2009年5月31日日曜日

サトウハチローの色紙


若い仲間がサトウハチローの色紙=写真=を持ってきた。九谷焼か有田焼かよく分からないが、カラフルな梅花の銚子と夫婦(めおと)ちょこの絵に、ハチローが「二人で歩む 遠い道もくたびれない」という言葉を寄せている。左隅に「千」とあるから、絵は俳画家水野千齢が描いたのだろう。

きのう(5月30日)、野口雨情記念湯本温泉童謡館でおしゃべりをした。童謡館らしいものをと頼まれ、毎月1回、童謡詩人について調べたことを報告している。

金子みすゞ、その師・西條八十という流れできているから、次はおのずと八十門人のサトウハチローとなり、5、6月はハチローについて話すことにした。それを知っている仲間が参考にと色紙を貸してくれたのだった。

色紙の言葉に「嘘つきハチロー」らしいと思った。ハチロー自身の実生活ははちゃめちゃ。色紙の人生とは反対の人生を生きた。「遠く険しい道を、長い人生を夫婦で歩む。睦み合い、助け合いながら。二人三脚だからこそ、くたびれずに前へ向かって行くことができる」。名もなく貧しく美しい庶民の夫婦愛をうたう。「くたびれない」に詩人のひねり・機知がある。

ハチローは「泣き虫の不良」だった。エゴイズムと無邪気な感情が背中合わせになっている人間だった(佐藤愛子「血脈」あとがき)。父親の作家佐藤紅録の血を引き、嵐のように実生活を走りぬけた。家族はたまったものではない。この矛盾の深さ・大きさがむしろ、ハチロー作品を魅力のあるものにしている。

歌謡曲の「リンゴの唄」「長崎の鐘」「悲しくてやりきれない」、童謡の「うれしいひなまつり」「ちいさい秋みつけた」。随所に小さなもの、かそけきものに対するまなざしが感じられる。とりわけ、ザ・フォーク・クルセダーズの「悲しくてやりきれない」は、わが青春の真っただ中にはやった思い出の歌である。

サトウハチローについて調べれば調べるほど、人格と作品は別だという思いが深くなる。生身の人間としてのハチローには敬遠のフォアボールを出したい。が、作品は親愛の度を増していく。これもまた矛盾ゆえの魅力だろう。

2009年5月30日土曜日

ニッコウキスゲ咲く


週半ばの水曜日(5月27日)早朝、起きるとすぐ夏井川渓谷(いわき市小川町上小川)へ車を飛ばした。無量庵の菜園でキヌサヤエンドウを摘み、生ごみを埋め、キュウリ苗やネギ苗の様子を見る。ついでにニッコウキスゲの花の有無をチェックする――それが目的。

まずはキュウリ苗。4株あるが、葉がすべて穴だらけになっていた。3日前の日曜日よりひどい。仕方ない。葉の表裏に殺虫剤を噴霧した。放置すればキュウリの生育がおぼつかなくなる。どこかで休んでいるのか、テントウムシダマシもウリハムシもいなかった。葉が薬でコーティングされていれば、しばらくはそいつらも近寄らないだろう。そう期待してのことだが、効果のほどはどうか。

ネギ苗を見ると、あらかたはすっくと立ち上がっていた。根づいたのだ。根元からちょんぎられて倒れている苗があった。ネキリムシがいる。周囲の土をほじると出てきた。ぶちっとやる。この幼虫がいるのでネギ苗も無事ではいられない。

キュウリとネギ苗のチェックが済むと、少し気持ちが落ち着いた。キヌサヤを収穫する。わきの県道を職場へ向かうマイカーが行き来する。時間は7時をちょっと過ぎたくらい。とっくにリタイアしたのに、なんだか仕事をさぼっている感覚に襲われる。貧乏性の変形か。

予定の作業を済ませたら、さっさと帰る。朝飯前だから、道草は食わない。途中、車を止めて谷をのぞいたら、黄色い花が咲いていた。ニッコウキスゲだ=写真。例年より開花が早い。

とはいっても、この時期になると遅くも早くもなく咲くアヤメのような花がある。ニッコウキスゲだって、今までは日曜単位だったのが、週半ばでチェックしたから、5月下旬に開花しているのが分かったにすぎないか。

私の知る限り、ニッコウキスゲは夏井川渓谷ではそこともう1カ所、ピンポイント的に生息しているにすぎない。なにか人為的なものと関係しているのだろうか。いつも不思議に思うことのひとつだ。

2009年5月29日金曜日

長靴をはいた犬


わが散歩コースの西のはずれに犬猫病院がある。庭に何匹かの犬がつながれている。1匹1匹、種類が異なる。人の姿を見ると吠える犬。犬小屋に上る犬。性格も、しぐさもばらばらだ。早朝、獣医さんがこれらの犬を散歩に連れ出す。

飼い主が飼育を放棄したため、やむなく獣医さんが世話をしているのだと、前に聞いたことがある。一度はつらい目に遭ったが、今は終(つい)の棲家を得たわけだ。

なかに1匹、毛のない犬がいる。最近、分かった。顔としっぽはそのままで、胴体の毛にバリカンが入れられたのだ。背中にはハート形の刈り残し、四本足も長靴をはいたように毛が残された。「長靴をはいた猫」ならぬ「長靴をはいた犬」=写真。5月に何日か暑い日があった。それで、その犬の体調を考えて“上着”を脱がせたのだろう。

ペットに関心がないので、よくは分からない。白の秋田犬だろうか。老いているのだろうか。ほんとに長靴をはいているような脚でふんばり、しょぼしょぼした目でこちらを見ている姿がなんともおかしい。ふさふさした白毛の顔と裸の胴体のアンバランスさも。

「長靴をはいた猫」はヨーロッパにすむ策略家で、悪知恵をはたらかせて主人の若者を姫のムコさんにする。自分も貴族になり上がり、遊びでしかネズミを捕らなくなる。長靴にはそういう魔力があるのか。

こちらの犬はしかし、自前の毛だ。長靴をはいているように見えるだけだから、魔力を発揮することはない。代わりに、散歩する人間の目を楽しませてくれる。ここ数日、散歩へ出かけるとき、真っ先に思い浮かぶのがこの「長靴をはいた犬」だ。犬小屋に入って寝ていると、胸の中心で叫ぶ。「出てきて姿を見せてくれよ」

そばの堤防(通学路)を通る小学生は先刻承知で、学校でも子どもたちの話題になっているのではないか。それほどこのワン公は、超現実的な生き物がどこからか舞い降りてきてそこにいる、といったようなおかしさを発散している。

2009年5月28日木曜日

ぞそっぺぇ


夏井川渓谷の小集落(いわき市小川町上小川字牛小川)で土曜日(5月23日)の夜、区の臨時総会が開かれた。そのあと総会恒例の懇親会に移り、懇親会恒例の「サバイバルグルメ」の話になった。週末、街からやって来る私が山菜やキノコ、木の実に興味を持っているためばかりではないだろうが、話はたいていそこに落ち着く。

「どこそこのラーメンがうまい」といった話がないわけではない。そういう「レストラングルメ」情報はネットで数限りなく発信されている。が、生存するためには、頭をレストラングルメ4割、サバイバルグルメ6割、そういうあんばいで使うべきだ、というのが私の考え。なにがなんでもではないが、ゆるやかにそう思っている。

サバイバルグルメを実践するにはいつも頭を働かせていなければならない。いつ採れる(捕れる)か、いかに採る(捕る)か、どう料理するか。そこに暮らし、生きるために創造力と想像力を傾ける。それが山里で暮らす人間の主要な関心事、といったら怒られるか。

食材は家の周りにあふれている。山菜・キノコ・木の実・昆虫・鳥・魚・獣……。懇親会では、その収穫(捕獲)・調理方法と味覚が次々に披露される。末法の世になろうと牛小川、いや山里の人間は何かを食べて生き延びるウデを持っている、というのはウソではない――それほど自然界について精通している。

そのウデも知恵もしかし、さまざまな試行錯誤の積み重ねによって鍛えられてきた。オニグルミは硬い殻を割って中身を食べる。「実が食べられるのだから、葉(新芽)=写真=も食べられるに違いない」。食に関して貪欲なKさんが挑戦した。

てんぷらにしたそうだ。その味は? 私に分かるように説明する。「このへんの方言で『ぞそっぺぇ』というやつ」。「ぞそっぺぇ?」。「ぞそ」から「ぞそぞそ」「ざさざさ」になる感じは分かるが……。 いまひとつピンとこない。

5月25日は月末の月曜日だから、いわき総合図書館は月1回の休み。おととい(5月26日)、いの一番に行って、方言関係の本をパラパラやった。こんな感じかな、ということがつかめた。浜通りと中通りの北部・中部で使われる「ぞそっぱい」。「ざらざらしている」という意味だ。

なにが食べられるか、なにが食不適で毒か。山里では今もこうして試行錯誤を重ねながらサバイバルグルメの知識が蓄積されていく。食文化の現在進行形が「ぞそっぺぇ」という方言から見えてきたのだった。

2009年5月27日水曜日

月光のような一絃琴の音


いわき市平のアートスペース・エリコーナで志賀敏広個展「花」が始まった。5月31日まで。会期中の30日夕方、清虚洞一絃琴宗家四代峯岸一水さん(東京)の演奏会が開かれる。

志賀さんは双葉郡川内村在住の陶芸家。知り合って15年ほどになる。今度の個展では、いわき開催のために案内状の作製などを頼まれた。陶芸ではなく油絵であるところがミソだ。

で、先日、志賀さんの案内で峯岸さんが会場を下見したあと、わが家へ立ち寄った。ありがたいことに一絃琴のデモ演奏をしてくれた。

一絃琴は古来、演奏する人の情操を養い、人格を磨くための楽器、といわれる。「酒席で弾いたら破門されます」。ほんの少しの時間だったが、CD=写真=を聴いて感じていた以上に「内省の音楽」であることを実感した。

弾き手は弾き手で自分の心と向き合い、聴き手は聴き手で自分の心と向き合う。おのずとそうなるようなリズムとメロディー。デモ演奏を聴いたあと、大急ぎで宮尾登美子さんの小説「一絃の琴」を読んだ。坂本竜馬も習ったという土佐一絃琴の世界が描かれている。

幕末、真鍋豊平という一絃琴奏者が京都を中心に活躍した。その門下生に土佐藩士が多かったことから、土佐に一絃琴が根づいた。それがよく分かった。

この真鍋豊平の門下生の一人に、清虚洞一絃琴宗家流祖の徳弘太橆(とくひろたいむ)がいた。峯岸さんは太橆の玄孫。伝統を継承しながらも新しい試みに積極的に取り組んでいる。

演奏会では5~6曲を予定している。峯岸さん作曲の「こころ、しずかにする、おと」についての解説に、こうある。「一絃琴の音を月の光のようなイメージで浴び、一絃琴の音のすみずみまで耳を澄ますと、心が静かになっていくことがわかります」。まさにこれだ。一絃琴の音を何かにたとえるとすれば、人里離れた山峡に降り注ぐ月の光。

去りゆく5月最後の土曜日、よろしければ足をお運びください。

2009年5月26日火曜日

チョウゲンボウの停空飛翔


このところ毎日、ハヤブサの仲間のチョウゲンボウと対峙している。朝晩、あるいは日中、散歩と街への行き帰りに夏井川(いわき市平下神谷~中神谷地内)の河川敷や堤防の上の道を利用する。早朝はたいてい、国道6号バイパスの終点、夏井川橋の橋脚にせり出した作業台にチョウゲンボウが止まっている。休み場兼見張り場だ。

河川敷のサイクリングロードを歩きながら近づく。最短の場所でデジカメを向ける。鳥は視野が広い。前と横はもちろん、後ろの方まで見えるから、カメラを向けただけでさっと逃げる。いつも2コマを撮るのが精いっぱい。ブラインドを使わない限りは、人に見せられる写真は無理だろう。

でも、作業台に止まっていれば必ずシャッターを切る。ホバリング(停空飛翔)のあとの急降下、橋げたでの食事(小鳥の羽をむしっていた)、頭上でのはばたき……。デジカメのモニター画面ではけし粒にもならないほど小さい。

橋の上から近づき、カメラを突き出したこともある。たちまち異変を察知して姿を消した。体の半分も映っていなかった。人間よりよほど鋭敏だ。いや、向こうがこちらを記憶していて、堤防から橋の上へと歩みを換えたところから目で追っていたのではないか。完全に見られていた――そんな感じだ。

先週(5月21日)、車で堤防を通っていたら、すぐ近くでチョウゲンボウがホバリングをしていた。堤防の先端よりはすこし高い程度の空中から河川敷を凝視している。車を止めて窓から後ろ姿をバシャバシャやった=写真。後方に車が来て止まったことをたぶん察知したはずだが、狩りはやめない。珍しく何コマも撮った。

それだって満足のいく写真はない。ハトと同じ大きさとくれば5メートル以内には接近したい。どうしたらチョウゲンボウの警戒心をほぐせるか。いや、散歩の途中にいい写真を撮ろう、などと思うこと自体、不遜なことなのだ。

2009年5月25日月曜日

低断熱・低気密


「トカゲの飾りの上にトカゲがいる」「???」。カミサンの話がよく分からない。導かれるままに行くと、地域図書館(かべや文庫)として開放している部屋の、ディスプレー(元は透かし欄間)の先端にカナチョロ(ニホンカナヘビ)が鎮座していた。すぐ下には布でできたトカゲのストラップがつるしてある。

ストラップのトカゲに引かれたかどうかは分からない。が、地上最小クラスのトカゲもどきが部屋に入って来て、ディスプレーの欄間に駆け上がった。駆け上がったのはいいが、行き場を失って動きが取れないでいた。そんな風情である。レジ袋を広げるとポトリと入った=写真=ので、縁側から庭へ放してやった。

道路に面した粗末な家である。東西に生け垣、南に小さな庭。庭には草木が茂っている。葉を食害するガの幼虫やナメクジ、カタツムリ、コガネムシ、ほかにクモ、ワラジムシなど小さな生き物には事欠かない。カナチョロはいわば、これら小動物の頂点に立つ庭の王者だ。

「カナチョロのすむ家」は「スズメバチのやって来る家」でもある。5月21日の夕方、庭を背に戸を開けたまま晩酌を始めたら、キイロスズメバチが1匹、侵入して来た。おつむのてっぺんを刺されたらたまらない。ハエたたきで撃退した。

同じ日の昼、ヤブカが現れた。両手でパチッとやると、てのひらに赤い血が散った。私は刺されなかったから、ほかの人間の血を吸って動きが鈍くなっていたのに違いない。わが家にヤブカが出現するのは毎年5月20日ごろと決まっている。今年の初見は19日。車の窓を開けておいたら入り込んでいた。

「低断熱・低気密」の開放系住宅。ガタがきて家がすきまだらけになっている。カやスズメバチのほかに部屋の中を飛び回る虫は多い。「高断熱・高気密」の家に住む若い家族には、これが気になるらしい。自然素材で無煙・無臭の「ムシコナーズ」はないものか。

2009年5月24日日曜日

植樹祭、今年は晴れ


いわき市の植樹祭がきのう(5月23日)午前、鮫川支流・入遠野川そばの遠野オートキャンプ場で開かれた。「水源保全協力員」のカミサンに毎年、案内状が来る。で、出席するときは運転手役を務めることになる。

去年は川前町のいわきの里鬼ケ城で開かれた。高原の冷たい雨がこたえた。今年は晴れ。少し風が強かったものの、薄絹のような雲の上に青空が広がった。

カミサンは前にもオートキャンプ場に来ている。私が運転したと思い込んでいるから、いろいろ聞く。ところが、こちらには記憶がない。この年になると、「来たけれども忘れた」のか、「来たことはない」のか、定かではなくなる。自信がないから答えないでいると、いよいよたたみかけてくる。ますます自信がなくなる。

オートキャンプ場に入る道路と周辺の景色を見て、初めて「来たことがない」ことが分かった。逆襲に出て、ようやく知り合いの女性の車で来たことを思い出したようだった。

オートキャンプ場は入遠野川より二段ほど高い場所にあった。川の上に道路があり、道路の上にオートキャンプ場が整備されている。もとは水田だったという。ちょうどすり鉢の底のような感じ。場内に植えられたトチノキの花が満開に近かった。

川の対岸は黒々とした杉山、キャンプ場の周囲も一部広葉樹を除いて杉山だ。私が週末を過ごす夏井川渓谷は谷こそ険しいが、広葉樹の天然林なので圧迫感はない。こちらは空を刺すように杉が密生している。息苦しいくらい。都会の人間にはそれが、緑の屏風に囲まれた「隠れ里」のように感じられて、逆にいいのかもしれない。

参加者約200人がオートキャンプ場の周辺にヤマツツジ、ヤブツバキ、サザンカ、イロハモミジ、エゴノキなど約500本を植えた=写真。地元遠野の産物である和紙の継承を願ってミツマタも植えられた。

旧知の市職員も各地から動員された。1年に一度、植樹祭で顔を合わせるだけの職員もいる。「七夕みたいだ」と笑うしかなかった。ちなみに、いわき市水源保全基金の水源保全登録者制度によれば、「水源保全協力員」とは5万円以上を寄付した個人を言うそうだ。

2009年5月23日土曜日

もっと長居してくれよ、5月


今年の5月はしのぎやすくさわやか、という点では平均点をはるかに上回っているのではないか。黄金週間後半の好天、10日、20、21日のいかにも初夏らしい陽気。後年、「平成21(2009)年の5月は素晴らしかった」などと懐かしむようになるかもしれない。

で、この5月、ときどき草野心平の詩「五月」を思い出していた。

すこし落着いてくれよ五月。
ぼうっと人がたたずむように少し休んでくれよ五月。

樹木たちが偉いのは冬。
そして美しいのは芽ばえの時。
盛んな春の最後をすぎると夏の。

濃緑になるがそれはもはや惰性にすぎない。
夏の天は激烈だが。
惰性のうっそうを私はむしろ憎む。

五月は樹木や花たちの溢れるとき。
小鳥たちの恋愛のとき。
雨とうっそうの夏になるまえのひととき五月よ。
落着き休み。
まんべんなく黒子(ほくろ)も足裏も見せてくれよ五月。

5月を象徴するのは、「五月」にあるように夏鳥(たとえばオオヨシキリ=写真)と草木の花、そして乾いた空気と若葉をやさしくなでて過ぎる風だ。暑からず寒からず。汗ばむ日があっても下着がべとつくほどではない。

5月下旬、山野はすでに「夏の濃緑」になったが、「うっそうを憎む」なんてとんでもない。「うっそう」の緑になってもいいから、もっともっと5月よ、長居してくれ――そんな心境だ。

さて、おととい(5月21日)の夕方、市役所の広報カーがなにか言いながらわが家の前を通過して行った。前にも同じようになにか言いながら通り過ぎて行った。光化学スモッグ注意報が解除されたことを告げるものだったか。5月で唯一、いや5月に限らないが、いただけないのはこの光化学スモッグだ

2009年5月22日金曜日

同級生の訃報届く


ケータイに「着信」の表示があった。気づいたのは夕方。着信時間は朝、実家の兄からだった。小・中学校と同学年だったO君が死んだ。腹部大動脈瘤破裂による急死だった、という。

「団塊の世代」のど真ん中。阿武隈の山の中の町・常葉(現田村市常葉町)で生まれ、育ち、一緒に学んだ。同学年は中学校卒業時、232人。去年(2008)2月、還暦同級会を郡山市の磐梯熱海温泉で開いた。そのときに代表あいさつをした地元組3人のうちの1人がO君だった。

同級会の資料を読み直した。そのとき、既に14人が鬼籍に入っていたことが記されている。そこに今度はO君が加わった。

今までに風の便りで訃報を聞いたのは4人だったか。10代後半で病死したY君。21歳のころに交通事故で亡くなった別のY君。坂を越えて隣接する地区にいたA君。西の小学校から来て妙にウマがあったT君。

いや、もう1人いる。小学校5年生のとき、私といつもつるんで悪さの方棒をかつぎ、私と一緒に担任にこっぴどく叱られていた、わが友「サル」ことW。Wは若くして利根川でおぼれ死んだ。泳いでか、いや釣りをしていて飲み込まれた――そんなことを昔の同級会で聞いたとき、胸が張り裂けるような思いがした。

O君は小学1年生のときから1人、飛び抜けて巨体だった。背が高く、太っていた。でも、ぎゅっと肉はしまっていた。中学校ではバレーボール部で一緒だった記憶がある。9人制の時代。私もO君に近いくらいに背が伸びて、前衛をまかされた。彼も前衛ではなかったか。

中学校には3つの小学校の卒業生が進学した。西の西向小、東の山根小。そして、一番数の多い真ん中の常葉小学校卒業生でもあるO君や私らは、昭和31(1956)年4月17日の夜に大火事に遭った。東西に伸びた一筋町。罹災を免れた地区もあるが、おおかたは家を焼失した。                                       
そういえば、去年の同級会で大火事の避難先を聞いたとき、幼友達だった1人(女性)は東の山根小とこたえながら、急に火災旋風を思い出したのか、「歯がガチガチした」と、そのときの恐怖を語った。こちらは、歯はガチガチしなかったが、電信柱によりかかって心がガチガチになっていた。O君もそんな1人だったろう。               
救急車で病院へ運ばれ、亡くなったのはおととい(5月20日)。その日に撮ったアヤメの写真をO君の魂に捧げる。

2009年5月21日木曜日

キュウリ苗にパラソルをかける


日曜日は夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)の無量庵で過ごす。以前は土・日の一泊二日が定番だったが、フリーになってからはかえって泊まる回数が減った。先の日曜日は雨、用事もあって街で過ごした。

無量庵へ行かない日が1週間を超えると、胸中に満たされないものが膨らんでくる。で、きのう(5月20日)朝、キュウリ苗と生ごみを車に積んで無量庵へ出かけた。5月10日の日曜日以来、10日ぶりである。その日と同様、朝から気温が上がり、やや強めの風が吹き渡っていた。

キヌサヤエンドウはソラマメくらいに肥大しているのではないか。真っ先にチェックしたら、そうでもなかった。未熟果をいっぱい摘んだ。それから10日につくっておいたキュウリの畝にたっぷり水をやり、ポットのキュウリ苗を定植し、乾燥防止用のもみ殻を敷き詰めた。

直射日光が容赦なく注ぐ。1本支柱にテープを垂らして苗の茎を縛りつけたあと、テーブル用の大きなパラソルを日除けにした。ところが、風がいたずらをする。ブロックを重しにして、テープでパラソルを固定した=写真

太陽が真上に近づいたときはまあまあだったが、午後1時を過ぎるとパラソルの影がずれて再び直射日光にさらされる苗が出てきた。それ以上は苗自身が辛抱するしかない。ポット苗は結構強い。葉がしおれても夜のうちに地中の水分を吸収して元に戻る。水はたっぷりやったから、まず大丈夫――そう判断して放っておくことにした。

それより心配なのはテントウムシダマシ。畝に水をやっているうちから飛んで来て、ポットのキュウリ苗に取りついた。葉を食害する。見つけ次第捕殺するのだが、1週間に一度ではままならない。ここ当分は、キヌサヤの収穫を兼ねてこまめに通うしかないようだ。

2009年5月20日水曜日

「基本のえんぴつ画」


わが家の近くにある神谷公民館で昨日(5月19日)午前、前期市民講座のひとつ「基本のえんぴつ画」が開講した=写真。10月初旬まで5カ月にわたって月2回、デッサン、スケッチ、クロッキーなどの基礎を学ぶ。講師は元中学校美術教師・校長の佐久間静子さん。

私は、絵の実技とは無縁の人間だ。が、この10年余、夏井川渓谷(いわき市小川町)をフィールドに虫や植物、菌類の写真を撮っている。写真を撮ったら終わり、細部はカメラまかせ。まったくわが頭に被写体の細部が刻印されていない。その経験から対象物、特にキノコの細部を把握し、理解するにはスケッチが欠かせないことを痛感している。

独学でスケッチを始めたが、どうもしっくりこない。そこへ、「基本のえんぴつ画」講座の募集チラシが入った。ためらわずに応募した。市民講座を受講するのは初めてだ。というより、「会社人間」には講座に参加する時間がない。リタイアしてようやく時間を選べるようになった。

受講生は24人。神谷公民館では3年前から佐久間さんを講師に、美術関係の講座が開かれていた。私は4年目の今年初めて、こうした講座があることを知った。で、引き続き受講している人が多い。最高齢は80歳をとうに超えている。私はたぶん、何人かの女性を除けば年齢的には序の口の部類ではないだろうか。

初回はスケッチの基礎学習。「鉛筆けずりからデッサンは始まる」という心構えから始まって、練り消しゴム・プラスチック消しゴムの使い方、形と明暗の表現を学んだ。線は水平・上から下・下から上・らせん・往復、そして球・円錐・円柱・立方体の明暗。それをスケッチ資料の余白にまねてかきこむ。同じようにタマネギ・パンも資料の余白にかいた。

一種の授業としてスケッチと取り組むのは10代の半ば以来だ。まるで落がきに目覚めた少年みたいな感覚。2時間の授業が終わるころには頭の芯がうずくくらいに疲れた。「肩に力が入っているから」(講師の佐久間さん)そうなるのだろう。

最初に佐久間さんからこう言われた。「周りの人の絵と比べない」「自分の絵をダメだと思わない」。なんのために受講したのか――キノコを、ほかの生物をよく観察するためだ。それを忘れなければ、自分なりの表現を楽しめるはずである。写真とは違うものをつかむために鉛筆を握るのだ。

2009年5月19日火曜日

天使の風鈴


たぶん、その音色を聞かなかったら身近に置きたい、とは思わなかっただろう。いわき市郷ケ丘にある輸入雑貨の店「オルドナンス」に、ときどきカミサンのお供(運転手)で行く。どちらかといえば女性好みの店だから、むさくるしい男には居心地がいいような悪いような。

それは長さ40センチほどの「天使の風鈴」だ。背中に黄金の翼をもち、弦楽器を奏でている透明な天使が6人、4本の棒(天と地を結ぶ光の柱?)を取り囲んでいる。この棒に触れると音がする。音は、棒の内側から静かに、清らかに、気高くしみ出してくる感じ。チベットのお鈴とはまた違った音色だ。私が欲しくなって買い求め、茶の間に飾った=写真

インドネシアのバンブーチャイムがわが家の玄関にある。こちらは強い風が吹くと乾いた音がする。日本の風鈴もそうだが、その国の風土が生んだ風の楽器だ。

ときどきわが家にやって来る2歳の男の子は、抱き上げると電球のひもでも、バンブーチャイムでも、のれんでも、何でも引っ張る。

天使の風鈴は引っ張られたら壊れないだろうか。壊れそうだから触らせないようにしよう。ところが、写真を撮ろうとして別の場所に飾ろうとしたら落としてしまった。ガシャンと音がした。カミサンに怒られる――。音がしたのは金属製の棒、天使はプラスチックだったので壊れずに済んだ。ほっとした。

商品名は「エンジェルウインドウ」(台湾製)。「天使の窓」? 正確には「エンジェル・ウインド・チャイム」(天使の風鈴)ではないのか。

この年になって風鈴に引かれるようなこともある。いや、たぶん聞いたことのない音だったので反応した。初めて見たり聞いたりする――そんなことはこれからもいっぱいあるに違いない。

2009年5月18日月曜日

雨の日曜日、フリマへ


日曜日(5月17日)はあいにくの雨。午前中は「アッシー君」を務め、午後はやることもなく「雨読」で過ごした。

いわき市平の新田目(あらため)病院で「春のフリーマーケット」が開かれた=写真。カミサンの幼なじみが経営している。顔を出さないわけにはいかない。朝、早々と出かけた。

会場が雨で体育館に変更された。たちまちフロアが売り手で埋まっていく。午前10時の開会時間前から買い手が加わり、品定めが始まる。こちらはやることもなく会場をぐるぐる巡るだけ。ブースによっては100円、150円、200円といった値段が主流だから、1,000円級の値札がついているとえらく高く感じる。

カミサンが妹と2人で大きな袋に2つも3つも買い込んだ。私も手のひらに乗る卓上温度計を買い、勧められるままに目の細かいコーデュロイの紺色のシャツを買った。100円ないし200円。温度計は外国製かもしれない。すべて英語表記。時計でいえば正午の位置に20度の表示がきている。赤い矢印が右側に傾けば気温が高くなり、左側に傾けば低くなる。

家に帰って早速、シャツを着替えた。目の確かな人が勧めてくれたのだから、気に入らないはずがない。いや、ブースの一番隅にあるのを見て気に入っていたのだが、小さそうだったので放っておいたのだ。前に、やはり目の細かいコーデュロイの黒い背広を買った。300円だったか、500円だったか。これも気に入って、毎年、冬中着ている。

午後は骨休めと蓄積した酒の毒消しを兼ねて昼寝をした。雨さえ降らなければ、1人で夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵へ出かけ、キュウリの苗を植えるところだが、仕方がない。目が覚めたあとは本を読んだり、テレビで競馬を見たりして過ごした。気持ちの上ではなんともフワフワした、寄る辺ない一日だった。

2009年5月17日日曜日

スペイン風邪と安政コロリ


幕末、大江戸で名をはせた俳諧宗匠の1人に出羽国で生まれ、磐城平の専称寺(浄土宗名越派総本山)で修行した一具庵一具(1781―1853年)がいる。その彼の端午の節句の句。「末の子は隠居で育つ幟(のぼり)哉」。といっても本人は独身。現代ならこんな光景か=写真。無論、飛行機雲は20世紀の産物だが。

一具が死んで5年後の安政5(1858)年、コロリ(コレラ)が大流行する。一具の跡目を継いだ小川尋香は越後の俳人にあてて「悪病流行数万病死、己(すで)ニ当月祖郷、得蕪、西馬遠行あハれむべし」と書いた。

一具と親交のあった宗匠連、過日庵祖郷が8月7日、福芝斎得蕪が同12日、志倉西馬が同15日、コロリで死んだ。絵師の歌川広重も同じ年の10月12日にコロリにかかって死ぬ。

新型インフルエンザの患者が日本国内で初めて確認された。連日の報道もあって、ざっと90年前、大正7(1918)~8(1919)年にかけて、世界で流行した「スペイン風邪」のことが気になった。「安政コロリ」も同様だ。といって、何かを調べるわけではない。

最近読んだ酒井忠康著『早世の天才画家』(中公新書)、たまたま手元にあった「銀花」17号(1974年)などで、「スペイン風邪」で死んだ画家や詩人、俳人を知った。

村山槐多(1919年2月20日没)、関根正二(1919年6月16日没)。その前年には島村抱月(1918年11月5日没)、アポリネール(1918年11月9日没)。大正9(1920)年1月20日には、いわきにも縁の深い大須賀乙字がスペイン風邪をこじらせて肺炎にかかり、死んだ。島村抱月が死んだ2カ月後に、松井須磨子が後を追う。

哲学者内山節さんの近著に『怯えの時代』(新潮選書)がある。文字通り、見えないものにおびえて暮らす日々。せめて小さい者のいのちが明日へとつながっていくことを祈る。

2009年5月16日土曜日

ミツバチとネギ坊主


ネギ坊主が大きくなった。自家採種をしない菜園では、ネギ坊主ができる前に花茎と葉を刈り取る。花茎は硬い。食べるには適さない。それで、菜園によっては片隅にネギ坊主が打ち捨てられている。そうして、軟らかな葉が再生するのを待つのだ。

夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵にあるわが菜園でも、「三春ネギ」が大きなネギ坊主をつけた。薄皮がはがれ、小さな花が咲いて、虫たちがひっきりなしに訪れている。なかにニホンミツバチとおぼしき小さなハチがいた=写真。

隣家(といっても40メートルくらいは離れているだろうか)の庭先にミツバチの巣箱がある。そこを「蜂蜜工場」にしている働きバチか。それとも、野生のニホンミツバチか。

渓谷からずっと下った平野部のいわき市平・塩。ここでも知人がニホンミツバチを飼っている。分封の時期に入った。いわき市の山間部に住む人がその一群をもらっていった。ところが、4月下旬だというのに急に冷え込んで雪(平野部では雨)まで降った日、ハチたちが全滅したという。なんとも哀れな話だ。

花に誘われるのはミツバチだけではない。ハナアブ、シジミチョウ、カナブン、その他の虫たちの力を借りて受粉が行われ、花が咲き終わると、ネギ坊主は小首をかしげるようになる。花茎が脱力するのだ。子孫を残すために硬くまっすぐ立ったのだから、あとはしおれるだけ。

その兆候が見られるようになると花茎から切り離し、乾かして黒く小さい種子を採る。種子は小瓶に入れて、秋まで冷蔵庫の中で眠らせる。今年はその作業が早まりそうだ。

2009年5月15日金曜日

志賀敏広個展「花」のPR


双葉郡川内村に住む陶芸家志賀敏広さんの個展が5月26日から31日まで、いわき市平字大町のアートスペース・エリコーナで開かれる。今回は陶芸ではなく、油絵。「花」を主題にしている=写真。絵描きとしては“いわきデビュー”の展覧会だ。

私の実家のある田村市常葉町と川内村は、阿武隈高地の最高峰・大滝根山と山頂部で隣り合っている。日常行き来するには遠いが、意識の外にある場所ではない。15年以上前になるだろうか、実家へ行った帰りにカミサンと川内村の彼の(そして、奥さんの)工房を訪ねた。それ以来の付き合いだ。

遊び心が旺盛な人間である。手料理をふるまうコンサートを開いたり、マツタケを焼いて食べる酒宴を催したり、川面を渡る風と水の流れを舞台にした箏の演奏会を開いたり……。こちらも嫌いではないから、何度か招きに応じて駆けつけた。

創作活動も陶芸にとどまらない。木工が得意だ。径30センチはある丸太を脚に利用した板テーブルと丸太を割いた長いすのセットを買って、夏井川渓谷の無量庵へ運んでもらった。今も庭にでんとある。

美大出だから絵が“本業”なのかもしれない。とはいえ、これまで絵が話題にのぼることはなかった。今年1月にやって来て、「いわきで個展を開く、ついては同い年のよしみで案内状に文章を書いてくれ。テーマは花」というので、初めて絵を描いていることを知った。深く考えることがあって、還暦を迎えた。それも作用しているようだ。

コンサートも開きたい――いつもの遊び心がうずいた。おそらくいわきでは初めての「一絃琴コンサート」を会期中の30日午後5時過ぎから開く。そのことも盛り込んだ案内状を頼まれてつくった。

というわけで、今回は志賀敏広さんの個展と一絃琴コンサートのPRとなった次第。30日の夕方、たまたま来場していれば一絃琴の音色も耳に入ります。いちおう整理券を発行しましたが、同一会場ですから「立ち聞き」です。どうぞエリコーナへ足を運んでください。

2009年5月14日木曜日

ヨシ原にウグイス


さえずる声は遠く近く聞こえても、姿はめったに見せない。いや、小さくて分からない。ヤブを好む鳥だから、なおさらだ。「ホー、ホケベキョ」。それを繰り返して、ときどき「ホー、ホケキョ」となる。すんなり「ホー、ホケキョ」と歌う個体には最近、お耳にかかったことがない。

夏井川渓谷(いわき市小川町)の集落にすむウグイスだけかと思ったら、マチ場のウグイスも同じようになまる。河口に近い平野部の夏井川。ウグイスは早春、右岸のいわき市平山崎でさえずりを始める。彼らの歌も多くは「ホケベキョ」だ。

わが朝晩の散歩コースである山崎の対岸(左岸)、平中神谷はヨシ原。そこは夏鳥のオオヨシキリのすみかだ。今年は早くも4月下旬に渡って来た。「ギョギョシ、ギョギョシ」とやや濁った声でさえずるので分かる。それが、最近は「タカジー、タカジー」と聞こえる。ちっちゃな男の子から「ジージー」と言われるようになったせいかもしれない。

おととい(5月12日)早朝、ヨシ原に接するサイクリングロードそばのヤナギの木で2羽の鳥が追いつ追われつしていた。追ったのはオオヨシキリ、追われたのはウグイス。ヨシ原にはところどころ、ヤナギやニセアカシアなどの木が生えている。とはいえ、ヤブのないヨシ原ではウグイスは分が悪い。

至近距離ではっきりとウグイスの姿を見ることができた。写真も撮った=写真。きのうの夕方はさらに、別の場所でさえずる姿まで見た。去年までもそうしてさえずっていたのだろうか。こちらが見えていなかっただけなのだろうか。

夏井川のオオヨシキリは、托卵するカッコウがいないから安心していられる。去年はとうとう声を1回聞いただけに終わった。ウグイスにはホトトギスが托卵する。こちらは間もなく鳴き声が聞かれるようになる。そんなことを考えていたら、今が愛鳥週間(5月10~16日)であることに気づいた。

キジが毎朝姿を見せる。オオヨシキリが、ウグイスが目の前までやって来る。姿を見せてさえずる。むしろ野鳥から「愛人週間」のプレゼントをもらったようなものだ。

2009年5月13日水曜日

「イノシシ捕獲作業」予告


日曜日(5月10日)に夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵へ行ったら、玄関のたたきに隣組の回覧が落ちていた。いつものように区長さんが戸の隙間から差し込んでくれたのだ。中に有害鳥獣(イノシシ)捕獲作業についての「いわき市からのお知らせ」があった。

「現在、小川町一円でイノシシによる農作物への被害が多発しています。つきましては、次の日程で捕獲作業を行いますので、お知らせします。【銃器及びわな使用による捕獲】→5月16日(土)から7月18日(土)」

市街地に住んでいてはあまり分からない、人間と生き物のせめぎ合い。いや、生き物と人間が交錯し、影響し合って生きている場所での、多少強引な折り合いの付け方だ。

夏井川渓谷にもイノシシは現れる。田畑が荒らされる。その予防のため、畑にトタンやネットが張られている。わが無量庵でも去年は土手がほじくり返された。作物はネギが中心だから、今のところ被害はない。ただ、それらしい足跡から、庭を、近所を歩き回っていることは推測できる。

イノシシだけではない。ハクビシンも、タヌキもいるのではないか。畑に生ごみを埋めると、いつの間にかほじくり返されている。

無量庵の近くに釣り堀がある。養殖のイワナなどを狙って、時折、アオサギがやって来る。最近はカワウが定留している。よく飛んでいるのを目撃する=写真。渓流にももぐる。ウグイやヤマメが目当てなのだろう。大食漢だから、もうかなりの数を飲み込んだのではないか。

ヤマセミも、アオサギも、カワウも、人間の営みを脅かすようになると「害鳥」扱いだ。イノシシはその象徴のようなもの。先日も地元のKさんが斜面の畑に出ていた。遠目にイノシシ除けのネットを張っているようだった。「とっ捕まえて食ってやるぞ」なんて、胸の中でつぶやいていたのではないか。

2009年5月12日火曜日

昔ながらの夏ミカン


日曜日(5月10日)の夕方、車で近所の家の前を通ったら、入り口のブロック塀の前に「どうぞ自由にお持ち下さい」と書かれた札と、夏ミカンの入ったポリバケツが置いてあった=写真

朝晩散歩するコースだ。旧知の人の家でもある。道にかぶさるように夏ミカンの木が茂っている。黄色く大きな実がいっぱい付いている。いつだったかご主人と話したら、昔のタイプの夏ミカン、ということだった。

カミサンの実家の菩提寺にも同じような夏ミカンの木がある。兼務住職が「いくらでも持ってってください」というので、皮を白菜漬けの香り付けに利用したことがある。皮は白い綿の部分が厚い。そのまま干して漬けたら、苦みもしみ出て閉口した。果実は酸味が強い。ニガ・スッパ。まさしく昔の夏ミカンだ。

わが家に着くとすぐ、レジ袋を持って夏ミカンをもらいに行った。歩いて2、3分のところ。ご主人はいなかったが、嫁さんが庭にいた。声をかけると「どうぞ、どうぞ」。

中身は食べる。あるいは、晩酌時、お湯割り・水割りに汁をしぼって入れる。中身をそのまま入れてもいい。皮を薄くむいて干したのは浅漬けの香り付けにする。綿は極力カットするのが苦みを避ける知恵というものだ。

同じ浅漬けでも、糠漬けはまだ。間もなく再開するときに風味を増すべく干した皮を加えてもいい。

さて、「自由にお持ち下さい」をどう考えたらいいのだろう。かねがね肥大した果実を欲しがっていたのは確か。ご主人が、そんな人間がいることをふと思い出したか。ただ腐らせるよりは欲しい人がいればさし上げよう――。「譲り合い」「分かち合い」の精神がより必要な時代になった、そうした時代の気分を地域の片隅に見た、と言ったら言い過ぎか。

2009年5月11日月曜日

「ゲキカラ」定植


家庭菜園のレベルだからこんなものかと、長らく買い手としては思っていた。好みの苗や種は選べない、品種は一つだと。ところが、売っている店によって手に入る種や苗は異なる。それを知ったのは最近だ。

雑貨店でも、大型店でも売っている種と苗は同じ。が、ネギにもいろいろある、キュウリにもいろいろある。少しずつ違いが分かってきた。違う種と苗を売っている店があれば、見に行く。

野菜の種も苗も、大量生産・大量仕入れ・大量販売のシステムのなかで動いている。自分で種を採るようになったネギ(三春ネギ)に関しては、それを超えるやわらかさ・甘さ・香りがあれば、種を、苗を買いに行くのだが、まだそこまでの「出合い」はない。

「三春ネギ」の近隣地で栽培されている「阿久津曲がりネギ」、これは重要な「研究対象」だ。冬にヨークベニマルで売っていたのを買い求め、数株を残して生態を観察している。

それはさておき、いわき市四倉町に昔からある種屋へ、漬物用にしているイボイボのキュウリの苗を買いに行った。「イボイボの」というとすぐ了解したが、売り切れてない。近く入荷するという。

ならば、売ってる苗を――と見たら、あった。激辛トウガラシ。去年は面白半分で買った。が、文字通りのゲキカラ度に辟易した。といって、使い道がないわけではない。イボイボのキュウリを古漬けにするには、殺菌用に激辛トウガラシが欠かせない。冬の白菜漬けにも。ほかに「食べられるトウガラシ」「つるなしインゲン」などの苗を買った。

夏井川渓谷(いわき市小川町)にある無量庵の菜園にポット苗を植えたのは、きのう(5月10日)。朝から気温がぐんぐん上昇した。真夏日にならなかったにしても、それに近い気温だったのではないか。あの暑さだ。1時間ほどだったが、水をがぶがぶ飲みながら作業をした。終われば昼寝。対岸の緑が一色に収斂しつつある=写真

2009年5月10日日曜日

ヨシ原に君臨する雄キジ


このところ毎朝、散歩コースのヨシ原に雄キジが姿を見せる。見せるというよりは、流木や倒木の上に立って辺りをへいげいしている。そこら一帯が彼のテリトリー(縄張り)なのだろう。「今日のキジ太郎」といったノリで、毎日、レンズを伸ばしてデジカメのシャッターを押す=写真

いわき市平中神谷地内の夏井川。大きく蛇行しているために、左・右岸で交互に河川敷が広がる。右岸は前年度、水害防止の土砂除去作業が行われた。左岸のヨシ原は春先、地元の区によって火が入れられた。今は新芽が人間の膝あたりまで伸びている。ほかの草もぐんぐん背丈を伸ばしている。私が毎日散歩しているところだ。

あおあおとしたヨシ原に、倒れたヤナギの木や大水のときに上流から運ばれて来た木が何本か横たわっている。これも間もなく成長したヨシに隠れる。この流・倒木が「キジ太郎」の休み場兼見張り場だ。ここには少なくとも3羽の雄キジが割拠している。流・倒木に君臨している「キジ太郎」はその中央の住人。

ある朝は岩山から下界を見下ろすワシのように顔を上げ、ある朝は沈思黙考をする哲学者のようにうつむき、ある朝はおどおどした子どものように落ち着かない。流・倒木の上に休んでいるのは同じでも、表情・様子は異なる。

散歩コースでもあるサイクリングロードから5~15メートルしか離れていないので、ウオーカーの目にも入りやすい。「あれっ、キジだ」。そんな場面もちょくちょく目撃する。

普通、キジは人間を見ると姿を隠す。この「キジ太郎」はよほどでないと動かない。むしろ、これ見よがしに流・倒木の上に立っている。変わり種だ。それで、歩きながら何枚も写真が撮れる。といっても、自然環境の一部としてのキジであって、キジそのものの写真ではない。

それはともかく、ヨシが大きく成長したらクジャクのように木の枝にでも止まるのか。そうなればなったで面白い。「木に止まるキジ」は特ダネだ。そこまでするか、「キジ太郎」よ。

2009年5月9日土曜日

月命日に夢に現れて


大型連休最後の日の未明、脳内出血で亡くなったその人は夢に現れて言った。「『地域の時代へ』という本を出して間もないので、それ以後の文章をまとめて『月報』のようなものにしたい。ついては編集を頼む」「いいですよ」

胃を摘出する前のふっくらした顔立ち。「よかったですね、元に戻って」。そう言おうとしたら、目が覚めた。

いわきの教育・観光・文化その他で並々ならぬリーダーシップを発揮してきた故里見庫男さんだ。生前そうだったように、こちらをおもんぱかって新しい仕事をつくってくれたのか、ありがたいことだ――夢の中で私は内心感謝し、うれしさをかみしめていた。

きのう(5月8日)、ふとカレンダーを見たら、夢を見た日は里見さんの最初の「月命日」だった。カミサンに話すと、「しゃべっただけでなく、ふっくらした顔になったということは、浄土に着いたあかし」と言う。こちらはフジの花盛り=写真。浄土はどうですか。

さて――。後事を託された者は、里見さんに比べてあまりに非力なために、今もときどき独りで、あるいは仲間で溜息をついている。私もいくつか「宿題」を抱えていて、思い惑うことがある。

里見さんという壮大なプランナーがいたから、安心して伴走することができた。その青写真が見えなくなって足踏み状態に入った、そんなところだが、少しでも前へ進まないと申し訳がない。今月下旬以降(すでに始まっている集まりもあるのだが)、具体的な道筋をつけるための集まりが予定されている。

雑誌「うえいぶ」の追悼特集号は当然として、追悼集なり遺稿集なりの出版も議論されるだろう。まずはできることから始めるしかない。

2009年5月8日金曜日

「芽ネギ」をどう食べる


大型連休後半、夏井川渓谷(いわき市小川町)にあるわが無量庵の菜園に「三春ネギ」の苗を定植した。三春ネギは地元で栽培されている地ネギ。数年前、その苗をもらい、やがてネギ坊主から種を採り、苗を育てて「曲がりネギ」に仕上げるようにした。

時に失敗することがあり、去年はTさんからネギ坊主をもらった。それを知っているのか、今年はKさんがネギ苗を持って来てくれた。自分で栽培したネギ苗もあるが、育ちが一定ではない。

5月5日の「こどもの日」に溝を切り、もらったネギ苗と自分で育てたネギ苗の半分を植えた。育ちの悪いネギ苗は植えても大きくならない。捨てるか食べるか、するしかない。「芽ネギ」として食べることにした。

土を洗い落とし、きれいにそろえて=写真=ひげ根を包丁で切ったが、キリがない。2回目からは洗いながら指でひげ根をちぎり取った。

まずはサラダ。次に豆腐汁、卵焼き、納豆と試す。ドレッシングしただけのサラダはどうということもない。鉛筆の芯のように細くて短い。香りも、味も薄い。リンゴでいえば青リンゴ、未熟だから単品では食材としての力が弱いのだろう。芽ネギ入り納豆は、ネギ臭を避ける歯医者さんにはいいかもしれない。

「芽ネギすし」というのがある。卵の代わりに芽ネギがのっかり、海苔で巻いたものだ。値段が張るそうだが、そういう何かの食材との組み合わせが必要なようだ。今朝(5月8日)はこれから、最も相性がいい「ネギとジャガイモの味噌汁」が出てくる。さてさて、どんな味がするやら(三春ネギの片鱗は味わえた)。

2009年5月7日木曜日

ミノウスバが大発生


わが家の庭にニシキギがある。生け垣にも一部、マサキがある。ともにニシキギ科だ。そこに卵を産みつけ、晩春になると孵化して木の芽を食べる虫がいる。ガの一種・ミノウスバの幼虫だ。成虫は前年の秋にニシキギ科の木の枝に卵を産みつける。

去年の秋、枝に産卵する成虫を目撃したので、あとで卵のついた枝をカットした。それで済むはずはないから、今年の春になって新芽にとりついている孵化直後の幼虫のかたまりを始末した。二重に防御したので一安心のつもりが、そうではなかった。

虫もバカではない。波状攻撃よろしく、時期をずらして産卵した成虫があるのだろう。始末のできなかった卵が孵り、散開した。一部、マサキの葉が丸裸になった。何年か前にもミノウスバの幼虫が大量に孵り、ニシキギと何本かのマサキが丸裸になったことがある。周期的に大発生するのか。

たまたま家にやって来た人間が「『虫がサワサワ音を出して葉を食べている』と言っていた」という話を、あとでカミサンから聞いた。食べる葉がなくなり、小道を隔てて移動を開始した幼虫が隣家の塀に取りつくようにもなった。その隣家から初めて連絡があった。そこまでいくとは異常だ。

で、昨日(5月6日)は朝から夕方にかけて、コウモリ傘を開いて逆さに持ち、マサキの枝をたたいて落ちて来たミノウスバの幼虫を集め、徒長枝を切り落とした=写真。ついでに、伸び過ぎたほかの木も。最後はしかたがないから、残った枝に薬剤を散布した。かわいそうにクモも何匹か道連れになったことだろう。

ミノウスバの幼虫は散開したら手に負えない。枝をたたくと糸を引いて落ちてくる。それを捕殺する。しかし、触れる葉があれば、そこにとどまる。地面に降りても幹に取りついて葉に戻る。捕まえきれない。

義父が生きているときは、毎年、やって来て生け垣を剪定してくれた。生け垣は人の背丈ほどに保たれていた。亡くなってからは私がやるのだが、それはカミサンに尻をたたかれてのこと。やる年もありやらない年もありで、生け垣の背が伸びてしまった。ミノウスバの幼虫が安住する環境ができあがったようだ。

生け垣を剪定するのは、見た目のきれいさを保つだけでなく、害虫を予防するためのものでもあったのかと、今さらながらに思う。

2009年5月6日水曜日

シロヤシオの花は咲いたが


夏井川渓谷(いわき市小川町)は日増しに新緑の色を濃くしている。大型連休を境にして、渓谷の斜面を彩る花はアカヤシオ(岩ツツジ)からシロヤシオに変わる。今年はその花のバトンタッチがうまくいかなかった。

木の芽が吹く前に咲くアカヤシオは雨と風に見舞われて、あっという間に散った。シロヤシオはそのあと、木の芽が吹いて緑のグラデーションが鮮やかなころに花をつける。その時期が来た。が、無量庵の対岸に双眼鏡を向けても、咲いているのは2、3カ所だけ。これからもっと咲くはずだが、咲き始めてこの少なさだから期待はできないかもしれない。

十数年見てきた経験から言うと、シロヤシオの花は毎年決まって花を咲かせるわけではない。全山シロヤシオの花の年もあれば、パラパラッとしか咲かない年もある。今年はパラパラか。

対岸の森に分け入ってシロヤシオの花をチェックした。やはり少ない。ポイントは幹が松肌に似ていること、葉が5枚あること。それで、方言名は「マツハダドウダン」、別の和名は「ゴヨウツツジ」。遊歩道沿いに咲いていたのは1本だけだった=写真。しかも花弁のへりが黄ばんでいる。花のないシロヤシオもあった。気が抜けたようになって無量庵へ戻った。

きのう(5月5日)、無量庵を訪ねて来た人間が「あれはシロヤシオか」と、対岸の岸辺の花を指さして聞く。白い花には違いないが、棒キャンデーのようなかたち。ウワミズザクラだ。ウワミズザクラを加えても白い花は少ない。

2009年5月5日火曜日

天日干しのふとん


夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵には5~6人分のふとんがある。空中湿度の高い場所なので、ふだんから押し入れに除湿箱を入れている。人が泊まりに来る予定があると、天日干しをする=写真。除湿箱だけではカビ臭いにおいが取れないのだ。

憲法記念日の5月3日、同級生6人と泊まり込んで酒を飲んだ。昨年秋、夏井川渓谷の旅館で同級会を開いた際、「今度は海の魚を食べたい」という男がいた。初ガツオがいわきの港に揚がるこの時期、それを食べようと仲間の1人が声をかけた。

というより、いわき市平の飲み屋街・田町で千葉から来た仲間と飲んでいるときに、よく集まる仲間に電話したら、全員がOKとなったのだった。いわきにいるのは2人。ほかは郡山市、宮城、千葉、滋賀からやって来た。

夜、家族が迎えに来たいわきの1人を除いて5人が泊まった。ごちそうはもちろんカツオの刺し身、海の魚を主体にした折詰も用意した。飲んだこともない銘柄のビールと紹興酒、甕に入った焼酎などは仲間が持って来た。

でも、ほんとうのごちそうは何かと言ったら、目に優しい夏井川渓谷の若葉、緑のグラデーション。そして、天日に干してふかふかしたふとんだったと思う。それぞれが好きな場所にふとんを敷いて寝た。自分のいびきに目が覚めてしまうために耳栓までするという男は、耳栓はしなかったが廊下に寝た。

わが家に帰るとカミサンが言った。「ちゃんと敷布を出したんでしょうね」「??」。昼間、夫婦でふとんを天日に干したあと、カミサンが「ここに敷布があるから」と指さしたところまではよかったのだが、飲んだらすっかり忘れてしまった。かえって直接、天日干しの感触を味わえたのではないか――そう思うことにして失敗を棚に上げた。

2009年5月4日月曜日

庭の花


猫の額ほどのわが家の庭に草木が密生している。夏井川渓谷の無量庵に芽生えたカエデを移植したら、私の背丈を超えるまでに育った。フジも屋根に絡みつくほどに成長した。ミツバアケビの種も土に含まれていたらしく、花が咲いて初めてそれと分かった。

ほかに、生け花の先生からもらったホトトギス、鉢植えのエビネ、イカリソウ、クリスマスローズなどをカミサンが植えたら、根が着いた。エビネは毎年花株が増える。今年は5株、今が花盛りだ=写真

イカリソウも、クリスマスローズも、ムラサキケマンも、フジも、ミツバアケビも咲いている。ちょっと前まではスミレとニリンソウが咲いていた。その前にはプラムとユキヤナギ。2、3日前からは白い6弁の花が咲き始めた。ハナニラだろうか。

ミョウガタケも地面からニョキニョキと伸びてきた。先日、あり合わせの材料で浅漬けをつくったときに、風味として庭のサンショウの木の芽とミョウガタケをみじんにして加えた。ダシ昆布も入れて旨みを引きだす。それと分からないけれども、なんとなく味に香りがある、そんな浅漬けが好きだ。

昔、カキの若葉を摘んで蒸したあと、陰干しをしてカキ茶をつくったことがある。カキの若葉はてんぷらにもいい、大根に包丁を入れて若葉をはさむと、色の変わった「大根おろし」ができる。これも今の時期の楽しみではある。

2009年5月3日日曜日

魚偏漢字の研究家


昔、いわきに勤務したことのある新聞記者氏が仙台市に住んでいる。名前がふるっている。愚人。グジン。本名だ。先日、久しぶりに会って話をした。

定年で記者人生には終止符を打った。歌人である。「一人百首」と題する歌集をもらったことがある。そして今は、魚偏漢字の研究に没頭しているという。会って話した時間は30分くらいだったが、とうとうと魚偏漢字の解説をしてやまなかった。資料までもらった=写真。一例。「生きた化石」シーラカンスは「魚」偏に「化」。しごく分かりやすい。

潔いと思ったことがある。「インターネットは?やらない」。記者人生を終えるのと同時に、パソコンとは縁を切った。アナログに生きる。それはそれで結構なことだ。福島市に住む元同業他社氏もこの春、定年退職をした。同時にインターネットともおさらばした。こちらもアナログ人生に戻ったわけだ。

「情報格差」がいわれるが、アナログの世界だけでも必要な情報は取れる。暮らしていくのにそれで不便はない。不自由もない。アナログ時代が長かった「団塊の世代」であってみれば、デジタル社会の海に飲み込まれることなく暮らすことができる。

一点集中、あるいは二点、三点集中で第二の人生を生きる。十分働いてきたのだから、これからは思う通りに自分の時間を使えばよい。それが、グジン氏の魚偏漢字研究になり、同業他社氏のコンサート巡りになった。

魚偏漢字の解説はできないが、十代のころに同級生に教えられて覚えた魚偏漢字がある。「鮭鮫鱈鯉」。サケ・サメ・タラ・コイ。酒さめたら来い。飲み過ぎるなという戒めにしているのだが、今もって守れない。

2009年5月2日土曜日

田植え始まる


今年は自然の移り行きと同様、農事も早めに推移しているのだろうか。いわき市平中神谷地区は、常磐線をはさんで南の住宅地と北の水田に分かれる。早くも4月29日の「昭和の日」に田植えを行っているところがあった=写真

それより前、4月5日の夕方、兼業農家をしている小川町の親類宅を訪ねると、先客がいた。水稲の種まきを終えたのでお茶飲みに来たのだ、という。親類宅でもその日、水稲の種まきを終えたところだった。

農家にとっては、水稲の種まきは大切な作業。無事終えて、茶飲み話でもしながら一息つきたい、そんな気分になるのは分かる。

それから3週間余あとの「昭和の日」。中神谷で田植えが始まったのだから、小川町ではどうか。夏井川渓谷へ行くついでに親類宅へ寄り道をした。親類宅の水田は家の前にある。水田には水が張られていたが、田植えはまだだった。きょう(5月2日)から大型連休後半に入る。ここで一気に苗を植える段取りなのだろう。

この時期、下流の夏井川は水田に水を取られて一部川床をのぞかせるのだが、まだそこまではいっていない。4月25、26日と雨が降り、川の水かさが増したのも一因だろう。これから短時日のうちに水田が青田に変わる。

結局、 夏井川左岸の平~小川で「昭和の日」に田植えをしていたのは中神谷の一部だけだった。

2009年5月1日金曜日

コゴミを撮る


いわきの山里では、ワラビとコゴミ(クサソテツ)が採りごろを迎えた。この時期、夏井川渓谷(小川町)にも山菜目当ての車がやって来る。ふだんは皆無の路上駐車が多くなるので分かる。なにしろ大型連休と重なるのだから、家の中にじっとしていろ、と言っても無理だ。

無量庵の近くに、私が勝手にコゴミの“シロ”と思い込んでいる場所がある。4月19日の日曜日には、コゴミは影も形もなかった。29日にチェックすると何株か手折られていた。26日の日曜日に夏井川渓谷へ行けなかったため、後れをとったのだ。ほかの人にとっても“シロ”だから、コゴミが採れるかどうかはそれぞれの出足次第、ということになる。

芽生えが遅れて無事に頭を出したコゴミもある。が、あらかた採られたあとなので、それを摘む気にはなれない。私まで摘んだら、涼しげな緑色の葉を広げられなくなる。この“シロ”では、撮るだけにした=写真

今年は春が駆け足でやって来たために、山菜の出も早い。ヒト様の採ったワラビ、コゴミ、タラボをもらって口にはしたが、自分ではまだ。すっかりタイミングが狂った。で、今年は採るのをやめることにした。

きのう(4月30日)、平の街なかにある「スカイストア」をのぞくと、コゴミが売られていた。ネギなどのほかにコゴミ1袋を買って売り上げに協力した。なんだか複雑な気持ちではある。

家へ帰ると、カミサンの茶飲み友達から電話がかかってきた。近所に住んでいる。ダンナさんが山からタラボを採って来たという。カミサンが喜んでおすそ分けをもらいに行った。いよいよ、今年は山菜を採らないでいい、という気持ちになった。