2009年4月2日木曜日

神谷の戊辰戦争


慶応4(1868)年の新政府と佐幕諸藩の戦いは、鳥羽伏見から江戸へ、東北地方へと拡大する。磐城平藩など奥羽越25藩が列藩同盟を結ぶと、これを討つべく新政府は西藩連合の大軍を北へさし向けた。

西軍は陸路・海路2コースに分かれて進攻した。海からの軍勢は平潟に上陸した。磐城で西軍と東軍が対峙し、「磐城の戊辰戦争」の戦端が切られる。が、東軍は敗走し平城も炎上する。市街戦の兵火によって多くの家が失われた。(いわき地域学會編『新しいいわきの歴史』)

いわき市民の圧倒的多数は、戊辰戦争を磐城平藩など列藩同盟の敗北として認識している。ところが一部、笠間藩分領で陣屋が置かれた旧神谷村の受け止め方は違う。本藩が西軍に加わったために、陣屋兵約50人は四面楚歌の戦いを余儀なくされた。陣屋や領内・四倉の名刹薬王寺、農家などが東軍に焼き払われた。が、ともかく勝ち組に入った。

志賀伝吉著『神谷村誌』にこうある。――奥羽連合軍の中にあって官軍として戦い抜いた陣屋兵の雄渾な精神は新政府からも高く評価され、平城が落ちてからは平藩内外の守備の任に就くとともに新政府との連絡に当たり、通達事項はみな神谷陣屋を経て行われた。

もとは同じ磐城平藩。藩主の国替え時に天領となり、笠間藩の分領(一時磐城平藩預かり)となって、明治維新を迎えた。勝っても負けても庶民にとっては迷惑な戦いだった。それに変わりはあるまい。

今はいわき市平中神谷になった旧神谷村に住んでいる。で、このごろ、笠間藩の視点から旧神谷村を見る癖がついた。次もその1つ。

朝晩、一定のコースを散歩する。そのコースの中で、いち早く開花した寺のサクラの木の下に古びた顕彰碑があるのを見つけた。戊辰戦争時、神谷陣屋の責任者だった武藤甚佐衛門をたたえる碑(いしぶみ)だ=写真

いわき総合図書館から『郷土誌』(昭和8=1933=年・神谷尋常高等小学校編纂)を借りて来て読んだ。碑と同じく、「郷土開発の功労者」として時の「郡宰」武藤甚左衛門が紹介されている。要は戊辰戦争時、賊軍(東軍)に囲まれながらよく耐え、勝ち残ったのは武藤甚佐衛門のリーダーシップのおかげ、ということなのだろう。

『郷土誌』の文章は碑の漢文を読み下したものと思って、デジカメで撮った碑文と比べ始めたら随分意訳・翻訳がある。碑の引用であることは断っていない。参考にはしたが、編纂委員(訓導=先生)が自分なりに簡潔にまとめたようだ。

戊辰戦争がらみではほかに碑が2つあるらしい。立鉾鹿島神社境内西側に立つ「為戊辰役戦病没者追福」碑(昭和7年建立)、そして陣屋があった現平六小(旧神谷小)の校庭内に旧笠間藩士が建てた「奉公碑」(大正6年建立)。追福碑は確認できたが、奉公碑はどこにあるか分からなかった。

自分の住む地域を3次元ではなく、時間軸を加えた4次元で見ると、また違った地域像が形成される。ゆっくりゆっくり記録されたものを読んでいこうと思っている。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

初めまして
いわきの戊辰戦争を検索していましたら
辿りつきました。

平六小は私の母校です。
昔、木造の古い体育館がありその横に
大きな石碑がありました。
多分、笠間藩神谷陣屋跡の記述が
あったんだろうと思います。

心情的には会津藩派ですが、母校が西軍の
陣屋跡だったのは初めて知りました。
今度、違う視点で母校を訪ねたいと思います。

匿名 さんのコメント...

こんにちわ
神谷陣屋の一員として参戦した祖先を讃える石碑(襖大)が、中神谷の一山寺に有ります。
当時、神谷6人衆と言われていたそうですが分かる方がおりましたら教えてください。
古殿町の町史に、神谷陣屋に関する記述が有ります。
神谷陣屋の人たちは小川江筋の完成に尽力したと伝え聞いていますが、戊辰戦争で磐城平藩と敵対したため、その功績が歴史から消されていると思われます。
祖先の足跡を、探しています。