2009年4月19日日曜日

「一茶の未知の句発見」


いわきでは先の日曜日(4月12日)に報じられた「小林一茶の未知の句発見」に刺激されて、関連する本を読み漁った。読売新聞=写真=に載った「句日記の一部」の写真がヒントになった。

発句・成美、脇・一茶、第三・浙江(淅江)の順に、3人で句を連ねている。掲載の写真には33句まで見えるから、あと3句、計36句を連ねた歌仙(連句)に違いない。

夏目成美(1749―1816年)は江戸・浅草の札差「井筒屋」五代目。豪商だ。一茶の師匠の一人、そして庇護者でもある。小野浙江(?―1811年)は武州・関宿出身の俳人。同じ成美グループの一員として一茶と親交があった。

句日記が書かれた年月日は文化5(1808)年4月2日らしい、という。一茶の「文化句帖」には、同じ年の4月1日「小雨又晴 随斎入湯延引 浙江歌仙終」、3日「雨 成美 浙江箱根湯出立」とある。随斎は成美のこと。肝心の2日は「朝雨 晴」のほかに、一茶自身の句が3句記されているのみ。この「文化句帖」とは別の句日記があったということだろう。

専門家ではないから、これは当て推量。4月1日、成美の箱根行きが延期になり、浙江との歌仙が終わった。歌仙には成美も加わっていたのではないか。そうだとしたら、読売に載った「句日記の一部」は前日の歌仙を一茶が書き留めたもの、とみることもできる。

これも当て推量だが、一茶は3日、寂しい思いで成美と浙江の箱根行きを見送ったに違いない。本当は一茶も成美のお供をして箱根へ湯治に行きたかった。しかし、食客でもある一茶には「同行したい」などと申し出る勇気も、カネもない。「文化句帖」と照らし合わせれば、一茶の心中が透けて見えるようだ。

なぜ一茶が、成美が気になるかというと、わがふるさと(田村市常葉町)をおんでた俳人今泉恒丸(1751―1810年)が彼らと交流しているからだ。恒丸もまた成美グループの一員で、浙江とも付き合いがあった。彼らはしばしば一座して歌仙を巻いている。

そもそも私が俳諧ネットワークに興味を持ったのは、この恒丸の存在が大きい。「ふるさとの大先輩」をよく知りたい――30年前の思いが細々とながら途切れずにあって、極力、関係資料を集めるようにしてきた。興が乗れば『一茶全集』や『夏目成美全集』などを開いて関連する俳人の動向をチェックする。

調査研究以前の話だが、嫉妬や羨望、愛憎といったものが渦巻く俳人の内面を知るには、それで十分。とりわけ一茶が残した日記と、その他俳人の書簡などからはそうした人間臭さが色濃く立ち昇ってくる。その延長線上で時折、わが恒丸、そして妻のもと(素月尼)などの内面を想像してみるのだ。

近世後期の俳諧ネットワークは、研究者からは捨て置かれてきた世界。そのため、素人でも参入して夢想する楽しみが残っている。興味の途切れない理由がここにある。

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