2010年1月31日日曜日

セイヨウトチノキ


司馬遼太郎の『オランダ紀行――街道をゆく35』を読んでいたら、シーボルトが持ち帰ったというトチノキの話が出てきた。瞬時に昨秋、スウェーデンの同級生の家の窓から見たトチノキ=写真=のことが思い浮かんだ。

同級生の住まいは集合住宅の4階にある。なにげなく窓から外を見ると、南面する庭にトチノキの葉の茂りが見えた。なぜスウェーデンにトチノキがあるのか。同級生に聞いても分からない。話は要領を得ないまま途切れ、別の話題に切り替わった。

司馬さんの「オランダ紀行」は、トチの実を食べていた縄文時代の日本人の食文化に触れつつ、日本では古ぼけたイメージをもつこの木が「しかしフランスにゆくと、街路樹で知られるマロニエになってしまう。木の相が、ほんのすこしちがう」と続く。

このくだりを読んで、ばらばらに浮遊していた二、三の記憶が一つになった。トチノキにはセイヨウトチノキもあるのだ。ノルウェーのベルゲンで、日本人ガイドから「街路樹はマロニエが多い」という話を聞いた。が、そのときはまだセイヨウトチノキという認識はなかった。

セイヨウトチノキがあると知れば、見方は変わる。スウェーデンで見たトチノキは日本のトチノキではない、まぎれもなくマロニエだ。付け加えれば、マロニエはドイツではカスタニエン。フランクルの『夜と霧』に、強制収容所の窓から見えるカスタニエンの木に永遠の命を見いだして死んだ若い女性の話が出てくる。有名なエピソードだ。

マロニエは「マロンの木」、マロンはセイヨウトチノキの実のことらしい。マロンはクリの実と外見がよく似る。食べておいしいクリの実がいつしか「マロン」と呼ばれるようになった、のだという。ベルゲンの公園に植えられていた高木の並木、それがマロニエであったか。

2010年1月30日土曜日

土砂除去工事再開


しばらく鳴りをひそめていた重機がうなり出した。わが散歩コースの夏井川対岸、いわき市平山崎地内の河川敷だ。目安になる寺でいえば、如来寺の近辺。氾濫を防止するために河川敷に堆積した土砂を除去するのだという。

仕事は、単純と言えば単純。ショベルカーが掘り起こした土砂をダンプカーが積んで運ぶ。昨秋はひっきりなしにその作業が繰り返された。いつの間にかダンプカーの姿が消え、重機もそこにあるだけ、という状態で越年した。その工事が今週になって再開された。月曜日(1月25日)の朝、ダンプカーが続々、河川敷にやって来たので分かった。

昨年夏、表土を覆う竹が伐採され、地中に張り巡らされた根が掘り返された。そのあと、土砂の除去工事が始まった。除去工事はあらかた川の水面と同じ高さになるまで続けられた。残るはサケのやな場周辺だけ。その周辺を削り取るための工事再開だろう。

県道から河川敷へとダンプカーが往来する作業道路がある。ダンプカーはそこから河川敷へやって来ると、向きを変えてショベルカーに近づき土砂を積む。Uターンできるスペースはたっぷりあった。が、今はそのスペースがぐんと狭まった。歌舞伎で言うと、「花道」で作業をしているようなものだ。

やがてその「花道」も、はじっこから水面と同じ高さまで掘り起こされるのだろう。サケのやな場には岸辺に鉄製のいけすがある。それを温存するとすれば、そこだけ川幅が狭くなる。

さて、そのあたりはどうする。どういう順序で土砂を除去したらダンプカーが労せず土砂を積めるのか、いけすにどう対処するのか――。担当者でもないのに、ましてや素人なのに、気がもめる。あれこれシミュレーションをしてしまう。

先日はダンプカーだけでなく、ハクチョウたちも朝のミーティングにやってきた=写真。そう思えるほど大型車両と水鳥が風景のなかで一体化していた。

2010年1月29日金曜日

ロウバイ


たまに朝晩の散歩のコースを変える。ふだんは大回り(40分弱)だが、これを中回り(約25分)にしたり、小回り(15分強)にしたりする。用事があったり、歩きたくなかったりするときがあるのだ。

夕方近く、夏井川のサイクリングロードに下りた。と、前方の堤防をおばあさんが杖をついて下りて来る。片手には袋を握っていた。

平塩地内へのハクチョウの飛来数が増えた。で、塩から下流の中神谷地内までハクチョウたちが散らばるようになった。遠く近く、住宅そばの夏井川にハクチョウがいる。その一軒の家のおばあさんに違いない。水辺まで進むと、袋からパンくずを取り出してハクチョウたちに向かってまき出した。

ハクチョウたちはさっと集まる。「そんなに来ても困るよー」。おばあさんが叫んだ。その様子をしばらく眺めてから歩き出した。100メートルも行ったところで足が止まった。杖をついていた。水辺にいた。まさか足がもつれて……なんてことはないだろうな。

散歩を途中でよした。小回りだ。堤防の上に出て少し戻り、おばあさんがどこにいるか確かめた。大丈夫、サイクリングロードに戻っていた。そのままわが家へのコースを取る。知り合いの家の庭にロウバイの黄色い花が咲いていた=写真。甘い香りがすっとよぎった。大回り・中回りでは分からなかった早春への序奏だ。

少し楽しい気分になって家に戻ると、カミサンがおもむろに言った。「今日は何の日だか分かる?」。ん!? にやりとしてうなずく。結婚記念日ではないか。指折り数えれば、真珠婚とルビー婚の中間だ。いちいちそういうことを確かめなくてもいい、空気のような存在になったのだなと、むりやり自分に言い聞かせた。

2010年1月28日木曜日

暮鳥とお隣さん


『山村暮鳥全集 第4巻』には童話や評論・感想・雑篇・書簡などが収められている。暮鳥の人的なネットワークを探り、「平時代」の暮鳥の活動を知るうえで欠かせない“資料集”と言ってもよい。

中に、生まれて1年に満たない長女玲子あての手紙の形を取った「晩餐の後」がある。長女は母と一緒に水戸の祖父母の家へ「うまれて初めての旅」をした。原資料は切り抜きで、大正4(1915)年2月上旬に書かれ、どこかの新聞に連載されたものと推定されている。以下は、その〈一四〉の冒頭部分。

「火事だ、火事だ。/びっくりして飛び出す。お隣りの弁護士の新田目さんの二階が、けむりをもかもか吐きだしてゐる。火事だあああ。火事だああ。/玲子。/(中略)昼日中、二時ごろのこととておもては見物のくろ山。そのなかでかはいさうに松子ちゃんも竹子ちゃんもとし子さんもそのとし子ちゃんをおんぶして傳(ねえや)さんも、泣いてゐる」

大正4年当時、暮鳥は現在のいわき市平字才槌小路に住んでいた。平一小のある高台のふもと、街の家並みが切れるあたり==だ。その一角に、明治26(1893)年、平町で開業した岩手県出身の弁護士新田目(あらため)善次郎の自宅があった。

暮鳥が日本聖公会平講義所の牧師として、新田目家の隣に引っ越したのは大正2年9月だ。つきあいの程度は分からない。が、没交渉ではなかった。むしろ、新田目家の子供たちとは交流があった。そんなことを推測できる文章だ。

長女の「松子ちゃん」は、そのとき9歳。彼女たちはのちに、いずれも波乱に満ちた人生を送る。私家版『書簡集 人間にほふ――新田目家の1920~30年代』を編集した平田良氏はまえがきに、次のように書く。

「大正デモクラシーから昭和ファシズムのドン底へと向う不幸な時代の新田目家の人々」は、善次郎の義理の甥・鈴木安蔵(のちのマルクス法学・憲法学者、護憲運動のリーダー)、つまりいとこの強い影響を受けて「直寿、マツ、竹子、俊子の四兄妹が相次いで夫夫(それぞれ)の夫や妻ともども社会主義運動に参加し、否応なしに全家族が苦難を味わねばならなかった」。

直寿は新田目家の長男。この人も3姉妹に劣らず波乱の生涯を送った。戦後は商社マンとしてインドネシアで過ごし、帰国間際に路上強盗に遭って刺殺される。

暮鳥の生きた時代を仔細に眺めれば、このお隣の〈新田目家の人々〉も「大正ロマン・昭和モダン」の一典型として視野に入ってくる。いや、日本における左翼思想の台頭期、その中枢と深くかかわって生きた人間たちとして独自に検討されていい存在だ。

暮鳥といい、お隣さん(新田目家)の子供たちといい、奇しき因縁の中で記録が残された。いや、残るべくして残った。そんな思いを強くする。

2010年1月27日水曜日

増えるランナー


このごろ、夏井川の堤防とサイクリングロードを走る人が増えたように感じる。朝晩の散歩時だけでなく、日中も走っている人を見かける。街中でもジョギングをしている人に出会う。

走っている人は二つのタイプに分けられる。ゆっくり走る健康志向のジョガーと、汗だくになって走るタイム志向のランナーと。その区別はスピードだけでなく、目線で分かる。ジョガーは遠くを見ているが、ランナーは数歩先を凝視しているのだ。

増えたのはランナーだ。なぜか。マラソン大会に備えて?

2月14日にいわきで福島県内初のマラソン大会が開かれる。フルマラソン(登録の部・一般の部)をはじめ、10キロ(一般男子の部・高校男子の部)、5キロ(一般女子の部・高校女子の部・中学の部)、2キロ(小学の部=3年生以上)、2キロ親子(小学1、2年生と親)の5種目9部門が設けられている。

新しく夏井川堤防のコースに加わったランナー(ジョガーもだが)は、どれかの部門にエントリーしていて、それで練習を重ねているのかもしれない。それ以外に、急にランナーが増えた理由が思い当たらないのだ。

ウオーカー(散歩者)同士であれば、すれ違うときに軽くあいさつをする。どこのだれかは知らなくとも、既に顔見知りだ。ところが、必死になって走っているランナーとは黙ってすれ違う。あいさつはかえって相手のリズムを崩す。迷惑になる。せいぜいジョガーと目礼するくらいだ。

長距離走には長距離走の走り方がある。腕を軽く90度くらいに曲げてリラックスして走る――かつて陸上競技部に属していた者としては、それが最も美しいフォームに見える。美しい走りのランナーがいれば、とびはねるように走るジョガーもいる。陸上以外の競技に属している人間の走りだと言ってもよい。

先日も、夕方、サイクリングロードに群れ集まっていたカルガモを写真に収めようとしたら、とびはねるように走るジョガーが後ろからやって来て追い越して行った。そのあと、カルガモの飛ぶ姿を撮影したら、遠くにジョガーが写っていた=写真。彼は自分流の走りを毎日欠かさない。すっかり走りを忘れた人間にはそれも輝いて見える。

2010年1月26日火曜日

風化作用


去年秋に北欧を旅して以来、夏井川渓谷の地形・地質に関する印象が変わった。ノルウェーのフィヨルド(入り江)と、その奥に連なるU字谷にはぶったまげた。夏井川渓谷の比ではない。日本のV字谷は宇宙から見たら道端の側溝みたいにかわいいに違いない。

前にも書いたが、フィヨルド渓谷(U字谷)のむきだしの岩盤に「地球の根岩」のような印象を受けた。4カ月が過ぎた今も「根岩」に圧倒されたままだ。もう一度フィヨルドを見に行きたい、そんな思いが消えない。

夏井川渓谷は、谷底の河畔(120メートル)から一番高い山頂(680メートル)までの標高差はざっと560メートル。これはこれですごい深さだ。が、谷そのものが重畳として緑に覆われているために、その深さを実感できない。浸食・風化作用でできたV字谷と、氷河がえぐりとったU字谷の違いだ。

フィヨルド渓谷は、硬い岩盤が削られたままの状態でほぼ垂直に谷底から山頂へと続く。その高さ数百メートルといえば、夏井川渓谷とそう変わらない。が、谷底が広い。サッカー場3個分はあるという。夏井川渓谷は表面が緑に覆われている。これもやさしい印象を与える。

ノルウェーの地質について、向こうで世話になったガイドのアダチさんがこんなことを言っていた。

「橋の脚が細いのは、ノルウェーでは地震が少ないため。岩盤にのせるだけでいい」。日本人から見ると、フィヨルドに架かる橋の脚は栄養失調の少女のようだ。それで十分だという。そのうえ、「岩盤が硬いのでユーラシアプレートはより軟らかい日本海の方へ向かっている」。東西のプレートがせめぎ合っているので、日本は地震が多いわけだ。

フィヨルドの断崖も、その奥の渓谷も風化作用を受けないはずはない。が、どちらもつるんとしている。部分的には崩れが見られたが、それは“かさぶた”がはがれるようなものだろう。かたや、夏井川渓谷。こちらはふだんから落石が続いている。若者と老人の違いか。

なかでも夏井川渓谷で激しいのが、〈崩れ〉と私が勝手に名付けた「木守の滝」の手前。急斜面に生えているモミの若木の幹が落石によってべろりと皮をはがされた=写真。それが2年ほどたった今も残っている。小規模な落石は続き、将来、大規模な落石があるに違いないと思わせるほど、中腹の岩盤はひびが入り、風化によってもろさを増している。

ノルウェー体験が、夏井川渓谷の落石の怖さを倍加させた。

2010年1月25日月曜日

大般若護摩祈祷会


夏井川渓谷へ行くついでに、いわき市平中平窪の常勝院を訪ねた。いわきペディアによれば、同寺では1月第3日曜日に大般若護摩祈祷会が行われる。今年は第4日曜日だ。境内には出店が並び、多くの檀信徒でにぎわっていた。

寺は夏井川のそばにある。夏井川に架かる久太夫橋は目と鼻の先だ。その下流にハクチョウが羽を休めている。平塩地内では專称寺、平中平窪地内では常勝院――ハクチョウ飛来地に最も近い寺だ。

午前10時前。境内で縁日気分を味わっていると、「コーコー」と鳴きながらハクチョウが空を渡って行った=写真。近くの田んぼへ出かけるのだ。えさやり自粛の結果、ハクチョウたちは日中、夏井川の近くの田んぼへ移動して採餌する。次から次へとハクチョウの小群が寺の上空を渡って行った。

境内にたむろしている人はいっこうに空を気にしない。いや、ハクチョウに気づかない。わが同行者2人を除いて、空を見上げる人をついぞ見かけなかった。すっかり自分たちの日常に溶け込んでいるために、いちいち反応しなくなったのだろうか。

夏井川の堤防に出た。やはり後から後からハクチョウの小群が現れ、上昇しては田んぼへと旋回していく。空の高みでホバリングをしている鳥もいた。チョウゲンボウよりは大きい。オオタカか。旋回しては翼を小刻みに震わせて空中に停止している。何度もそれを繰り返しながら、視界から消えた。

ハクチョウが渡る空の下の縁日――。中平窪地区は下流の塩~中神谷地区より、もっとひんぱんに、もっと広範囲に「ハクチョウが飛び交う町」だった。

2010年1月24日日曜日

15年の歳月


部屋の書棚に眠っている古い資料を整理していたら、あるところに書いた15年前の自分の文章が出てきた。「阪神大震災に限らず、災害を体験した人間は、その前と後とでは世界観(見方や考え方)が変わってしまう。同じ人間ではいられなくなってしまう。〈死〉と〈破壊〉の体験が癒しがたい傷を残す。……」

昭和31(1956)年に大火事を体験した者として、あとあとまで続く被災者の経済的・心理的困難を思い、「今、将来、そのつど変化してゆく当事者の心に寄り添えるような想像力を磨いていきたい」と結んでいる。タイトルも「想像力を磨こう」とあった。

その文章が出てきたころ、ハイチ大地震が発生した。何日か後には震災ドラマ「神戸新聞の7日間」が放送された。神戸新聞社・著、プレジデント社発行の『神戸新聞の100日――阪神大震災、地域ジャーナリズムの戦い』(1995年11月30日第一刷発行)が原作だろう。本が出版されたとき、すぐ買い求めて読んだ。

なかでも、震災で父を失った論説委員長の三木康弘さんの“超社説”「被災者になって分かったこと」には、心が打たれた。その話も当然、ドラマには出てくる=写真

そうか、15年か。ということは、週末を夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵で過ごすようになってからも、15年が経過するのだ。その年、1995年は1月17日に阪神・淡路大震災が発生し、3月20日に地下鉄サリン事件が起きた。その年の5月末に、私の無量庵通いが始まったのだった。

義父と一緒に隣組を回ってあいさつした。週末だけの半住民だが、すぐ駐在さんの知るところとなり、自宅に身元を確かめる電話がかかってきた。警察がオウム真理教の信者の動静に神経をとがらせていたころだ。なんとも素早いことよと、苦笑したことを覚えている。

神戸新聞の“超社説”はこう結ばれている。「これまで被災者の気持ちが本当に分かっていなかった自分に気づく。“災害元禄”などといわれた神戸に住む者の、一種の不遜さ、甘さを思い知る。/この街が被災者の不安やつらさに、どれだけこたえ、ねぎらう用意があったかを、改めて思う」。いわきに住む人間にも当てはまる自戒だろう。

2010年1月23日土曜日

平潟港の猫


北茨城市の天心記念五浦美術館で開かれている小林巣居人展を見に行ったときのこと。

午前中はカミサンが小名浜のある寺のイベントに参加し、正午前に終わったところを拾って南下した。イベントで売っていた弁当が昼メシだ。途中のコンビニであったかいお茶を買い、平潟港へ直行した。そこで弁当を食べた。

港の市場ではせりの真っ最中だった。車が駐車場に並び、場内では人がうごめいていた。岸壁ではクレーン車が漁船から漁網をつり揚げ、別の漁網を船につり降ろしていた。漁業関係者の邪魔にならないような場所に車を止め、さあ弁当を食べようかという段になって、一匹の猫がどこからともなく近づいて来た。

「ミャー、ミャー」と鳴いても無視――を決めようとしたら、カミサンが弁当か何かから食べ物をやった。が、それにはちっともくいつかない。やさしくすると猫はすぐ調子に乗る。いや、調子に乗るどころか、車のボンネットに跳び上がり、フロントガラスに乗って別のえさを催促し始めた=写真

こちらは再び無視。カミサンは喜んで外に出て食べ物をやる。が、やはり口にしない。港の猫と町の猫とでは、食習慣が大きく違ってしまったのだろうか。町の猫のえさはもうすっかりキャットフードだ。港の猫はどうか、まだ生の魚を食べているのか。そんなことを考えながら、弁当を食べ終わった。

港の防波堤には釣り人が鈴なりだ。海の猫が港の上を飛び交っている。魚市場の活気とは別の、のどかな日曜日の光景だ。そこに現れた猫はしかし、野良なのか車のそばから離れない。

人間のえさなんか食べられるか、でも腹はすいているのだ、とでもいったふうに。おまえの気にいるようなえさはないよ――そう胸の中でつぶやいて港を後にした。

2010年1月22日金曜日

外気浴


きのう(1月21日)の朝は曇りながら、寒気が随分緩んで散歩が心地よかった。そのあと、「庭木の剪定を」と催促され、幹にはしごをかけてギーコギーコやったら、汗が噴き出た。小名浜では正午前に18度を超えたという。真冬なのに5月上旬並みの暖かさときては、汗をかかないわけがない。

1月の寒気が一転して5月の陽気になる。寒暖の変化は自然のならいとはいえ、今週の寒暖の差は大きすぎる。人間を含む生物はしかし、この天気にさらされて生きてきた。晴れ・曇り・雨・風と絶えず変わる天気、いや「外気」に対応してきた。過酷すぎて対応できないときもあっただろう。

散歩はそれを実感する一種の生物的行為ではないか――このごろ、そんなことを考える。外気にさらされているからこそ、生物は生きられる。太陽の光を浴びて生きる草木はその最たるもの。いわゆる「光合成」だ。寒気の中で花を咲かせるスイセン=写真=を見れば、太陽の光の大切さがよく分かる。

人間もまた太陽の光を浴びることで体内にビタミンDをつくるのだという。逆に言えば、太陽の光に当たらないとビタミンDが不足する。人間も「光合成」をしているのだ。

佐伯一麦の小説『ノルゲ』にこんなくだりがある。「おれ」と「妻」が厳冬に北極圏の町トロムソ(ノルウェー)を訪れてテキスタイル作家に会う。そのテキスタイル作家は「SAD(急性冬期抑鬱症候群)と呼ばれる疾患の治療で大学病院の精神科にかかって」いた。治療法は「病院で、自然光に近い強力な人工光を三十分照射する」ことだった。

極夜の冬、日照不足は人間を暗欝な気分に追い込む。で、30分間「人工の太陽光」を浴びて気分を晴らす。この30分間が重要だ。紫外線対策から日光浴を戒める風潮があるが、人間はもともと「外気」にさらされて生きてきた生物的存在だ。せめて一日に30分は日光を浴びるべきではないか。

太陽が顔を出さない日も、30分は外気に触れる。散歩はその意味では「歩く外気浴」、真冬の今は「歩く寒気浴」だ。私の散歩時間も30分強にすぎない。一日に最低それだけは欠かせない、と思っている。

2010年1月21日木曜日

雑誌「風景」


山村暮鳥(1884~1924年)は大正元(1912)年9月、日本聖公会の牧師として常陸太田講義所から平講義所にやって来た。翌年初夏には詩集『三人の処女』を刊行し、秋には新詩研究社を創設した。この間、結婚もしている。

暮鳥は、いわきでは「文学の伝道師」という意味合いが濃い。暮鳥のまいた詩の種がやがて芽生え、育ち、開花した。そこから三野混沌、猪狩満直、草野心平、そして作家の吉野せいらが育った。今につながるいわきの近代詩史はこの暮鳥が水源だ。

暮鳥は大正3年5月、新詩社の文芸雑誌「風景」を創刊する。これは平周辺の文学青年に大きな影響を与えたとされる。

中央で名を成し、あるいは躍進を始めた詩・歌人、たとえば三木露風、前田夕暮、室生犀星、白鳥省吾(以上創刊号)、吉江孤雁(8月号)、萩原朔太郎(10月号)、尾山篤二郎(11月号)らが作品を寄せた。地元の若者たちも「風景」に詩や短歌を寄せた。名のある作者たちと同じ土俵で作品を発表する幸福を味わったことだろう。

手元に4冊の「風景」(復刻版)がある=写真。故里見庫男さんが収集し、広く研究の材料に供するべく復刻した。

その趣旨は、里見さんの次の文に尽きる。〈詩誌「風景」はいわきの文学における宝物のひとつです。わが国の近代詩壇の中でも高名なる詩人の一人山村暮鳥が中央詩壇への突破を試みた雑誌で、大正初期、これだけの高いレベルの文学作品がここいわきから発信していたことは驚嘆に値するものです〉

月一回、野口雨情記念湯本温泉童謡館でおしゃべりをしている。今度は暮鳥ネットワークをやることにして、わが家で眠っていた復刻版「風景」をパラパラやった。著名な詩人たちはともかく、ほかの寄稿者はどんな生涯を送ったのか――興味がわいて、ネットで調べた。いわき総合図書館へ出かけて事典にも当たった。

表紙絵を描いた南薫造(1883~1950年=当時30歳)はやがて東京美術学校教授になる洋画家。同じく表紙絵を描いた柴田量平(1889~1980年=当時24歳)は仙台の人。なかなかの粋人だったらしい。孫娘の夫は歌手の稲垣潤一で、若い夫婦は一時、祖父と同居した。扉絵の小山周次(1885~1967年=当時28歳)は日本水彩画界に大きな足跡を残した。

ほかに、早稲田の文学部長になる五十嵐力(1874~1947年=当時39歳)、評論家・教育事業家西宮藤朝(1891~1970年=当時22歳)など。福島県内がらみでも紹介したい人間がいるが、長くなるので省略する。それこそ〈暮鳥の慧眼は驚嘆に値する〉といえるほど、錚々たるメンバーが作品を寄せた。そんなことを先日、童謡館でのおしゃべりに付け加えた。

2010年1月20日水曜日

ヤマドリの尾羽


朝晩、同じコースを散歩する。ときどき驚くことがある。前日までは何もなかったところに花が咲いている。夏、南から最初の渡り鳥が到着する。冬、今度は北の渡り鳥がやって来る。夏井川で大きな魚がバシャッとはねる。人間の暮らしのそばで繰り広げられる自然の営み、そのいのちの循環を思い起こさせる“発見“に事欠かないのだ。

きのう(1月19日)の朝も驚いた。いや、首をひねった。国道6号バイパスの終点部に歩行者専用のトンネルがある。トンネルをくぐれば、2000年に小学生たちが苗木を植えた照葉樹の「草野の森」だ。そのトンネル内に赤みがかったヤマドリの尾羽が落ちていた。長さはおよそ1メートル。

そこは少なくとも住宅街の一角だ。河川敷に近いといっても、河原にすむのはキジであってヤマドリではない。森にすむヤマドリの尾羽がなぜトンネルの中に落ちていたのか。どこか遠くの森から風に飛ばされて来たのか、だれかが落としたのか。むろん、答えは出ない。尾羽を家に持ち帰った。

散歩時にときどき鳥の羽を拾う。カラスの風切羽、キジの尾羽、そして今度のヤマドリの尾羽=写真。ヤマドリの尾羽は飛び抜けて長い。週末に出かける夏井川渓谷では、カケス・ツグミ・ヤマセミ・タカ類の羽を拾った。今も無量庵に飾ってある。それらに比べても長い。

鳥の羽はとにかく軽い。鳥によって、あるいは部位によって色と形が異なる。鳥の外観から受ける色の印象などは全くアテにならないのだ。なにより模様が美しい。で、ガラス窓の桟などに差し込んで残しておく。カラスの風切羽はパソコンの画面やキーボードのほこりを払うのに適している。

何日か前、夏井川の対岸にある家で獅子頭の飾り羽の話になった。尾羽の確保が難しいので、窮余の策として地鶏を飼い始めたのだという。雄の地鶏の尾羽を確保するには、いつかはしめなくてはならない。食べて尾羽を残す食文化の“復活”と伝統の“継承”だ。ヤマドリの尾羽を見ながら、そんなことも思い出した。

2010年1月19日火曜日

室温マイナス8度


日曜日に用事があって、夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵へ行けなかった。生ごみも満パイになっている。で、きのう(1月18日)早朝、起きぬけに生ごみの入ったバケツを車に積んで、無慮庵へ出かけた。生ごみを埋める、ついでに滝の氷を取って冷凍庫にしまっておく――というのが目的。

いわきも「極寒期」に入ったらしい。7時半前に無量庵に着いて室温を確かめたら、寒暖計は氷点下の8度を指していた。室内でマイナス8度ということは、外気温はもっと厳しいだろう。

濡れ縁に雨だれを受けるバケツがある。8割方雨が入って凍っている。近くにあった石で氷の表面をたたいたが、びくともしない。アイスピックの代わりに農作業に使うフォークでガシャガシャやると、やっと氷の半分が割れた。氷は厚さが7センチ前後あった。畑の表土もそれと同じくらい凍っているだろう。

生ごみは、いつも2~3時間は水につけておく。塩分を抜くためだ。それから畑の土を掘って埋めるのだが、冬は表土がカチンカチンになっている。で、冬場は堆肥枠にすきこむ。堆肥枠の刈り草もまた凍っていた。スコップで刈り草を切り刻みながら、くぼみをつくって生ごみを混ぜ込んだ。これも結構な力仕事だ。

生ごみの塩抜き時間を利用して、向こう岸の「木守の滝」へ出かけた。アイスピックとごみ袋を持って。ほぼ1週間前に見たときには、滝の上部がかすかに凍っているだけだった。その氷が滝の片側だけ上から下まで凍結しつつあった=写真

去年はもっと寒気が厳しくなるかもしれない――そう思っていたら、1月下旬から2月上旬にかけて寒気が緩み、滝のしぶき氷が消えた。夏に天然氷でオンザロックをする楽しみも消えた。その二の舞は踏むまい、凍っていたら氷を取る。そうやって、冷凍庫にしまえる分だけを取った。

夏まで冷凍庫に寝かしておく。江戸時代には旧暦6月1日、加賀藩が氷室を開いて将軍家に氷を献上した。その故事にならって、現代では「6月30日氷室開き」「7月1日氷室の日」とされている。そのとき、滝の氷を取り出して、目の前の自然に感謝しながら乾杯する。その日を思い描きながら、すぐ平地へ下った。

2010年1月18日月曜日

犬走り


わが家の隣はコインランドリー。境界には、犬走り(わが家側)とフェンス(コインランドリー側)でできた、狭く細長い空間がある=写真。犬走りが切れると道路に出る。庭の生け垣はフェンスとほぼ接しているので、こちらは、すき間はないに等しい。

犬走りは、今や野良猫の専用通路、つまり「猫走り」だ。人間は立ち入らない。せいぜい実生のビワの木を剪定するときに入り込むくらいだ。庭の生け垣と建物の間に座布団1枚くらいのすき間がある。犬走りに立つには障害物競走よろしく、無理矢理体を丸めて、このすき間をかいくぐらなくてはいけない。

2歳9カ月の男の子が遊びに来た。庭で遊び始めたが、寒風が吹きつけるので、何とか言いくるめて家の中に入れた。家の中でも機嫌よく遊んで過ごした。さあ親子で帰って行く段になって、中断していた庭遊びを思い出したのだろう。靴をはかせ、こちらも靴をはいて玄関の戸を開けようとしたら、勝手に開けて出てしまった。

庭に出ると、こちらを見てニヤリとした。次の瞬間、ダッシュして建物と生け垣のすき間から犬走りに姿を消した。

〈あっ、危ない! 突っ走って行ったら、道路に出る〉。慌てて生け垣をかいくぐろうとするのだが、背中と足が枝に引っかかって思うようにいかない。2秒、3秒。車のキキーッという音を覚悟した。

〈地球の外へ行ってしまうかもしれない。親になんと言ったらいいいか〉と思いながら、やっとこさ犬走りに立つと、よかった、5メートルほど先で男の子が止まっている。歩道の手前に柵があって行き止まりになっていたのだ。

柵がなかったら、そのまま道路に飛び出していたかもしれない。心臓が早鐘を打った。足のくるぶしが痛い。見ると、枝でこすれて血がにじんでいた。

男の子は知恵がついて、こちらを出しぬくことを覚えたようだ。それに合わせて、こちらもその上をいくようにしないといけない。つくづくそう実感した“逃走劇”だった。

2010年1月17日日曜日

ガン・カモ観察調査


日本野鳥の会いわき支部による、平成21年度ガン・カモ観察調査結果(速報)が公表された。1月10日にいわき市内19カ所で支部員が一斉にカウントした。速報値によると、総数は6,170羽で、過去最高を記録した3年前の1万472羽に比べると6割程度にとどまる。

内訳は、ハクチョウ類がオオハク52羽、コハク837羽、アメリカコハク2羽の合計891羽で、昨年より191羽増えた。それでも過去最高を記録した17年度1,478羽の6割にすぎない。

カモ類の中では、海で過ごすクロガモの飛来数が年によって大きく異なる。今年は大幅減だった。このため、カモ類の総数も昨年より412羽少ない5,238羽にとどまった。クロガモを除いた場合は4,291羽で、昨年の4,150羽とそう大差ない(これについては、同支部のホームページ上の解説ではなく、表の「備考」に従った)。

飛び抜けて多いカモはオナガガモ=写真(撮影は昨年2月8日・小川)だ。ここ10年は1,215~2,970羽が飛来している。今冬は1,839羽で、昨年より173羽増えた。雄の尾が長いのでその名がある。

私が散歩コースにしているのは、ハクチョウ飛来地・平塩地区に接する中神谷の夏井川。ハクチョウを遠目に眺めて帰って来るだけだが、近くまでばらけたカモ類を見ると、オナガガモが断然多い。近年、その数を増した。ハクチョウのそばにいれば撃たれないことを経験的に知っているのだろう。

さて、留鳥のカルガモはカモ類総数のざっと5分の1を占める。マガモ・コガモ・スズガモなど、いわゆる渡り鳥のカモ類は4,300羽弱ということになる。

特筆される事項として、平塩の夏井川で「169Y」の緑の首環をつけたコハクチョウが確認された。去年10月、北海道は網走のクッチャラ湖で装着された個体だという。

残留コハクチョウの「左助」「左吉」「左七」は随分前に姿を消した。これも私の中では特筆したい事項だ。平塩地内で仲間を誘う「呼び水」役だったが、もうその群の中にいないのかと思うと、一抹の寂しさがつのる。

2010年1月16日土曜日

おとぎの国の家


昨日の続き。北欧を旅して、木造家屋の色の多彩さに目を見張った。外観が白色だけでなく、ワイン色、黄色、緑色、灰色と実にカラフルだ。なかでもノルウェーでは、ミュールダールからフロム鉄道を利用してフロムまで下り、ソグネフィヨルドの一部、ネーロイフィヨルドをフェリーで観光した。

フロム渓谷で、ネーロイフィヨルドで、おとぎの国に出てくるようなカラフルな家をたくさん見た=真。観光客、とりわけ屋根瓦と白壁の木造家屋を見慣れて育った日本人には、外観が原色に近い建物はどうしても非現実的なものに映る。絵本の中から飛び出したような感覚を抑えることができなかった。

夏から秋に移り変わったばかりの、9月下旬の旅がそうさせたのかもしれない。晴れてはすぐ曇り、曇ってはすぐ雨が降り、またすぐ晴れるノルウェーの猫の目天気。とはいえ、空の青さはまだまだ日本の秋の空とそう変わらない。そんな季節に見る原色だから、日本人が違和感を持つのは当然だろう。

が、なぜあんなに外観がカラフルなのか――日本に帰ってからも疑問が頭から離れなかった。佐伯一麦の小説や随筆を読んでおぼろげながら分かりかけてきたものがある。「白夜の夏」ではなく「極夜の冬」から向こうの生活文化を、建物を見る必要があるのではないか、ということだ。

北極圏では冬の一時期、全く太陽が顔を出さない。薄暗く、寒く、陰鬱な雲と雪空の下で、人はなんとか明るく温かく冬をやり過ごしたいと願う。家のカラフルな外観はそうした冬の暗色の世界にともる明かりのような役割を果たすのではないか。真冬こそ、カラフルな外観は癒しの効果を発揮するのではないか、と考えると納得がいく。

たぶん、「おとぎの国の家」といった感覚は、冬の切実さを知らない旅人がよく陥る誤解なのだ。ちょうど極夜が終わりかけた今の時期、日本人が冬至に「一陽来復」の希望を見いだすように、向こうの人たちも向日的ななにかを体内に感じ始めていることだろう。

2010年1月15日金曜日

佐伯一麦の小説


佐伯一麦の『川筋物語』は11年前の1月に出版された。すぐ買って読んだ。仙台市を流れる広瀬川をさかのぼり、最後は河口へ戻って来るルポ風物語だ。その物語が終わったあとに、まるで付録とでもいうかのようにノルウェーのある川の遡上記が載っている。地球のさいはての川の話ではイメージが浮かばない。読み残した。

〈定義(じょうげ)〉の章に〈門前町の突き当たりの寺院が浄土宗の極楽山西方寺。正式名称よりも「定義さん」「定義如来」などの通称で親しまれている〉とある。東北地方の浄土宗はおおむね、いわき市平山崎にある專称寺を総本山とする元浄土宗名越派の末寺とみていい。佐藤孝徳著『專称寺史』に当たると、やはり末寺に極楽山西方寺があった。

太宰治の『津軽』にも浄土宗の寺と坊さんの話が出てくる。今別の本覚寺と、住職を務めた貞伝和尚だ。本山の專称字で修行した貞伝和尚は名僧として知られる。

江戸時代の磐城平は東北地方への情報の発信地だった――著名な作家の作品を介して、かつてのいわきの宗教文化の高さを誇らしく思ったものだ。

読まなかったノルウェーの川の話が頭のどこかに残っていたのだろう。いわき総合図書館で佐伯泰英の小説を探していたら、『ノルゲ』と題する佐伯一麦の小説が目に止まった。泰英はちょっと置いて、一麦に集中することにした。

昨年秋、北欧を旅して以来、向こうの本を読み続けている。日本人作家ないし詩人の書いた「北欧本」はないものか――佐伯一麦の本の背文字に触れて、彼のノルウェー体験がよみがえったのだ。

『ノルゲ』を借りて一気に読んだ。『川筋物語』も借りて読み残しの「アーケルス川」を読み、『まぼろしの夏その他』を読んで、今、『マイシーズンズ』を読んでいる=写真

春・夏・秋・冬と季節ごとにノルウェーを訪れ、さらに一年間滞在した経験を小説化したのが『ノルゲ』。『マイシーズンズ』はそのきっかけとなったテキスタイル作家(故人)への、手紙のかたちをとった季節ごとのノルウェー探訪物語だ。単なる旅行者ではない、半滞在者の目で見、耳で聞き、体で感じたノルウェーの人と自然が濃密に描かれている。

夏の「白夜」、その反対の冬の「極夜」。捕鯨を介したノルウェーと日本との交流。ノルウェー人の気質、文化、その他が、ほんの少しだが皮膚にしみこんでくるような錯覚を覚える。「一見は百聞にしかず」で、しばらくは佐伯一麦の本を手放せない。

2010年1月14日木曜日

北欧の絵本


13日の朝は、いわきには珍しく3日続きの曇天だった。3日目ともなれば、さすがに梅雨ではないから雲が動き出す。時間がたつにつれて西高東低の冬型の気圧配置になり、晴れ間が広がると同時に、風がうなりだした。

早朝7時過ぎ。全天を覆う灰色の雲をバックに、ハクチョウが飛びかう。どうかすると雲にハクチョウの体が溶け込んで、見失ってしまいそうだ。河川改修が進むかたわらでは、100羽を超えるハクチョウが羽を休めていた=写真。西に連なる山はところどころうっすら雪をかぶっていた。夜、平地では小雨になり、山では小雪が降ったのだろう。

「成人の日」に中通り(阿武隈高地)からやって来た兄が言っていた。「昔と比べたら阿武隈も雪が少なくなった。道路の雪かきをしなくてすむようになったのだから。間違いなく温暖化が進んでいるということだな」

最近、北欧の絵本をよく読む。いわき総合図書館には、大人の北欧文学が少ない代わりに、北欧の児童文学が結構そろっている。アンデルセンに代表されるように、向こうは児童文学の宝庫だ。

温暖化の話になったとき、読んだばかりの絵本の一節が思い浮かんだ。トナカイを飼育して暮らす北極圏(ノルウェー)のサーメの家族の物語だ。あまりに早く雪が降ると、一度溶けてコケごと凍りつく。すると、トナカイがえさのコケを食べられなくなる。これは全くないことではないだろう。早々と雪が降る、ということはどこにもあるのだ。

ところが、暮れにテレビで見た、現在のトナカイ飼育は深刻だ。雪ではなく、雨が降るのだ。その雨が凍りつくと、絵本のなかで語られていたのと同じ現象が起きる。トナカイはコケを食べられない。そのため、サーメは飼料を購入してトナカイに与えるようになった。温暖化の影響以外のなにものでもない。

身近なところで、北や南の国で、同時多発的に異変が起きている。せめてそのことだけでも頭の片隅に置いて、暮らし方を省みる手がかりにしたいものだ。

2010年1月13日水曜日

交通死亡事故


11日夜、近所の国道6号で交通死亡事故が発生した。12日の朝刊に短く速報が載っていた。すぐテレビをつけると、NHKがローカルニュースで被害者の氏名を報じていた。事故現場のすぐ前の商店主ではないか。警察がひき逃げ事件として捜査している、ということだった。

朝夕の散歩コースだ。朝は下流から上流へと夏井川の堤防を歩き、ハクチョウを眺めたあと、死亡事故の発生した横断歩道を渡って自宅へ戻る。夕方は近くにある歩道橋を渡って夏井川の堤防へ出る。きのうは事故の様子が気になったので、朝も歩道橋を利用して夏井川の堤防へ出た。7時半近いというのに、国道ではまだ交通規制が続いていた=写真

夕刊(いわき民報)によれば、商店主は夜9時半ごろ、自宅前の横断歩道を渡っている途中に転倒し、最初の車にひかれた。ひいた運転手らが救護活動中に、今度は次の車が商店主をひいて逃げた。商店主は全身を強く打って間もなく死亡した。逃走車両のナンバーは確認されている。テレビなどの報道では、慎重に事情聴取が進められているという。

平中神谷地内の国道6号は、片側2車線のうえにまっすぐ道路が延びているから、アクセルを踏み込むドライバーが多い。車対車、車対人の死亡事故多発地帯でもある。横断していてはねられるのはたいてい近所のお年寄り。いわきで一番、交通遺族が多い地区ではないか――私はひそかにそう思っている。

亡くなった商店主とは、面識はない。が、歩いて5分とかからない近所だ。また一家の生活が暗転する交通死亡事故が発生した、交通遺族が生まれてしまった、といった感慨を禁じえない。

2010年1月12日火曜日

龍馬伝


一気に竜馬が来た――そんな感じを受ける。NHKの大河ドラマ「龍馬伝」が始まったら、早速、民放で竜馬がらみのCMが流れだした。竜馬は日本人を越えた日本人。日本人に人気のある歴史的な人物としては屈指の存在だろう。熱烈な竜馬ファンがいわきにもいる。

竜馬はやがて脱藩するが、それも一つには士農工商、そして士のなかでも上士・下士の違いがある、そんな理不尽な身分差別、閉塞状況を乗り越えて自由にはばたきたかったから、だろう。竜馬の家は下士階級に属しており、幼い竜馬が上士に手打ちになるところを母親が死を賭して守った――というのが、初回のポイントだったに違いない。

ドラマで上士・下士の厳然たる身分格差を垣間見て、ある酒席での会話を思い出した。

50代半ばの隣の人が、自分の生家のことに触れながらこう自嘲した。「私は下男だから」。兄弟が何人かいる。ばっち(末っ子)だったか、下から二番目だったかは聞きもらしたが、要は家を継ぐ兄がいて、その弟たちがいる。長男以外はその他大勢組、つまり「上男」(長男)に対する「下男」というわけだ。

太宰治は若いころ「オズカス」と言われていたそうだ。「オズ」は津軽弁で「弟」、「カス」は文字通り「カス」だ。跡取り以外はカスのような存在。「下男」と相通じる感覚だ。

さて、竜馬といえば海の向こうを見ている姿が思い浮かぶ。いわきの新舞子海岸に設けられた波消しブロックの上に、初夏、ダルマを担いだダルマのミニ将棋盤とでもいった置物があった=写真。今もあるかどうかは分からないが、最初これを見たとき、しゃれたことをする人がいるものだと思った。「竜馬伝」が始まって、その置物を思い出した。

竜馬とは比較すべくもないが、こちらも太平洋を凝視し、何かを考え、何かを思い続けている。

2010年1月11日月曜日

大滝根山の向こうへ


夏井川の水源は大滝根山の南東面。同じ山の反対側、北西面から発するのは大滝根川。大滝根川は郡山市内で阿武隈川に合流する。夏井川は太平洋に注ぐ。その下流、河口まで歩けば1時間弱、そんなところに住んでいる私には、近所の夏井川は格好の散歩コースだ。

生まれ育った町は、いわきではない。東西にのびた現・田村市常葉町の一筋町。夏井川とは反対の、大滝根川が流れる町だ。大滝根川は、町に南面する水田のはずれ、山を垂直にえぐるように流れている。今は、その崖がぐずぐずだ。とても崖とはいえない。町の人間は昔、その崖を「アカジャリ」と呼んでいた。

「アカジャリ」の遊び方が二つあった。一つは、崖の下部、3メートルあたりから川に「エイッ」と飛びこむこと。もう一つは、上へ上へとへこみをつくって崖の上まで登りきること。高さは20メートルくらいあっただろうか。今思うと、危険と隣り合わせで快感を求めていたのだ。

崖がうっすら赤みがかった色をしていたから、「アカジャリ」。「アカジャリに行くべ」。夏休みであれば、それは「水浴び」に行くことだった。プールなどはどこにもない時代、つまり、高度経済成長時代の前の話。町の子どもたちは決まってそこへ水浴びに出かけたのだった。そして、イワツバメよろしく崖にへばりつく競争をした。

プールができると、子どもたちは川では遊ばなくなった。当然、川にまつわる地名、景観も意識から遠くなる。「アカジャリ」が見えなくなる。鋭く立ちふさがっていた崖は、いつか望郷の世界のなかで崩れるしかなくなった。

――あとさきが逆になった。

年始のあいさつを兼ねて9日、実家へ帰った。いわきから阿武隈の山並みを見る限り、路面には雪はなさそうだ。が、川前から小野町の境にある坂道が難しい。ネットで調べると、いわき市内の国道49号は路面が乾燥している。ということは、夏井川沿いの県道小野四倉線も同様だろう。

天候は急変する。それに備えて、義弟からタイヤチェーンを借りて、午後の早いうちに出かけた。いわきの平地では晴れていたのが、夏井川渓谷へ入ると曇って雪がふっかけてきた。内心穏やかではない。が、積もるほどではない。田村市に入ると、大滝根山がうっすら白く雪化粧をしていた=写真。道路は大丈夫だった。

翌10日朝8時前。ご飯を食べたあと、なにげなく外を見ると雪がぱらついていた。道路も白く点描されつつある。慌てて辞去し、車を走らせた。結果はオーライ。しかし、行きも帰りも「タイヤが滑ったらどうしよう」。それだけに頭を占領されたドライブだった。

2010年1月10日日曜日

港のカワセミ


道の駅よつくら港のそばを流れている川は、確か境川と言った。四倉の町内を貫いて太平洋に注ぐ小さな川だ。かつてはどぶ川の様相を呈していたが、近年はだいぶ改善されたらしい。

四倉地区保健委員会が、海岸清掃やEM菌散布による河川浄化活動を展開し、全国海岸協会から表彰されたのは3年前。四倉の境川は、EM菌による水質浄化の成功例として評価されているという。

そのあかしが、上空から水中にダイビングして魚を捕らえるカワセミだろう。境川のコンクリート側壁のすきまから張り出した木の枝(針金ではあるまい)にポツンと止まっているのを見た=写真。くちばしは長く、頭は大きく、胴は短い。背中は青緑色、胸と腹は橙黄(とうこう)色。「飛ぶ宝石」だ。

もともと「渓流の宝石」と形容されるくらいのハンターだから、カワセミは水のきれいなところにしか生息しない。それが境川に姿を現したということは、水質が浄化され、小魚が生息するようになった、ということを意味する。

カワセミは確かにこのごろ、人間の営みの濃い場所近くでも姿を見せるようになった。わが散歩コースの夏井川にも生息している。河川の水質は、水辺の生き物を通して見る限り、少しずつよくなってはいるようだ。

四倉港に隣接する河口にはコサギも、イソヒヨドリもいた。コサギは盛んに波打ち際を歩き回りながらえさをついばんでいた。サギ類はどぶ川でもかまわずえさ探しをする。水環境の指標としては断然、カワセミがいい。

2010年1月9日土曜日

お年玉


テレビの脇に正月を演出するミニ飾りがある=写真。当分、置いたままにするらしい。もう正月気分は飛んで、日常が戻ってきた。やれやれ。だが、正月はやはり気持ちが改まる。2日に甥の家族や、わが息子の家族など十数人が一堂に会した。中学生一人、ほかに幼児、乳児が3人。子どもたちの楽しみは「お年玉」だ。

とはいえ、中学生を除けばまだ「お年玉」の実感には乏しい。一斉にぽち袋が行き交う。「ありがとうございます」と言って喜ぶのは親たちだ。

世代が一つ移り変わった。わが子どもたちが、お年玉をもらう立場からあげる立場に変わった。お年玉は、子どもにとっては天から降って来る恵みのカネだ。われわれが子どものときはどうだったか。親からちょっと多めに小遣いをもらった記憶がある。が、叔父や叔母からじかにもらった記憶はない。

もらったのだろうか。???だが、高度経済成長が始まる前だから、お年玉をあげられるほど経済的な余裕はなかっただろう。

初売りも旧正月でやっていた。旧正月の二日目。まだ暗いうちから通りがにぎやかになる。ハレの日だから、すぐ目がさめる。なにか買い物をした。それが楽しい記憶として残っている。

後日、近くに住む子どもが息子を連れて来た。「ジイジに買ってもらいたいものがあるんじゃないの」とけしかける。ん? なにかおもちゃがほしいようだよ、という。孫が小さな声で「トイジャラス」と言った。トイザラスに行こうというのだ。お年玉はあげたはずだが……。

ま、しかたない。「ダメだ」というわけにはいかない。親の策略にのってトイザラスに出かけた。孫は店内に入ると、勝手に歩いて行く。買いたいおもちゃのある場所が分かっている。最初のものは売り切れだった。次に買いたいもののある場所に直行する。「これ」。8両連結の列車だ。カネのないジイジに代わって、バアバが代金を支払った。

年末に見たテレビ番組にこういうのがあった。中国の、ある長寿の村の正月。孫たちが出稼ぎから帰って来て祖母に代わる代わるお年玉をあげる。なかで一人、顔を出さない孫がいた。リーマンショックで稼ぎが減り、祖母にあげるお年玉を用意できなかったのだ。現実は厳しい。が、長生きすれば孫からお年玉をもらえる風習をうるわしく思った。

2010年1月8日金曜日

遅かった


きのう(1月7日)朝、わが住むいわき市平中神谷で鳥小屋の「お焚き上げ」が行われた。正月飾りを持ち寄って火を放ち、無病息災・五穀豊穣を祈る行事だ。一種の「どんど焼き」である。

鳥小屋は青竹を骨組みにしてシノダケやチガヤ、ワラなどで囲った、子どもたち、そして昔の子どもたちの“アジト”だ。四角い形をしており、広さはざっと8~10畳くらい。最近は屋根がブルーシートだったりする。燃やすときには当然、取りはずすのだろう。

カミサンが前日、役所がらみの集まりがあったあと、枯れ田に設けられた鳥小屋を見学した。「古畳が敷いてあって、炉まで切ってあった。あした、日の出とともに火を入れるようだよ」。7時前だ。中神谷の鳥小屋は復活して間もない。地元にいながら一度も見たことがない。見に行くことにした。

ちょっと早めに起きてブログをアップしたあと、出かけた。いつもだと海の方、夏井川へ向かうのだが、きのうばかりは反対側の山の方、家の前の旧国道を横切って田んぼの方へ向かった。JR常磐線が宅地と田んぼを分けている。

踏切の近くまで行くと、西空に煙が昇っていた。快晴、無風。「お焚き上げ」日和だ。それはいいが、ちと早くないか。鳥小屋の影と形はあるか。

踏切を越えたら、西の田んぼおよそ300メートル先で鳥小屋はすでに燃え尽きていた=写真。足が止まった。あとで夕刊で知ったが、6時半には火が入れられた。出かけるのが20分ほど遅かった。あとの祭りである。

いわきの年中行事で心ときめくものの一つが、この正月の鳥小屋。合法的に火を放つことができるから、というのは言いすぎだとしても、立ち昇る炎の力を浴びれば元気が出る。竹にかざして焼いたもちを食べれば風邪を引かない――というのは、冬ならではのご利益だ。ちゃんとした写真は来年までおあずけ、だ。

2010年1月7日木曜日

初巡り


わが住まいのあるいわき市平から、小川方面に用事があったついでに夏井川渓谷の無量庵へ出かけた。きのう(1月6日)のことだ。生ごみを埋める。今年初めて森を巡る。この二つが目的(隠れた目的は天然のエノキタケ探索)。生ごみは埋めるというより、堆肥枠の落ち葉に混ぜ込むだけ。それはあとでもいい。まず、森へ入った。

晴れてはいたが、風が強い。帽子を飛ばされないようにしながら、吊り橋を渡り、森の小道に入り、すぐ「木守の滝」に対面する。まだ寒気は厳しいとはいえない。「しぶき氷」はてっぺんの一部だけ=写真。氷柱をかち割って持ち帰り、冷凍庫に保存するなんてことはできない。滝の下部はまったく凍っていないのだ。

いわきでは、1月下旬から2月初旬にかけて極寒期を迎える。そのとき、この滝がどこまで凍るか。完全な全面凍結は見たことがない。表面が氷で覆われても、透き通った氷の奥には水の流れが見える。この10年以上、「木守の滝」の凍り具合を温暖化の指標のように観察してきた。今年の判定はどうか。

木々はすっかり葉を落とした。見晴らしがいい。谷底に近いいつものコース。森の生き物にとっては一番きつい時期だろう。なにもないのだ。木の実があるわけではない。キノコが出ているわけでもない。落ち葉が林床を覆っているだけ。

鳥やイノシシ、テン、タヌキたちはどうメシを食っているのだろう。と思いながら、無量庵の近くまで戻って来ると、テンのものと思われるフンがあちこちに散乱していた。まさかテンが寄り集まって正月を祝う宴会を開いたわけではあるまいな。案ずるまでもない。彼らはたくましく生きているのだ。

2010年1月6日水曜日

三和の白菜


去年の暮れ、いわき市三和町の永山シゲヨさんが突然、わが家へやって来た。知り合いの家へ行く途中に寄ったのだという。シゲヨさんは農業を営むかたわら、通年、柏餅を製造・販売している。「柏の里」がご夫婦の代名詞でもある。柏餅と白菜2玉、パック入り白菜キムチを土産にいただいた。

年に1、2度、シゲヨさんらが立ちあげた三和町の直売所へ出かける。「農家レストラン」を営むシゲヨさんの自宅へ行ったこともある。そこで石窯ピザ焼きを体験した。

いわきの農村・農業・農家、そして伝統料理に精通している人に教えられたことがある。「ネギは土付きでいいが、大根は取ったらすぐきれいに洗わないと」。収穫後は逆に土が味をそこねるらしい。そのあとの言葉。「いわきの野菜は三和。三和の野菜はうまいよ」。その、三和の白菜だ。

年の瀬に白菜漬けが切れた。年が明けたら最初に食べられるように、暮れの30日にシゲヨさんからいただいた白菜を干して漬け込んだ。年明け2日には試しに食べたが、まだ塩がなじんでいなかった。3日、4日と日を追うごとにしんなりしてきた。

白菜は栽培しなかったので、直売所ないしスーパーから2玉を買ってきて漬け込む。スーパーで売っているのはだいたい、いわきから南の地方の白菜だ。北の白菜はない。

南の地方の白菜と三和の白菜とでは明確な違いがあった。三和の白菜は甘いのだ=写真。12月の初めだったか、シゲヨさんから電話がかかってきた。「周りは一面の銀世界です」。同じいわきでも、平地は庭のスイセンが満開、山間地は雪野原だ。山間地の冬の寒さが白菜の糖度を増すのだ。三春ネギにも、同類の阿久津曲がりネギにも同じことが言える。

白菜漬けは2玉でだいたい3週間は持つ。人にあげたりするから、実際にはもっとサイクルが短いが、4月末まで食べるとして、あと4回くらいは漬けなくてはならないだろう。道路事情(雪の有無)がよければ、これからは三和まで白菜を買いに行くことにしよう。

2010年1月5日火曜日

仕事始め


年末年始には酒を飲む機会が増える。世の中全体が休みに入る。で、〈まあ、いいか〉と自堕落になるのが通例。カミサンが横目でチラリと見たが、本を読んで、飲んで、寝て、また本を読んで過ごした。散歩も休んだ。年末年始恒例の“巣ごもり”だ。

さすがに仕事始めの4日には、寝てはいられなくなった。いつものように朝早く起きる。ちょっと遅れたが、散歩に出る。朝食のあとは、いわきの市民参加型雑誌の校正をした。「在宅ワーク」である。私の仕事始めだ。

事前校正でひとまず整理をしたはずの文章がある。が、それが徹底していなかった。二度目の「事前校正」をしているうちに、背中が痛くなってきた。目がチカチカしてきた。外の空気を吸いたくなった。午後になると、校正を中断して朝とは逆のコースで夕方の散歩に出た。

いつもの時間よりはちょっと早い。快晴、無風。夏井川の堤防に出ると、すぐ2羽のコハクチョウが音もなく海の方からやって来た。今年初めて見る飛翔姿だ。ちょうど堤防の上を飛んで来る。頭上近くに来たとき、カメラを構えた。今までで一番近い距離でハクチョウの飛ぶ姿を撮ることができた=写真

ハクチョウには「飛び納め」も「飛び始め」もない。去年も今年もない。ただ夜が明けて、日が暮れて、やがて北へ帰る季節を、南へやって来る季節を体で知る。そのサイクルのなかで必死に生きている。なぜかその必死さが尊いものに思われた。自堕落では、野性を保てない。

翻って、人間は文明に逃げ込むからときどきだらしなくなるのだ――そんなことを考えさせられた「初散歩」だった。

2010年1月4日月曜日

御降(おさがり)


元日の午後、夏井川渓谷の無量庵で雪に降られた話を書いた。車の屋根に雪が積もり始めた=写真=ので、慌てて街へ帰ったのだった。翌日、「しんぼっちの徒然日記」(ブログ)を読んだら、小名浜は元日の朝、うっすら雪化粧をしていた。「お正月の雪は吉兆」とあった。なるほど。

俳句の世界では、正月3が日に降る雨や雪を「御降(おさがり)」という。新年の季語だ。「御降」と言うくらいだから、「しんぼっち」の言うように正月の雪や雨は吉兆なのだ。

で、「御降」で思い出す俳僧がいる。出羽の国で生まれ、磐城の專称寺で修行し、幕末の江戸で俳諧宗匠として鳴らした一具庵一具(1781~1853年)だ。『一具全集』に「御降」の句がいくつかある。

戸にさわる御降聞(い)て起(き)にけり
御降りや西丸下のしめるまで
御降や小袖をしまぬ歩行(あるき)ぶり
城山や御降ながら暮(れ)かゝる

どうもみんな雨の音が聞こえたり、雨脚が見えたりする。雪ではない。が、雪もまた天から降って来る。

昨日の続きの日の出ではなく、年が改まった最初の日の出を「初日の出」と言うように、正月3が日の雨や雪は、やはり特別の雨や雪、つまり「御降」だ。晴れても、雨が降っても、雪が降っても、要はどっちに転んでも正月はめでたいのだ。そういうことだろう。

2010年1月3日日曜日

国民読書年


元日付の新聞で「2010年は『国民読書年』」だということを知った=写真。平成17(2005)年7月、文字・活字文化振興法が制定・施行された。5周年に当たる今年を「国民読書年」とすることが、おととし、衆参両院で採択されたという。

文字・活字文化振興法が成立したのは承知していたが、国民読書年は記憶になかった。長らく過ごしてきた文字・活字文化の職場から離れたのが大きいか。

それはさておき、いわき民報の特集「本の散歩道」中、〈いわきゆかりの本をひもとく〉に現代詩作家荒川洋治さんの『夜のある町で』が紹介されている。荒川さんはいわきに縁故がある。それで、講演をしたり、雑誌「6号線」の主宰者蓬来信勇さんが死去したときには追悼記念号に詩を寄せたりした。『夜のある町で』の紹介記事を次に掲げる。

〈朝のラジオ番組で、森本毅郎さんと文学や言葉について丁々発止のやりとりを繰り広げる現代詩人が書いたエッセー集。その中の「尋ね人」で、天田愚庵が登場する。いわきで“郷土の文化に詳しい地元の方たち”と食事した際、愚庵の存在を初めて知り、興味をもった著者は数奇な生涯を送った彼の足取りを調べる。「郷土の人物」にとどまる人ではない、と驚くのだった。〉

思わず苦笑した。“地元の方たち”の一人として、その場に居合わせたからだ。あやふやな記憶をたどると、「愚庵」を知らなかった荒川さんは、“地元の方たち”が「グアム」「グアム」と言うのを不思議な思いで聴いていた。やがて、正岡子規と親交のあった歌人天田愚庵と知って、「グアム」といわきはなんの関係もないことに安心する。

酒が入ると「アルコール性鼻炎」になる。いよいよ発音があいまいになる。みんな「愚庵」のつもりが「グアム」になっていたのだろう。

「尋ね人」は最初、新聞で読んだ記憶がある。そのエッセーを収録した『夜のある町で』も購入した。「国民読書年」の記事に触発されて本を探したが、どこにしまいこんだものか見当たらなかった。「国民読書年」を実りあるものにするためにも、手元にある本を一度きちんと整理しなくてはならないか。

★追記 記憶がどうにもあいまいなので、夕方、いわき総合図書館へ出かけ、『夜のある町で』を手にした。まったく違っていた。原文を記す。

「ある方が、グアムの研究をしていると。おもしろいなあ。東北で、グアム島の研究なんてとぼくは思った。それが顔に出たらしい。天田愚庵のことですよ、と教えられた。それでもぼくはわからない」

天田愚庵の研究者である故中柴光泰先生のことを言っていたのだ。エッセーの初出は1993年10月28日の日経夕刊。なんとも記憶はアテにならない。

2010年1月2日土曜日

フキノトウを摘む


元日の午後、夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵へ出かけた。一夜飾りを避けて、年末の30日までに「正月様」を飾らなくてはならないのだが、それができなかった。まず、「正月様」を玄関に飾り、床の間にも餅を供える。そのへんはカミサンが詳しい。例年のことながら指示に従うだけだ。

暮れにたまった生ごみも堆肥枠に投入しなくてはならない。いつもだと畑に埋める。が、畑はカチンカチンに凍っている。で、落ち葉を集めた堆肥枠に混ぜ込むのだ。

平地の平を車で行くと、西に広がる阿武隈の山並み、水石山から南方が雪雲で煙っていた。国道49号はどうやら雪だ。三和町は銀世界だろう。水石山の北、夏井川渓谷のあるあたりは晴れたまま。ノーマルタイヤでも大丈夫なはずだ。無量庵に着くと、濡れ縁にあるバケツが雨と雨樋から垂れる水を溜めて凍っていた。

元日から鍬をふるうようなことはしたくない。スコップも握りたくない。で、無量庵の下の空き地を歩いてフキノトウを2つ摘んだ=写真。正月にはいつもそうする。ついでに、南面する土手のへりに生えている木の根元をチェックした。エノキタケが出ているかもしれない。暮れにはヒラタケが生えていた。エノキタケはなかった。

フキノトウとエノキタケのチェックが済めばやることはない。こたつに入って本を読んでいるうちにうとうとし始めた。昼間から睡魔が襲って来るのは、たぶん飲み疲れのせいだ。カミサンは針仕事をしながら、ラジオをかけて天皇杯サッカーの実況を聴いている。

G大阪が勝ったころ、ひょいと窓の外を見ると雪が降っていた。車の屋根がうっすら白くなりかけていた。大急ぎで帰り支度をすませ、街へ下りた。

2010年1月1日金曜日

今年もどうぞよろしく


年末の30日、31日と、ぼんやりして過ごした。朝から眠くてしかたがなかった。たぶん寝床で本を読んでいる時間が長かったのだ。ぼんやりしながらも、しなければならないものがある。一夜飾りはよくないというので、30日には正月飾り=写真=をした。たまたま両日とも、父親に連れられて上の孫が来た。

大みそかの日には、下の孫(6カ月の乳飲み児)まで来た。母親が新型インフルエンザにかかったのだという。下の孫はカミサンが抱いたり、おぶったりしても、人見知りをするようになって泣きやまない。そのうち泣き疲れて眠るのを待つしかないのだが、いつのまにか泣くのをあきらめたようだった。

上の孫は知恵がつき始めた。自分のやりたいことをするために、あれこれ言うようになった。こちらの「はぐらかし」がきかなくなりつつある。寒いから外に出さないように、戸にカギをかけてさわらせないようにしても、言うことをきかない。カギを開けることを覚えた。別な「はぐらかし」を考えなくてはならなくなった。

やがて、下の孫は母親が復活したので父親と帰った。上の孫はそのあともしばらくわが家にいて、ジイバアを遊び相手にして過ごした。昼寝もしない。こちらもできない。夕方、父親が迎えに来た。

こちらはくたくたになって、大みそかの夜を迎えた。もう紅白歌合戦を見るくらいしかエネルギーがなくなっていた。スーザン・ボイルさんの歌はよかった。こんな人が世の中に、地球の片隅にいた――すごいことだ、という思いを新たにした。

さて、けさ(1月1日)起きると晴れ。初日の出には間に合わなかったが、幸先のいい年明けだった。というわけで、今年もどうぞよろしくお願いします。