2010年3月19日金曜日

磯貝弥の墓


山村暮鳥は大正元(1912)年9月、日本聖公会平講義所の伝道師として平町にやって来た。磐城平時代は同7年1月、水戸へ転任するまで5年3カ月に及ぶ。この間に結婚をし、詩集『三人の処女』『聖三稜玻璃』、随筆集『小さき穀倉より』を出版した。文芸雑誌「風景」も出した。文学的には暮鳥が最も高揚していた時期に当たる。

「風景」に参加した地元の文学青年に磯貝弥(わたる)がいる。大正3年5月1日発行の創刊号から作品を寄せている。目次に名前はないが、〈宝玉集〉中「その九」に登場する。作品は「『泣けなけ、たんと泣け、もつと泣け』酒は山吹いろに澄みけり」。玉石でいえば石。当時、18歳くらいではしようがあるまい。

6月号(推定)には「小曲」、8月号には「五月」を、最後の11月号には「夕空に」と題する次の詩を寄稿した。全体に感傷性の強い小品だが、最終行に個性の片鱗が感じられる。

夕空に
えんとつ、
煙かすかに
かなしみ極まり
なみだ燦爛、
身に沁みつ、
かしこに秋ぞ甦る。

磯貝弥は大正8(1919)年8月初旬、肺結核のために夭折する。訃報に接した暮鳥は深く悲しむ。暮鳥は弥を最も期待していたのだった。

去年の春分の日、カミサンの実家の墓参りに出かけたら、ある寺で知人とばったり会った。「磯貝弥は大叔父に当たる」という女性で、弥の話をすると墓を教えてくれた。法名は「乗雲院諦道静観清居士」。没年月日は「大正八年旧七月十日」、享年は「二十五才」とあった=写真

初めて磯貝弥を調べる手がかりを得られた思いがしたが、資料(遺品)は「病気が病気だったから、弥の母親が全部燃やしてしまった」という。大正8年の旧7月10日は、太陽暦では8月5日。墓誌名をアップした写真に触発されて検索したら、その日が分かった。享年も数えに違いない。満24歳なら、生まれは明治28(1895)年ということになる。

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