2009年12月9日水曜日

あっぱれな人生


寡黙にして温厚、そして篤実――それを絵にかいたような人だった。路線バスの運転手として、家を守る妻とともに5人の子どもを育てた。マイホームも建てた。昨日の続きの今日、今日の続きの明日を、つまり連続する日常を淡々とつつましく生きた。きのう(12月8日)、義叔父の告別式が行われた。

義叔父の妻である私の叔母は毒舌で知られた人だ。数年前に亡くなったとき、同じ葬儀場で「精進あげ」が行われた。誰もが毒舌の人を懐かしく回想した。だいたいがやっつけられた話だ。

毒舌は耳に痛い。が、腹が黒くないから、心にはしみる。私自身、ズバッと切られてたじたじしたことがある。それでも、不思議と包まれているなぁという感覚があった。甥っ子だからか。いや、徹底したリアリズム、つまりバランスのとれる人だったからだ。

毒舌と寡黙。妙な組み合わせが、うまくいった。「しゃべる人」である妻に対して、夫は「見る人」で通した分、いや通せた分、義叔父の心は広かったのだと、今にして思う。酒を飲まない代わりに、ぼた餅が大好きだった。通夜にはその餅が振る舞われた。

叔母と同じ阿武隈の山の中で生まれ育ち、平で路線バスの運転手になった。叔母と結婚して子どもが生まれ、「幽霊橋」(高麗橋)の下の住宅に住んだ。そこへ幼いころ、祖母に連れられて泊まりに行ったことがある。子どもはまだ、私と年の近い娘4人、いや3人だったか。末っ子の男の子(喪主)は生まれていなかった。

1歳上の長女らに誘われて向かいの急斜面を上ったら、遠く、道にせり出して飯野八幡宮の鳥居が見えた。谷底のような道端から見上げる斜面の上が平らになっている、しかも家の上に橋が架かっている、鳥居が見えるというのは、山猿には不思議でならなかった。そこが磐城平城の一角だったと知るのはずっとあと。

やがて、義叔父はいわき市が合併する前の三和村へ異動になった。車庫を兼ねた住まいへも、祖母と一緒に訪ねた。小学校6年の夏休みだった。「じゃんがら念仏踊り」をそのとき初めて知った。なぜこういう面白いものがここにあって自分の町にはないのだろうと、うらやましく思ったことを覚えている。

戦後の復興と、それに続く高度経済成長を、地方のそのまた地方の片隅で、路線バスの運転手として支えてきた。無事故運転で通したことはすごいと思うのだが、それを自慢したこともない。娘たちが「怒られたことがない」という穏やかな心根。まさしく路線バスの運転手が天職だった。典型的な庶民として生きた、あっぱれな人生だった。

葬式後の「精進あげ」を終えたあと、ひとり国道49号へ向かい、叔父叔母がついの棲家にした旧上三坂宿=写真=へ寄り道して、叔父叔母夫婦のマイホームを横目に見ながら帰って来た。

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