2010年7月31日土曜日

まことと夏彦


年に何回か、無性に読みたくなる本がある。井上靖の詩集、司馬遼太郎の『街道をゆく』、山本夏彦のコラム集などがそうだ。

半月前、いわき地域学會の市民講座で元テレビ朝日カメラマンの戸部健一さんが「辻さんのお墓」と題して、辻まこと(1913~75年)の話をした。独身時代、まことの奥さんの実家と交流し、彼を目の当たりにしていた経験を踏まえて、彼について調べたことを報告した。

まことの父親は辻潤、母親は伊藤野枝。まことの墓は川内村=写真=の長福寺の境内にある。まことは草野心平と親しかった。それで、長福寺の先代住職矢内俊晃とも交流があった。父・まことが死に、それを追うように母・良子が死んだ。まことの娘さんが心平に相談して、両親のついのすみかを長福寺に求めた。

絵描きにしてエッセイスト、スキーのインストラクターにしてギタリスト……。「ヒマラヤよりウラヤマ」――という独特の見方、切り口がさわやかで、だいぶ前に何冊か本を買って読んだ。戸部さんの話を聞いたあと、もっと辻まことのことを知りたくなった。

山本夏彦の『無想庵物語』は、コラム集ではない。武林無想庵の評伝だ。これに、辻まことが登場する。西木正明の『夢幻の山旅』は辻まことの評伝小説。いわき総合図書館の書庫に眠っているのを借り出して読んだ。

武林無想庵の娘に、日本人ながらパリで生まれ育ったイヴォンヌがいる。まこと少年は父・辻潤に連れられて、夏彦少年は一時帰国した亡き父の親友・無想庵に連れられて、一時、パリで過ごし、幼いイヴォンヌを見知っている。成長したイヴォンヌは父と日本へ帰り、やがて夏彦かまことかと悩んで、まことと結婚する。10年後には破綻する。

イヴォンヌ―まこと―夏彦のほかに、まことの親友・竹久不二彦(夢二の息子)が登場する。まこととイヴォンヌの間に生まれた娘が、不二彦夫妻の養女になり、やがて画家として知られた存在になる。当然ながら、人間関係は錯綜する。

強烈な個性の親を反面教師に、あるいはその血を色濃く受け継いで生きる子どもたちの孤独、友情、放縦、離反……。戸部さんが語らなかったというより、語れなかった事実が『夢幻の山旅』にはあふれている。辻まことの娘さんが両親の墓を阿武隈の、いうならばウラヤマの静謐な自然のなかに求めたのは正解だった、と勝手ながら読み終えて思った。

2010年7月30日金曜日

「井上ひさしの世界」展


いわき市立草野心平記念文学館で「井上ひさしの世界」展が開かれている(7月10日~9月12日)。昨年の春から夏、仙台文学館で開かれた企画展をそっくり持ってきた=写真(図録)。

今年4月9日、井上ひさしさんが亡くなった。それから3カ月余。没後、最初の展覧会には違いない。としても、草野心平記念文学館の純粋な企画展ではない。

『吉里吉里人』の世界が中心の構成だ。それはそれでいい。が、井上ひさしといわきの関係も、私が知っている限りでは二つある。それを、情報提供というかたちで来館者に伝えられたら、より身近になる、地元館としてのオリジナリティーが付加できる――オープン翌日の日曜日に見に行って、それを感じた。

旧知の学芸員にそのことを告げた。一つは、展示されている井上ひさしの本の表紙絵。「『四十一番の少年』はいわきの画家、松田松雄(故人)の絵だよ」。それと、「昭和46,7年にいわきで講演している。それを取材したから覚えている」。松田松雄の絵だということは、学芸員も本を開いてすぐ分かった。

問題は、いわきでの講演だ。言った以上は、特定しなくてはならない。この3週間、折に触れていわき総合図書館に通い、当時の「いわき民報」を書庫から出してもらい、ぱらぱらやっているのだが、記憶と記録がまったく一致しない。たぶん、記事を見落としたのだ。でなかったら、なまけて記事にしなかったか。それはあり得ない。

講演が始まるとすぐ、本人の写真を取るためにステージのそでから近づいた。と、井上さんがこちらを見てぎょっとした。着ていたのは革ジャン……。そんな40年近く前の断片的な記憶が、今もありありとよみがえる。しかし、肝心の講演の年月日があいまい……。もう一度、当時の新聞をめくるしかない。

2010年7月29日木曜日

昼寝


在宅ワークは汗まみれ。茶の間が庭に南面し、パソコンに向かって仕事をしていると、庭の照り返しを背中に受ける。西側は押し入れと床の間。風の通り道はない。北側は壁。東側は台所。それで、窓や戸を全開していても茶の間の熱の逃げ場がない。前も熱、後ろも熱。扇風機の効用も限定的、部分的だ。

さっぱり茶の間で昼寝ができなくなった。そのことは前に書いた。茶の間の北隣は西に窓のある寝室。午前中はまだ暑さとは無縁だ。午後になると、徐々に日が差し込む。

きのう(7月 28日)、ベッドで昼寝をした。時折、涼風が入り込む。汗ばみながらも周期的に体をなでる涼風に、梅雨明け以後、初めて“シエスタ”ができた。

昼寝をしてとろけそうになった意識の底から、誰かが「涼風」の定義を言っていたな、誰だったっけかな――。午睡から覚めて、久しぶりにすっきりした頭が探索を始めた。

「涼しさは瞬間の感覚である。持続すれば寒さに変ってしまう」。うつらうつらしながら、その通りだと思っていた。前日、ベッドの本棚から引っ張り出してきて読んだ本がある。中公文庫の根本順吉『江戸晴雨攷』だ。それだった。ついでに、『風の事典』や『宮沢賢治語彙辞典』をパラパラやった。抽象的でもいいから「風」に触れたかったのだろう。

涼風が途切れる。と、熱がすぐ体を包む。しばらくして涼風がそれをほぐす。ほてった体が一瞬、冷やされる。いい気持ちになる。寝室の入り口にあるカーテンが時折、たなびく=写真

猫はその風の通り道、風呂場の手前の床に寝転がっていた。そこが、わが家では一番涼しい場所なのかもしれない。まさか、狭い廊下にマットを敷いて昼寝をするわけにもいかないが。

猫はどこで暑い昼を過ごすのか。ヒトが熱中症にならないためにも、一つの参考にはなる。この数日、宵は縁側で夕涼みをし、夜更けになると室内に戻ってきた。きのうはしのぎやすかったのか、縁側に出ることはなかった。

2010年7月28日水曜日

巨大風車


いわき市から田村市常葉町の実家へ帰るには、主に夏井川沿いの県道小野四倉線を利用する。国道49号もたまに使う。ほかには、小川の町中から川内村下川内を通る国道399号、同じ小川の牛小川(夏井川渓谷)から「スーパー林道」を使って同村上川内を通る県道小野富岡線、県道いわき浪江線から国道288号に入るルートもある。

先日は「スーパー林道」から上川内を経由し、天山文庫に寄って、大滝根山を越えるルートを選んだ。「スーパー林道」は、正式には「広域基幹林道上高部線」だ。このスカイライン道路の終点近くで大滝根山が見える。驚いた。手前の山に風車が林立している。

今年の4月、磐越道を利用して郡山市へ行ったとき、小野町付近から大滝根山と矢大臣山の間に風車の列が見えた。急に稜線から風車が出現したのであぜんとした。4月に見た風車と同じだろう。大滝根山の南東、田村市滝根町と一部いわき市にかかる風車群に違いない。建設中のものもあった。羽のない支柱のそばにクレーンが見えた=写真

稜線の異変はそれだけにとどまらなかった。川内から大滝根山を越えようと、県道富岡大越線を進んでいたら、またまた風車が見えた。方角からすると、わがふるさとの桧山ではないか。すぐ右手に仰ぎ見るところまで近づいたら、巨大風車だ。聞けば、高さは100メートルくらいあるらしい。3枚の羽も長さ40メートルはあるのだとか。

磐越道から遠望したのと違って、すぐそばの山稜からそびえ立つ“人工物”の大きさに圧倒された。“山稜破壊”、まずもってそんな言葉が思い浮かんだ。

大滝根山の周辺では別の風車群建設の計画もある。川内村内だ。村は水や自然を大切にする村のイメージ戦略からかけ離れているとして、風車建設に反対の立場を表明した。カネ(税収)の問題ではない――という行政の哲学に触れた思いがする。レーダー基地、鉄塔、風車……。阿武隈の山稜はSF的色合いを濃くしつつある。

2010年7月27日火曜日

夕立


土曜日(7月24日)の夕方、田村市の実家に着いて少ししたら、雨が降り出した。土砂降りになった。アスファルト道路がたちまちぬれて、水が糸になり、帯になり、浅瀬になった。小一時間もすると黒雲が遠ざかり、青空が戻った。雷鳴は遠かった。

その3時間前、夏井川渓谷の無量庵に立ち寄り、水分を補給しながら、キュウリの追肥をしたり、三春ネギの間引きをしたりした。入道雲とは別に、灰色の雲がもくもくと広がり始めた=写真。これはくるな――急な“風雲”に、実家へと道を急いだ。そのあとからわき続けた黒雲が雨をもたらしたのだ。

昔は夕立によく見舞われた。そんな印象がある。小学校の夏休み。川で水浴びをした午後、急に雷雨がくる。落雷を恐れて家の雨戸を閉め、電気を消して蚊帳のなかに避難する。仏壇の線香立てを廊下に持ち出し、線香に火をつけて雨戸のすき間から煙を外へたなびかせる。雷様(らいさま)よけだ。昭和30年代前半の記憶。

雷様にへそをとられないように、とも注意された。幼いときには金太郎と同じ腹巻きをさせられた。小学校に入ってからはランニングシャツをちゃんと半ズボンの中に入れるように言われた。怖い雷様を利用して、腹を冷やさないための戒めとしたのだろう。

おととい(7月25日)は夜になって、きのうは午後2時からまりになって、夕立がやってきた。夕立が過ぎると、少し気温が下がる。大地の打ち水だ。一雨過ぎるとしのぎやすさがまるで違う。やっと夏らしい夏がきた、

カッと暑くなる。しかたがない。夕立がくる。少し熱気がおさまる。それで、昔は熱中症になる人が少なかったのではないだろうか。夕立は夏の大事な気象。だが、最近はほとんど記憶にない。久しぶりに夕立を体験しているわけだ。

もっとも、熱中症という言葉は昭和30年代にはなかった。「鬼のカクラン」だ。元気なボウズがゲンナリしていると、「鬼のカクランか」といわれた。わが家の温度計では毎日、真夏日。そして、カクランしないようにきょうも夕立が待たれる。

2010年7月26日月曜日

マメダンゴご飯


阿武隈高地(田村市常葉町)の実家に帰った。義姉の料理に舌鼓を打った。徹底した郷土料理、いや“あるもの料理”だ。ハレではないケの料理(日常食、つまり季節の料理)をつくってくれる。キノコ料理が出た。私がキノコ好きだと知ってのことだ。

一泊二日の初日。晩ごはんにチチタケのけんちん汁が出た。「チチタケがもう採れたの?」と私。床屋をやっている兄夫婦のところへは、なぜか知り合いからいろんなものが届く。チチタケは夏キノコ。採れて不思議ではない。が、人にあげるほど採れたのだろう。それをもらったのだという。

ついでの話。イノハナ(コウタケないしシシタケ)が近所の店に出ていた、という。これには義姉もびっくりした。聞けば、地元の常葉産。梅雨が明けたばかりでイノハナとは――。本来なら、10月下旬に発生する「高級菌」だ。実家に帰ると、こうしていつも、思いもかけなかったキノコの情報に接する。

チチタケは料理が難しい。一度、油で炒めないことにはチチタケのうまみを引き出せない。ボソボソしてうまくないのだ。だから、生をけんちん汁(みそ仕立て)にいれてもまずいだけ。みそ汁はなおのことまずい。義姉は、そんなことは先刻承知で、いったん油でいためてから、けんちん汁をつくる。そうすると、チチタケからうまみ成分がしみ出る。

翌朝は「マメダンゴご飯」(マメダンゴはツチグリ幼菌)が出た=写真(右はチチタケのけんちん汁)。やはり、何人かが持ってきてくれた。今年はマメダンゴが豊作だったらしいという。いっぱいもらったので、冷凍していたのを、私のために炊き込みご飯にした。

ご飯に入っていたマメダンゴを見ると、小指の先ほどの小ささだ。夏井川渓谷の無量庵で採れた、そしてほとんどは中が黒くなっていた、「食不適」のマメダンゴはその3倍も、4倍も大きい。これはもう熟して胞子を飛ばす寸前だったのだ。櫛のように小さな熊手で土をやさしくくしけずらないことには、食用マメダンゴは採れないのかもしれない。

2010年7月25日日曜日

麦の芽会


いわき長寿学園・麦の芽会の例会で、いわきの短詩形文学をテーマに話をした。歴史研究家佐藤孝徳さんが急逝したことによるピンチヒッターだ。

例会の10日前に突然、話があった。誰かの代わりだろうとは思っていたが、例会当日、会長さんの経過説明を聞いて、それが孝徳さんだと分かった。これも何かの縁だ。とむらいを兼ねて、孝徳さんから得た知識などをもとに1時間半ほどおしゃべりをした。

麦の芽会は平成2(1990)年暮れに発足した。「生涯現役・生涯勉強」をモットーに、毎月例会(勉強会)を開いている。入会資格は60歳以上で、会員は120人を数える。毎回100人近い人が参加しているようだ。

以前、野口雨情記念湯本温泉童謡館でおしゃべりをしたことがある。受講者は多くて十数人、少ないと数人。今度のように大講義室を埋めるほどの人数は圧巻だ。聞けば、雨の日も、猛暑の日も安定して人が集まる。勉強会を終えて昼に仕出し弁当を食べるのも楽しみのようだ=写真

旧知の人が何人かいた。恩師の奥さん。カミサンのいとこの奥さん。新聞社時代に何度かお会いした読者氏。警察回りをしていたときに世話になった元幹部氏。元の職場の社員のお母さん。いわき地域学會の市民講座で顔なじみの人も何人かいた。

平均年齢は70歳代の前半? それとも半ば? 学ぶ意欲に満ちた人たちに接して、こちらまで元気になった。今年設立20年を迎えるという。普通、組織は“勤続疲労”をおこすが、麦の芽会はいよいよ盛況になりつつある、といった印象を受けた。稀有な団体だ。

2010年7月24日土曜日

ふるさとからの電話


土曜日(7月24日)、実家(田村市常葉町=写真)に帰って、兄貴に頭を刈ってもらおう――。そう決めた矢先に、ふるさとの同級生から電話がかかってきた。実家の2軒隣に住んでいる。

「今、同級生が集まって飲んでいる。還暦同級会を開いたときに、次はいわきで同級会を、という話になったはずだが、その後、音沙汰がない、どうなっているのか、とみんなが言っている。それで電話をした」という。みんなとは、電話の主を含めて9人。よく忘れずに覚えていたものだ。

おととしの2月、郡山市で中学校の還暦同級会が開かれた。20歳のときから5年に一度のペースで学年全体の同級会が開かれている。5年に一度のペースではなく、むろん毎年でもなく、間隔を縮めて同級会を開きたい、というふうに酔った頭で意見がまとまり、次はいわきで――となった。

それは覚えている。が、翌年やろうと約束したとしたら、酒で頭が狂っていたのだ。1年たち、2年がたった。いわき方面からさっぱり連絡がない。9人の飲み会でその話になって、ここはねじをまいておこうと衆議一決したのだろう。

還暦同級会以前に鬼籍に入った人間がいる。以後も、一人。そしてまた今月一人、鬼籍に入ったという。いわきでやってよというのは、人生の日暮れを迎えて、ポロッポロッと人が夕日の向こうに行ってしまう、自分たちの持ち時間も少ない、それも含めてできるだけ多く会うようにしよう、という意味合いもあるようだ。

わが家の近くに同級生が住んでいる。ほかにも数人、いわきに同級生がいる。暑気払いを兼ねて集まり、同級会開催事務局でも立ち上げなくてはならないか。

2010年7月23日金曜日

ヤマユリの花


梅雨明けと同時に、夏井川渓谷のヤマユリが開花した=写真。青空の下、入道雲をバックにヤマユリの花が咲き、芳香を漂わせる。これが、小学校あたりまでに刷りこまれた真夏のイメージ。セミ捕り、水浴び――。少年には、さあ遊ぶぞ、という合図のようなものだ。

梅雨が明ける寸前から晴天が広がり、それがもう一週間も続いている。わが家にはエアコンがない。窓や戸を開けっぱなしにしても、茶の間には熱がこもる。そこが、ふだんの仕事場。でも、こう暑くてはなにもできない。横になって本を読むだけだ。それでも汗がにじむ。

一日を二回生きる。昼寝をすれば、そんな得をした気分になるのだが、猛暑が始まってからは、これもままならい。すると、夕方には思考力が極端に落ちる。晩酌をやると気分転換が図られるのか、少し集中力が戻る。このブログくらいは、寝る前になんとか打ちこめる。

朝晩の散歩も休んでいる。この暑さでは散歩が苦行になる。いや、その前に散歩をしようという気持ちがわいてこない。先日、女性ばかりか男性が日傘をさして歩いているのを見た。違和感はなかった。私も帽子が欠かせない。伐採された山と同じだから、冬は頭が寒く、夏は暑い。いや、やけどしそうなくらいに熱がこもる。

梅雨が明けた日の朝、草むしりをしていたら、腰に鋭い一撃がきた。“ぎっくり腰”だ。歩く分にはいいが、腰をかがめたり、伸ばしたりすると、たまに痛みが走る。コルセット代わりにサラシをまいたら、これがいい。腹を守るのでアンダーシャツが要らない。これ一つでも何分の一かは熱中症対策になるだろう。

2010年7月22日木曜日

辻まことの墓の話


いわき地域学會の第263回市民講座が7月17日、いわき市文化センターで開かれた。元テレビ報道カメラマンの戸部健一さんが「辻さんのお墓――その作品と人生」と題して話した=写真

辻さんとは、「歴程」同人だった辻まこと(1913~75年)。詩人にして画家。父親は辻潤、母親は伊藤野枝で、野枝は関東大震災の直後、大杉栄と大杉の甥とともに虐殺される。

戸部さんはテレビ報道カメラマンになりたてのころ、東京・大森に下宿していた。近所に建具店があり、跡継ぎと親しくなった。両親は戸部さんと同じ福島県出身。跡継ぎの姉の良子さんは辻まことの妻。辻夫妻も近所に住んでいた。戸部さんは建具店の仕事場で二、三度、辻まこと夫妻を見かけた。それで、良子さんとも仲良くなった。

辻まことは草野心平と親しかった。川内村にも、天山文庫ができる前から心平と一緒に訪れている。昭和50(1975)年、辻まことが亡くなり、翌々年妻の良子さんも亡くなると、ひとり残された娘さんの意向で、川内村の長福寺に小さな自然石を利用した墓がつくられた。戸部さんは地域学會の巡検で、偶然、その墓の存在を知る。

市民講座では、そうしたいきさつやエピソードを語ったうえで「辻まことについて。真正面から研究してみたい、勉強したい」としめくくった。

私にとって、辻まことは山歩きの達人、山のエッセイストという印象が強い。『多摩川探検隊』(小学館ライブラリー)に街で生まれた一匹の犬を山に連れて行く話が出てくる。犬は夜の山におびえていた。それが、ひょんなことから野性を取り戻す。ヒマラヤよりウラヤマの一泊には空海の知慧がある、とうくだりに思わずうなった。

2010年7月21日水曜日

オンザロック


今年1月中旬、夏井川渓谷の「木守の滝」にできた氷をかち割って、無量庵の冷蔵庫に収納した。むろん、冷凍室に。6月末の「氷室開き」に合わせて焼酎のオンザロックを楽しむ――というのが魂胆だ。

いつもそんなことができるとは限らない。あとで氷を採りましょう――とほっといたら、もう氷が消えている。厳寒期でもタイミングがずれると、滝の天然氷を採取できないのだ。今年はそうならないように、氷塊ができ始めたらかち割り、かけらを集めて冷凍庫にぶち込んだ。量としてはサッカーボール大だろう。

で、半年近くが過ぎた。無量庵でアルコールをやるのは、土曜日に泊まるときだけ。このところ、無量庵に泊まる機会が減った。となれば、天然氷は眠っているしかない。〈ウチでやろう〉。天然氷をわが家に持ち帰った。

ちょうどその日、東北地方が梅雨明けをした。いいぞ、いいぞ。汗だくになって、夕方を迎え、グラスに天然氷を入れて「田苑」を注いで飲んだ=写真。わが家の「氷室開き」だ。以来、きのう(7月20日)まで、少しずつ天然氷を入れて晩酌をしている。

「だれかが来たときに氷を出すのではなかったの?」とそばでいう人間がいる。が、この暑さだ、いつ来るか分からない人間を待ってはいられない。といっても、毎晩やっていると、氷がなくなる。最初は天然氷のオンザロック、次からはサイコロのような製氷で我慢する。それも間に合わななければ水で――。

エアコンのないわが家で、気分だけは二倍も三倍も涼しくしてくれる天然氷ではある。

2010年7月20日火曜日

平六小校歌と草野心平


昭和28(1953)年9月24日、草野心平は平六小の校歌をつくるため、下調べにやって来た。神谷(かべや)村が平市と合併したのは昭和25年5月。村の名が消え、神谷小も平六小に改称された。それから3年余、平六小の名にふさわしい校歌を――となったのだろう。

学校のすぐ裏手を小川江筋が流れ、学校前方南の水田には立鉾鹿島神社の森=写真=が見える。地元からの要請で心平に話を伝えた、心平のいとこの平二中校長草野悟郎さんも招かれ、一緒に学校の内外を見て回り、学校の沿革を聞いた。

その晩、学校の近くにある大場家で歓迎の宴が開かれた。心平と悟郎先生、校長やPTA役員らがごちそうをつついてにぎやかに語り合った。このあと、心平は大場家に泊まらず、悟郎先生の家に行く。翌朝、悟郎先生の家にやって来た校長、PTA会長らに頼まれて色紙に何かをかく――という、よくある展開になる。

昭和26年発行の『神谷郷土史』によれば、合併当時、大場家は父子で村医・校医を務めていた。若先生の夫人はPTA副会長だった。『神谷郷土史』は最後の神谷村長、神谷市郎さんが著した。

それはさておき、『草野心平日記』を読んだ印象でいえば、いわき市内にある心平作詞の校歌のいくつかは、悟郎先生が橋渡し役になって、できた。いとこを介した依頼では断れないだろう――頼む側にはそんな期待と打算があったに違いない。要するに、悟郎先生を通せば間違いがない、ということだ。

以上のことは『神谷郷土史』の部分を除いて、「歴程」369号(草野心平追悼号)所収の悟郎先生の追悼文で知った。『心平日記』には、残念ながらこのへんのところが欠落している。

神谷へ下調べにやって来たほぼ1カ月前、心平は初めて川内村を訪れ、長福寺を根城に矢内俊晃住職らと5夜6日、酒につかり続けた。『心平日記』はこれも欠く。

本人の日記、関係者の文章・談話などを組み合わせると、「あるとき」あるいは「そのとき」の心平の行動を知り、内面まで探り得るのではないか、という期待があるのだが、そんなときに限って『心平日記』には欠落がある。

♪立鉾の 森のみどりば/小川江の 清き動脈/阿武隈の 南のはてに/そびえたつ わが学び舎(や)ぞ/ああ神谷/われらが母校 平六小

『心平日記』に記されていた完成校歌の一番である。私の子どもたちはこの校歌を歌って小学校を卒業した。

2010年7月19日月曜日

短梅雨


「短梅雨(みじかづゆ)」。そんな言葉が思い浮かぶ。梅雨入りは遅く、梅雨明けは早かった。

今年の、東北南部の梅雨入りは6月14日。平年は6月10日だから、4日遅い。梅雨明けはきのう、7月18日。平年の7月23日より5日早い。要するに、平年より9日、梅雨の期間が短かった。「長梅雨」はよくあるが、「短梅雨」はほとんど記憶にない。

土曜日に青空が広がった。日曜日のきのうも朝から青空が広がった。この時期、一日だけなら梅雨の晴れ間だが、2日続けば梅雨明けだ。土曜日に九州南部を除いて関東・甲信越まで梅雨が明けたと聞いて、「東海・関東型気候」のいわきは実質梅雨明け、東北南部として梅雨が明けるのも時間の問題――そう思った通りになった。

日曜日早朝、夏井川渓谷の無量庵へ出かけた。開けられるところは全部開けて風の通りをよくする。室温はすでに28度。たまに谷風が通り過ぎる。そのときだけ、「涼」を感じる。

菜園に出てキュウリとキヌサヤエンドウを摘む。草を引く。たちまち汗みどろになる。ときどき無量庵に退避する。また外に出て草を引く。だらだらと、決して熱中しないで、草を引く、無量庵に戻って横になる……。

午前11時前には早くも入道雲が成長していた=写真。汗をたらし、水分を補給し、時折谷風になでられながら昼寝をして、今年初めて、夏を実感した。

2010年7月18日日曜日

箱庭キュウリ


およそ1カ月前、わが家の軒下に長ひょろい発泡スチロールの箱を置き、夏井川渓谷の畑から持ってきた土を入れてキュウリ苗3本を定植した。支柱を立て、つるの生長に合わせてテープを張った。つるも伸び、葉がすき間なく広がっている=写真。今のところ、3日に一度の割合でキュウリ(1本)を摘んでいる。

キュウリを毎日観察するのは初めてだ。本づるは既に人間の身の丈を超えた。先日、その芯を摘んだ。すると、子づるが伸び始めた。

家庭菜園の指南書は何冊か持っている。たとえば、「子づるは2~3本伸ばし、それ以外の子づる、孫づるは繁茂状況を見ながら葉を2枚残して切り止め、全体の風通しや採光をよくする」とある。夏井川渓谷の無量庵ではほとんど実行したことがない。それでも、結構、実はなった。いい加減な週末菜園だ。

その修正、というか原点回帰の意味も込めて、わが家の箱庭キュウリについては基本を守ることにした。まず、芽かき。下から5~8節の脇芽を摘む。花も、果実も摘む。次に、摘芯。さらに、子づるの伸長と摘芯。朝晩の水やりも欠かせない。軒下にあるから天からのもらい水はない。晴れるとたちまち土の表面が白く乾く。こまめに見て水を補給する。

次から次に葉が大きくなる。ほうっておけば風通しも悪くなる。光も奥まで届かなくなる。傷んだ葉を摘む、そうでない葉も適宜、風通しと採光を考えて摘む。そんなことを意識するようになった。きめの細かさが必要なのに、全く雑だったのだ。

つるが生長し、葉が茂った今は、苗3本にしては箱が小さすぎる、ということも分かった。せいぜい2本。繁茂状態のピークを頭に描けなかった想像力の貧困とけちくささも思い知るのだった。

2010年7月17日土曜日

朝のモズ


朝ご飯をすませ、茶の間で一服していると、庭の方からけたたましい鳴き声が聞こえてきた。キチキチキチキチキチ……。姿は見えない。が、モズだ。秋ではないから高鳴きとは違う。時々、声の聞こえる方角が変わる。木から木へ、あるいは電線へと飛び移っているのだろう。

すぐ近くに来た。開け放ったガラス戸をブラインドにして見上げると、隣家へと斜めに張られた電線に止まって、下を向いて盛んに鳴いていた=写真。これを「さえずり」とは呼ばないだろう。「さえずり」というよりは、何かに対する「警戒」「威嚇」だ。

猫は鳥を見ると、狩猟本能をかきたてられる。時々、猫が飼い主に見せに来るのか、いたぶりに飽きて放置するのか、ネズミのほかにスズメの死骸が室内に転がっている。ヒヨドリも犠牲になる。その猫が庭にいるのか。それで、猫を威嚇しているのか。地面を見すえたその目線、集中力は尋常ではない。

獲物のカエルなどがいれば、黙ってサッとくわえに舞い降りる。鳴いて存在を知らせるのは、「逃げろ」というようなものだ。で、庭の茂みにノラ猫でもいるのではないか、そう思ったが、猫など相手にする必要はないだろう。と思えば、モズが地面を見ながら盛んに鳴いている理由が分からない。

そのモズは、朝晩、散歩に出たとき、近くの畑の柿の木の上や、電線に止まっているのと同じ個体だろう。黙って地面を凝視し、さっと地面に舞い降りてはまた戻る。そんな休み場兼監視所があちこちにあるようだ。けさ(7月17日)も同じ電線の、同じ場所に陣取ってキチキチキチキチ……やっていた。

2010年7月16日金曜日

初ヒグラシ


セミの出現順は決まっている。ハルゼミやエゾハルゼミはさておき(確認していないので)、夏井川渓谷ではニイニイゼミ、ヒグラシ、アブラゼミ、ミンミンゼミ、ツクツクボウシの順で声が聞かれる。

その渓谷で7月11日朝、今年初めてヒグラシの声を聞いた。ニイニイゼミはそれより少し前に耳にしている。曇天が「カナ、カナ」の声を誘ったのだろう。一度空気を震わせたあと、沈黙した。10時直前だった。夜明けと勘違いしたの、カナ。

それから3日後の夏井川渓谷。尾根が時折、霧に包まれていた=写真。ヒグラシの声はなかった。が、ニイニイゼミの声が、まるで耳鳴りのように響いていた。

私は一年中、右耳にニイニイゼミを飼っている。外側から聞こえるニイニイゼミか、耳の中に飼っているニイニイゼミか、判断がつかないときがある。そのくらいニイニイゼミはかぼそく静かだ。

松尾芭蕉が山寺(山形県・立石寺)で詠んだ「閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声」は、場所を夏井川渓谷に替えても変わらないだろう。旧暦5月27日の立石寺登山。今年の暦でいえば、ざっと10日前。今年のような梅雨空が広がっていたのかもしれない。暗欝で蒸し暑い、人語もない。

そんな中で、ヒグラシの「カナカナ」が空気を切り裂くとしたら――。強く硬い声だから、岩に当たってはね返るだろう。が、かぼそい声のニイニイゼミだ。はね返らずにそのまま吸収されて岩の芯にまで到達する、そんなイメージがわく。

いや、芭蕉自身、耳鳴りの持ち主で、岩を耳に例える発想ができたのではないか。だから、「しみ入る」――などと、酔った頭は勝手に妄想をたくましくするのだった。

2010年7月15日木曜日

サシバ


きのう(7月14日)の朝、夏井川渓谷の無量庵へ出かけた。そちらに置いてある本が2冊ほど必要になった。庭の奥にある小さな畑のキュウリも、肥大しすぎていないか気になる。若い「三春ネギ」、これも何本か取らないと――。食べるのではなく、「見本」として。

「三春ネギ」について聞きたい、という話が前夜、突然、舞い込んできた。しかも、時間がない。あした(14日)か、あさって(15日)のどちらか、という。いくらなんでも資料をそろえる時間がほしい。15日にしてもらった。

本はそのために欠かせない、ネギの現物も見せたい――というわけで、きのう朝一番で夏井川渓谷へ出かけたのだった。その顛末はいずれ報告するとして、畑で「三春ネギ」を間引いていると、近くで「ピューウイ、ピューウイ」という声がした。タカだ。

渓谷にいるタカ類ではっきりしているのは、留鳥のトビ。ほかにオオタカ、サシバ、そしてハチクマもいるらしい。

全天が鉛色の雲に覆われ、時折、渓谷の山稜部分が霧に包まれる。そんな空模様だったからか、すぐ近くまで降りて来て鳴き声を発していたのだ。鳴き声からするとオオタカ。が、人間の姿を見て飛び立ち、近くの立ち枯れた木のてっぺんに止まっている姿を見たら、サシバだった=写真

「ピューウイ、ピューウイ」は「ピューイ、ピューイ」ではなく、「ピュークイ、ピュークイ」だったのだ。

ウグイスやガビチョウなどの個性的な声と違って、タカ類は識別が難しい。こちらの耳も悪い。となると、今までオオタカだと思っていたのはサシバだったかもしれない。声に慣れるしかないが、これが難しい。しょっちゅう鳴いているというわけではないのだ。現実は図鑑より複雑、というところか。

2010年7月14日水曜日

ツブガイ


ツブガイ(巻貝)をもらったというので、酒の肴に煮つけが出てきた=写真。カタツムリ、いやエスカルゴ用の小さなフォークで取り出そうとしたら、ふたが見えない。中身はカラ? それとも奥に引っ込んでしまった? やや小ぶりな貝二つはふたが見えた。フォークで肉を引っ張り出して食べた。が、残りはフォークでも、鉄串でもひっかからない。

次第に腹が立ってくる。「カラじゃないの、これ」「店で買ったそうだよ」。プロが目を通したからには、中身が詰まっていないはずはない。ポリ袋に入れて、“肉たたき”で殻を割ったら、らせん状の貝の骨と一緒に中身が現れた。

なぜ、この巻貝たちはふたが見えなくなるほど身が奥に引っ込んでしまったのだろう。解せないまま、中身をはがして口に入れたら、貝の殻だか骨だかのかけらがザリザリいった。それだけで食欲がなえる。貝を食べるのに、何でここまでしなくちゃならないの、そんな貝を何で売るの――と、またまた腹ふくれる思いになった。

それから一日おいて、今度は別の人からシュウリガイが届いた。みそ汁になって出てきた。浜の人間ではないから、イガイ(シュウリガイ)と外来種のムラサキイガイの区別がつかない。ムラサキイガイは春に貝毒をもつ。今は7月、しかもシュウリガイだから大丈夫と思いつつも、頭がどこかで食中毒を心配している。

全体に貝の開きが小さい。こじ開けると、身が灰色っぽいものもある。ちゃんとしたものは黄色だ。もったいないから、色の落ちたものも口にした。大丈夫だろうな、とやや引きながら。

きのう(7月13日)書いたキノコのマメダンゴ、ツチグリの幼菌の外皮にも似たような心配を抱いた。硬くなりすぎた外皮を食べて消化不良にならないか、つまり下痢しないか、と。さいわい、どちらも消化器を驚かすような事態にはならなかった。

2010年7月13日火曜日

マメダンゴ再び


去年の今ごろ、マメダンゴ(ツチグリの幼菌)が夏井川渓谷の無量庵の庭で採れた話を書いた。

今年も発生するはず――6月下旬から、週末、無量庵へ行くたびにてのひらで苔に覆われた地面を探った。既にツチグリは地上に姿を現しつつある。外皮が裂け、球状の膜の先端から胞子を放出したあとは、湿っているとヒトデのような姿になる。が、梅雨でも乾燥の度合いが高いのか、丸まっているものが多かった。

とはいえ、苔の下にそれらしい“球状”の反応はなかった。7月4日も同じ。11日は? 〈あれれっ!〉。苔や土の間からマメダンゴが頭をのぞかせているではないか。よく見れば、至る所にある。指でえぐると、たちまち20個ほどが集まった=写真。さらに20個ほどを採った。

去年の経験でいえば、ここまでくるともう食に適さないものが多くなっている。二つに割ると既に胞子が形成されていて、“黒あん”状態になっているのだ。今年のマメダンゴも38個がそうだった。1個が“白あん”、もう1個がほぼ“白あん”。それ以外は捨てるしかない。

が、どうにもあきらめきれない。外皮のコリコリだけでも味わいたい。“白あん”のほかに、10個ほど中の“黒あん”をこそげ取り、外皮だけを残して汁の身にした。

キヌサヤエンドウ、新ジャガ、そしてマメダンゴ――というのが、記憶にある阿武隈高地の定番みそ汁。いや、梅雨時にしか味わえない“奇食”だ。マメダンゴは、ほんとうは外皮も白いはず。すっかり黒ずんだ外皮には目をつぶり、気持ちだけマメダンゴのみそ汁を味わった。

今年の教訓はより動物的だ。イノシシの嗅覚にはかなわないが、それに近いような形でてのひらの感覚を研ぎ澄まさないといけない。でないと、白く小さな幼菌は手に入らない。

あるいは、イノシシの吻(ふん)の代わりに、潮干狩りのときに用いる熊手のようなもの(代用品としてば櫛でもいい)、それで土の中を探る――といったことを考えないと、本物の味は得られない。ゴムのように硬い外皮をかみながら思ったのはそのことだった。

2010年7月12日月曜日

当日投票


「期日前投票」がある。その前には「不在者投票」があった。15年前から週末に夏井川渓谷の無量庵で過ごすようになった。以来、それを理由に、あらかじめ投票を済ませ、選挙当日の夜は出社して開票報道に備えた。

リタイアした今も選挙が始まったら、期日前に一票を投じる。選挙当日は無量庵で畑仕事をし、夜は自宅でテレビを見ながらチビリチビリやる――そんなふうに変わった。

が、今度の参院選はどうか。なぜか「期日前投票」に行く気にはなれなかった。久しぶりに「当日投票」になった。昔は「投票一番乗り」を試みたこともあったが、地区のお年寄りにはかなわなかった。朝一番の時間帯は結構にぎわうのだ。

投票はいつも近くの小学校の体育館で行われる。体育館は今年、工事に入った。投票日だけ体育館が開放されるのかな――。投票開始の時間に合わせて、夏井川渓谷へ出かけがてら、学校へまっすぐ伸びる道路を車で向かった。

するとすぐ、〈そんなことするはずがない〉と分かった。校庭に車が止まっていないのだ。代わりに、手前の公民館の駐車場がときならぬにぎわいだ。公民館が投票所になったのだ。「期日前投票」に慣れてしまったばかりに、投票所が代わったことなど、頭に入っていない。

いや、「当日投票」を続けていると思われる人でも、学校へと足を運ぶ。学校の方から戻って来る車もある。公民館の玄関には確かに投票所の看板が立っていた。人と車が行き来する道路沿いにも案内板を立てておけばよかったのに――。一瞬、思い悩んだ人間はそう感じた。

投票を終えて、夏井川渓谷へ――。公民館から車で道路に出ると、前方に学校へ向かう人がいた。車を減速し、カミサンが声をかける。「あら、そうだったの」。苦笑いしながら女性は公民館へと道を戻った。

夏井川渓谷への道すがら、学校へ、地区公民館へ足を運ぶ人の姿が見られた。夏井川渓谷でも新しい集会所が投票所になっていた=写真。1票1票の思いが伝わる道行きだった。

2010年7月11日日曜日

夏の花


7月の声を聞くと、夏の花が咲きはじめる。ネムノキの花が真っ先に思い浮かぶ。もう咲き出していることだろう。が、わが家の周囲や夏井川渓谷への道路沿いでは未見だ。

クチナシ。これも7月の花だ。金曜日(7月9日)、散歩コースの「草野の森」にあるクチナシの白い花が咲き出した。夕方通ったら、かすかに甘い香りがした。近所の旧家の庭にあるノウゼンカズラも花をつけた。谷間のカンゾウも咲き出した。


同じ日の夜、人間の世界でも急に「黄金(こがね)の花」が咲いた。BSJの「お宝鑑定団」を見ていたら、彫刻家山崎朝雲の「達磨像」が鑑定に出された。それっとなった。

ちょっと前、知り合いからエビス・ダイコク像の写真が届いた。作者は山崎朝雲。どんな人なの、ということだった。むろん、知らない。が、ネットで多少のことは分かった。高村光雲の弟子で、文化功労者だ。ただものではない。

で、テレビに山崎朝雲の作品が出ていることを、手紙の主にカミサンが電話した。向こうは向こうで持ち主(妹)と連絡を取り、番組を見たらしい。

「達磨像」の鑑定結果は400万円。エビス・ダイコクはそれよりかなり小さいから、一つ50万、合わせて100万円――たわむれにテレビを見ながら私が言うと、その金額が独り歩きを始めたようだ。女性陣が電話で盛り上がっていた。

さて、また植物だ。近所の、今は無人の伯父の家の庭で、モントブレチア(ヒメヒオウギズイセン)が咲いている。それを切って花瓶に挿した=写真。夏井川渓谷の無量庵にあるアーティチョークのつぼみも切り取って飾った。これらはいうならば、夏の花第一波。夏井川渓谷では間もなくヤマユリも咲く。つぼみがかなり膨らんできた。

今日はこれから選挙に行って、夏井川渓谷へ行ってと、やることがいろいろある。夜にはどんな政治の花が咲くことだろう。

2010年7月10日土曜日

ネギの種を採る


やっと「三春ネギ」の種を集めて冷蔵庫にしまった。

黒い種が見え始めたらネギボンコ(ネギ坊主)を花茎から切り取り、乾かす。天気がよければ問題はないが、そうは問屋が卸してくれない。

今年はいわきでも春先に何度か雪が降った。日照不足による低温・多湿が大きかったのだろう、ネギボンコの形成が例年より10日前後遅れた。採種の時期もいつもの年よりずれ込んだ。それで、梅雨期に入ると、乾いたり、湿ったりの繰り返し。ネギボンコといえども乾ききらないのだ。

だらだら陰干しをしていてもラチが明かない。7月に入ったら、今度は高温・多湿が種を痛めつけるだろう。その7月に入ってしまった。晴れあがった日の夕方、陰干しに始末をつけることにした。

ときには天日にさらしたので、乾ききったネギボンコもある。ネギボンコを振ればパラパラと種がこぼれる。が、もんだり、たたいたりしても緑色の皮をかぶったままの種がある。干しても干しても乾ききらないのだ。そんなのはもう無理矢理、割いて黒い種を取り出すしかない。

ネギボンコの数は例年より多かった。が、種は思ったより採れなかった。ごみや種の皮、身のない種を選別するために、いったん水につける。と、沈む種(身が入っている)と同じくらいに浮く種(中身がからっぽ)があった。今年の歩留まりは悪い。

例年だと、一晩陰干しをすれば種が乾いた=写真。それを小瓶に入れ、乾燥剤を添えて10月初旬の種まき時期まで冷蔵庫にしまっておく。今年は陰干しが二日かかった。なんだか段階、段階での状況がよくない。回収した種もどこまで正常か、心配になってきた。去年までは「ばらまき」だったが、今年は「すじまき」にするしかないようだ。

2010年7月9日金曜日

青空と特急列車


朝6時前に起きたら、東の窓が赤黄色に染まっていた。早朝だというのに、太陽がカッと照りつけている。梅雨の晴れ間、旧暦でいえば最後の「五月晴れ」だろう。きのう(7月8日)は、平では真夏日になった。目覚めた瞬間にその予感がした。

夏井川渓谷の無量庵へ行ってこよう、と思った。太陽が空高く昇る前に、キュウリを摘まなくては――。日曜日の7月4日に初めて収穫した。まだ小さいものはそのままにしておいた。ほうっておくと“へちま”になる。その前に摘まなくては栽培している意味がない。

朝飯前の7時過ぎに車で出かけた。小学生が集団登校をする直前だ。交通指導をしているNさんにあいさつしながら、まだ子どもたちが歩いていない通学路を進む。踏切に差し掛かったら遮断機が下りた。見たことのあるスマートな列車がやって来た=写真。「スーパーひたち」ではない。「フレッシュひたち」だ。

夏井川渓谷で大・中・小4本のキュウリを摘み、三春ネギの苗を間引きし、キヌサヤエンドウの未熟果を少し摘んで、とんぼ帰りをした。それから、ふと思った。「フレッシュひたち」がなぜ、いわき駅より北を走っているのか。

ネットで検索して分かった。いわき駅の北隣、草野駅に列車の「留置場」があるのだ。常磐線の時刻表によれば、いわき―上野間を行き来する「フレッシュひたち」は上下各1本。夜10時57分に着いたのが草野駅で一夜を明かし、翌朝7時23分いわき発として上野へ向かうのだ。いわき駅までの移動中の姿を見たわけだ。

正式な時刻表からは分からない、「フレッシュひたち」の走りだ。車体の色は何パターンかあるらしく、きのう見たのは足周りが赤っぽい「スカーレットブロッサム」だった。水戸の「偕楽園と好文亭」をモチーフにしている。ちなみに「ブルーオーシャン」はいわきの「塩屋埼と太平洋」だという。

「撮り鉄」ではないが、青空を背景に「フレッシュひたち」を撮ることができたのはよかった。

2010年7月8日木曜日

「なごむぜ」


若い友人夫婦の娘2人を、しばらく「疑似孫」と言ってきた。娘たちも「タカじい」と呼んできた。今もそう呼んでいる。息子夫婦に子供が生まれてからは、「疑似」という言い方もないなと、と思った。「助教授」が「准教授」に代わったように、「准孫」と言い換えよう。今は「准孫」と言うことにしている。

昼間、息子夫婦が来て上の孫をおいていった。夕方6時に、親と一緒に「准孫」が来るというと、旧知の間柄の息子夫婦も下の孫を連れてやって来た。夫婦2人だけの夕餉が、その晩は一挙に10人になった。

准孫は小5、小3。孫は3歳、1歳。男どもは焼酎、運転手役の女性陣はカミサンを除いてノンアルコールの「ビール」で盛り上がった。とはいえ、孫がわきで遊んでいるから、気炎を上げるような飲み方はできない。ときどき孫がまとわりつくので話も中断される。ところが、ありがたいことに女孫が男孫の面倒をみてくれるようになった。

小5は本が好き、小3は絵が好き。その晩、小3が1枚の画用紙に描いたり、張ったりした漫画ににんまりした。

「A(エース)」という名のネコがいる。人間の「ママ」がいる。「明日の未来はここから……」というキャッチコピーのある、コーヒーだかがカップの中で湯気を上げている絵がある。そして、「海 ボッサ」のタイトルの下に音楽がガンガン流れているスピーカーの絵もある。

極めつけは飲食店の絵だ=写真。壁にウイスキーボトルとグラスと思われるものが並んでいる。「A」と思われるネコがカウンターに陣取って、「なごむぜ、この店。」なんて、一丁前の口を聞いている。そのそばでは、ママさんが「あら、いいこというじゃない?」。

なんだ、この決めゼリフは。どこで覚えたのか。漫画の本にあるのか。親がそんな会話をしているのか。「なごむぜ」などという言葉をはいたことのない人間は、戸惑いながらも飲み助の本質をついた小3の漫画に感心する。

ママさんは自分の母親がモデルだろう。顔が似ている。「あら、いいこというじゃない?」という言い方もそっくりだ。まさか自宅の台所がスナックのようになっているわけではないだろうが。

「物語」が立ちあがって来る漫画だ。なにかの模倣にしても、それを切り取る力がついた。オリジナルならなおさら面白い。

2010年7月7日水曜日

テレビ観戦


「シャトルバス運行」の看板があちこちに立っていた。プロ野球の巨人―広島の公式戦がいわき市のグリーンスタジアムで行われる。巨人がいわきで初めて公式戦に臨む――となれば、どっと観客が押し寄せるだろう。そのためのシャトルバス運行の案内だった。

毎日、いわきがらみの文献調べに没頭している。息抜きは庭の花や虫や鳥を見ること、そして散歩をすること、晩酌をしながらテレビを見ること。アジサイ=写真=は今、一番きれいなのではないだろうか。

大相撲は、放送中止が決まった。が、夕方6時台に幕内の取組をダイジェストで放送する。深夜でないところがいい。

お年寄りの楽しみの一つは、テレビ桟敷に陣取ってチビリチビリやることだ。私は「水戸黄門」(再放送)も大相撲も見ないが、というより見る時間がないが、近所にはそれを楽しみにしている人たちがいる。その人たちの残念な表情が思い浮かんだ。大相撲の、6時台のダイジェスト放送は、それを補うものだと解したい。

きのう(7月6日)、「シャトルバス運行」をする看板が立っていた、巨人―広島戦をBS日テレで見た。今年初めてのテレビ観戦だ。巨人が先行されては追いつき、突き放されてはまた追い上げる。最後は主砲の一発で相手に引導を渡す――そんな試合になった。

巨人ファンが圧倒的に多いいわきだ、足取り軽いご帰還だったことだろう。久しぶりに私も飲みすぎたような感じだった。

2010年7月6日火曜日

緑の破れ目


夏井川渓谷はすっかり青葉に覆われた。春先にはあちこち、急斜面に倒れて引っかかっていた赤松の枯れ木が目についたが、木の芽が吹くと、若葉の陰に隠れて見えなくなった。立ち枯れの赤松も途中まで緑に包まれている。緑のカーテンが冬まで無残な姿を隠してくれるだけでもありがたい。

岩盤の上にたまった薄い土壌に赤松が生え、モミが生え、そしてツツジ類その他が生える。それが渓谷の主な樹種。〈あれっ、緑のカーテンに破れ目ができている。岩盤が見える〉。最初から岩盤がむき出しになっているところはともかく、緑で覆われたところに穴があいたようになって岩盤が見えるのはめったにないことだ。それが目に入った=写真

そばまで行って見たわけではないから何とも言えない。が、“定点観測”を重ねてきた経験から、なにかおかしいぞと肉眼が反応した。落石ではなくて、岩盤から土砂が崩れ落ちた、そんな印象だ。双眼鏡をのぞいて、いっそうその感を強くした。

落石ならば岩盤の表面が赤茶けている。空気にさらされた岩盤は白茶ける。岩盤は白いまま。茶色く見えるのは土砂、そして枯れ木が乱雑に横たわっている。立ち枯れた赤松が幹の途中から折れ、ほかの木々に引っかかった状態で倒れているのも見えた。最近の雨で崩れたのだろう。

渓谷の赤松は、大樹があらかた枯れた。白い卒塔婆のように立っている。枯れたら一気に倒れるのかと思ったが、そうではない。こずえから徐々に折れていく。その過程で幹が折れ、土砂が崩れたのだろうか。破れ目がこれ以上広がらないといいのだが。

2010年7月5日月曜日

草刈り


夏井川渓谷の無量庵は、庭だけは広い。元は畑だった。そこに半分、家を建てるために盛り土をした。下の庭と家のある上の庭は石垣で仕切られている。要するに、庭が二段になっている。下の庭は放置しておくとヨシが生い茂る。無量庵に通い始めた15年前がそうだった。

そのころは、石垣の上、家の立つ庭だけ大鎌で草を刈った。40代半ば。体力もまだあった。しかし、それでもあごが上がった。下は当然、ほったらかしにしておくしかない。それではヨシ原に化ける。草刈り機を操る知人(女性)に草刈りを頼むことにした。「あなたは自分の足を刈ってしまうから」と、カミサンが勝手に決めたのだった。

以来、毎年2回(6月と10月)、一日がかりで庭の散髪をしてもらう。今年も先日、第一回の散髪が終わった=写真。刈り草は、前は川前の畜産農家が「牛のえさに」と、草刈りが終わるやいなや電話をかけてきて、きれいに持って行った。あとで牛フンをもらう――それが取引条件だったが、このごろは連絡がない。牛の飼育をやめたのだろうか。

連絡がない以上は、刈り草を堆肥枠に投入するしかない。日曜日(7月4日)、カミサンが熊手でかき集め、ネコ(一輪車)で運んで山のように盛り上がったのを、私が踏んで平らにした。軽労働だが、蒸し暑いのですぐ汗がにじむ。これが最近はこたえる。長い間ビルの中で過ごしたために体が順応できていないのだ、とカミサンは言う。そうかもしれない。

朝、わが家から無量庵へ向かう道すがら、各地で草刈り隊を見た。とっくに終わったところ、これから始まるところ、個人で草刈り機を操っている人と、きのうの日曜日は草刈り日和だったようだ。農村景観はこうした草刈りによって維持されている。無量庵からの帰路、野道に出ると刈られた青草の匂いが車に飛び込んできた。

2010年7月4日日曜日

キュウリの花


毎年、キュウリ苗3~4株を夏井川渓谷の無量庵の畑に定植する。夫婦二人で食べるだけだから、そんなに量は要らない。生をサラダに使い、ぬか漬けにして食べ、余ったものは古漬けにする。去年は株が少なかったので、古漬けに回すほどの量は取れなかった。

キュウリのポット苗をもらった。少量の露地栽培だ、予定していた数の倍はある。で、夏井川渓谷の無量庵のほかに、わが家の軒下でも栽培することにして、3週間ほど前に定植した。

無量庵へ行くのは週末だけ。その間はキュウリに限らず野菜の観察がゼロ、ということになる。わが家の軒下の箱庭栽培なら、毎日、キュウリの葉が広がったり、つるが伸びたりする様子を観察できる。

植物は花が咲いて初めて実がなる。野菜、果樹、その他の草や木も同じだ。去年までは1週間ごとに、収穫時期には3~4日ごとにキュウリの実を摘みに無量庵へ出かけた。

肥大を始めたキュウリは一晩ごとに大きくなる。そのことは無量庵に泊まって知った。キュウリについて分かったのはそれくらい。生育過程の大部分は見ていないのと同じで、今度初めてキュウリの全体を知るチャンスができた。

いちいちメモをしないから、いつ花が咲き出したか、いつ実が大きくなり始めたか、などは漠としているが、この20日ほどの間に支柱を立て、ネット代わりのテープを張ったら、人間の背丈ほどにつるが伸びてきた。黄色い五弁の花も咲き始めた=写真。花の元にはいぼいぼのある小さな実も付いている。これが肥大して人間の口に入るのだ。

小さな実は、急には大きくならない。大きくなり始めたら、急に大きくなる。これまでの経験と、毎日、キュウリのつるを見ていて分かったのが、まずこれだ。

無量庵のキュウリは、3日前には10センチに伸びた実が二つあった。きょうはこれから無量庵へ出かける。どこまで大きくなっているか。初収穫の楽しみがあり、大きくなりすぎてはいないかという心配もある。

2010年7月3日土曜日

かっこんばな


こちらの耳には方言の「かっこんばな」ないし「たっぽんばな」と聞こえた――としての話だ。旧知の夏井川渓谷の住人から、わが家に電話がかかってきた。〈庭の「かっこんばな」が花をつけた。白い色のものもある。珍しいのかどうか〉。本来なら、私が逆に質問するような事柄だ。

「かっこんばな」とはホタルブクロのこと。花の色は赤紫色だ=写真。というより、図鑑にはその色が標準的に載っている。もちろん、白花もある。が、刷り込み現象と同じで、ホタルブクロといえば赤紫色の花が思い浮かぶ。いや、赤紫色でないといけない、という思いが強い。

ついでながら、「かっこんばな」「たっぽんばな」のほかに、いわき地方ではホタルブクロのことを「ちょうちんばな」「あめふりばな」とも言う。

夏井川渓谷で、平地の里山で、このホタルブクロが花盛りだ。ほかの草に隠れるようにしながら釣り鐘状の花を垂らしている。赤紫色の花を見ると、梅雨の深まりを実感する。やはり、「あめふりばな」だ。

ところが、ここ数年、白花もあちこちで見かけるようになった。昔もこんなに多かっただろうか。いや、白花の記憶は薄い。そのせいもあって、白花にはあまり興趣をそそられない。なんとなく味気ない思いがするのだ。

ホタルブクロは、東日本では赤紫色の花が多く、西日本では白色の花が多いとか。白花の分布範囲が東に拡大しつつあるということか。気になる現象の一つだ。

2010年7月2日金曜日

いわき観光事典


いわきを訪れる観光客について、市民が「いわきはこういうところですよ」と説明する。それが、もてなしの第一歩。というわけで、2年前に『いわき観光事典』ができた。編集・発行はいわき観光まちづくりビューロー。その本づくりに携わった。

采配を振ったのは、今は亡き里見庫男さん。当時、いわき市観光物産協会(いわき観光まちづくりビューローの前身)の会長だった。里見さんの依頼があって、3人がいわき市の概要・自然・歴史に分けて分担・執筆した。

その『事典』に基づいて、去年(2009年)秋、最初の「観光基礎講座」が開催された。里見さんは、『事典』は手にしただろうが、講座の開催は天上から見守るしかなかった。そして、先日、改訂版=写真=を使った3回目の観光基礎講座が始まった。

日程は6月29日と7月5日の2回。歴史を担当した佐藤孝徳さんが5月末、突然、天に召された。代役と言えば失礼だが、歴史は彼の告別式で弔辞を読んだ山名隆弘さんが担当することになった。

初日、私は次回に予定していた分も含めていわき市の概要1・2を話した。残る一コマは自然の高橋紀信さんが担当した。次回は山名さんが二コマ、高橋さんが一コマを担当する。

初版はミスが多かった。それは正直に言っておかなければならない。で、改訂版が出た。やっと、「『いわき観光事典』がありますよ」と口にすることができる。里見、孝徳さんにもそのことは報告しようと思う。

2010年7月1日木曜日

蒸し部屋


蒸しむしする日が続いている。きのう(6月30日)は土砂降りで、蒸し暑さは小康状態だった。が、雨が上がった夕方、久しぶりに散歩すると、やはり汗がにじんできた。

朝6時過ぎに起きたら、五月晴れ。太陽がギラついている。そんな日には、汗まみれになってまで散歩はしたくないなと、勝手な理屈をつけて外へ出るのをやめる。夕方も、太陽がカッと照りつけている。同じ理屈で散歩は休みだ、となる。

わが家にはエアコンがない。戸を全開しても茶の間や、2階が蒸し部屋になる。かろうじて寝室が少ししのげるかな、という程度。蒸し暑さは毛皮を着ている猫も同じらしく、北側の部屋に引っ込んだり、人間の寝室で長々と体を伸ばしたり=写真

これが、同じいわき市でもテレビで気象情報が伝えられる小名浜と、小高い丘を隔てて内陸部にある平の違いだ。

蒸しむしした日にはほとんど調べ物が進まない。汗がにじんできて、腕が資料に粘りつくこともある。たまらず扇風機を引っ張り出す。

会社に勤めていたころは外回りが中心だった。それがやがて内勤になり、日中、ビルの中にいるようになった。エアコンが機能しすぎて体を冷やすくらいだった。

勤めから解放されたら、今度はねっとりするような空気に包まれている感じ。日本の夏は亜熱帯になるのだ。わが家では、夏場は半ズボン、上は下着と半袖シャツだったが、このごろはTシャツ1枚だ。

生理的に「我慢ができない」という老化現象が始まったのかもしれない。十代の半ばに出会い、一緒に学び、遊んだ人間と、60歳を過ぎて旅行をするようになった。それが去年の北欧旅行だった。その仲間の2人がその後、大きな病気にかかった。何が起きても不思議ではない年齢になった。そんなことにも思いが及ぶ蒸し暑さだ。