2010年5月31日月曜日

ホオノキの花咲く


夏井川渓谷(いわき市小川町)はすっかり青葉に覆われた。一週間前までは至る所で輝いていた薄紫色のフジの花も色褪せてきた。ミズキの白い花も影を潜めた。いよいよ「青葉茂れる季節か」と思ったら、はるか中腹に白い点々が見える。ホオノキの花だ。無量庵の真向かい、見上げる高さにその高木はある。

谷筋にもホオノキは生えている。林内の道を歩いていると、ホオノキの葉や、松ぼっくり状の袋果が落ちているので分かる。花は葉の上につくから、真下からは見えない。長ひょろい葉が輪っか状に空を遮っているだけだ。

幼樹はそこかしこにある。葉はつけても花を咲かせる力はない。下からではなく、上から見たい大型の白い花だ。山道の途中、谷筋にあればその位置で花を見ることができる。しかし、夏井川渓谷には希望を満たす場所はない。

きのう(5月30日)早朝、籠場の滝のすぐ上流、岸辺でこの花を見た。道に沿って細長く続いていた杉林が伐採され、駐車場になった。それで対岸がまるごと見える。そのなかにホオノキの高木もあった。花が咲いていた=写真。花の全体がなんとなく分かる。これまでで一番、至近距離から花を見た。

よく見れば、ポツリ、ポツリとホオノキがある。花が咲いているので分かる。しかし、やはり遠い。20~30メートルは離れているか。目の前で見れば、わがてのひらをはみ出すほどの大ぶりな花のかたちと香りを体験できるのに――と、毎年思うのだが、問屋はそう簡単には卸してくれない。

2010年5月30日日曜日

石垣


カミサンの幼なじみの家に行った。いわき市平の中心部、いわき駅の西方、崖の上に平一小がある。東に庭があり、2階から平の中心市街地が一望できる。庭にイトヒバがある。樹齢240年だという。江戸時代には家老の茶室があった、ともいう。

平一小校舎改築工事に先立ち、いわき市教委が発掘調査をした。ざっと5年前のことだ。その結果が『平城跡――中・近世城館跡の調査』として報告されている。

報告書にある「磐城平城郭内外図」(寛政元=1789=年)は南方からの俯瞰図、それよりさらに140年余前の正保城絵図「磐城平城」=いわき地域学會機関誌「潮流」第11報(昭和61年)掲載=は平面図だ。それらによれば、カミサンの友達の家はかつての磐城平城内の一角(侍屋敷)にある。道の北側は濠、今の国道399号だろう。

240年のイトヒバがある、家老の茶室があった――。となれば、想像力は江戸時代へと一気にはばたく。坂の途中だから、敷地の二方は石垣=写真=で土留めがなされている。この石垣、もしかしたら江戸時代のものではないか。そうだとしたら、文化財にならないか。そう考えるのだがどうだろう。

この何十年という間、わきの坂道を数え切れないほど行き来してきた。通り過ぎるだけだった。たまたま途中の家に上がったら、磐城平城の内部という視点が加わった。石垣がその当時のものだとしたら、楽しい。

2010年5月29日土曜日

工事再開


散歩コースの夏井川で護岸整備工事と土砂除去工事が再開された。

護岸工事はいつも歩く左岸堤防の先、上流のいわき市平中神谷地内で行われている。川の流れからいえば左岸、大きく右に蛇行するところだ。前年度はその下流部で工事が行われた。今年度はその続きの上流部を整備する。

土砂除去工事は前年度、向かいの右岸で行われた。半分スパッと切られたように下流部は土砂が取り除かれた。上流部は土砂が厚く堆積し、ヤブが広がり、誰かの畑が残っている。今年度はそこをやるのだろう。

コンクリートのブロックをがっちりはめていく護岸工事、すなわち土建業と違って、対岸の土砂除去工事は林業的だ。ヤブを払い、次に岸辺のヤナギ類を伐採し、同時に竹林を刈り払う。この何日かの間に、対岸の様子がガラリと変わった=写真。見通しがよくなった。

ざっと20年前だったか。やはり、同じように工事が行われた記憶がある。夏井川が川幅の広い「大河」になった。それが、河川敷に草が生え、木が生えて、徐々に土砂が堆積し、ヤナギが岸辺に繁茂して川幅が狭まった。上流左岸・蛇行部の堤防は逆にえぐられるようになった。

ということは、今度の改修工事と土砂除去工事はセットなのだと考えると分かりやすい。夏井川は、ここでは20年くらいの周期で土砂除去工事が行われる、とみていたほうがいいのかもしれない。としても、護岸までそうでは困るが。

2010年5月28日金曜日

バスターミナル


常磐湯本温泉で会合があり、電車に乗るためにバスで出かけた。最寄りの駅はいわき駅だ。ペデストリアンデッキ(かさ上げ広場)の下、南口駅前広場にあるバスターミナル=写真=で降りた。帰りは、バスターミナルとは反対側のタクシー乗り場に足を運んだ。3月下旬に同広場の供用が開始されてから、初めて両方を利用した。

広場ができるまでは、目の前の再開発ビル「ラトブ」前がバスの終点だった。ラトブ内の総合図書館に行くには至極便利だった。降りたら、そのままラトブの中に入ればよかったのだから。

駅前広場が完成してからは、バスは駅横づけだ。駅利用者には便利になった。駅は橋上化されている。南に展開する街に用事がある人は、駅へ行く人同様、2階直行のエレベーターか、階段か、エスカレーターかでペデストリアンデッキに出なくてはならない。

私がバスを降りるとすぐ別の路線バスが入って来て、学生をはきだしだ。さっと来て、さっと行く。随分効率的、機能的になったものだ。

駅前大通りにバスが駐停車していたころは、確かに交通の支障にはなった。それが、じかに駅前のバスターミナルというかたちで整理されてみると、車は車、人は人となり、新たな便利と不便が生まれた。その仕組みに慣れるまでには少し時間がかかるのだろう。

ここへは観光バスは乗り入れができないらしい。4月下旬に観光バスをチャーターして郡山市へ出かけた。帰りの段になっていわき駅前で降りたい人が出た。駅へ、つまりバスターミナルへ――。「入れないんです」と言われた。列車と組み合わせた市内観光はできないわけだ。ニーズもないのか。腑に落ちなかった。

2010年5月27日木曜日

生け垣にすむ虫たち


わが家の生け垣はマサキが中心。奥にも家があるので、隣家との間には車が出入りできるスペース(私道)がある。

この時期は毎朝、生け垣をチェックする。マサキの葉を食害するミノウスバの幼虫を見つけ次第、除去するためだ。ミノウスバは蛾の一種。晩秋、成虫がマサキの枝に卵を産みつける。新芽が吹くころ孵化し、若葉を食べる。葉を食べつくすこともある。去年が、これに近かった。マユミの葉もやられた。幼虫が移動して隣家の塀にへばりつき、苦情が出た。

ミノウスバの幼虫退治は大型連休に始まった。4月の天候不順が逆に幸いしてか、孵化が遅れ、幼虫はまだかたまって生活していた。これがバラバラになり、木全体に散開すると除去作戦は容易でなくなる。そうなる前に集団でいるところを除去する。

取り残しは必ずある。数十匹程度ならどこが食害されているのか、外見上は分からない。葉の間につくられたクモの巣にフンが落ちていないか、幼虫が葉裏にいないか、歯磨きをしながら目を凝らす。

ときには棒を持ち出して枝をたたく。ミノウスバの幼虫がいれば、糸を出して降りてくる。同じように別の蛾の幼虫も降りてくる。その糸を手繰って幼虫を地面に落とす。このとき、クモも糸を出して降りてくる。カタツムリ=写真=も落下する。

クモは放っておけば元の場所に戻る。カタツムリは近くのブロック塀の上にのせておく。時間がたてばどこかに移動している。ワカバグモ、クサグモ、ネコハエトリ……。虫ばかりでなく、クモ類も結構いる。これにやがてはカマキリの幼虫が加わる。アブラムシと、それを捕食するテントウムシも。

これら樹上生活者のほかに、木の花に誘われて蝶たちがやって来る。なかでも目を引くのがアオスジアゲハだ。この美麗な蝶も間もなく庭に現れるに違いない。

2010年5月26日水曜日

ミミズの穴


無量庵(夏井川渓谷)の庭で体長30センチはあろうかという大ミミズに遭遇した。胴回りはボールペンをしのぐ太さだ。同程度の太さで20センチ前後のミミズはときどき畑で見かける。が、ここまで立派なミミズにはそうお目にかかれない。

庭にはノシバと名前の分からない草が生えている。ところどころコケが覆っている。そのノシバの上をくねくね動いていた。曇天、昼前の11時過ぎ。尾根には霧がかっている。日光を浴びて干からびるような危険性はないとしても、日中、地表へ這い出してこなくてはならないようなわけがあったのだろうか。

どこへ向かうのだろう。畑仕事(ネギ苗定植)も一段落ついたので、大ミミズの行方を観察することにした。大将は頭を振りふり、ノシバの間をゆっくり前進する。なにか土中へ入り込むためのすき間を探っている感じ。あっちへ首を伸ばし、こっちをちょんちょん探り、また前を目指す。

と、コケの前で止まった。ノシバとコケの間にすき間があるのを感じ取ったらしい。頭を突っ込むと、ぐいとコケを持ち上げた。さあ、それからは潜入するためのジグザグが続いた。

10分たち、20分たっても、体はまだ10センチ近く地表に出ている。潜入速度は「1分1センチ」といったところか。さらに10分たち、もう少しで尾が消えるという段になって、ハッとなった。〈写真を撮らなくては〉。慌ててコケの下に潜り込む寸前の尾を撮った=写真

昔、新聞に「みみずのつぶやき」という小欄を持っていた。それで、ミミズにはいささか愛着がある。ミミズはこうして穴を探り、入り込むのか――。

無量庵ではいつも何か発見がある。

2010年5月25日火曜日

ネギトロ


夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵に泊まるときは、平・平窪のスーパーで酒の肴を買う。このごろはマグロの切り落としとナッツ、カップ入りの味噌汁が定番だ。22日(土曜日)は切り落としの隣に並んだ「ネギトロ」用のマグロのたたきも求めた。切り落としも、たたきも1パック350円と安い。

無量庵の畑には三春ネギ苗が売るほどある。マグロのたたきにこれを刻んで交ぜれば、自前のネギトロになる。切り落としだけでなく、ネギトロも酒の肴にいい。余りをご飯にのせればネギトロ丼だ。うまかった。

畑に溝を掘り、ネギ苗を定植した。苗床の割にまいた種が多かったため、密植状態になった。ちょうど若い男性がファッションとして、ヘアを乱雑につっ立てたような感じ。根をばらして苗をより分けたら、捨てるしかない未熟な苗が山になった。

定植できる苗は思ったより少なく、溝が一列余った。どうするか。ひらめいたのがネギトロだ。未熟なネギ苗を仮植えしておけば、ネギトロに使える。定植したネギ苗が成長するまでのつなぎ(単なる葉ネギとして)にもなる。

ネギ苗は加熱したら、味もそっけもない。未熟だから当然だ。味噌汁、炒り卵も香りや味の点でピンとこない。刻んで納豆に交ぜる。生のままなら、まだかすかな香りがし、やわらかい歯ざわりもある。これが、ネギトロにも大切だ。土曜日(5月22日)に初めて試みて納得した。

定植したネギ苗は上掲写真の奥と、ネギ坊主をはさんだ手前にある。捨てるしかない苗が、さらにその手前に散乱してある。その一部をネギトロ用に仮植えした。

種の量からして苗床を3倍にすればよかった、しかし、定植できるネギ苗が3倍になれば、無量庵の畑では間に合わない。勢い未熟なネギ苗は畑のこやしにするしかなくなる。いつも感じる矛盾だ。ネギトロ用の仮植えはそんな気持ちを少しは晴らしてくれそうだ。

2010年5月24日月曜日

ネギ苗定植


三春ネギの苗が育ち、定植する時期がきた。

日曜日(5月23日)は雨になりそうだというので、土曜日の午後、夏井川渓谷の無量庵へ出かけた。ネギ苗を植える溝を掘り、苗床を掘り起こして苗を選別しておけば、翌日、朝飯前に定植できるだろう。

そうして作業は二日がかり、いや二日に分けてやった。それがよかった。クワとスコップの前日と、かがんでの作業の翌日と――。いずれも腰にはりがきた。わが家に帰ってすぐ膏薬を張った。一日がかりでは体のあちこちに筋肉痛があらわれただろう。

土曜日は午後3時に無量庵へ着いた。すぐ溝づくりを始め、終わってネギ苗を選別した。3分の2は育ちが悪かった。それは捨てるしかない。作業は6時までかかった。あとは泊まって晩酌をするだけ。途中のスーパーで買ったマグロの切り落としなどでのどを潤し、胃袋を満たして9時には寝た。

三春ネギの種は秋にまく。去年は集落(牛小川)のKさんからもらったのと、自家採種したのと合わせて、結構多くの種を確保できた。苗床を二つにした。厳冬だった。春になっても天候不順が続いた。ネギ苗はかじかんでいて、丈も短い。追肥を始めると同時に、5月になると天気が持ち直し、ぐんぐん苗が成長した。

菜園そのものは小さい。とはいえ、私の主たる目的は三春ネギの採種・栽培・消費のサイクルを実践しながら、そのルーツを探ることだ。3~4メートルほどの溝を東西に5つ、南北に2つつくっておいたところに、日曜朝4時半に起きてすきまなく苗を植えた=写真。これにも3時間はかかった。

農家にとっては田植えがそうであるように、私にとっては三春ネギの苗植えが家庭菜園の一年の大きな節目になる。

定植で一段落はついた。が、どうしても育ちの悪い3分の2が気になる。土に返す前になにか方策はないものか。定植した苗が育って秋に食べられるようになるまで、つなぎとしてなにか料理に使えないか、少しでも口に入れる方法がないか――。あった。ネギトロだ。これについては後日書くこととしたい。

2010年5月23日日曜日

植樹祭へ


第43回いわき市植樹祭がきのう(5月22日)、平下高久の新舞子ハイツグラウンドで開かれた。小名浜海洋少年団と地元高久小の児童、県・市議、林野行政関係者など約250人が参加した。

「水源保全協力者」のカミサンに毎年、案内状が来る。用事がなければ参加するので、私が車で送っていく。今年で3年連続の運転手役だ。

おととしは川前町・いわきの里鬼ケ城、去年は遠野町・遠野オートキャンプ場と、いずれも自宅から車で1時間弱のところで開かれた。これに対して新舞子ハイツは自宅からざっと10分強の近さ。ゆっくり出かけることができた。

ハイツの南には滑津川、東には新舞子海岸の黒松林、そしてグラウンドの周囲、北と西には水田が広がる。その水田に面したハイツ敷地の土手に市の木クロマツ2本、マテバシイとトベラ各250本が植えられた=写真

トベラは海岸林に普通に生える。マテバシイもトベラ同様、照葉樹だ。いわき地方の平野部では、その土地本来の潜在自然植生である「ふるさとの木」に当たる。これで水田との間に緑の壁をつくろうというわけだ。

まあしかし、山(鬼ケ城)や入遠野川の水辺(オートキャンプ場)に比べると、グラウンドという人工的な環境だ。植樹祭の場所としては少しばかり「ん?」がつく。

グラウンドでは野球もソフトも行われる。西側の水田に軟式野球のボールが落ちていた。このボールが水田に飛び込むのを防ぐ緩衝帯も兼ねるか。グラウンド周辺の緑を増やす――大義名分は名分として、そういう役目もある、ということで自分を納得させた。

2010年5月22日土曜日

小満


きのう(5月21日)の「小満」は、わが家では節目の一日となった。冬以降、茶の間のこたつ(現在はスイッチを切っているが)でしていた調べものを、2階でやるようにした。子どもの机がある。カミサンは「えらい」などとはやして、茶の間から夫の姿が消えたのを喜んだ。それほど気温が上昇した。

早朝5時半ごろ、外へ出ると深い霧に包まれていた。雨上がり、水滴がまだ空中に漂っている気配がする。散歩をするかどうかためらっているうちに空が明るくなった。1時間もすると、それこそ“霧消”が始まった。

夏井川の堤防へ出るころには太陽が顔をのぞかせ、青空が広がり、丘陵をオブラート状に包んでいた霧が見る見るうちに流れて消えていく。対岸の山崎、小高い丘の中腹にある專称寺の本堂や鐘楼が霧に隠れたり、見えたりしたあと=写真、すっかり若葉の風景がよみがえった。

日中は2階にいても気温の高いのが分かった。長袖では熱がこもり、汗が出る一歩手前の状態だ。窓を開ける。風の通りをよくすると、少し熱がひいた。一時、街へ出かけ、昼食と一服をかねて横になったほかは、夕方まで机に向かい続けた。

きのうの小名浜での最高気温は朝9時直前の23.0度。7月上旬並みの暑さだったとか。夕方の散歩で初めて汗をかいた。雄のキジもヨシ原からサイクリングロードに出て、母衣(ほろ)打ちをしながらけたたましくさえずっていた。それが、堤防の天端から見えた。

5月は、4月の日照不足と低温・多湿をカバーするかのように、さわやかな日が続いている。きょうも暑くなりそうだ。

2010年5月21日金曜日

チンダルレの花


朝鮮半島に、夏井川渓谷(いわき市小川町)と同じような環境に生育するツツジがある、と知ったのは数年前。いわき市久之浜町のまちづくり団体が年2回発行(現在は休刊)している会報「久之浜通信」第19号で、だった。

夏井川渓谷に春を告げる花はアカヤシオ(岩ツツジ)=写真(4月11日撮影)。その渓谷と似たような韓国の山あいで、いわきの人間が、まだ芽吹く前の岩と松の山肌を染めるピンクの花に出合った。その体験を書いている。聞けば「チンダルレ」(和名・カラムラサキツツジ)だという。「チンダルレ」の言葉が頭に刻み込まれた。

先日、北朝鮮拉致被害者で翻訳家の蓮池薫さんの手記『半島へふたたび』を読んでいたら、「ツツジの花を思う人びと」の項目にこのチンダルレの花が出てきた。

「朝鮮半島や中国東北部では見られるが、日本には自生しない。春になると、ほかのどの花よりも早く、赤みがかったピンク色の花を山肌に咲かせる。だから北では『春を最初に知らせる花』と呼ばれ、『民族に解放の春をもたらした革命軍、抗日遊撃隊の象徴』としても、詩歌に盛り込まれている」

「民族解放の春」の象徴はともかく、チンダルレはやせ地や岩の割れ目のような過酷な環境のなかで育つ。アカヤシオも土壌の少ない岩場に根を張る。全く似たような、過酷な環境に生育するツツジだ。

金素月(キム・ソウォル=1902~34年)という天才詩人がいて、「チンダルレの花」という詩が代表作の一つだということも、『半島へふたたび』で知った。南のみならず、北でも「学校の教科書に載せ、生徒たちに詠ませている」。「春を告げる花」のツツジであることには変わりがないが、その花にこめられた思いは、向こうと日本とでは大きく異なる。

2010年5月20日木曜日

緑の酸素


夏井川渓谷(いわき市小川町)の天然林はすっかり若葉に覆われた。無量庵のある小集落・牛小川が濃淡さまざまな緑のグラデーションに包まれる。夏井川渓谷のみならず、緑が一番美しい季節になった。

緑のドームの中を歩く=写真。若葉はまだ緑が薄い。光を透過する。その間接光線が優しく淡くやわらかい感じを与える。落葉樹中心の天然林といえども、夏になれば葉の緑は濃くなり、空を遮って、林内はやや暗くなる。そうなる前の、胸が躍るような明るさ。歩くだけで気持ちがよくなる。

葉が落ちて見通しのよくなる冬の天然林は、それはそれで鋭く凛としている。若葉が頭上を覆った今は、それこそ窒息しそうなくらいに酸素が充満している。この時期はいつも「緑の酸素」という言葉が頭をよぎる。

阿武隈の山国で生まれ育った。雑木林が「第二の学校」だった。雑木林の中につくられた林道は「川」、頭上の青葉は「緑の藻」。その下を、つまり林道を魚が行き来する。蝶ではなく、魚が林道を行き来する――そんな幻想を今も持ち続けている。

絵はがきを見るように風景を見る行楽客の意識ではなく、そこにある自然に包まれて暮らす生活者の意識で風景を見るとき、自分の体が風景の一部になっているのを知る。

2010年5月19日水曜日

どこの小学校を出たの


今はない開業医のドクターの所蔵本を夫人からいただくことがある。少しでも国際協力NGO(この場合は「シャプラニール」)のためになればと、片付けをしたときに本を入れた段ボール箱が十数個は出る。それを換金し、NGOに送る。

読みたいものはどうぞ手元において――と言われている。社会評論家丸岡秀子さん(1903~90年)の『いのち、韻(ひびき)あり』(岩波書店)はそうして自分の書棚におさまった。

なかにこんな一節がある。「もし学歴を聞きたいなら、あなたの小学校はどこでした、どんなでした、どんな先生がいましたかって聞くほうが、ほんとうだと思うのですよ。小学校を出ないなんて、まったくないんですもの」

わが師・中柴光泰先生も生前、同じようなことを言っていた。「だれでも小学校は出ている。大学や高校ではなく、どこの小学校を出たのかと聞くのがいい」。それならだれでも答えられる。小学校=写真=の思い出は幼稚園よりも鮮明で、中学校よりも楽しかった――。わが子どもたちならずとも、そう思っている人が多いのではないか。

丸岡さんは政治家井出一太郎、作家井出孫六の姉。しかし、男きょうだいとは違った、厳しい生き方を余儀なくされた。農村婦人問題から始めて、女性の地位向上に尽力した。いわきの山里から農業・農村問題に異議を申し立て続けた作家草野比佐男さんが、詩人寺沢正さんとともに「われらが師」と尊敬するほどの人だった。

その草野さんが中柴先生についてこう言っている。「私は、先生を便宜上の敬称で先生と呼んでいるのではない。先生には、学問的知識を授けられるばかりではなく、生き方そのものに教訓を与えられる点がすくなくない」「先生の学校の生徒ではなかったために、真の生徒になる倖せに恵まれた」

中柴先生は、先生も生徒もない、みんな「学びの友」という言い方をよくした。「『卒業した小学校はどこ』と聞くのがいい」もその精神から発していた。学識の深さのみならず、人間的な優しさに「生徒」は引かれた。

2010年5月18日火曜日

三日月と金星


夕方6時になると体が晩酌タイムを知らせる。飲み始めればデンと座ったまま動かない。ご飯でしめたあとはたいがいパソコンを開く。ふらふら近所のスナックへさまよいだすようなことはとんとなくなった。

日曜日(5月16日)の宵は、晩酌タイムをあとにずらして行政区の役員会へ出かけた。終わったのが8時ちょっと前。近所の集会所から帰る途中、西の夜空に三日月が見えた。三日月のすぐ上に明るく輝く星がある。いつもこうだったかなと首をかしげながらも、星と三日月の絶妙な組み合わせに見ほれた。

2階のテラスからカメラ撮影を試みたが、三脚なしでは何度シャッターを押しても手ブレをおこす。写真は断念した。星は金星だろうか。ちょうど星が三日月を釣り上げているような、あるいは逆に三日月からまっすぐつるが伸びて星の花が開いたような印象を受けた。

翌朝の新聞(福島民報)と夕刊(いわき民報)=写真=で金星と月の大接近だったことを知る。特別の天体ショーだったのだ。

役員会に先立ち、6時半からPTAや地区体育協会の役員さんたちを加えた神谷地区球技大会の打ち合わせ会が開かれた。前日には小学校の運動会が開かれた。その日に打ち合わせ会というのでは、PTAの人たちに迷惑をかける。そういう配慮から日曜日の開催になったか。

おかげで役員会の終わる時間に大接近の時間がぴたりと重なった。僥倖(ぎょうこう)というほかない。

2010年5月17日月曜日

遠方より来る


夏井川渓谷の無量庵で栽培している三春ネギの苗=写真=が鉛筆大の太さにまで育ってきた。いよいよ畑に溝を掘り、定植する時期がきた。日曜日(5月16日)の朝9時すぎ、畑に石灰をまき、すき込み終えてちょうど一服しようとしたとき、埼玉県に住む同級生がやって来た。

彼のふるさとはいわき市小川町。無量庵は、東北道で来ると郡山から折れて小川町の中心部へ向かう、その途中にある。前にも寄ったが留守だったという。何年か前、無量庵の近くの旅館で同級会を開いた。翌日は無量庵に場所を移しておしゃべりを続けた。そのとき以来の対面だ。

次男坊と一緒だった。「漫画家?」「それは長男」。お茶くらいは飲んでいくものだと部屋に上げたら、あとから一人、男性が現れた。中学時代の同級生だという。車がついて来ないので引き返してきたのだ。ちょっとの時間だったが互いの消息を知らせ合った。北欧へ同級生を見舞いに行ったときのことも聞かれた。

「毎日、ブログを見てるよ。硬くて難しいときもあるが、風の動きだとか自然の様子がよく分かる」。北欧旅行の話も、松島でのミニ同級会の話もそれですんなり伝わった。

大手ゼネコンに長く勤め、今は子会社にいる。そろそろリタイアを考えなくては、という心境にあるらしい。ふるさとへ足を向けたのは中学時代の同級生から山菜採りの招きを受けたためでもあったか。

帰る段になって彼の車を見たら、フォード車製の大型四駆ではないか。「オレはパジェロに乗っていたが、燃費が5キロちょっとだったから、会社を辞めたときフィットに替えた。燃費は?」と聞くと、「4キロ。ほら、オレたちは貧乏に育ったから分かっぺ、外車はあこがれ」。

それで休日(だけだろう?)は外車の大型四駆を走らせるというわけだ。リタイアしても“ガソリン食い虫”に乗り続けるのだろうか。埼玉からいわきへ来るだけでも相当ガソリンを消費しただろうにと、人ごとながら心配した。

2010年5月16日日曜日

壺が裂けた


夏井川渓谷の無量庵は移築後40年余になるだろうか。義父が平の街中にあった家を譲り受け、解体して復元した。屋根瓦が古くなって表面のコーティングが消え、放置すれば雨漏りが始まるので何年か前に瓦をふき替えた。雨樋も一緒につくりかえた。

その雨樋がきちんと雨を受け止めてくれない。2カ所で濡れ縁に雨がこぼれる。板は腐食防止をしてあるとはいっても、じかに雨だれがはねるのは問題だ。雨だれ受けを置いた。細長いポリバケツと壺で、強風対策に重しを入れてある。

ポリバケツの方はしょっちゅう満ぱいになる。ポリバケツをそのまま傾ければ水は庭にまかれて土にしみ込む。壺はどうか。中の重しは砂利。ここへの雨だれはそう多くない。先日見たら、ようやく壺が水でいっぱいになっていた。

この水も地面にまいてやらなくては――。壺の口を持って傾けようとしたら、あれっ、底は抜けなかったが、斜めに二つに裂けた=写真。中の砂利が重すぎたのだろう。

壺は素焼きに近い。茶色っぽい。厚さも5ミリほどだ。カミサンに聞くと、仕事で知り合った人が引っ越す際、私が譲り受けたものの一つだった。忘れていた。実用というよりは見た目の形を重視した「飾り壺」だったのか。

裂けたからといって捨てる必要はない。雨だれのはね返りを吸収できればいいのだ。かえって壺の裂け目からたまった水がしみだす。壺の中はいつもからっぽ、ということになる。にしても、見事に裂けたものだ。

2010年5月15日土曜日

毛虫横断


毎年今ごろになるとみられる現象だ。夏井川の堤防天端(てんぱ)、アスファルト路面を赤黒い毛虫=写真=がそそくさと横断する。河川敷のサイクリングロードでも同じように移動する毛虫を見かける。

堤防の天端は車の通り道でもある。毛虫に気づいてハンドルを切るドライバーがいる。そのまま通り過ぎるドライバーがいる。毛虫は運が悪いと、体内から緑色の消化物を放出して果てる。

何という名前の毛虫だろう。気になるのでネットで調べたら、同じような疑問に支配されて検索をかけた人がいっぱいいる。「クマケムシ」と俗称されるシロヒトリ(蛾)の幼虫と分かった。えさの食草を探して道路を横断するのだという。

キアゲハの幼虫はパセリやニンジンなどの葉を、ナミアゲハの幼虫はミカンやサンショウなどの葉を――と食草は限定的だが、シロヒトリの幼虫は雑食性だ。スイバやイタドリ、タンポポ、オオバコなどが食草だという。堤防に普通に生えている草たちだ。

小学校に上がる前だったか、似たような色合いの毛虫をてのひらにのせたら、毒針毛にやられた。しばらくてのひらが痛がゆかった。その経験があるので、毛虫には素手では立ち向かわない。シロヒトリの幼虫も、見るからに鋭い針毛を背負っている。毒は持っていない。とはいっても、さわらぬ神にたたりなし、だ。

人間が住む方、堤防の外側の土手で伸び始めた草を、近くの住民が刈る。その作業が始まった。「クマケムシ」の移動には草刈りも関係しているだろう。

夏井川の堤防という身近な自然を構成する生き物の一員の名前が分かったことを、喜びとしよう。名前が分かれば愛着がわく。虫に食べられる草にも気持ちが傾く。「知る」とはそういうことなのだろう。

2010年5月14日金曜日

寒風吹く


野口雨情の童謡に「葱坊主」という作品がある。

びユーびユー 風が
山から
吹いた

昨日も 今日も
畑に
吹いた

畑の中の
葱坊主
寒いな

ネギ坊主が形成されるのは春。無量庵(夏井川渓谷)の畑にある三春ネギも、今、花茎がぐんぐん伸び、太く硬く大きくなってつぼみが膨らんできた。とはいえ、まだ薄膜をかぶっていて花をつけるところまではいっていない。次にいのちをつなぐためにはまっすぐに立って花をつけ、虫を誘わなくてはならないのだ。

最初、雨情の「葱坊主」を読んだとき、おやっと思った。ネギ坊主ができるころにはもう初夏だ、風がびゅうびゅう吹いても寒いなんてことはないだろう――。

きのう(5月13日)朝、無量庵へ出かけた。風が吹き始めていた。畑でコカブの間引きをしようとしたら、びゅうびゅう吹きつけてくる。寒くてじっとしていられない。あわてて冬の上着を引っ張り出した。庭木が強風にもまれ、枝がしなっていた=写真。西高東低の冬型の気圧配置になり、上空に流れ込んだ寒気が「天空の川」となって襲ってきたのだ。

雨情は「葱と云ふものは野菜の一つで、春になると花が咲きます。それが即ち葱坊主で、また葱の種子でもあります。などと云ってしまったのでは一も二もありません」と先制パンチをくらわせる。科学的な目がかえって情緒を損なわせるということだろう。自家採種の欲だけで雨情の「葱坊主」を読み、最終行の「寒いな」が解せなかった。

続けて、雨情はこういう。「これに反して、かうした一篇の童謡となったものを児童に与へる時、児童は葱坊主と一所になって、山からびユー びユーと吹いて来る寒い風を身に感じそして葱坊主の悲しみを共に悲しむことが出来ます」。童心に添って作品を味わえということだが、よけいな知識を持った大人は、それが実践できない。

5月に葱坊主のそばで畑仕事をして寒風に吹かれた、寒かった――。雨情の「葱坊主」がそれで真実だと実感した。作品世界をまるごと受け止める童心ではなく、分析しすぎて童心からはるかに遠く離れていた。乾いた童心に水をやらねばいけないか。

2010年5月13日木曜日

俳誌「浜通り」


いわき市に俳句結社を超えた俳人の集まり、「浜通り俳句協会」(結城良一会長ほか22人)がある。定期的に俳誌「浜通り」を発行している。発足は昭和44(1969)年。40年以上の歴史を誇る。2年前には俳誌が「いわき民報ふるさと出版文化賞」の優秀賞を受賞した。

会長の結城さんとは38年前、福島市への列車とバスの旅で知り合った。目的地が同じだった。私はまだ独身で23歳。結城さんも30代だったか。以来、何かあるときには連絡し合う間柄となった。年賀状も欠かさない。

俳誌「浜通り」は、現役のころは会社に届いたのを愛読していた。ありがたいことに、会社を辞めたあとは自宅に「浜通り」が届くようになった。同時に、「何か書いてくれ」という一筆箋も入っていた。

しばらく逡巡し、再度の要請に「書きましょう」となってからも、かなりの時間がたった。待つにも限度がある。堪忍袋の緒も切れるだろう――。いよいよ追い詰められたところでひらめいた。いわきの詩風土が花開いた大正~昭和期の「文献散歩」ならできそうだ。

というわけで、遅まきながら第136号=写真=から連載を始めた。題して「いわきの大正ロマン・昭和モダン――書物の森をめぐる旅」。1回目は「暮鳥とお隣さん」に絞り、この欄(1月28日付)で紹介したことを再構成して出稿した。それならなんとか連載できる、と踏んでのことである。ネットから紙媒体への逆流、ということもしてみたかった。

次号(137号)は6月10日、138号は9月10日――と一筆箋にあった。136号の発行日が月初めになっていることから、原稿締め切り日だろう。「浜通り」が届いたら間、髪をいれずに原稿を送る。2回目の原稿もそうして郵送した。俳句の門外漢だ、なんだかワンダーランドに船出したような気分を味わっている。

2010年5月12日水曜日

ホットライン


知人の娘さんが野鳥に興味を持っている。自宅はいわきの「平城跡」に連なる丘陵(住宅地)の北西、坂の途中にある。「寺町」の近くといっていい。周囲の緑は濃い。

何年か前、自宅近くでやたらとさえずり続ける鳥について質問を受けた。「かごぬけ鳥のガビチョウではないか」。そう答えた記憶がある。今やいわきのあちこちでガビチョウのさえずりが聞かれる。

彼女は母親と一緒に、アリオス(いわき芸術文化交流館)の近くで花屋を始めた。先日、背中が青くて腹が赤い鳥について質問を受けた。「アリオスの近くにいた? イソヒヨドリじゃないかな」。イソヒヨドリ=写真=は海岸にすむ鳥とされているが、最近は内陸部の河川敷や街中でも見られる。

現に、私も平市街の本町通り(東部)でイソヒヨドリを目撃した。朝晩、散歩をしている夏井川沿いの工場付近でも見かける。先週は雌と思われる暗黒褐色の個体が工場の屋根に消えるのを見た。工場を海岸の崖とみなして屋根のすき間にでも営巣しているのだろうか。

後日、店を訪ねたら、「この前の鳥はやっぱりイソヒヨドリでした。インターネットで確かめました」という。母親が割って入り、「これからはすぐ電話すればいい」。娘さんが私のケータイに自分の名前と電話番号を打ち込んでくれた。私の電話番号も彼女のケータイに登録された。

野鳥専用のホットラインである。「オレからはかけないからね」と、カミサンにも母親にも聞こえる声で告げる。

きのう(5月11日)の夕方、朝と逆のコースで散歩をしていると、イソヒヨドリがふわりと飛んで来て工場の屋根に止まった。雌だ。尾を振っている。モズの尾の振り方とは違う。彼女ならこんなときにホットラインを鳴らすのだなと思った。

2010年5月11日火曜日

区内箇所検分


わが住む地域は、行政区としては「神谷南区」に当たる。今年3月下旬の区の総会で欠員となっていた役員を仰せつかった。“会社人間”を卒業したら“社会人間”として地域に目を向けるべき――。現役のころはそのような論を展開してきたから、「役員に」という話を断れば言行不一致になる。それには耐えられない。

というわけで4月以降、区の役員会に出席し、自分が担当する班(隣組)の班長さんと顔を合わせるようになった。

地域のお付き合いは、これまでカミサンが一手に引き受けてきた。区の役員になってからもカミサンの手伝いが欠かせない。よちよち歩きの幼児よろしく、とまどいながらも地域の実情を頭に入れているところだ。

おととい(5月9日)の日曜日朝、区の役員が参加して「区内箇所検分」が行われた。どこからどこまでが「神谷南区」なのか分からなかったので、区長さんらと歩いて実地にその範囲を確かめられたのはよかった。およそ1時間半かかった。

ごみ集積場=写真=と消火栓設置場所を中心に見て回った。要望のあった危険個所、たとえばカーブミラーが必要なところ、幼児の足がすっぽり入るほどすき間の大きい歩道の側溝などもチェックした。

行政への要望・陳情については、以前は取材するだけの立場だった。が、これからは生活者として行政と向き合うことになる。住民の意見・要望を集約し、調整し、しかるべく行政に伝えたり、区で処理したりする、という基本の基本がこの区内箇所検分だと了解した。

住民には見えにくい、こうした役員の活動が地域を支える一端になっている――初めて参加しての実感だ。

2010年5月10日月曜日

下がり藤


いつのころか定かではないが、わが家の庭にミツバアケビとフジが芽を出し、つるを伸ばして存在を主張するようになった。山から採って来たキノコを調べ、不明なものや食不適のキノコをまとめて庭の片隅に捨てたら、かすかな腐葉土に種子がまぎれこんでいたのだろう。

離れ(物置)の雨樋にからみつき、つるを屋根にまで伸ばしたフジは、次々に薄紫の花を咲かせている。ミツバアケビも小さく地味な花をつけた。こちらは意識して見ないと分からない。

アケビはともかく、フジの力を見くびっていた。離れの屋根に達したフジは、去年あたりから次に触れるところを探してつるの先端を空中に漂わせるようになった。直近は母屋のひさしだ。まるでそれが見えるようにつるがひさしに向かっていた。

車の日よけになるからいいか――のんきなおやじは空中の半分まで伸びたつるを見ながら、どう誘導したものかなどと思案した。

それから何日もたたずにフジの花がガクンと垂れ下がり、車の屋根に触れるようになった。見ると、離れの雨樋が花の重みに耐えられずにはずれかかっていた。「下がり藤」どころか「下がりつる」になったのだ。

フジの花はきれいだが、雨樋の破壊が始まったのでは捨ておけない。花見気分を一掃してフジ退治の挙に出た。つるの半分を断ち切り、つるに支えを施して雨樋の負担をなくした=写真

フジは木をからめ殺す。そのために人は山に入るとフジのつるを切った。その花が多くなったのは、持ち主が山の手入れをしなくなったため――と、かつて聞いたことがある。“雨樋壊し”に何のための教訓だったのか、と反省した。

2010年5月9日日曜日

『売 旅館」


夏井川渓谷の一角に「保養センター」と銘打つ建物があった。いや、今もある。昨秋、店じまいをした。道路沿いに「売 旅館」の看板が立っている=写真。半年以上もたつが、看板は外される気配がない。

JR磐越東線江田駅から夏井川渓谷の籠場の滝へ向かう途中、左側にその建物がある。昼に何度かラーメンを食べに行った。それだけのことだが、内部の印象は強烈だった。しゃれた旅館でもなければ、ひなびた旅館でもない。ただただキッチュな空間だった。

旅館であり、食堂であり、銭湯であり、カラオケハウスであり、リサイクルショップであり、といったあんばいだから、ラーメンを食べている脇で風呂上がりの客が昼寝をしている、それがありふれた光景だった。

版画家や画家の作品が安い値段で壁にかかっていた。誰かのコレクションが流れ流れてたどり着いたような印象を受けた。安値のついた柄沢斉のアンデルセンの版画は救出したものの、雪景色を描いた山野辺日出男の油絵は値段の兼ね合いもあって助け出せなかった。彼の作品はまだ壁にかかっているだろうか。

無量庵への行き帰り、「売 旅館」の看板を見るたびに、何か使い道はないものかと思案する。デイケアやショートステイの施設にどうか――人ごとながら、ついつい建物の生かし方に思いがめぐる。幽霊屋敷になってしまっては、行楽客も地元の住民も困る。

2010年5月8日土曜日

「遊びに生きる」とき


島泰三著『孫の力――誰もしたことのない観察の記録』(中公新書)は、サル学者である祖父による孫娘の成長記録だ。本人の記憶のない時代(乳幼児期)にどのようにして心はつくられるのか――いつからか強い興味を抱くようになった著者が、孫娘の誕生とともにサルの観察手法を生かしてヒトの観察を始める。その6年間の記録が基になっている。

中で紹介されている詳細な言動、会話にわが孫の行動を重ね合わせ、ときにうなずいたいり、苦笑したりしながら本を読み進めている。「ひとつの遊びから次の遊びへ、孫娘の遊びは切れ目なく続き、彼女は遊びの中で生きている」。だから「『片づけなさい』と言われるのは、大きなショック、『とてもいやな気持ちになる』」。わが孫も同じだ。

大型連休も手伝って三日連続、孫のお守りをする羽目になった。午後、父親が孫をあずけにやって来る。こちらは仕事を中断して遊びの相手をすることになる。

庭に出て石をひっくり返し、ダンゴムシを探す。卵焼きを催促し、祖父母のどちらかと一緒に卵を割る。遊園地で滑り台=写真=やブランコにのる。田んぼのあぜ道でタンポポの白い綿毛をフーッとやる。まさに遊びに生きている。

それこそ次から次へと興味が移り、かたときもじっとしていない。しかも、走り続けだ。重力とは無関係の軽やかさ。そうか、と思ったものだ。赤ん坊は透明な翼をつけて生まれてくる。走り回れるのはこの天使の翼が残っているからだ、と。

いつの間にかこの天使の翼がなくなって、ヒトは自分の足でとぼとぼと歩かなければならなくなる。そうして歩き続けてきた。孫の軽やかさについていけない祖父母は、自分にも幼児期に天使の翼がついていたに違いないと思うのだが、記憶がない。

『孫の力』は自分の幼年期の記憶を代償する記録だ。孫を観察しながら、自分の幼年期に旅をしているのだ。「かつて孫だったすべての人へ」と帯にあるのはそのためだろう。

島さんはこうも書く。日本人の平均寿命が伸びて、祖父母が孫を見つめる時間が長くなった。逆に言えば「孫に記憶を残す年月は長くなった。祖父母の行動様式に、孫のために活動するという新たな領域が加わってもおかしくない」。かっこいいジイジ・バアバを目指せ――それも新しいセカンドライフの生き方には違いない。

2010年5月7日金曜日

タラボ無事


夏井川渓谷の無量庵にタラノキがある。去年、集落(牛小川)のTさんに苗木を10本もらった。畑の一角に植えたら根づき、鉛筆ほどの太さだった苗木が、人間の親指大、50センチほどの幼樹に生長した。

タラノキはてっぺんに芽を持ち、膨らみ、葉を広げる=写真。根づいて芽吹いた最初の年から摘むのはしのびない。今年は見るだけにして、“口福”を来年に持ち越した。

それ以外の山菜は? 大型連休さなかの5月2日。無量庵周辺にあるコゴミ(クサソテツ)を見に行ったら、影も形もなかった。

晴天続きの大型連休が終わった翌日、つまりきのう(5月6日)。気になってわが家から車を飛ばし、無量庵近辺の山菜をチェックした。畑のタラボは無事だった。コゴミは先端をくるくる巻きながら茎を伸ばしていた。サンショウも、芽吹いて小さな花をつけ始めていた。ミツバは、所によって大きく成長していた。

今年の初物だ。コゴミはてんぷらとおひたしにした。サンショウの若芽、通称「木の芽」は目覚めたばかりのぬか床に入れた。ミツバは、まずは汁の身に。

いずれにしても量は多くない。遠出して袋にいっぱい――欲を出して収穫を競ったときもあったが、今は初物を味わえば十分、そんな気持ちだ。

無量庵通い15年、定点観測を重ねて自制心が働くようになった。それだけ乱獲が進んでいる、ということでもある。平日ながら、道端には山菜採りと思われる車が何台も止まっていた。

2010年5月6日木曜日

ぬか漬け再開


4月下旬まで続いた天候不順がパタリとやんで、5月の声を聞いたとたんに青空が戻ってきた。それが、きのう(5月5日)の大型連休最終日まで続いた。この時期に冬物から夏物へと“衣替え”したのは初めてだ。

平日も日曜日もない身になってからは、大型連休の意味が薄れたが、今年は自分の仕事に集中できた。二日酔いにならずにすんだのだ。朝晩、夏井川の堤防を散歩し、いわき総合図書館へ本を借りに行くほかは、家にこもって資料を読み続けた。合間に二度、夏井川渓谷の無量庵へ出かけた。体を動かすには畑仕事が一番だ。

鳥の世界もにぎやかになった。夏井川の河川敷に夏鳥のオオヨシキリが到着し、盛んにさえずっている。ツバメも巣づくりに大忙しだ=写真。きのう(5月5日)、立夏の夕方はキリッ、キリッという、聞きなれない澄んだ声が上空から降って来た。鋭く細い輪郭、白っぽい色の2羽が旋回している――コアジサシ!と直感したが、自信はない。

例年だと、大型連休を境に水田のかなりの部分が青田にかわる。ところが、今年は天候不順の影響で苗の生育が遅れた。好天続きで生育のスピードが速まったのか、きのうの朝には稲苗を積んで田んぼへ向かう軽トラを見た。とはいえ、近所の水田はまだ水が張られただけ。田植えは遅れている。

さて、大型連休最後の私の仕事、それはぬか床を目覚めさせることだ。

冬は塩で覆ってぬか床を眠らせる。その間は白菜漬けがある。しかし、3月後半になると室温が上がって漬かった白菜の酸化が早まる。4月は5月にぬか漬けを始めるまでの端境期だ。スーパーや直売所で売っている漬物でつなぐしかない。

で、5月。ぬか漬けを始める季節がきた。きのう、ぬか床の塩を取り除き、新しいぬかを加えて捨て漬けの野菜を入れた。何日かたてば、乳酸菌が増殖して活発に動き回るようになるだろう。今年初めてのぬか漬けは大根か、キュウリか。いや、両方にしよう。

2010年5月5日水曜日

カツ刺し


やっとこの大型連休に、生のカツオの刺し身を食べられるようになった。小名浜港に初ガツオが揚がったのが4月27日。その翌々日の29日、行きつけの魚屋さんに行ったら、「小ぶりだけど、(味は)いいですよ」という。半身をさばいてもらった。小名浜に揚がった初ガツオではない。別ルートのカツオだ。

4月に入って、我慢できずにスーパーの生カツ刺しを買って食べた。それが、個人的には今年の初ガツオだ。でも、行きつけの魚屋さんのカツオは、買いに行った時点でさばいてくれるから、刺し身としての鮮度はスーパーのそれとはまるで違う。29日のカツ刺しは、わが魚屋さん経由としての初ガツオだった。3日後の5月2日にも買いに行った。

29日は、カツ刺しの季節が来たことへのことほぎ。そして、5月2日はカツ刺しの季節、いつもそうする日曜日の晩の食材として。日曜日くらいはカミサンも料理をつくる悩みから解放されたいのだ。初夏から晩秋にかけてはたいていそうなる。

この連休は各地でお祭りが繰り広げられた。わが住む地域でもきのう(5月4日)、みこしが練り歩いた=写真。初夏は立鉾鹿島神社、秋は出羽神社。どちらの氏子でもない人間には、ピーヒャラドンドンが聞こえてきて初めて祭りを知ることになる。祭りでは酒、さかなはカツ刺し――が定番だろう。5月はとりわけ、薫風がカツ刺しを誘う。

2010年5月4日火曜日

桜花繚乱


タイトルの「桜花(おうか)」はヤマザクラだ。園芸種のソメイヨシノではない。

5月2日午後、夏井川渓谷の無量庵を戸閉めし、いわき市立草野心平記念文学館へ出かけた。6月27日まで「生誕100年記念 草野天平展」が開かれている。

文学館へ向かっていたら、その先、小玉ダムの奥の山がヤマザクラの花で染まっていた。心が波立つほどに山がうっすらパステルカラーの衣装をまとっていた。文学館の企画展を見たあと、吸い寄せられるように小玉ダムへと足を伸ばした。

ダムによるせき止め湖は、愛称が「こだま湖」。ヤマザクラは人工湖の周囲の山に満ちあふれていた。ダムの天端(てんぱ)中央から、ヤマザクラに染まる山をパチリとやった=写真。やりながら、〈ここは「いわきの吉野」と言ってもいいのではないか〉。見事な山の色彩に目を奪われた。

いわきではまだ、里山も、奥山もヤマザクラの花でほんのりピンク色に染まっている。私は一種の身びいきで夏井川渓谷のヤマザクラの花を好ましいと思っていたが、こだま湖のそれは渓谷の比ではない。ヤマザクラの数が違う。ボリュームもある。遠目にもよく目立つ。

西行もこうして圧倒されて眺めるしかなかった、というときがあったかもしれない。それが、吉野。ここも、コンクリートののり面に目をつむればすごい。思いはそこまでめぐる。ヤマザクラの開花時、夏井川渓谷とだけ向き合っていたために、これほどの佳景に気づかなかった。

2010年5月3日月曜日

ツツジ協演


「競演」ではない。「共演」でもない。しいていえば「協演」か。

夏井川渓谷のツツジは、アカヤシオ(岩ツツジ)から開花する。次に、シロヤシオが咲く=写真。トウゴクミツバツツジとヤマツツジも、シロヤシオと前後して花をつける。

5月に入ってそれらツツジの花が同時に見られるなどということは、15年の渓谷通いのなかではなかった。アカヤシオの開花後も天候不順が続いたのだ。

きのう(5月2日)、渓流に沿う森へ入り、県道を歩いて四つの花を楽しんだ。

3月の終わりないし4月初めに咲き始めるアカヤシオは、一本に二つか三つ、しかしもっと上の尾根ではたくさん花をつけていた。すでに色あせている。よく5月の声を聞くまで持ったものだ。日照不足と低温で開花が遅れ、落花も遅れたのだ。

で、木の芽の吹くのも遅れた。例年だと、新緑の中で見られるシロヤシオの花が、吹きだしたやわらかい色合いの木の芽に負けて、どこにあるのか分からない。双眼鏡で眺め、対岸に渡って、この目でやっと開花を確かめた。シロヤシオの開花は例年並みだろう。

大型連休たけなわ。しかも、2日は1日に続いて快晴。早朝、自宅をたってコンビニで食料を調達し、夏井川渓谷の無量庵で畑仕事をしたあと、庭にあるシダレザクラの下で、夫婦で朝食をとった。「花下遊楽」ならぬ「花下遊食」だ。

「山笑う」季節がやっと巡ってきた。淡くやわらかな色合いの木の芽が吹き、汗ばむような初夏の陽気に包まれて、爽快な気分になる。「山笑う」は、本当は春の山の芽吹き・開花を眺める人間の「心笑う」ことなのだと知る。きょう(5月3日)も朝からもったいないほどの青空だ。

2010年5月2日日曜日

筠軒・乙字資料


いわきゆかりの近代文学で欠かせないのが大須賀筠軒(いんけん=1841~1912年)・乙字(おつじ=1881~1920年)親子。幕末から大正元年まで生きた筠軒は、日本有数の漢詩人にして画家、そして学者。その息子の乙字は明治~大正の俳人・俳論家だ。

きのう(5月1日)、いわき地域学會の事務局仲間3人と私とで茨城県ひたちなか市へ出かけた。乙字の最初の妻(宮内千代)の出身地(旧那珂湊町)で、その血筋に筠軒・乙字関係資料が残っていた。事務局のWクンに、千代が大伯母(つまり乙字が義理の大伯父)にあたる男性からインターネットを介して問い合わせがあり、「資料を見に行きましょう」となったのが去年のこと。

それが今度、やっと実現した。大きくはないトランクと、それより小さいトランクに、手紙やはがき、絵の下書き、その他が詰まっていた=写真。「賢治のトランク」ならぬ「乙字のトランク」だ。もっとも、宮内家の主にあてた手紙やはがきも多い。

乙字あての高浜清(虚子)、そして乙字の再婚相手であるまつ子の父親・松井簡治の手紙がある。乙字の祖父である磐城平藩儒者神林清助(復所)あての書簡を巻物にしたものがある。

茨城出身で、いわき市平で暮らした歌人大内与五郎さんの、宮内家当主にあてた年賀はがき、同じく暮鳥の支援者と同名の、たとえば丹四郎からの喪中を告げるはがきもある。

この二つの「宝箱」の中身は、まだ公にされていないだろう。一つは書簡類、もう一つは書画類。筠軒の筆になると思われる松島全景図やイギリスの捕鯨船、布袋様には目を見張った。とはいえ、漢文はちんぷんかんぷんだ。筠軒に詳しい地域学會の先輩を連れて来なかったのが悔やまれた。

午後1時から4時間をかけてWクンが資料を写真に収めたものの、透明なアクリル板を持って行かなかったので和紙の折り目やしわはそのまま。それでも写真を先輩に見せれば、次の展開が見えてくるかもしれない。本格的な調査のための予備調査ということにして、この日の作業を切り上げた。

千代は乙字より早く亡くなっている。なぜ復所・筠軒・乙字三代にわたる資料が那珂湊に残されたか。筠軒が仙台で没したあと、彼の遺品を乙字夫婦が継承し、さらに乙字から千代にあてた書簡、乙字あての書簡なども加えて千代が実家に保管していた――ということなのだろうか。

その謎解きはともかく、貴重な資料が保管されていた事実に感動して、時のたつのも忘れて一枚一枚に見入ったのだった。

2010年5月1日土曜日

湯沸かし器復旧


厳冬。日照不足・低温・多湿の春。天候不順が続いたせいかどうか。夏井川渓谷の無量庵の中でも“異変”がみられた。水道管とガス瞬間湯沸かし器のつなぎ部分が凍結・破損した。これについては前に書いた。畳の上にけし粒ほどの黒い塊があった。ぬれて光っていた。ノネズミがどこからか入り込んで、帰ったばかりのところだったらしい。

ノネズミは前にも入り込んだことがある。洗面所や風呂場のせっけんをかじったのか、その周りに糞が散乱していた。古い木造家屋だ。どこかにすき間があるのだろう。しばらく音さたがなかったが、再び痕跡を残すようになった。

湯沸かし器のつなぎ部分は、茶こしと同じ役目のストレーナー(ごみ受け)と呼ばれるものだったか。ちょっと見には「プラグ」に似る。これが、2月中旬に破損して水を噴いていた。

最初にした応急処置は地下水のポンプアップ用の電源を止めること。次に、配管業の友人に連絡すると、後日、職人さんが流しの蛇口の根元に湯沸かし器の止水栓をつけてくれた。メーカーに部品の有無を問い合わせるということだったが、在庫はなかった。そうしているうちに、千葉県に住む友人が「ホームセンターで部品を売ってるよ」と教えてくれた。が、それも水道コーナーになかった。

いよいよ買い替えか――気持ちが傾いたとき、カミサンが出入りのプロパンガス屋さんに相談した。運よく合う部品があった。執念が部品を引き寄せたということだろう。

凍結・破損以来、2カ月余ぶりに台所の温水器が使えるようになった。無量庵の庭のシダレザクラも遅まきながら満開になっていた=写真。冬がもたらした胸のしこりがほぐれたところで、無量庵の近所を散策したが、目当てのコゴミ(クサソテツ)はまだ眠ったままだった。

そういえば、田村郡小野町の「夏井の千本桜」は、日曜日(4月25日)に磐越道を通りながら見たら、まだつぼみだった。それから一週間、新聞には七分咲きとあった。ゴールデンウイークに満開とは。ここもきょう(5月1日)から大渋滞か。