2010年5月2日日曜日

筠軒・乙字資料


いわきゆかりの近代文学で欠かせないのが大須賀筠軒(いんけん=1841~1912年)・乙字(おつじ=1881~1920年)親子。幕末から大正元年まで生きた筠軒は、日本有数の漢詩人にして画家、そして学者。その息子の乙字は明治~大正の俳人・俳論家だ。

きのう(5月1日)、いわき地域学會の事務局仲間3人と私とで茨城県ひたちなか市へ出かけた。乙字の最初の妻(宮内千代)の出身地(旧那珂湊町)で、その血筋に筠軒・乙字関係資料が残っていた。事務局のWクンに、千代が大伯母(つまり乙字が義理の大伯父)にあたる男性からインターネットを介して問い合わせがあり、「資料を見に行きましょう」となったのが去年のこと。

それが今度、やっと実現した。大きくはないトランクと、それより小さいトランクに、手紙やはがき、絵の下書き、その他が詰まっていた=写真。「賢治のトランク」ならぬ「乙字のトランク」だ。もっとも、宮内家の主にあてた手紙やはがきも多い。

乙字あての高浜清(虚子)、そして乙字の再婚相手であるまつ子の父親・松井簡治の手紙がある。乙字の祖父である磐城平藩儒者神林清助(復所)あての書簡を巻物にしたものがある。

茨城出身で、いわき市平で暮らした歌人大内与五郎さんの、宮内家当主にあてた年賀はがき、同じく暮鳥の支援者と同名の、たとえば丹四郎からの喪中を告げるはがきもある。

この二つの「宝箱」の中身は、まだ公にされていないだろう。一つは書簡類、もう一つは書画類。筠軒の筆になると思われる松島全景図やイギリスの捕鯨船、布袋様には目を見張った。とはいえ、漢文はちんぷんかんぷんだ。筠軒に詳しい地域学會の先輩を連れて来なかったのが悔やまれた。

午後1時から4時間をかけてWクンが資料を写真に収めたものの、透明なアクリル板を持って行かなかったので和紙の折り目やしわはそのまま。それでも写真を先輩に見せれば、次の展開が見えてくるかもしれない。本格的な調査のための予備調査ということにして、この日の作業を切り上げた。

千代は乙字より早く亡くなっている。なぜ復所・筠軒・乙字三代にわたる資料が那珂湊に残されたか。筠軒が仙台で没したあと、彼の遺品を乙字夫婦が継承し、さらに乙字から千代にあてた書簡、乙字あての書簡なども加えて千代が実家に保管していた――ということなのだろうか。

その謎解きはともかく、貴重な資料が保管されていた事実に感動して、時のたつのも忘れて一枚一枚に見入ったのだった。

0 件のコメント: