2010年8月31日火曜日

伏せ込み


土曜日(8月28日)の夕方、夏井川渓谷の無量庵に着いた。と、すぐ道ですれ違ったからと、長男一家がやって来た。チビどものために郡山市へ新幹線の車両を見に行った。ついでに阿武隈高地のわが実家へ回った。その帰りだという。

三春ネギの「伏せ込み」(やとい)の準備をしようという矢先の、長男夫婦と孫の到来。孫が庭でとびはねているからには、畑の仕事をするわけにはいかない。で、小一時間後、バイバイをして作業を開始した。

猛暑続きとはいえ、もう8月も終わり。夏至から2カ月以上たっている。日の出が遅くなり、日の入りが早くなっている。ネギを引き抜いたあと、伏せ込みのための溝をスコップで斜めに切った。栽培農家ではないからスペースは小さい。それだけでうっすら夜のとばりが下りてきた。

次は翌日、日の出前に起きて溝の根元に堆肥を投入し、ネギの皮をむき、伏せ込んで堆肥まじりの土をかぶせる。そう頭に予定を入れて晩酌をした。「天日燦(さん)として焼くが如し 出(い)でて働かざる可からず」(吉野義也=いわきの詩人三野混沌)では熱中症になってしまう。その前にけりをつけるのだ。

朝、目が覚めたら5時20分だった。しまった。ガバッと起きて外へ飛び出す。5時前の目覚めだったら、余裕を持って作業ができる。5時半近くでは素早くネギの皮をむかないといけない。伏せ込みをやるころには朝日が昇ってギラギラ照りつけるからだ。

「急げ、急げ」と言い聞かせながらネギの皮をむいた。伏せ込みのころには、案の定、朝日がギラギラ照りつけ、汗が噴き出した。でもまあ、2時間後、朝飯前には作業が完了した=写真。8月中にけりがついた。「これで良し」である。

2010年8月30日月曜日

偶然


土曜日(8月28日)、久しぶりに夏井川渓谷の無量庵に泊まった。

夕方、その日の予定を消化したあと、三春ネギの「やとい」をする最後の日は日曜日しかない、すぐ出かけて「やとい」(伏せ込み)の準備をしよう――。準備をしておけば、次の日(日曜日)早朝、三春ネギを伏せ込むことができる、ということで急に思い立った。

その話はあとにするとして――。県道小野四倉線、いやその手前、国道399号のいわき市平中平窪あたりで赤信号になり、ハイブリッド車の後ろに止まった。そのハイブリッド車だが、なんとなく見覚えがある。車体の色のシルバーがくすんでいる。うっすらベージュがかっている。年季が入っているのだ。偶然、追走するかたちになった。

結果は図星だった。が、「知人かな」が「知人に違いない」に変わったのは、渓谷の運転のスムーズさだった。

夏井川渓谷を縫う県道小野四倉線。これを通勤に使っているマイカー族の特徴は三つ(私の目撃例による推測)。運転がスムーズ。カーブでもエンジンブレーキで対応する(ブレーキランプはめったにつかない)。JR磐越東線の列車ダイヤが頭に入っているから、踏切は素早く通り過ぎる。警報が鳴ればもちろん止まって列車の通過を待つ=写真

ハイブリッド車は思った通り、途中で県道から自宅へと折れた。その運転ぶりからすっかり知人が山里の住人になったことを実感した。

2010年8月29日日曜日

モミぼっくり


夏井川渓谷の針葉樹は主に赤松とモミ。無量庵の隣、電力会社の社宅跡(広場)にも大きなモミの木がある。対岸の水力発電所を仕事場にしていた従業員が幼樹を植えたか、実生が育ったか。たぶん植えたのだろう。もう相当年数がたっているはずだ。モミの木の上部に「松ぼっくり」ならぬ「モミぼっくり」ができた=写真

「モミぼっくり」は肉眼でもはっきり見える。20年以上前のことだが、ヒマラヤ杉の球果をもらったことがある。球果は高さおよそ12センチ、径7センチの長卵形だった。モミぼっくりも細身ながら、それと同じくらいに大きいだろう。

ヒマラヤ杉の球果を手に入れたのは11月だった。何日かたつと稠密だった鱗片がゆるみ、芯を残してバラバラに崩れ落ちた。

モミぼっくりもヒマラヤ杉同様、枝先に天を向いて立つ。今は球果が形成されたばかりで淡い緑色をしている。10月ごろに成熟して鱗片が脱落するというから、ばらけ方はヒマラヤ杉とそう変わりあるまい。

わが無量庵にも道端に植えたモミの木がある。先住者の話では、クリスマスのころ、誰かに切られかかったことがある。変な音がするので台所の窓を開けて外を見たら、ギーコギーコやっていた。犯人はすぐ逃走した。そのモミはまだ球果をつけない。

リスはモミの種子を好むという。樹下に青い鱗片が散らばっていれば、リスがモミぼっくりを食い散らかしたあかし。森に入ってチェックする楽しみが増えた。

2010年8月28日土曜日

クロアゲハ


週に一度、無量庵のある夏井川渓谷に通って15年余になる。年にざっと50回だ。菜園を始めてからは週に2回のときもある。通算で800回以上は通っているだろう。とにかく飽きない。飽きないのは“発見”があるからだ。そのことについてはすでに何度か書いている。

それでも書く。“発見”は“驚き”。自然は絶えず“驚き”に満ちている。人間がつくりだす流行とは無縁の、そこにだけ蓄積された自然の奥深さ。週に一度、そのほんの一部に触れる。先日は黒く大きなチョウの動きに目を見張った。

木々が茂る無量庵の庭で涼んでいると、黒いチョウが3匹、どこからともなく現れた。3匹はお手玉よろしく、上になり下になり、あるいは近づいたり離れたりしながら、行ったり来たりしている。写真だ、写真に撮ろう! あわててカメラを取りに行ったら、1匹はどこかへ去り、2匹がひらひら舞いながら庭木の中に入り込んだ。

葉に止まった個体をパチリとやった=写真。どうやらクロアゲハの雌らしい。ということは、ほかの2匹は雄。3匹が乱舞しているうちにライバルが脱落したのだろう。

オナガアゲハ、ミヤマカラスアゲハ、キアゲハ……。夏井川渓谷で目撃したアゲハチョウはほかにもあったはずだが、ちゃんと特定できたわけではない。写真に撮って初めて名前が分かり、間違いが分かる。今度も自信があるわけではない。間違っていたらどうぞご指摘を。

そこへ足を運ぶと実感できる本物の、天然の、生物の多様さ――。落石や毒蛇、毒虫の危険はあっても、自然はいつも感動と驚きを用意している。

2010年8月27日金曜日

微生物の話


先週の土曜日(8月21日)、いわき市文化センターでいわき地域学會の第264回市民講座が開かれた。講師は馬目太一会員。製薬会社で土壌に含まれている微生物の研究をしてきた。退職後はいわき明星大薬学部で微生物学などを教えている。「微生物とヒトとの関係」と題して話した=写真

話の骨子は「ヒトは有史以来、実態も分からなかった微生物を上手に利用し、生活を豊かにする努力をしてきた。その一方でペストや結核といった感染症にも悩まされ続けてきた。良くも悪くもヒトに密接な関係にあるこれら微生物を取り上げ、さらに土壌から分離される細菌の仲間、放線菌について電子顕微鏡の写真を交えて紹介する」というものだった。

資料がかなりの量になるというので、パソコンから白板にデータを映し出す方法で話を進めた。したがって、紙のレジュメはない。受講できないのでレジュメが欲しいという人がいる。今回はあきらめてもらうしかなかった。

微生物は、目には見えない。が、たとえば「人間の皮膚常在菌は10兆個」「口の中には1㏄あたり1億個の細菌がいる、キスは細菌のやりとりをしているようなもの」といった、けた違いの数字にはうなるしかなかった。

食文化についても言及した。「発酵も腐敗も同じ現象。ヒトに有用な作用が発酵、不都合な作用が腐敗。人間の都合によって発酵だ、腐敗だと言っているだけ」。メモが追いつかないほど面白かった。

話を聞きながら、ずっと金子みすゞのこんな詩のフレーズを反芻していた。「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」。わが体内にある極小の宇宙を旅している感覚になった。

2010年8月26日木曜日

酸味


猛暑が続く。猛暑をしのぐために体がなにか違う食べ物を求めているのだろうか。いや、食べ方を変えるように体が指示しているのだろうか。

はっきり変わったことがある。キュウリの糠漬けだ。梅雨明け前は、まだ表面に緑色が残る浅漬けのキュウリ(夜入れて朝食べる、朝入れて昼食べる)が好みだった。が、梅雨明け以後は徐々に、表面が飴色になる古漬け、つまり酸味の強いキュウリを食べたいようになった。こんなことは初めてだ。

わが家にはエアコンがない。で、窓という窓、戸という戸を開け放している。家の内外がつながっている。茶の間では扇風機をかけている。それでも汗がにじむ。ぐったりすることもある。

熱中症の初期症状、あるいはそれにつながる「前症状」のようなものにはたぶん、絶えず襲われているはずだ。なにもしないのに汗をかいている。どんどん体から水分が失われている。それを防ぐために、いや最低の食欲を維持するために体が反応し始めた? それが、酸味の強いキュウリの古漬けを求めるようになった?

梅干しももちろん、食欲を増す。で、古漬けにまぶして食べることが増えた。でも、レモン汁は梅干しの酸味以上に刺激的だ。酸味の強い古漬けにより刺激的なレモン汁を垂らす。これがなかなかいい。

自家栽培のキュウリはもう終わりに近づいているようだ。わが家のほかに、夏井川渓谷の無量庵でもキュウリを栽培している。日曜日(8月22日)早朝、一週間ぶりに収穫したら、一本は30センチ近かった=写真

それはキュウリもみにし、残るキュウリを糠床に差し込んだ。もらったキュウリもどんどん差し込む。古漬けにする。古漬けにして、食べきれないものは袋に入れて冷蔵庫にしまう。

キュウリは放置しておくと、水分が飛んで中が綿のように白くなる。そんなキュウリはおいしくない。水分を保っているうちに漬け込むのだ。酸味を加えることと、どんどん漬け込むこと、このところの猛暑が教えてくれた新しい知恵だ。

2010年8月25日水曜日

ビアトリクス・ポター展


郡山市立美術館で開かれている「ビアトリクス・ポター展」は、絵本の「ピーターラビット」たち=写真=の作者としてだけではなく、ナショナルトラスト運動の理解・賛同者としての彼女に引かれて出かけた。

ナショナルトラスト運動は英国が発祥の地。「ピーターラビット」で得た土地は「ピーターラビット」たちへ――ビアトリクスが購入した農場などをボランティア団体の「ナショナル・トラスト」に寄託することでイギリスの湖水地方の景観は守られた。その一点だけも展覧会を見る価値がある。

わが子が幼かったころ、「ピーターラビット」は彼らの友達だった。その子どもが父親になった。今度はその子ども、つまり孫が友達になる番だ。なるかどうかは、孫次第。孫と絵本はこれからの話として、ポターの絵の力も再認識した。

ナショナルトラスト運動と美術は、自然環境を守る=景観を保つという点では、切っても切れない関係にあるのだろう。その団体創設には美術評論家のジョン・ラスキンがかかわったという。

ラスキンの名前から思い浮かぶのは、「ラファエル前派」のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティら。彼らの作品は明治から大正時代にかけて日本に入って来た。

大正時代後半、一気に黄金時代を迎えた「童謡」について言えば、金子みすゞは、師の西條八十が翻訳したダンテ・ゲイブリエルの妹クリスティーナの詩を「お気に入り」の一つにした。みすゞが影響を受けた詩人や画家を逆に追いかけると、「ラファエル前派」にたどり着く。

で、みすゞがクリスティーナの先に見ていたのはだれ? ビアトリクス・ポターだったか――などと想像をたくましくするのも楽しい。

2010年8月24日火曜日

農はアートだ!


8月22日の日曜日、郡山市立美術館に着いたのは9時半過ぎだった。早朝、わが家を出て夏井川渓谷の無量庵へ寄り、キュウリを摘んだり生ごみを埋めたりしたあと、郡山市へ車を走らせた。そのあとの経過はきのう(8月23日)のブログのとおり。

美術館の開館時間をめぐって、夫婦で口論した。「9時半よ」「10時だろ」。多少険悪な気持ちになったが、まあいいか、早めに行こう――着いたら、すでに開館していた。カミサンの言うとおりだった。

駐車場から美術館の建物までの回廊に人があふれていた。「農はアートだ!」。郡山の市農政課・農業青年会議所・農学校・美術館友の会の共催だという意味の立て看があった=写真。要は「直売市」だが、美術館らしく「マルシェ(市場)」(これはフランス語だな)に「ミュージアム(美術館)」の文字が配されている。

こちらは10時からだというので、「ビアトリクス・ポター展」を見たあと、じっくりのぞいた。女性スタッフはおしゃれだ。「野菜ソムリエ」だからか。展示されている農産物も、いわきでは見られないようなものばかり。白ナスがそう。「阿久津曲がりネギ」とは違う「ハイカラリッくん」なるネギもある。夏ネギだろう。「リッくん」を買った。白ナスも買った。

ネギは白根も葉も食べる「中ネギ」。つまり、葉ネギでもあり、一本太ネギでもある。千住系か。「リッくん」というネーミングもまたあちら風でおかしい。英語の「リーキ」からとった。

白ナスはスライスし、インゲンなどと同じく素揚げにして、醤油と料理酒にニンニク、ショウガ、砂糖を加えたたれにつけて食べた。ん? 中身は軟らかいが、皮は硬い。皮がそっくり残った。皮はむいた方がいいのか、それとも今年の猛暑のせいで硬くなったのか。

「リッくん」は、薬味はもちろん、サラダや浅漬けにもいいと包装にあった。が、ちゃんと「野菜ソムリエ」から説明を聞かなかったのが悪かった。生のままぬか漬けにしたら、口の中にアリシンがこもり、カミサンは「ネギくさい」とまゆをひそめた。加熱して甘みを出してからやるべきだったか。

白ナスも、「リッくん」もきめの細かいレシピがないと、もういいや、となりかねない。「マルシェ」に遭遇して買い物をしたいわきの人間の実感だ。

2010年8月23日月曜日

三春アーツ&クラフツ


郡山市立美術館へ行って来た。「ピーター・ラビット」の生みの親、「ビアトリクス・ポター展」が開かれている。いわきへの帰り道、三春ハーブガーデンに寄ろう、となった。

1年に一度、そのへんを通る程度では記憶がはっきりしない。去年は3月、美術館へたどり着くまでに時間がかかった。今年は、途中まではすんなりいったが、最後になって迷いが出た。その道でよかったのに、Uターンしてわざわざ遠回りしてしまった。

その帰り、三春ハーブガーデンはこの辺にあると思い定めていたのだが、案内標識を見落とした。通り過ぎた。どこを通っているか分からなくなった。と、にぎやかな音が聞こえてきた。天文台風の建物がある。お土産屋風の大きな建物もある。車がいっぱい止まっていた。何かイベントをやっている。カミサンの好奇心がうずいた。

会場=写真=をのぞくと、首から「スタッフ」カードをぶら下げている女性がやって来て資料をくれた。「三春アーツ&クラフツ」のイベントだった。あとで分かったのだが、そこは三春ダム「さくら湖」への道沿いにある「さくら湖自然観察ステーション」だった。向かい側の「お土産屋風」は「三春の里田園生活館」だった。

三春に住んでいたり、ゆかりがあったりするアーティストや職人およそ40人が8月21、22日の二日間、作品を展示・即売するイベントのようだった。いわき市の女性の名前もあった。陶芸を主に、絵画・写真・張子人形・木工・板金・つる細工ほかの作品が並んだ。

こういうイベントでは、私はさらっと見てすぐ会場の外へ出る。で、カミサンを待つ。その時間がいつもより長い。会場へ戻って探すと、カミサンは夫君がいわき出身だという染織の田仲スイ子さん(三春町)と話をしていた。

「田仲」の名字にピンと来るものがあった。「ご主人はいわきのどこですか」「えーと」「田仲だから、高久?」「そう、そう」「牛転(うしころばし)?」「そう」。牛転に知人がいる。周囲に「田仲」姓が多い。もしやと思ったのが的中した。一気に距離感が縮まった。

それよりなにより、田仲さんの紬の着物とショールの作品に目を見張った。素人目にも愛情をこめてていねいに仕上げていることが分かる。道に迷っていいものに出合った。

2010年8月22日日曜日

アマガエル


わが家の台所に時々、小さなアマガエルが姿を見せる。というより、すみついているのではないか。いつも、どこかにいるのだ。

台所は家の南東にある。夏は東の窓と南のガラス戸を開けておく。台所だけではない、家の中の窓という窓、戸という戸は全部開け放つ。で、1階の台所には生け垣を伝って入りやすいのだろう。コバエがいる、ハエがいる、カがいる。たぶん、アマガエルのえさには事欠かないのだ。

台所の南、ガラス戸の外に箱庭を設けてキュウリを栽培した。キュウリが葉を広げれば日よけにもなる、と思ってのことだが、この猛暑ではあまり意味がなかった。人の目から内部を隠すブラインドにはなったが。

キュウリ苗は4本。7月、8月と毎朝晩、水をやり、時々追肥をした。なによりも起床するとすぐ庭へ出てキュウリの葉を見る、実のなり具合を見る。そうしてつぶさに観察してきた。

にしても、摘んだキュウリの数は思ったより少なかった。あとどのくらい摘めるのか、そんな感慨を抱きながら箱庭キュウリを眺めていたら、上部の葉に小さなカエルがいて、のどをひくひくさせていた=写真。アマガエルだろう。台所にいる一匹が移って来たか、別の一匹か。

アマガエルは樹上生活者。だから、箱庭キュウリでも上部の葉が休み場になる。キュウリにたかる虫がそれだけ多くなったということだ。

キュウリの実は全く肥大をやめた。孫づるの葉も元気がない。もう始末しなくてはならない時期にきたらしい。たぶん箱庭のスペースにしては苗が多すぎたのだ。今年の猛暑もつるを早く弱らせたことだろう。狭いスペースでいっぱい採ろうと欲張ったのが、結果的にマイナスに作用した。

2010年8月21日土曜日

リュウゼツランの花


リュウゼツラン(竜舌蘭)の花が咲いた、という新聞記事が目に留まった。わが家からは夏井川をはさんだ対岸の地区(平藤間)だ。カミサンに引っ張られて見に行った。昔からの田園地帯である。道路沿いにはそれらしい家が見当たらない。近くの直売所の青年に聞いて、ようやくたどり着いた。

広い屋敷の一角にビニールハウスと駐車場を備えた真新しい店がある。「マグノリア」という。園芸の店だが、ガラス細工の工房も兼ねる。

用向きを告げると、店主の女性が奥の母屋の庭に案内してくれた。

30年前、庭にお父上がリュウゼツランを植えた。その葉が大きくなった。そして今年夏、気づいたら大人の腕くらいの太さの花茎が2メートルほどに伸びていた。その後もぐんぐん茎を伸ばし、5メートルにもなって黄色い花が咲き出した=写真。遠目には松の枝葉といった感じ。葉にあたるところが花だ。三方から花茎にパイプを添えて支柱としている。

リュウゼツランはメキシコを中心にした熱帯の植物だ。向こうで暮らした経験を持ついわきの画家・峰丘の絵には、しばしばこれが登場する。テキーラの原料になるといったことも、峰から聞いた。

一生に一度しか花をつけない。熱帯ではそれが10~20年、日本では30~50年に一回咲いて代替わり、ということになるのだそうだ。早くも葉の一部が枯れ始めていた。

花をつけるまでは何年も、何年も葉を肥大させるだけ。わが散歩コースにも、民家の庭先に大きな葉をつけたリュウゼツランがある。今年の猛暑続きで花を咲かせるようなことがあったかなかったか、今度確かめてみよう。

2010年8月20日金曜日

海水浴シーズン終了


いわきには10の海水浴場がある。遊泳期間が決まっている。今年は7月14日から8月18日までの36日間だった。期間中、約80万人が海水浴を楽しんだという。

新聞=写真=で今年の入り込み客数を知ったとき、「あれっ」と思った。意外に伸びなかったなあ。早い梅雨明けに猛暑続きとくれば、海へ避暑に繰り出す人が増えたはず。

おととし(平成20年)は106万人。11年ぶりに100万人の大台を突破した。昨年は天候不順で59万人まで落ち込んだ。連日の好天だから、おととしと並ぶくらいの入り込み数を期待したのだが、昨年の20万人増にとどまった。

天候不順の年を除けば、ここ何年間かは70万人台から80万人台で推移している。例年並みの入り込み客数だったことになる。

なぜ伸び悩んだのだろう。別の新聞によれば、熱中症を引き起こすほどの連日の猛暑が外出を控えさせたのではないかと、市はみている。それも一理あるが、現代人に海水浴を控えさせるなにか心理的なものがあるのではないか。よくいわれるのが「美白志向」。紫外線を嫌って、ということもないとはいえまい。

これも勝手な推測だが、海水浴客の主力ともいえる子ども、若いカップルや家族が減っている、つまり少子・高齢化の影響が考えられないか。まれな好天続きなのに入り込み客が伸び悩んだ。原因は一つだけ、なんてことはない。

もう一つ。入り込み客数が最も多かったのは、勿来ではなく薄磯だった。「勿来を中心にした100万人の海水浴場」といったイメージは過去のものになりつつあるのか。「海水浴の時代」ではなくなったか。

2010年8月19日木曜日

ブルーシート


わが散歩コースの夏井川、これは河口に近い下流だが、もう1カ月近く散歩を休んでいる。今年の夏は、夜明けから夜まで酷暑だ、雨が降れば散歩を休む、強風が吹けば休む――そんなレベルだから、とてもじゃないが汗を噴き出してまで歩きたくない、となる。

でも、夏井川はいつも意識の中にある。車でどこかへ出かけるときに「行き」か「帰り」か、あるいはその両方、堤防のてっぺんの道をゆっくり移動しながら、夏井川の流れを見る。岸辺の動植物ももちろん気になる。

わがふるさとの大滝根山、これは阿武隈高地最大の分水嶺だ。生まれ育った町の大滝根川とは反対の、山陰の南東が夏井川の水源だ。夏井川を介してふるさとの山とつながっている――そういう思いでいつも夏井川を見ている。

右岸の平山崎地内では昨年に引き続き、河川敷の土砂除去工事が行われている。左岸の平中神谷地内でも、同様に護岸工事が行われている。

右岸の山崎。土砂を除去した斜面にブルーシートが張られた=真。前年度には見られなかったことだ。土砂を削り取っただけだから、雨が降れば斜面に溝ができる。そこから土砂が崩れる。それを防ぐことにしたわけだ。

前年度に土砂が除去された河原は既に緑の草で覆われた。やがて大水のたびに土砂が堆積し、灌木が生え、河畔林が形成される。20~30年後には再度、伐採・土砂除去工事が必要になるだろう。流域住民の生命と財産を守るためには欠かせない工事だが、川は人間の思惑を超えて悠々と流れている。

2010年8月18日水曜日

造林詩集


草野比佐男さん(1927~2005年)は歌人として出発した。やがて小説に転じ、農業・農村評論で鳴らした。詩には「志はなかった」が、農民の出稼ぎ問題を告発した詩「村の女は眠れない」で広く世に知られるようになった。

本人が筆を執った『いわき市史』文化編〈詩〉の部には、「草野の詩は十年周期で間歇」したとある。先日、その30代初期に噴き出した『造林詩集』を読んだ。そのころ、平に住んでいた真尾倍弘・悦子さん夫妻の氾濫社から出した。昭和37(1962)年1月のことである。

高度経済成長政策が展開される前の、農業が、林業がまだ希望に満ちあふれていた時代の作品だ。山の斜面に杉苗一万本を植える過酷な労働だが、30年後には大きくなった杉が暮らしを保障してくれる、という夢があった。造林の喜びが全編を貫いている。たとえば、「植樹 作品3」。

〈杉苗を植える。/一尺とすこしの。/すなわちおれの膝小僧の高さの。//けれども。//植えた途端におれの夢想を。/ぐいぐいぐいぐいぐいぐい伸び。//(ほう。あれが東京タワーかい。/ちつちやいちつちやい。)//朝日がてれば。/影は日本海の怒涛のうえ。/夕日になればぐるつと廻つて。/太平洋の。/うえ。〉

昭和40年代以降、農業・林業を取り巻く情勢は一変する。減反と外材輸入が進む。草野さんの、山里からの告発(評論活動)が始まる。草野さんの孤立無援の闘いを書物で知る者としては、若いときの『造林詩集』の希望がいささかの救いに思える。

月遅れ盆に義叔父の新盆で三和町へ出かけた。途中、草野さんの住み暮らした渡戸地区の杉林を眺めた=写真。国道49号の両側は行けども行けども杉林。三和は杉の一大造林地だ。

話変わって、草野さんは晩年、草野心平批判を展開する。が、30代初期にはむしろ親しんでいたのではないか。『造林詩集』の作品はすべて、心平の作品と同じく行末に句点「。」が付されている。そんな共通項があることも分かって面白かった。

2010年8月17日火曜日

精霊送り


きのう(8月16日)は、いわきでは精霊送りの日。とはいえ、もう川に物を流す時代ではない。自然環境、つまり川がそれで汚染される、そういう認識が広まってきた。そのための新しいやり方が、行政区でマコモに包まれた精霊を受け取り、ごみ回収車に手渡すことだった。それを初めて経験した。

区の役員としてかかわる前は、そうした祭壇を横目に見て通り過ぎるだけ。だれかがやってくれている、そんな程度の認識だった。

今年初めて役員になって、精霊送りにも「アヒルの水かき」があることを知った。白状するが、その前日夕方に祭壇づくりの作業がある、それを私は忘れてサボってしまった。

祭壇といっていいだろう。大きく赤いホオズキと杉の葉をはさんだ細縄が周囲に巡らされる。一種の結界だ。そのなかに、ブルーシートで覆われた精霊の安置所がある。あらかじめ担当する時間を決めて役員が精霊を引き受ける=写真。8時からの担当を頑張るしかなかった。

早朝6時から9時まで、ざっと3時間。役員は精霊をうやうやしく受け取り、予定の時間に回収車が来た時点で大事に手渡しをした。そのあと、集会所で精進揚げをした。

朝から猛烈な暑さ。缶ビールがうまかった。となれば、もうキーボードをたたく気にはなれない。高校野球は見ないが、ちょうど福島代表の聖光学院の試合が始まったばかり。テレビで緊迫したゲームを楽しんだ。

なぜか今年の聖光学院は「負けないチーム」という認識(期待ではない)がある。広島にも、大阪にも負けない。次の相手にも負けない。ローカル大会で既にそういう思いを抱かせてくれた。その根拠はエースのスピードとコントロール。きのう最後に三振を奪った球速が142キロだった。

2010年8月16日月曜日

石森山三代記


きのう(8月15日)午後、3歳の孫が父親とやって来た。「これから石森山へ行く」という。石森山は独身時代からのわがフィールドだ。息子がやがて自分のフィールドにした。その子ども、つまり私の孫も、父親に連れていかれているうちに石森山になじみつつあるようだ。やがて自分のフィールドにするのだろうか。

月遅れ盆最後の日、本でも読んで静かに過ごそうと思って、午前中はそうした。が、午後になって昼寝をしようとしたきに、息子と孫がやって来た。「どうする」と息子がいう。否やはない。親子三代が初めて、石森山の遊歩道の土を踏む。

まずは野鳥、次に野草、その次にキノコのフィールドとして、20~30代に私は石森山の遊歩道を巡り歩いた。夜、子どもたちを連れて真っ暗な林に入り、樹液に集まるカブトムシを見に行った。夜明け、カブトムシがいるかもしれないと、子どもを起こしてその場所へ駆けつけたこともある。

息子は、その場所の記憶が残っていた。子どもを、つまり孫を連れていくところも同じだった。昔、山寺の住職の隠居でもあったところではないかと思うのだが、平らになっていてコナラとクヌギが生えている。人間が幹に傷をつけて樹液を出させる。で、とっくに枯れた木もある。

樹液レストランにはカナブンがいた、チョウがいた、オオスズメバチもいた=写真。カメラを三脚にすえた父子もいた。「5月に野鳥を見に来たときに気に入ってやって来たら、大きなチョウがいた」。写真に撮ったチョウの説明をしてやったら、喜んだ。すばらしいチョウの写真を撮っているのに、名前が分からないのでは意味がない。

孫は、その意味では虫に触れても細かく分類できるレベルには至っていない、経験だけが栄養なのだ。どこで何を見た、取った(採った)、などということは部分的に記憶していても、対話できるほどではないだろう。

ところが――、たかをくくってはいけないことが分かった。たまたま車中でキノコの話をしたら、反応した。キノコのあった場所に近づいたら「キノコをいっぱい見たよ」という。車を止めて確認する。その残骸があった。

なんだろう、幼児の、この動物的な記憶力は。石森山行が続く限りはこうしてその場所に来るとよみがえり、石森山と断絶すれば記憶は閉ざされる、そういうものなのだろうか。親子三代の石森山行で、あらためて人間の記憶力について考えさせられた。

2010年8月15日日曜日

ミョウガの子


8月の中旬になると、庭に群生するミョウガの根元を見る。ミョウガの子=写真=が出ている。花まで咲いている。摘んで薬味にする。いつのまにかわが家では、ミョウガの子は月遅れ盆を告げる食材になった。いわきは平の、わが家だけの話かもしれないが。

きのう(8月14日)は新盆回り二日目。朝から「ミニ県」並みのいわき市を車で移動した。南から回った。北から回り始めたという人間とも、そこで会った。葬儀のときと違って、新盆は自宅で迎える。あらかじめ地図で確かめたうえでの道行きだ。近くまでは行ったが、どこか分からずにうろうろすることもある。

きのう回った新盆の家は、つまり仏さまは、私より少し上か下の年齢だ。還暦を過ぎたということは、彼岸が見える岸辺にいるということだろう。

冷えたお茶をいただきながら、故人の思い出話から雑談に移る。東京あたりでは、いわきのような新盆回りの風習はない、東京に住む故人の身内がびっくりしたという――風習の違いに優劣はない。が、早い人は10日あたりから回り始めるというから、いわきの風習そのものも変質しつつあるようだ。

ある家では、首都圏から息子夫婦が孫を、つまり家の主人にとっては曽孫(ヒコ)を連れて帰省した。「孫を海に連れて行った」のが帰って来た。見れば、東京区内のナンバーだ。高速道路土日1,000円でやって来たか。

二日がかりでヤマ・マチ・ウミのいわきを巡った。カミサンも実家にとどまり、毎年訪ねてくる客の応対をした。夜は買い物をして料理を省略した。せめて、というわけか。「冷ややっこにするからミョウガの子を採って来て」。ミョウガの子はやはりお盆には欠かせない食材だ。

きょうは日曜日、そして終戦記念日。本でも読んで心静かに過ごそうと思う。

2010年8月14日土曜日

白秋


いわき市の三和町、なかでも市境にある三坂地区は阿武隈の山里。そこに親類が住む。昨年暮れに義叔父が亡くなった。今年の新盆回りは三坂からと決めて、きのう(8月13日)夕方出かけ、しばしいとこたちと歓談した。そのあと平へ戻り、新盆の山寺へ足を運び、後住の元同僚と話した。朝の空は秋の雲だった。いきおい天気の話になった。

三坂では「半袖では寒いくらいの朝だった」。平の山寺でも「涼しい? いや、寒いくらいだった」。どうやら酷暑の昼とは別に、朝は少し涼気が感じられるようになったらしい。その表れが、秋の雲の到来だろう。

きのう早朝、5時半に起きて夏井川渓谷の無量庵へ出かけた。お盆中はとてもじゃないが、そこで過ごすことができない。まずはキュウリを収穫しなくては、三春ネギの様子も見なくては、生ごみを埋めなくては――。最低でも週に一度出かけようとすれば、きのうしかなかった。

で、空を見ると。台風が東北の北を横断したあとの、澄んだ青空に高積雲が広がっていた=真。部分的に羊雲が見られた。雨上がりだったこともあろう、空が高く感じられた。

立秋からざっと1週間。「これこそが白秋か」と感じ入った。その思いを強くしたのは新盆回りをして雑談をしたからこそ。新盆は近況報告・情報交換の場でもあるのだ。

2010年8月13日金曜日

平地学同好会会報届く


いわき地域学會に平地学同好会の会報第27号が届いた=写真。同同好会は昭和25年に設立された、いわき有数の研究団体だ。化石や地質に関する論文・短報・随想などが掲載されている。その方面にうといので、丹念に読んでもなかなか頭にはしみこまない。

でも、「日本の治水事業に貢献した明治のお雇いオランダ人を訪ねて」(遠藤真一会員)「中国内蒙古自治区の恐竜発掘地と博物館を訪ねて」(冨田明雄会長)といったノート・随想は、紀行文形式なので素人にも分かりやすい。

冨田会長の文章は、2年前、ミュージアムパーク茨城県自然博物館友の会主催で実施された「ゴビ砂漠の恐竜発掘地と内蒙古自治区博物館新館の見学」ツアーの記録だ。主題を離れるが、内蒙古自治区最後の夜、博物館長主催のお別れパーティーが開かれた。そこで一行は「ホーミー」を聴いた。

「ホーミー」はモンゴルなどで行われている歌唱法の一つ。一人の人間が同時に二つ以上の声を出す。要するに、のどを楽器にしてメロディーを奏でるのだ。冨田会長は「特にテレビなどでは見ていたが、ホーミーの独特の声は蒙古の草原に響き渡るような錯覚におそわれた」と書く。こういう人間の技が私には興味深い。

「ホーミー」は、「世界の民族音楽」といったCDには必ず入ってくる。私もそのCDを持っている。時々、車の中で聴く。塩漬けされたような渋い低音、そして高音。冨田会長ならずとも、テレビで見知っているモンゴルの草原が思い浮かぶ。

ほかには「炭砿と共に大発展したいわきの鉄道」(鈴木勝重会員)「いわき市石炭・化石館『ほるる』リニューアルオープンにあたって」(菜花智会員)の文章から得るところが多かった。「ほるる」には世界に誇る翼竜コレクションがある。実物だ。「ほるる」の学芸員でもある菜花会員がそのことを強調していた。

2010年8月12日木曜日

歩道冠水対策


きのう(8月11日)午前、わが家の前の歩道に区長さんと市役所道路維持課の職員がやって来た。歩道冠水対策のための現地調査だ。私も立ち会った。

豪雨に襲われると歩道が冠水する。雨がやめば水が引く。それで、こんなものかと思っていた。6月16日朝、局地的な豪雨のなか、区長さんがたまたま用事があって近くへやって来た。歩道の冠水を見て驚いた。4月から区の役員になった私の家に来て、「写真を撮ってくれないか」という。写真を撮った。その一枚がこれ=写真。前にも当欄で紹介した写真の別コマだ。

わが家の前の歩道は、車道よりは低い。側溝が雨水を飲み込めなくなると冠水する。豪雨ともなれば、水深15センチくらいの川になる。これが難物だ。足が取られるほど流れが速い。

7月末、区の役員会が開かれた。わが家のある周辺の側溝の冠水がひどいので、その対策を市に要望したい、そんな話を区長さんがして了承された。で、要望を受けて市役所から担当職員がやって来た。

先に歩道の側溝ぶたの取り替えを要望した。古いタイプで切りかけ部(すき間)が大きい、子どもの足が入ってしまう――2回に分けて取り替えるという回答を得た。そのうえでの冠水対策要望だ。

以前、雨水桝が道路向かいの歩道に設置された。側溝下流のコンビニの前にも雨水桝が取り付けられている。区の要望の結果だろう。区の役員になって初めてそういうことを知った。さらに、もう一つ雨水桝を取り付けてほしい、というのが経緯を知る区長さんの判断だ。どうやら、その要望が吸い上げられる方向で動き始めた。

側溝ぶたは間もなく取り替えられる。冠水対策もいずれ実施される。そこに住む当事者、つまり住民として、行政と個別具体的な対話を行っている、という感慨がある。

2010年8月11日水曜日

道路の“散髪”


匿名さんから先日、当欄にコメントをいただいた。いわき市内では、道路の草が伸び放題。「個人的にはご先祖様を迎えるお盆前にはきれいにしてほしいものですが…。散歩する際も歩道で歩くのに切り傷を作らなければ通れないところが多々見られます」。その通りだ。

夏井川渓谷を貫く県道小野・四倉線。平地から一気に山岳部に入る小川町・高崎あたりから毎年、夏に業者が道の草刈りを行う。週に一度、渓谷の無量庵へ出かける。その際、草刈り作業隊に遭遇することがある。道の両側の草が“散髪”されてすっきりする。と、ドライバーも道幅が広がるので、さわやかな気分になる。

今年はなんだか五月雨式の草刈りになったようだ。一気に刈り払ってきれいになる、という印象ではない。片側の路肩がきれいに刈り取られる。途中も部分的にきれいになる。そのうちまた草が伸びてくる。部分的には、片側の草が伸び放題。すっきりしないのだ。

その延長でスポット的に草刈りが行われたのだと思う。8月1日の日曜日には、「うらめしやー」と車道になびいていた道端の草が、先週金曜日(8月6日)にはきれいに刈り払われていた=写真

早朝、夏井川渓谷にある無量庵の畑へキュウリを摘みに行った。帰路、その部分の“散髪”が分かった。渓谷を下ったところにある夏井川第三発電所の近くだ。草が茂って道幅を狭くしている。なんとかならないのか――夫婦で眉をしかめたものだ。そこに、同趣旨のコメントが入った。

目安はやはり月遅れ盆だろう。ご先祖様にしろ、帰省客にしろ、新盆回りの客にしろ、気持ちよく行き来できるような道路環境でありたい。そう思うのが庶民の心だ。同じ心情の反映として、この時期、家の内外で草引き・清掃が行われる。

2010年8月10日火曜日

広報いわき


「広報いわき」8月号が届いた。中に、「いわきの伝統農産物を次世代へ」と題する変則見開き2ページの特集が載っている。

「近年、食の安全・安心や地産地消への関心が高まり、伝統的な食文化を見直す動きが広まっています。このような中、市では、地域に伝わる昔ながらの在来作物を次世代へ継承するための取り組みを進めています」

記事では、在来作物とは何か、なぜ在来作物が大切なのか、などについてふれたあと、①在来作物の発掘・調査②展示・実証圃(ほ)での栽培③(仮称)スローフード・フェスティバルの開催④在来作物に関する冊子の製作――を柱とする事業をPRしている。

ポスター=写真=がいい。祖母と孫が縁側で小豆の種を介して対話している、そんな雰囲気がよく出ている。

実は、特集記事に絡んで取材を受けた。事業を展開している農業振興課のA園芸振興係長と、広報広聴課のKさんが拙宅に来た。「三春ネギ」の話をした。あとでA係長がポスターを持ってきてくれたのだった。

いわきの在来作物として、特集では「いわき一本太ネギ」(平北白土)「昔キュウリ」(三和町上三坂)「カラシナ」(三和町差塩)「コンニャクイモ」(田人町貝泊)が紹介されている。実証圃での栽培も進められているらしい。

「いわき一本太ネギ」は千住系、東京から平地沿いに北上してきた。これに対して、「三春ネギ」は中通り方面から山あいの道を伝って夏井川渓谷の牛小川辺りまで伝播した。私は、これを加賀系のネギとみている。在来の「ネギの道」も一つではない。

2010年8月9日月曜日

草引き応援


きのう(8月8日)、カミサンの実家へ行って庭の草引きを手伝った。亡くなった義父の前の当主、つまり先々代のときにつくられた庭だという。ざっと100年の歴史はあるか。庭の草引き・刈り込みは月遅れ盆を前にした恒例行事。午前中いっぱい、結婚37年目にして初参加の私を加えて、4人で作業をした。

ケヤキの大木を軸に、松、ヤブツバキ、柿などが配され、苔を覆うようにツワブキやマンリョウ、ユリ、アジサイ、ササ、ドクダミ、その他が繁茂している。庭というよりは小さな林だ。

長袖シャツを着て、首から顔にかけてざっくりと布(ガーゼマフラーというやつ?)をまき、尻には蚊取り線香をつるして、鎌で下生えを刈り始める。ヤブ蚊が目の前をブンブン飛び交う。義弟たちは防虫ネットの付いた麦わら帽子をかぶっていた。それほどヤブ蚊が多いのだ。

難敵はしかし、蚊より暑さだった。連日の猛暑。作業を始めるとすぐ汗が噴き出した。30分もたたずにシャツがぐしょぐしょになった。熱中症にかかってはたまらない。ときどき、いや絶えずスポーツドリンクを補給した。アブラゼミとミンミンゼミの蝉時雨が暑さに拍車をかけた。

苔で覆われた地面には、ネムノキや針葉樹の幼樹が芽を出していた。名前の分からない実生の幼樹もあった。息絶えたアブラゼミ、あわてふためく太ミミズ、時折現れるチョウ、枯れツツジの幹のサルノコシカケ……。この小さな林間にも生産・消費・分解の循環が息づいている。

およそ3時間の格闘の成果は、草の山と大きな袋4袋に集約された=写真。地下茎で増殖するササやドクダミをあらかた始末すると、だいぶすっきりした。これらはしかし、また地下茎を伸ばして来年顔を出す。かくして、草引きには終わりがない。

2010年8月8日日曜日

キュウリもみ


キュウリは副食の一つ、あるいはその素材の一部だ。毎日三回、キュウリの糠漬けを食べる。キュウリでなくてもいいのだが、カブや夏大根のない今はキュウリのみ。糠漬けがないことには食事が味気ない。というわけで夏場、キュウリの糠漬けは私にはなくてはならない“一菜”だ。

今年の夏は例年よりキュウリに目がいく。たまたまキュウリの苗が多く手に入った。夏井川渓谷の無量庵のほかに、自宅でも「箱庭栽培」を始めた。そればかりか、梅雨が明けたら猛暑続き、体が水分の多いキュウリを求める、ということもあるのだろう。

箱庭栽培のキュウリは、食べごろになると朝摘みをして糠床に入れる。無量庵の菜園のキュウリは1週間に一度、摘みに行く。そのために、人間の大人の中指くらいに育った未熟果も摘む。でないと育ち過ぎてヘチマのようになるからだ。

「食べるのを助(す)けて」と、近所の人から肥大したキュウリなどが届く。糠漬けだけでは食べきれない。二、三日置いておくと、キュウリの水分が飛んでしまってまずくなる。

肥大したものは透き通るくらいの小口切りにしてキュウリもみにする。小さいものはニンニクと醤油、味醂で味付けをしたキュウリのたたきにする。それに、キュウリの糠漬け。キュウリづくしの料理が食卓に並ぶ=写真

少なくとも、キュウリのたたき以外は毎夕、食べる。ときには梅肉あえにして味に変化をつける。そうでもしないことには飽きる。食欲を増す工夫を体も求めるのだ。梅肉の次は何がいいか、酢か、マヨネーズか、味噌か。

2010年8月7日土曜日

磐城平城下絵図


いわき駅の北から西方に連なる小高い丘は、江戸時代には磐城平城の中枢部だった。丘の下のいわき駅前も城の一部だった。ラトブの南側には外堀があった。入り組んだ丘の一角、平一小への坂の途中にカミサンの幼友達の家がある。江戸時代にはむろん、城内に位置していた。

いわき市暮らしの伝承郷で企画展「磐城平城下の町」が開かれている=写真(チラシ)。8月22日まで。カミサンの友達の家の周辺には何があったのか、確かめたくて出かけた。展示されているのは寛政元(1789)年の「磐城平城下絵図」(有賀家所有)。友達の家の前の坂は「長坂」で、今も絵図そのままにある。家の付近と思われるところには「稽古バ」の書き込みがあった。

城内は軍事的な理由からかスケッチ程度にしか描かれていない。その意味ではいい加減だ。が、「稽古バ」では何を稽古したのだろう。家臣の知性・感性を磨く文化的な施設だったか。

友達の家の土留めの石垣は江戸時代のものかいなか――。地質や考古、歴史に詳しい人間に会うと聞いてみる。先日も、尋ねるには都合のいい会合があった。

平一小の改築時に遺跡発掘調査を担当した人間は「どうだか分からない」、毎日、長坂を利用する歴史研究家は「そんな目で見たことはなかった」。結論は出なかったが、石垣談議をしばらく楽しんだ。

「磐城平城下絵図」にはいろんな情報が書き込まれている。坂の名と場所、二つの処刑場、町並み、木戸、その他。伝承郷での城下絵図展に違和感がないわけではないが、町民の暮らしに引き寄せてつぶさに展観できたのはよかった。

2010年8月6日金曜日

クモの巣


庭は小生物のワンダーランド。ある朝、玄関を開けると、車のサイドミラーを利用してナガコガネグモが窓を遮るように網を張っていた=写真。一夜のうちに巣をつくったのだろうが、ナガコガネのために車を動かさないわけにはいかない。網ごとすくって近くの灌木に引っ越し願った。

エアコンのない家だから、開け放した茶の間と庭の間には区切りがない。茶の間の先に庭があり、庭の先に茶の間がある。チョウも、ガも、ハチも、蚊も、ハエも出入り自由。セミはおろか、スズメが飛びこんできたこともある。先日は珍しく、アブが電灯に来て止まった。夏井川渓谷で車にまぎれこんだのが現れたか。

庭にはヤブ蚊がひそんでいる。孫は家に来るとすぐ虫よけジェルを持ち出す。手足に塗ってもらったら庭に出る、というわけだ。何度か庭で刺されているうちに学習した。

その孫がセミの抜け殻を見つけた。泥がついている。ニイニイゼミだ。ミョウガやホトトギスの葉裏までのぼってきて、そこで羽化した。孫の背丈とそう変わらない高さだ。言われて取ってやると、おっかなびっくり、指で触れる。つかもうとはしない。

今のところ、孫のお気に入りはダンゴムシ。石をひっくり返してはダンゴムシを容器に集める。ダンゴムシは1週間に一度、急に光を浴びてパニックになる。ダンゴムシにはいい迷惑だが、孫はそうして少しずつ庭のワンダーランドになじんでいく。

2010年8月5日木曜日

二日酔い


『草野心平日記』(全7巻)には「宿酔」の字があふれる。「宿酔」の連続だから、「五日酔い」にも「六日酔い」にもなる。たとえば、昭和39(1964)年11月26日「五日酔也」、翌27日「六日酔気分」と書く。このとき、心平は61歳。一般人なら定年退職をして、飲み方も静かになるころだ。

心平は違っていた。還暦を過ぎて飲み方がピークを迎える。70歳になろうとしている昭和48(1973)年3月3日には「ああ、深酒はすまい。昔は自分にとって一年とは百八十五日だった。それでもなんかノンビリしていた。宿酔の翌日はまるで駄目なので、ここ数日のようなからだの状態では、また元の百八十五日にもどってしまう」

宿酔の日は仕事にならない。だから、1年は実質185日。私も宿酔にはなるから、心平の一年の数え方は理解できる。とはいえ、1年の半分は宿酔というのはけた外れだ。いや、それが心平流、といえばいえるか。

川内村にある天山文庫=写真=は、その意味では酒まみれの都会から脱出して再生を図る格好の場所だった。川内に着いたばかりのころは足もとがふらついていたのが、帰京するころにはしっかりとした足どりになる――心平に身近に接した村民の述懐である。

心平自身も、ある年の夏は2カ月近く滞在し、新詩集ができるほど詩を書き、校歌をつくり、文章を書いた。「自分としては頑張った方だと思ふ」と書く。二日酔いになると、どういううわけか心平の日記の記述が頭に浮かぶ。

この本、どうです


リタイアしてからはめったに本を買わない。買うカネがない。これが一番。読まずに積んでおいた本がある。それを読めばいい、というのもある。とはいえ、ふだんはいわきゆかりの文学者の文献調べをしている。いわき総合図書館から資料を借りてきてチェックする。それだけで日が暮れる。読書を楽しむヒマなどないに等しい。

現役のころは複数の雑誌を購読していた。平市街にある書店から、従業員がバイクで定期的に持って来る。書店の店頭になさそうな、マイナーな本はそのときに注文する。すると、こちらの興味を引きそうな新刊書も時折、携えるようになった。パラパラやって面白そうなら買い、食指が動かなければ持ち帰ってもらう。

先日も、「この本、どうです」とバイク氏がやって来た。見ると、入沢康夫著『「ヒドリ」か「ヒデリ」か――宮沢賢治「雨ニモマケズ」中の一語をめぐって』(書肆山田・本体1900円+税)=写真=だ。専門書に近い。いや、専門書と言ってもいい。店頭に置けば、ほこりをかぶること間違いない。

だいぶ前、賢治の「雨ニモマケズ」に出てくる「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」の「ヒデリ」は、「ヒドリ」、つまり「日雇い仕事で得たカネ」のこと――という新解釈がなされた。これを全国紙が大きく報道し、〈へぇー、そうなのか〉と衝撃を受けた。それをすぐ思い出した。

手帳には確かに「ヒドリ」と書かれている。しかし、入沢さんはじめ、研究者は賢治が「ヒデリ」と書くところを「ヒドリ」と誤記したとして、『校本宮沢賢治全集』でも「ヒデリ」に直し、その旨を明記している。

その程度のことは知識として頭に入っている。「ヒドリ」騒ぎの顛末を知るのもいいか。しばらくぶりに食指が動いて「買った」となった。バイク氏の勝ちだ。一言でいえば、入沢氏が「ヒデリ」説を論証し、「ヒドリ」説を一蹴した本ということができる。

ここではそれよりなにより、バイク氏の、その書店の“ピンポイント攻撃”はなかなかのもの、恐れ入ったということを書きたかった。

2010年8月3日火曜日

チダケ採取


栃木県宇都宮市の老人(79)が7月31日朝、キノコ採りに福島県塙町の山林に入った。夕方になっても帰って来ない。連絡を受けた警察や消防が捜索したら、翌8月1日朝、老人は遺体で発見された、という。今年もまた、という思いを禁じ得ない。

新聞には、単に「キノコ採り」としか書かれていない。が、真夏―栃木―キノコ採り、ときたら、決まっている。チチタケ(方言「チダケ」)だ。

福島県の中通りだけではない。浜通り南部・いわき市にも栃木ナンバーの車が入り込む。むろん、チチタケ狙い。年々、栃木県人が北上しつつある、そんな印象を受ける。栃木ではチチタケが激減しつつあるのではないか。だから、周辺県に越境するようになったのではないか。

おととい(8月1日)、夏井川渓谷でチチタケ3個を採取した=写真。夫婦で食べる「チダケうどん」のスープをつくるには、これで十分だ。

およそ一週間前、阿武隈高地の実家で「チダケのけんちん汁」を食べた。9年前、「味の手帖」という雑誌に、このけんちん汁について書いたことを思い出した。「チダケのけんちん汁」と「チダケうどん」は区別する必要があるのだろうか。私には分からない。栃木の「チダケうどん」を食べたことがないからだ。

が、植物油でいためるのが基本である以上、うどんが入るか入らないかの違いでしかないのかもしれない。うどんが入れれば「チダケうどん」、入らなければ「チダケのけんちん汁」。

きのう(8月2日)、夕飯のおかずにカミサンがナスその他の具を入れたいためものをつくった。同じような材料で「チダケのけんちん汁」をつくっても意味がない。とりあえずチダケとナスを刻んで植物油でいため、醤油で濃く味をつけて冷凍することにした。

ほっとけばすぐキノコはだめになる。チチタケはとりわけボロボロになる。いためて冷凍・保存しておけば、後日、調理し直すことができる。あの、えもいえぬ独特のうまみ成分が汁に溶け込んでいて、栃木県民ならずとも忘れがたいのだ。

2010年8月2日月曜日

肉食アブ


きのう(8月1日)早朝、夏井川渓谷の無量庵へ出かけた。1週間ぶりにキュウリを収穫し、三春ネギを間引いたあと、うねの草引きをした。たちまち玉の汗が出た。水を飲み、スポーツ飲料を飲んでは室内で休み、また菜園に戻って草引きをする。〈熱中するな、熱中するな〉と呪文を唱えながら。

そんな作業の合間、扇風機を「強」にして室内で涼んでいると、アブが何かをかかえて目前を横切り、障子に止まった。ニホンミツバチらしいものを押さえつけている=写真。図鑑を見ると、吸血アブではない。体液を吸う肉食アブだ。ムシヒキアブと総称される仲間の一種らしい。

ニホンミツバチが飛んでいたところを急襲した。あごで背中をがっちり押さえつけ、すぐ近くの無量庵の中に運び込んで羽を休めた。さあ、これからゆっくり食事をしてやるわい、といったところか。

ほぼ1時間半後、アブの有無を確かめたら、廊下をはさんで障子とは反対側のガラス窓にいた。ニホンミツバチをポイと捨ててすぐ外へ飛び去った。

ミツバチは1センチ強。5倍のルーペで細部をみると、背中に針に刺された跡らしいものがあった。腹部を太陽の方に向けると空洞になっていた。ミツバチは、腹は空洞なのだろうか。そんなことはあるまい。アブが体液を吸い尽くしたために空洞になったのだろう。ものすごいハンターが渓谷にいたものだ。

2010年8月1日日曜日

ツクツクボウシ鳴く


わが家の庭にある柿の木は「セミの止まり木」。6月から7月へとカレンダーが変わるころ、ニイニイゼミが柿の木に現れてかぼそく鳴く。今年、初鳴きを聞いたのは7月2日夕方、近所を歩いていたときだ。向かいの家の庭で一声、「ジー」と鳴いた。それから何日もたたずにわが家の庭でも鳴き出した。

ヒグラシは夏井川渓谷で聞いた。梅雨のさなかの7月11日、曇天の朝だった。周りが家だらけのわが家の庭には、さすがに現れない。少し遠出して郊外を行くと、夕方には「カナカナ」の鋭い音が飛び交う。暑い夏の日の夕暮れを象徴するセミだ。

アブラゼミ=写真=は7月28日夕方、庭の柿の木で鳴いた。「ジリジリジリジリ……」。確かに、てんぷらを揚げているような音が途切れずに続く。

ヒグラシの鋭さ、アブラゼミの暑苦しさ、ニイニイゼミの心細さに比べたら、ミンミンゼミの鳴き声は明朗だ。まだわが家の柿の木では鳴かないが、7月29日朝、近所で鳴いているのを聞いた。

昨日(7月31日)朝は、庭でツクツクボウシが鳴いた。随分早いお出ましだ。記憶にある初鳴きはだいたい、月遅れ盆が過ぎてから。残暑のなかに秋が忍び寄ってきたかなと思うころ、「ツクツクホーシ、ツクツクホーシ」が聞こえる。それが、今年は7月のうちにセミのそろい踏みとなった。

きょうから8月。行政区の役員に加わったために月遅れ盆の行事その他、期限、あるいは締め切りの決まっている仕事がある。合間に庭の「蝉時雨」に心乱されることなく、パソコンに向かわなくてはならない。早めにねじを巻かないと慌てふためくことになる。