2009年9月30日水曜日

歩道に沿う自転車道


デンマーク(コペンハーゲン市)に入って驚いたのは、歩道と車道の間に自転車道があることだった。デンマークに限らず、北欧では自転車を利用する人が多い。そのための自転車道がよく整備されている。

朝晩のラッシュ時には、歩行者の脇を自転車が列をなして通過していく。交差点では一斉に進む=写真。日中もかなりのスピードを出して通って行く。

車は日本の逆の右側通行。私たちが乗ったマイクロバスも乗降口は右側にある。車は左側通行、歩行者は右側通行の国からやって来た人間には、これがすぐにはなじめない。右・左のイメージがパッと浮かばないのだ。正味4日間、交通ルールに関する戸惑いはついに消えなかった。

マイクロバスが止まって降りれば自転車道である。歩道ではない。現地生活の長い日本人のガイドさんが「ガンコおやじ」と苦笑する運転手は、「車を降りるとき、自転車に注意しろ」口を酸っぱくして言い続けた。衝突事故が絶えないのだろう。

車と同じく自転車も右側通行だ。右後方を見て、自転車が来ていないことを確認して降りる。降りたらすぐ歩道に移る。すぐ自転車がやって来る。実によく自転車がやって来る。

歩行者と自転車には、むこうのドライバーはやさしい。交差点では彼らが渡りきるのを待つ。いかにも「早く渡れ」といった表情で待つ日本とは段違いだ。「ガンコおやじ」もプロだから、そこは徹底していた。

街中の駐輪場に並んだ自転車を眺めて感じ入ったことがある。サドルが高い。男性トイレの“朝顔”も高かった。彼らは体が大きい分、足が長い。175~180センチクラスの女性もざらにいる。サドルや男性トイレの朝顔が高いのはその反映なのだ、と実感した。

日本の自転車道はほとんどが歩道に吸収されている。国土が狭いから道路はギリギリの広さしかない。そこに自転車道を設けるのは至難の業、ということもあろう。それとは別に、レジャーのためのサイクリングロードは、たとえばいわきの夏井川下流域の場合、割と充実しているのではないか。そんなことも感じた。

自転車が普及するには普及するだけのワケがあるに違いない。車両税が高くて車を所有しにくいという経済的な理由に、健康や環境への配慮が加わったか。いずれにしても自転車は古くて新しい交通手段だ。私もときどき、自転車で夏井川河口へ行く。

2009年9月29日火曜日

欧州のカラス


北欧へ足を踏み入れて初めて出合った生き物はカラスだった。といっても、日本のカラスとは異なる。30年以上、『鳥類図鑑』をパラパラやっていたので、すぐカササギとコクマルガラスだと分かった。

カササギはスウェーデンのホテルに泊まった翌朝、まだ薄暗いうちにカーテンを開けて窓から外をのぞいていたら、つがいで向かいのビルに現れた。頭と顔・胸は黒、肩と腹は白。尾は黒く長い。実際には、肩から尾羽にかけて青みがかかっている。きれいな鳥だ。体の色のデザインは背中が灰色とブルーの、同じカラス仲間のオナガに近い。

日本では佐賀県を中心に、九州北部に生息する。豊臣秀吉が16世紀末に朝鮮出兵をした際、肥前・筑後その他の九州の大名が持ち帰ったのが繁殖し、今に続いている、ということだった。佐賀県の県鳥に指定されている。

一方のコクマルガラスは、漢字では「黒丸鴉」と書く。カラスとしては最小の部類に属する。ドバトよりほんの少し大きい程度だ。大陸の東側に生息するのと、欧州に生息するのとではタイプが違うらしい。欧州のコクマルガラスは、「ニシコクマルガラス」という=写真。虹彩が白い。「メジロガラス」と呼んでもいいくらいだ。

ニシコクマルガラスとは、ストックホルムの市庁舎が立つ湖畔で初めて遭遇した。スズメの仲間のイエスズメもそうだが、向こうの鳥は平気で人間のそばにやって来る。日本では稲作農耕文化が人間とスズメとの緊張関係を生んだが、それがないのだろう。北欧で受けたカルチャーショックの一つがこれだった。

ちなみに、市庁舎のホールはノーベル賞の晩餐会・舞踏会に貸し出される。日本と違って、住民登録などが行われるのは税務署だという。市庁舎には市議会の議場があった。贅を尽くした建物だった。

2009年9月28日月曜日

ツツジ赤らむ


早く夏井川渓谷(いわき市小川町)へ行かなければ――。週末は渓谷の無量庵で過ごす。1週間ほど家を留守にしたので、無量庵へ出かけるのはその倍、半月ぶりのことになる。この目でその間の変化を確かめないと、という思いが募った。きのう(9月27日)朝、カミサンを小名浜へ送って行った足で、夏井川渓谷へ直行した。

1週間刻みで眺め、記憶し、体にしみこませた夏井川渓谷の自然のリズムがある。地元の牛小川の住民にとっては一日刻みだが、「半住民」にとっては1週間単位でしか自然のリズムを感知できない。それが今回は倍の時間になった。いよいよ自然の変化が気になった。

半月前の9月13日と、きのうの27日とでは何が違っていたか――。菜園の通路がびっくりするほど草で覆われていた。三春ネギの溝も草で埋まっていた。渓流は澄んでいたが、水量は減っていた。水力発電用の取水堰もオーバーフローをするような勢いがなかった。雨が降らなかったのだろう。雨が降らなくても草は生える。

森へ入ると、落ち葉が反り返っていた。湿度が高いと落ち葉は湿ってペッタンコになる。踏みしめても音は静かだ。乾いて反り返った落ち葉は、その逆。歩を進めるたびにガサゴソ音がする。きのうはガサゴソの方だった。このことからも、雨がなかったことがうかがえる。

同じ時期、スウェーデンでは記録的な晴天だった。次に訪れたノルウェーでは雨にたたられた。デンマークは風と曇天。日本へ戻ったら雲が去り、青空が広がっていた。

ミツバアケビの実が鮮やかな紫色に変わり、パックリ口を開けていた。周囲にも数個の実が付いていた。躊躇なく採集した。鳥より早く人間がアケビを採り、中身を食べたのは今年が初めてだ。キノコは、しかし林が乾いていたせいか姿がなかった。

森から帰って、川前の「夏井川渓谷 葡萄の里」へ車を走らせる。黒くて大きな種なしの「フジミノリ」は早くも売り切れ。今年は、半月前のオープン翌日、直売所をのぞいて「フジミノリ」を買ったのが、最初で最後になった。人気品種なのだろう。

紅葉は例年、今ごろ、ツツジ類から始まる。無量庵の対岸の急斜面は松・モミをのぞいてツツジ類が多い。それがうっすら色づき始めた=写真。半月ぶりだったので、はっきりと紅葉が進んだことが感じられた。

2009年9月27日日曜日

つくばJCT


常磐道のつくばJCT(ジャンクション)から圏央道が成田方面に向かって伸びている。圏央道は首都圏中央連絡自動車道の略だ。いわき方面から成田国際空港へ行くのにこの道を利用する。私と同じいわきに住む友人Kの車に同乗して初めて、常磐道と圏央道がつながっていることを知った。帰路、つくばJCTの右手奥にどっかりと横たわる筑波山が見えた=写真

圏央道の茨城分は、つくばJCTから4つのIC(インターチェンジ)まで開通した。つくば牛久、牛久阿見、阿見東、稲敷。つくば牛久~阿見東間は2年前の3月、阿見東~稲敷間は今年3月にできたという。Kの話だと、これで随分、いわきから成田国際空港までの時間距離が短くなった。ざっと3時間で着く。

北欧へ行くのにツアーリーダーのYから「朝9時半、成田国際空港集合。いわき組は成田のホテルに前泊か」というメールが入った。親(リーダー)の心、子知らず――で、ぎりぎりになってKに相談すると、「なに、朝5時に行けば間に合う」。メールだけでは心配なのか、直前になって電話を寄こしたYに、あらためて「当日早朝出発」を告げた。

海外旅行が初めての私は、すべて仲間の指示に従うしかない。Yがころあいをみて「パスポートを取るように」「旅行代金を振り込むように」「海外旅行保険に入るように」と連絡を寄こす。最終の連絡が、間に合わないと困るからという意味での前泊の勧めだった。当日早朝出発もまたKの判断だ。

シルバーウイーク初日。「渋滞・事故に巻き込まれないように」というYの心配は、常磐道の上り線と圏央道に関しては杞憂に終わったが、常磐道の下り線は早朝から混雑していた。逆にならなくてよかった。

カーナビゲーションが車に装備されて以来、見知らぬ土地へ出かけるのが楽になった、とKは言う。

仙台のMもそれで、東北道から東京を経由して成田へやって来た。経済合理性を旨とするMにしては珍しく遠回りをした。常磐道~圏央道のルートを知らなかったのだ。開通して間もない圏央道のつくばJCT~稲敷ICは、古いカーナビには書き込まれていない。Mは遠回りをした分、金もよけいにかかった。帰りは当然、「常磐道を利用する」となった。

民主党政権が誕生して以来、政策変更の動きが明らかになってきた。自動車道もそれによって利用しやすくなるのだろうが、一般道以上に渋滞するのではないかという危惧もささやかれている。ETC搭載車の土・日・祝日特別割引(1,000円)以来、車で遠出を楽しむ人が増えた。そして、今度のシルバーウイークの大混雑。危惧が現実のものになるのか。

2009年9月26日土曜日

帰ればカツ刺し


シルバーウイークを利用した北欧旅行から、なんとか無事に帰って来た。5泊7日の間、食事はバイキング、コース料理、オープンサンドと、変化に富んだものだった。アルコール類もいろいろ試した。毎日同じメニューにならないよう、ツアーリーダーが工夫した結果だ。

とはいっても、日本との食文化の違いはどうしようもない。途中でご飯・麺類が恋しくなり、中華料理店に入ったり、日本料理店に入ったりした。パンはご飯よりこなれるのが早い。一時的に満腹感が得られても、たちまちおなかがすく。とうていご飯の粘り強さにはかなわない。バイキングの国で和食の力を再認識した。

漬物が恋しくなるかなと思ったが、そうはならなかった。キュウリのピクルスがあったからだろう。やや甘酸っぱかったものの糠漬けの代用にはなった。

夫婦一組を含む同級生6人が行動を共にした。スウェーデンに住む旧友の病気見舞いが主目的だが、こちらは思ったより元気でほっとした。薬の本作用で病気は治ったが、副作用が末梢神経に出た。ときどき痛みに襲われるのだという。旧友の家を訪ね、成長した3人の子どもたちも交えて、奥さん手づくりのスウェーデン料理を食べながら旧交を温めた。

旧友の見舞いを終えたあとは、ストックホルム市内を観光し、ノルウェーのフィヨルドを眺め、デンマークでは定番の人魚姫の像などを見て回った。正味4日の旅を終えて、きのう(9月25日)朝10時前、成田に戻り、そこで解散した。

いわき組は私ともう一人。昼食は常磐道のサービスエリアでラーメンを食べた。となると、夜はカツオの刺し身=写真=に、ご飯だ。

いつもの魚屋さんへ刺し身を買いに行くと、「どっか行って来たんですか」と聞く。ふだんは日曜日に刺し身を買うのが、金曜日、しかも服装が少し違って見えたらしい。ノルウェーのサケ養殖の話になった。

かの国でなぜサケ養殖が盛んなのか分かるかという。フィヨルドのために水深が深い。これがポイント。サケにえさをやると、どうしても残余物が出る。水深の浅いところでは、残余えさがたまってサケに悪影響を与える。フィヨルドではこれがない。波も穏やかだ。天然の養漁場をもつノルウェーは強い、という結論に落ち着いた。

実際、フィヨルド観光のなかでガイドさん(現地の大学教員だった日本人で、専門は地質学)がサケ養殖の話をした。残余えさについては言及しなかったから、そちらの知識は浅いのだろう。これも「百聞は一見に如(し)かず」の効果と言えば言える。

2009年9月19日土曜日

夢二の猫


きょう(9月19日)はこれから成田へ向かう。初めての海外旅行だ。同級生6人プラス奥方1人が、スウェーデンに住む仲間の病気見舞いを兼ねてフィヨルドを観光する。還暦記念の第二の修学旅行でもある。帰国するのは25日。というわけで、20~25日まで「磐城蘭土紀行」はお休みといたします。どうぞご寛恕を。
                  ◇
さて、きのうはネズミの話だったので、きょうは竹久夢二の猫の話をしたい。夢二の代表作といえば、「黒船屋」(黄八丈の着物を着た女性が黒猫を抱いている絵)だろう。

ゆめ・たけひさ(むろん竹久夢二)の〈猫のやうな女〉(昭和3年)というエッセーの冒頭部分にこうある。

「おそらくヴァン・ドンゲンの画(か)く女ほどすぐ猫を連想させる女はあるまい。ドンゲンを黒猫とすれば、ロオランサンは白猫だ。ドンゲンの黒猫にはしつこさが足りない。ロオランサンの白猫にはかはいさが足りない。これは(略)彼と彼女の性情の相違と考へられる」

「黒船屋」の猫を抱く女のポーズは、女の左肩に右足をかけた猫の形といい、黒猫を支える女の右手の指の形といい、マリー・ローランサン(1883~1956年)の「黒猫を抱く女」にそっくりだ。ヴァン・ドンゲン(1877~1968年)の「猫を抱く女」は女が左手を下に添えて白いぶち猫を抱く。猫は正面を向いている。女はいずれも上半身のみで一糸もまとっていない。

「黒船屋」はドンゲンの絵を参考にしたといわれる。が、ローランサンの絵も頭にあったのではないか。夢二のエッセーからは、そのへんの事情が読み取れる。

ドンゲンの描く女は猫を連想させる、それも黒猫。ローランサンのは白猫――「猫のような女」がいるなら「女のような猫」もいるだろう、と見回したら、いた。わが家の雌猫だ。まるで「横たわる裸婦」。よくよく見れば「食っちゃ寝、食っちゃ寝」の豊満さと妖艶さが漂う=写真。目がやや緑色がかっているのも妖しさを誘う。
                  
北欧から帰ると、翌日(9月26日)には野口雨情記念湯本温泉童謡館で、8月に続いて竹久夢二の話をしなければならない。8月は「夢二と福島の人々」を中心に話した。今度は主に世紀末芸術との関連で話を進める。猫の話もする。そのためのレジュメを大急ぎでつくった。行き帰りの機内で目を通しておくことにしよう。

2009年9月18日金曜日

ネズミの「死んだふり」


仕事帰りのおばさんが声を張り上げた。「ネズミ!」。「おっ!」私もつられて声を出した。いわき市の国道6号常磐バイパス終点、神谷ランプに設けられた歩行者・自転車専用トンネル内での出来事。

足元に小さなネズミが立ちすくんでいる。人が姿を見せても逃げない。で、予期せぬ生き物に待ち伏せされておばさんはギョッとした、というわけだ。早速、撮影態勢に入ると、おばさんが反応した。「カメラで撮るの?」「ええ」。〈なんて男だ〉とでも思ったか。

パチパチやりながら観察していると、ネズミは踏ん張りが利かなくなったのか、ゆっくり倒れるように足を曲げて横になった=写真。「ネコイラズでも食ったんでしょう、これは」。私が言うと、おばさんは納得したようにその場から去った。

私も歩き出したが、ちょっと考えてネズミを観察することにした。哀れなネズミの最期を見届けてやろう、という気になったのだ。

1分ほどたったときだろうか。ネズミは不意に立ち上がり、少しキョロキョロしたかと思うと、トンネルの隅に沿って走り出した。〈何だ、死んだふりか〉。ネズミはトンネル内に吹き寄せられた落ち葉を隠れ蓑にして足を止めた。頭は隠れたが尻は丸見え。しばらくそこにとどまっていたあと、トンネルを出てそばの草むらに消えた。

なんというネズミの“演技”だろう。人が現れても逃げられないほど疲れていたのか、人に見つかったから死んだふりをしたのか。よく分からないが、今まで経験したことのないネズミの行動だ。というより、ネズミを見るのは、飼い猫が誇らしげにくわえ、もてあそび、放棄して、カミサンが「キャーッ」と叫んだときくらいだ。

国道の西側は住宅地、東側は夏井川。ヨシ原の広がる河川敷にはカヤネズミが生息している。チョウゲンボウが狩り場にしているので、それと分かる。カヤネズミが迷い出たのか。それとも野生のハツカネズミが姿を見せたのか。ともかくもこうして写真を撮ることができた、という事実だけは残った。

カヤネズミだろうか、ハツカネズミだろうか――。知っている人がいたら、教えてほしい。

2009年9月17日木曜日

コウモリ乱舞


日没が早くなった。宵の6時になると、もう薄暗い。コウモリの出番だ。月一回、読売に連載されている菅野徹さんの「まちかど四季散歩」を愛読している。今月(9月13日)は土手の野草(ツルボ=スルボ、センニンソウ)とコウモリの話だった。

朝夕、夏井川の堤防を散歩する。初夏の夕方に比べたら、今の夕方6時前はもう薄暗い。鳥に代わってコウモリが堤防の上を飛び回る。コウモリにカメラを向けても、被写体が小さい、不規則な動きをする――で、カメラ自体がどこに焦点を合わせたらいいのか分からないらしい。シャッターが下りない。

コウモリはイエコウモリ。アブラコウモリとも呼ばれるが、油とのかかわりはない。江戸時代後期、日本へやって来た医師のシーボルトが「アブラムシ」の名札を付けてオランダ・ライデン博物館へ送ったら、館長がそれを学名にした。これによって「イエコウモリは不用意な学名を負い続ける」結果になったのだという。

このエッセーを読んでピンときたものがある。江戸時代の「かはほり」だ。「かはほり」はイエコウモリのことに違いない。たとえば、出羽(今の山形県)に生まれ、磐城平(いわき市)の浄土宗名越派総本山・專称寺で修行し、やがて江戸に出て俳諧宗匠となった一具庵一具(1781~1853年)の句。

蝙蝠や川へはり出す窓明り
蝙蝠のむさぼりありく夜はくらし
かはほりや柳にかかる月細し

私が現に目にしているイエコウモリのことだと思えば、細い月はともかく、川端の家の明かりやヤナギの木のある情景がよく分かる。イエコウモリの生態は江戸時代も今も変わらないのだ。

私のウデでは、薄暮の写真は無理。ならば仕方ない。イエコウモリが活動を始めるのと同じ時間帯に休みに就く鳥のハクセキレイにカメラを向ける=写真。わが散歩コースでは、国道6号とバイパスが合流するそばの交差点、ガソリンスタンド前の電線がねぐらだ。ここはスタンドが明るいのか、シャッターが切れる。

2009年9月16日水曜日

冷凍ブドウを食べる


夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵で唯一、顔を合わせる業者と言えば、川前町のガス屋さんだ。ガス代がたまったので、日曜日の朝方、支払いに行ったついでによもやま話をする。「ブドウ園は、開園はまだですかね」「始まりました」というので、ガス屋さんの裏手にある「夏井川渓谷 葡萄の里」を訪ねた。

ブドウ園を経営しているご夫妻が直売所にいた。前の日(土曜日)、9月12日にオープンしたばかり。あいにくの雨、でもハウス栽培を分かっている人たちで結構にぎわったという。

試食用のブドウを口に含む。甘い。黒系は大粒「フジミノリ(藤稔)」、小粒「スチューベン」、黄緑色は確か「ハニーシードレス」と言った。種があるのは「スチューベン」だけ。甘くて種がないとくれば、食べやすい。と、ここまで打ち込んできて気づいたのだが、「シードレス」は「海の着物」ではなくて、「種なし」。「種なしハニー」だったのだ。

「フジミノリ」と「ハニーシードレス」の詰め合わせを買った=写真。生産者ならではの食べ方を教わった。「フジミノリ」は終わりに採ったものを冷凍しておき、正月に食べるのだという。幼い子どもにはアイスキャンデーの代わりになる。食べる前に少し置いておくと皮も簡単にむける。「冷凍ブドウ」とは味なことをする。

あらかた生で食べたあと、何個かをもいで冷蔵庫の冷凍室に入れた。凍ったころを見計らって取り出す。カチンカチンになっている。少し間をおいて食べると簡単に皮がむけ、甘い果肉がシャーベット状にほぐれた。長期間冷凍室に入れておくと、もっとシャリシャリするのだろうか。

「冷凍ブドウ」の連想で、冷蔵庫にあったミニトマトを凍らせてみた。味はトマトだから癖があるが、舌触りはやはりシャーベット状で好ましかった。聞きかじりであれ何であれ、食べ方を工夫するのは創造的で面白い。

2009年9月15日火曜日

渓谷にもアレチウリ


夏井川渓谷(いわき市小川町)は福島県立自然公園に指定されている。土地や景観を改変するような工事には当然、制約がある。この10年余、無量庵のある牛小川とその周辺で行われた公共工事はとなると、林道整備・橋架け替え・道路改修・行楽客用のトイレ設置などにとどまる。私有地では廃屋の解体、老朽家屋の解体と敷地内の杉林伐採くらいだろう。

ざっと10年前、尾根の送電塔を建て替えるためにヘリコプターが資材を運搬することになった。その中継基地が無量庵の真下のヨシ原につくられた。ホバリングをしながら資材運搬を繰り返した。その翌々年だったか、刈られたヨシ原跡にセイタカアワダチソウが侵入した。黄色い花が強烈な印象を残した。

セイタカアワダチソウはほどなく姿を消し、元のヨシ原に戻った。そのため、夏井川渓谷にはセイタカアワダチソウのような外来植物は侵入しにくいだろうと思っていた。ところがどうだ、セイタカアワダチソウをしのぐ外来植物がいた。アレチウリだ。

無量庵の対岸に水力発電所の巡視路を兼ねた遊歩道がある。道を歩き出した途端、岸辺のやぶをアレチウリの葉が覆い、つるがそばの2本の高木まで伸びているのに気づいた=写真。〈ここまで入り込んで来たか〉。根は1本らしかった。ちょうど長い柄のついた小鎌を持っていたので根元の方からつるを刈り払った。

アレチウリに気づくと、無量庵の周囲にある空き地が気になりだした。空き地という空き地は草で覆われている。クズやヤブガラシばかりかと思ったら、あった。前の公衆トイレ跡と廃屋跡の間。かなりの面積をアレチウリの葉が覆っていた。

用事があって上流の川前町へ行った。ここにもアレチウリがあった。水田わきの1本の木はすっぽり覆われていた。紅葉のライトアップが行われる「山の食・川前屋」の崖に生えている木も半分アレチウリの葉に日光を遮られていた。鳥が種を運んだか、大水のときに上流から種が流れ着いたか。

川筋のアレチウリは上流から下流へと生息範囲を広げるという。夏井川はすでに平・中神谷の下流部までアレチウリが進出して来た。その先、河口に近いヨシ原がアレチウリに侵略されるようだと、ツバメのねぐらも消滅する。そんな事態が懸念される。いずれにしてもぼんやり、のんきに構えてはいられない。

2009年9月14日月曜日

渓谷の突風


「きょうも山(夏井川渓谷)の帰りですか」「そう、すごい風だった。桐の木の枝が折れちゃった」「えっ、こっちは風なんかなかったですよ。蒸して暑かったですよ」「えっ」。お互いにびっくりした。きのう、9月13日のことだ。

日曜日は夏井川渓谷の無量庵で過ごし、夕方、家に戻って、ちょいと先の魚屋さんまで車でカツオの刺し身を買いに行く。初夏から晩秋まで、ほとんど変わらないパターンだ。

いわきは「平成の大合併」が始まるまで、市としては日本一の広域都市だった。北部の夏井川と南部の鮫川の二つを軸に、「うみ(海岸部)・まち(平地)・やま(山間部)」が連なる。これだけ広いと「やま」と「まち」の気象は同じではない。「うみ」と「まち」、「まち」(北)と「まち」(南)の気象もそうだ。

夏井川渓谷には朝7時前に着いた。雨が去って青空が広がり、風は冷たかったが、まだ弱かった。時間がたつにつれて西風が強まった。時折、突風が部屋の中の紙を吹き飛ばす。庭の奥の方で「ドサッ」と鈍い音がした。そのときは気づかなかったが、畑のそばの桐の木の枝が折れたのだ=写真

この桐の木は前に幹が折れ、残った枝が4本、空に向かって伸びていた。今度はそのうちの一番太い1本が折れたのだ。そばの物置を直撃していたら、トタン屋根がひしゃげたかもしれない。前も今度も建物にはさわらなかったのが幸いだった。

夕方、帰宅後。魚屋さんが渓谷の強風の話に驚いて言った。「こっちは蒸して風がなかったですよ。それで魚を干すのをやめたくらいなんですから」。干し魚をつくるには乾いて冷たい西風が必要。その風がなかった。南の風は湿っているので魚を干すのには適さないのだという。

「やま」と「まち」、そして風。いわきの中の“風土”の違いをあらためて考えさせられた。

2009年9月13日日曜日

このキノコは何?


夏井川渓谷(いわき市小川町)でちょっと風変わりなキノコを見つけた=写真。全体がねずみ色、高さは5センチ未満。見たこともない色と形だ。阿武隈高地の川内村で発見された超貴重種のコウボウタケか、と心躍ったが、傘は膨らんで丸みを帯びるどころかラッパ状だ。指ではじいたら、パッとねずみ色の粉が飛んだ。

何というキノコだろう。分からない。分からない以上は特徴を記録しておかねばなるまい。それにはスケッチが一番。撮影データをパソコンに取り込み、拡大して細部を観察する。写真をプリントアウトして、拡大鏡で全体の印象をつかむ。そうしてスケッチしながら、気づいたことを書き込む。

傘も、ひだも、柄もムラなくねずみ色。傘はラッパ状だが、ひしゃげ、めくれ、よじれている。柄とひだは区別がつかないだけでなく、血管が浮き出たようにデコボコしている。

今まで見てきたキノコで形が一番近いのは、傘が黄色く、柄が白いカノシタだ。が、カノシタは傘の中央が浅くへこむだけ。ラッパ状にはならない。ラッパ状のキノコではアンズタケが近い。こちらは黄色みが強く、ひだがしわ状だ。

この色と形のキノコは、手元の図鑑には載っていない。若いときだったら「新種か」と短絡的に心が波立ったものだが、今は慎重だ。指で触れただけで粉が飛んだのが引っかかる。どうもカビのような気がしてならないのだ。カノシタかアンズタケが病気になった可能性はないのか。

分からないことは分からないこととして、当面、保留しておく。そのうち専門家に会ったときに写真を見てもらい、見解を聞こう。森はこうしてときどき、入り込んだ人間に謎をかける。

2009年9月12日土曜日

乙字の生地は?


いわき出身の漢詩人大須賀筠軒(1841~1912年)の二男、績(いさお=1881~1920年)は長じて俳人になった。俳名・乙字(おつじ)。明治・大正期の俳論家としても名を残した。「季語」という言葉は、乙字が初めて使ったとされる。ということは、乙字の造語だ。父親が漢詩人、漢文的素養は人並み以上だ。造語はわけもなかったろう。

その乙字について、急に調べることになった。あるところから連絡を受けたのが、8日の夕方。3日後の11日必着で600字にまとめて、という。

フリーになって2年弱。俳諧・俳句関連の本に乙字の名前が出てくれば、そのつどコピーしてきた。といっても、ごくわずか。乙字は、一般にはほとんど忘れられた存在だ。連絡のあった次の日は資料のチェックに充て、その翌日、言われた字数にして送った。

送った先とのやりとりで、“再取材”をした。「生地」に疑問があるという人がいるが、というのだ。その人にすぐ連絡を取った。旧知の歴史研究家だ。

角川書店発行の『近代俳句集』(日本近代文学大系56)に〈大須賀乙字集〉が収載されている。乙字研究の第一人者が「作者略伝」を書いている。一番信頼できるテキストと思っていたが、「生地」と「続柄」の2点についてきちんと調べる必要がある、ということが分かった。

「生地」は「中村町」(現相馬市)、「続柄」は「二男」。旧知の歴史研究家は、乙字の父親・筠軒は確かにそのとき、行方・宇多の郡長をしていた(中村町にいた)。が、当時のしきたりとして、妻は実家に帰って子を産んだはず。中村ではなく久之浜(大須賀家の本拠)、正確にいえば妻の実家の平で乙字は生まれた可能性が高いという。

筠軒にとっては、ウメは二番目の妻だ。死別した先妻・茂登との間には、子供はなかった。したがって乙字は長男。――というわけで、生地についての記述をカットし、続柄を直して原稿を再送した。 (このブログをアップすると間もなく、乙字に詳しい別の知人から誤りを指摘する電話が入った。乙字は二男だという。乙字が生まれる前年に長男が生まれ、間もなく死んだ。墓は相馬にある。というわけで、先方と連絡を取り、再送原稿の訂正をしてもらった)

それはさておき、〈乙字俳句集〉を読む限りでは、「冬」や「月」といった、冷たく冴え渡る世界を表現するのが乙字の真骨頂らしい。いわき出身の皆川盤水さんは乙字を「月の俳人」と呼んでもいいくらいだと評している。

この季節に合った代表的な句に「妙高の雲動かねど秋の風」がある。静の雲、動の風。乙字らしい「大観」の世界だという。自然詩人だ。妙高はともかく、平の近辺ではどんな雲が動かないのか。こんな雲=写真=もゆっくりゆっくり動く。これからは「動かない雲」も意識して見るようにしようか。

2009年9月11日金曜日

発熱が怖い


来週末、初めての海外旅行に出かける。学生時代の仲間がスウェーデンに住んでいる。彼の病気見舞いが目的だ。ついでにフィヨルドを観光する。第二の修学旅行でもある。

5月の「ゴールデンウイーク」に夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵で、仲間が集まって酒盛りをした。酔った勢いでスウェーデンの同級生に電話をしたら、病気療養中だという。一時シュンとしたが、「見舞いに行こう」というとみんなが賛成した。これも酔った勢いだ。

還暦を迎えて、いちだんと責任の重い仕事に就いた人間がいる。その責任から解放された人間もいる。ともかくも無量庵に集まった人間を中心に、夫婦一組を含む7人で出かけることにした。それが9月19~25日。初めて知ったのだが、この期間は休日が続く(土曜日からだと5連休)ので、春のそれに対する秋で「シルバーウイーク」というのだそうだ。

仲間の一人をリーダーにして、旅行計画確認・パスポート取得・旅行代金入金・旅行保険加入と、指示通りに手続きを済ませた。きのう(9月10日)は旅行会社から最後の資料が届き=写真、〈いよいよ来週か〉と胸が高鳴った。なにせパスポートを使うのは復帰前の沖縄以来なのだから。

リーダーからのメールにはその都度、健康管理についての注意が付記される。「発熱があると出国不可、または到着地で隔離・待機」。きのうは成田空港での集合場所の確認に合わせて、「では出発日までご無事で」と平熱の再会をうながしてきた。

発熱が怖い。もちろん新型インフルエンザだけでなく、普通の風邪も。ちょくちょくいわき駅前の総合図書館へ出かけるので、帰宅後は手洗いとうがいを欠かさなくなった。そろそろマスクで予防するか。そんなことも考えている。

そこへ、カミサンがきのうは断続的にくしゃみを連発した。「風邪だわ」。〈オレの邪魔をするのか〉。内心怒りながらも、風邪がこちらにうつると厄介だ。「薬を飲んだか」と聞くと、「寝るときに」。〈それでは遅いだろう〉。私のみけんにしわが寄ったかして、晩ご飯を済ませるとカミサンは薬を飲んでさっさと寝た。けさはどんなあんばいか。

2009年9月10日木曜日

10月、小野町で夢二展


竹久夢二(1884~1934年)は、福島県とはゆかりが深い。明治35(1902)年秋、18歳で早稲田実業学校に入学した。同級生に3歳年下の現田村市船引町の助川啓四郎(のち代議士)と田村郡小野町の藤田平重郎がいた。春入学組の啓四郎は級長だった。

夢二にとっては、特に啓四郎の存在が大きい。村長、県議、やがて代議士になる彼のネットワークに支えられて、福島・郡山・会津若松・三春などの地に知りあいができた。彼らは画会を主催し、絵を買ってくれる有力者でもあった。啓四郎はさらに、夢二最初の本『夢二画集春の巻』の出版資金を援助している。

夢二は大正10(1921)年の8月中旬~11月下旬まで、福島県内を主にみちのくに長期間滞在した。その長逗留の折、いわきの湯本温泉を訪れて山形屋旅館に一泊している。同旅館は、今はない。

読売新聞に入社し、「涼しき土地」の取材で初めてみちのく入りをしたのが明治40(1907)年。松島からの帰途、夢二は浜通りを南下し、湯本温泉の松柏館に一泊した。それ以来の湯本温泉泊まりだ。――いわきにも縁がなかったわけではない、ということを言いたかった。(以上は内海久二『夢二 ふくしまの夢二紀行』を参考にした)

昭和60(1985)年にいわき市立美術館で竹久夢二展が開かれた。そのとき、山形屋旅館にあてた書状が展示された。図録によると、夢二は旅館特製の黄八丈の丹前が気に入り、後日それを譲り受けた。それへの礼状だ。

元山形屋旅館関係者の談話が興味深い。再び図録。――非常に美しく、背のスラリとした和服姿の女性を伴ってやって来た。夢二と深くかかわった「たまき」「彦乃」「お葉」のうち、最後の「お葉」だろうと、企画展担当学芸員氏は推測する。

黄八丈の和服姿の女性が黒猫を抱いている「黒船屋」は、大正8年に制作された。夢二の代表作の一つだ。夢二の黄八丈好みが分かる。

野口雨情記念湯本温泉童謡館で毎月、童謡詩人についておしゃべりをしている。8月は夢二。9月も引き続き、夢二についておしゃべりをする。いわき総合図書館に通っていろいろ調べているうちに、9月1日が夢二の命日で、今年は没後75年に当たることが分かった。その節目の企画なのか、隣の小野町から夢二展の案内状が届いた。

中に入っていたチラシ=写真=に、夢二展は10月3日~18日、小野町ふるさと文化の館・美術館で開かれる、とあった。何度か企画展を見に行ったことがあり、その縁で案内状が送られてきたのだろう。風景画や雑誌の表紙を飾った木版画・楽譜の表紙絵、夢二装丁の本など約80点を展示する。

始まったらすぐ夏井川をさかのぼり、夢二の世界にひたってこよう。帰りは小中学校の同級生の嫁ぎ先で和菓子を買って。

2009年9月9日水曜日

個展を見に泉へ


いわき市の南部寄りに位置する泉地区は泉駅をはさんで大々的に区画整理が行われた。泉は今や、いわきで最も人口増加率の高い地区ではないだろうか。ときどきこの地区にできた画廊をハシゴする。きのう(9月8日)も3軒を駆け足で回った。泉駅に近いアートスペース泉では、私と画廊を逆のコースで回る知人と顔を合わせた。

玉露五丁目・ブラウロウト。「齋藤将展」の案内状が届き、面白そうだったので出かけた(9月29日まで)。丘の上にある泉ヶ丘・ギャラリー磐城では、旧知の渡辺八市(やいち)さんが個展を開いている(9月15日まで)。

齋藤さんの絵は楽しかった。クジラ・犬・男の子……。夢のなかで遊ぶような、ほのぼのとした世界が好ましかった。物語を添えたら面白い絵本になるのではないか。

八市さんは「色と線」の構成にこだわる、最近珍しい絵描きだ=写真。「線」で始まり、「面」に移り、再び「線」と格闘している。この“一本道”の愚直さが持ち味でもあろう。スペインに住む共通の友人の話になった。というより、私は八市さんが胸に受け止めている友人の言葉をそこに立てて“3人”で話をした。

「線にもっと変化を持たせたら」と友人が言う。「同じ色と線、少しは進歩したと思ってもらえるようにしないと」と八市さん。私は「進化より深化を」と応じる。それで十分。あとはキノコの話になった。高級食菌を探し当てるキノコ通だということが分かった。八市、恐るべし。

八市さんの個展を初めて見たのは二十数年前だったろうか。テーブルにアルバムがあったので見ると、写真に収まっている知人はみな若かった。「面」を主題にした作品もあった。結構、画面が締まっている。「面の八市」と「線の八市」。私は「面の八市」も捨てがたいと思った。

色と線といえば、カンジンスキーの「点・線・面」理論だ。水平線がある。垂直線がある。斜線がある。やや曲がった線がある。冷たくも温かい、その「無限運動の可能性のもっとも簡潔な形態」。「色と線」の音楽を聴こうと目を凝らしたら、彗星のようにカラフルな線が響き合った。

2009年9月8日火曜日

魚と大シケ


魚屋さんが「カツオのひやまはすぐにはできない、つくるのに30分はほしい」というので、カミサンがあらかじめ電話を入れたら、「きょうは売り切れ」。カツオがないのだという。年に一度くらいはこういうことがある。しかたない。サンマの刺し身に切り替えた。

なぜ量が少ないのか。海が安定していて、海水温が変化しないからだという。それが直接の原因なのかどうか、魚屋さんは台風の話をした。

最近は台風が上陸しない。上陸すれば、近海は大シケになる。すると、海がかき回されて海水温が変化する。風呂を沸かしたときにかき回すと、上のお湯と下の水が混じり合って温度が変化する。原理は同じだ。シケのあとはそれで、いろんな魚が捕れる。台風は、さわればたたる怖い神には違いないが、いい土産を置いていくありがたい旅人でもあるのだ。

年に3回くらいは、神様が“かんまかし棒”を持って海をかき回していたのが、どうしたのだろう、最近は――ということのようだ。海=写真=も「見えざる手」に触れられていて、時に優しく、時に激しくゆさぶられる。凪のときもあれば、大シケのときもある。それで海のいのちが維持されているのだろう。

話を聞いているうちに、井上靖の「十月の詩」という詩を思い出した。
                ☆
はるか南の珊瑚礁の中で、今年二十何番目かの颱風の子供たちが孵化しています。

やがて彼等は、石灰質の砲身から北に向って発射されるでしょう。

そのころ、日本列島はおおむね月明です。刻一刻秋は深まり、どこかで、謙譲という文字を少年が書いています
                ☆
台風の見方が少し変わった。歓迎すべきものではもちろんないが、自然の猛威を静かに受け止め、やり過ごせば、ちゃんと恵みがある、という経験則が漁業者にははたらいている。こういう自然観を大事にしたいものだ。

2009年9月7日月曜日

ベンチを覆うクズ


散歩コースの途中に国道6号常磐バイパスの終点がある。本道との合流部斜面は照葉樹の森だ。「草野の森」という名前がついている。バイパス完成を祝い、2000年に小学生たちが参加してポット苗を植えた。平たん部は広場で、ベンチが取り付けられてある。

夏の早朝5時過ぎ、このベンチに座ってハーモニカを吹いている女性がいた。年のころ70代半ばといった感じ。広場を横切りながら聞くともなく聞くと、耳なじみの童謡だった。次の日も同じようにやって来て、ハーモニカを吹いていた。

女性、ハーモニカ――というところが面白い。先年亡くなったカミサンの伯父もハーモニカを持っていた。形見に私がもらった。ときたま引っ張り出して吹く。大正生まれのオヤジたちの世代には、ハーモニカは身近な楽器だったのだろう。団塊の世代にもフォークソングに欠かせない楽器としてなじみがある。

学習発表会で合奏するために教え込まれた木琴などとは別に、親が持っているから覚えた最初の楽器がハーモニカだった。ギターはそのあと。

女性はいつ、ハーモニカを学んだのだろう。子どものときか、大人になってからか。童謡は子どものころに聞いたものか、大人になって覚えたものか。なぜ家ではなく、ベンチまでやって来て吹く気になったのだろう。天気がいいからか。――散歩の途次、次から次へと疑問がわいてきて、しばらく知りもしない彼女の人生について考えをめぐらした。

その後、女性は姿を見せない。するとまたどうしたのだろうと、推測が始まる。目に止まって気になるもの、たとえばシイの大木や記念碑などにも植えられた時期や建立されたいわれなどを知りたくなる。店がいつの間にか変わっていたりすると、それも理由を推測したくなる。

要は、散歩という名の“推測歩き”をしているのだ。物語をつぐもうとしているのだ。いや、どんな些細なものにも物語はある。それを読みたいのかもしれない。

合流部斜面から繁茂したクズがしのび寄り、脇の木にも、ベンチの脚にもからみつき始めた=写真。葉っぱも透き間からのぞいている。

去年は晩秋になって、斜面がきれいに“散髪”された。先週の木曜日(9月3日)には、車道にはみ出した草が刈り払われた。広場側の草はそのままだ。去年と同じ時期に草刈りが行われるとすれば、日ならずしてベンチはクズに覆われる。それも物語のひとつになるか。

2009年9月6日日曜日

ウスヒラタケとろける


きのう(9月5日)の早朝、秋キノコをチェックするために里山へひとっ走りしてこよう、と書いた。5時半過ぎに飛び出して7時前に帰って来た、その顛末記。

集落の奥、狭く段々状になった水田が途切れるあたり、ため池を抱え込むようにして里山が広がる。ため池はすでに水が抜かれた。すり鉢の底に申し訳程度に水たまりがある。まだ魚がいるのか、カイツブリが潜水しては浮上し、浮上しては潜水していた。漁の成績は芳しくないようだった。

水たまりのそば、空気にさらされた泥土に獣の足跡がついていた。大きいのがS字状に一つ、小さいのが左右から寄り添うように二つ、三つ。イノシシの親子だろうか。撮った写真を拡大して見たが、ひづめが二つに割れている偶蹄目の特徴は確認できなかった。

遊歩道が張り巡らされている里山に入る。一番低い沢沿いの小道だ。道からそれて林床を探るとなると、散歩の時間を超える。林床に入りこむようなキノコ採りは、たまにしかやらない。行って戻る。それだけ。何カ所かでウスヒラタケがとろけ、黄色っぽく汚れていた。台風11号が襲来する前後、一週間前なら大収穫だったろう。

ウスヒラタケが駄目ならオオゴムタケがある――。折り返し地点を丹念に眺めまわす。オオゴムタケが1個あった。黒っぽい球体を水平にスパッと割った半球体状だ。毎年、ここでオオゴムタケを採っている。それが出始めたようだ。

振り出し地点に戻ると、左側に真っ赤な色が見えた。ツチアケビの果実=写真=だ。まるで赤く着色したウインナーソーセージをぶら下げたような形。

ツチアケビは光合成を行う葉を持たない。養分のすべてを共生菌に依存しているという。相手はキノコのナラタケ。秋が深まった時点でチェックすれば、ツチアケビの周辺でナラタケが採れるかもしれない。

オオゴムタケについては、前に「森のナマコ」と形容したことがある。が、「森のプリン」と言った方がいいかもしれない。湯通しをして表面を切り取り、残りの透明な「プリン」を小口切りにしようかと思ったが、むずかしいのでやめた。縦、横、斜め、切り方は自由だ。

いったん冷蔵庫で冷やしたあと、半分にしたコカブをスライスするように刻む。酢醤油に洋ガラシを溶かし、そこにスライスしたオオゴムタケをさっとつけて食べる。酒の肴としては秋の森の珍味には違いない。

ウスヒラタケには一歩遅れたが、カイツブリ・獣の足跡・ツチアケビに出合えた。それ以上に、オオゴムタケに出合えた。そのことを、里山に感謝する。

2009年9月5日土曜日

もうヒガンバナが


夏井川の堤防は、ニラの白い花とスルボのピンクの花が真っ盛り。これにヒガンバナの花が加わった。

堤外、つまり川のある方の土手はあまり草刈りが行われない。草が茂りに茂っている。時折、キジの雄がこの草むらでえさをあさる。朝晩の散歩時、入り込む姿を見て様子をうかがうのだが、草むらはそよとも動かない。草むらに入ってしまえばもう分からないのだ。

ヒガンバナもそれで咲いているのが分からなかった。9月4日の夕方、しばらくぶりに堤防を下りてサイクリングロードを歩いた。堤防を仰ぎ見ながら行くと、線状の赤い色のかたまりが目に入った。今年初めてのヒガンバナ=写真=だ。土手をのぼり、草をかき分けて写真を撮った。すでに咲き終わったものもある。ということは、8月の終わりには咲き出したに違いない。

まだ9月上旬。気づくのが遅かっただけで、これまでも同じころに咲き始めていたのだろうか。去年はどうだったか。散歩中にヒガンバナの花に気づいたのは、写真のデータから9月15日だった。気づいた時点でいえば、今年は10日ほど秋の訪れが早い。

前にも書いたが、ウグイスはもう「ジャッ、ジャッ」の笹鳴きに替わった。キジの雄たちが一緒にえさをついばみ、サギたちが集団でねぐら入りをするようになった。ひとまず残暑が収まり、曇雨天が続いている。秋キノコも出始めたのではないか。散歩代わりに今から里山へひとっ走りしてこようと思う。

2009年9月4日金曜日

頑張ったんだな


3つ年下の元同僚の通夜と葬儀に行って来た。喪主のHさん(彼女も元同僚)、娘のAちゃんと言葉を交わした。胸が詰まった。告別式でAちゃんが会葬者に謝辞を述べた。別の元同僚の話も加味すると、大変な闘病生活を送ったらしい。

Aちゃんは言った。――闘病4年4カ月。家族3人で協力し合ってきた。父は冷静に現実を受け入れて対処した。良い思い出も残してくれた。世界一誇りに思う。

会葬者に応対する合間に、Hさんは言った。「3人で頑張ろうってやってきたの。頑張ったのよ」「最近は穏やかになって」。Aちゃんは結婚した。25歳になった。「孫は」と問うと、、「8月に急きょ籍を入れたの」。Aちゃんの記憶は中学生のとき止まり。10年以上は音信のない状態が続いたわけだ。

この2日間、元同僚と走ってきた道のりを振り返ってばかりいた。記者になる前、記者になったあとを含めて、〈よく酒を飲んだなぁ〉――それが真っ先に思い浮かんだことだ。よく元同僚の家に飲みに行ってそのまま泊まった。殴り合いではなく、取っ組み合いのけんかもした。

私が突出するタイプなら、元同僚は引っ込むタイプ。色でいえば、青ではなく茶。お膳立ての努力はするが、手柄は他人に譲る――。取材先での人脈づくりが独特だった。裏方さん、たとえば電話交換手さんらとすぐ知り合う。警察回りでも刑事の家ではなく、刑事が家に飲みに来るような関係を築く。これは、私にできる芸当ではなかった。

闘病4年余といえば、発病は53~54歳のときだ。冷静に現実を受け入れるには、勇気がいったろう。記者の仕事からは離れたが、最後に記者の根本姿勢である「ウオームハート・クールアイ」を生きたのだ。頑張ったんだな。

それでも、最後の別れをしていない。葬祭場で霊柩車を見送ったあと、新しい火葬場「いわき清苑」=写真=へ向かった。家路の途中にある。最後の最後に、穏やかで安らかな顔を見た。

2009年9月3日木曜日

45年ぶりの写生会


自宅近くの神谷公民館で月2回開かれている市民教室「基本のえんぴつ画」が5カ月目に入った。10月に終了する。

先生から出される課題が少しずつ複雑になってきた。カットグラスやナスなどの模写ならなんとかついていけたが、目の前にある樹木や風景をスケッチするとなると、〈難しい〉〈そこまでのウデがない〉ことを痛感する。それでも我流で挑戦するしかない。

ウデがないのだから、細かいところはグシャグシャやってごまかす。先生はそのグシャグシャさえもほめる。いや、全員をほめる。

元学校の美術教諭、そして小・中の何校かで校長を経験して退職した女性だ。小学校長のとき、連絡を受けてあるクラスの担任と会い、先生たちの研究授業のための材料(コラム)をつくったことがある。コラムに基づいて先生が授業を展開するという面白い経験をした。

しかし、それと「えんぴつ画」教室は無関係。キノコのスケッチ力をつけたいと思っていたときに、案内チラシを見たら、講師はそのときの校長先生だった。

写生会は「基本のえんぴつ画」の仕上げのようなものだろう。台風11号が東海上にそれたおととい(9月1日)、公民館の周辺という条件でスケッチに出かけた。目指すは平六小そばの、旧大場医院。建物が和洋折衷なのか変わっている。診療所は小道をはさんだ南側、北側にあるのは病舎=写真=か。とにかくどちらかの建物を描きたかったのだ。

小・中学校の写生大会の記憶が強く残っている。たとえば、小4。校庭から見える町並みも、田んぼも、山も、空も、全部描こうとして失敗した、と思った。そのとき、よそのクラスの先生に言われた言葉がある。「うまく描こうと思わないこと。下手でいいの」

中3のときにも同じ経験をした。寺の境内から見える風景を全部描こうとして失敗した。画用紙を破いた。それから近くの文房具屋へ走って画用紙を買い、制限時間ぎりぎりになって、寺の建物、それも濡れ縁と天井、板壁だけの絵を描き上げた。

以来、45年ぶりの写生会。この二つの経験が、あれもこれも描きこまないように教える。が、いすまでは思いが及ばなかった。以前から「えんぴつ画教室」を受講している人は、携帯いすでゆったりスケッチしている。こちらは小・中生と同じジベタリアンだ。

1時間ほどでは細部まで描ききれない。次回に仕上げることになった。先日、思い切って色鉛筆とクレヨンを買った。色を染めてみようか、などとちょっぴり欲が出てきたのも、自然のなりゆきか。

2009年9月2日水曜日

少年と黒柴


朝晩の散歩では、すれ違う人がだいたい決まっている。いつも首からデジカメをぶら下げている。相手はおかしなやつだと思っているかもしれない。

が、あいさつする人・しない人、カメラに興味を持って声をかける人・しない人、向こうからあいさつする子どもと、つられてあいさつする若い親と、すれ違うときの反応はさまざまだ。

そのなかの一人。夕方の散歩時、すれ違ったり、一緒に同じ方向へ向かったりする少年がいる。飼い犬の散歩当番らしい。犬は黒柴。ときどき話をするようになった。

私は、犬も猫も嫌いではない。が、猫かわいがりはしない。猫なら猫一匹、犬なら犬一匹――飼うとすれば、それ。たとえば、猫が二匹以上になると匂いづけ・ひっかき・排せつ・吐き出しと、家の中が汚れて頭をかきむしりたくなる。わが家の現実がそうだ。

そんな私にも犬のはやりすたりは感じられる。黒い柴犬がはやりらしい。少年の家だけではない。わが家の斜め前の家にも、数カ月前に黒柴がやって来た。某政党機関誌の日曜版に連載中の漫画にも登場する。主な登場人物は田舎暮らしを始めた漫画家の夫と妻、妻の両親。そこに、家族の一員として黒柴が加わった。

さて、少年の話。年のころは十代後半。きちんとあいさつができて、素直だ。たまに「きょうは何を撮りました?」と興味を示す。撮ったものがあるときはデジカメのモニター画面を拡大して見せる。「何にも撮ってない。そうだ、黒柴を撮ってやろう」「ありがとうございます」となったのが、きょうの写真。

前に、猫ではなく赤柴の雑種を飼っていたことがある。15年以上生きた。この赤柴を車に乗せて夏井川渓谷の森へ連れて行くと、野性を取り戻した。縄文時代の犬はこうだったのではないか、とよく思ったものだ。この赤柴の思い出が少年の黒柴に重なって、犬をかわいいと思う気持ちがよみがえりそうになった。

2009年9月1日火曜日

元同僚の死


まさか、と思った。氏名と住所、喪主、すべて一致する。私の古巣の新聞に葬祭場の葬儀広告がある。そこに元同僚の名前があった。

元同僚というよりは、友人を介して知り合った“飲み仲間”が最初だった。たぶんこちらは社会人1年生になったころ、彼は大学を中退して帰郷したばかり。19歳か20歳だったと思う。そのあと、縁があって同僚になった。25年以上は一緒に仕事をしただろうか。

社を去ったあとに会ったら、「また一緒に仕事をしたい」と言ってくれた。同じいわき市内に住みながらも、だんだん風の便りが遠くなって消えた。一人娘のAちゃんが高校に入ったのを知ったときは、会社への出勤途中にすれ違わないかと、女学生をそれとなくチェックしたこともある。

そして、もう一つ。この葬儀広告より何日か前に、別の元同僚からはがきが届いた。元同僚というよりは、私の「ついのすみか」(唯一の不動産ともいうべき墓の用地)がある寺の住職だ。

「當山先住職石雲和尚かねてより四大不順の処、薬石効果無く去る八月十日遷化致しました。津送(本葬)は来る十月一日午前十一時より當山本堂で執り行います。合掌」。おやじ殿が亡くなったのだ。臨済宗では遷化から四十九日目に本葬をする。それで10月1日なのだろう。

知らせを受けて、車でちらりと寺の様子を見に行ったら、門前に「山門不幸」の立て札があった=写真。書体は元同僚のものに違いない。

親が高齢になって逝くのは、順送りだからいたしかたないことだ。でも、年下の人間が、それも50歳代で逝くのはきつい。喪主の奥さんも元同僚。つらいものがある。