2010年6月30日水曜日

尺取り虫


朝、歯を磨きながらわが家の庭のあちこちを見る。今は軒下にある発泡スチロールのキュウリ苗を眺めたり、所構わず芽を出し、つるを伸ばすヤブガラシを摘んだりするのが日課だ。

かがんでキュウリ苗を観察していたら、近くの草(花はナス科のそれだが、名前は分からない)の葉に止まって揺れ動いているものが目に入った。長さ3センチほど、太さは1ミリもないだろう。空中に体を伸ばし、先端を左右に動かしながら何かを探している。

片方の端はぴったり葉っぱに着いている。見ると、“いぼ足”が二対、つまり四本足で立っている。で、先端が別の葉に触れ、ギリシャ語のオメガ(Ω)の字になったと思ったら、四本足の方がひょいとそちらに移動した。尺取り虫だった。シャクガの仲間には違いない。何というのだろう。

それよりなにより感じ入ったのは、先端の四本足で長い胴体をひらひらさせている、その無重力的なメカニズムだ。クレーン車だったらすでに倒れている。斜めだけなく、水平にも胴体を伸ばす=写真。それでもしっかり端っこの四本足で踏ん張っている。

宇宙船のアームを連想した。いや、その技術開発前史にはこうした尺取り虫のメカニズムを参考にするようなことはなかったか。

潜水艦のモデルはクジラ? 複葉機のモデルはトンボ? 戦車はダンゴムシ? 宇宙船のアームはともかく、はしご車は、そしてクレーン車はこの尺取り虫のメカニズムがヒントになっていないだろうか、などと思いをめぐらしたのだった。

2010年6月29日火曜日

夢の追求


必要があって、昭和30年前後の草野心平の文献を調べている。『草野心平日記』はいうならば、合わせ鏡。日記に記述のないものも、記述に合わないものもある。欠けているところもある。当然だ。

心平は心平、相手は相手。照らし合わせれば微妙な違いが浮き彫りになる。しかし、ここではそんな細かいことを言いたいのではない。チェックした文献二つ=写真=に共通するものを感じた。一つは「蕭々無縫」、もう一つはいわき民報。「夢を見続けること」の大切さを語っている。夢とは創意工夫、つまり「考え続けること」でもある。

草野心平の川内村来訪のきっかけをつくった長福寺・矢内俊晃住職は、心平来訪の記録を残すために、ガリ版刷りの「蕭々無縫」という冊子をつくる。そのなかに、村の中学校で講演した要約が載っている(昭和29年)。翌30年の「蕭々無縫」には、NHKのラジオで川内訪問のいきさつを語った話のポイントを書き記す。

いわき民報は昭和27年12月、紙齢2,000号を記念する文芸講演会を開く。講師は草野心平。演題は「文化というもの」。2日間にわたって講演要旨が掲載された。

いわき民報――。卑近な例でいえば、ぬかにナスを漬けたいとする。そこで、うまく食べたい、そして、色もにおいもよく、うまく食べるにはどうすればよいかと考える……といったことを話しながら、夢は文化の原動力、文化は持続的な夢の発展によって創造される、としめくくる。

このとき、心平は49歳。心平の考える「文化」の原点にはぬか漬けがあった、といおうか。

中学校の講演――。少年時代に見た夢を一生涯持ち続けることは非常に難しいが、その難しさをどうか続けてほしい。NHKラジオ――。夢の追求の集積が現在のわれわれの目の前にあるものであり、新しいものへの展開も夢の追求なくしてはあり得ない。

50歳前後の心平は、夢の追求(心平本人は「追及」と書く)ということを頭においていたらしい。

その夢は生活と結びついたもの。文化は生活様式そのもの、生活術そのものだ。生活とつながっていない、いや、生活意識と切れた狭義の文化はきれいだが上澄みにすぎない、という自覚はもっていい。大事なのは、今日のぬか漬けをどううまくつくるか、だ。

2010年6月28日月曜日

裏ごし梅ジャム


夏井川渓谷の無量庵に高田梅を2本植えたのが、実をつけるようになった。先日、それを収穫して梅ジャムをつくった。

今年は裏ごしをすることにした。馬の毛の裏ごし器が出てきたが、ぼろぼろになっていて使えない。梅の実を3回ゆでなおしたあと、ホームセンターへ出かけた。全体がステンレスの裏ごし器しかない。平・本町通りの曲物店に飛び込んだら、馬の毛の代わりにステンレスを使った裏ごし器があった。「馬の毛はもう料理人も使っていないよ」といわれた。

店主は曲物師でもある。いわきの中心市街地に曲物師がいた、ということに感激して、少々値は張ったが、曲物の裏ごし器を手に入れた。

さて、それからが大変だった。軟らかくなった梅の実を木ベラでつぶしながらこしていく。ホーロー鍋で二つ分取れたが、2回目は半分裏ごし、半分つぶしただけのもになった。時間がどんどん過ぎていく。夕方になってもこしきれないのではないか。時間短縮のために手を抜くことにしたのだった。

品質は当然、ちゃんと裏ごししたA級と手抜きをしたB級に分かれる。B級にはつぶしきれなかった梅の実のかけら、茶色い傷の表皮も混入している。味はしかし、そう変わらないはずだ。

カミサンの同級生から届いていた空き小瓶にジャムを入れると、ちょうどいい具合にホーロー鍋の底が見えた。差し上げる人には差し上げ、残りは冷蔵庫にしまい=写真、おととい(6月26日)、初めてパンにつけて食べた。ジャムにするまでの手間暇を思いだして、食べる前から食傷気味になっていた。が、今年は食感がまるで違う。

去年のように、つぶしただけで煮たのと違い、きめが細かくなっている。味もまろやかになっている。やはり、裏ごしが功を奏したのだろう。手間暇はかけるものだと思った。

2010年6月27日日曜日

カザグルマ


6月に入って二回ほど、いわき市内に生息しているカザグルマの花の新聞記事を目にした。カザグルマはつる植物。日当たりのよい山野に自生する、と物の本にある。発見場所は、盗掘の心配があるのだろう、特定されていない。

記事に添えられた写真を見たときに、かつて夏井川渓谷=写真=で目にした、同じような花を思い出した。〈なんだ、トケイソウか〉。写真も撮らずに通り過ぎた。その形が今も脳裏に焼き付いている。

カザグルマを知らなかった人間には、そのとき、単に図鑑で知っている園芸品種のトケイソウが思い浮かんだにすぎない。いや、今でもトケイソウだったと思っている。が、新聞写真のカザグルマはやさしく、やわらかだ。それにも近い、そんな印象の修正が始まった。カザグルマではなかったか、と。

一つは、トケイソウだったなら、なぜそこ(川岸の杉林だった)に種をまく理由があるのか、仮に上流から種が流れ着いて発芽したとしても、そこに一つしかないのはなぜか。

結論を出す必要はない。カザグルマは今や、夢のような花だ。その花を一瞬だけ見た、そして消えた。それがトケイソウだったとしても、その花も一瞬だけ花開いて消えた。渓谷では、よく分からないことがときどき起きる。

2010年6月26日土曜日

弥生山


いわきにある大学の教授から、春に連絡が入った。「市民開放授業」の一つとして〈いわき学〉をやっている。前にパネル討論のような形で、「広域都市いわきを知る手だてとして、夏井川、藤原川、鮫川といった流域ごとに見るのがいい」としゃべったことがある。今度は「文化」に関して何か話を、ということだった。

大正から昭和初期の詩的高揚期を中心に、戦国時代から続くいわきの「短詩形文学」の歴史についてなら、なんとかしゃべることができるかもしれない。それでいいなら、というとOKになった。

連歌の猪苗代兼栽(戦国時代)、俳諧の内藤風虎・露沾(江戸時代)、和歌の天田愚庵(明治時代)・俳句の大須賀乙字(明治~大正時代)、詩の山村暮鳥(大正時代)・草野心平(大正~昭和時代)・草野比佐男(昭和時代)にしぼって、文献中心の話をした。

学生は「根なし草」だから、自分が今、行き来している領域、学んでいる場所についての歴史にはまるで興味がない。私の20歳前後の経験からして当然だが、「いわき学」という授業が組まれている以上は、彼らが現に学んでいる場所については記憶に残るような話をしたい。文学とは無縁の経済学部の若者であればなおさらだ。

彼らが学ぶ大学はいわき駅の東方、夏井川が平市街の北側を東進して急激に左折する、その丘の上にある。鎌田山という=写真。縄文時代前期の貝塚が“向かい山”の弘源寺で発見されている。

鎌田山は江戸時代、桜の名所だった。露沾の句に、それを表すように「弥生山」として登場する。そのころは地続きだった弘源寺を、露沾は「桜寺」とも詠んでいる。

「弥生山」は国道6号を通すために二回、切り割られた。もとはひとつながりの丘だったのが、近代になって分断された。そんなことも含めて「場所の文学」を語った。

「根なし草」の学生は、授業中も「根なし草」の本領を発揮する。2、3人が途中から入ったり、出たり、最初から突っ伏したり。多くはむろん、こちらに顔を向けていたが。それでも、あなたたちが学んでいるこの建物の下にも歴史がある――ということを分かってくれたかどうか、自信がなくなった。

2010年6月25日金曜日

クスサン


3歳と1歳の子(孫)の母親が家に入って来るなり、「庭の木にいっぱい毛虫がいます。地面に黒い粒々があったので、上を見たらいました」。ザワッとした、という。黒い粒々はフン、木は若いクスノキだ。

わが家の向かい、道路と駐車場をはさんだ奥にカミサンの伯父の家がある。何年か前に亡くなり、人に貸していたのが契約完了で空き家になった。カミサンが毎日、戸を開けて風を入れる。

このごろは、孫が来ると「オジサンの家」へ移動して遊ぶ。わが家は、蜂であれ蝶であれ野良猫であれ、家への出入りが自由すぎる。網戸も、クーラーもない。問題は蚊。孫が蚊に刺されると、皮膚が広範囲に赤くなる。両親は当然、そんな家にはわが子を預けたくない。が、そうしなくてはならないときもある。

上の孫はもう自分の意思で居残り、ジイバアと遊ぶるようになった。あとで家まで送っていけばよい。下の孫は、まだそうはいかない。いつも母親の姿を確かめる。で、父親が臨時にわが家で細かい手仕事をしている間、母と子2人とジイバアで「オジサンの家」で過ごした。そのとき、母親が毛虫を見たのだった。

クスノキだ。ピンときたのは、見たことはないがヤママユガの一種のクスサン。あとで確かめたら、それだった=写真。盛んにクスノキの葉を食べている。

上の孫を抱いて毛虫を見せたら、記憶に残ったのだろう。きのう(6月24日)、下の子の熱が下がらず、病院へ行って来る、というので、午後、上の孫を預かった。蚊に刺されると困るので、網戸のある「オジサンの家」で遊ぶことにしたら、「毛虫を見たい」という。クスサンは、前に見たときより数を減らしていた。さなぎになるために移動したか。

孫は、虫が嫌いではない。が、手でつかむのは今のところ、ダンゴムシくらい。ダンゴムシと一緒に石の下にいたカタツムリは、まださわる程度。

クスサンは無害の毛虫だそうだ。昔、毒をもつ毛虫に痛い目に遭った私は、無害であっても毛虫にはさわる気がしない。そのかわりに「きれいだな」とささやいて、孫が必要以上に虫嫌いにならないよう誘導する。実際、クスサンは色の配合がいい。

2010年6月24日木曜日

足元の歴史


いわき駅前に建設された再開発ビル「ラトブ」は、江戸時代には磐城平城の一部だった。建物の北側三分の二は侍屋敷、南側の三分の一は外堀。明治維新後は、その堀が町屋の「ごみ捨て場」になった。明治30(1897)年に常磐線が開通するが、堀はそれに合わせて埋め立てられた。「ごみ」もそのまま土中で眠り続けた。

「ラトブ」建設時の平成18(2006)年春、埋蔵文化財の「立会調査」が行われた。それから分かったことがある。ポイントは堀。絵図通りの位置に外堀が現れ、そこから大量の遺物が発見された。「ごみ」である。その「ごみ」が多様な情報を伝える。

ここで考古学的な調査結果を語るほどの知識は、私にはない。先週の土曜日(6月19日)、いわき地域学會の市民講座でそれを補完する話があった。地域学會の馬目順一相談役(考古学)が「磐城平城外堀跡の精錡水――ヘボンと岸田の友好」と題して詳細を披露した=写真

「ごみ」の一つに荷札(木簡)があった。「精錡水本舗岩戈」(「戈」は字そのものが半分欠けたもの、つまり「城」の右側部分らしい。「岩城」と推測できる)がそれだ。画家岸田劉生の父、岸田吟香が米国人眼科医ヘボンから製法を伝授され、幕末に日本で初めて液体目薬を売り出した。その製品名である。

馬目さんは、「ラトブ」建設現場から「精錡水」の荷札が出土したころ、奇しくも岸田とヘボンの関係を調べていた。

二人は海外渡航が解禁された慶応2(1866)年、中国・上海へ渡り、日本へ初めて活字印刷を伝えた美華書館で『和英語林集成』をつくる。そのあたりを調べていたところに「精錡水」の荷札出土を知った。彼らの「和英辞典」は、まず日本語をヘボン式ローマ字で掲げ、片仮名、漢字で日本語をつづり、それに対応する英語を付する。流れとしては現代の辞典と変わらない。

近代日本の建設時、「和英」のほかに「英和辞典」がつくられる。アルファベットは左から右へ、日本語は右から左へ、あるいは縦書きをそのまま横倒しにしたものと、読みづらいものが多かった。

『和英語林集成』は最初からその混乱を超えて、すんなり左から右へと言葉を読めるようになっていた――と解釈するのは現代人だからで、そのころ、日本人は横書きを読めなかった。

一つの荷札から眼病、開国、和英辞典、活字出版その他、日本の近代形成過程があぶりだされるように立ち上がってくる。足元の歴史を掘ると世界が見える――。生涯学習の面白さを堪能した。

2010年6月23日水曜日

新しい命


わが家の近所に営巣したツバメが卵を産み、温め、孵化したヒナにえさを与え、ヒナが大きくなった。そこまでは前に書いた。そのあと、無事に巣立ったのだろう、「空き巣」になった。どろぼうではなくて巣がからっぽになった――という意味での「空き巣」だが。

その巣でもう一回、ツバメは子育てをするのではないか。朝晩の散歩時、チラリと「空き巣」を見る。今のところ、その気配はない。

飲み会が近所であった。開始、夕方6時。「夏至」の直前だから、たっぷり明るい。会場(スナック)の近くで、巣立ったツバメがピチピチ言いながら電線に止まっていた。成鳥もいた。

30秒ほど立ち止まり、ツバメたちの姿を観察した。幼鳥は成鳥より燕尾が短かった。燕尾の短いツバメは止まり方もぎこちなかった。幼鳥は親を手本に学習を始めたばかりなのだろう。

野鳥の世界は、今が巣立ちの時期。朝晩の散歩時、ハクセキレイの幼鳥らしいのと出合う。体の色が薄い。目のあたりの特徴である白もまるで分からない。だから幼鳥、と分かる。

これら幼鳥との出合いが、ふっとこんな考えを誘った。鳥たちは、住所登録はしていないが、この町で結婚し、子育てをする、翼をもった隣人――すると、雛たちはこの町の「新しい命」、住民だ。

日曜日(6月20日)、夏井川渓谷の無量庵から帰る途中、江田駅の手前で足の長い小さな鳥が1羽、道路の真ん中に立っていた。〈クイナか〉。見たこともない鳥だから、図鑑のイメージが頭を支配する。そうではなかった。ヤマドリかキジのヒナだった。

この子も巣立ったばかりで、人間の暴力的な文化にはまだ慣れていない。車を止めて横断するのを待った。路肩を過ぎて一安心というところを、写真に撮った。そばのガードレールの下には母鳥がいて、私と目が合った。ちゃんと子どもが道路を横断するのを、はらはらしながら見守っていたのだろう。

道路では、タヌキやイタチ、その他の「死物」を見ることが多い。「生物」は、たとえば「死物」をついばむカラス、これがほとんどだ。キジだかヤマドリだかのヒナが道路の真ん中にいるのを見たのは、初めてだった。命ながらえよ。

2010年6月22日火曜日

コカブ始末


天候不順の春先に種をまいたコカブが、6月に入って収穫期を迎えた。畑は夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)の無量庵にある。週末だけの家庭菜園だ。間引きを兼ねた初収穫が5月末。それから一週間ごとに肥大したコカブを抜いた。先週がそのピークだった。

冬に投入していた堆肥の効果か、コカブながら初めて軟式野球のボールくらいまで肥大したものがいくつかできた。が、収穫しても食べる方が追いつかない。

土曜日、無量庵に泊まると、日曜日の早朝には旧知の新聞屋さんが新聞を置いていく。そのお礼に、夜のうちに玄関の外にコカブを置いた。あげる以上は傷のない、ツルっとしたきれいなコカブをあげたい。すると、新聞と一緒に「初物です、ありがとうございます」というメモがあった。晴れやかな気分になったのはそのときだけ。

そのあとの週から始末に負えなくなった。先週は50株近く、今週はそこまでいかずとも30株ほどは収穫した=写真。未熟な物はそれ以上肥大が望めない。引っこ抜いて、同じうねに葉を広げ始めた「ふっつぇシソ」(こぼれ種から生えたシソ)の成長を助けることにした。

ぬか漬けにする。味噌汁にする。一夜漬けにする。梅肉あえにする。一通りは食べる努力を続けたものの、それでも食べきれない。人にあげられるシロモノでもないから、毎日じっとコカブをにらんで過ごす仕儀となる。いつものことながら、収穫時期には食傷するのだ。

コカブを始末するのと併せて、「ふっつぇ芋」(ジャガイモ)の一部を掘り取った。そのあとには生ごみを埋めて、ひとまずうねを休ませよう。タカノツメ用にもスペースを取っておいた。せわしさにかまけて苗を買う時期を逸したので、そこも休ませるしかない。

「少量多品種」を心がけると種は余る。いや、余りすぎる。今度もコカブをもてあまして、市販の種袋は半分にならないものか、といつもの思いに至った。

2010年6月21日月曜日

高田梅


無量庵の庭に畑をつくり、一角に「高田梅」の苗木を2本、知人からもらって植えた。ずいぶん前のことだ。去年(2009年)はその「高田梅」が豊作だった。

一本は4年前の秋、台風にもまれて倒れた。根は半分むきだしになったが、まだ生きている。幹にコンクリートブロックを当てて支えにした。すると、横になった枝は空へ向かうようになった。

重力は宇宙と地球との間にできた垂直の川。川に対しては流れにまっすぐ向かって圧力を最小限にするしかない。曲がりネギは、あえてそれに逆らい、いやそれを利用して、人間が横に寝かせる「やとい」ということをする。地上部の葉はまっすぐに立ちながら成長する。負荷を与えて内部のストレスを甘みに替えるのだ。

高田梅は、カリカリ漬けのために植えた。が、そこは夏井川渓谷、虫の王国だ。きれいな肌をした梅の実には、まずお目にかかれない。梅漬けにするのはよしてジャムにしよう――去年ジャムをつくり、ごく少数の家に配ったら好評だった。「来年も待ってます」。忘れてくれりゃいいのにと思ったら、先日、小さな空き瓶がどっさり届いた。

梅の実は、人間が樹下に立って摘めるのが一番。枝が低く横に這うように思い切ってバッサバッサと剪定したのが3年前。それで、花芽まで切り落としたためにおととしはほとんど実がならなかった。去年は、その意味では2年分の豊作になった。

今年はどうか。昨年秋、かしいだ方の枝を剪定した。それもあって、こちらは収穫ゼロ。別の1本は思ったより収穫があった=写真。去年の半分、つまりジャムも半分程度はつくれるだろう。

こうなると、机に向かってやる仕事は半分、先送りするしかない。まずは梅ジャムづくりだ。今日(6月21日)と明日は梅の実のために過ごす。そうしないと、梅の実が駄目になる。頭ではなく、即物思考でいく、いつものように。

2010年6月20日日曜日

庭の狩人


曇天の夕方、玄関の戸を開けて外に出ると、泥よけマットにアオオサムシがいた。逃げずに何かを押さえつけている=写真。押さえつけられているのは茶色っぽい芋虫だ。芋虫は時折、激しく体を振り回す。それでもオサムシは芋虫にくらいついて放さない。

そのうち、雨がぱらつきだした。人間がそばにいようと、雨が降ろうと、オサムシは自分の仕事をやめない。やがて、芋虫は動きを止めた。

くらいついた方も、くらいつかれた方もなぜ玄関先に現れたのか。オサムシに口器で組み敷かれた蝶あるいは蛾の幼虫はクロクモヤガに近かった。撮った写真を見ただけでは特徴が分からない。写真を見ながらさっとスケッチする。と、紋様のポイントが浮かび上がる。それでクロクモヤガに接近した。とはいえ、断定はできない。間違っているかもしれない。

それはそれとして、虫たちが生き死にのドラマを人間の暮らしのそばで繰り広げている。最後の最後まで、というのはオサムシが幼虫をそのあとどうしたかまでは見なかったが、むろん食事の時間に変わったのだろう。

こちらは近くのスナックで2カ月に一回の飲み会があったために、観察を途中でやめて、傘をさして出かけた。昆虫の研究者であれば飲み会をキャンセルして見届けたことだろう。小さな庭ながらそこには生き物のドラマが詰まっている。庭はいつもワンダーランドだ。

2010年6月19日土曜日

キジ走り


前にも書いたが、平野部を流れる夏井川の河川敷に生息しているキジは、結構な数になるのではないか。朝夕の散歩時、あちこちから雄の鳴き声を聞く。ときどき姿も見かける。

土砂撤去工事のために岸辺の木々やヤブが刈り払われた対岸から、「ケン、ケーン」と鋭い声が響く。音源を探る。と、草むらに見え隠れしながら黒い塊が動く。ドドドと激しく翼をはばたかせながら鳴いているときもある。それが肉眼で見える。

先日、左岸・平中神谷の河川敷で草刈りが行われた。サイクリングロードが一気に広く感じられるようになった。

刈られた草には一定のリズムがある。その区間は、これまで地元の行政区が河川管理者から委託を受けて草刈りをしていた。しかし、何人も草刈り機を動かすから刈り方には個性が出る。それがない。均一だ。草刈り機を装着した油圧ショベルが往復したか。

ま、それはともかく、散歩する人間には景色が開けた分、爽快さが感じられるようになった。しかし、河川敷の住人のキジにはそれが心配のタネなのだろう。ヨシ原から堤防の土手までのしてきたのはいいが、ヨシ原へ戻る途中で人間に遭遇する機会も増えた。きのう(6月18日)の朝がそうだった。

私が堤防を降りてサイクリングロードを歩いていると、はるか前方を駆け足で横断するものがいた。雄のキジだった=写真。速い、速い。足を素早く回転させながら、土手からヨシ原へと移動した。

飛べば早いのにと思ったが、それは緊急手段なのだろう。あの図体だ。飛ぶとエネルギーをかなり消耗するに違いない。開けたところでは、危ないなと感じたら駆け足で移動する。そんな習性の一端を垣間見たような気がした。むろん、人間がいないとゆっくり歩いて移動したのだろうが。

2010年6月18日金曜日

箱庭栽培


キュウリのポット苗が義妹から10個ほど届いた。しばらく養生して、6株を夏井川渓谷の無量庵の畑に植えた。余った苗をどうしよう。発泡スチロールの大きな箱があった。細長くて深い。それを使って「箱庭栽培」をすることにした=写真

その前に、苗が病気になった。葉が白い粉に包まれてきた。「うどんこ病」だ。5月から6月にかけて好天が続いた。乾燥するとかかりやすいのだとか。無量庵の畑に植えたものも、家に残したものも、3枚ある葉のうち一枚が白くなった。消毒しないと病気がまんえんする。途中で2株がしおれて枯れた。

四倉の種苗店へ行ってキュウリ苗を二つ、そして「うどんこ病」用の消毒液を買った。はっきり病気だと分かっているのに、「無農薬でいきます」は無責任だろう。観念ではなく、即物的に対処する。そのための消毒液だ。

少なくとも苗が根づき、育ち始める時期には、害虫や病原菌には遠慮願いたい。しかし、被害に気づいたら、それを拡大させないためにも手を打つ。アブラムシはガムテープが有効だという。病気にはやはり消毒液しかない。

「うどんこ病」は一回の散布ですむものでもないようだ。一週間おきに葉の表裏を消毒する、それを何回かやると症状がおさまるのだろう。

箱は台所の前に置いた。つるが伸びて葉をいっぱいつければ台所の日よけになる。花が咲いて実がなれば、いながらにして収穫できる。それよりなにより、毎日、観察できる楽しみができた。

2010年6月17日木曜日

土砂降り


きのう(6月16日)の朝は、9時過ぎから土砂降りになった。夜明け前から雨は降っていた。それで、散歩を休んだ。雨脚が次第に強まり、激しく屋根をたたくようになった。2階のテラスは、雨樋が壊れている。テラスの排水口から雨が白いかたまりになって流れ落ちていた。

10時前に土砂降りのピークがきた。平中神谷地内の旧国道、略して「旧道」の、わが家の前の歩道が水没し、車道が一部、冠水した。車道より一段低いために雨水が集中すると、一帯の歩道は“水深”が15センチを超える。流れは意外と速い。足をすくわれるほどではないにしても、かなりの水圧だ。

行政区の区長さんが、たまたま用事があって近くまでやって来た。歩道が川になっているのを初めて見て、わが家に飛び込んできた。「写真を撮ってください」。区の役員をしているので、言われるままに写真を撮った=写真

歩道の水没は、わが家の前の旧道では常態だ。水害常襲地区なので、その対策工事がなされた。土砂降りを飲み込むほどではないが、以前のように道路まで水没するような事態はほとんどなくなった。

区長さんは、側溝のふたが重くて開けられないためにドブさらいができない――それが要因で雨水を飲み込めずに歩道が水没したのだろう、と気にしているようだった。が、そばの住人は雨がやむとすぐ水が引くことも知っている。しかも、きのうの土砂降りは軽い方だ。

ここはしかし、区長さんの反応が正しいのではないか。あとでそう思った。理由はどうあれ、ドブさらいをしていないのだから、ドブがたまった分、雨水を飲み込めないのは確かだ。“水没慣れ”をしている。それではいけない。

側溝の蓋は重いだけでなく、切り欠け部(すき間)が大きいので幼児の足が入ってしまう危険性がある。市役所に要望した結果、取り替えが決まった。次は、側溝のドブさらいだ。最近の低気圧は凶暴化している。「すぐ引くからいいというものでもない」。区長さんの懸念が新鮮だった。

2010年6月16日水曜日

エゴノキの花


5月下旬から6月上旬にかけて、人に会ったり、しゃべったりする日が続いた。そこへ予期せぬことが重なった。時系列で書く単純さ、どういう団体かを説明しない短絡さをお許しあれ。

「ブッドレア会」総会の日、5月26日が始まりだった。いわき地域学會の3代目代表幹事氏家武夫さん(民俗学)の訃報を、総会直前に知った。30日通夜、31日告別式。本人の遺志として地域学會に寄付があった。ありがたかった。感謝状を贈り、弔辞を述べた。

その告別式の朝、氏家さんの通夜にも来ていた佐藤孝徳さん(歴史学=元地域学會副代表幹事)が亡くなった、という連絡を知人から受けた。〈タカノリさんが?〉。心が二転、三転、いや四転、五転した。地域学會最初の図書は、彼の聞き書き昔話集『昔あったんだっち』。校正を担当した。

それ以上にこの25年、いやその前からのつきあいだから、タカノリさんの死は衝撃的だった。6月3日通夜、4日告別式。神式の氏家さんの場合は「なおらい」、仏式のタカノリさんの場合は「精進落とし」。そこまでいた。

その合間やあとに地元の歩道側溝現地調査の立ち会いがあり、市民総ぐるみ清掃運動があり、さらに前から予定されていたおしゃべり(3回)や会議・打ち合わせ(3回)があって、きのう(6月15日)、やっと自分のコントロールできる時間が戻ってきた。

朝、夏井川渓谷の無量庵へ出かけた。カブを収穫し、三春ネギ苗の様子を見、今年初めて二ケタの実をつけるプルーン、やがてジャムにする高田梅の実のなり具合を見たほか、庭のコケの下にあるはずの「マメダンゴ」(ツチグリ幼菌)をチェックした。それはまだ手ごたえがなかった。

庭に白い花が散り敷かれてあった。見上げると、エゴノキが葉の下にいっぱい花をつけていた=写真。この二十日余り、内に向かっていた気持ちが無量庵へ来たことでほぐれ、エゴノキの花を見たことで晴れた。

2010年6月15日火曜日

コメントに感謝


「ピナ男」さん、「歩道に沿う自転車車道」(09.9.30付)へのコメントありがとうございました。

狭く段差のある歩道、車道と歩道を分ける縁石、歩道をふさぐ電柱……。日本ではこれまで車優先の道づくりが行われてきた、という思いを禁じ得ません。その反省からか、いわき市では一部、国道で車いすに配慮した歩道改良工事が行われました。ユニバーサルデザインに基づく道づくりは緒についたばかりです。

昨秋、日本で政権交代がなされた直後に北欧を旅行し、かの国の人々は生活の安心のために「高福祉高負担」を受け入れていることを知りました。車道と歩道の間に設けられた自転車道にも、軽いカルチャーショックを受けました。旅をすると少しは利口になりますね。福祉政策や道づくりに対する見方が変わりました。

「匿名」さんの「神谷の戊辰戦争」(09.4.2付)へのコメントからは、母校(平六小)を思う気持ちがよく伝わってきました。平六小はわが息子二人の母校でもあります。神谷はついのすみか――そう思い定めて朝晩散歩をしながら、ここに麦畑がある=写真、ここに古い建物がある、などと足元の暮らしや歴史を学んでいるところです。

KALAさん、郡山ではカッコウの分布調査をやっていますよね。いわきでも調査が必要ではないかと、かねがね思っているのですがどうでしょう。それから、いわき地域学會入会の手続きのことですが、私のところが事務局になっています。まずはお電話をください(34―7871)。会員拡大運動を展開中ですので、よろしくお願いします。

2010年6月14日月曜日

ツバメの子


近所の歯医者さんの玄関口にツバメの巣がある。せっせと巣づくりをしていたのが、1カ月余前の大型連休時。それからすぐ卵を産み、温め、雛がかえったのだろう。雛はもう随分大きくなっていた=写真。3羽、いや隠れて見えないが4羽いる。

朝と夕方の散歩時、チラリと見る。朝の6~7時はほとんど雛の姿が見えない。眠っているのか。夕方はしかし、ずらりと顔をそろえる。魚も夕方、活発にジャンプして水上の虫を捕る。虫が飛び回っているので、親ツバメもこの時間が一番忙しそうだ。ツバメも夕方が主餐なのか。

親の姿が見えると、子ツバメはわれ先に声を出して口を開ける。親ツバメはホバリングをしてえさを与える。と、すぐまた虫を捕りに行く。口移しの瞬間を写真にと思うのだが、シャッターを押す間もなく親ツバメはフレームから姿を消す。

ツバメの子の連想で人間の子を思い出した。2人いる孫のうち、下の孫がきょう1歳の誕生日を迎えた。何日か前から「一升餅」の話になり、誕生日が近いことを知った。

上の孫も誕生日前に歩き出して、誕生日には「一升餅」を背負った。その姿を見ただろうか、いや見ていない。まだ現役だったからか。今度は、時間だけはやりくりできる環境にある。孫の親である、わが息子たちが「一升餅」を背負ってふらふら歩きながら転んだように、すってんころりんとなる孫の姿を見たい。

人生の厳しさを体に刻む第一歩だ。転んで泣くといい。いや、転ばず、泣かず――もありうるか。そのときはわざと転ばしてやろうか。「一升餅」では転ぶことがなにより大事なのだから。

2010年6月13日日曜日

すずめの学校


野口雨情記念湯本温泉童謡館(いわき市常磐湯本町)できのう(6月12日)、童謡合唱団「すずめの学校」の例会が開かれた=写真。指導者の岡部林之助さん(83歳)が入院・手術し、退院した。復帰して最初の例会だ。

童謡館では6月1日から、「いわきの童謡作家展Ⅱ」として「草野比佐男展」が開かれている。草野比佐男さんが童謡を書いていると知ったのは、ほんの半月余前(5月26日)。

おととし、童謡館で草野さんのことをしゃべった。それを知っていた「すずめの学校」のリーダーが、例会に合わせて企画展にからんだ話を――となった。そのとき、草野さんが作品を載せている昭和30年前後の童謡雑誌を見せられた。その雑誌から彼の作品2編をメモして、しゃべるための材料にした。

草野さんの作品は省略する。私がしゃべったことも省略する。代わりに、「すずめの学校」の練習風景を書く。

復帰した岡部さんに花束が贈られた。「すずめの学校」の最年長会員?、間もなく90歳になるKさんにも花束が贈られた。詰めかけた仲間およそ30人が拍手で祝福した。ほとんどが60代から上の、わが人生の先輩たちだ。

その人たちが、岡部さんのオルガン演奏と声のリードで合唱の練習をする。少しの時間、片隅から練習を見た、いや聞いた。晴れて、汗ばむほどの陽気。でも、湿度はそう高くない。開け放たれたドアから外を見やった岡部さんが、緑と空の雲を目に止めたのか、「わかば」を、次に「白い雲」とかなんとかをやろう――と言った。

そのときの気分でやるのか、おもしろい。「わかば」を聞いて驚いた。人生の先輩たちの声とは思えないほど、若く、大きく、ハリがある。うたうことの、腹から声を出すことの効用、それは個人の健康と直結するものかもしれないが、それ以上に何かを生み出す共同作業のすばらしさを感じた。合唱とはそういう創造的な行為なのだ。

2010年6月12日土曜日

アオスジアゲハ


庭にある木が白い花をいっぱいつけている。たぶんイボタノキ――ということは、きのう(6月11日)書いた。その花にアオスジアゲハがやって来る。去年は5月26日、飛来に気づいて初めて吸蜜する姿を撮影した=写真

今年は4月の天候不順が影響したのだろう、開花が6月にずれ込んだ。花が咲かなければ当然、アオスジアゲハはやって来ない。

体に刻んだ記憶はその時期が来ると、なにか輪郭の定かでない残像となってあらわれる。それがだんだんはっきりする。5月末あたりからアオスジアゲハの姿が目の奥にちらつき始めた。

イボタノキの開花を待ち望む日が続いた。花が咲いた。となれば、いよいよ飛来が気になる。ちらちら花を見て過ごすこと数日、ついにやって来た。きのうの午後3時前。車で出かけようと庭へ出たら、イボタノキの花の周りを飛んでいる蝶がいる。アオスジアゲハだ。〈来たよ〉。黙って指をさし示すと、カミサンも瞠目した。

アオスジアゲハは、いわきでは30年前も、20年前も、夏になると見られた。いわきでは普通のアゲハ――と思っていたが、南方起源の蝶だ、東北南部、つまりいわきあたりが北限らしい。それが、地球温暖化のせいで北上しているという。元高校の理科の先生に教えられた。

子どものころの記憶を探る。阿武隈高地の、山に囲まれた町で生まれ育った。クロアゲハは記憶にある。キアゲハもある。しかし、アオスジアゲハは記憶にない。いわきで初めて見たとき、なんという名前の蝶なのか分からなかった。「アオタテハ」なんて誤って覚えたくらいだ。アオスジアゲハは地球温暖化の身近な指標、ということなのだろう。

2010年6月11日金曜日

庭木の白い花


例年より10日ほど遅れて、1本の庭木が白い花を付け始めた。枝先にわんさと小花のかたまりができる。ハナアブ、アシナガバチ、チョウチョウ……。虫たちが次から次に花蜜を求めて訪れる。

去年もおととしも、花が咲くと虫たちがやって来た。が、肝心の木の名前が分からない。それでこの時期、いつもストレスがたまる。今年もハナアブたちが現れてストレスがたまり始めた。何という木なのか、きょう(6月10日)こそ名前が分かるまで調べるぞ、と決めた。

まずはインターネットでそれらしい木の花を検索する。ネズミモチ、ないしトウネズミモチに近いことが分かった。が、葉のかたちが違う。花も仔細に見ると違う。ネット検索はそれで頓挫した。

街に用事があったので、その前後にいわき総合図書館で数冊の植物図鑑をめくった。やはりネズミモチに似ていることが分かったが、実際のネズミモチを見ている身としては、そうではないことも実感できた。

夕方、再度ネットで検索するうちに、それらしいものが目に留まった。ネズミモチの仲間のイボタノキではないか。花が似ている。葉も似ている。違和感がない。ここはイボタノキということでいいのではないか――庭から手折ってきた白い花と画像を比較して目が反応する。

白く細長い小さな花は先端が四裂している。ハナアブやクマバチ=写真=たちがその花に首を突っ込む。そのせいかどうかは分からないが、白花が次から次にこぼれ落ちる。下生えの葉や地面にその花が散乱している。見ているはなから落花する。それがイボタノキの特徴なら間違いはないのだが、そういう情報にはお目にかからなかった。だから、断定は避ける。

2010年6月10日木曜日

鳥の声


幻聴でもいいから聞きたい鳥の声がある。カッコウだ。おととし5月下旬、いつもの散歩コースで一回だけ声を聞いた。その前は何年間、いや十数年間、耳にしていなかった。去年も聞かなかった。幻の鳥になってしまった。そういうことを知ってほしいので、毎年、カッコウの声を聞きたい、と書く。

記憶はだいたいほかの記憶と合体して変形される。正確ではなくなる。ということであやふやなのだが、わが夫婦が子どもを二人連れて、いわき市平の下平窪から中神谷に引っ越してきたのは30年余前。茶の間のガラス戸を開けておくと、遠く南の夏井川の向こうからカッコウの鳴き声が聞こえてきたものだった。今ごろは盛んに鳴いていた。

すぐ、野鳥に興味を持った。それからは、子どもたちを車に乗せて左岸から右岸へとカッコウを探しに堤防の天端を移動した。河畔の木のてっぺんでカッコウが鳴いている姿をよく見た。持っているカメラがちゃちだったから、撮影してもボケ・ブレだったが、カッコウの居場所はだいたい見当がつくようになった。

が、あるときからぷっつりとカッコウは姿を見せなくなった。夏井川で大々的な河川改修が行われたときと、それは軌を一にする。以来、カッコウは単発的に鳴いても、いついて歌うことはなくなった。

今年もそうだった。5月末、近くに住む息子からケータイに連絡が入った。「六十枚橋の近くでカッコウの鳴き声を聞いた」。六十枚橋は、夏井川の河口から二つ目の橋だ。後日、河口へと車を走らせたが、河畔林にカッコウの姿はなかった。

オオヨシキリはヨシ原で盛んに鳴いている=写真。ホトトギスの声も聞こえる。にぎやかだが、「カッコー、カッコー」の声がないので、やはり満たされない。

2010年6月9日水曜日

ヤブカ出現


夏井川渓谷ではアヤメの花が咲き始めた=写真。ニッコウキスゲの花も咲いている。季節はいよいよ梅雨へと移りつつある。うっとうしいのは天気だけではない。カが「ブンブ、ブンブ」と体の周りを飛び始める。渓谷ではまだブヨ(ブユ)だけだが、これからアブ、カがチクリとやり始める。

翻って、平地のわが家では例年、5月下旬にカが出現する。初めてチクリとやられた日を記録していたら、5月20日が平均的な初認日と分かった。今年は6月3日に初めて刺された。天候不順が影響したのか、例年より半月は遅い。

茶の間のガラス戸を開けておくと、午後、庭からヤブカが現れる。耳の近くで飛び回っている分には〈来たな〉と分かる。が、今年は音もなくチクリとやられた。パチッとほおをたたくと、指がカの吸った血で染まった。

朝、歯を磨きながら庭木に絡まるヤブガラシの芽を摘む。マサキの若葉を食害するミノウスバの幼虫はあらかた始末したので、目標をヤブガラシに切り替えた。気温も上昇しつつある。それで、数日前からカがつきまとうようになった。孫が遊びに来たら庭には出せない。カに刺されると皮膚が赤くはれ上がる。両親にいやな顔をされる。

昼はヤブカ、夜はイエカ。深夜、寝床に現れるのはイエカだろう。昼間は虫よけスプレー、夜は蚊取り線香が必要になった。

2010年6月8日火曜日

「種が欲しい」


5月中旬に、いわき市の「NPO法人シニア人財倶楽部」の総会が開かれた。代表理事とは、お互い現役のころからのつきあい。カミサンの同級生でもある。半分、浮世の義理で倶楽部の会員になった。総会でしゃべってくれというので、「週末は山里暮らし」というタイトルで1時間ほど話した。

15年前から、週末は夏井川渓谷の無量庵で過ごしている。行くたびに発見がある。集落で栽培されている「三春ネギ」をもらい、種を採り、栽培し、ルーツを調べている。種は秋まき。それまで種を冷蔵庫で保管する――そんな話をしたら、最後に質問があった。「もっと『三春ネギ』について教えてほしい」

なるほど。シニア人財倶楽部だから、第二の人生を送っている人がほとんど。ふだんは家庭菜園にいそしんでいる会員も少なくないのだろう。質問の主は、近所に住む旧知の元市役所幹部氏だった。シニア人財倶楽部員としては初の顔合わせ。終わって、「種が欲しい」となった。

こちらはOKだ。畑のスペースの関係で種が余るかもしれない。苗床に密生させるよりは、余った種を人にあげて、“自産自消”を楽しんでもらった方がいい。地ネギの復活だ。といっても、いわきの平地にあうかどうかは別問題だが。

間もなく、その種を採る。「三春ネギ」の“ネギボンコ(ネギ坊主)”=写真=が形成されて、花が終わりつつある。今年は開花が10日以上遅れた。

黒い種が顔をのぞかせたら、ネギボンコを切り、新聞紙を広げて種をたたき落とす。ネギボンコの数は多い。そうなるように、食べるのを少し我慢してネギを残した。分けられる量はそれで十分、採れるはずだ。

2010年6月7日月曜日

モグラ道


夏井川渓谷の無量庵に小さな菜園がある。種をまいたり、苗を植えたりしたあとの管理が難しい。きちんとした畑ならモグラは走り回らない。それはプロから聞いている。その学習が15年たっても身につかない。農の営みがまねごとでしかないからだ、と思う。

落ち葉を堆肥枠に入れる。発酵・分解を待つ。有機質がそれで無機質になる。そうなれば、立派な堆肥だ。それを待てない。というより、堆肥づくりのウデが悪いのだ。

未熟な堆肥をすきこむと、ミミズがすみつく。堆肥枠にはいっぱいミミズにすんでもらいたい。が、畑はノーサンキューだ。いつの間にか、うねにジグザグの盛り上がりができる。モグラがミミズを求めて道をつくる。

キュウリ苗を植えるために、先日、平うねをつくり、石灰をまき、元肥に堆肥を入れた。半月は経過していた。さあ苗を定植しようと、6月5日の夕方、水をやったらポカッと穴があき、土と水がどんどん吸い込まれていった=写真。そうなると、かかとでモグラ道をつぶし、へこんだところに土を盛ってならすしかない。その繰り返しだ。

ほかにも、定植したネギ苗の溝が一部崩れていた。コカブのうねが盛り上がり、亀裂が入っていた。踏み固めた道までジグザグに盛り上がっていた。

野菜の根がモグラ道のせいで宙ぶらりんになり、養分を吸収できなくなって枯れてしまう――こういう事態が一番困る。モグラよ、モグラ、うねは避けて通ってくれよ、と頼んでも無理か。

2010年6月6日日曜日

宇宙下着


163日の宇宙滞在から帰還したばかりの野口聡一さんが、テレビの向こうでやりたいことを聞かれ、「熱いシャワーを浴びて、冷たいビールを飲みたい」と答えていた。国際宇宙ステーションにはシャワーがない。地上の感覚では宇宙ステーションの生活をはかれないのだ。

ほぼ1カ月前に、全国紙に載っていた「宇宙下着」の記事を思い出した。若田光一さんが宇宙ステーションに長期滞在をした際、におわない「宇宙下着」を着用した。それを応用した枕カバーが発売された、というのが記事の内容だった。

とっさに草野心平が思い浮かんだ。『草野心平日記』全7巻がある=写真。それを読んで驚くことがいっぱいあった。その一つが風呂。晩年はめったに入浴しなかったらしい。

1979(昭和54)年1月1日の記述。「風呂にはいる。何十日ぶりだろう。石ケン使はず湯ブネの中でゴシゴシ洗ふ」。元日の若水を意識しての入浴だろうが、それまで何十日も風呂に入っていない。大変な75歳だ。

それから6年後、81歳の1985(昭和60)年1月1日。「百余日風呂に縁なく、元日はヒゲ剃りもなし」。百余日に1回なら、入浴は一年に3回くらいのペースだ。いよいよ宇宙的になった。どうもこの詩人は地上の感覚でとらえようとしてもとらえきれないのではないか――そんな思いが日記を読んでふくらんできた。

2010年6月5日土曜日

現地調査


家の前の歩道は通学路を兼ねる。側溝の蓋はところどころ、小石まじりのコンクリート製だ。古いタイプで重く、すき間(切り欠け部)が大きい。幼児の足がすっぽり入る。お年寄りもつまずきかねない。

行政区の役員が参加して「区内箇所検分」を実施した際、住民から改善の要望が出された。早速、区長さんがいわき市道路管理課に要望書を出したところ、担当者が調査にやって来た=写真。区長さんからの要請で私ともう一人の副区長が調査に立ち会った。

よその地区からも同じような要望があるらしい。蓋の取り替えで対処しているのだという。それなら話は簡単だ。側溝蓋を実地に見て、一気には難しいが二回くらいに分けて蓋を取り替える、ということになった。

ほかに一カ所、カーブミラー設置の要望が出されているところも見た。工事を進めるには地権者の同意書が必要になる。地権者は既に了承している。区長さんを経由して手続きを取ることになった。

区長さんはこの件で写真を撮り、蓋のすき間を実測し、要望書にまとめたうえで道路管理課へ出かけ、状況を説明したという。「区内箇所検分」から1カ月も経ないうちに、解決のめどが立った。区の役員にならなければ知らない「区長の仕事」の一端だった。

2010年6月4日金曜日

ぶっかけご飯


おとといの「山荘ガーデン」の続き。いわき市立草野心平記念文学館への道を手前で折れ、文学館ののり面を巻くようにしてくねくね駆け上がること数分、目指す山荘に着いた。沢の斜面を利用したロックガーデンだ。ガーデンには小道に沿って番号と植物名を書いた札があり、花の名を確かめながら前へ進むことができる。

自分の山からしみ出す水が豊富にある。果樹を植え、野菜を栽培し、山菜を増やした。チャボとウコッケイを放し飼いにしている。みそを、漬物を、干し柿を、シイタケをつくる。無農薬の食材で自給自足をする――というのが生活の基本のようだ。

ガーデンを見終わると、昼食をどうぞ、となった。ちょうど昼どき、気にしながらの訪問だったが、やはり気を使わせてしまった。チャボとウコッケイの卵かけご飯に、タケノコの煮物、ワカメとタケノコのみそ汁、大根の漬物が出た。みそはもちろん自家製だ。ぶっかけご飯が甘くておいしかった。みそ汁はさっぱりしていて、やはり甘かった。

その前にイチゴと、信濃柿の干し柿、スライスされた冷たい干し柿が出た=写真。信濃柿は、ブドウでいえば黒色小粒の「スチューベン」と同じくらいの大きさ。豆柿よりさらに小さい。網に入れて干したという。スライスされた干し柿はひんやりして控え目な甘さが口に広がる。これも自家製だ。

奥さんは朝起きると、まず園内を散歩する。そうして、その日の食材を調達する。ご主人は夜寝る前、翌日の庭仕事の段取りを頭に入れる。庭仕事は尽きることがない。山中の自然と一体となった暮らしだからこそ、それを維持するための仕事がたくさんある。ここでは、自然は活用されながら守られ、増殖されているのだ。

2010年6月3日木曜日

スズキ届く


今の時期がスズキの旬。

おととしだったか、双葉郡の歯科医のご主人が海で釣ってきたというスズキを、奥さんからいただいた。最初はとまどった。一匹丸ごともらっても三枚におろせない。行きつけの魚屋さんに持ち込んだ。これではいけない。次の年には出刃包丁と柳葉包丁を使えるようにした。

そして、今年。5月に入って2回、月が替わったばかりのきのう(6月2日)、スズキが届いた。3回のうち1回はうろこも、内臓も取ってあった。三枚におろせばいいだけだった=写真

魚を三枚におろす――などとは、スズキがわが家に来るまでは考えたこともなかった。いわき市漁協のHPでスズキのおろし方をメモし、〈さあ、やるぞ〉となった。最初は素手でスズキを押さえながらやったので、滑って往生した。背びれがチクッと指をさすこともあった。今は軍手をはめる。

三枚におろしたのはいいが、骨に残る身が多かった。今もまだ多い。が、回を重ねれば学習の成果は出る。一枚は刺し身、残る一枚は切り身にして塩焼き、骨はぶつ切りにしてすまし汁に――。だんだん刺し身も、切り身も肉厚になってきた。習うより慣れろ。何でも回数をこなすことだ。

白身の魚だから、味は淡白だ。刺し身も、塩焼きもさっぱりしている。アラのすまし汁がとりわけいい。

おかげでカツオの刺し身からこの2週間遠ざかっている。そちらが恋しくなった。

2010年6月2日水曜日

山荘ガーデン


夏井川の支流・小玉川のダム下流左岸、尾根筋にいわき市立草野心平記念文学館がある。駐車場に車を止めると、さらに左側、沢をはさんだ向かいの尾根の中腹から鶏の鳴き声が降って来る。鳴き声につられて見上げると、木々の合間に屋根が見える。〈ああ、あそこに人が住んでるのだ〉と分かる。

きのう(6月1日)午前、家に電話がかかってきた。子どもが中学校のときのPTA仲間(カミサンたち)からだった。私が家に戻ると、カミサンがこれこれこうでと説明する。ピンときた――あの家に違いない。昼どきだが行ってみよう、となった。

文学館への道の途中から右に入り、くねくねした林道を上って行くと、旧知のご夫妻が道端で作業をしていた。幼犬が一匹、道の真ん中に寝そべっていた。

最初はもっと下に別荘をつくった。それを売って上の山を買った。面積は六千坪だという。夏井川渓谷の、わが無量庵は五百坪(借地)――それでも広いと思っていたのが、12倍もあるではないか。そこに家を建てて移り住み、街にある家は人に貸した。別荘時代からいえば二十数年、移り住んで庭づくりを始めてからは6年余とか。

杉が植わっていた斜面を切り開き、家を建て、畑をつくり、沢の水を生かし、岩石を生かして、ロックガーデンをつくった。果樹の苗木を植え、花の苗を植えた。

そうしてその土地に合うものが残り、増殖して、人工の空間とは思えないほど安定してきた。あえて不便な斜面を選んだのは、家から花を見たいためだという。

白いバラの花(ナニワイバラ)がガーデンの真ん中でこぼれるばかりに咲き誇っていた。それを中心にしてニッコウキスゲその他の野草が咲いていた=写真

あれこれ報告しようとするとキリがない。まずは第一印象だけにとどめよう。一言でいえば、「21世紀的生き方」がここにある。よくぞここまで杉林から雑木と野草の園をつくり、自然を回復・増殖したものだ。そして、それは今も続いている。

2010年6月1日火曜日

間引きカブ


無量庵(夏井川渓谷)の畑にあるコカブの葉が成長し、となりの葉とこすれあうようになった。何度か間引きを続け、株間を広げながら追肥した。それが、この半月で葉が一気に大きくなったのだ。根も膨らんできた。

おととい(5月30日)の日曜日に初めて収穫した=写真。とはいっても、まだ間引きカブだ。径2~4センチ程度だろうか。

畑には小石が多い。取り除こうとしたこともあったが、やめた。きりがない。小石は土の中で太陽を遮る役目を果たす。石の裏側はそれで湿っている。ミクロレベルではそうだ、と思うことにした。

その代わり、根菜のできには目をつむる。大根が二股どころか、五股、八股になる。人体に似ているといって新聞のトピックスになるときがあるが、それはたいがい土中の小石に根の肥大が邪魔され、分岐しながら根が大きくなったからだ

わがコカブも一つ、そんなものがあった。小石に邪魔されて裂けた状態で肥大した。傷物だが、自家消費だから見た目は気にしない。朝、ぬか床に入れて、宵に取り出して食べた。傷のついた部分は白ではなく、くすんだ黄土色になっていた。それでもかまわない。酒のつまみにして食べた。うまくはないが、まずくもなかった。

コカブはぬか床の中ですぐやわらかくなる。ぬか漬けに向いている。そのために栽培しているようなものだ。しかも、手っ取り早くつくることができる。二十日大根の兄貴分、と考えればいい。にしても、やはりもう少し見た目をきれいにつくりたい――とは思う。