2010年11月30日火曜日

背戸峨廊から救急車が


夏井川の支流、江田川は別名「背戸峨廊(せどがろ)」。詩人の草野心平が地元の人間が呼び習わしていたのに漢字を当てた。以来、「背戸峨廊」が通り名になった。

近年、とみに中高年ハイカーの人気コースになっている。入渓者が増えれば事故も増える。11月6日には宮城県の女性がコース最奥部の滝つぼに転落死した。11月28日にも事故が起きた。

28日昼前、夏井川渓谷の無量庵の畑にいると、平消防署川前分遣所の消防車がサイレンを鳴らして江田方面へ下って行った。江田方面から救急車が上がってくることはあるが、消防車が下って行くのは、無量庵では初めての経験だ。常備消防だから訓練ではないな、江田あたりで火事でもあったのかな――そんなことをちらりと思った。

午後1時半にはカミサンの方に用事がある。昼過ぎに無量庵を離れ、磐越東線の江田駅近く、背戸峨廊入り口付近でナガイモや曲がりネギ、白菜などを直売している小野町のNさんに会う。むろん、それらを買うためだ。

Nさんは紅葉シーズンになると、臨時に直売所を開く。曲がりネギは「三春ネギ」。この1年の無事を確かめあいながら、袋にいっぱい、1,000円分のネギを買い、白菜を買ったら、小ぶりのナガイモをおまけにくれた。

さあ、帰ろうとなったときに、救急車のサイレンが山あいに響き始めた。幹線道路の県道に沿った音の遠近感ではない。山陰から迫ってくる。だんだん音が大きくなる。これは背戸峨廊だなと思った直後に、救急車が現れた=写真。消防車が急行したのは、これだったか。

翌日の福島民報に小さな記事が載った。午前11時ごろ、「トッカケの滝」付近で茨城県の60代の女性が転倒し、けがをした、との通報がいわき市消防本部にあった。その救助のためにレスキュー隊と救急車が駆けつけたのだった。さいわい命に別状はなかったらしい。コース途中の、いやとっかかりの滝(「トッカケの滝」)あたりだから、まだよかった。

背戸峨廊は若者にも手ごわい。年を取るとますます手ごわくなる。だから、ちょっとのぞいてみるか――と思っても、私は谷底のコースではなく、楽な山側の遊歩道を「トッカケの滝」まで行って引き返す。その先での事故は、いくらレスキュー隊員でも時間がかかる。「背戸峨廊」はそれだけ奥が深く危険な場所だということを知っておきたい。

2010年11月29日月曜日

「白こぶ」はなかった


夏井川渓谷は、最後の紅葉のカエデが散り始めた。いよいよ渓谷の木々たちも冬の準備を終えつつある。すると、ヒラタケが落ち葉をかぶって群生しているはず――。頭にヒラタケの映像が浮かんだ。

初冬にヒラタケが群生する大きな倒木がある。ここ何年か、決まって今の時期に発生する。去年はひだに白い粒々のあるヒラタケが多かった。いわゆる「白こぶ病」だ。

今年はどうか。きのう(11月28日)、目指す倒木に直行した。あった=写真。が、傘に張りがなく、色も汚れかかっている。老菌になりつつある。一週間は遅かったようだ。“ミニ同級会”が行われた先週土曜日に、足を延ばしてチェックすることもできたのだが、時間的な余裕がなかった。翌日も多少頭が痛かったので無量庵にこもったままだった。

「白こぶ」はどうか。採って裏返す。ひだはすべて「こぶ」なしだった。きれいなものだった。

キノコバエが運んできた線虫がヒラタケのひだに付着すると、ヒラタケは自衛のために「虫こぶ(白こぶ)」をつくって線虫を食べてしまう、のだそうだ。栽培ヒラタケは「白こぶ」ができると売り物にならない。気持ちのいいものではないが、「白こぶ」の部分を取り除けば十分食べられる。

地球温暖化のせいで、ある種のキノコバエが北上しつつあるための現象らしい。でも、なぜ今年は無傷だったのだろうか。今年の秋はキノコが大豊作になった。「昔の気象条件」になって、キノコバエが立ち入るすきがなかったのか。全体の4分の1に当たる、若そうなヒラタケ20個前後を摘んで戻った。

2010年11月28日日曜日

峰丘カレンダー


おととい(11月26日)、いわき市平のギャラリー「界隈」で峰丘の個展が始まった。宵にオープニングパーティーが開かれた。峰はいわき地域学會の副代表幹事でもある。画家と新聞記者としての付き合いが30年以上、いわき地域学會の仲間としてのつながりも長い。そんな浮世の義理をわきにおいても、久しぶりに面白い個展を見た、という思いがした。

なんだろう、楽しいのだ。同い年の62歳だが、アイデアが枯れない。いや、ますます湧くように出てくる。この画家は還暦を過ぎて、かえって自在に、自由に、描きたいものを描いている――そんな印象を持った。

同い年の人間が遊んでいる、俺ももっと遊ぼう、と思わせる力が作品にはある。峰の作品に自分の明日のエネルギーをもらった。そんなことを明確に感じた。このごろなかった“共感”というやつだ。峰の最高峰になる作品群と言ったら失礼か。

別の言い方をすると、この個展は峰丘の「詩集」のような気がした。全体に流れている、いや漂っている空気に詩情を感じたのだった。

いわきのウミウの生息地として国の天然記念物に指定されている照島がある。月明かりの照島をラピスラズリ(瑠璃色)で描いている。アイデアが枯れないといったのは、この照島に思いを寄せるような視点があって、見る者の心を刺激するからだ。崩れゆく照島への哀惜がここにはある。

お開き後、恒例の「峰丘カレンダー」(3,000円)が参会者に贈られた=写真。年の暮れに近い時期に「界隈」で個展を開き、新作をもってそのまま翌年に打って出る。カレンダーはそのあかしだ。年末に1年で一番仕事が集中するような生き方をしてきた人間には、ひと月早い新鮮な年越しの流儀だった。

2010年11月27日土曜日

世界一住みよい国


新聞折り込みに某代議士の「国会だより」が入っていた。その中で、所属する委員会の海外視察として、ポーランド・ノルウェー・フィンランド三国を訪ねたことを報告している。

「フィンランドは最近『世界一住みよい国』(経済・政治・教育・環境などを総合的に評価)に選ばれた国だけあって、社会の倫理観が大変高いように思いました。このランキングは今後各国が目指すべき目標になるのではないでしょうか?」

デンマークでなくてフィンランド? 報告記を読んで真っ先にそんな疑問が浮かんだ。デンマークは「幸福度世界一の国」とも、「世界で最も住みやすい国」とも、「生活大国」とも言われる。昨秋の北欧旅行=写真はデンマーク・コペンハーゲンの歩行者天国=で頭に刻印されたが、フィンランドが1位のランキングがあるとは知らなかった。

さっそく検索する。アメリカ発祥の月刊誌「リーダーズ・ダイジェスト」が実施した<自然豊かで住みやすい国・都市のランキング>がそれらしい。空気や飲料水、幼児死亡率、公害、自然災害などの項目を、環境経済学的な視点から評価した結果、フィンランドがトップになったということだろう。

同じアメリカでも別の雑誌のランキングでは、フランスが5年連続「世界一住みやすい国」に選ばれたという。評価する要素が異なれば、違った結果が出るのは当たり前。

日本国内にもそれに似たような都市ランキング(東洋経済新報社の「住みよさランキング」)があって、いわき市は常に下位にランクされる。今年の市議会6月定例会でも議員が質問したようだが、あまり本気になって取り上げるものではない。上位にあれば取り上げ、下位にあれば無視する――そんな程度でいいのだ。

2010年11月26日金曜日

サケは来たか


若い仲間がわが家に来て、こちらだけ晩酌をしながら雑談に興じた。ときどきそういうことがある。話の流れのなかで「サケが川に上っていないんですよ、沖では捕れているんですがね」という。彼は別に鮭増殖組合の人間でもなんでもない。要は情報通だ。いつもなにか教えられる。

なんとなく了解できた。夏井川を横目に散歩をする。途中にサケのやな場がある。今年はそんなに組合員が出てないじゃないか。やなの下流で投網を打ったり、対岸のいけすからサケを引き上げたりしてないじゃないか。

捕獲はしてはいるのだろう。が、回数が少ないなあ――なんとなくそんな印象を抱いていたのだった。

ただし、それは私が散歩をさぼっているだけだから、あいまいな印象には違いない。が、若い仲間の話を聞いて、印象はだいたい当たっていた。それが、「やっぱり」になったのは翌日の新聞を読んだときだ。

福島民報に「県内河川/サケ捕獲、採卵数激減/放流事業に影響懸念」という記事が載った。若い仲間の言う通りではないか。記事によれば、木戸川は10万匹の親魚捕獲計画数に対して11月18日現在の実績が3万3,087匹、夏井川も捕獲計画数3,500匹に対して実績は1,704匹に過ぎない。ざっと3分の1から半分だ。

なぜだろう。川の水温が高いのか。新聞では、「サケがほかの魚に食べられたり、水温上昇など海洋環境の変化で成魚にならなかった可能性がある」という福島県水産試験場の見解を伝えている。これは大変なことではないか。今年の異常気象どころの話ではない。サケの将来が危うい、という思いを抱いたのだが、見当違いだろうか。

この数日、時間差を考慮しながら夏井川の堤防を歩いている。サケのやな場に人がいるケースが増えた=写真。投網を打つ、いけすからサケを引き上げる、やなを掃除する――。いつもながらのサケのやな場の光景が展開されていた。

2010年11月25日木曜日

宵待ち食堂


11月22日付のいわき民報に「人気マンガ『深夜食堂』とタイアップ・美食ホテル/25日小名浜宵待ち食堂開店」という記事が載った。偶然のなせる業か。「深夜食堂」が載っている「ビックコミック」=写真=をたまたま読んだばかりだったので、興味深く記事を読んだ。

カミサンがときどき、だれかが読み終わった「ビックコミック」を、どこからか手に入れて読んでいる。数日前、それを手にした。なんだろう、これは。漫画には違いないが、「総合文芸雑誌」ではないか。人間について深く考えさせられる――それが、何年ぶりかで読んだ感想だ。「深夜食堂」はそのなかの一つとして知ったばかりだった。

「浮浪雲」がある。「釣りバカ日誌」がある。「あぶさん」もある。懐かしい。いや、すごい。それを継続していることが。読者を引きつける作品を描きつづけていることが。

これらの長寿作品は、とっくに一世代を超えているのではないか。とすると、三世代が読みつなぐ漫画雑誌になるのもそう遠いことではない。いや、そうなるかもしれない。孫はまだ3歳と1歳だが、大きくなったらいつか「面白いよ」と言って、手渡したりして……。もっとも、そこまでこちらも作者も生きていればの話だが。

人間の本質、社会の矛盾、新しい考え方……、そういったものが「ビックコミック」には色濃く反映されている。弁護士や国会議員が主人公の、レズがテーマの漫画もある。いわば、今の日本の世の中がそこにある。

小名浜さんかく倉庫2号棟「小名浜美食ホテル」に今夜開店する「宵待ち食堂」では、漫画に登場した「猫まんま」「牛すじ大根玉子入り」「ナポリタン」といったメニューをそろえているそうだ。同ホテルのHPによると、「太郎番屋」が夜になると「宵待ち食堂」になる。入り口縁台がそれだとか。

2010年11月24日水曜日

眼精疲労?


日中の多くの時間を、PCか本を開いて過ごす。パッとそばの人や物を見たとき、ピントが合わない。40センチ前後の距離から2メートル前後の距離に目線を移しただけだが、ぼやっとしている。

近視に乱視、そして老眼の度が強まったから、ピントが合うまでずいぶん時間がかかるのだろう。と思っていたが、どうやらPCの画面が原因らしい。

本を一日中読んだとしても、一晩眠れば目の疲れは回復している。本のせいではない。PCの画面をにらんでいると、翌日もまだ、何かを見たときにぼやっとしている。その状態が慢性化しつつある。

同級生たちが集まって酒盛りをしたとき、目の話になった。老眼は「花眼」ともいう。ソフトフォーカスになって、余計なものが見えなくなる。いいことではないか。見たいものだけが網膜に映し出されるのだから。

そんなことを言ったような気がするが、まずはPC対策だと言われた。PCの画面、つまり一定の距離を見続けていると、ぼやっとする。そういわれてみれば、画面を見ているときに、目をむいている、まばたきも少ない。これでは目が疲労を超えて過労になる。だから、翌日もぼやっとしているのだろう。

それで分かったことがある。散歩は、最初はメタボ対策だったが、眼球の疲れをほぐすためでもあるらしい。散歩を終えると、少しは頭がすっきりするのだ。同級生が、対策の一つとして遠くを見ること、見る距離をさまざまに変えることが大事、と言っていたのが腑に落ちたのだった。

散歩の効用が増えた。で、「夕方は遠くのものを見るために」などと気取って出かけた。夏井川の堤防に出ると、すぐ「「コー、コー」と鳴きながら数羽のハクチョウが頭上を通過しようとしていた。

すぐさまカメラを構えたが、ピントが合わない。カメラを振って後ろ姿をとらえたが、写真としてはつまらない。次のグループ(ペア)にかろうじてピントが合った=写真。今季初めて写真に収めたハクチョウの飛翔姿だった。デジカメも動く物にはピントを合わせにくいのだろう。

2010年11月23日火曜日

いい夫婦の日


11月22日は語呂合わせで「いい夫婦の日」だとか。テレビが夕方のニュースで街頭アンケートの結果を報じていた。「夫婦円満の秘訣は?」。「対話」だとか「感謝の言葉」だとかが、上位にランクされていた。それはその通りだが、もっと大事なことがある。「一緒にいない時間を持つこと」が抜けている。

先週末、夏井川渓谷の無量庵で男たちが鍋をつつき、焼酎を酌み交わした。誰いうともなくカミサンの話になった。「愛妻家」の割合と「恐妻家」の割合は、一人の人間のなかでも微妙に変化する。いつも同じではない。日によって、時間によって異なるのだ。あるときは愛妻家、あるときは恐妻家――そんな日々の繰り返しだ。

「夫婦円満の秘訣は」と、白洲次郎・正子夫妻の“名言”を披露した。「一緒にいない時間を持つこと」がそれだ。私が無量庵に泊まるのは、いわば「週末別居」。一緒にいない時間を持つことでもある。それでなにかのガス抜きができているのかもしれない。

男たちは、そうしてしばし「週末別居」を楽しんだあと、少ないふとんを使って雑魚寝をした=写真。そんなことはしょっちゅうでは困るが、たまには集まって、ああでもないこうでもない、とやる。そこがいいのだ。相談の結果、来年秋の“修学旅行”も決まった。

2010年11月22日月曜日

ホウレンソウ鍋


夏井川渓谷の無量庵で“ミニ同級会”を開いた。8人が参加した。「紅葉を愛でる会」と称して、三々五々、夕方の渓谷を散策したあと鍋を囲んだ。

鍋は「ホウレンソウ鍋」。今は亡き、敬愛するドクター伝授の、しかしもともとは映画監督・山本嘉次郎の得意料理だったとか。簡単だから失敗がない。

卓上コンロに鍋をかける。鍋には水を張り、スライスしたニンニクとショウガを入れて、塩で味を調える。しょうゆでほんのり色をつける。そこに豚肉と一枚一枚ちぎったホウレンソウを入れ、しゃぶしゃぶの要領ですくって食べる≒写真。ニンニクとショウガの組み合わせがいい。豚肉とホウレンソウの葉に、コクがあってさっぱりした塩味がしみる。

食前・食中・食後酒はビールと焼酎。濁り酒にこだわる人間もいた。

鍋をつつき、酔いが回ったころ、庭に出た。満月である。雲のない星月夜。ひんやりした山の空気が心地よかった。若いころは月明かりの庭で影踏みをしたこともあるが、もうそんな元気はない。「山峡の月」を静かに見上げるばかり。

飲み会が始まる前にジャガイモと三春ネギの味噌汁をつくり、白菜漬けを用意した。コウタケごはんも事前につくっておいた。ごはんも漬物も、味噌汁も、翌朝までにあらかたなくなった。夜と朝の二食分としてはちょうどいい分量だったようだ。

2010年11月21日日曜日

弥生山


私の兄事する知人から、「『弥生山』考」と題する冊子の恵贈にあずかった。「いわき地方史研究会」第47号に発表した文章の別刷りである。いわきの歴史を研究する知人が、江戸時代に書かれた「弥生山記」(漢文)を読み下し、その文章の成立過程と作者、文章が語ること、弥生山の位置などについて論究している。

「岩城の城主内藤忠興の嫡子、内藤義概が領内を巡り歩いて、城から三里ほどの処に、憩いくつろぐ場所として相応しい山を見出した。雑木を切り開くなどして山を整地し、桜の木を植え、この山を弥生山と名づけた。そのいただきにあずまやを設える事となり、それに因む文章を書くよう地図を示され、元良が依頼された」

知人が読み下し文をさらにかみくだいた「弥生山記」の冒頭部分だが、これだけでもかなりの情報が盛り込まれている。「岩城」は「磐城平藩」、内藤義概は俳号風虎、いわゆる「俳諧大名」だ。その風虎が城から少し離れたところにある雑木山を桜の山に変えた。江戸時代初期に早くも「桜の名所」づくりが行われたわけだ。

元良は「弥生山記」の作者で、義概と親交のあった臨済宗の僧(京都・南禅寺の274世住職)だという。徳川家康のブレーン、崇伝の後継者だったそうだから、当時、一流の知識人でもあったろう。

東日本国際大学のある鎌田山=写真=が「弥生山」と称されていたのは、歴史家の故佐藤孝徳さんから聞いていた。しかし、なぜ「弥生山」なのかがわからなかった。「『弥生山』考」でようやく納得がいった。

知人の文章にはこうもある。「かつて、鎌田山の植生を調査された植物学者湯沢陽一氏は、この山は確かに他と異なったところがある、と話していた由(佐藤孝徳氏談)。とすれば、江戸初期に行われた大量の桜の植栽が、その因をなしているのであろうか」

かつて、湯沢陽一、佐藤孝徳さんと私とで、田町(平の飲み屋街)に繰り出したことがある。湯沢さんが「鎌田山はちょっと不思議なところだ」と切り出し、佐藤さんが「鎌田山は別名弥生山、内藤の殿様が花見に興じた」と反応した。その酒席での語らいが、あるいは知人の文章に反映されているのかもしれない。

たまたまその酒席での様子を書いた20年前の記事があるので、抜粋して紹介する。

平・田町は、とある飲み屋のカウンター。週末の気安さもあって、高校の生物の先生と歴史研究家と三人でビールを飲みながら、いわきの植物研究史の話になった。

先生は植物の専門家。その先生からみると、平の鎌田山はちょっと不思議なところだという。ここからはバラ科のマメザクラ、モクセイ科のソウマシオジが発見されているが、それ以外の場所では自生の報告がない。つまり、この二種は鎌田山だけにポツンと存在していたことになる。

先生はそこで、ここに磐城平藩の「御薬園」があったのではないか、もしそうだとすると、この地にだけソウマシオジとマメザクラがあった理由も納得がいく、と推測する。

この仮説に歴史研究家が反応した。鎌田山は別名弥生山。平藩主内藤公がサクラの花を眺めて風韻に興じた場所だった、と。そのためにマメザクラが植えられた可能性はあるだろう。藩主の一族の内藤露沾に、「弥生山花」と前書きされた「えぼすうく花散しけり山桜」という句がある。鎌田山に遊んだ際の吟詠である。

弥生山、つまり鎌田山は、今でこそ新旧国道の切り通しで三つに分断されているが、昭和11年ごろまでは一つの山だった。同13年に旧国道の切り通し、およそ30年後の同42年には新国道(鎌田バイパス)の切り通しが完成している。

この工事で東南に切り離されてしまった弘源寺は、縄文前期の貝塚があったところとしても知られている。露沾はまたこの寺を「桜寺」と詠んだりした。そんなことを考え合わせると、鎌田山はいわきの俳諧史上でも、重要な位置を占める場所である。

酒場の止まり木から飛び立った夢想は江戸時代を駆けめぐり、弥生山を満開のサクラで埋めつくした。今は幻のソウマシオジやマメザクラだが、鎌田山はその昔、内藤公のためによく管理された“森林公園”だった。そんな気がしてならない。

――以上のような文章だが、これに知人の論考を重ね合わせると少しは「弥生山」の輪郭がはっきりするのではないだろうか。蛇足ながら、参考までに紹介した。

2010年11月20日土曜日

ふとん干し


きのう(11月19日)は快晴。いわゆる「小春日和」だ。正午近く、家から夏井川渓谷の無量庵へ車を走らせた。きょう、無量庵でミニ同級会が開かれる。8人が泊まる。渓谷での一番のもてなしは、日光にあてたふとんだ。カミサンと、ふとんを干さなければ、となった。

渓谷は空中湿度が高い。この何年かは大丈夫だったが、長梅雨の年は家の至るところにカビが生えた。カビが生えなくてもふとんが湿っぽくなる。で、年に2回は押し入れに入っているものを全部出して干す。太陽の殺菌力はすごい。ふかふかして甘い香りさえするふとんに身を沈めたときの、あの心地よさをなんと表現したらいいだろう。

敷きぶとんと掛けぶとん、タオルケット、丹前、その他を濡れ縁に広げた=写真。それを、その晩使えば太陽のぬくもりに包まれるのだが、一夜明けたらふとんのぬくもりも冷める。カビ臭くないだけよしとしてもらわなければならない。

敷きぶとんは敷きぶとん、掛けぶとんは掛けぶとん、というように、用途別に分けて廊下に置いた。押し入れにも敷布とタオルケットと丹前とを分けて収納した。酔っていても何とか区別がつくようにだが、たぶんぐずぐずになるだろう。掛けぶとんが敷きぶとんになり、敷きぶとんが掛けぶとんになる――なんてことが起きないともかぎらない。

ただし、寝具は5人分しかない。残り3人はこたつに入ったり、電気マットを使ったりして寝てもらうことになる。昔、息子たちが夏に合宿したときには10人余りが泊まったらしいが、晩秋の今はやはり冷える。それに、もう青年ではない。いざとなったら服を着たまま寝るとするか。

2010年11月19日金曜日

コウタケごはんのこと


10月10日に「コウタケごはん」のことを書いたら、「正直」さんからコメントをいただいた。<コウタケご飯を作った。炊き込んだら、お米がべたべたした感じになった。やっぱり別に作ってから混ぜた方がよかったのかな>

ン十年前、初めてコウタケごはんをつくったときにまったく同じ経験をした。カミサンがいうには、水が多かったのだ。

炊き込む場合には、油揚げやニンジン、ゴボウを刻み、しょうゆで濃い目に味付けしたのを炒めて、炊飯器の米に加える。当然、コウタケなどにも水分が含まれている。それを考慮して、炊飯器の水の量を通常より減らすのだという。わが家で10月につくったコウタケごはんは逆に、少し水が足りなかったようだ。それでごはんがやや硬めになった。

ごはんを炊いたあとに、調理したコウタケを混ぜ込む手もあるが、ごはんにコウタケがなじむのはやはり炊き込みだろう。そのために濃い目に味付けをするのだが、今回は少し薄かった。追い炊きでちょっとは味とべたべたが修正できるのではないだろうか。

さて、あれほど出ていた秋のキノコもパタリと姿を消した。それと入れ替わるように、夏井川渓谷の無量庵では庭木にヒラタケが発生した=写真。半月が過ぎたころ、再度チェックしたら、ハマグリよりは大きくなっていたものの、すっかり乾燥していた。

摘んで水に戻したのをゆでて冷凍した。一部を細かく刻み、シジミ汁に加えたら、歯ざわりがシジミそっくりではないか。粒の大きなシジミだから、身も大きく締まっている。それにヒラタケが似ているというのは発見だった。

ゆでて冷凍したコウタケがまだ残っている。明日は無量庵に客人がやって来る。コウタケごはんでもつくろうかな。

2010年11月18日木曜日

アザミの綿毛


11月初旬のことだ――。カミサンがアザミの花を摘んで、テレビのそばの家具の上に飾った。小さなアザミだ。夏井川渓谷で摘んだのか、それとも平地で摘んだのか。それは分からない。しばらくしたら、淡い紫色の花が白い綿毛に変わっていた=写真。えっ! アザミもタンポポと一緒か。同じキク科だから、そうなるのか。

アザミは見るだけ、写真を撮るだけ。野辺から摘んできて飾るようなことはしない、とはいわない。男でも、紫色の花に引かれて、摘んで一輪挿しにポンと投げ入れることはある。が、アザミの花が綿毛になるまで放っておいたことはない。花がほつれ始めたら野に返す。

タンポポは、目にするのはおおかたセイヨウタンポポ。春に限らず綿毛をつくる。それをフーッとやる。3歳の孫が今、同じことを夢中になってやっている。アザミの綿毛はしかし、球形ではない。日本の今の若者が、炎のように髪の毛を突っ立てる、それに近い。絡み合っているようないい加減さだ。

いつか風が吹けばばらばらにほつれて飛び立つのだろうが、いかんせん室内だ。畳の上に落ちてそこで芽を吹くようなことはないだろうな。と、思いながらカミさんに聞いた。夏井川渓谷の無量庵の庭からで摘んできたのだとか。2週間以上たった今も綿毛は飛び立つ気配がない。

2010年11月17日水曜日

ペンネ・アラビアータ


夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)の無量庵で初めて、イタリア料理を味わった。

イタリアに住む、カミさんの高校時代の同級生がご主人(イタリア人)といわきに里帰りをした。会津や松島などを見て回ったらしい。で、最後。イタリアへ戻る前に「幻の無量庵」をこの目で確かめたい、というのだった。ご夫婦はわがブログの、イタリアでの唯一の読者だ。ついてはご主人が本場のパスタ料理をふるまうという。

夏井川渓谷ウオーキングフェスタが行われた日曜日(11月14日)――。私はフェスタ参加者案内人の一人として、朝から正午まで無量庵を離れていた。戻ると、ご主人が台所でいろいろやっている。イタリアではポピュラーな料理だという「ペンネ・アラビアータ」=写真=をつくっているところだった。

小麦粉でできた「ペンネ」は長さ5センチほどの筒状のパスタで、両端がペン先のように斜めに切られている。それで「ペンネ」。表面に溝があるから正しくは「ペンネリガーテ」だそうだが、それも日本でいう「うどん」や「そうめん」「冷麦」の違いのようなものだろう。

料理の手順はこうだったらしい。①ペンネを塩ゆでする②トマトソースに胡椒をふって温める③鍋にオリーブオイルをふき、湯を切ったペンネと②、そして刻んだニンニクと激辛唐辛子をオリーブオイルでまぶした“タレ”を加えて混ぜ、味を調えて粗みじんのパセリをぱらっとやる――。

イタリアレストランでは“タレ”も炒めるようだが、ご主人は炒めない。胃にもたれないようにするためだという。要するに、レストランではなく、家庭の「ペンネ・アラビアータ」なのだ。「アラビアータ」は「怒った」という意味だそうだ。激辛が効いて「カーッと熱くなる」、すなわち「激高する」からきたらしい。

スペイン在住の画家阿部幸洋が以前、わが家に持参したワインがある。それをカミサンが供した。私は乾杯のときになめただけ。ご主人がいいワインだとほめた。女性陣はペンネとワインの組み合わせを楽しんだ。

激辛唐辛子は、私が提供した。栽培したのはいいが、あまりに激辛なので、私は白菜漬けに、カミサンは麻婆豆腐に使い、しかしほかの料理には使えずに残しておいたのだ。ブログで知っていて、「あったらほしい」「どうぞ、どうぞ」となったのだった。ピリッと辛かったが、本場イタリアではもっと辛いのだという。いよいよ「怒ったペンネ」になるわけだ。

2010年11月16日火曜日

ドクターの本を読む


土曜日、夏井川渓谷の無量庵に泊まった。私は久しぶり,カミサンは1年ぶりだ。理由はきのう(11月15日)のブログの通り。夏井川渓谷ウオーキングフェスタの案内人の一人として、朝8時半前には隣の「錦展望台」に集合しなくてはならない。泊まれば簡単だ。寝坊しても遅刻しないで済む。

夏井川渓谷では早々と尾根に日が沈む。谷間の無量庵へは宵の6時に着いた。真っ暗だった。無量庵ではどういうわけか晩酌を早く切り上げ、9時過ぎには床に就く。寝床で本を読みながら眠りに落ち、朝の6時前には起きる。今度もそうだった。手にした本は鎌田慧著『反骨――鈴木東民の生涯』。懇意にしていたドクターの本だ。

ドクターが亡くなったあと、奥さんがときどきドクターの蔵書を整理する。すると、カミサンに電話がかかってくる。リサイクルに回すために引き取りに行く。読みたい本はどうぞと言われている。そのつど、何冊かが手元に残る。

最近、無量庵の本棚に並べたのが、この『反骨――』と榛村純一著『生涯学習都市一〇年』『生涯学習都市って何やってんの』などだ=写真。わが家にも、無量庵にも、そうして譲り受けたドクターの蔵書がある。

ドクターの読書範囲は自然、社会、人文科学と偏りがない。万般に及ぶ。私も本は読むが、ドクターの質量にはかなわない。そのつど<こんな本まで!>と驚かされる。知的なダムは広く深かった。そして、今の私の興味・関心をドクターの本がカバーしてくれる。

きのうはドクターの命日だった。なぜ覚えているかというと、七五三の日だからだ。横綱の白鵬が稀勢の里に敗れ、連勝記録は63でストップした。坂本竜馬は11月15日が誕生日で命日――ということも、ニュースで知った。11月15日はいよいよ忘れがたい日になったか。

2010年11月15日月曜日

夏井川渓谷ウオーキングフェスタ


いわき市小川町上小川字牛小川地内の夏井川渓谷できのう(11月14日)、3回目の「紅葉ウオーキングフェスタ」が行われた=写真

スタート・ゴールの会場はわが無量庵の隣。土地の所有者が谷側の杉林を伐採し、古い建物を解体して更地にした。観光の役に立てばということだろう。そこを「錦展望台」と名づけた。その更地を活用するイベントでもある。

コースは「錦展望台」のある県道小野・四倉線の対岸。水力発電所の導水路が森を貫いている。それに沿って巡視路が続く。その巡視路の一部、往復5キロ区間を巡った。国有林だ。巡視路は遊歩道でもある。が、ふだん行楽客が立ち入ることはない。

分からないのと、立ち入りを拒む雰囲気がある。一帯は阿武隈高地森林生物遺伝資源保存林になっている。対岸へは水力発電所のつり橋が唯一のミチ。つり橋には柵がある。その両方が行楽客のアシを止める。紅葉ウオーキングフェスタが唯一、行楽客が心おきなく対岸をめぐる手段だ。

週末だけの半住民ながら、地元の人間の一人として2008年の初回フェスタから対岸の森をめぐる参加者の案内人を引き受けている。今年も前夜、無量庵に泊まり、朝8時半の受付開始に備えた。

同じ日に、夏井川渓谷の上流、川前町の鹿又川(夏井川の左岸支流)でもウオーキングが行われた。参加者が割れるかと思ったが、そうでもなかったようだ。夏井川渓谷ウオーキンングフェスタにはざっと100人が参加した。昨年よりは2割増しといったところだろうか。

曇りから薄曇りになり、風もなく、時折日がさす、まずまずのウオーキング日和。農業用水の取水堰がある折り返し地点では、大水で流れ着いたごみを拾ったが、3年目で成果が出た。使用したごみ袋は一けた台だったのではないか。来たときよりもきれいにして帰る――そんな趣旨のイベントとして定着しつつあるのは喜ばしい。

肝心の紅葉は? 県道からの遠望はまだ「見ごろ」のうちだが、森の中では落ち葉が降り注いでいた。錦秋を飾る大トリのカエデが燃え盛るのも時間の問題だろう。

2010年11月14日日曜日

ハクチョウとカモたち


ハクチョウたちがいわき市にもだいぶ渡ってきたらしい。何度も書いているが、夏井川の下流、平塩~中神谷地内にハクチョウが飛来するようになったのは、ここ数年のこと。翼をけがして残留したコハクチョウの「左助」が呼び水になった。以来、年々飛来数が増えている。

この間に「左助」同様、翼をけがして残留するようになったコハクチョウも現れた。白鳥を守る会の人たちや、毎日、「左助」にえさをやっていたMさんなどは「左吉」「左七」と呼びならわしていた。3羽とも今はいない。獣にやられたものと思われる。

先日、右岸からハクチョウたちを観察した。対岸の道路は月に一、二度しか利用しない。夏井川と新川の合流地点に、カモたちとハクチョウたちが群れて休んでいた=写真。カモは60羽余り、ほとんどがオナガガモのようだった。ハクチョウは幼鳥を交えた20羽余。

付近に岩盤の露出しているところがあって、ウミウだかカワウだかがよく羽を休めている。水鳥が休むにはいい環境なのかもしれない。

ハクチョウたちはそこから400メートルくらい離れた下流にもやって来る。本来はそこが塩~中神谷地内の飛来地。土砂除去工事が行われているために、2群に分かれているのかもしれない。

いずれにせよ、「左助」たちがいなくなってから、ハクチョウを観察する面白味が減った。群れのなかから「左助」や「左吉」を探し出すのが楽しみでもあったのだが、今は感情移入をしたくなるようなハクチョウがいない。それぞれが集団のなかの1羽にすぎなくなった。

2010年11月13日土曜日

土砂除去


平地の夏井川でだいぶ前から土砂除去作業が続いている。わが散歩コースの上流でも作業が始まった。

確か20年以上前のことだ。夏井川で「ふるさとの川づくり」事業が始まった。河川の拡幅、親水公園づくりが主だったように記憶する。サイクリングロードもそのときできた。

その事業によって、いったんは川幅が広がり、夏井川は大河のような風情を見せた。ところが、年を経るごとに中洲ができた。最初に土砂がたまり、草が生え、灌木が茂ったのは、平塩地内。新川と合流する地点からいくぶん上流のところだ。

するとそのあと、もっと下流の塩地内と上流の鎌田地内でも中洲が成長し始めた。塩の中洲より下流では土砂が堆積して川幅が狭まり、ヤナギや孟宗竹などが繁茂した。このため、一昨年から右岸・山崎地内では土砂の撤去作業が行われている。

それに合わせるように、山崎側のすぐ上流でも、さらには左岸・新川の合流地点でもショベルカーが入って川の土砂除去作業を始めた。鎌田の中洲も去年、半分だけ土砂が撤去された。

今度は最初にできた中洲の土砂除去が始まった。中洲には草が生え、灌木が茂り、それが成長するとヤナギだったのだが,もうずいぶん大きくなっていた。それを伐採したあと、土砂の除去が始まった。取り付け道路ができ、ダンプカーが堤防の上を往来している。ショベルカーはもう中洲を退治し、水中の土砂をかきならす段階に入ったようだ=写真

やがてはちょっと下流、ハクチョウたちが羽を休めている新川合流地点から下のでっぱりを片づけるようになるのだろう。河川拡幅工事のための標識が立った。前にも同じことを書いたが、いたちごっこ、いや「シジフォスの神話」だ。

2010年11月12日金曜日

サケがはねていた


夕方、久しぶりに夏井川の堤防の道と、下の河川敷のサイクリングロードを歩いた。真夏の酷暑をいいことに散歩を休んだら、気持ちがずるずる崩れて歩くのが億劫になった。せいぜい「週一」程度に後退した。これではいけない、というわけで、散歩に出かけたのだった。

その日の午後、マチへ行った。行き先はいわき市平の中心市街地、いわき駅前、その駅前に立つ再開発ビル「ラトブ」のいわき総合図書館だ。

帰りは夏井川の堤防の道を利用した。2カ所でハクチョウが羽を休めていた。新川が夏井川に合流するところに17羽。その下流、土砂除去作業中の平山崎側に25羽。山崎のハクチョウたちは岸辺の草をはんでいた。

散歩コースはそれに隣接する下流だ。サケのやな場がある。毎年の光景だが、いけすでは時折サケがはね、水しぶきを上げる。やな場を越えたサケもやなでバシャバシャやっている。上流へさかのぼっていく体力はもうないのか。

サイクリングロードのそばにソメイヨシノの幼木がある。2本にアレチウリがからみついていた。放置できない。つるをちぎる。そのうち、「キキキキ」という声が空から降ってきた。チョウゲンボウだ。元気でいたか。

サケ、アレチウリ、チョウゲンボウの連想で「四季咲きザクラ」を思い出した。堤防のそばの集落を横切る。旧知のTさんの家の庭にあるサクラの木がちらほら花をつけていた=写真(ただし撮影は去年)。ネギ畑も最後の土寄せが行われたか。溝の土が黒々としていた。いよいよ秋が深まってきた。

2010年11月11日木曜日

木が泣く


この秋、短期間ながら森に入ればキノコが採れる――という状態が続いた。で、ときどき山里の森と平地の里山を交互に巡った。そのとき、「木が泣く」のを知った。

「泣く」と感じたのは、いきものの声らしい音が空から降ってきたからだった。見上げたら、杉が隣の杉と接触し、風に吹かれて摩擦を起こしていた=真。

歯ぎしりのような「ギーコ、ギーコ」ではない。子猫のような「ミャー、ミャー」だ。最初、聞きなれない鳥の鳴き声だな、と思った。30年ほど通っている里山だが、その杉林は放置されたまま。密植状態が続いている。それでやせ細ったままの木も多い。その一本だ。

奥山の自然林でも風が強いときには、雑木と雑木がこすれあってギーギーと音を出す。そんなときに森を巡ると緊張する。いや、怖い。「摩擦熱が激しくなっても発火するなんてことはない、と思いつつ、アメリカやオーストラリアでのスケールの大きな山火事を、つい連想する。

接触し、合体してしまったような木もある。見た目はアルファベットの「X」。大蛇のようなフジに絡みつかれた木もある。森の中を仔細に見ると、至る所で木々のせめぎ合いが起きているのが分かる。

2010年11月10日水曜日

遭難死


夏井川の支流・江田川は別名「背戸峨廊(セドガロ)」。草野心平が命名した、といわれる。が、正確には「セドガロ」に漢字を当てはめた、というべきだろう。

もともと地元の人間が「セドガロ」と呼んでいた。「セトガロウ」でも「セドガロウ」でもない、「セドガロ」だ。これについては2008年6月3日に、この欄(「セドガロ」と二箭会)で書いた。そもそも心平本人の書いた文章に混乱がある。「背戸峨廊」に「せどがろう」とも「せとがろう」ともルビが振ってあるのだ。

草野心平の年譜は、心平と同郷の長谷川渉氏が作成した。いわき市立草野心平記念文学館が平成10(1998)年に発行した常設展示図録の年譜も、主に長谷川氏作成の年譜に拠っている。その年譜では「セドガロ」である。

年譜によれば、心平は昭和21(1946)年9月、〈上小川村江田の渓谷「セドガロ」を「背戸峨廊」と命名、点在する滝や沢に「三連滝」や「猿の廊下」などとそれぞれの名を付け〉た。ところが、当時のいわき民報の記事などから入渓・命名したのは1年遅い同22年秋であることが分かった。

昭和22年のいわき民報から「背戸峨廊」関連の記事を抽出する(読みやすいように適宜、読点を施した)。

▽10月25日=【新景勝地 江田川渓谷 平山岳會員一行26日に探勝】まだ知られていない景勝地が發見された、右はし人(注・詩人)草野心平氏等二つや會員一行が過般探勝の結果、川前の夏井川渓谷より以上の地であると折紙をつけたもので、場所は小川郷・川前間の江田地内から北に入った江田川渓谷で約二キロ位の間、奇怪石に紅葉を配した景色は絶讃に値するものだと云うのである。これを聞いた平山岳會員一行二十名はとり敢えず、来る二十六日同地を探勝し、その結果世に紹介することになった。

▽11月5日=【江田川渓谷に平山岳會が折紙】江田川渓谷を探勝のため平山岳會員十五名及び地元二つや會員二十名は去る二日打連れて紅葉する同地を踏破したが、約四キロに亘る勝地は奇岩怪石に紅葉を配し、其の間大小二十余の淵が人目を奪い、し人草野心平氏が日本的な勝地だと絶讃した程で、磐城の景勝地の一つに入るべき充分な資格があると認められ、大いに宣伝することゝなったが、探勝家の不便は江田信號所が現在列車が停車しないので、地元では停留所にして欲しいと運動することゝなった。

江田信号所が停留所に昇格し、客が乗り降りできるようになるのは昭和23年10月1日。心平は昭和23年、日本交通公社発行の「旅」2月号に「背戸峨廊」と題する随筆を寄せた。背戸峨廊に関する最初の紹介文だろう。

そのなかで、「おもちゃのやうに小さくってもいいから停車場にまで昇格したなら夏井川渓谷や背戸峨廊を見る人々にとってどんなに便宜であるか計り知れない。私もあの部落の人々とともにそれを希望してやまない一人である」と書いた。それが奏功したのだろう。

「背戸峨廊といってもこれは恐らく日本的にはだれも知らない。土地の者すら極く最近その傎價を知ったほどなのだから。どうしてそれでは土地の者すら知らなかったといへば餘りにも嶮岨すぎるからであり、もう一つは一度も探勝家の俎上にのぼらなかったからでもあらう。私は幸ひにも、この九州への旅にのぼる前の十月と十一月に二度この渓谷にもぐりこんだ」

九州への旅は、草野心平日記によれば、昭和22年11月の「火の会」の講演旅行を指す。その旅行中に「旅」の原稿を書いた。そんなことも随筆には書き込まれている。

なぜこんなことを取り上げる気になったかといえば、「草野心平はいつ『セドガロ』に入渓したか」と題する文章をまとめたばかりのところに、そこで事故が起きたからだ。

宮城県の57歳の女性が11月6日、登攀可能なコース=真(案内板)=の奥、「三連の滝」の滝つぼに死んで浮かんでいるのが発見された。滝のそばを登攀中に足を滑らせて転落したのだろうか。

背戸峨廊は入渓したら、コースを一周するのにざっと4時間はかかる。とにかく険しい。私はこれまでに2回しか一周していない。10代後半のときと、子ども2人を連れた30代後半のときと。今はせいぜい「トッカケの滝」まで、谷道ではなく山道を行くだけだ。亡くなった女性の冥福を祈りつつ、背戸峨廊の手ごわさに注意を喚起したい。

2010年11月9日火曜日

第33回吉野せい賞表彰式


いわき市立草野心平記念文学館で11月7日、第33回吉野せい賞表彰式が行われた。選考委員の一人として選考結果を報告した。表彰式に先立ち、リハーサルと記念撮影が行われた=写真。昼食を兼ねた、受賞者と選考委員との懇談会も開かれた。

吉野せい賞はこの2年、準賞、奨励賞どまりだった。3年ぶりに自営業鈴木俊之さん(33)の「融解」が「吉野せい賞」に選ばれた。「せい賞」=「正賞」でもある。奨励賞は高校2年青柳千穂さん(16)の「視線は世界のガラス越し」、教員高野由里さん(44)の「僕が出会ったサンタクロース」が受賞した。

青少年特別賞に選ばれたのは中学1年猪狩光央さん(13)の「銀色のとびらを越えて」。自然環境問題をテーマにしたファンタジーだ。私自身が「環境文学」とでもいうべきものに関心があるので、興味を持って読み始めた。ぐいぐい引き込まれた。始めから終わりまで物語が破綻しない。驚きが喜びに変わった。

特に感心したのは、「妖精食いツルバラ」「夜のひと時」「つげ口花」といった、個性的な植物が次々に登場してくることだ。ネーミングの妙、個性的な植物を造形する想像力と創造力に舌を巻いた。

懇談会で聞いてみた。「銀色のとびらを越えて」の主人公は9歳の少女ルニア。両親がスペインへ出かけるのだが、どこから? つまり、物語の舞台はどこ? イギリスだという。「湖水地方? ピーターラビットの?」。うなずいた。小さいときから物語を書いてきた、外国の作品を読むのが好きだという。その積み重ねの上に受賞作品が生まれた。

2010年11月8日月曜日

落ち葉道


このブログも、あと3日で1,000回になる。「ひとりネットコラム」と称して、主にいわきの自然と人間の関係をめぐるあれこれを書いてきた――といっても、感慨にひたる暇はない。

PCがアップアップし始めた。延命策がなければ、PCを買い換えるしかない。近所に住む身内にSOSを出した。カネを用意しておいて、ということだった。PCがそんな状態だから、ハラハラしながら書いている。
                ☆
きのう(11月7日)早朝、夏井川渓谷の無量庵へ出かけた。午後には用事がある。その用事をすませたら、また無量庵へ戻る。慌ただしい。

無量庵に着くやいなや、森を巡った。いつもの小道を歩いていると、「はて、なにかが違う」と思った。前の週までは目立たなかった落ち葉がすっかり道を覆っていた。見ごろを迎えた夏井川渓谷の紅葉だが、そして急に行楽客でにぎわいだした渓谷だが、森の中では早くも冬仕度が始まっていた。

10月と11月とでは空気が違う。そういえば、きのうは「立冬」だった。10月には岩場を白く覆っていたダイモンジソウの花=写真=が、ほとんど姿を消した。キノコたちも活動を停止したらしく、行けばなにかしら採れる状態ではなくなった。

無量庵に戻ると、部屋にはカメムシが群れていた。ときに臭いガスを噴射する。無量庵では小春日和のころ、いつもこんな状態になる。無量庵で越冬する個体も多い。

2010年11月7日日曜日

じゃんがら伝承祭り


いわき芸術文化交流館「アリオス」で11月5日、いわき地域学會主催で「じゃんがら」伝承祭りinいわきが開かれた。「開かれた」と書いたが、主催した側の一人だ。いわき市文化センターで3回にわたる講座(9~10月)を開き、そのしめくくりとして、実演をもとに、講座を担当した夏井芳徳副代表幹事が解説した。

「じゃんがら念仏踊り」は“いわき人”の心の原風景だ。青年会が月遅れ盆に新盆家庭を回ってチャンカチャンカとやる。いわき人は母親の胎内にいるころから、このチャンカチャンカを聞いて育つ。「じゃんがら」はいわば、根源的ないわきの音、いわきのリズムである。

その「保存・継承」「普及・啓発」をこの4年ほど、いわき地域学會は事業の柱の一つにしてきた。「見るだけのじゃんがら」ではなく、江戸時代の「じゃんがら」がそうだったように、「参加するじゃんがら」の再生を願ってのことである。

「伝承祭り」はアリオスの小劇場で開かれた。平・菅波、三和・中寺、遠野・根岸の3青年会が出演した。菅波のじゃんがらは「勇壮で雄大でゆったり」、中寺のじゃんがらは「早くて迫力のある『ぶっつけ』(太鼓と鉦)」、根岸のじゃんがらは「笛が入り手踊りがない」のが特徴。同一ステージで順に演じることで三者の違いがよりはっきり感じられた。

さて、ここからは主催者の一員としての裏話。当日、午後1時にアリオス側のスタッフと打ち合わせをし、4時には地域学會の仲間と役割分担その他の確認をして、6時半開場・7時開演に備えた。

こうした「興業」は、私にとっては初体験だ。5分前に予鈴がなり、やがて開会し、閉会するまでの1時間半余、舞台のそでに詰めてシナリオを絶えずチェックしながら、舞台と楽屋の連絡調整をした(といっても、みんなが役割分担をこなしたので、予定より早い進行にもスムーズに対応できた)。

舞台のそでから見聞きした=写真=感想をいえば、人が入っていないリハーサル時の「じゃんがら」は太鼓も鉦も耳にガンガン響いたが、人で満席状態になったら心地よい響きに変わった。人間の服が音を吸収するらしいことが初めて分かった。

「興業」を打ってみてあらためて、地域学會は人材が豊富なことを実感した。司会、受付、会場誘導、書籍販売、記録……。地域学會のみならず、さまざまなところで経験を積んでいる。それが今度も生かされた。「じゃんがら」はいわきの人間の心を一つにするが、そのイベントを通して地域学會のスタッフもより一層つながりを深めたという思いがした。

2010年11月6日土曜日

白菜漬け


三春の里田園生活館で買った白菜2玉を甕に漬け、水が上がってきたので、3日目に試食した。小玉だったこともあって、しんなりするのが早い。すぐ食卓に上った。この晩秋の“初物”である=写真

風味と殺菌、彩りを兼ねた唐辛子は、今年はタイミングを逸して栽培しなかった。代わりに、いわき市川前町の直売所から一束、調達した。同じ風味用のユズは、白菜と一緒に三春の里田園生活館で買った。

三春産の白菜とはいえ、まだまだ気候的には秋。朝晩の冷え込みが足りないから、白菜が甘みを増すところまではいっていない。ユズの皮も一個丸ごとむいて刻んだものだから、量が多すぎたようだ。ほのかに、かすかにユズだと思わせたかったのだが、主張が強すぎた。

いうならば、本格的な白菜漬けのための予行演習のようなものである。量的には八つ割り×2玉で16片あり、2日に3片は食べるとして、10日くらいはもつか。11月中旬にはあらためて、どこかで白菜を調達しなくてはならない。

同じいわき市なら、わが行動範囲のなかに位置する山里の川前町か三和町の白菜を手に入れたい。昨冬、三和町の永山シゲヨさんからいただいた白菜を漬けて食べた。甘かった。

白菜漬けを切らさぬよう、スーパーで南の白菜を調達するときがある。三和の白菜に比べるとやや甘みが足りない。甘みのある白菜漬けを食べるには、ドライブを兼ねて北の直売所を巡り歩く、ということになる。その季節がめぐってきた。

2010年11月5日金曜日

ゴムタケモドキ?


ざっと3週間前のことだ。夏井川渓谷の森を巡っていたら、定期的にチェックする倒木に「アラゲキクラゲの幼菌」が発生していた=写真。アラゲキクラゲの幼菌には白っぽいものもある。平地の里山で観察していたので、そう判断した。

ところが、半月後にチェックしたら、アラゲキクラゲの姿はない。そのまま成長していれば、少しはアラゲキクラゲらしくチョコレート色になっているはずだ。アラゲキクラゲではないのか。

似たようなキノコは――。タマキクラゲ? ゴムタケモドキ(ニカワチャワンタケ)? モモイロダクリオキン? いずれも食菌だ。見た目がグロテスクなタマキクラゲは、若いときに食べたことがある。それとはだいぶ印象が違う。あとの二つは未見なので分からない。調べれば調べるほどこんがらかってきた。

アカキクラゲ科のモモイロダクリオキンは、最近、読んだキノコの本で知った。21世紀になって名前がつけられた新種だという。ズキンタケ科のゴムタケモドキは図鑑で知った。キクラゲのようでキクラゲではない。

話は3週間前に戻して、たかだか5ミリ内外の円錐形をした、小さな幼菌だ。採取した帰り、ヒトと会ったら「何が採れたかと」と聞く。森を巡る同類だ。すると、すぐもう1人が斜面を下りて来た。土の中に埋まっていたマツタケを掘り出したといって、見せてくれた。トリュフをかぎあてる欧州の犬・豚よろしく、マツタケを見通す眼力を鍛えたヒトらしい。

すました顔でマツタケを見ながら、内心は激しく動揺していた。わがキノコ目はまだまだ甘い。その晩、「アラゲキクラゲの幼菌」をゆがいて酢の物にした。くせのないゼリーのかけら、といった印象だった。森の珍味には違いない。

ただし、今思えばゼリー状すぎる。やはりゴムタケモドキだったか。

2010年11月4日木曜日

若松光一郎展


いわき市立美術館で「若松光一郎展――律動する色彩」がきのう(11月3日)始まった。午後3時から座談会「若松光一郎の思い出」が開かれる、先着40人、というので、2時半には会場の美術館3階セミナー室に入った。

出演者は妻の若松紀志子さん(音楽家)と娘の中川素直さん(音楽家)、それに鈴木邦夫さん(画家)。美術館の佐々木吉晴副館長が司会した=写真。座談はあっちへ転がり、こっちへ転がりしながら進み、たびたび笑いが起きた。

と書きながら(実際にはキーボードをたたきながらだが)、どうも「さん」では心苦しい。やはり、先生でいく(と決めた)。

福島高専がまだ平高専のころ、紀志子先生から音楽の授業を受け(1年生)、光一郎先生から美術の授業を受けた(2年生)。そのあと、学校で同人雑誌を始めた先輩らとしばしば、平・旧城跡の若松家にお邪魔した。先生に雑誌の表紙までつくってもらった(今思うと震えがくる)。ざっと45年前の話だ。

17歳か18歳だったわれら学生は、主として光一郎先生から、当時、先端をいく画家や音楽家を教えられた。画集を開いては「これが菅井汲」、LPをかけては「武満徹」「黛敏郎」……。

「菅井の絵を見なさい」「武満や黛の音楽を聞きなさい」ではない。こういう人間がいるよ――そんな“つぶやき”がかえって深く心に刻まれた。武満徹の音楽はそうして、LPを買うなどして聞いた。

一方の紀志子先生には、私が適当につくった私的な高専陸上競技部の歌(詩は1年先輩のもの)の楽譜をみてもらい、ピアノでぼろんぼろんとやりながら、「ここはこうでなきゃ」と言葉のアクセントと音の関係を教えられた。今ふと思いだしたが、「東」が「干菓子」の音になっている、というのだった。

座談会が終わり、1時間後の5時半に「若松光一郎展」のオープニングパーティーが始まった。あとで紀志子先生にあいさつに行った。95歳。こちらを見た瞬間、ニコッとして「道で会ったらすぐ思い出せる人間と、思い出せない人間がいるの。あなたはすぐ分かる」。そういえば、道で会うたびに「ああら、元気?」となる(なった)。ありがたいことだ。

両先生とは、10代は学生、20代以降は社会人として、折に触れて顔を合わせてきた。なかでも思い出深いのは、私が学校を飛び出して東京へ行ったあと、光一郎先生から毎年、個展の案内状が届いたことだ。20歳前後のことである。

東京であれば個展の会場へは行きやすい。行けば、多少は近況を報告する。それだけで、あとは静かに絵を見て、説明を受けたり、絵の感想を言ったりする。

あるとき、そこへパンナムのスチュワーデスが来た。ひととおり見たあと、私に声をかけた。「作者はあなた?」。画廊の従業員(女性)が「いいえ、こちらの方です」と、そばにいる光一郎先生を紹介した。

私は、はやりの長髪だった。一見、らしく見えたのだろう。が、スチュワーデスの次の言葉にみんなで大笑いした。「私もそう思ったわ、あなたは若すぎるもの」

2010年11月3日水曜日

コーヒーと糠漬け


コーヒーをたてるからと言われて、ある家に夫婦で出かけた。相手は人生の先輩、おしゃれな「お姉さん」格、いや主婦の目で政治や経済をシビアに語る「姉ご」分だ。2時間ほどよもやま話をした。

甘い食べ物と一緒に、ハヤトウリらしい漬物が出た。聞けば、糠漬けだ。一年を通して休みなく糠漬けをつくっている。結婚と同時だというから、その家の糠床の歴史は50年を越える。糠床が嫁入り道具の一つだったのだろうか。――コーヒーを飲みながら、糠漬け談議が始まった。

わが家は、夏場は糠漬け、冬場は白菜漬け――とあっさり分けてきた。で、その日(きのう=11月2日)の昼前、今季最初の白菜を割って干して、塩をまぶして甕に仕込んだ=写真

漬物を夏(糠漬け)から冬(白菜漬け)に切り替えるわけだから、糠床は1週間後にはたっぷり塩を加えて冬眠させよう――この何年かはそうして切り替えてきた。が、「お姉さん」は白菜漬けももちろんつくるが、糠漬けもつくり続ける。交互に食卓に出すという。そうか、冬眠させなくていいんだ。わが家でも見習おう。

夏目漱石の孫の家(半藤家)の糠床は曾祖母、祖母、母、本人と江戸時代から受け継がれてきた。「300年は続いている」という文字が頭に刻まれていた。その話をした。ついでに糠床の栄養分としてカレーの残りや煮汁、塩サケの食べ残しなどを加える、とも。

カレーの話に「お姉さん」は仰天した。300年の糠床にも目を丸くした。カミサンも内心、300年はオーバーではないかと思ったという。

気になって本(半藤末利子『夏目家の糠みそ』)のコピーを探した。あった。テレビの取材陣がやってきたときの話が書いてある。嵐山光三郎氏が糠漬けのカブをぽりぽりやりながら、夏目~半藤家の糠床の歴史を聞く。「100年は続いている訳ですね」「いいえ、もっと。300年以上は続いていると思いますよ」。誇張ではなかった。

2010年11月2日火曜日

買い物ツアー


日曜日(10月31日)朝、郡山市立美術館で開催中の「ノーマン・ロックウェル展」を見に出かけた。いわきからはいろんなルートがある。今回は国道49号を利用した。

谷田川郵便局から右折した。そのあと“迷走”した。阿武隈高地は隆起準平原。なだらかな丘の間に沢が広がる。凹地は田んぼ、凸地は畑と家。似たような地形が続くので、どこを通っているのか、分からなくなってしまう。これまで何度か美術館へ行ったが、一発でたどり着いたことがない。

企画展は30分ほどで見終わった。次はどうしようとなるので、あらかじめ決めておいた。美術館の北側にある郡山市阿久津町、そこを巡って「曲がりネギ」を探した。丘陵に集落が広がり、ところどころネギ畑が見える。犬を連れて農道を散歩していたおばさんに聞いた。

阿久津では曲がりネギも、まっすぐのネギもつくっている、という。曲がりネギは「美術館通りの村上さんの直売所で売ってるかもしれない」。美術館通りに戻って直売所を探した。すぐ分かった。

曲がりネギが5束ほどあった。1束150円。随分パリパリしている。採りたてだ。3束を買う。曲がりキュウリやカブも買った。美術館へ来ればついでに寄ってみる、そんなスポットができた。

三春ダムの近く、三春の里田園生活館やおおはたやも寄りたくなる店だ。おおはたやでは三角油揚げを買った。生活館では白菜その他の野菜を買った。家に帰ると、車のトランクから野菜が何袋も出てきた=写真。買い物ツアーに出かけたようなものだ。

三角油揚げはわきに切り口を入れ、刻みネギをまぜた納豆を加えて、焼いて食べる。ネギは阿久津曲がりネギでないといけない。そう思い定めて1年余が過ぎた。やっと阿久津曲がりネギが出回る晩秋になって、三春の味を試すことができた。

油揚げの香ばしさ、甘くやわらかい曲がりネギ、納豆の粘りとうまみがほどよくからみあって、つい晩酌の量が増えた。

2010年11月1日月曜日

選挙


きのう(10月31日)の朝、福島県知事選の投票へ行ったあと、遠出した。投票所は平六小体育館=写真。夏の参院選は体育館が改修中だったので、学校とは道をはさんではす向かいの神谷公民館で投票がおこなわれた。

昨年までは期日前に投票をすませた。が、政権交代の「興奮」がさめたら、政治の「迷走」がはじまった。参院選は悶々として投票日を迎えた。今回はどうか。知事選よりも、いわき地域学會のイベント(「じゃんがら」講座と伝承祭り)に頭がいっぱいで、期日前投票どころではなかった。棄権してもいいか。そんなレベルまで意識がゆるくなった。

それで思い出したことがある。『草野心平日記』をざらっと読んだ限り、心平は選挙にはいかなかったようだ。つまり、棄権派。ところが、昭和30(1955)年4月の仙台市長選には、弁護士島野武の応援に出かけている。

その年、4月26日の心平の日記。「夜、仙台の労働会館で島野武候補の応援演説、杉山元治郎、宮城タマヨなどと一緒、終って炉ばたに行きのむ、こけし旅館に泊る」。

戦時中、心平は南京政府顧問をしていた。島野武の兄(門屋博)も同じ顧問だった。その縁で交流があったのだろう。

杉山元治郎は昭和30年当時、衆院副議長。宮城タマヨは参院議員。島野武は、そのときは落選する。しかし、開票事務に不正があったため、3年後にやり直し選挙が行われ、初当選をする。以来、7期27年間、仙台市長を務めた。

心平のサマーハウスともいうべき川内村の天山文庫では、7月に「天山祭り」が開かれる。『草野心平日記』を読む限り、島野武市長は毎年、祝電をおくっている。

「炉ばた」についてはちょっと説明がいる。経営者は天江富弥(1899-1984年)。大正時代、スズキヘキらと童謡専門誌「おてんとさん」を創刊した。こけし研究家、郷土史家としても知られた存在だったらしい。山村暮鳥とつながり、草野心平とも交流があった。

東北の詩人(のちに全国の詩人が対象になる)を顕彰する仙台市の土井晩翠賞は昭和35年、天江富弥と草野心平の交流から実現したという。仙台市長はすでに島野武だった。このトリオが賞を創設した、といってもいいのではないか。同賞は2009年、50年の節目をもって役目を終えた。

ついでにいえば、杉山元治郎は若いとき、牧師として福島県・浜通りの小高町に赴任した。小高町の開拓農民平田良衛は旧制二高時代、門屋博と同級だった。平田の最初の妻は磐城平の弁護士新田目善次郎の長女だった(彼女と娘は終戦の年の4月、中国から帰国中、船が撃沈されて死亡)。

いわきの「大正ロマン・昭和モダン」を調べているうちに、以上のようなことも視野に入ってきた。