2010年11月10日水曜日

遭難死


夏井川の支流・江田川は別名「背戸峨廊(セドガロ)」。草野心平が命名した、といわれる。が、正確には「セドガロ」に漢字を当てはめた、というべきだろう。

もともと地元の人間が「セドガロ」と呼んでいた。「セトガロウ」でも「セドガロウ」でもない、「セドガロ」だ。これについては2008年6月3日に、この欄(「セドガロ」と二箭会)で書いた。そもそも心平本人の書いた文章に混乱がある。「背戸峨廊」に「せどがろう」とも「せとがろう」ともルビが振ってあるのだ。

草野心平の年譜は、心平と同郷の長谷川渉氏が作成した。いわき市立草野心平記念文学館が平成10(1998)年に発行した常設展示図録の年譜も、主に長谷川氏作成の年譜に拠っている。その年譜では「セドガロ」である。

年譜によれば、心平は昭和21(1946)年9月、〈上小川村江田の渓谷「セドガロ」を「背戸峨廊」と命名、点在する滝や沢に「三連滝」や「猿の廊下」などとそれぞれの名を付け〉た。ところが、当時のいわき民報の記事などから入渓・命名したのは1年遅い同22年秋であることが分かった。

昭和22年のいわき民報から「背戸峨廊」関連の記事を抽出する(読みやすいように適宜、読点を施した)。

▽10月25日=【新景勝地 江田川渓谷 平山岳會員一行26日に探勝】まだ知られていない景勝地が發見された、右はし人(注・詩人)草野心平氏等二つや會員一行が過般探勝の結果、川前の夏井川渓谷より以上の地であると折紙をつけたもので、場所は小川郷・川前間の江田地内から北に入った江田川渓谷で約二キロ位の間、奇怪石に紅葉を配した景色は絶讃に値するものだと云うのである。これを聞いた平山岳會員一行二十名はとり敢えず、来る二十六日同地を探勝し、その結果世に紹介することになった。

▽11月5日=【江田川渓谷に平山岳會が折紙】江田川渓谷を探勝のため平山岳會員十五名及び地元二つや會員二十名は去る二日打連れて紅葉する同地を踏破したが、約四キロに亘る勝地は奇岩怪石に紅葉を配し、其の間大小二十余の淵が人目を奪い、し人草野心平氏が日本的な勝地だと絶讃した程で、磐城の景勝地の一つに入るべき充分な資格があると認められ、大いに宣伝することゝなったが、探勝家の不便は江田信號所が現在列車が停車しないので、地元では停留所にして欲しいと運動することゝなった。

江田信号所が停留所に昇格し、客が乗り降りできるようになるのは昭和23年10月1日。心平は昭和23年、日本交通公社発行の「旅」2月号に「背戸峨廊」と題する随筆を寄せた。背戸峨廊に関する最初の紹介文だろう。

そのなかで、「おもちゃのやうに小さくってもいいから停車場にまで昇格したなら夏井川渓谷や背戸峨廊を見る人々にとってどんなに便宜であるか計り知れない。私もあの部落の人々とともにそれを希望してやまない一人である」と書いた。それが奏功したのだろう。

「背戸峨廊といってもこれは恐らく日本的にはだれも知らない。土地の者すら極く最近その傎價を知ったほどなのだから。どうしてそれでは土地の者すら知らなかったといへば餘りにも嶮岨すぎるからであり、もう一つは一度も探勝家の俎上にのぼらなかったからでもあらう。私は幸ひにも、この九州への旅にのぼる前の十月と十一月に二度この渓谷にもぐりこんだ」

九州への旅は、草野心平日記によれば、昭和22年11月の「火の会」の講演旅行を指す。その旅行中に「旅」の原稿を書いた。そんなことも随筆には書き込まれている。

なぜこんなことを取り上げる気になったかといえば、「草野心平はいつ『セドガロ』に入渓したか」と題する文章をまとめたばかりのところに、そこで事故が起きたからだ。

宮城県の57歳の女性が11月6日、登攀可能なコース=真(案内板)=の奥、「三連の滝」の滝つぼに死んで浮かんでいるのが発見された。滝のそばを登攀中に足を滑らせて転落したのだろうか。

背戸峨廊は入渓したら、コースを一周するのにざっと4時間はかかる。とにかく険しい。私はこれまでに2回しか一周していない。10代後半のときと、子ども2人を連れた30代後半のときと。今はせいぜい「トッカケの滝」まで、谷道ではなく山道を行くだけだ。亡くなった女性の冥福を祈りつつ、背戸峨廊の手ごわさに注意を喚起したい。

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