2010年1月28日木曜日

暮鳥とお隣さん


『山村暮鳥全集 第4巻』には童話や評論・感想・雑篇・書簡などが収められている。暮鳥の人的なネットワークを探り、「平時代」の暮鳥の活動を知るうえで欠かせない“資料集”と言ってもよい。

中に、生まれて1年に満たない長女玲子あての手紙の形を取った「晩餐の後」がある。長女は母と一緒に水戸の祖父母の家へ「うまれて初めての旅」をした。原資料は切り抜きで、大正4(1915)年2月上旬に書かれ、どこかの新聞に連載されたものと推定されている。以下は、その〈一四〉の冒頭部分。

「火事だ、火事だ。/びっくりして飛び出す。お隣りの弁護士の新田目さんの二階が、けむりをもかもか吐きだしてゐる。火事だあああ。火事だああ。/玲子。/(中略)昼日中、二時ごろのこととておもては見物のくろ山。そのなかでかはいさうに松子ちゃんも竹子ちゃんもとし子さんもそのとし子ちゃんをおんぶして傳(ねえや)さんも、泣いてゐる」

大正4年当時、暮鳥は現在のいわき市平字才槌小路に住んでいた。平一小のある高台のふもと、街の家並みが切れるあたり==だ。その一角に、明治26(1893)年、平町で開業した岩手県出身の弁護士新田目(あらため)善次郎の自宅があった。

暮鳥が日本聖公会平講義所の牧師として、新田目家の隣に引っ越したのは大正2年9月だ。つきあいの程度は分からない。が、没交渉ではなかった。むしろ、新田目家の子供たちとは交流があった。そんなことを推測できる文章だ。

長女の「松子ちゃん」は、そのとき9歳。彼女たちはのちに、いずれも波乱に満ちた人生を送る。私家版『書簡集 人間にほふ――新田目家の1920~30年代』を編集した平田良氏はまえがきに、次のように書く。

「大正デモクラシーから昭和ファシズムのドン底へと向う不幸な時代の新田目家の人々」は、善次郎の義理の甥・鈴木安蔵(のちのマルクス法学・憲法学者、護憲運動のリーダー)、つまりいとこの強い影響を受けて「直寿、マツ、竹子、俊子の四兄妹が相次いで夫夫(それぞれ)の夫や妻ともども社会主義運動に参加し、否応なしに全家族が苦難を味わねばならなかった」。

直寿は新田目家の長男。この人も3姉妹に劣らず波乱の生涯を送った。戦後は商社マンとしてインドネシアで過ごし、帰国間際に路上強盗に遭って刺殺される。

暮鳥の生きた時代を仔細に眺めれば、このお隣の〈新田目家の人々〉も「大正ロマン・昭和モダン」の一典型として視野に入ってくる。いや、日本における左翼思想の台頭期、その中枢と深くかかわって生きた人間たちとして独自に検討されていい存在だ。

暮鳥といい、お隣さん(新田目家)の子供たちといい、奇しき因縁の中で記録が残された。いや、残るべくして残った。そんな思いを強くする。

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