2009年11月30日月曜日

湯本温泉童謡祭


いわき市の常磐市民会館できのう(11月29日)、3回目の「湯本温泉童謡祭」が開かれた。去年1月、「野口雨情記念湯本温泉童謡館」がオープンした。長年の市民運動の結果だ。リーダーの一人、里見庫男さんが収集してきた雨情関連資料約1,400点を寄贈し、初代館長に就いた。

その里見さんが今年4月、亡くなった。童謡館オープンのめどが立って「童謡祭」を開催し、オープンしてはずみをつけ、さらに飛躍しようと考えていた3回目。里見さんのいない童謡祭は寂しい――そんな思いに襲われた。新型インフルエンザの影響で、小・中学生の出演がキャンセルになったことも、そうした思いに拍車をかけた。

でも、よくきめこまやかなプログラムを組み立てたものだ。雨情の童謡を「すずめの学校」のみなさんが披露し、湯本高校合唱部の女子生徒がアカペラで「赤とんぼ」などを歌った。

途中、出演者の一人、加藤ちゃぼさんが小・中生欠場による時間調整のために、急きょステージに現れ、「パーカッションで遊ぼう」と題して客席の老若男女を「リズム体操」に巻き込んだ=写真。これはよかった。みんなが乗って手を動かし、体を動かして笑った。

目玉は(と私が思っているだけか)、栃木県に住む雨情の孫の山登和美さんと、地元常磐・童謡のまちづくり市民会議の久頭見淑子さんによるトークショーだ。

山登さんが、途中から緊張がほぐれてくるのがよく分かった。全体の司会の女性の言葉にもあったが、「徹子の部屋」ならぬ「淑子の部屋」だった。満月のような久頭見さんの人柄が山登さんの気持ちをほぐしたのだろう。これまで知られていなかった雨情のエピソードなどが分かってよかった。里見さんの遺志は立派に引き継がれている。

2009年11月29日日曜日

「ノーベル賞」を食べる


きのう(11月28日)の続き。金曜朝のNHKハイビジョン「世界ふれあい街歩き」はストックホルムが舞台だった。ストックホルム市庁舎や旧市街(ガムラスタン)などが出てきた。ノーベルの誕生日である12月10日にノーベル賞の授賞式が行われる。タイムリーな再放送で、興味を持って見た。

授賞式はコンサートホールで行われる。そのあと、会場を市庁舎に移し、「ブルーホール(青の間)」で受賞者と王室一家を囲んでの大晩餐会が行われる。それが終われば、2階「ゴールデンホール(黄金の間)」=写真=で舞踏会が催される。

市庁舎には市議会が入っている。市議会には財政、都市計画・道路など行政別に8つの委員会が置かれ、議会から独立して行政を執行している。“貸しホール業”も手がけている。その一大イベントが、ノーベル財団が「ブルーホール」と「ゴールデンホール」を借りて開く晩餐会と舞踏会というわけだ。日本の市役所とは随分機能が異なる。

ま、それはともかく、向こうではノーベルが観光の大きな吸引力になっていることは確かなようだ。

ガムラスタンにノーベル博物館がある。そこのアイスクリームがうまいというので、頼んだら「売りきれ」だった。仕方がない、代わりに金紙包装のノーベル賞メダルに似せたチョコレートを買う。お土産に持ち帰り、おしいただくようにして食べた。ご利益があるかもしれないので孫にも食べさせた。5枚1,500円は、今思うと高い。やはり「高負担」の国である。

日曜日だったせいか、それとも毎日そうなのか、観光客が行き交うガムラスタンなのに夕方4時を過ぎたら営業終了という店があった。アイスクリームの売りきれと言い、4時の営業終了と言い、さすがに「高福祉」の国だと思った。商売っ気がない。余暇を大事にする国民性なのだろう。

2009年11月28日土曜日

「ペール・ギュント組曲」


またまた「北欧もの」で恐縮だが、いわき総合図書館のCDコーナーを眺めたら、ノルウェーの作曲家グリーグの「ペール・ギュント組曲」があるではないか。

グリーグは、9月下旬に北欧を旅して以来、気になる人間の一人になった。CDコーナーをチェックしていたが、それらしいものはなかった。誰かが借りていたのだろう。で、ないかもしれないが、と思いつつ見ると、目に入った。早速、借りて聴いた。

「朝」は、前にも書いたが耳になじんでいる曲だ。クラシックを聴くが、クラシックファンとは言えない人間なので、タイトルとメロディーが一致しない。ましてや、グリーグなる作曲家がいることさえ知らなかった。なんて華麗なメロディーなんだ、なんてきらきらしているんだ――それが最初の印象だ。グリーグが少し、体に入ってきた。

旅から帰って以来、北欧の話のなかでグリーグに触れると、「『朝』がいいですね」という人間が結構いる。「朝」は、日本人にも広く浸透しているのだ。そのつど、ノルウェーで見た「グリーグの家」と、そのそば、湖の近くにある作曲のための仕事部屋(五浦海岸にある岡倉天心の六角堂を連想した)へ下りる坂道の途中にある銅像=写真=が思い浮かんだ。

CDを借りたのがおととい(11月26日)。27日朝にはNHKハイビジョンが、再放送だが「世界ふれあい街歩き」でストックホルムをやっていた。同じ日の夜はツウェルビの「古城のまなざし」が、フィンランドを含む北欧4カ国の古城を紹介していた。カミサンは「北欧の番組が多いね」というが、こちらが意識して番組を選んでいるからそう感じるのだ。

北欧関連の新聞記事はほとんどお目にかからない。テレビのニュースもない。オリンピックで東京が落選した――コペンハーゲン発のニュースが10月初めに届いた程度で、日本の北欧に関する意識(むろん、私もそうだが)は低い。が、北欧体験以後は、意識が変わった。気をつけるといろいろ見えてくるものがある。

ついでに言えば、世界はその人間が意識したものしか見えないようにできている。朝晩の散歩もそうだ。見たり聞いたりしているものは、鳥・花・木・空・川など、意識しているから見たり聞いたりできるものばかり。石ころに何千万、何億年の歴史がある、などとは地質学に関心が薄いので思いが至らない。その伝で、北欧関連のテレビ番組がよく見えるようになったわけだ。

2009年11月27日金曜日

運転免許講習


運転免許の更新時期が来て、講習を受けた。前回も、今回も「ゴールド」。受講時間は30分だ。講師の言葉が身にしみた。道交法は5年前と同じではない。改正されている。「免許を取るときは勉強したでしょ。そのあと、勉強してますか」。優良運転者ほど勉強していない――そんなことを最初にガツンと言われた。でも、その通りだ。

講習会場の正面に、マークが四つ大写しになった。「初心者」(若葉)と「高齢者」(もみじ)のほかに、見慣れないものが二つ。大多数が「分からない」方に手を挙げた。私もそうだった。

一つはハートのかたちをした四つ葉のクローバー「身体障害者マーク」、もう一つはチョウのかたちに似せた耳「聴覚障害者マーク」。身体障害者マークは車の後ろに張ってあるのを時々みかける。車いすのマークから変わったのか。聴覚障害者マークは初めて見た。

運転免許更新の申請時に必要な手数料を払った。「交通安全協会に入るか」と言うので、「入る」と言ったら会費が必要になった。手数料しか用意しない人間もいるだろう。〈その旨、最初から書いとけよ〉と思った。ま、5年前にも、いや更新時に同じようなやりとりをしていることを忘れていたのだが。

そのとき渡されたものの一つに「交通の教則」がある。もらってもほとんど読んだことがなかった。勉強しない――ということを、講師は(交通警察官OBに違いないから、経験的に)知っている。統計的な分析の結果として、「ゴールド」免許の人間ほど事故を起こしているのだ。「教則に一度は目を通すこと」。で、読んだ。講師のいうことがよく分かった。

免許を取った20代のときとは、心身の状態が異なっている。動体視力が落ちる。決断力が衰える、つまりためらいが生じる。これは事故のもとだという。還暦を過ぎて、ときどき距離感や決断が鈍くなっている自分を反省する機会が増えた。要は、教則に帰れ――ということだ。

日常的な、わが行動範囲のなかの“主軸”は国道6号。もっとも手ごわい場所は平の中心市街地に向かって右折する鎌田交差点と、散歩の途次に横断するバイパス終点の交差点、そして信号のない横断歩道だ。

そこでヒヤリとするときがある。事故車を見るときがある=写真。横断歩道では、いまだに止まってくれる車がない。いつも信頼と不信をはかりにかけながら交差点を、横断歩道を通過する。

交通教則を車に常備することにした。交通死亡事故ほどむなしいものはない。無駄死にしないために、させないために、一呼吸おいてゆっくり行く――時々は教則を開いて戒めとしたい。

2009年11月26日木曜日

一網打尽とはいかず


休日、家にいれば夕方の散歩は1時間ほど早める。3時台だ。先の連休最終日は早朝、雨が上がり、日中は小春日になった。午後3時半ごろ、サケのやな場に近づくと、両岸に鮭増殖組合員がいた。一般人とみられる人も対岸に何人かいた。休日はこうしてギャラリーが現れ、結構にぎわうようだ。

10日ほど前、いわき民報の連載企画「いわき色紀行」にサケやな場の記事が載った。イクラの「オレンジ色」がテーマだった。「組合では12月まで、平上大越の作業所でサケとイクラを販売している」とあった。作業所はやな場から2キロほど下流にある。やな場でも売っているのではないか。そんな休日の雰囲気だった。

記事によると、やな場には一晩でサケ雄雌200匹ほどがかかる。それを朝、投網で揚げる。鮭増殖組合は毎年、30万~40万匹を孵化させる。今年は11月上旬に孵化用の採卵を終えた。で、今はイクラとして販売するための捕獲・採卵作業に精を出しているわけだ。

組合員は両岸から、なかには川に入り、水面を凝視しつつ遡上してきたサケをめがけて網を打つ=写真

姿は見せないが、遡上してくるサケが水面に水紋をえがく。そこへばらっと網をやる。危険を察知してターンするのか、網の外側で水面からはね上がるサケがいた。網を揚げるとからっぽ。そんなケースが多い。一網打尽とはいかないのだ。やな場のすみに捕獲したサケが並んでいた。4匹。効率は悪そうだ。

やな場は雨が降ると水没する。サケたちは増水に乗じてやな場を越える。上流でもサケの姿が見られるのは、やな場がたまに水没するからだ。このごろはめまぐるしく天気が変わる。雨も降る。やな場の水没回数も増えた。力尽きたサケはやがて浅瀬に流れ着き、カラスたちのえさになり、干からびて果てる。

2009年11月25日水曜日

あの世のうた


ものごころづいて最初に覚えた歌が「高原列車は行く」だった。小学校に入学する前のことである。作詞は丘灯至夫、作曲は古関裕而の福島県人コンビ。歌は岡本敦郎だった。むろんそのころ、丘さんが田村郡小野町生まれとは知るよしもない。

西條八十門下で、「高校三年生」が大ヒットした。阪田寛夫とは別に童謡の「ねこふんじゃった」を作詞し、アニメの「ガッチャマン」「ハクション大魔王」「みなしごハッチ」などの歌詞も手がけた。

その丘さんが亡くなった。享年92.なかなかユーモアに富んだ人で、生前、「あの世はパラダイス」「霊柩車はゆくよ」をつくっている。「霊柩車はゆくよ」は「高原列車は行く」を意識したものだろう。

『福島マスコミOB文集』に〈花野井だより〉を連載し、2007年5月の創立30周年記念特別号では、第13章として「あの世のうた」をつくった経緯を紹介している=写真

20年以上前のことだ。この世の歌を大分つくったので、そろそろあの世のうたをつくりたい。レコード会社のディレクターに持ちかけたら、けんもほろろに拒否された。会社が外資系になり、新社長のもとへあいさつに行って、「あの世のうた」の話になった。社長が乗ってきて、「あの世はパラダイス」「霊柩車はゆくよ」ができた。

作曲は小林亜星。見事な仕上がりでまとまった。しかし、文集への出稿時点では「あとはレコーディングとなりました……が、さて、その後数週間、まだ良い返事が来ていません」。その後、「エノケン」という歌手を得て、歌ができあがった。

で、文章の最後はこう結ばれている。「私の葬儀のときは、是非この歌で、あの世とやらへ送り出して貰いたい。/お願いしますよ、みなさん……。」

丘さんは小野町の名誉町民第一号で、同町の「ふるさと文化の館」内に記念館が設けられている。確か妹(あるいはいとこ)さんがいわき市平に住んでおられる。

「高原列車は行く」は、それこそ私の人生の伴奏曲だ。今も酒席で求められると、この歌を歌う。これからも歌っていく。福島県の、田村郡の、ふるさとの風景を思い浮かべながら。

2009年11月24日火曜日

アニメとタイル画


同級生と一緒に北欧を旅行したときに、「日本」を感じたのが二つある。テレビのアニメとホテルのバスルームのタイル画だ。

私を含めて6人(夫人1人を加えて7人)、還暦を過ぎたせいもあるが、すっかり早起きになった。5泊7日の北欧滞在中(に限らず、日本のそれぞれの暮らしの中でもそうだろうが)、早朝に目覚めると、ホテルを出てジョギングに行く者、ウオーキングに行く者、たばこを吸いに行く者と、部屋にじっとしている者は少なかった。

私は朝食の時間まで、ホテルの部屋の窓から外を眺めたり、テレビを見たりして過ごした。テレビは現地の言葉でやっているから、当然、意味が分からない。日曜日の早朝、漫然とテレビを見ていたら、アニメになった。どうも日本の作品くさい。エンディングのスタッフ名(英語)を見て、文字通り日本のアニメ作品と分かった。

あとで調べたら、テレビ東京系の対戦ゲーム型アニメ「爆丸(バクガン)」だった。このアニメは北米大陸でも大人気らしい。

泊まったところは首都ないし古都のホテル。古い外観と違って内部は極めて近代的だ。ベルゲン(ノルウェー)のホテルでは、バスルームのタイルがところどころ「日本画」で飾られていた。近景はススキ(あるいはヨシだったか)、中景は池と小島、遠景は山並みと少し雲がかかった満月。

タイルの「日本画」を写真に撮ったが、どうもはっきり写っていない。しかたない、スウェーデンでスケッチした6階建ての建物と合わせて、ホテル備え付けのメモ用紙にえがいたタイルの「日本画」をお見せしましょう=写真。稚拙で恥ずかしいが、雰囲気だけは分かってもらえると思う。

2009年11月23日月曜日

ヒラタケへまっしぐら


1週間前に、あるところで採りごろのキノコを見た。ヒラタケとナラタケ。すぐ誰かが採った。採った人間まで分かっている。こういうものは早い者勝ち。腹が立っても文句は言えない。

そのとき、自分のシロ(と思っているところ)を思い出した。ヒラタケのなる、大きな倒木がある。そこにも発生しているに違いない。ほんとうは次の日、あるいはその次の日に行ってみればよかったのだが、それができなかった。

きのう(11月22日)、真っ先にそこへ行った。ヒラタケがびっしりなっていた=写真。が、やはり1週間は遅かった。傘に落ち葉が張りついている。それだけで時間がたったことが分かる。半分以上はピークを過ぎていた。「白こぶ病」にかかっているものも少なくなかった。なんとかしっかりしているものを採った。量としては全体の5分の1か。

「ムーミン」の作者、フィンランドのトーベ・ヤンソンに『彫刻家の娘』という自伝的な作品がある。北欧の人たちは、いやロシア、そして欧州全体といってもいいのだが、彼らはキノコが好きでよくキノコ狩りをするらしい。そういう人たちの気持ちを代弁していると思えるのが次の文章だ。

「「キノコ狩りにもやりかたがある。何百年も昔からずっと、キノコは冬の朝食に欠かせない大切な食べものだといってもいい。どのキノコにもあるふしぎな菌糸をたやさないよう、キノコの生える場所を、つぎの世代の人のためにも、とっておかなければならない。夏のあいだに家族の食料を手に入れること、自然をうやまうこと、このふたつは市民の義務だ」

ときどき欲張りになってしまう。菌糸を絶やす前に、そのもととなる胞子を絶やすような仕儀になる。収穫の喜びだけに酔いしれる。山里で暮らす人は、小さいころから生活の場で「市民の義務」を学んできた。問題は、遊びでキノコ狩りに興じるマチの人たちだ。その人たちにヤンソンの言葉を贈りたい。

その「ヒラタケの木」は、菌類にとっては栄養たっぷりの温床だ。いろんな菌類、毒キノコのニガクリタケほかが発生している。あと何年かはさまざまな菌類を養ってくれることだろう。採ったヒラタケの一つを、昼食の味噌汁の具にした。うまかった。残りはゆでて冷凍保存にでもしようと思う。冬の日の食卓のために。

2009年11月22日日曜日

事業仕分け


9月下旬に北欧を旅して以来、「高福祉高負担」がなぜかの地で定着したのか、理由を知りたくていわき総合図書館の本を漁っている。“中間報告”をきのう(11月21日)、いわき地域学會の市民講座でした。タイトルは「北欧見聞録」としたが、あとでしまったと思った。「見聞」はいいが、「録」ではなく、帰国してから本を読んで知った「読」、「見聞読」だ。

向こうに住んで働いている日本人女性の、堂々たる発言が耳に残っている。「高い税金を我慢できるのは『安心』があるから」。日本で政権交代が実現した直後だ。日本も、いや日本の国民もやっとそれに気がついた、と言わんばかりだ。これからは日本の政治にも期待できる――そんな見方に驚いた。自分の狭隘な考えを是正しないではいられなかった。

日本と違って税金の使われ方が明々白々、それだけのこと――というのが結論だ。すべてそうだとは言わないが、日本では税金の使い方が恣意的だった。不透明だった。利権がらみ、官僚まかせだった。

で、不透明・不公平・無駄――の批判を回避できなくなった。国民の安心・安全のために使われるべき税金がそうなっていなかった。彼らにまかせていたら、不安と怯えは払拭できない。極端なことをいえば、生存に対する危機感が広がった。そういう流れの中で自公民政治に国民は「ノー」を突き付けた、長い間に(馴らされて)ベターだと思っていたのが、そうではなかった――それを見抜いたのだと思う。

北欧との比較で言えば、まず税金の使い方を決める手続き、それが少し向こうに近づいた感じがする。公開された、透明な場での必要性を論じる「事業仕分け」に賛意を表したい。こういうやり方ができることが政権交代のダイナミズムだろう。

「子ども手当」の創設や「高校授業料無料化」などが論議されているが、むこうは大学の授業料も無料、児童手当も子どもの数によって増額される。高速道路は当然、無料=写真(ストックホルム市内と空港を結ぶ路線、対向車線は朝の通勤車両で混雑していた)――そんな具体例を知るにつけ、わが日本の新政権には「安心を保障した経済成長」をしっかりやってほしいと思う。

2009年11月21日土曜日

林不忘と藁谷達


2010年1月31日まで、いわき市立草野心平記念文学館で「ふくしまの文学展 浜通り編」が開かれている。浜通りゆかりの作家・詩人・歌人・俳人・柳人50人を紹介している。

10月初旬のオープン直後に、丹下左膳の作者・林不忘のことについてちょっと触れた。丹下左膳は浜通りの北方、相馬藩の家臣だった――。大河内伝次郎ふんする映画で、団塊の世代にもなじみのヒーローが「相馬藩士」というのは、原作を読んでいないので“発見“だった。

林不忘は本名・長谷川海太郎(1900~35年)。牧逸馬の名で探偵小説を、谷譲次の名前で「めりけんじゃっぷ」物を書き分けたという。なかなかの異才だ。35歳でこの世を去るが、いくらなんでも早すぎる。持病の喘息(ぜんそく)の発作が死因だったらしい。

末弟に「シベリヤ物語」を書いた長谷川四郎がいる。こちらは17歳のときに知った。スペインの詩人フェデリーコ・ガルシャ・ロルカの詩の翻訳者として。日本語がこなれていて、今でもそらんじている(と思ったら、ざるから水がこぼれるようにうろ覚えになっていた)詩がある。〈水よ おまえはどこへいく?〉。私が水や川を意識して見るようになった原点、と言えばいえる。

マルチ作家・長谷川海太郎は、谷譲次としてはユーラシア大陸を旅したルポルタージュ「踊る地平線」がある。北欧について書いていることが分かった。岩波文庫から上下巻が出ているので、早速注文した。とりあえず、総合図書館から長谷川海太郎の評伝『踊る地平線』(室謙二=晶文社)を借りて読み始めた。

「ふくしまの文学 浜通り編」展では、「シベリア抑留」をテーマにした記録文学、藁谷達(さとる)の『憎しみと愛』に衝撃を受けた。

ようやく手に入れた図録代わりの紹介文コピー=写真=によると、藁谷達(1919~70年)はいわき市小川町生まれ。終戦後、ソ連に抑留され、収容所で強制労働を余儀なくされた。帰国後は高校教師になり、昭和45年、学園紛争の対応中に急死した。

〈収容所〉物としては、この言い回しが自分でも嫌いなのだが、フランクルの『夜と霧』、大岡昇平の『俘虜記』、ソルジェ二ツィンの『イワン・デニソヴィチの一日』などがある。長谷川四郎の『シベリヤ物語』もこの範疇に入る。

これらを全部、手元に置いて読みつないでいる。『憎しみと愛』に触発されたからにほかならない。極限状況の中での人間性について、いや人間性の極限について深く考えさせられる作品ばかりだ。

2009年11月20日金曜日

フジの莢はじける


「ガシャッ」。なにかガラスの容器が落下して割れるような音がした。茶の間のこたつで晩酌をしていたときのこと。夫婦で音の方を見たが、畳には何も落ちていない。テレビのそばの鏡台タンスの上に何本かフジの莢(さや)が置いてある。座ったまま首を長くして見ると、莢の一本が裂けて開いていた。これだ=写真

莢の中には径1.5センチから5ミリくらいの、丸く平たいチョコレート色の種が入っていた。種のベッドは4つ。種は大2、小2。ベッドの大きさはそう変わらないのに、どうして違いが生じるのだろう。

週末を過ごす夏井川渓谷の無量庵の庭には、毎年、どこからか飛んできたカエデの種が根づいて芽生える。土ごと苗ポットに入れて持ち帰り、わが家の庭に移し替えたのが、何本か大きくなった。フジはどうだろう。実生の苗を持ち帰った記憶はない。たぶん、カエデの苗を植えたあとに余った土を捨てたら、なかに種がまぎれ込んでいて活着したのだろう。

ミツバアケビがニシキギに巻きついて、離れのプレハブ小屋の屋根までつるを伸ばすようになった。フジも同じで、小屋の一角を覆いつくすほどに生長した。夏には長い莢をいっぱい垂らす。

先日、孫が遊びに来てこの莢に興味を持った。何本か取ってやると、おもちゃの太鼓をたたき、ガラス戸をたたき、「天使の風鈴」をたたく。そのうちあきてほったらかしにしておいたのを、鏡台タンスの上に置いていたら、乾いて熟して「ガシャッ」と破裂したのだ。

裂けた莢は、後で見るとねじれていた。全身の筋肉を緊張させて、種をやさしく、ふんわり守っていた。種がはじけ飛んだら、筋肉がほぐれて、というより緊張を保っていた神経がプチンと切れてねじれてしまった――そんなイメージが浮かんだ。

山野では夜ごと日ごと、ときを選ばず「ガシャッ」とはじけて鳥や小動物を驚かしているに違いない。わが家でもこれから次々に「ガシャッ」となることだろう。

2009年11月19日木曜日

要塞のオオバン


夏井川の河川敷を散歩していると、対岸に見慣れぬ水鳥がいた。全身黒ずくめ、くちばしから額(額板)が白い。双眼鏡をのぞくとオオバンと分かった。冬になると現れる。

オオバンはヨーロッパとアフリカ北部、アジア、オセアニアに広く分布し、中央アジアなどで繁殖したものは、冬、暖地へ移動する。日本では、北日本では夏鳥だが東北地方南部からは留鳥――と図鑑にある。

つまり、いわき辺りでは冬鳥ではない。夏場、目にしたことはないから、「夏山冬里」のウグイスなどと同じく、「夏北冬南」の漂鳥なのだろう。9月下旬に北欧を旅したとき、デンマークの首都コペンハーゲンはアマリエンボー宮殿近く、星形をしたカステレット要塞の濠でこのオオバンを見た。

コペンハーゲンの観光定番コースだ。カステレット要塞の先っちょにあるアンデルセンの「人魚姫」像を見たあと、途中から歩いて宮殿へ向かった。その途中に4頭の雄牛をひく女神の像の「ゲフィンの泉」がある。噴水だが、水は止まっていた。わきにある石段の上に立つと、眼下の濠にオオバンが泳いでいた=写真。「弁足」といわれる足がよく見えた。

運河の船に留まって昼寝をしていたマガモもそうだが、向こうの野鳥はそんなに人間を恐れない。日本では、至近距離でマガモの写真を撮るなど至難の業だ。「かもねぎ」になってしまった歴史があるからだろう。オオバンも人間を警戒して近寄らないから、300ミリくらいの望遠レンズでは米粒くらいにしか写らない。

デンマークではオオバンはもちろん、マガモも留鳥らしいことは図鑑で分かった。たかが野鳥だが、実見することで北欧の野鳥と人間の関係、ひいては自然を学ぶ手がかりが得られた思いがした。

2009年11月18日水曜日

アトがないならアートだ


頭の中で整理するのに少し時間がかかる美術展が、いわき市で始まった。市立美術館では「わたしが選ぶ いわき市立美術館 ザ・コレクション展」(12月13日まで)、共催事業としていわき明星大学ほか、市考古資料館など市立の6施設を会場にした「いわきぐるっとコレクション展」(11月30日、12月5日、13日、1月24日までとさまざま)だ。

市立美術館が収蔵する作品を対象にした、市民が好きなこの作家、この作品――の人気投票に基づく企画展が「ザ・コレクション展」。これまで美術館のロビーを会場にして“個展”(ニュー・アート・シーン)を開いた、いわき在住作者による自分の作品と、影響を受けた美術館収蔵作品を展示するのが「ぐるコレ」。この2本立てである。

市立美術館開館25周年記念と銘打っている。にしては、「自前」と「地元色」が強い。カネがないのでこんな企画になった――これは、はっきり言えるのではないか。学芸員が知恵を絞って、汗をかいて、そして、いわき在住の作者にも協力をお願いして。美術館友の会もパンフレット発行を引き受けた?

あえて美術館の向こうにいる市教委、さらにその先に陣取る市長部局の面々に向かって言いたくなる。逆も真なりで、カネがないときほど文化ではないか、と。チェンジだ。国だけでなく自治体にも新しいまちづくりの発想が求められる世の中になったのではないだろうか。

11月14日の夕方、「ザ・コレクション展」のオープニングパーティーが美術館ロビーで開かれた。みずから絵を描くアクアマリンふくしま館長安部義孝さんが、来賓あいさつのなかで行政の文化関連予算が削減されている状況を指摘しながら、「アトがなくなったら、アートがある」、つまり気概を持ってアートに取り組もうと激励した。

そういえば、11月8日に草野心平記念文学館を訪れた際、ロビーに彫刻作品が飾られてあった=写真。それが「ぐるコレ」の一つだったのだ。

ところで、「パリコレ」ならぬ「ぐるコレ」とはよく言ったものだ。「デパ地下」「「ケータイ」「サラ金」などと同じ、日本人が好む4文字(音)略語だ。日本語は「ぐる・コレ」「デパ・地下」と2文字(音)が基本のリズム、2文字(音)が2回続くとおさまりがよくなるようにできているらしい。

たとえば俳句は五七五といわれるが、音楽的には休符を入れて四四四なのだという説もある。これは余談。

2009年11月17日火曜日

小野町産「三春ネギ」


またまたネギの話で恐縮だが、やっと謎が解けた――そんな心境なので、悪しからず。

夏井川渓谷が紅葉時期に入ると、磐越東線・江田駅の下、県道小野・四倉線沿いにテント張りの食べ物屋が出る。農産物や山菜・キノコの塩漬けを並べた地元のおばちゃんたちの露地売りも始まる。

ちょっと離れたところでは、夏井川の上流・小野町から、Nさんがやって来てナガイモとネギを売っている。今年も日曜日のたびに通ると、Nさんの姿があった。わが無量庵にやって来たことのある女性Hさんの知り合いで、それが縁で1年にいっぺんはナガイモを買うことにしている。

夏井川渓谷で紅葉ウオーキングフェスタが行われた11月15日、案内人としてそのウオーキングに参加した帰路、Nさんの直売所をちらりと見ると、曲がりネギが目に入った=写真。すると、〈もしや〉とひらめくものがあった。急きょ、駐車場に車を止めてNさんの直売所に向かう。午後4時前、店じまいする寸前の時間帯だ。

夫婦で顔を出し、少ししゃべったところでHさんの名前を出すと、思い出してくれた。そこからの会話。

「この曲がりネギは『三春ネギ』?」
「そうです、小野町でつくってますけどね」
「『阿久津曲がりネギ』と『三春ネギ』は同じだと思うんだけど」
「そうです、阿久津からネギ苗を買って来るんですよ」

〈やったー!〉。内心、快哉を叫ぶ。阿久津曲がりネギと三春ネギが、初めて一本の線でつながった。阿久津曲がりネギと三春ネギは同じだった――それを雄弁に物語る証言=状況証拠ではないか。

阿武隈高地に生まれ育ち、ネギが嫌いな幼児(当たり前だ)からジャガイモとネギのみそ汁が好きな少年に育った。15歳で家を離れたあとは、途中、東京で暮らした時期もあったが、ずっといわきで暮らし、還暦を迎えた。

40代後半のころから、夏井川渓谷の小集落・牛小川で週末を過ごすようになった。阪神・淡路大震災、そして地下鉄サリン事件のあった14年前、平成7年の初夏だ。集落のTさんの家に招かれ、酒を飲み過ぎて泊まった。朝、じゃがいもとネギのみそ汁を飲んだら少年時代の味の記憶がよみがえった。聞けば「三春ネギ」だという。それから、三春ネギのルーツ調べが始まった。

14年かかって、ようやく仮説に間違いがなかった、と言ってもいいような気分になってきた。〈三春ネギ、万歳!〉である。

2009年11月16日月曜日

森が喜んでいる


夏井川渓谷の「紅葉ウオーキングフェスタ」が、きのう(11月15日)開かれた。心配された雨と風が、うまい具合にイベントの開催時間を避けてくれた。

前夜のライトアップは宵の5時半(というより、渓谷では夜のとばりが下りた時間)に始まった。街で用事をすませたあと、渓谷の無量庵に着いた。すでに7時になっていた。雨が上がり、闇の濃い渓谷にそこだけ明かりがともっていた。結構な人出だった。寒くはなかった。

ライトアップも、ウオーキングの集合地点も、場所はわが無量庵の隣である。地元・牛小川の住民が、主催する商工会の一員として、また交通整理をする消防団員の一員として加わっていた。彼らにあいさつをして無量庵に引っ込んだ。ライトアップは、予定では8時半までだったが、30分ほど早く終わった。

次の日、つまり本番の日。起きると晴れ、無風。7時前には、一晩水にさらした生ごみを畑の一角に埋めた。人が大勢、そばの県道を行き交うような日には、朝のうちに畑仕事を終えたい、生ごみも埋めてしまいたい、という心理がはたらく。ウオーキングの案内人にもなっていたので、よけい早くそうした。

8時半に参加者の受け付けを始め、9時に開会式、9時半にウオーキングがスタートした。参加予定者はざっと100人、これを5班に分けたが、新型インフルエンザの影響で大半が不参加の班もあった。旧知の「森の案内人」たちも、私らと同じ案内人の一員に加わった。樹木に関する質問は彼らに振ればいい。とても心強かった。

結論。コースを行って戻ること、ざっと2時間強。晴れて、風がなかった。最高のウオーキング日和だった。

2.5キロ先の折り返し地点ではごみ拾いをした=写真。ごみのほとんどは上流から大水で流され、風にあおられて森に舞い散った発泡スチロールの破片だ。去年に続く2回目のクリーン作戦。格段に量が減った。

班を解散する際に案内人としてしめくくった。「みなさんは森を巡る際の鉄則を実践した。それは、『来たときよりきれいにして帰る』です。きょうは森も喜んでますよ」

2009年11月15日日曜日

四季咲き桜


立冬から一週間が過ぎた。寒さはこれからが本番だというのに、近所の庭にあるヤブツバキが早くも開花した。別の家の庭ではサザンカが咲いている。国道6号の常磐バイパス終点、「草野の森」のカンツバキも咲き出した。サザンカの季節にヤブツバキが花を咲かせるなんて、ちと気が早いのではないか。

ヤブツバキは、小名浜測候所(現在は無人)の統計では1月17日が開花の平年値だ。いわきでは早春の花だが、開花時期がどんどん早まっている。暖冬続きで冬の花になってきた。いや、いわきの極寒期がゆるくなって、房総あたりと同じような冬咲きになったということか。

四季咲き桜も咲いている。夏井川の堤防から200メートルほど離れたところに旧家の屋根が見える。その一軒、旧知のTさんの家の庭に四季咲き桜が2本ある。堤防からもピンクの花が見える。先日、散歩の途中に立ち寄り、パチリとやった=写真。そろそろ終わりだろう。

すぐそばには何棟か大きなハウスがあって、鉢物のシクラメンが色鮮やかに咲き誇っている。堤防から見ると、四季咲き桜の旧家の前にハウスが広がる。ハウスの内部にピンク系の明るい色が幾筋も見える。冬が近づいたことを告げる色でもある。

師走に入ると、クリスマスに向けて鮮やかなシクラメンの花が出荷される。そんな時期が迫っている。お付き合いいただいたドクターの命日がきたので、シクラメンの鉢を選んで仏前に供えた。

2009年11月14日土曜日

あす、紅葉ウオーキングフェスタ


夏井川渓谷(いわき市小川町)であす(11月15日)、2回目の「紅葉ウオーキングフェスタ」が開かれる。

渓谷を縫う県道小野・四倉線の対岸、水力発電所の導水路に沿って巡視路が延びている。この巡視路の一部、約2.5キロ区間を往復する。折り返し地点では参加者がごみ拾いをする。紅葉を楽しみながら、渓谷の自然環境をきれいにする奉仕型のイベントだ。

先日、主催する小川町商工会の関係者と下見をした。コースをよく知る地元・牛小川の住民が主たる案内人だ。週末だけの牛小川の半住民ということで、私も案内人に加わった。

ヤマザクラの大木が倒れかかり、折り返し地点では規模の大きな土砂崩れがあった、ということは前に書いた。ほかにも、落石が常態のところがある。イノシシがヌタ場にしているような場所もある。自然は生きている。自然は人の心を癒してくれる存在であると同時に、命を脅かす存在でもある――そのことを知る、いい機会になるのではなかろうか。

心配なのは紅葉の度合いだ。今年は例年より早く紅葉が始まった。落葉も早い。8日の日曜日には、紅葉だけでなく裸の木も目立った。11月1日に見た、真っ赤なカエデ=写真=は風で散り落ちたか。もっとも、カエデには紅葉に遅速がある。最後の最後まで燃え残るから、がっかりさせるようなことはないだろうが、葉が落ちて随分と見晴らしもよくなっていることだろう。

今年は前夜、つまり今晩、紅葉のライトアップを試みる。今朝は雨が上がったものの、昼前から夕方にかけては再び雨が降りそうだという。わが無量庵の隣がイベント会場だ。夕方には泊まりに出かける。雨が降っていてもいなくても、ライトアップを眺めながらの晩酌が楽しみだ。

2009年11月13日金曜日

「サケ売ります」


朝晩歩く道筋、つまり散歩コース。そのコースのなかにテントが立った。「夏井川の鮭」ののぼり。ヤナ場のそばだ。テントの柱にこんな文言の紙が張ってあった。「サケ売ります メス一尾1500円」=写真

なんでこんな上流(といっても河口からちょっとさかのぼったところ、平野部で街の近く)でサケを売るのか――というのが最初の反応だった。

去年までは、夏井川の河口近くにのぼりが立っていた。そこからざっと4キロは奥だ。沖捕りのサケではない。えさもとらず、必死になって子孫を残すために川をさかのぼってくるサケは立派だが、食材としてはどうだろう。結局、イクラ(卵)か。

そんなことを考えているうちに、孫の親がサケを1匹持ってきた。北海道産だという。体長は1メートル弱。3日に一度はサケの切り身を食べる。たまたま遊びに来ていたカミサンの妹とカミサンの二人がさばいて、頭から尾っぽまであったサケは切り身になった。

北欧を旅して以来、スーパーに行くと切り身のサケの産地が気になるようになった。チリやノルウェー産がある。ノルウェー産はフィヨルドで養殖されたものだ。フィヨルドは、氷河が大地を削り、そのあとに海水が入ってできた地形のこと。

切り立つ崖、深い海、冷水温。湖のように静かな入り江に、ハイテク化された養殖システムが稼働し、サケが育っていく。最大のお得意さんは言うまでもなく日本だ。

サケはサケだが、サケではない。魚である以上に商品だ。鮭組合の人には悪いが、大水が出てヤナ場が水没すると、これ幸いとばかりにサケが上流へさかのぼる。そこがいい。川を見向きもしなかったような人でさえ川を見る。サケを通して人は川を振り返る。サケは生きた川のシンボルだ。

2009年11月12日木曜日

モンゴルの岩塩


この秋、二度目の白菜漬けだ。漬け込もうとしたら、「この塩を使ってちょうだい」と声がかかった。「モンゴル 太古の塩」と書いてある。ポケットサイズで150グラム入り。中くらいの白菜2玉は、手で量った感じでおよそ4.5キロ。塩の分量3%として、少し残るくらいでいい。

岩塩だ。原産地はロシア国境に近いモンゴルのウブス県。首都ウランバートルから西へ行くこと1,400キロの秘境だという。3億年前の完全天然結晶塩・合成成分や汚染物質は含まない・苦みがなく、まろやかな甘みがある・肉や野菜など陸の素材に適する……、などと能書きにある。

変わった塩を使うのも一興だ。見た目も、さわった感じもパウダー状。小石のようになったかたまりは、親指と人さし指でギュッとやれば崩れる。これを白菜の葉1枚1枚に軽く振り込む。

重しを載せると、翌日には水が上がった。塩がなじむのを待つには、丸3~4日は寝かせた方がいい。が、初めての岩塩漬け込みだ。3日目の朝には我慢できずに、八つ割りにしたうちの一切れを取り出した=写真

葉がしんなりして、きめの細かい塩加減のなかにほのかな甘みが広がる。日本の食塩を振り込んだときのようなカドっぽさがない。ちょっと早い試食だったが、いい感じだった。

どこから手に入れたのか。あるイベント会場で売っていたのだという。といっても、日本の食塩に比べたらかなり高い。正札通りなら、ざっと6倍の値段だ。日常的に使うにはためらいがある。が、男が気合を入れて漬け込む白菜漬けや梅干しにはいいかもしれない。

白菜漬けの味の違いを舌で実感したカミサンは、新たに何袋か手に入れた。この冬はすべてモンゴルの岩塩で白菜を漬け込むことにしよう。

2009年11月11日水曜日

北欧美人


おととい(11月9日)、アンデルセンの「人魚姫」の像の話を書いた。当然、現地の女性(顔はプリマドンナ、のどから下は彫刻家の奥さん)がモデルである。それに触発されて、北欧の女性についての印象を紹介したくなった。

とびきり美人だと感じる女性には出会わなかったが、おしなべて美人だった――若い女性についてはそんな印象がある。街を歩いてすれ違う。きれいだな。レストランで注文を取りに来る。きれいだな。10代、20代と思われる女性の印象は、だいたいこんな感じ。

5泊7日の旅で、飛行機はすべてSAS(スカンジナビア航空)だった。海外旅行が初めての私は、まず飛行機で北欧美人に接することになった。若い客室乗務員も、ベテラン乗務員も背が高かった。なかには〈随分手が大きいな〉という印象をもった女性もいる。

私は身長が180センチ弱。還暦を過ぎた日本人としては、まあ背が高い方だろう。ところが、私らの目に留まったスカンジナビアの女性の多くは、目線が私とそう変わらない。やや見上げるような女性もいた。

街を歩いている女性の姿が、どこの国でもさっそうとしていた。背が高いから、足が長い。大股でずんずん歩いていく。負けずに後を歩いてみたが、ダメだった。とりわけ、ノルウェーのベルゲンでは、雨が日常的なせいか、傘もささずにぐんぐん(ずんずんではない)歩いて行く。ノルディックウオーキングの発祥地と思えば、それも「了解」となる。

北欧最後の観光は、海上から「人魚姫」の像を見る遊覧船による運河ツアーだった。ガイドが若い女性で、彼女に断って写真を撮った。9月下旬とはいえ、北国は秋が早い。曇って寒いので頭からすっぽり防寒着をはおっていたから、顔はよく見えない=写真。彼女もまた「おしなべて美人」の一人だった。

「おしなべて美人」はみんな同じに見える。金髪、小顔、色白、そして背が高い。今振り返れば、いずれも生きた人形のようなものだ。

そのなかで、今も鮮やかに顔を思い出せるのはベルゲンのレストランで応対してくれた、品のいい、つつましやかな女性だ。いわきにも似たような顔の女性がいる。カミサンに言うと、納得した。昔、役割を分担して子どもを幼稚園に送り迎えした。雰囲気も含めてその人によく似た女性だった。

2009年11月10日火曜日

たまる激辛トウガラシ


最初は面白半分で苗を買った。激辛トウガラシだ。今年も調子に乗って苗を買い、栽培した。白菜漬けの季節になって、ようやく激辛の出番がきた。

今年も結構な量が採れた。成績が良かったのはいいのだが、使い道がない。白菜漬けの殺菌・彩り・風味付けくらい。マーボー豆腐に使えば辛すぎて唇と舌がヒリヒリする。大根を千切りにして浅漬けの彩りにしたら、大根の方に辛み成分がしみ込んで、やはり唇がヒリヒリした。

乾燥保存をした激辛をキュウリの保存漬けに使う手もある。殺菌対策だが、量が多いとキュウリからしみ出した水分が激辛の辛み成分で満たされるので、古漬けを取り出すたびに手がヒリヒリする。今年はそのキュウリがさっぱりだった。古漬けにするほどの量が採れなかった。

ならば一味はどうか。普通のトウガラシよりは辛みが強いタカノツメでさえピリッとくるのだから、“激辛一味”では燃え上がってしまうに違いない。知人が「タカノツメではなく、リュウノツメだ」と評したが、その通りだ。

一味をつくる過程で涙と鼻水に襲われる。マスクをして、ゴーグルをはめて――。実際、タオルで口と鼻を自衛し、メガネをかけないことには一味はできないのだ。

素手で激辛を刻み(タカノツメでもそうだが)、すりこぎをぐるぐるやっているうちに生理現象が起きる、とする。そのときは手袋が必要だ。さもないと、さわったところが痛くなって、ヒリヒリして飛び上がってしまう。しばらく足をじたばたする破目になる。

まだ畑に激辛トウガラシが残っている=写真。大半は乾燥保存をして、来年、糠床やキュウリの保存漬けに使うようにするしかない。

というわけで、もう激辛トウガラシの栽培はよすことに決めた。調子に乗ってやっても使い道が限られるのでは意味がない。「ほどほど」というところがやっぱりいいのだ。2年かかってそのことが分かった。

2009年11月9日月曜日

人魚姫は上海万博へ


中国の上海万博開催まで半年を切った。上海の現状を伝える新聞記事を読んで、「人魚姫」の像=写真=のことを思い出した。デンマーク館の目玉としてこの像が展示される。開催期間は2010年5月1日から10月31日までの半年間だ。4月に旅立ち、11月に帰還するそうだから、「人魚姫」は2010年、8カ月間ほどデンマークを留守にすることになる。

今年3月、コペンハーゲン市議会が中国移送を可決して、賛否両論にけりをつけた。宮沢賢治の童話が岩手観光の吸引力になっているように、アンデルセンの童話がデンマーク観光のドル箱になっている。1913年に設置されて以来、同じ場所で世界中からやって来る観光客を迎え続けてきた。

これまでに2回、首を切り落とされた。腕も切り落とされたことがある。そのつど修復された。それだけ人の注目を集める銅像であることには違いない。

その意味で、単なる旅行者が「人魚姫」について書き加えることはない。が、日本語のガイドブックと現地のガイド(日本人)の言うことが異なっている。そこはちゃんと伝えておきたい。日本の俳優に絡むことでもあるので。

『地球の歩き方』という本には、人魚姫像の「モデルになったのは王立劇場のプリマドンナで、それが縁で後に彫刻家の夫人になった」とある。現地の日本人ガイドは、そんなことは言わなかった。確かにプリマドンナをモデルにはした。ただし、顔だけだという。

現在と違って、ヌードがはばかられる時代。裸になるのを拒否された。彫刻家はしかたなく、自分の奥さんをモデルにして首から下を造形した。その奥さんというのが、俳優の故岡田真澄の叔母さんだった。そういう話を聞くと、デンマークのシンボルといえどもぐっと身近なものに感じられる。

で、「人魚姫」の像が留守の間はどうするのか。中国の現代美術家艾未未(アイ・ウェィウェイ)の作品を展示するのだという。とりあえず、「人魚姫」のモデルについて聞いたことと、読んだことの違いについて書いてみた。

2009年11月8日日曜日

風邪で寝込む


この秋一番の冷え込みとなった「文化の日」あたりから、少しおかしくなり始めたらしい。11月4日午後に講師を務めた「観光基礎講座」のときにはなんともなかったが、夕方から鼻の奥がぐずつき出した。翌日にはのどの痛みと頭痛(というより重たい感じ)が加わった。

湯冷めしたわけではない。思い当たるとすれば、「文化の日」の午前、平塩地内の夏井川にコハクチョウを見に行ったことだ。コハクチョウの腰の羽がめくれるほど風が強く、冷たかった。水面も波打っていた。コハクチョウが中州から岸辺に寄って来たので、ついついカメラのシャッターを押し続けた=写真。このとき背中が冷えてしまったか。

置き薬を飲んで、できるだけ外出を控えるようにした。そんな日に限って来客がある。マスクをかけて応対した。

夕方は、息子夫婦が孫を連れてやって来た。風邪を移すと厄介だ。孫とできるだけ離れるようにして遊んだ。時間がたつにつれて頭が重くなり、思考力が落ちていく。最後の客人にはとうとう顔を合わせないでしまった。翌金曜日は一日寝て過ごした。

加速度的に新型インフルエンザが蔓延しているという。新型インフルか、ただの風邪か。さいわい熱は最初からなく、せきも出ない。土曜日の朝には頭の重い感じも半減し、のどの痛みも治まった。ただの風邪だったのだろう。

20代、30代のときには、風邪を引いても1年か2年に一回くらいだったのが、だんだん回数が増えてきたうえに、治りにくくなった。治ったなと思ったら、すぐまた風邪を引く――そんなケースも出てきた。

最初が肝心なことは分かっている。〈おかいしいな〉と思ったら、すぐ薬を飲む。今回はそれが半日ほど遅れた。その分、治りが遅くなった。結果的には風邪でなくても、似た症状が現れたら風邪だと思って薬を飲む。これがシニア世代には必要なことらしい。

2009年11月7日土曜日

初めての食菌


食べたことはない。でも、図鑑ではなじんでいる。食菌のはずだと記憶が教える。で、とりあえず採取して調べることにした。写真は撮らなかった。「撮る」より「採る」に気持ちがいってしまった。夏井川渓谷は林内の立ち枯れ木の根元に数個が生えていた。

図鑑に当たると、食菌のヌメリツバタケ(滑り鍔茸)であることが分かった。字のごとく、傘にぬめりがあり、柄に鍔がついている。傘の径は5センチ前後、色は白。柄は硬く白っぽい。小さなキノコだ。

ヌメリツバタケと確信しても、そして似たような毒キノコはないと分かっていても、食べたことはないから慎重に事を運ばなくてはならない。朝、小さく切ったものを3つほど自分の味噌汁に入れて食べた。カミサンには食べないように言った。日中は体の様子を確かめながら過ごし、何の症状もあらわれなかったので、夜、残りをみそ汁に入れて食べた。

結果オーライ。とはいえ、こんな生兵法はやらないに限るのだが、歯ごたえがよかった。図鑑にある通り、味のよい食用キノコだ。

ヌメリツバタケに出合った日、キツネノチャブクロ(ホコリタケ)にも遭遇した=写真。幼菌は食用になる。しかし、1個くらいでは採るのもはばかられる。クリタケの老菌も数個あった。こちらは採取したものの、傘裏のひだがすっかり黒ずんでいた。食べるのを見送った。

秋になって採って食べたのが、今のところこのヌメリツバタケと数個のウスヒラタケだけ、というのは寂しい限りだ。

2009年11月6日金曜日

柿熟す


冬に備える儀式の一つに糠床の“仕事納め”がある。甕に入った糠床の表面にたっぷり食塩を敷き詰め、紙で密封して、翌年の初夏まで台所の隅に置いておく、糠味噌を冬眠させるのに合わせて、白菜漬けを始める。今年も最初の白菜漬けが食卓に上った。白菜漬けは私、糠漬けも趣味を兼ねて主に私がつくる。

柿もぎりも、秋から冬へと意識を切り替える上ではかかせない儀式だ。近所にカミサンの伯父(故人)の家がある。家の裏には甘柿の木が植えられていて、今年は生(な)り年なのか、枝が垂れ下がるほどに実がなった。糠床を寝かせたその日に、甘柿を収穫した。

先日、新聞に「柿の日」の記事が載っていた。正岡子規の「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」は10月26日に詠まれた。それで、全国果樹研究連合会カキ部会がその日を「柿の日」と制定したのだという。柿もぎりにはそのことも影響していたようだ。

甘柿の幹はそんなに太くない。したがって梢もそう高くはない。なんとも中途半端な木だ。脚立を持って家の裏に行くと、ムクドリが「ギャッ」と一鳴きして柿の木から飛び立った。木の下は熟柿が落下して中身が飛び散り、足の踏み場に困るほどだ。脚立を立て、柿の幹を支えに爪先立ちをして、手でもぎとれる範囲内で実を収穫した。

手籠にいっぱい=写真=になったところで、手が届かなくなった。半数以上が残った。こんな状態のときにはいつも義父の句が思い出される。「木守(きのもり)の柿残照に燦として」「うれかき(熟れ柿)にからすの来たるこく(刻)たしか」。鳥たちに食べられるのは仕方がないことだ。

やや硬めの柿を食べたら、さっぱりした甘さだった。甘いものはより甘く、辛いものはより辛く――というご時勢。古い甘さでもなく、新しい甘さでもない。と書くと、きっと食べたいという人が出てくる。そのために少しは残しておくとしようか。

2009年11月5日木曜日

狩りをするミサゴ


いわき市平塩~中神谷地内の夏井川は、上流の平窪地内に次ぐコハクチョウの越冬地。朝晩、散歩がてら飛来数を数える。両岸で河川改修工事が行われているために、朝と日中、夕方では数に変動がある。

日・祝日は工事が休みになる。コハクチョウたちは日中も安心して羽を休めている。すると、カモたちが集まって来る。もぐって魚を捕るウ(カワウかウミウかは特定できない)も集団でやって来る。ウたちは一年を通して見られるようになった。彼らのおなかを満たすだけの魚は生息している、ということだろう。

「文化の日」の午前10時ごろ。河川敷のサイクリングロードを歩いていたら、「バシャッ」という大きな音がした。振り返ると、ミサゴが着水して魚をつかみ、今にも飛び上がろうとしていた。飛び上がったミサゴは水平飛行をしたあと、空高く舞い上がって姿を消した。

その1分前、いや数十秒前だったか。やはり、何かをつかんで川から舞い上がるミサゴに気づき、急いでカメラを向けた。拡大すると、魚をわしづかみにしていた=写真。尾びれの形や体色、大きさからしてサケのように思われた。

2回目の獲物は何だったろう。腹が随分白い。サケとは違う。が、大きめな魚には違いない。サケは両脚でがっちりつかんで運び去った。2回目の魚は、たぶん片脚だけでひょいと飛び上がった。ウグイだろうか。

獲物をつかんで飛ぶミサゴの写真を初めて、しかも立て続けに二度撮るができた。同じミサゴが2回狩りをしたのか、違うミサゴが短時間のうちに同じ場所で狩りをしたのか。あまりにも狩りの時間が短すぎるから、2羽のミサゴが別々に狩りに現れたのだろう、とは思う。

堤防の内側には人間がひしめく世界がある、その外側では魚を狩るミサゴと狩られる魚がいる、いやそれを含めた自然界がある――狩りをするミサゴを目撃して、少し興奮した。

2009年11月4日水曜日

水石山初冠雪


この秋一番の冷え込みとなった11月3日早朝は、散歩を休んだ。というより、寒さがこたえるので遅い時間にずらした。「文化の日」である。休日気分でのんびり歩きたい。朝食を済ませてちょっとたってから、夏井川(いわき市平・塩地内)のコハクチョウを見に行った。

国道6号の歩道橋から、西に立ちはだかる山の壁=南北に連なる阿武隈の山並み=が見える。北方の水石山(標高735メートル)の山頂が白っぽい=写真。山頂にはテレビ局のアンテナや航空灯台がある。建物もある。建物の壁は白い。が、その間に広がる芝生が白く染まっている。雪だ。パソコンに写真を取り込み、拡大して雪であることを確認した。

平地では2日夕方から寒気が強まった。わが家でも、こたつだけでなく、初めて石油ファンヒーターをかけた。夜、平地では雨が降り、少し高い山では雪になった。水石山が11月初旬に冠雪する、なんてことは記憶にない。この山の初冠雪は早くて11月下旬、遅いと年が明けてから――というのが通り相場だ。一気に寒気がやって来たのだろう。

堤防に出ると「西の壁」の南方、湯の岳の右奥に連なる山も一部、冠雪していた。コハクチョウはおよそ35羽。岸辺に立つやいなや、中洲から半数近くが泳ぎ寄って来た。えさはない。写真を撮って離れたら、コハクチョウたちは中洲へ戻った。

人が姿を見せるとえさにありつける――では困る。えさをやらない人間もいることを、コハクチョウたちは学習すべきなのだ。そもそも人間に依存しない野生の生物なのだから。

それはともかく、この冷え込みを機に紅葉と落葉がいちだんと進むに違いない。「夏井川渓谷・紅葉ウオーキングフェスタ」が11月15日に開かれることは、おととい(11月2日)書いた。今年の紅葉は例年より1週間から10日早い。フェスタまで紅葉が持つかどうか。持ったにしても、かなり散り落ちて見晴らしがよくなっていることだろう。

渓谷のど真ん中、水力発電所の社宅跡に生えているカエデの巨木は、たぶんそのころ、紅葉の見ごろを迎える。このカエデは知る人ぞ知る絶好の被写体だ。例年だと、渓谷の紅葉が終わりになりかけるころ、激しく燃え上がる。これが、1日の日曜日には赤くメッシュが入っていた。今度の寒気に触れていよいよ赤みが増すことだろう。

2009年11月3日火曜日

グリーグの家


日曜日(11月1日)の午後6時過ぎ。NHKハイビジョンで2時間早く「天地人」を見ていたら、カミサンの幼なじみから電話が入った。同じ時間帯のBS日テレ「ヨーロッパ水紀行Ⅲ」はノルウェーが舞台。そのことを知らせる電話だった。すぐBS日テレに切り替えた。ノルウェーの古都・ベルゲンが映っていた。

1979年に世界文化遺産に指定された「ブリッゲン」とシーフード料理、そしてベルゲン郊外、トロルハウゲン(トロルの丘)の「グリーグの家」。番組は後半に入っていた。あとで番組案内をのぞいたら、前半はオスロ、世界自然遺産のネーロイフィヨルドを紹介したようだ。

オスロを除けば、1カ月ちょっと前にこの目で見て来たところばかりだ。ただの旅人にすぎなかったのに、なぜか懐かしい思いにとらわれた。ベルゲン生まれの作曲家グリーグの住んだトロルハウゲンでは、ヨーロッパコマドリらしい野鳥、タヌキノチャブクロほかのキノコを見た。そんな環境の中に「グリーグの家」が建っている=写真

シーフード料理の映像に触発されてすぐ思い出した料理がある。夜、ブリッゲンのそばのレストランに食事に出かけた。テーブルに、白身魚のオーブン焼きだか、香草焼きだかが並んだ。アンコウがとてもおいしかった。そして、ビール「ハンザ」、強烈なジャガイモ焼酎「アクアビット」も。

ベルゲンは港湾都市。港の中央に「魚市場」がある。市民だけでなく観光客も訪れる。私たちもここでカニ缶詰め合わせなどのお土産を買った。同じ魚食民族・日本人はいいお客らしい。「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」などと従業員は愛想がいい。そういう土地柄だから、魚料理はバラエティーに富んでいる。

もう一つ。「グリーグの家」の映像に、グリーグが作曲した「ペール・ギュント組曲」中の〈朝〉のメロディーがかぶさった。〈朝〉とは知らずに耳にし、覚えていた名曲ではないか。テレビ番組のおかげで、ということはカミサンの幼なじみ(グリーグファンらしい)のおかげで、メロディーとタイトルと作曲家がやっと一つになった。

2009年11月2日月曜日

「紅葉ウオーキング」下見


夏井川渓谷(いわき市小川町)で11月15日、2回目の「紅葉ウオーキングフェスタ」が開かれる。きのう(11月1日)朝、私が週末を過ごす地元・牛小川と小川町商工会関係者らが参加して下見をした。

途中まではほぼ毎週、出かけている。渓谷の名勝・籠場の滝の対岸は、急坂を上って下る難所。「途中まで」とは、その山道まで行かない平たんな道でUターンすることだ。山道は結構、きつい。きつさを我慢できるほど若くはなくなった。

夏井川本流に沿うように、森の中に水力発電所の導水路がある。その巡視路を進む。去年とそう変わってはいない。去年は峠を越えた先で1カ所、太い倒木が道をふさいでいた。それは切られてそばに置かれていた。

今年は、それとは違った意味で驚いたことが二つある。

一つ。導水路の山際に生えていた太いヤマザクラが倒れ、谷側の木の枝にひっかかっていた。通行には支障がない。が、いずれ伐採しなくてはならないだろう。切り方が難しい。重機の入らない谷間だ。やり方を間違えると、太い幹の直撃を受けて導水路のコンクリート蓋が壊れる。石を積んでコンクリートで固めたゲート様の仕切りの端っこがめくれていた。

二つ目。スタート地点からざっと2.5キロ先の折り返し地点。山側の斜面が一部、崩落していた=写真。土砂崩れだ。太い木が何本も倒れていた。根っこが谷側を向いている。ということは、そっくりそのまま滑り落ちたのだ。高さ100メートル以上。滑り面になった地肌の岩盤がてっぺんまで見えた。

このところ、北欧体験をたびたび書いてきた。あちらの自然のスケールの大きさについても述べてきた。が、自然災害という点ではむしろ、あちらよりこちらの方が大きいのではないか。私が夏井川渓谷で見た自然災害の爪痕としては、この土砂崩れは最大級のものだ。もろさ・怖さと背中合わせの景観美――。幸いウオーキングには支障がない。

2009年11月1日日曜日

教育テレビ「わんパーク」


2歳半の孫が時々、親に連れられてやって来る。たまたま夕方5時を過ぎると、親がNHK教育テレビをかける。幼児番組が流れている。興味のあるコーナーに孫が反応する。祖父母としては初めて見る番組ばかりだ。

新聞の番組欄(NHK教育テレビ)には「わんパーク」と表記されている。朝7~9時、夕方4~6時に放送される幼児向け番組群「あつまれ!わんパーク」を指す。「わんパーク」は「わんぱく」と「パーク」の合成語だという。

夕方は再放送番組が多い。たとえば、5時15分から目にした「えいごであそぼ」(10分)、次の「ピタゴラスイッチ・ミニ」(5分)、「アニメ ぜんまいざむらい」(10分)=写真、ラストの「クインテッド」(10分)がそう。夕方だけ放送するのが「クッキングアイドル アイ!マイ!まいん!」(10分)。

「クインテッド」は人形が音楽を奏で、歌う番組。おとといだったかは「ブンガワンソロ」を切々とうたっていた。懐かしかった。小林旭がうたって大ヒットしたのは1960年。小学高学年のときにこの歌を覚えた。「えいごであそぼ」では「いい気持ち」の「アイ・フィール・グレイト」をやっていた。これが、映像を通して自然に頭に入って来る。

どこのコーナーだったか、「アルゴリズムたいそう」にも興味を持った。二人組の「いつもここから」のほか、南極地域観測隊員がバックの映像で体操をしている。孫はまだ動きにはついていけないが、体操をしようと体を動かすまねをする。「まいん」ちゃんのテーマソングにも反応する。体を揺すり、♪…まいん、といったところではうまく合わせて口ずさむ。

孫ぬきで「わんパーク」を見始めた。大人が見ても面白い。それが第一。特に「えいごであそぼ」は英語になじむという点では格好の番組ではないだろうか。

安野光雅さんは『語前語後』(朝日新聞出版)のなかで「ある日、テレビを見ていて、すごくおもしろい番組に出会った。忘れないために書き留めたが、『ピタゴラスイッチ』というもので、以前評判になった『セサミ・ストリート』よりうんといい、とわたしは思う」と書いている。すぐれた童話や童謡がそうであるように、優れた幼児番組は大人も楽しめる。