2010年10月31日日曜日

雨の森


雨が降れば、こうもり傘をさして森へ入る。無量庵のある夏井川渓谷だけではない。わが家に近い里山でも、ときどきそうする。あくまでも、ときどきだ。嵐になれば、そんなことはしない。どころか、できない。風がなくて、しとしと雨が降り注ぐとき――だけの気まぐれ。

森を巡るのは、基本的には「観察」のためだ。野草・樹木・キノコ・野鳥……。なんでもいい、人間以外の情報を自然から得たい――それで、雨の日にも森へ入る。そして、あればだがついでに食材を手に入れる。

哲学者の内山節さんの本に触発されて、自然と人間の関係を考え続けようと思ってきた人間には、活字になった「教科書」ほど役に立たないものはない。一般論としては分かる。が、いわきは、あるいはほかの土地もそうだろうが、まったく一般論に当てはまらないのだ。いわきそのものが広すぎて、自然を単純に論じられないこともある。

きのう(10月30日)は台風に前線が刺激されたのか、朝から雨だった。週末だが、雨。人間は森には入り込まないだろう。そこが狙い目で、「キノコがオレを呼んでいる」気になって、近くの里山へ車を走らせた。

結果を言えば、空振りに近かった。先日採集したコケイロヌメリガサを2本、ウスヒラタケを多少、そして今までは無視していたがモリノカレバタケを少し採った。しかし、キノコのことはどうでもいい。

雨の森には雨の森のおもしろさがある。雨の夏井川渓谷を歩いた日、道端のコケが先っちょから水滴を滴らせていた=写真。雨水を吸いきれなくなって表面をすべらせている、そんな印象を持った。森を構成するものたちのドラマの一部だ。それはささいなことではない。森の営みの、重要な一こま。森の営みは人間の想像以上に深いのだ。

晴れの森、曇りの森、雨の森は、まあ歩いて頭に入っている。夜の森は今のところ、体験しようという気になれない。夜の闇は、マツタケを採らない私には怖いのだ(マツタケ採りのプロは真夜中に入山するとか)。無量庵では、ツキヨタケが光るのを見たいとは思いながらも、〈オレは山男の辻まことではない〉と言い訳をして、さっさと眠りに就く。

2010年10月30日土曜日

芽生え


週末、夏井川渓谷の無量庵ですごすようになって、15年余がたつ。そこで、ネギ(三春ネギ)の種を採り、保存し、まいて、育てている。

私は無量庵の、週末だけの管理人。無量庵は亡くなった義父母が隠居家として建てた。その無量庵へ通い始めたころ、地元の集落の古老の家に呼ばれて酒に沈んだ。古老の家で目が覚めたら、ジャガイモとネギのみそ汁が出てきた。そのとき、覚醒した。〈これだ、このネギだ、小さいときに食べて甘かったネギは〉

「三春ネギ」だという。カミサンのつくる、ネギとジャガイモのみそ汁は味気がない。「おふくろのつくるみそ汁とは味が違うな」「私はあなたのおふくろじゃない!」。ネギの品種が違うことが、そのとき初めて分かった。

以来、古老の家からネギ苗をもらい、種を採り、失敗を重ねながらも、毎年10月10日前後に「三春ネギ」の種をまいている。ながらく「体育の日」の祝日だった。目安にするには分かりやすい。わが父親の誕生日にして命日でもある。今年もその日に種をまいた。それが芽を出した。

去年、小瓶に入れて冷蔵庫にしまい忘れていた種もまいた。ネギ坊主から採種して1年半がたっている。乾燥剤が効かなくなったのか、一部カビが生えていた。期待しなかったのだが、こちらも芽を出した=写真手前。冷蔵庫に入れておけば、2年目でも芽の出ることが分かった。

毎年、なにか違うことを試みる。おととしは苗床に寒冷紗を張った。去年は(いや、今年の春先までだが)こまめに追肥をした。今年は「ばらまき」ではなく「すじまき」にした。密植だと育ちの悪い苗が多数できる。それを避けたのだ。

2年目の種をまいたのも、結果的に試みの一つになった。あるところで三春ネギの話をしたら、「種が欲しい」と言われた。かびた種をやるわけにはいかない。悩んでいたのだが、大部分の種は生きていた。

多めに種を採り、冷蔵保存をしていれば、少なくとも2年間は持つ。乾燥剤を入れて、こまめに乾湿状態をチェックすることで、希望する人に種を配ることもできる。それが今年の“研究成果”だ。

2010年10月29日金曜日

歴史小説家


去年(2009年)秋、いわきの総合雑誌「うえいぶ」(42号)の巻頭に歴史小説家・乾浩さんのエッセーが載った。「北海道開拓に命を懸けた詩人猪狩満直と医師関寛斎の心」がタイトルだった。

その1年前、水戸の知人から電話があった。知人は乾さんとは、大学の先輩・後輩の間柄(そのことは先日、二人と酒を酌み交わして分かった)。

乾さんが歴史小説『斗満(トマム)の河 関寛斎伝』を出した。関寛斎は戊辰戦争のとき、官軍の「奥羽出張病院頭取」、つまり野戦病院長として平潟~磐城平で傷ついた兵士の治療に当たった。その人間が、73歳になって北海道開拓を志す……。寛斎の晩年に焦点をあてた小説といってもいい。

ついては、いわきの人たちにその本が出たことを知らせてほしい――知人にいわれて、いわき総合図書館の本をネットでチェックした。あった。が、常に借り手がいて、本を読んだのはずいぶんたってからだった。読んだ感想は2009年1月25日の当ブログに書いた。

その縁もあって、知人を介して「うえいぶ」にエッセーを依頼した。それからほぼ1年がすぎた。知人と二人でぜひ、いわきへ――といっていたのが、10月中旬に実現した。

いわき駅前再開発ビル「ラトブ」の1階で待ち合わせ、4、5階のいわき総合図書館を巡ったあと、いわきニュータウンの「暮らしの伝承郷」へ足を運んだ。

伝承郷には、乾さんが「うえいぶ」のエッセーで触れた猪狩満直の生家が保存されている。庭には満直の詩碑もある。生家と詩碑をぜひとも見てほしかったのだ。詩碑をデジカメに収めている姿を撮影した=写真

その夜は3人で夏井川渓谷の無量庵に泊まり、翌朝、いわき市立草野心平記念文学館を訪ねた。副館長は鉱物が専門(10月27日の当ブログ「コピアポ石」は彼の示唆による)だが、関寛斎の研究者でもある。私はそこで別れた。二人はそのあと、副館長の案内で平の市街地に戻り、戊辰戦争のとき、野戦病院となった寺を見た、ということである。

乾さんは北海道を舞台にした歴史小説を書いている。その延長で、北海道の猪狩満直のことを小説に書いてくれないものか――。図書館と伝承郷、文学館を見てもらったのは、そんな思惑がはたらいたからかもしれない。

が、それよりなにより総合図書館はいわき市民の誇り、そのことを知ってほしい、その一念で案内した。郷土資料コーナーに目を見張り、いつかまた図書館を訪れたい――乾さんは率直に語った。

2010年10月28日木曜日

ツキヨタケ


毒でも会いたいキノコがある。そのキノコに遭遇した。

無量庵(夏井川渓谷)からの帰路、籠場の滝付近に車を止め、対岸の岩場を白く覆うダイモンジソウの花を双眼鏡で眺めた。と、倒木に白いキノコが群生しているのが目に入った。立ち枯れの大木にもサルノコシカケの仲間らしい、大きなキノコが生えている。

後日、それを確かめに森へ入った。その途中、谷側の斜面に倒れていた大木を見ると、見慣れないキノコが群生している。もしやツキヨタケ、と思って近づいたら、そうだった=写真。冒頭に書いた、毒でも会いたいキノコだ。何年ぶり、いや十何年ぶりだろう、この渓谷で出会うのは。

ふんわりした気持ちになって、目指す倒木と立ち枯れ木へと歩を進める。いちいち木に名前はつけない。が、この木が立ち枯れた、あの木が倒れた、ということは、定点観測を重ねているので分かる。すぐたどりついた。倒木の方のキノコはウスヒラタケだった。天然の乾燥品になっていた。サルノコシカケ系はちらりと見るだけにとどめた。

ウスヒラタケは、遅かったと思いつつも、3個ほど家に持ち帰り、水に浸した。一晩たったら、よみがえった。若いウスヒラタケの張りには比べようもないが、結構、それらしくなった。豚肉と一緒に油で炒めてもらった。まあまあ食べられる。乾燥状態でも採集可能なことが分かったのは収穫だ。

あとはクリタケ、ヒラタケ、そしてエノキタケ……。ツキヨタケが出たからにはムキタケも? というわけで、今年の秋のキノコ狩りは今しばらく続きそうだ。

2010年10月27日水曜日

コピアポ石


「コピアポ石(せき)」というものがある。いわき市立草野心平記念文学館で開催中の「草野心平と石」展で知った。心平の収集した石とは、直接の関係はない。関連展示の「いわきの鉱物」コーナーで、いわき産の一つとして紹介されている=写真。小瓶に入っていて、粉状で黄色っぽい。ラベルに「平南白土」とある。採集地だ。

企画展開催二日目の10月10日に観覧し、15日に知人を連れて再び文学館を訪れた。2回とも、鉱物に詳しい副館長から詳細な説明を受けた。

なぜ、コピアポ石か。チリの鉱山落盤事故が起きて、33人が地中深く閉じ込められていた。新聞は連日、コピアポから送られてくる特派員の記事を掲載した。無事に33人が救出されるように、という願いを込めて、「いわきの鉱物」コーナーの最上段、中央に飾られたのだった。

読者としては【コピアポ(チリ北部)】なんていう新聞記事のアタマは無視して本文に入るから、今、最も注目されているところと言われても分からない。副館長に教えられてやっと、チリ―落盤事故―コピアポがつながった。地下634メートルに閉じ込められた鉱山労働者33人が全員、2カ月余ぶりに2日がかり(13、14日)で救出された、その前後だった。

ハリウッドが好む、極限状況での生の帰還には違いない。それについてはだれもが承知の助だからふれない。が、落盤事故をたびたび起こすような保安体制の不備を指摘する声がある。むしろ、こちらの方に耳を傾けたい。

話は変わるが、今度の事故の報道に刺激されてパブロ・ネルーダの詩を再読した。少し心が潤った。

チリの10月は春の真っただ中。〈おれの祖国では 春は/北から南へとやって来る その香りとともに/コキンポの黒い石や/あわ立つしかめっつらした水辺をたどり/痛めつけられた群島までやってくる〉。コピアポはコキンポの北にある。そこではコキンポ以上に春が沸騰していることだろう。

2010年10月26日火曜日

モグラ君、こんにちは


庭の刈り草片づけにくたびれたので、ベンチにまたがり、テーブルにひじをつけて休んでいたら、足元を動く黒いかたまりが目に入った。頭胴長およそ7センチ。ノネズミか。いや、それにしては頭をもさもさしながら、苔のあいだにできたジグザグ道を行ったり来たりしている。

テーブルとベンチといっても、厚めの板3枚(それがテーブル)を丸太の脚4本で支え、同じ厚めの板に太めの枝4本を差し込んで脚にしたベンチが4つあるだけ。川内村の知人がつくった。テーブルも、その脚も長年、風雨にさらされ、腐朽が進みつつある。脚にも、板にもキノコが出はじめたので、それと分かる。

ぼろぼろになりつつある、その脚の底に黒い塊がもぐりこんだ。と、そこからとがった肉色の鼻をひくひくさせては、出たり入ったりしている=写真。モグラ、ではないか。どうした、こんな日中に。しかも、モグラ道はほとんど地上に生えている苔をならしただけにすぎない。土の中にもぐっていかないのだ。

モグラは畑の地中に道をつくる。地表すれすれのところでは、土が割れて盛り上がる。それで、野菜の根が宙に浮き、枯れることがある。モグラは畑の邪魔者だ。

が、地上でうごめく姿はおどおど、びくびくしていて、モグラは絶えずベンチの脚の底から出たり入ったりしている。カメラのシャッター音にも驚いて脚の底に引っこむ。

曇天、夏井川渓谷の無量庵。初めて見るモグラ(ヒミズか)に心がときめいた。カメラをとりにその場を離れたあとも、モグラの堂々めぐりは続いた。それをパチリとやると、やっと、モグラ君、こんにちは――そんな気持ちになった。やがて彼は草むらに消えた。

2010年10月25日月曜日

まんまる鍾馗さま


10月第三週にはいってからこのかた、日替わり・半日替わり、ときには2、3時間替わりで違う用事をこなさなければならない事態が続いている。ビジネスではない。区(自治会)なり所属する団体なりの行事や打ち合わせ、プライベートの約束が集中したのだ。予定がこんなにたてこむなんてことは現役時代にもなかった。

きのう(10月24日)は、朝6時に起きて家の周りの清掃をした。「秋のいわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動」(3日間)のしめくくりだ。そのあと、区(自治会)の役員が参加して、区内にある県営住宅集会所の周辺の草刈りをした。

9時すぎには新田目病院(平)のバザーへ出かけた。家の周りの清掃と、8時からの集会所の清掃のあいまに、バザーの手伝いをするカミサンを病院へ送り届け、集会所の清掃が終わったら、今度は夏井川渓谷の無量庵へ行って、そっちの刈り草片づけをするために、カミサンを連れていかなければならない。

無量庵へ着いたのは11時前。刈り草片づけの前に、森へ入って「目星」をつけていたキノコのチェックをした(なんで「目星」なのか、その結果はどうだったのか、はいずれ報告したい)。それからしばらく刈り草をネコに積んで堆肥枠に押しこむ作業を続けた。たっぷり汗をかいて、へとへとになった2時前、「もう行こう」となった。

どこへ? 好間・榊小屋にあるギャラリー「木もれび」へ。「いわき絵幟 石川幸男(二世)個展」が27日まで開かれている。前置きが長くなったが、きょうはこの個展をぜひとも紹介したかったのだ。私以上にカミサンが興味を示している個展だったので、喜んでアッシー君をつとめた。

いわき絵幟は、端午の節句に男の子が強くたくましく育つことを願って、子どもの母親の実家から贈られた縁起物だ。今に続く風習だが、住宅・核家族・近隣関係その他から、絵幟を立てられるような家は郊外の農家に限られるようになった。

「絵師」の二世石川幸男は本名・石川貞治。アカデミックな勉強もしてきた「絵描き」だ。絵幟職人としての腕と画家としての技術が、新しい伝統を生みだした――そんな印象を持った。昔からの大きな絵幟はもちろんつくる。しかし需要はすでに、庭に高々と掲げる幟から室内に飾る幟へと変わってきた。

そこに絵描きの独創性が発揮された。「いわき絵幟雛形板絵」。布だけでなく板に絵幟の図柄を定着させる。伝統を未来へと引き継ぐ形のひとつが、そこにあった。50年後には板絵が当たり前になっているかもしれない。それだけの必然性、時代の流れ、のようなものを感じた。

それに加えて、二世には遊び心がある。「金太郎と鯉」は絵幟の代表的な図柄のひとつだが、「鯉」をアクアマリンふくしまが調査・研究に力を入れている「志意羅感須(シーラカンス)」に置き換えた、旧作の絵幟も展示した。まんまる顔の鍾馗とバイキンマンの弟みたいな鬼の板絵もある=写真。同じ「鍾馗」と「逃げ鬼」の連作墨絵額には、北斎漫画に通じるようなおもしろさを感じた。

絵幟としての節度を守りながらも、ふだんの暮らしのなかに絵幟を生かす作品づくりをしようという意欲を買いたい。なによりも、絵師としての緻密なウデがそれを支えている。

2010年10月24日日曜日

ハクチョウが来た


10月19日に、冬鳥のマガモがやって来た、山里ではジョウビタキも間もなくやって来るだろう、と書いた。冬鳥は、ハクチョウだけではない、というのが趣旨だった。すると――。

山里どころか、いわきの平地のわが家に22日午後、ジョウビタキが現れた。スズメがムクゲの木に止まったなと思ったら、変な動きをしている。葉っぱにまぎれながら尾をプルプルやっているではないか。よく見たらジョウビタキの雌だった。いわきの山野は冬鳥のステージに変わったことを実感した。

ということは、ハクチョウが現れるのは時間の問題、いや秒読みに入ったはず――と、わが脳みそが反応する。

きのう(10月23日)、平のマチなかで用事をすませたあと、夏井川の堤防の道を利用して帰宅した。急にそうしたのは、胸が騒いだからだ。案の定、20羽ほどのハクチョウが平・塩地内、というより対岸の平・山崎地内の岸辺で羽を休めていた=写真。それが正午前。

同じ日の午後2時過ぎ、知人2人を夏井川渓谷の無量庵へ案内した。途中、三島(小川町)で夏井川のそばを通る。そこにもハクチョウが15羽ほど羽を休めていた。

すると、塩(山崎)と三島の中間、平・中平窪にはもっと飛来しているに違いない。いわき市の夏井川では、中平窪はハクチョウの第一越冬地、塩は第二、三島は第三越冬地だ。

あとで、夏井川白鳥を守る会のHPをのぞいたら、21日に大挙77羽が飛来し、22日にはほぼ倍の数になった。塩にも、三島にもほぼ同時に現れたのは、飛来初期にしては大群だったためだろう。

塩では、さっそくMさんがえさのパンくずと米をまいた。見たわけではないが、岸辺にそれが残っていたので分かる。

Mさんは一年を通して、残留コハクチョウウの「左助」「左吉」「左七」の世話をしていた。彼らは去年の夏から飛来シーズン前後に姿を消した(たぶん、けものにやられたのだ)。

で、今年はハクチョウが北へ帰ったあと、朝の散歩時にMさんと会うことはなかった。猛暑の7月末以降、朝の散歩をサボっているからなおさらだ。ハクチョウが来た以上は早朝散歩を再開しなくては――といちおうは考えるのだが、どうなることやら。

2010年10月23日土曜日

キノコのぬめり・2


家に帰って来たら、夕食まで少し時間がある。きのう(10月22日)紹介したナラタケの様子が気になって、近くの里山へ車を走らせた。

立ち枯れの木の根元にナラタケが群生しているのを見つけたのは、おととい。傘はまだクリーム色、傘裏のひだは純白だった。まれにみる美菌である。それが、たった一日過ぎただけで茶色に変わっていた。大きさは変わらなかった。きれいな姿でいられる時間はほんの一瞬、ということか。

ついでだから、前日とは違う道を歩いてみる。これといったキノコは見られなかった。車で移動し、別の道をチェックする。1カ所目は空ぶり。2カ所目で傘に著しいぬめりのあるキノコを見つけた=写真。道端の草むらにまぎれて生えていた。ぬめりのある毒キノコはあっただろうか……。食菌かもしれない。30本ほど収穫した。

わが家に戻って図鑑にあたると、アブラシメジでも、ヌメリササタケでもない。ネットで調べたら、コケイロヌメリガサらしいことが分かった。食菌は食菌だが、少し癖が強いようだ。あえもの、油料理に向くという。

なにはともあれ、ゆでてからどうするかを考える。ゆでてもぬめりは消えない。柄はかえってぬめりが強くなった。コケイロヌメリガサであることを確信した。

1本を細かく刻んで酢醤油で味見した。かすかに苦みがあるが、気になるほどではない。傘はしゃきしゃき、柄は少しぼそっとした感じ。ぬめりを楽しむだけでよしとすべきなのかもしれない。きょうはみそ汁と大根おろしを試してみるか。

2010年10月22日金曜日

キノコは美しい


生まれたばかりの人間の赤ん坊は、はっきりいってかわいいとは思わない。しわくちゃで、赤ら顔。だから赤ん坊だが、それが半年もたって人間らしい顔になると、なんてつるんつるんしているんだろう、なんてかわいいんだろう――となる。

つるんつるんとした、そのほっぺたを指でつついてみる。弾力がある。腕や足をさわる。やはり弾力があってみずみずしい。キノコに関しても、そんな感情を抱きたくなるときがある。

立ち枯れの木の根元にナラタケが群生していた=写真。発生したばかりだ。こちらは人間、いや動物とは違うから、最初からつるんつるんとしている。雨にもぬれず、風にも吹かれず、多少はその洗礼を受けたかもしれないが、見た目は無垢のまま。二十数年ぶり、どころか三十年ぶりくらいに遭遇した、美しい姿だ。

「美少女」だの、「美人」だのと、ついオーバーにたとえて書きたくなる癖がある。が、ここまできれいだと、そんな形容語はいらない。キノコは美しい。ただ、それだけ。

ナラタケの、きれいなかたまりの三分の二をこそげとった。残りは何日かたつと大きくなるだろう。ころあいをみて、また摘みに行く。他人に採られてなくなっていてもかまわない。キノコ採りはおたがいさま。自分のシロは他人のシロでもあるのだから、〈遅かったか〉で終わるだけだ。

帰宅してすぐ、下ごしらえをした。柄に触れながら、つばの下の硬い部分を折り取った。硬い柄を取るのは、消化不良による下痢対策だ。ゆでて、水に冷やして、大根おろしにしたらうまかった。

2010年10月21日木曜日

カマキリ産卵


カマキリが田んぼと宅地を仕切るフェンスに産卵していた=写真。新規に開発された戸建て・賃貸の住宅地だ。カマキリが生息するような環境ではない。カマキリの産卵を人間が目撃することも、まずない。

それが、目の前で展開されている。産卵を始めた以上は、人間に注視されてもやめるわけにはいかない。それほど必死の行為だ。が、なぜこんなところで――。長男一家が住む家に上の孫を送り届けたら、孫の母親からカマキリの産卵を教えられた。10月初めのことだ。

玄関前の駐車スペースの奥にフェンスが張られている。車を止めればカマキリが目に入る。何時間も前に産卵を始めたのだろう。

たとえば、夏井川渓谷の無量庵。庭と周囲の自然が一体化している「虫の王国」だから、カマキリがどこに産卵してもおかしくない。ススキに産みつけられたオオカマキリの、円錐形の卵嚢(らんのう)をよく見かける。

ところが、フェンスの卵嚢は縦長だ。オオカマキリではない。単にカマキリと呼ばれているチョウセンカマキリらしい。それが、どこからか飛来し、フェンスの支柱に逆さまに止まって、尻から卵をひり出しては産みつけている――。いい光景だな。

カマキリであれなんであれ、いきものの産卵を目撃すればおのずと厳粛な気持ちになる。産卵場所が見当たらず、思い余ってそこに飛来したかどうかはどうでもいい。孫の家へ行くたびにチラリと見る楽しみができた。

2010年10月20日水曜日

心平がゆ、再び


10月初め、「心平がゆ」について書いたら、川内村の「春風」さんからコメントをいただいた。「心平」はむろん、いわき市出身の詩人草野心平。その心平が考案?した、ごま油を使ったかゆを何度かつくったという。「少し大げさですね」という感想が添えられていた。

かゆのレシピの記述が大げさなのか、台湾でのホテルの朝食から、中国の食文化と心平の食習慣を直結させたのが大げさなのか――よくは分からないが、どこかで無理があったのだろう。

あとで草野心平の『仮想招宴』(あまカラ選書――KKロングセラーズ社刊)を読んだら、本人が「心平がゆ」に触れていた。タイトルは本の題名と同じ「仮想招宴」。

(このお粥なんかしらねえ)/〈團伊玖麿ンところでは心平粥ってんだ。八丈でつくったら。そんな名前つけられちゃった〉/(教へて下さい。あたしもつくるから)/〈簡単さ。米と水と胡麻油。水が五で油が二.たっぷりね。あとは時間〉/(胡麻油?)/(ちっとも油っぽくないわね)

米に対して「水が五で油が二」だとしたら、確かに油は「たっぷり」だ。「米と同量のごま油」どころではない。ここは「春風」さんにレシピを教えてもらうほかなさそうだ。

天山文庫=写真=でも朝はかゆかパンだったそうだ。同じ『仮想招宴』には「以前は粥もパンも、あまり好きではなかったが、近頃は普通の白飯は胃に重たく、特に朝は食欲もかぼそく、お粥かパンをとることに決まってしまったかのようだ」、その割合は「粥も毎朝だとアキがくるので三日に一度はパン食にする」という具合。

ついでに紹介すれば、『草野心平全集 第12巻』所収〈食物考〉の「チャンポン粥」には心平がゆに青菜を微塵にしてふりかける話が出てくる。そのかゆは「油独特のぎらぎらなどはすっかり消えてしまって相当すんだものが出来上る」。今度はちゃんと意識して心平がゆを食したいものだ。

2010年10月19日火曜日

マガモ飛来


いわきでも、野鳥の世界は「留鳥」をのぞいて「夏鳥」から「冬鳥」に交代しつつあるらしい。

日曜日(10月17日)早朝、わが家から夏井川渓谷の無量庵へ出かけた。ハクチョウが飛来する小川町・三島の夏井川のそばを通りかかったら、水鳥が数羽浮かんでいた。マガモだ。車を止めて写真を撮ろうとした瞬間に飛び立った=写真。マスコミの感覚でいえば、これはニュースだ。

夏井川流域で目撃した、今シーズン最初の「冬鳥」である。青首に白い輪のある雄を中心としたファミリーだろうか。

新聞・テレビは季節の変化を告げる鳥として、春は「夏鳥」のツバメを、秋は「冬鳥」のハクチョウを取り上げる。定番だ。

それを否定はしない。が、そうなったのはおそらく、写真に撮りやすいからだ。ツバメは人を恐れない。ハクチョウは体が大きい。それが、いつのまにかワンパターンの“季節もの”として定着した。

それですませてはいけないのだ。「夏鳥」はツバメのほかにいっぱいいる。「冬鳥」もハクチョウのほかにいっぱいいる。

記者に「いきもの」への幅広い知識があれば、新聞紙面は、少しは変わってくる。それは、記者が暮らす地域の自然を、それを利用する人間との関係から見つめなおし、考えなおすことでもある。人間だけを相手にして事足れり、としていてはいけないのだ――などと、つい偉そうな物言いになってしまう。

さて、水辺にはマガモがやって来た。山里でも間もなく「冬鳥」のジョウビタキが姿を見せるだろう。ツグミも現れるだろう。秋は駆け足で更けていく。

2010年10月18日月曜日

歯周病


「歯周病の急性発作」という診断だった。右上奥歯、つまり「親知らず」。歯の根っこ部分がなくなっている。で、土手(歯茎)が腫れて痛みが急にきた。去年の春に若先生から「むし歯」と診断され、抜歯予定だったのが、大先生の判断で“延命”した。

若いときからむし歯を診てもらっている先生(今は息子さんもやっている)が、今年も歯を残す方向で治療してくれた。今年は同級生たちと台湾へ行く直前の秋の発作だった。痛みの発作は1年半ぶりだ。かみ合わせがうまくできるようにしてもらった。

去年はほぼ同じ人間たちで北欧へ行った。そのなかの一人は歯が少ない。笑うと前歯2本は見えるのだが、ほかは? 「晩餐」になるときまって彼の歯の話になった。台湾でもまた、彼の歯の話になった。極端に歯の少ない人間は食事に時間がかかる。それを待つ。友情とはいつでも待つことだ、ということも含めて、歯の話が一種の“おかず”になった。

さいわい、台湾で食べた料理はあまり歯に負担をかけなかった。「小籠包」=写真=などは口に入れた瞬間、スープのうまみと中身がジワリと口中にとろけてひろがった。うまかった。それでもときどき、奥歯のうずくことがあった。うずきは軽く、一過性ですんだ。

台湾旅行のあとはしばらく落ち着いていたが、歯ぎしりをするような事態が続くと痛みが再発するらしい。二度ほどそういうことがあった。そして、三度め。

土曜日(10月16日)の午前、いわき地域学會の出版物を、あるところからあるところへ引っ越した。10人近くが参加して本の受け渡しをしているときに、歯周病の奥歯がズキンといった。歯をくいしばる、あるいは奥歯をかみしめる――それを無意識にしたから、歯痛が頭のてっぺんへと突き抜けたのだ。

で、歯を支えていた土手にゆるみができたのだろう。舌で押したら、歯がぐらぐらいっている。内側の歯茎はしっかりしているから、外側の土手と歯の間にすき間ができたのだ。重力のせいか、歯が斜めに垂れて下の奥歯とこすれるような状態になった。下の奥歯を動かすとカリカリ硬い音がする。

物を食べると歯の根っこに痛みが走る。よくかめない。前歯で食いちぎるだけだ。前歯二本の同級生よろしく、粗くかみきって飲み込む。当然、食事に時間がかかる。それより、食事がつまらない。消化もよろしいはずがない。

歯がぐらつき始めたからには早く引っこ抜きたい。指をつっこんでぐらぐらさせたが、まだ内側はしっかりしている。きょう(10月18日)は朝一番で歯医者さんに電話し、すぐにでも処置してもらおう。いわきの方言で、「えずい」(違和感がある)状態が続いている。

★追記=午前10時半前に着いて、大先生が歯の状態をみた。<これはだめだ>となって、歯茎に麻酔薬を注入した。「痛かったら、言ってください」と言って、グイッとやった。痛くはなかった。舌で探ると穴があいている。が、痛みは消えた。食事の楽しみが戻った。

2010年10月17日日曜日

阿部幸洋新作展


阿部幸洋新作展がきのう(10月16日)、いわき市泉ヶ丘のギャラリー「磐城」で始まった=写真。24日まで。いわき生まれ、スペイン在住の画家で、いわきでは今年2回目の個展となる。

風景、静物、花のほかに、新しく人物(裸体画)が加わった。花たちの一点、白い花は上方から差し込む光を浴びて神々しい。まさに神々しいというしかいいようがない。瞬時に「祈り」という言葉が浮かんだくらいだ。横たわる裸の女性も月光のような静けさをたたえる。

風景にも変化が見られる。建物の先、はるか向こうに集落が見える、丘へと続く道もある。家々が接するほどに狭い路地の上空には宵の明星がきらめく。雨上がりの午後の空でもあろうか、雲の切れ間に青空が広がる。「緑の青磁」と「青の青磁」に分ければ、当然、「緑の青磁」の色だ。湿り気を帯びたきれいな空気を感じた。

建物、道、街灯、木々――風景を構成するものたちはこれまでと変わらないものの、まなざしはより遠くへ向かっている。精神性がより増してきた、というべきか。

珍しいタイトルの作品があった。「秋の月」。建物を主とした風景で、どこにも月の姿はない。もしかしたら画面の外に月があって、その光が建物の壁に差し込んでいるのか。あるいは、屋根に接する外気が白っぽいのは、今にもそこから月が現れようとしているためか。

にしても、解せない。本人に確かめると、月は描いていないという。額装段階で「日」が「月」に化けてしまったらしい。画廊主がタイトルを「秋の日」に替えた。

2010年10月16日土曜日

キノコのぬめり


不作予想から一転、秋キノコは豊作の様相を呈している。岩手ではマツタケが大豊作。岩手かどうかは聞きもらしたが、奥さんの実家から今年初めて、何本もマツタケが送られてきた、という家がある。マツタケをいろいろ料理して食べた、とはうらやましい。

食菌ならウラベニホテイシメジやアミタケが狙い目。何人もの人が同じエリアを探索するから、のんびり出かけた日には老菌かほんの幼菌しか目につかない。しかたない、ポピュラーではない食菌を採取するか、という仕儀になる。

夏井川渓谷の森を久しぶりに巡った。落ち葉の海に窪みがいっぱいできていた。何人も入った証拠だ。手にして捨てたキノコもあちこちにある。食菌のタマゴタケがひっくり返っていた。真っ赤だから気味が悪くて捨てたのだろう。まだ新鮮だ。せっかくだから「拾う神」になる。すまし汁にいい。

傘が紫色でぬめりがあるキノコ=写真=にも数年ぶりで対面した。柄もぬるっとしている。ムラサキアブラシメジモドキだ。10本余を採った。これもすまし汁、みそ汁にするとうまい。珍菌はヌメリツバタケ。白いキノコで傘にぬめりがある。みそ汁、酢の物などにするといい。

わがシロの場合はこの程度だった。少し物足りない。「山の食。川前屋」へ足を伸ばす。コウタケが1パック3,000円前後で売られていた。ハタケシメジは400円。コウタケはすでに口にしたので、ハタケシメジを買った。ゆでて大根おろしにして食べる。炊き込みご飯もいい。歯ごたえがあって好きな食菌だ。

晩の食卓にはタマゴタケとムラサキアブラシメジモドキのすまし汁、ヌメリツバタケ、アミタケ、ハタケシメジの大根おろしが並んだ。

ヌメリツバタケは、万一を考えてカミサンには食べさせなかった。一夜明けても腹痛・下痢症状はなかった。大丈夫と分かっていても、どこかで不安な気持ちがうずいているらしい。この秋はそんな食菌との出会いが続きそうだ。

2010年10月15日金曜日

消える「戦争遺産」


夏井川渓谷を代表する樹種は赤松。急斜面の至る所に径1メートル前後の大木が生える。とはいえ、この十数年間であらかた松くい虫にやられた。亀甲模様の樹皮がはがれおち、卒塔婆のように白く立ち枯れているのが目立つ。

渓谷の小集落・牛小川は左岸にある。県道小野・四倉線、JR磐越東線が集落を貫いている。鉄道はトンネルが連続する。トンネルの上の急斜面にも赤松林が広がっている。右岸にやや遅れて、左岸の赤松も松くい虫にやられた。

右岸の松と違って、左岸の松は根元近くの幹に「キツネ顔」ができている。地元の古老の話では、先の戦争末期、航空機の燃料にするため松脂(まつやに)を採取した。その痕跡だという。

松の根っこを掘りだしてつくる松根油とは別に、天然ゴム同様、松の幹に何本か切れ込みを入れて、そこからしみ出す松脂を採取し、テレピン油を製造した。赤松の天然林とはいえ、燃料のもととなるテレピン油はいくらもできなかったろう。

三重、四重のVの字に切れ込みが入った「キツネ顔」は、その意味では知る人ぞ知る「戦争遺産」だった。それがしだいに立ち枯れ、折れたり、倒れたりするようになった。先日、1年ぶりで急斜面をのぼったら、新たに数本が折れ、倒れていた。

無残なオブジェと化していたものもある=写真。夏井川渓谷に通い始めた15年あまり前、初めて写真に収めた「キツネ顔」の赤松だった。この「戦争遺産」も間もなく消える。

2010年10月14日木曜日

日本語


きのうは台湾の漢字(繁体字=旧漢字)の話。きょう(10月14日)は台湾のことばの話をする。日本語が通じるのだ。それにはもちろん、ワケがある。日本が統治時代に日本語しか話さないよう、住民に強制した。その結果として、山地にすむ各部族には日本語の単語が定着した。30%ほどが日本語の単語という部族もあるそうだ。

「しかし、本人たちはそれが日本語だとは知りません。日本語が多く混ざっているのは、それに当たる自分たちの言葉がかつてなかったからです。たとえば、県知事とか選挙とかは日本語を使います。つまり外来語です。だから原住民たちは日本語を覚えるのがとても早いです」

許世楷・盧千惠著『台湾は台湾人の国』(はま出版=2005年刊)に出てくる一節だ(その「県知事」だとか「選挙」だとかいうことが、きょう、福島県で始まった。それとこの文章とは関係ない。が、私の意識の流れのなかでそうなった)。

日本が戦争に負け、大陸から台湾へと国民党政権が移ってくると、住民は次に北京語の使用を強制された。戒厳令がずっと続いた。根っからの台湾人である李登輝氏が総統になってやっと民主化が始まる。日本語も解禁になる。そう古い話ではない。

で、われわれの観光旅行の一こま――。台北の南の山里・烏来ではタイヤル族のショーを見て、昼食をとった。出迎え、接待したおばさんは日本語がぺらぺらだった。

同じ日の宵は、基隆近くの九份で台湾最後の晩餐を楽しんだ。そこも、映画「非情城市」のロケ地になって以来、観光地=写真=として知られるようになった山里だ。飲食店でおやじさんがあれこれウエートレスを指示していた。店のオーナーの父か祖父か失念したが、つまりじいさんだが、日本語が堪能だ。81歳だという。

じいさんは16歳で終戦を迎えたとなれば、骨の髄まで「日本人」としての教育がしみ込んでいる。今は「台湾人」だが、子どものときは「日本人」だった。

われわれとの会話のなかで、教育勅語を披露したり、軍歌を歌ったりした。こちらが水をむけたせいもある。

日本語の分かる、いやわれわれ以上に日本語をつかいこなす人たちに接して、楽しいのはつらい、うれしいのは恥ずかしい、明るいのは暗い(その反対もあり)――そう思った。

2010年10月13日水曜日

旧漢字


黒板に字を書いていた講師が、突然、「てのひら」ってどう書くんでしたっけ、と指を宙に浮かして受講者に聞いた。「掌」を書こうとして、「尚」と「手」のつながりがあいまいになったらしい。

私は、年齢が講師よりほぼ一回り上だから、ときどきそんなことがおきる。パソコンを使って文章を打っている以上、避けられない現象だ。ま、私の場合は度忘れのほかに老化もある。「掌」以上に画数の多い複雑な漢字は、すっかり忘れているに違いない。とにかくこまめにメモをとること――それ以外に対処法はない。それでも忘れる。

年に何度か他人の文章をまとめて読む。いわゆる旧漢字で書かれた文章にも遭遇する。分かりやすく、簡潔に――をなりわいにしてきた身としては、なんでわざわざ煩瑣な作業をするのかと疑問に思うのだが、旧漢字派にはそれなりの思いがあるらしい。作家のなかにも歴史的仮名づかいと旧字体(旧漢字)で通す人がいる。日本の言語状況に対する批判があるのだろう。

旧字体を象徴的に浮かび上がらせたのが、今年の8月15日に合わせてテレビで放送された、倉本聰脚本のドラマ「歸國」だった。なんでタイトルが旧漢字なのかはすぐに了解できた。先の敗戦まで漢字は旧字体(旧漢字)だった。新字体の世界、つまり戦後との違いを旧字体で浮かび上がらせたのだ。

その後、台湾を訪れて、向こうでは今も旧字体、いや昔からの繁体字を使っていることを知った。ガイドの青年が教えてくれた。テレビ・新聞ももちろん、繁体字。「颱風」「總雨量」「毫米(ミリメートル)」「萬(まん)」「鐵(てつ)」といった旧漢字が躍っていた。

街中の看板=写真=にも「國際畫廊(がろう)」「舞藝舞蹈」「電腦」といった難しい字が並ぶ。台湾が国際的に独立した国として認められていれば、台湾の漢字文化は「世界文化遺産」に認められるに違いない――ガイドの青年が胸を張った。それほど漢字を大切にしているクニがある。パソコンまかせで字形がうろ覚えになりつつある人間には驚きだった。

2010年10月12日火曜日

トリエンナーレ


10月2日に始まった「いわきアートトリエンナーレ2010」が、きのう(10月11日)終わった。35歳以下の、いわき市内外のアーティスト77人が参加した、市民レベルの一大イベントだ。

外野席からみていて思ったのは、二つ。展示会場をめぐって、若い作家の表現が多様になっている、ということ。そして、それを可能にする事務局のサポート態勢があった、ということ。

トリエンナーレ最終日の11日、いわき芸術文化交流館「アリオス」わきの平中央公園で野外シンポジウムが開かれた。

まず、美術家でもある事務局長の吉田重信さんが、このトリエンナーレのためにかけている時間の質量、つまり自分の仕事を先送りにしたり、犠牲にしたりしている、ということが容易に理解できた。事務局のメンバーにもいえることだが、日常の生活から離脱する時間が増えて家族に負担を強いる、という一面もあったはずである。

家族、友人、その他。広く深い「アヒルの水かき」があったからこそ、2回目のトリエンナーレはつつがなく終わった、とはいえないだろうか。

さて、いわき市内すべての会場を見て回ることはできなかったが、平近辺の何カ所かを巡って表現の今と昔の違いを痛感した。いわゆる「平面」より「立体」が多い。公園で見たのはバルーン=写真=だった。

会場の一つに「草野ホール」があった。40年近く前、同ホールはそれこそいわきのアートシーンを一手に引き受けていた。若い美術家のたまり場だった。その文化的な蓄積が、やがて「市民ギャラリー」という美術振興のための市民団体を生み、その運動によって市立美術館ができる、という流れをたどる。

そのころ、草野ホールに入り浸った1人として会場へ出かけたが、そこは新「草野ホール」だった。回想の「草野ホール」は草野ビルの3階だが、トリエンナーレに使われた「草野ホール」は2階。元は喫茶店で、スペースは半分以下ながら展示スペースとして改装されていた。

若い人たちよ、伝説の「草野ホール」ではなく、新しい「草野ホール」で自分たちの歴史を刻め――。なんとなくそんな気持ちになった。

再びシンポの話だが、「つながる(つなぐ)」「開く」、この二つがキーワードとして語られたように思う。アートを介して、あるいはトリエンナーレを介して人と人とがつながる、つながるためには心が開かれなくてはならない。それはアートに限ったこではないだろう。身近な共同体にも同じ原理がはたらく。

パネリストの一人、茂木健一郎さんは社会の矛盾に対して怒りを持て、というようなことを言っていた。トリエンナーレについても時折、辛辣な言葉を発した。挑発的な役目に徹していたようだ。人間としての生き方が問われている、そういうことを言っているのだと受け止めた。

2010年10月11日月曜日

草野心平と石展


いわき市立草野心平記念文学館で企画展「草野心平と石」が始まった(2011年1月30日まで)。心平の石好きは有名だが、世にいう水石愛好家ではない。そこが面白い。詩人は人間も自然も等距離でとらえる――そう考える人間には、この企画展は異質だが興味深いものだ。

石も、植物も、動物も、人間も同じ――。同文学館の粟津則雄館長がかつて評した「対象との共生感」、それこそが心平の詩の本質でもあるから。

「草野心平のもっとも本質的な特質のひとつは、ひとりひとりの人間の具体的な生への直視である」と粟津館長は言う。その直視は人間にとどまらない。動物も、植物も、石のような鉱物も、さらには風景も、同じように直視する。「彼とそれらの対象とのかかわりをつらぬいているのは、ある深く生き生きとした共生感とでも言うべきものだ」

その象徴的な作品が、次の短詩「石」だと私は思う。

 雨に濡れて。
 独り。
 石がいた。
 億年を蔵して。
 にぶいひかりの。
 もやのなかに。

「独り。/石がいた。」。「一つ」ではない「独り」、「あった」ではない「いた」。石もまた人間と同じ存在だ。それが、目の前に億年という時間を内蔵して存在している。

企画展のリーフレット=写真=に粟津館長はこう書いた。「眼前の姿への凝視とそれを生み出しそれを支えて来たものへの透視は、詩人草野心平を形作る二つの本質的要素ですが、草野さんと石とのかかわりには、それが純粋かつ端的に立ち現われていると言っていいでしょう」。直視のなかの二つの要素、凝視と透視が6行の「石」には凝縮されている。

企画展では石にまつわる心平の作品のほか、心平と鉱物学者桜井欽一博士との交流、冒険家植村直己から贈られた石、心平と故郷いわきの石、小玉石などの視点から、心平と石のかかわりを紹介している。岩石の内部へ、芯へと想像力を深くくぐらせる展覧会でもある。

2010年10月10日日曜日

コウタケご飯


きのう(10月9日)の夕方、平の駅前までカミサンを迎えに行ったら、ラトブの近くで「コウタケを買った」という。三和産が売られていた。パックに小さいコウタケが7本入っていて、500円だ=真。安い。私の感覚では3倍、1,500円の値がついてもおかしくない。

コウタケは一度、ゆでてあくを出したものを裂いて乾燥させるのが基本らしい。でも、ゆでた生コウタケを裂いてすぐ炊き込みご飯にするのもありだろう。なにしろ、すぐ食べたいのだから。

阿武隈高地の実家へ帰ると、義姉がよくキノコ料理をつくってくれる。「イノハナご飯」もその一つ。イノハナはコウタケのことだ。それを食べたときのイメージを思い浮かべる。イノハナの大きさ、イノハナ以外の具、ご飯の色……。

自分ではコウタケを採ったことがない。もらったり、買ったりして、これまでに2、3回料理したが、料理法が身につくまでにはいかない。で、実家で食べたイノハナご飯を思い浮かべながらコウタケを裂き、包丁でさらに刻んだあとは、カミサンにバトンタッチをした。

カミサンが米をとぐ。コウタケのほかに油揚げ、ニンジンを刻み、味醂と醤油をくわえて炊飯する。できたご飯はどうも味が薄い。醤油を加えて追い炊きをした。それらしい味になってきた。が、今度はご飯がやや硬く感じられる。きのうはそれで終わり、今朝、再び水を加えて追い炊きをした。硬さがほぐれたのでよしとした。

2010年10月9日土曜日

老猫


わが家に猫がいる。複数は御免こうむる――。ところが、カミサンとか息子とか、あるいはカミサンのきょうだいとか、猫好き・犬好きに囲まれていると、そうはいかない。何匹も身のまわりにいる、ということになる。そういう状態が続いている。

家猫は今、3匹。当然、私は猫の世話などはしない。せいぜいカミサンにいわれてキャットフードを買いに行く運転手になるだけだ。家猫のほかに、えさをやる外猫が何匹かいるらしい。猫屋敷にはなりたくない、と思うのだが、猫かわいがりには通じない。

家猫の3匹のうち、古参の雄猫が急激にやせた=写真。肩に傷もある。長男が東京にいたとき、捨てられていたので――と拾ってきたのを、カミサンが引き取った。10年以上前のことだ。

東京生まれのこの猫は、大きくなると家を飛び出してえさを食べに来るだけになった。腹が減る。すると、わが家に戻ってキャットフードを食べる。すぐ飛びだす。何日も帰って来ない。こんな「さすらい猫」だったのが、もう外へ行かなくなった。

いつだったか、日曜日夕方のNHKテレビを見ていたら、カメラマン荒木経維さんのドキュメントをやっていた。奥さん亡きあとの家族、猫のチロを死ぬまで撮り続けて、写真集『チロ愛死』を出した。

やせこけたチロを見たころ、やせこけた猫がわが家に帰ってきた。もう外へ出られる体力はないらしい。今は、一番怖いはずの私のベッドの隅っこで日がな一日寝ている。

2010年10月8日金曜日

毒キノコ


やはりきちんと毒キノコと向き合わないと、という気持ちになったのは、いわき市のとなり・平田村の道の駅で販売した「山キノコ」を買って食べたいわきの女性2人が吐き気と下痢をおこした、というニュースに接したからだった。

そのことは、一般論としてきのうのブログの最後に書いた。いわきキノコ同好会に入って勉強したから、ウラベニホテイシメジ(食)とクサウラベニタケ(毒)の違いが分かるようになったのだ、と。

それもあって、いわきキノコ同好会が実施した観察会で、最初にパチリとやったのはクサウラベニタケ=写真=だった。この習性はたぶん、若いときから変わっていない。新聞記者としていわきの歴史と自然を丸かじりしたい、という思い。それは、OBになった今も同じだ。

いわきの歴史を知りたい。で、いわき地域学會に入る。いわきの自然について知りたい。で、野鳥の会の行事に参加する、いわき地域学會の自然部会の行事に参加する。そうしてこの四半世紀以上、いわきを知るために、一介の市民としてアフタファイブを市民団体とかかわってきた。

私はそれで随分、助けられた。いわきの歴史や自然に関する疑問が生まれると、電話でだがチョウチョウのようにあの人に聞き、この人に聞きして答えを得た。

福島県内では10月6日から7日にかけて、テレビ・新聞でキノコ中毒が繰り返し報道された。「道の駅」で毒キノコが売られていた、ということが「ニュース性」を高めたのだろう。長野では、毒キノコのニガクリタケを食用のクリタケとして売ってしまった、というニュースもあった。そのことも作用したのかもしれない。

自然に関するマスコミの知識は豊かとはいえない。今度のできごとで、取材記者は、少しはキノコの奥深さ、ひいては自然の不可思議さに気づいたかな、そうだといいな、という思いを抱く。

一過性の取材ではなく、個人としてキノコでもいい、野鳥でもいい、植物でもいい、なにか自然についての勉強を重ねてほしい。そう思う。単なる「キノコ中毒」では、読者・視聴者には具体的なキノコの姿が刻印されない。

栃木県の人間が夏場、福島県内にキノコを採りに来て転落死する。それが毎年、繰り返される。なぜそうなのか――となれば、単に「キノコ採り」という記事にとどまっていてはいけない。栃木県民が愛する「チチタケ」を採りに来て死んだ、というところまでより具体的に書かないとだめだろう。それが今年夏、初めてそこまで踏み込んだ記事に接した。

クサウラベニタケに関する記事も同じだ。単に「キノコ中毒」では警鐘にならない。「道の駅」が絡んだために、キノコの具体名にも踏み込んだ。

記者の勉強力が絶えず問われている、ということを、ときどきは自分に問うてみることも必要だろう。勉強すればするほど、疑問は深く幅広くなる。すると、いよいよ面白くなる。そういうものだ。

2010年10月7日木曜日

食菌だが……


夏井川渓谷にある無量庵の庭に、今年もそのキノコが発生した。「大発生」ではない。「小発生」でもない。こことあそこといった具合に、ほどほどに群生する。菌輪をつくるキノコなら絵にもなるが、小さく何列にもなって生える。

見た目は食菌のシロオオハラタケ。でも、図鑑でチェックすると違う。キノコに触れても黄変しない。ということは、ハラタケ科のほかのキノコだ。ザラエノハラタケに違いない。これも食べられる。

毎年のことながら、図鑑をみて食べ方をあれこれ考える。鉄板焼きとかすき焼きはよそう。けんちん汁も、つけ焼きもめんどくさい。簡単なのは油いためだ――と。

幼菌から成菌まで並べてみた=写真。幼菌はまだひだにカバーがしてある。カバーはやがてはがれて、柄の上部のつばになる。傘は白く、傘裏のひだは淡いピンク色だ。ひだは成長するにしたがって黒っぽくなり、傘は白地に点々とコーヒー色のささくれができる。

今年も食べるのを見送った。キノコにのめり込み始めた30代の初めなら迷わずに食べたろう。が、その倍の時間を生きた今は、冒険をしなくなった。わが家に持ち帰り、一日悩んでごみ容器に入れ、夏井川渓谷の土に戻すことにした。

食菌にも食欲のわかないものがある。地元の人から食べた話を聞かないとか、見た目が毒っぽいとかもあるだろう。少し格好をつければ、いわきキノコ同好会に入って食欲にブレーキがかかるようになった。

中毒を起こすクサウラベニタケを、食べられるウラベニホテイシメジと誤認することがないのも、同好会で違いを学んだ結果だ。

2010年10月6日水曜日

トリーノ


日本野鳥の会のフリーマガジン「Toriino」(トリーノ)=写真=というものが届いた。初めて見る。同会のいわき支部長名で来たが、事務局長さんかだれかがこいつにも読ませよう、と出したのに違いない。ありがたいことだ。季刊誌らしい。

10月11日から、名古屋で「生物多様性条約締結国会議」(COP10 )が開かれる。それにあわせた活動の一環でもあるようだ。

不思議な写真冊子だ。「野鳥の会」のPR性がまったくない。写真は具象だが、文章は抽象といっていい。〈巻頭言〉が特にそうだ。

「生は、この刹那に直面する死を遣(や)り通して立つるもので、その積み重ねが時間的生を、すなわち人生を形作る。捨てて捨て身となって甦る生であれば、花も鳥も、風も月も、自らの人生そのものとなる。そこに得失是非はない」

中国の古典の森に分け入りながら、たぶん西洋哲学に通じた筆者が生物の多様性について語っている。難しい。でも、そういうことなのだと思う。心の深いところで自然と人間に向き合えば、ことは簡単ではないことが了解できる。

ただし、生物多様性とは人間から切り離された自然の領域の話、ではない。人間から切り離されて存在する自然はないし、自然から切り離されて人間が存在できるわけでもない。自然と人間は互いに影響し合っているのだ。それを踏まえたうえでの「生物多様性」である。と、少し難しいことを考えたのも、〈巻頭言〉の影響だろう。

2010年10月5日火曜日

ハエトリシメジ


日曜日(10月3日)にいわきキノコ同好会の「観察会」が開かれたことを、きのう書いた。そのときに持ち帰った食菌がある。アミタケ、オウギタケ。そして、若いウラベニホテイシメジ1本と、ハエトリシメジ数本。アミタケとオウギタケはみそ汁、ウラベニは1本だからゆがいて大根おろしに。ハエトリは――。

観察会では当然だが、一人ひとりばらけて林に入る。人語がする、ラジオが聞こえる、鈴の音が聞こえる――。同好会のメンバーだから分かる、迷ったときの手がかりだ。が、つかず離れずの距離感ながら、食菌があったからといって山中で呼びかわすようなことはしない。静かにキノコと対面するだけ。

とはいえ、ウラベニホテイシメジがひっそりと木の根元にあれば、こちらは〈オオッ〉となる。それで神経がとぎすまされた。

ハエトリが群生していた=写真。ウラベニのときには、「撮る」より「採る」だったが、ハエトリは「撮る」だ。食べ過ぎると「悪酔い」したようになる。そんなことが、図鑑その他から頭に入っている。7個ほど採った。

毎日、晩酌をやる人間としては、ハエトリを食べて、さらにアルコール(焼酎)を体内に流しこんだら、「悪酔い」以上になるのではないか。でも、飲みかつ食べたい。食べるハエトリは2本、ほかの1本は「ハエとり」にしようと決めて、3本をアルミホイルに包んで蒸した。

食べたらうまかった。歯ごたえもある。これは、もう一つ、もう一つ――といきそうな味だが、1本にとどめた。残る1本は、悪酔いがこわいのでカミサンにあげた。

人間には旨み成分が、ハエには殺虫効果があるらしい。残る1本を小皿に置いた。それでハエがどうなるか、効果のほどを確かめたい。が、残念ながらハエは現れなかった。

2010年10月4日月曜日

観察会


きのう(10月3日)は、日中はさいわい雨と無縁だった。いわきキノコ同好会の、今年最初のキノコ観察会が小川町の山中で開かれた。15人近くが参加した。日がさしたりかげったりする穏やかな天気だったために、雑木林の斜面を上り下りしてもうっすら汗がにじむ程度ですんだ。

猛暑・残暑・少雨でキノコは期待できない。それが、9月前半での予測だった。が、後半に秋雨前線が停滞した。秋分の日を過ぎると、人間は早々と衣替えをした。キノコも雨と冷気に刺激を受けて、一気に目ざめたらしい。種類によっては大発生をしているという。

私には、今夏から秋にかけての初めてのキノコ探索だ。目指す林に移動し、散開してキノコ採集を始めた。食毒に関係なく採集する。それを昼食後に同定する。つまり、鑑定する。それによって、いわきのその山では、こういう気象状況のときにこんなキノコが生えていた、ということが記録として残る。

前日の土曜日(10月2日)は晴れ、前々日も朝には降っていた雨が上がったために、入山者が後を絶たなかったと思われる。パッと目につくのは、毒キノコのクサウラベニタケ。食菌は見当たらない。そのことから、「毒キノコさえ生えない」という状況ではなく、食菌だけを採って「クサウラベニタケだけが残った」のだということが容易に推測できた。

キノコにも必ず採り残しがある。落ち穂拾いができる。意識は「食」に傾きながら、「食不適」「毒」「食毒不明」にも手が伸びる。そこが、観察会のいいところだ。

昼食と同定の会場は小川公民館だ。2階講堂でテーブルの上に各自が採ってきたキノコを並べる=写真。それを、冨田武子会長が同定する。初めて聞く名前のキノコもかなりあった。たとえば、トガリツキミタケ、シロイボガサタケ、アオゾメタケ、タマゴテングタケモドキなど。

毒キノコではヒダハタケ、フクロツルタケ、コタマゴテングタケなどがあった。食菌はウラベニホテイシメジ、ハエトリシメジ、アカモミタケ、タマゴタケ、ハツタケ、クギタケ、アミタケ、オウギタケなど。全体ではざっと70種くらいが確認されたのではないか。

2回目は次の日曜日、三和町の山中で開かれる。私はほかの用事があるので参加できない。と、決めていたが、コウタケが採りごろだろう、という。用事を前倒しするか、一日送らせるか、少しぐらついている。

2010年10月3日日曜日

キノコ岩


台湾・基隆の北方に「野柳地質公園」がある。海に突き出た人さし指のような岬だ。パンフレットによれば、1,000万年におよぶ地殻変動、海食、風食などの影響を受けてできたキノコ岩=写真=が林立している。網目状の傘の形状からすれば、食菌のアミガサタケが一番近い。要は奇岩怪石の野外展示場だ。

キノコのほかにショウガ、壺、豆腐に似た形状の岩がある。極めつけは女性の横顔にみえる「女王頭」だろう。

野外展示場だから、いつも同じというわけにはいかない。台風で壊れるキノコ岩がある。その残骸が横たわっていた。もろい一面もあるのだ。だから、観光客がキノコ岩にさわらないよう、監視員が目を光らせている。危険防止のためにその先へは行かないよう、ラインも引かれている。

しょっちゅう、監視員が笛を鳴らしていた。女性がキノコ岩にさわりポーズをとる、その写真を撮るために男性が岩に上がる、ラインを越える。台湾に最も近い国の観光客と思われる集団が、大きな声でしゃべりながらわがもの顔にふるまっていた。

大声のやりとりは免税店でも変わらなかった。われわれ一行にはどの店でも「いらっしゃいませ」だったが、彼らには違う言葉で接していた。店員には顔の表情、しぐさ、その他、全体的な印象で日本人かいなかが分かるのだという。

さて、ほんとうのキノコだ。きょう(10月3日)はいわきキノコ同好会の観察会が行われる。これから出かける。天気は下り坂で午後から雨になりそうだというが、今朝はまだ青空がのぞいている。山を歩いているうちは大丈夫だろう。

「採集会」ではない。食毒に関係なくどんなキノコが生えているか、リストをつくるのが目的。それを長年積み重ねることで「いわきの菌類」の姿が見えてくる。

2010年10月2日土曜日

心平がゆ


台湾旅行では、食事には不自由しなかった。特に、ホテルの朝食は洋・中・和あり。昨年の北欧旅行ではご飯やみそ汁が恋しくなったが、台湾では食事でストレスがたまるようなことはなかった。逆に一日1キロ、体重が増えた。帰国する4日目の朝、ホテルのバスルームに備えられてある体重計に乗って分かった。

台湾最初の朝、ホテルの食堂=写真=に入った。パッと目についたのは洋の食べ物だ。パンを取り、サラダを取り、ジュースを取りして食べた。が、ご飯を食べている人もいる。ご飯が食べられるのだ! 同室の人間と早速、ご飯とみそ汁、たくわんを取って食べた。かゆがあることも知った。

ご飯を食べたことをガイドの青年にいうと、笑われた。「中国人は、朝はおかゆかパンですよ」。そのとき、腑に落ちるものがあった。詩人の草野心平がつくる「心平がゆ」というものがある。なぜ心平とかゆなのか、が納得できたのだ。

心平は若いときに嶺南大学で学んだ。終戦までの5年余は、南京政府宣伝部顧問として中国で暮らした。中国の食文化がしみついていた、といってもいいだろう。われわれが病気になったり、二日酔いになったりしたときにかゆを食べる、なんていうレベルの話ではない。おそらく毎朝、かゆを食べていたのだ。

その「心平がゆ」だが、レシピはこんなものらしい。コップ1杯の生米と同量のごま油に15倍の水を加えてコトコト煮る。このかゆを心平自身から伝授されたのが作家の檀一雄と作曲家の團伊玖麿だったと、かつて心平の女性秘書さんから聞いたことがある。天山文庫では、朝はおかゆかパンだった、とも。

いわきでも「心平がゆ」を口にできる機会がある。11月12日の心平忌に合わせて「心平を語る会」が心平生家で開かれる。そのとき、必ず「心平がゆ」がふるまわれる。一度口にしたことがある。

「心平がゆ」を思い出したこともあって、台湾三日目と翌最終日の朝はおかゆにした。多少アルコールが残っていたせいもある。たった四日だったが、おかゆが中国人の、あるいは台湾人の食生活に重要な位置を占めている、ということがよく分かった。

2010年10月1日金曜日

サワガニ


無量庵は夏井川渓谷の小集落(牛小川)にある。何度も書いていることだが、私は週末だけの半住民だ。生き物の王国に間借りしているような感覚がある。あらためてそのことを思い知った。

土・日を無量庵で過ごす。すると、季節や時間帯によっていろんな生き物が姿を現す。夏場であればカ、ブヨ、アブのほか、アリ、キイロスズメバチ、アシナガバチ、その他さまざまな甲虫、オニヤンマなどが侵入する。

〈おれらのテリトリーになぜ家を建てたのだ〉――。人間からみたら虫たちは侵入者だが、彼らからみたら人間は侵略者だ。どうしても自分の意識が自然とむきあうなかで相対化される。

キジバトがガラス戸に突っ込み、ガラス片を廊下に散らしながらも、首を折らずに飛び去ったことがある。台所の外のカエデの木にヒヨドリが巣をかけたことがある。ジムグリの子どもが風呂場にいたことがある。ゲジゲジが浴槽に落っこちて水死していたことがある。

ノネズミもどこからか入り込むのだろう。黒いけし粒のようなフンがあちこちに落ちている。それと同じルートで現れたに違いない。サワガニが玄関のたたきで死んでいた=写真。これには驚いた。

サワガニは清流にすむ。牛小川が水のきれいな環境であることは、先刻承知のことだ。が、無量庵に入り込むようなことは今までなかった。今年の夏の猛暑がサワガニを小流れから追い出したか。たまたま移動中に迷い込んだか。いや、なにかがおかしくなっている、そういう自然のシグナルではなければいいが。