」。梅から始まって、桃、アカヤシオ、ヤマザクラ、ソメイヨシノが時をおかずに咲き始める。それが、ヤマザクラだけになった。

今年は木の芽の吹くのが早い。さみどり色、臙脂色、黄色、薄茶色……。無量庵から対岸を見ると、険しい斜面が淡いパステルカラーに染まりつつある。それらを下地にヤマザクラの薄桃色が尾根を彩る。「山笑う」とはヤマザクラが開花した状態を指す――と言っても過言ではない。アカヤシオに限らず、ヤマザクラにも心引かれるものがある。

去年春、県道に沿って細長い駐車場ができた。ヤマザクラの木が1本、道と駐車場との境に残された。それが今、満開を過ぎて散り始めた=写真。道を行くと、突然、前方にこの木が現れる。幹に空洞ができていて、枯れれば邪魔者扱いされるところだが、今年も頑張って花をつけた。

ツツジ類はアカヤシオの花に代わって、トウゴクミツバツツジの花が目につくようになった。やがて木の芽が吹きそろえば、シロヤシオ(ゴヨウツツジ)の花が咲き出す。早め早めに草木が目覚めている。大型連休と同時にシロヤシオも花をつけるかもしれない。

2009年4月20日月曜日

石巌山人・今泉恒丸


きのう(4月19日)の続き。阿武隈高地は三春領常葉(現田村市常葉町)から江戸へ出て、名を成した俳諧師がいる。石巌山人こと今泉恒丸(1751―1810年)。小林一茶の親友だ。浅草の札差「井筒屋」五代目、すなわち俳人夏目成美のサロンに出入りしていた。

成美亭では7日、17日、27日とおおむね7の付く日に句会が開かれた。一茶や恒丸が成美亭に出向いて歌仙(連句)を巻く。その記録が一茶の句日記に残っている。例えば文化2(1805)年3月27日。夜白という俳人の発句に成美が脇を付け、一茶、恒丸、莚志、浙江が句を詠みつないで18句の半歌仙をつくった。

同じ年の閏8月27日には、一茶の発句に成美が脇を付け、浙江・梅寿・太蟜・莚志・恒丸・一瓢・素桃・知梁・李台が加わって36句の歌仙を仕上げた。

恒丸は江戸が大火に遭った翌文化3(1806)年、門人青野太筇の招きで下総佐原に移住し、4年後、そこで亡くなる。佐原時代の門人は常陸・房総合わせて4,000人近くいたという。多少は割り引いて考えるとしても、べらぼうな数だ。なかなかの教え上手だったようである。

杉谷徳蔵著『小林一茶と房総の俳人たち』には「単なる地方文人としてでなく、常総俳壇の興隆の原点として、今後とも学術的に究明されるとともに、見直されてよい俳人」とある。“自由業”になった今、この「ふるさとの大先輩」を調べるのも楽しみの一つになった。

ちなみに「石巌山人」の別号はふるさとの山・阿武隈高地最高峰の大滝根山=写真=に由来する。石巌山、すなわち石灰岩の山、大滝根山。そこから一茶たちに光を当てると、また違った風景が見えるはずである。

2009年4月19日日曜日

「一茶の未知の句発見」


いわきでは先の日曜日(4月12日)に報じられた「小林一茶の未知の句発見」に刺激されて、関連する本を読み漁った。読売新聞=写真=に載った「句日記の一部」の写真がヒントになった。

発句・成美、脇・一茶、第三・浙江(淅江)の順に、3人で句を連ねている。掲載の写真には33句まで見えるから、あと3句、計36句を連ねた歌仙(連句)に違いない。

夏目成美(1749―1816年)は江戸・浅草の札差「井筒屋」五代目。豪商だ。一茶の師匠の一人、そして庇護者でもある。小野浙江(?―1811年)は武州・関宿出身の俳人。同じ成美グループの一員として一茶と親交があった。

句日記が書かれた年月日は文化5(1808)年4月2日らしい、という。一茶の「文化句帖」には、同じ年の4月1日「小雨又晴 随斎入湯延引 浙江歌仙終」、3日「雨 成美 浙江箱根湯出立」とある。随斎は成美のこと。肝心の2日は「朝雨 晴」のほかに、一茶自身の句が3句記されているのみ。この「文化句帖」とは別の句日記があったということだろう。

専門家ではないから、これは当て推量。4月1日、成美の箱根行きが延期になり、浙江との歌仙が終わった。歌仙には成美も加わっていたのではないか。そうだとしたら、読売に載った「句日記の一部」は前日の歌仙を一茶が書き留めたもの、とみることもできる。

これも当て推量だが、一茶は3日、寂しい思いで成美と浙江の箱根行きを見送ったに違いない。本当は一茶も成美のお供をして箱根へ湯治に行きたかった。しかし、食客でもある一茶には「同行したい」などと申し出る勇気も、カネもない。「文化句帖」と照らし合わせれば、一茶の心中が透けて見えるようだ。

なぜ一茶が、成美が気になるかというと、わがふるさと(田村市常葉町)をおんでた俳人今泉恒丸(1751―1810年)が彼らと交流しているからだ。恒丸もまた成美グループの一員で、浙江とも付き合いがあった。彼らはしばしば一座して歌仙を巻いている。

そもそも私が俳諧ネットワークに興味を持ったのは、この恒丸の存在が大きい。「ふるさとの大先輩」をよく知りたい――30年前の思いが細々とながら途切れずにあって、極力、関係資料を集めるようにしてきた。興が乗れば『一茶全集』や『夏目成美全集』などを開いて関連する俳人の動向をチェックする。

調査研究以前の話だが、嫉妬や羨望、愛憎といったものが渦巻く俳人の内面を知るには、それで十分。とりわけ一茶が残した日記と、その他俳人の書簡などからはそうした人間臭さが色濃く立ち昇ってくる。その延長線上で時折、わが恒丸、そして妻のもと(素月尼)などの内面を想像してみるのだ。

近世後期の俳諧ネットワークは、研究者からは捨て置かれてきた世界。そのため、素人でも参入して夢想する楽しみが残っている。興味の途切れない理由がここにある。

2009年4月18日土曜日

卒寿夜話


先日、「ホールのおっちゃん」から電話がかかってきた。住所を教えてくれという。二、三近況を報告したあと、駆け足で逝った初代いわき地域学會代表幹事里見庫男さんの話になった。「お互い長生きしましょう」。90歳を超えた「おっちゃん」に励まされる。

「ホール」はいわき市平にあった草野美術ホール。「おっちゃん」はそのオーナーだった。声を聞くのは昨年4月、平のギャラリー界隈で阿部幸洋の個展が開かれた際に会って以来、1年ぶりか。

後日、「卒寿夜話」という小冊子が郵送されてきた。自分の息子と孫にと、91歳の誕生日(3月15日)を記念して編んだ15ページほどの文集である。ついでに、私も何度かこうした冊子の恵贈にあずかっている。

昨年7月から今年3月まで9カ月間のメモの抜粋だが、この間に救急車で病院へ運ばれることもあったらしい=写真。寿命は天の神様が決めたもの、思し召しの声がかかったら「はいよ!」と返事して、広大無辺の空間へ消え去るだけ――そう決めている人だから、いたって冷静に自分の衰えを見据えている。

常磐の「ゆったり館」で毎日泳いでいる、という文章には「泳ぎは上手になって、三途の川を泳ぎきって、極楽浄土に行くつもりでいる」とある。「死ぬ覚悟 時々決めて 生きてます」といった川柳もある。

先の戦争では隼の戦闘機乗りだった。「B29を撃っていたら、B29の弾がハヤブサに当たり、じいちゃんの機は、清洲飛行場に落とされてしまった。基地に戻ったら、じいちゃんのご飯茶碗には、箸が十字に差してありました。なに思って食べたのかは忘れてしまいましたが……」

「従容と 覚悟をきめた 二十代」だった。それが今に続く生き方に反映されている。だから小冊子が届くたびに、「おっちゃん」は自分の心のかたみを分けているのだなと受け止めてきた。今度もそう思っている。死を思え、死を見つめよ、と。こんなおやじはちょっといない。

2009年4月17日金曜日

猫も花粉症に?


わが家には猫が3匹いる。生まれてすぐ捨てられていた赤ちゃん猫を子どもが拾って来た。東京生まれが1匹、いわき生まれが2匹。東京生まれは居ついて10年以上になる。人間の年でいうと60~70歳といったところだが、まだまだ元気。近所を徘徊していて、腹が減ったときだけ帰って来る。残る2匹は「室内猫」。

夫婦で対応が異なる。カミサンは「猫かわいがり」。私は「1匹ならOK,それ以上は駄目」というクチ。それで、いつもカミサンとぶつかる。ただし、一言いうと倍は返ってくるので、最後は「勝手にしろ」となる。東京生まれの猫はいわき生まれの猫と違って、私を見るとすくむ。けとばしもしないのに。猫にとってもそういう相手がいることはいいことだ。

私にとっての猫は50年以上前、実家で飼っていた「ミケ」に尽きる。町が大火事(今日の夜だった)になった。人間は逃げた。犬や猫も逃げた。逃げきれなかった犬・猫・家畜は黒焦げになってひっくり返っていた。

ところが、近所の犬1匹とわが家の「ミケ」だけは奇跡的に助かった。しかも「ミケ」は火事から1週間後、私ら家族が避難している親戚の家にヨロヨロになって現れた。抱きしめた。以来、「ミケ」以外の猫は猫でなくなった。

で、現に一つ屋根の下にすむ猫だが、ある日、1匹(徘徊猫)が右目をつぶって涙を流していた=写真。左目にも涙がある。「なんだこいつ、花粉症か」。去年も、一昨年も春になると同じ症状を呈していた。猫風邪とは様子が違う。猫も花粉症にかかるようなことがあるのだろうか。

1匹はいい、2匹以上は駄目――という男でも、花粉症?の猫はかわいそうだ。そのくらいの同情心は持っている。が、早く治るといいがと思いつつ、片目の「くしゃ猫」は絵になるな、片山健の絵本「タンゲくん」と同じだなと、どこかで面白がっているところもある。

2009年4月16日木曜日

「左助」を捜して夏井川河口へ


いわき市の夏井川で冬を越したコハクチョウは、翼をけがして飛べない3羽の残留組を除いて北へ帰った。小川町三島では4月に入っても数十羽が滞留していたが、先の日曜日(4月12日)にはさすがに2羽に減っていた。いくら居心地がよくても留鳥ではないのだから、さっさと帰ればいいのに――そばの県道を通るたびに眉をしかめたものだった。

ワイワイガヤガヤしていた大集団が去って、もとの静かな川に戻ったとはいうものの、川を見るたびにぽっかりと穴があいたような感じを抱く。まだまだ大集団の残像がまなこの奥に刻印されているらしい。

平中神谷の調練場をねぐらにしている残留組は、古い順に「左助」「左吉」「左七」。去年はこれに傷病気味の幼鳥「さくら」が加わった。「さくら」は、夏には飛べるまでに回復し、秋に仲間が飛来すると早速、合流した。そして、この春、無事に北へ帰って行った。

残留組の3羽はいつまで一緒にいるだろう――案じて見ていたら、先週金曜日(4月10日)の夕方、「左助」が行動を起こした。下流へ向かってどんどん泳いでいく。例によって放浪・孤独癖が出たのか。翌朝、調練場には2羽しかいなかった。「左助」は戻って来なかった。

きのう(4月15日)早朝、うまい具合に雨が上がったので、自転車で「左助」を捜しに行った。「左助」は河口近くの左岸にいた。「白鳥おじさん」のMさんにえさをもらって食べ終えたばかりらしい。ヨシ原の広がる右岸へそろりと泳ぎ出すところだった。留鳥のカルガモも、カラスも「左助」の周りに群らがっていた。

ほかには川船が1隻。川の中央にとどまって、老人とおぼしき人が水中に沈めた木の枝と籠を引き揚げてはなにかやっていた=写真。カニ漁か。釣りも、網漁も、籠漁も経験ゼロ、そちらの方面には全く知識がない。こうして地元の人間と夏井川のかかわりを目の当たりにするのは楽しい。川の研究材料が増えるというものだ。

河口はまだ砂で閉塞されたままだった。この河口を営巣地とするコアジサシが間もなくやって来る。5月からはそのために河口が立ち入り禁止になる。夏井川はそれまでに河口の砂除去工事が済んで太平洋と直結しているだろうか。

2009年4月15日水曜日

四倉のオープンガーデン


いわき市四倉町に住む、「農家林家」のカミサンの同級生がオープンガーデンを手がけている=写真。スイセンとクリスマスローズ、ムスカリ、ユキヤナギ、レンギョウの花などが満開だというので、「アッシー君」を務めた。

いわき市民の憩いの森、フラワーセンターのある石森山の北側、常磐道の高架橋をくぐってほぼ一直線にあぜ道を走ると、花盛りの家にたどり着く。そこが目的地。西に仁井田川、東と北に杉山を背負った「ヤマザキ(山崎)の家」だ。

前の庭、裏の水路と庭、脇の斜面が石積みの花壇になっている。ロックガーデンである。圃場整備中に出てきた石や、草刈り中に頭を出していた石を利用して、自分でセメントを買って来て練り上げ、石を積み、コンクリートで固めたという。なかなかの力技ではある。

農林業とは無縁のマチから、若くして山あいの旧家に嫁いだ。以来、会社勤めの夫とともに「農家林家」の道を突き進んできた。オープンガーデンに続いて、脇の杉山を案内された。自分の本職を見てくれ、ということだろう。

嫁の忍従を「怒りのエネルギー」に換えて杉の手入れをしてきた、という。杉山は間伐・枝打ちが行き届き、日も差してせいせいするくらい。下草刈りもする。林床にはナメコのほだ木が伏せられていた。シイタケのほだ木も合掌に組んであった。「怒りのエネルギー」はいつか「楽しみのエネルギー」に変わったのだ。

シイタケは出始め?らしく小さい。が、ひびわれて白っぽくなっている。「出てすぐ干しシイタケになっちゃった」。雨が降らないから空気が乾いている。空中湿度が低いので、子実体が発生しても大きくなる前に干からびてしまう、というのだ。

似たような話を、「土曜朝市」で生産者から聞いた。早くから春野菜を栽培するのだが、まったく雨が降らないために野菜が育たない。知り合いに「今年のソメイヨシノはいまひとつ色が冴えなかったような気がする」というと、やはり雨不足が原因と言われた。色だけでなく花も小さかった。雨不足は大地のすべてに影響する。

帰りに「干しシイタケ」とスイセンの切り花、そしてダンナさんが力を入れている木工細工のひとつ、孟宗竹の「ロウソク立て」をもらった。スイセンたちも雨不足のなかで必死になって花を咲かせたのだ。そう思うと、健気なものを感じる。昨日(4月14日)夕方に降り始めた雨は、今朝には上がった。少しは慈雨になったろうか。

2009年4月14日火曜日

アカヤシオ撮影隊


日曜日(4月12日)早朝、アカヤシオ(岩ツツジ)で満開の夏井川渓谷へ車を走らせた。土曜日に敬愛する人の通夜があり、渓谷の埴生の宿・無量庵に泊まれなかったため、起きぬけにわが家を出たのだった。

一番列車が通過する7時前には無量庵に着いた。隣の「展望台」には早くも三脚を立てて対岸のアカヤシオの花を撮影する人たちがいた。三脚を担いで道路を歩いて来る人もいる。なにやら写真グループの撮影会といった風情である。

7時前にグループでやって来るアマチュアカメラマンは珍しい。早朝、そして薄曇り。晴れれば逆光だが、全体に同じ明るさの中で花をとらえることができる。時間と天気を計算して来たか。対岸の山と彼らをセットでカメラに収めようとしたら、カミサンが「知ってる人かもしれない」という。いわき在住で、土門拳文化賞受賞者のTさんだ。

撮影ポイントを探してやって来る女性にカミサンがにっこりあいさつした。女性はしばし怪訝そうだったが、カミサンと分かると目を丸くした。やはり、Tさんである。指導している写真クラブの撮影会で、小川町・諏訪神社のシダレザクラが満開時期を過ぎて写真にならないため、夏井川渓谷まで足を伸ばしたのだという。

無量庵に案内すると、「こっちの方がいい」とクラブの面々を呼び込んだ=写真。その人たち6人のうち3人がまたまた知り合いだったり、かつてのPTA仲間だったりした。

春のアカヤシオ、秋の紅葉を撮影に来る人たちはたいがいが被写体しか目に入らない。目的を果たすと、さっさと姿を消す。Tさんは違っていた。「写真を撮りに行くと、こういう出会いがあるので楽しい」という。自然を撮るのではない。自然と人間の関係を撮るのだ。4年前にはそうして写真集『知床・羅臼』を出版した。

撮影が一段落すると、カミサンがモーニングコーヒーを出した。カメラの話を聞いたり、夏井川渓谷の四季の様子を話したりしているうちに、次の撮影地へ出かける時間がきた。「これから富岡町の夜ノ森公園へ行く」のだという。ソメイヨシノが満開だ。

せっかくの日曜日、こことあそこと、そしてあそこも――と撮影隊は満開の花を求めるミツバチのように忙しい。

2009年4月13日月曜日

「実現力」の人


きのう(4月12日)午後、いわき市の地域研究をリードしてきた里見庫男さんの葬儀・告別式が営まれた。里見さんはまずもって、いわき湯本温泉旅館・古滝屋の経営者だった。それを基盤にしながら、まちづくり・観光振興、商工会議所・教育・地域研究・文化活動に邁進した。

地域研究と文化活動の分野で私は随分と目をかけてもらった。教えてももらった。「里見旋風」に巻き込まれて、観光振興について考える場に出たり、いわき商工会議所の30年史づくりに参加したりもした。が、私には地域文化のプロデューサー兼コーディネーター・編集者としての里見さんの印象が強い。

経済人にして文化人だったからこそ、この40年近く、常磐湯本の、いわきの文化シーンはダイナミックな展開をとげることができた(もちろんすべてとはいわないが)、とも思っている。

一言でいえば「実現力」。ゼロから発想し、企画し、組織し、行動し、目標を達成する。文化人は発想・企画力は得意だが、ややもすると組織・行動力に欠ける。里見さんはその欠を、経済人としてときに一人で補った。雑誌発行でいえば、財政基盤(広告)の一切を担当する、といった具合に。里見さんはなによりもまず「実現力」の人だった。

いわきに、地元の湯本に必要と思ったことは、陳情・要望の前に市民の力を結集して実現へと動きだす。やがて行政との協働作業へとステージを移す。それが地元・湯本川の改修につながり、野口雨情記念湯本温泉童謡館のオープンへと結実した。

里見さんが関係した、というより組織した市民団体は相当な数に上る。その関係者はほとんど全員が、里見さんの死に驚き、悲しみ、途方に暮れている。葬儀会場のロビーにこんな見出しのついた写真掲示板があった。「みんな後は頼んだぞ!」=写真。この文字を目にした人は一様に里見さんからとんとんと肩をたたかれたような気がしたのではないか。

里見さんは3月26日、転勤族と地元の人間との「人脈形成の場」である定例の集まりの席で倒れた。喪主の息子さんが謝辞のなかで「父は大好きな人たちに囲まれ、大好きな息子に抱かれて意識を失った」と述べた。そのとき、何かふっとつかえがとれたような気がした。最後の最後に里見さんはみんなを集めて自分とのお別れの会を開いたのだったか、と。

2009年4月12日日曜日

満開の散歩道


わが住まいから一番近い「ソメイヨシノの名所」はいわき市北部浄化センターだ。夏井川のそばにある。上流のコハクチョウが去ってからは、ソメイヨシノの並木に引かれるようにして、散歩コースを下流へ移した。その花が満開になった。

学校が休みの土曜日(4月11日)早朝、近くに住んでいると思われる親子連れが花見にやって来て、盛んにケータイで写真を撮っていた。ウイークデーにはありえない、心温まる光景。花は人間をやさしくする。絆を強くする。

敷地と堤防の境界に植えられたソメイヨシノはおよそ60本。それが200メートル以上にわたって花の壁をつくっている。堤防の土手には職員が種をまいた菜の花。河川敷のサイクリングロードから眺めると、土手の黄色、その上の桜色、そのまた上の青空=写真=と、なかなかカラフルだ。しかも、この絵は鑑賞期限が1週間程度と短い。

散歩の途中、住宅地でペアルックの熟年夫婦がマイカーに乗り込むところを見た。行楽地へでも向かうのか。花見の週末になって、人々は思い思いの地へ出かける。自宅で過ごす人も近場の「名所」くらいはのぞいてみるか、という気になるのだろう。ふだんは忘れられている施設だが、桜の季節になるとにぎやかになる。

同じ土曜日の午後4時前、同じ場所を車で通ったら、菜の花の咲く土手に何人かがまぎれこんでいた。花に吸い寄せられる気持ちは分かる。堤防の上の道を、デジカメを手にして歩いている人もいた。今日も一日、花見を兼ねたウオーカーがサイクリングロードを、堤防の上の道を往来することだろう。

2009年4月11日土曜日

阿部幸洋展


いわき市平の小野美術で阿部幸洋展が始まった。パステル画を含む油絵およそ30点が展示されている。4月14日まで。

阿部は昭和26(1951)年、いわき市平で生まれた。結婚後、スペインへ渡り、現在はラ・マンチャ地方の町、トメジョソに住んでいる。スペイ在住28年。人生の半分は向こうで暮らしている計算になる。とはいえ、相変わらずいわき弁のままだ。

ラ・マンチャ地方の風景を独特のタッチで表現している=写真。家・樹木・山・大地・空と、描く対象は変わらない。が、個展のたびに微妙な変化を見せる。今回は光が表に出てきた――そんな印象を受けた。

隠れていた街灯(間接的な照明)が姿を見せて、直接光をともす。灰色の雲によって湿潤なものが加わり、そこへ夕日が当たって雲がほんのり赤く染まる。雲には動きもある。おずおずと色彩が踊り始めた感じ。

かと思えば、アーティチョークなどを描いたモノクローム作品がある。前回のいわきでの個展の際、アーティチョークの絵に触発された阿部の知り合いが実物を会場に持ちこんだ。それをもらい受け、夏井川渓谷の埴生の宿・無量庵で栽培している。今年はつぼみをつけそうだ。

阿部の作品を初めて見たのは37、8年前だった。こちらは新聞記者になりたて。阿部は19歳か20歳で初個展を開いた。それを取材して以来の付き合い。スペインに移り住んでからは、スーパーリアリズムの腕の冴えを封印して色そのものと格闘してきた。やがて画面の中に光が差し、空気が澄み、湿り気を帯びて雲が赤く染まるようになった。

いわきでの阿部の個展は漏れなく見ている。以前の個展と異なる点はどこか、といったことを基準にして作品と向き合う。今回は「彩雲」と「街灯」。そういう作品の見方をできる唯一の画家だ。

2009年4月10日金曜日

カナガシラの吸い物


首都圏に住む朋友が電話をかけてきた。「これから実家に帰る。酒を飲もう。魚を食べよう」。夕方、いわき駅前の「ラトブ」で待ち合わせをし、魚料理が売りの店へ繰り出した。

カツオの刺し身を頼んだ。いわきの港にカツオが揚がるのは早くて今月下旬。が、ともかく刺し身をとなればカツオだ。朋友は今の時期のカツオがいい、脂ののった戻りガツオは口に合わない、という。私はその逆で、脂がのっていればいるほど喜びを感じる。トロガツオは絶品だ。

カウンターのケースにアジやカナガシラ、ホヤなどが並んでいた。勢いそれらの魚の話になる。カナガシラはホウボウに似る。赤いので、タイの代用魚として慶事に利用される。数日前に食べたばかりの吸い物の話をした。

行きつけの魚屋さんでタコとサーモンの刺し身を買ったついでに、カナガシラのアラをもらった。「吸い物にするとうまい」というので、早速、試してみる(写真は刺し身にピントがあってしまい、肝心の吸い物がぼけている。ご勘弁を)。白身で淡白ながら、出汁がよく出ている。上品な味だ。

同じように、スズキのアラをもらったことがある。アラ汁に肝臓をぎゅっとつぶして入れるとよい、と教わった。さっぱりした汁に、さっぱりした肝臓の歯ざわり。これも忘れ難い味だ。こうして年に何度か、魚屋さんから新しい魚の食べ方を教わる。

カツオの刺し身はおろしショウガで食べた。ふだんはワサビで、脂ののった秋はワサビにおろしニンニクをまぜて食べるのだが、脂の少ない今の時期のカツオにはさっぱりしたショウガが向いているか。行きつけの魚屋さんにも間もなくカツオが入荷する。それまで再びカツオの刺し身は食べないでいよう。

2009年4月9日木曜日

鳥が植える、風が植える


朝晩の散歩コースのなかに「草野の森」がある。国道6号常磐バイパス終点斜面を利用し、いわきの平野の潜在植生である照葉樹のポット苗を密植・混植してつくった「ふるさとの木によるふるさとの森」だ。宮脇昭横浜国立大名誉教授が森づくりを指導した。

まだまだ幼樹が目立つが、若いなりに緑濃く茂り、鳥たちがやって来ては歌い、休むようになった。秋の夕暮れ時のスズメ、朝のキジバト、ヒヨドリ、ムクドリ、冬のアカハラ、そして今はウグイスが森の奥でさえずっている。

照葉樹だから、森は一年中あおあおとしている。カンツバキ、ヒラドツツジ、クチナシといった灌木を配置して、四季を通じて花も絶えないようにした。

それでもよく見ると、落葉樹が何本か混じっている=写真。ヤマザクラの幼樹がある。ヤシャブシの幼樹がある。名前の分からない落葉樹もある。針葉樹のクロマツも人間の丈くらいに成長したのがある。いずれも人間が植えたものではない。風が運び、鳥がフンと一緒に落とした種が芽生え、成長したのだ。

「草野の森」づくりは2000年3月、小学生たちが参加してポット苗を植えたことから始まる。街中に出現した小さな21世紀の森。途中から風が加わり、鳥が加わって、今度は自然自身が森をつくるようになった。森づくりは絶えず現在進行形で行われている。

哲学者内山節の自然哲学に従えば、「草野の森」は自然と人間の交通によって生まれ、自然と自然の交通によって大きくなっていく緑のスポット。人間だけでなく、鳥も木を植えた(種を落とした)、風も木を植えた(種を運んだ)――そう考えると楽しくなる。鳥と風の協働作業はしかも永遠に続く。

2009年4月8日水曜日

「よんじゃくじになって」


カミサンの伯父の家がいわき市小川町にある。農業に精を出して、隠居をしてから伯父は年に何度か、甥の車でフラリとわが家へ現れた。姪(カミサン)に会いに来たついでに、そのダンナ(私)をつかまえて江戸時代の百姓一揆の話などをして帰る、というのが常だった。

伯父は亡くなったが、義理の伯母は93歳で健在だ。「顔を見せな」。そう言っていたという。アカヤシオの花が咲き出し、フサザクラ=写真=とミツバアケビの花が満開になり、足元にはネコノメソウの花が咲いている。夏井川渓谷の無量庵で日中を過ごし、春の花を目に焼きつけた帰り、伯母の顔を見に夫婦で立ち寄った。本人は近所へ茶飲み話に行って留守だった。

寒いのでずっと家にこもっていた。春になって暖かくなった。で、ようやく日曜日(4月5日)、近所の茶飲み友達のところへ出かける気になったのだという。家の人が車で送っていった。水稲の種まきを終え、一段落した時間帯。お茶を飲んで待っているうちに、伯母が杖をついて帰って来た。

耳は少し遠い。が、カミサンがそばでしゃべると、うなずいていろいろ反応する。「近所へ出かけられるんだからいいね」。カミサンが言うと、「なんも、よんじゃくじになって」と言う。「よんじゃくじ? よんじゃくじ?」と夫婦で繰り返すと、そばにいた嫁さんが苦笑しながら解説してくれた。「よろよろになって、という意味」

翌日、図書館へ行って方言辞典で調べた。小川町のドクターが書いた方言集にも、いわき市教育委員会が発行した『いわきの方言調査報告書』にも「よんじゃくじ」は載っていない。それに近い言葉が福島郷土文化研究会編『福島県の方言』にあった。県北・会津の「よじくじになる」(曲がりくねる)だ。

こちらの耳の感度にもよるが、「よんじゃくじになる」と「よじくじになる」の間にそう違いはあるまい。「よじくじになる」の用例として「小道はどうもよじくじになっている」とあった。道が曲がりくねっているのではなく、人間が曲がりくねってしまう、つまりよろよろ、よたよた、そういうことを言いたかったのだろう。

冬ごもりを終えて、今年初めて屋敷の外へ出た伯母――。その連想で死んだ伯父もなにか変な言葉を使っていたことを思いだした。しばらくわが家に現れなかったあと、「オレもよどんでたからな」とカミサンに言った。ずっと家の中にこもっていた、ということだろう。

「よんじゃくじ(よじくじ)になる」に「よどむ」。どちらもそうだが、方言には衝撃力がある。ものすごいエネルギーを感じる。辞典ではなく、土地の精霊が生み出した方言の情景が欲しい。故佐藤喜勢雄さんの「いわき語の情景」のような――。そんなことを思った。

2009年4月7日火曜日

里見さんから学んだこと


わが家の床の間に、江戸時代後期、磐城平藩・山崎村の専称寺で修行した出羽国生まれの俳僧一具庵一具(1781~1853年)の句幅が飾ってある=写真。初代のいわき地域学會代表幹事・里見庫男さんが11年前、古書市場で入手したのを「研究の材料に」とプレゼントしてくれたのだった。

ざっと25年前、調査・研究のイロハも知らずに誘われて、発足したたばかりのいわき地域学會に入会した。すぐ夏井川下流域の総合調査が始まった。里見さんの指示で一具を調べることが決まった。一具とは何者? その時点では、知識はゼロに等しい。『いわき市史』や歴史が専門の知人に聞いて、おぼろげながら一具の輪郭を頭に入れた。

どうしたら「一具の人と文学」をとらえることができるのか。知人に『一具全集』を借り、別の知人には関連する資料の提供を受けて、あれこれ模索を重ねているうちに、「俳諧ネットワーク」という視点でなら門外漢でもなんとかやっていけそうだ、という見通しがついた。

一具と俳人Aは会っていないだろうか。一具は俳人B・C、あるいは小林一茶とどこかでつながっていないだろうか(つながっていた)。次々に推理しては図書館のネットワークを利用して文献を漁った。初期の段階で里見さんから「仮説を立てて調べることの大切さ」を教わったのが、大きかった。

句幅には一具自身の筆で「梅咲(き)て海鼠腸(このわた)壺の名残哉」という発句が書かれてある(「槑」は「梅」、下五の漢字も当て字なので、作品の表記は全集に倣った)。春を告げる梅が咲いた、壺に入っていた「このわた」も減ってこれが最後か、名残惜しいなぁ――とでもいう意味だろうか。

「このわた」はナマコの腸を材料にした塩辛で、江戸時代から「天下の珍味」として知られる。一昨年だったか、すし屋で初めて口にした。塩辛を好まないのだが、里見さんにもらった一具の句幅を思い出して箸をつけた。こりこりした舌触りが好ましかった。磯の香りもした。うまかった。なるほど「天下の珍味」だわい、と思った。

里見さんからはほかに、「古書市場から入手した」と一具の自画自讃の軸物、『一具全集』をちょうだいした。さらに、自身が館長を務める「野口雨情記念湯本温泉童謡館」で毎月1回、誰か詩人について調べたことを話すように、という宿題も与えられた。

それで、去年後半からはいわきがらみ・雨情がらみの視点で草野比佐男や金子みすゞ、西條八十について語ってきた。

すると、今度は童謡詩を含む「近代詩ネットワーク」とでもいうべき視点で大正~昭和初期の文学史を調べてみようか、という気になった。暮鳥・雨情を軸に、茨城といわきの文献を調べていけば、なにか面白いものが見えてくるかもしれない。里見さんから与えられた宿題が、いつの間にか自分の研究課題になっていた。

きのう(4月6日)正午過ぎ、里見さんが亡くなった。ある集まりの席で倒れ、救急車で運ばれてから10日余り。享年68だった。集まりには私も出席していた。その席で二言三言、事務連絡のようなやりとりをしたのが最後になった。

里見さんには、公私にわたって目をかけてもらった。地域研究の面白さも教えられた。なかでも、後世に正確な記録を残そうと精力的に地域学會で展開した出版活動は、私にとって得難い経験になった。四半世紀に及ぶ恩愛に感謝、そして合掌。

2009年4月6日月曜日

滝の上のアカヤシオの花


夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)のアカヤシオ(岩ツツジ)の花が間もなく満開になる。

金曜日(4月3日)には数カ所にすぎなかったピンク色の花のかたまりが、きのう(4月5日)は目を凝らさなくともそれと分かるようになった。2日たって開花した本数は3倍に膨らんだ。そうなると加速度がつく。次から次に花が開いて、急斜面はピンク色の花を点描した一大キャンバスになる。

対岸から花を眺めるだけではつまらない。この十数年は毎年、対岸に分け入ってアカヤシオの花の下に立つ。少し足を延ばしてアカヤシオの花の上に立ってみようか――対岸の小道を歩いているうちに気持ちが動いた。

夏井川渓谷の最大の名勝「籠場の滝」の対岸は岩盤がむき出しになっている。アカヤシオの群落の1つでもある。その岩盤の奥に尾根越えの小道がある。てっぺんに立てば、アカヤシオの花と夏井川と籠場の滝が眼下に見える。急坂だがゆっくり行けば疲れることはない。

早朝は薄曇り、やや強い風だったのが、昼前には晴れて強風になった。ビュービュー風が木々を揺らしている。無量庵の下の小流れにいたカミサンには「ボキッ、ボキッ」と木の枝の折れる音が聞こえたという。その中を、帽子を押さえながら尾根のてっぺんに立つ。峠まで上るのはごみ拾いを兼ねた昨年11月の「紅葉ウオーキングフェスタ」以来である。

谷底では、花は頭上にある。尾根道では目と同じ高さに、眼下に花が展開している。ここまで来れば被写体には事欠かない。青空の下、V字谷にこぼれ落ちるようにして咲いているアカヤシオの花にレンズを向けた=写真

淡いピンク色の花が尾根道に落ちていた。今にも開こうとする濃いピンク色のつぼみも落ちていた。「花散らし」どころか「つぼみ散らし」の強風だ。風はV字谷になだれ込んで凶暴になるのか。

厳しい環境を選んで群落を形成してきたアカヤシオだから、「つぼみ散らし」の強風も織り込み済みなのだろう。「富まず減らさず」で現状維持を続ける、滅びを避ける――それがアカヤシオの戦略だとしたら、大したものだ。

2009年4月5日日曜日

大久保草子木版画展


駆け出しのころ、「サツまわり」が一緒だった1歳下の「同業他社」氏から定年退職のはがきが届いた。その前に、共通の知人の消息を尋ねる電話があった。知人は90歳を超えている。「生きてますか」「生きて、通信高校生をやってるよ」。「インターネットは?」と聞けば「やらない。パソコンが壊れてからはそのまま。必要ないでしょ」と潔い。

届いたはがきの欄外コメントに苦笑した。閑職についたこの2年間は各種のコンサートを楽しんだ。一番好きなのは井上陽水。去年、いわきで行われたコンサートへは行けなかったが、6月の福島公演を楽しみにしている。コンサートの聴衆の大半は白髪・はげ・デブです――。おいおい、お前さんは白髪で、おれはサバンナじゃないか。

あちらはコンサート、こちらは画廊巡り。きのう(4月4日)、カミサンが行こうというので車を飛ばした。いわき市の鹿島町にある創芸工房「刺繍・織り・染め――鈴木智美の世界展」から始まって、泉町のアートスペース泉「現代工芸福島会展」、ブラウロート「カジ・ギャスディン展」、そしてギャラリーいわき「大久保草子木版画展」=写真=を巡る。 いずれもオープン初日ないし3日目と始まったばかりだ。

カジ・ギャスディンはバングラデシュの画家。少しばかりバングラデシュ関連のNGOにかかわっているので、見に行こう――というカミサンの提案で画廊巡りをしたのだった。故若松光一郎さんばりの色彩の音楽が好ましかった。

大久保さんは何日か前、ダンナさんと一緒にわが家へやって来た。息子と知り合いで、息子が話をする待ち合わせ場所にわが家を指定したらしい。その間、こちらは「良寛さん」になって孫のお守りをする。

大久保さんの木版画はファンタジックな要素に満ちている。が、そこには観念ではない、ちゃんとした観察に基づく自然が息づいている――そういうことを感じさせるに十分なリアリティーを持っている。

もっともっと懐の深いいわきの自然を見たらいい。「一度、夏井川渓谷の埴生の宿へ来ませんか」。カミサンが大久保さんに言う。夏井川渓谷のアカヤシオ、あるいはシロヤシオを見てインスピレーションが湧くこともあるだろう。

絵はがきのような木版画はいらない。いわきの自然と向き合うことで深く豊かに独自性を増す幻想――そんな作品をいつのまにか私は求めているのだった。

2009年4月4日土曜日

アカヤシオ咲く


夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)に春を告げるのは、アカヤシオ(岩ツツジ)の花ではない。そこに暮らしている人間にとっては、墓参りに係累がやって来る春分の日、ワサビの花、少し遅れて凍みがゆるんだ畑にジャガイモを植えたとき、あるいは地べたに生えるように咲くキクザキイチゲ、かもしれない。当然ながら、1人ひとり違う。

が、アカヤシオの花はそれら一切を含んで夏井川渓谷に春がきたことを告げる、圧倒的な力を持っている。モミと松(下部の赤松、上部の五葉松)の緑を背景に、同じ落葉樹が裸のうちにピンク色の花を次々と咲かせる。ゴツゴツした急斜面を自分のキャンバスにして壮大な点描画を展開する。全山満開時の絵は、ちょっと言葉では表せないほど美しい。

きのう(4月3日)見たら、3カ所でアカヤシオの花が咲いていた。最初に咲く場所は決まっている。わが埴生の宿・無量庵の対岸左斜め前方、岩盤が張り出したあたり。次はちょっと下流、籠場の滝の近く=写真。最後は江田駅に近い椚平の対岸だが、ここは山が遠い。

肉眼では、それぞれ4~5本のアカヤシオが鮮やかな花をつけている程度。双眼鏡で確認すればその2、3倍は赤くつぼみを膨らませているはずだが、あえてそこまではしない。翌日、あるいは翌々日には開花し、肉眼でもはっきりと見えるようになるのが分かっているからだ。

3カ所に共通しているのは、たっぷり夕日を浴びる場所だということ。日暮れになると罪を告白したくなるような少年には、アカヤシオの花は見るだけで救いになるかもしれない。

アカヤシオの花と同時に咲き出すのが林床のイワウチワ。「木守の滝」の上、急斜面の奥に群落がある。無量庵から対岸を眺めながら、このごろは<咲いているだろうな、きれいだろうな>と、イマジネーションをはたらかせるだけになった。

さて、アカヤシオの花が満開になるのは1週間後、4月12日前後だろう。今度の日曜日(4月5日)あたりから、わが無量庵の周辺はにぎやかになってくる。隣家の所有者は古い家を解体して行楽客のための「展望台」にした。秋の紅葉と同様、吸い寄せられるように車と人がやって来るはずである。

2009年4月3日金曜日

ジャガイモを植えに


夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)でも種イモを植える時期がきた。と、思っているのは私だけで、住民はとっくにジャガイモを植え終えたのかもしれない。

いわきの平地と違って、牛小川では3月が終わろうとするかしないかという時期にならないと、種イモを植えない。早く植えると、芽が出たころ晩霜にやられる。そのために植える時期を少し遅らせるのだ。

最初から植えずに、去年取り残して地中に眠っている子イモが育つのを待つ、と冗談をいう人もいる。「ふっつぇイモ」という。確かにその通りで、渓谷の埴生の宿・無量庵の菜園でも、毎年「ふっつぇイモ」が芽を出す。育ててみると少しは収穫がある。

いつまでも「ふっつぇイモ」に頼るわけにはいかない。今年はちゃんと種イモを買って植えなくては――。きのう(4月2日)夕方、四倉の種苗店をのぞいた。「メークイン」と「キタアカリ」は売り切れ、「男爵」と「アンデス」が残っていた。

私がジャガイモを栽培する最大の理由は、味噌汁にしたときの「三春ネギ」との相性のよさからだ。三春ネギの甘み・風味・軟らかさ、これが煮崩れしかけたジャガイモとまざりあって絶妙な味を醸し出す。三春ネギとジャガイモの味噌汁に限って言えば、私は煮崩れするジャガイモが好きだ。

「メークイン」は煮崩れしにくいタイプ。「男爵」はホクホクして煮崩れしやすいタイプという。「男爵」系の「キタアカリ」がない以上は「男爵」を選ぶしかない。「男爵」1キロを250円ちょっとで買った=写真。イモを買うのは何年ぶりだろうか。3年、いや4年?

うねの3分の1はいつでも種イモを植えたり、春野菜の種をまいたりできる状態になっている。種イモを買った以上は即、行動だ。きょう、街の歯医者で「親知らず」の治療をしてもらったあと、無量庵へ直行して種イモを植える。

そうして春の畑仕事を始めることで、残ったうねには三春ネギの苗を植え、さらに余ったうねには何の種をまくかが決まる。既にサヤエンドウはうねの一角で越冬し、芽を伸ばし始めている。5月にはキュウリとナスと激辛トウガラシの苗を買って植える。これは定番だ。

時期を逃すことなく、逃したらおしまいだから、頭の中で秋口までを見通した栽培計画を立てる。決まったら一気に種をまいたり、苗を植えたりしてうねを埋める。農的な想像力が試されるときだ。

2009年4月2日木曜日

神谷の戊辰戦争


慶応4(1868)年の新政府と佐幕諸藩の戦いは、鳥羽伏見から江戸へ、東北地方へと拡大する。磐城平藩など奥羽越25藩が列藩同盟を結ぶと、これを討つべく新政府は西藩連合の大軍を北へさし向けた。

西軍は陸路・海路2コースに分かれて進攻した。海からの軍勢は平潟に上陸した。磐城で西軍と東軍が対峙し、「磐城の戊辰戦争」の戦端が切られる。が、東軍は敗走し平城も炎上する。市街戦の兵火によって多くの家が失われた。(いわき地域学會編『新しいいわきの歴史』)

いわき市民の圧倒的多数は、戊辰戦争を磐城平藩など列藩同盟の敗北として認識している。ところが一部、笠間藩分領で陣屋が置かれた旧神谷村の受け止め方は違う。本藩が西軍に加わったために、陣屋兵約50人は四面楚歌の戦いを余儀なくされた。陣屋や領内・四倉の名刹薬王寺、農家などが東軍に焼き払われた。が、ともかく勝ち組に入った。

志賀伝吉著『神谷村誌』にこうある。――奥羽連合軍の中にあって官軍として戦い抜いた陣屋兵の雄渾な精神は新政府からも高く評価され、平城が落ちてからは平藩内外の守備の任に就くとともに新政府との連絡に当たり、通達事項はみな神谷陣屋を経て行われた。

もとは同じ磐城平藩。藩主の国替え時に天領となり、笠間藩の分領(一時磐城平藩預かり)となって、明治維新を迎えた。勝っても負けても庶民にとっては迷惑な戦いだった。それに変わりはあるまい。

今はいわき市平中神谷になった旧神谷村に住んでいる。で、このごろ、笠間藩の視点から旧神谷村を見る癖がついた。次もその1つ。

朝晩、一定のコースを散歩する。そのコースの中で、いち早く開花した寺のサクラの木の下に古びた顕彰碑があるのを見つけた。戊辰戦争時、神谷陣屋の責任者だった武藤甚佐衛門をたたえる碑(いしぶみ)だ=写真

いわき総合図書館から『郷土誌』(昭和8=1933=年・神谷尋常高等小学校編纂)を借りて来て読んだ。碑と同じく、「郷土開発の功労者」として時の「郡宰」武藤甚左衛門が紹介されている。要は戊辰戦争時、賊軍(東軍)に囲まれながらよく耐え、勝ち残ったのは武藤甚佐衛門のリーダーシップのおかげ、ということなのだろう。

『郷土誌』の文章は碑の漢文を読み下したものと思って、デジカメで撮った碑文と比べ始めたら随分意訳・翻訳がある。碑の引用であることは断っていない。参考にはしたが、編纂委員(訓導=先生)が自分なりに簡潔にまとめたようだ。

戊辰戦争がらみではほかに碑が2つあるらしい。立鉾鹿島神社境内西側に立つ「為戊辰役戦病没者追福」碑(昭和7年建立)、そして陣屋があった現平六小(旧神谷小)の校庭内に旧笠間藩士が建てた「奉公碑」(大正6年建立)。追福碑は確認できたが、奉公碑はどこにあるか分からなかった。

自分の住む地域を3次元ではなく、時間軸を加えた4次元で見ると、また違った地域像が形成される。ゆっくりゆっくり記録されたものを読んでいこうと思っている。

2009年4月1日水曜日

マグロの切り落とし


このごろ、よく「マグロの切り落とし」=写真=を食べる。夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)の無量庵で一夜を過ごすときの酒のさかな兼ご飯のおかずに、途中のスーパーで買ったのが始まり。

スーパーでは冬もカツオの刺し身を売っている。冷凍ものなので食べる気にはならない。マグロの刺し身も好きではない。赤身の刺し身に関しては、生ガツオが水揚げされるまで「封印」する――去年まではそうして我慢してきた。

それが突然、マグロの切り落としを見たとき、「海鮮丼の具は、これではないか」と閃いた。自分流に「ご飯のねた」にすればいいいのだ。買って食べたら正解だった。醤油につけた切り落としにわさびをちょいとのせて、温かいごはんと一緒に食べたら、うまかった。病みつきになった。酒のさかなにもなる。

まず値段が安い。1人で食べる分には399円で済む。ちょっと多めで500円。きのう(3月31日)、カミサンとスーパーへ買い出しに行ったついでに500円の切り落としを買った。レジに並んで、見るともなしに前の男性客のかごを見ると、399円の切り落としが2パック入っていた。ご同輩?だ。

世界同時不況の世の中、よけいな出費は避ける。見た目のきれいさよりも中身を、堅実さを選ぶ。そうした「生存本能」が広く、無意識のうちに作用し始めているのか――。ご同輩の存在に、自分の嗜好の変化もからめて、そんなことをちらりと思った。私と違って世間にはもともとマグロ嗜好が強いのかもしれないが。

酒のさかなとしては初ガツオの便りが届いたあとの生が一番、という思いに変わりはない。行きつけの魚屋さんに冷凍ガツオが入っても、我慢してイカやタコ、ヒラメなどの白身の刺し身を買うようにしてきた。

カツオは初夏から晩秋にかけて、ほぼ毎日曜日、食べる。一筋(4分の1)はさばいてもらう。多少は尿酸値を気にして焼酎をちびりちびりやりながら、しみじみといわきに住む至福に浸る。酔う。カミサンも一食分、料理の手抜きができて楽だという。

これに、この年になってスーパーの「マグロの切り落とし」が加わった。経済が安上がりにできているのを浄土の親に感謝しよう。