2010年10月14日木曜日

日本語


きのうは台湾の漢字(繁体字=旧漢字)の話。きょう(10月14日)は台湾のことばの話をする。日本語が通じるのだ。それにはもちろん、ワケがある。日本が統治時代に日本語しか話さないよう、住民に強制した。その結果として、山地にすむ各部族には日本語の単語が定着した。30%ほどが日本語の単語という部族もあるそうだ。

「しかし、本人たちはそれが日本語だとは知りません。日本語が多く混ざっているのは、それに当たる自分たちの言葉がかつてなかったからです。たとえば、県知事とか選挙とかは日本語を使います。つまり外来語です。だから原住民たちは日本語を覚えるのがとても早いです」

許世楷・盧千惠著『台湾は台湾人の国』(はま出版=2005年刊)に出てくる一節だ(その「県知事」だとか「選挙」だとかいうことが、きょう、福島県で始まった。それとこの文章とは関係ない。が、私の意識の流れのなかでそうなった)。

日本が戦争に負け、大陸から台湾へと国民党政権が移ってくると、住民は次に北京語の使用を強制された。戒厳令がずっと続いた。根っからの台湾人である李登輝氏が総統になってやっと民主化が始まる。日本語も解禁になる。そう古い話ではない。

で、われわれの観光旅行の一こま――。台北の南の山里・烏来ではタイヤル族のショーを見て、昼食をとった。出迎え、接待したおばさんは日本語がぺらぺらだった。

同じ日の宵は、基隆近くの九份で台湾最後の晩餐を楽しんだ。そこも、映画「非情城市」のロケ地になって以来、観光地=写真=として知られるようになった山里だ。飲食店でおやじさんがあれこれウエートレスを指示していた。店のオーナーの父か祖父か失念したが、つまりじいさんだが、日本語が堪能だ。81歳だという。

じいさんは16歳で終戦を迎えたとなれば、骨の髄まで「日本人」としての教育がしみ込んでいる。今は「台湾人」だが、子どものときは「日本人」だった。

われわれとの会話のなかで、教育勅語を披露したり、軍歌を歌ったりした。こちらが水をむけたせいもある。

日本語の分かる、いやわれわれ以上に日本語をつかいこなす人たちに接して、楽しいのはつらい、うれしいのは恥ずかしい、明るいのは暗い(その反対もあり)――そう思った。

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