2010年1月21日木曜日

雑誌「風景」


山村暮鳥(1884~1924年)は大正元(1912)年9月、日本聖公会の牧師として常陸太田講義所から平講義所にやって来た。翌年初夏には詩集『三人の処女』を刊行し、秋には新詩研究社を創設した。この間、結婚もしている。

暮鳥は、いわきでは「文学の伝道師」という意味合いが濃い。暮鳥のまいた詩の種がやがて芽生え、育ち、開花した。そこから三野混沌、猪狩満直、草野心平、そして作家の吉野せいらが育った。今につながるいわきの近代詩史はこの暮鳥が水源だ。

暮鳥は大正3年5月、新詩社の文芸雑誌「風景」を創刊する。これは平周辺の文学青年に大きな影響を与えたとされる。

中央で名を成し、あるいは躍進を始めた詩・歌人、たとえば三木露風、前田夕暮、室生犀星、白鳥省吾(以上創刊号)、吉江孤雁(8月号)、萩原朔太郎(10月号)、尾山篤二郎(11月号)らが作品を寄せた。地元の若者たちも「風景」に詩や短歌を寄せた。名のある作者たちと同じ土俵で作品を発表する幸福を味わったことだろう。

手元に4冊の「風景」(復刻版)がある=写真。故里見庫男さんが収集し、広く研究の材料に供するべく復刻した。

その趣旨は、里見さんの次の文に尽きる。〈詩誌「風景」はいわきの文学における宝物のひとつです。わが国の近代詩壇の中でも高名なる詩人の一人山村暮鳥が中央詩壇への突破を試みた雑誌で、大正初期、これだけの高いレベルの文学作品がここいわきから発信していたことは驚嘆に値するものです〉

月一回、野口雨情記念湯本温泉童謡館でおしゃべりをしている。今度は暮鳥ネットワークをやることにして、わが家で眠っていた復刻版「風景」をパラパラやった。著名な詩人たちはともかく、ほかの寄稿者はどんな生涯を送ったのか――興味がわいて、ネットで調べた。いわき総合図書館へ出かけて事典にも当たった。

表紙絵を描いた南薫造(1883~1950年=当時30歳)はやがて東京美術学校教授になる洋画家。同じく表紙絵を描いた柴田量平(1889~1980年=当時24歳)は仙台の人。なかなかの粋人だったらしい。孫娘の夫は歌手の稲垣潤一で、若い夫婦は一時、祖父と同居した。扉絵の小山周次(1885~1967年=当時28歳)は日本水彩画界に大きな足跡を残した。

ほかに、早稲田の文学部長になる五十嵐力(1874~1947年=当時39歳)、評論家・教育事業家西宮藤朝(1891~1970年=当時22歳)など。福島県内がらみでも紹介したい人間がいるが、長くなるので省略する。それこそ〈暮鳥の慧眼は驚嘆に値する〉といえるほど、錚々たるメンバーが作品を寄せた。そんなことを先日、童謡館でのおしゃべりに付け加えた。

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