2010年2月28日日曜日

野焼き


春雨は草木の慈雨だと言う。2月は雪で始まり、雨で終わる――例年になく大地は湿りを帯びた。そんな印象だ。庭に出ると、何の芽だろう、緑が萌えだしていた。

一週間前の日曜日だったか、夏井川の河川敷を覆っている枯れヨシに火が放たれた。地元の区、恒例の「野焼き」だ。堤防の土手もところどころ黒く焦げてきな臭いにおいが残っていた。この黒いじゅうたんにもやがて淡い緑が萌えだす。

ヨシ原は“半焼き”状態だ。そっくり枯れヨシが残ったところがある。すっかり焼き払われたところと、面積にして半々か。火の勢いが弱かったのだろう。散歩をしていると、もう一度火を入れてもいいのではないか、などと少し物申したい気持ちになる。

黒く焦げた大地が広がり、ヨシ原に住んでいた生き物が天敵の目につきやすくなった。ある朝、焼け残ったヤナギのこずえにずんぐりした体形のタカが止まっていた。顔が白っぽい。ノスリだ。

パッとこずえを離れると、土手近くの草むらに着地した。そこは黒く焦げている。何を見つけたのだろう。よく分からない。ギリギリ接近しながらカメラを構え、飛び立つところをカメラに収めた=写真

ノスリは留鳥だが、夏井川の河川敷ではめったに見られない。北から南下して来たのがとどまっているのだろうか。前日、ずっと上流の夏井川渓谷でもノスリの姿を見た。翼の下部が白いのでそれと分かった。

シャッターチャンスは結構、身の周りに転がっている。物にできないのは、ウデが足りないのはもちろんだが、即座に反応できる「無想」の構えができていないからだ。満足のいく鳥の写真はまだ一枚もない。

2010年2月27日土曜日

市美展写真の部


いわき市民美術展覧会・写真の部が、きのう(2月26日)開幕した。私と孫の写っている作品があるというので、見に行った。「夕暮れさんぽ道」と題されていた。作者は愚息、つまり私の孫の父親だ。作品のもとになった写真がこれ。

息子一家はわが家から車で5分くらいのところに住んでおり、ほぼ一週間に一度の割でわが家へやって来る。それとは別に、孫はときどき父親と近所の踏切へ出かけては、貨物列車や普通列車に手を振っているようだ。

昨年秋のこと。いつものようにわが家へ遊びに来た。これから踏切へ行く、というので同行した。夕方4時すぎ、踏切近くの道を歩いているところを、愚息が写真に撮った。

手を離してもいいのだが、まだ3歳弱の男の子だ。急に走り出されると、怖い。右手人さし指を孫に握らせ、その上から孫の手首を軽く押さえながら歩いた。

市美展写真の部の審査員は写真家中谷吉隆さん。「夕暮れさんぽ道」についてこう評した。〈日常性のなかの光景に目を止めた作品で、散歩の情景を逆光線が巧みに使われ、モノクロームで捉えた画面には、作者の人物に対する優しい眼差しがある一方、祖父としか居られないこの子の淋しい現状をも感じさせる内容を持ち秀逸だった〉

〈祖父としか居られないこの子の淋しい現状〉は、一般論としては理解できる。そういう現実があることも承知している。ただし、“モデル”の一人としては異論がある。〈としか居られない〉のは“事実”ではない。

作品が語りかけるものは多様でいい。が、淋しさを言うなら、〈たまにしか孫に会えない祖父の淋しい現状〉がより正確かもしれない。

2010年2月26日金曜日

煙霞の癖


きのう(2月25日)は一気に気温が上がった。昼前、用事があって出かけた。遠い山がかすんでいる。なぜ? 黄砂が来るには早すぎる。が、霞がかった状況はなかなかすごい。

夕方の散歩時にも遠い山がかすんでいた。家の前の通りも視線の奥がかすんでいた=写真。周りをよく見ると、東西南北すべての遠景がそうだ。かすんでいる。そのなかに身を置いていると、少し気持ちがあやしくなる。霞の向こうに溶け込みたくなるのだ。溶け込んでなにか、ふだんとは違ったことをしたくなるような、おかしさ。

宵にNHKテレビがニュースで伝えた。南からの暖かい空気が沿岸部の冷たい空気に冷やされて霧が発生したのだという。霞と思ったのは霧だった。霧でも霞でも構わない。「かすむ」という現象が大事なのだ。いや、春には「かすむ」世界に身を置きたい――という思いがある。

「煙霞の癖」という。「自然の風景を愛し、旅を楽しむ習性」と辞書はいう。西行が、芭蕉がそうだ。牧水も、山頭火もそうだろう。歩行神(あるきがみ)にそそのかされるような、なにかふわふわとした、人をまどわせるような気分を、「煙霞」はもたらす。山水画もそこから発したか。

2010年2月25日木曜日

ヒラメのアラ汁


日曜日は魚の刺し身で晩酌というのが、ここ三十年来の定番。毎日の料理に頭を悩ませるカミサンの、週一回の安息日だ。正確に言えば、朝昼晩一日三回の食事=週に21回=のうち1回だけだが。新鮮な魚を提供する魚屋さんが近くにいるからこそ、日曜日の夜は刺し身で、という習慣ができた。

夏はカツオの刺し身、それ一本やり。晩秋から晩春まではカツオがないので、なんとなく適当になる。タコ、イカ、たまにヒラメ。ヒラメは高いから、カツオ一筋を頼むようなわけにはいかない。で、足が遠のくときもある。

2月も間もなく終わる。カツオはまだまだ望めない。スーパーには冷凍カツオあるが、だいたいは我慢する。

そうして魚屋さんに通っていると、ときに“おまけ”がつく。夏はカツオのアラ、今の時期はヒラメのアラ=写真。その合間に、スズキやホウボウのアラも。濃厚なカツオのアラ汁になじんでいた舌には、スズキのアラ汁はさっぱりして上品な味がする。ヒラメはさらにその上をいく。

21日の日曜日に刺し身を買いに行ったら、ヒラメのアラがあるという。二つ返事でもらってきた。晩酌のあとにすまし汁にして食べた。舌が喜んだ。

こうした“おまけ”は、対面販売の個人営業の店だからできること。魚による調理法、食べ方、フグにまつわるニュースなど、こちらの知らないこと、足りないことを教えてくれる。蒙を開き、魚への興味をかきたててくれるのがうれしい。

ただ、保健所の最近の「魚対策」には不満があるようだ。担当者が魚を分かっていない。どんなふうにして魚を売っているのか、その商習慣にも通じていない――保健所が県から市に権限委譲をされたのはいいが、ベテラン職員がいなくなった。そう言いたげだった。

2010年2月24日水曜日

部品交換


夏井川渓谷にある無量庵の温水器(瞬間湯沸かし器)が凍結・破損したので、水道工事業を営む友人に修理を頼み、日程を調整して職人さんに来てもらった。きのう(2月23日)のことだ。

朝の9時半には無量庵に着いた。ふだんは留守にしているから、室内が冷えきっている。石油ストーブ、石油ヒーター、電気ごたつ、電気マット――すべての暖房器具を作動させて室内を暖める。外気温も南風が入り込んで上昇する。しばらくすると、寒暖計が20度をさした。この時点でストーブとヒーターを止めた。「光と気温の春」になったのだ。

夏井川渓谷はケイタイの圏外。11時前に無量庵の固定電話が鳴って、「修理に行くのは午後1時になる」という。来る時間が分かれば、無量庵で待っている必要はない。県道に沿って散歩する。車で無量庵へ向かう道すがら、アセビの花らしいものを見かけた。それを確かめるのだ。

無量庵の背戸、道路をはさんだ南向きの山の畑に人がいた。春の陽気になったので、畑仕事が何より好きなお年寄りはじっとしていられないのだろう。アセビの花はやはり咲いていた=写真。満開というほどではない。が、日なたではムッとするほどの暖かさ。少しずつ渓谷にも春が姿を見せつつある。梅前線も無量庵に到着した。

さて、職人さんが来て温水器をチェックした。水道管と温水器を結ぶ管の継ぎ目がやられたと思っていたが、そうではなかった。継ぎ目のすぐ上にある温水器の水抜き部分がやられていたのだ。手持ちの部品はない。注文して取り寄せることになった。

水は隣地にある東北電力社宅跡の井戸から電気で揚水している。温水器が壊れた以上は電源を切っておかないといけない。蛇口に温水器専用のバルブが付いていないので、電源が入った状態では“噴水”を防げないのだ。

ところが電源をオフにしていると、温水器が直ってもすぐには水が出ない。揚水ポンプの中に空気がたまり、モーターが作動しないのだ。呼び水が必要になる。部品を調達するまでどうするか。

やはり飲み水や風呂水は使いたい。蛇口に温水器専用のバルブを付け加えてもらい、ポンプに呼び水を施して温水器以外は使えるようにした。半分だけ直った、というところか。

2010年2月23日火曜日

カーリングストーン


バンクーバー冬季五輪報道で目につくのがカーリング女子だ。日本代表は「チーム青森」、愛称「クリスタルジャパン」。

ルールはよく分からない。が、高度な戦略、理詰めの試合展開が必要な「氷上のチェス」だという。スコットランド発祥のゲームが海を越えて広がり、カナダで現在のルールが確立した。カナダでは国技になっている。似たスポーツはなんだろう。私には、ボウリングが同根のように思える。

先日、自宅近くのスナックで地域の人たち数人が参加して、2カ月にいっぺんの飲み会が開かれた。冬季五輪開催中とあって、カーリングの話になった。「ストーンは20キロもあるんだってね」。ストーンは花崗岩。そこから話が盛り上がった。なにしろ石屋さんがいる。彼がいろいろと花崗岩(石材としての御影石)について解説してくれた。

それで、「ごま石」という言葉を知った。白御影石のことだ。白があれば、黒御影石もある。黒御影石は白御影石より重いという。カーリングストーンは、あれで約20キログラム。黒御影の系統だろうか。

このところ読んでいる『雪と氷のスポーツ百科』に当たる。「ストーンの重さは19.96kg、円周91.44cm以下で、高さ11.43cmを下ってはならない」。約20キロというのは、この規定による表現だ。しかも、五輪のストーンはスコットランド・アルサクレッド島の花崗岩しか公認されない。産出国によって密度が違うのだろう。

夏井川渓谷も花崗岩でできている。花崗岩は雨風にさらされるとたちまち剥離・落下する。そんな岩盤からは、磨き上げられたカーリングストーンは想像もできない。

それはさておき、カーリングストーンは何かに似ている。何だろう。ずっと考えていて、散歩中に閃いた、漬物石だ。人工の石がある。重さ6キロ。これを二つ重ねたら、少し似た形になる。台所にあったはずだと見ると、シクラメンの花鉢の台になっていた=写真

2010年2月22日月曜日

市民講座


いわき地域学會の今年の市民講座が2月20日、いわき市文化センターでスタートした。地域学會会員を講師に月一回、11月まで10回開催される。第一回講座が開かれたのは、今から25年前の昭和60(1985)年3月。そのころは月二回だったが、あとで今の形に落ち着いた。回を重ねること今月で158回、超ロングラン講座ではある。

地域学會の創立時からの会員なので、第一回からの講座の歴史を知っている。今は第三土曜日の午後2時が開始時間。現役のころは勤務の関係もあってたまにしか受講できなかった。ときには講師の指名を受ける。私が話すのは「三春ネギのお話」や「北欧見聞録」のたぐいだから、学問からは程遠い。が、自分の考えを整理し、課題を知るにはいい機会だ。

158回目の講師は副代表幹事の夏井芳徳クンが務めた。ここ近年、ずっとトップバッターだ。〈「ぢゃんがら」「盆踊り」「念仏講」〉と題して、いわき地方に伝わる「じゃんがら念仏踊り」について解説した=写真

「ぢゃんがら」は現代仮名遣いにしたがえば「じゃんがら」だが、夏井クンは固有名詞として「ぢゃんがら」を用いる。これは歴史的仮名遣いでもある。私は現代表記にしたがう。長い間、それで仕事をしてきたことにもよる。

その「じゃんがら」だが、夏井クンの調査・研究からいろいろなことが分かってきた。単純化して言えば、「じゃんがら」は念仏踊りと盆踊りがミックスされたもので、「鉦と太鼓」の念仏踊りの部分は江戸時代初期に江戸から入って来た。「歌と手踊り」の盆踊りの部分は逆に、江戸時代の末期に東北北部から入って来た――。

そして、今でこそ「じゃんがら」は青年会が新盆家庭を回って踊るものと認識されているが、それは、かつては“つけたり”のようなものでしかなかった。「じゃんがら」の主役は青年ではなく、「念仏講」に属しているじいさんばあさんだった。月念仏だ、彼岸だ、虫供養だ、馬頭観音だ、雨乞いだと、なにかにつけて「じゃんがら」を踊ったものだという。

江戸初期の1656年陰暦7月15日午後6時ごろ、いわきで最初の「じゃんがら」が始まった――この、歴史小説を思わせるような夏井クンの推定には会場がわいた。「じゃんがら」のイメージがまた少し私の中で変わった。

地域学會の市民講座にはこうした知的刺激があふれている。市民による市民のための生涯学習講座、「知の交差点」だ。

2010年2月21日日曜日

ラサロの漫画


スペインからやって来た青年ラサロは、建築デザインの仕事をしている。漫画(コミック)が大好きで、自分でも描く。彼の漫画に登場する主なキャラクターは、帽子をかぶってたばこをふかす「マンテカイロ」と、はげ頭の「トミソ」だそうだ=真。いかにも漫画チックな風貌ではないか。

「トミソ」を見たとき、既視感(デジャヴュ)に襲われた。顔が私に似ている。面長で、眼鏡をかけている。ただ、今のところはツルッぱげではない。が、いずれ「トミソ」のようになるだろう、という予感はある。

モデルはいるだろう。しかし、1人ではなく、何人かの合成の結果として、「トミソ」が生み出されたに違いない。それが、たまたま日本の、いわきの、彼が訪ねて来た家の主にそっくりだった、とは、びっくりだったろうが。

ある集まりに、ラサロの描いた「マンテカイロ」と「トミソ」の漫画を持って行った。黙って、半折りにして「トミソ」の漫画だけを見せると、「○○さん(タカじい)じゃないの」という。だれが見ても、そういうに違いない。私だけの既視感ではなかった。

よりによって、スペインの、青年の造形した漫画のキャラクターがわが家にすみつき、動き出した。「アミーゴ○○(タカじい) エル トミソ ハポネス」という添え書きには、「トミソ」のようにフフフッと笑うしかなかった。「日本のトミソ」である。

2010年2月20日土曜日

ヒヨドリ哀れ


田畑や河川敷が雪で覆われると、スズメたちはえさ探しに苦労する。民家の軒下や庭木の下に地面がのぞいていれば、大挙して飛んで来る。草の実でも落ちているのだろう、盛んについばんではまたどこかへ飛んで行く。急にスズメの姿が目立つようになるのだ。

雪の庭にスズメがやって来ると、決まって思い出す光景がある。「スズメ生け捕り作戦」だ。小学生になるかならないかのころの、遠いとおい日の思い出。道具は、長いひもと短い棒、竹ザル。それに、スズメをおびき寄せるための米少々。

雪の上に米をまく。その上に竹ザルを置き、片側を棒で支える。棒には家の中にまで伸びる長いひもが結ばれている。米を目当てにスズメがやって来るのを、家の中からただひたすら待つ。スズメが現れ、ザルの下に入ると、ひもを引いて棒を外す。竹ザルがばさっと下りてスズメが閉じ込められる――という次第。今はむろん、そんな“悪さ”はしない。

スズメだけではない。ヒヨドリも今の時期はえさ探しに必死だ。なかでもお目当ては畑に残る白菜、キャベツなどの葉物。

夏井川渓谷にあるわが菜園には、葉物は残っていない。というより、秋野菜を栽培しなかった。だから、ヒヨドリに腹を立てることも、泣かされることもない。が、まだ青物を畑に残している家では、たまったものではないだろう。キャベツがついばまれて“壺”のようになる。それが嫌で青物や南天の実にネットを張ってヒヨドリの襲来を防ぐ人もいる。

事故か何かで死んだヒヨドリが1羽、畑につり下げられていた=写真。近くの木の枝で、別のヒヨドリが「ヒーヨ、ヒーヨ」と鳴いていたのはたまたまだろう。なにか哀れを催す光景だった。

ヒヨドリが畑の青物を狙うのは、冬が深まった証拠。冬が深まれば季節は春に向かって歩み出す。

そのきざしの一つが雄のキジの鳴き声。おととい、川辺の枯れヨシ原の上を飛び渡ってサイクリングロードに着地する雄のキジの姿を見た。別の雄も同時に飛び渡り、別の場所に姿を消した。縄張り争いかと思ったが、鳴き声は鶏に近い「ゲグッ」だった。雄キジに春機が発動するのはもう少し先のようだ。

2010年2月19日金曜日

またまた雪


きのう(2月18日)の朝、起きて庭を見た。雪が家や車の屋根、木々に積もり、なおしんしんと降っている。また雪か。あきれるよりも、音を上げた。2月に入って4回目の降雪だ。

前日、小名浜である講座が開かれた。知人と2人で講師を務めたあと、知人を浜の自宅へ車で送った。久しぶりに家に上がって母上からお茶をごちそうになった。母上は百歳にはなっていないが、90歳はとっくに越えているだろう。こたつで編物をしていた。

目も、耳もしっかりしている。今年は2月に入ってよく雪が降る話をしたら、「昔はもっと降ったよ」という。

母上は私より30年以上も生きている。生きている時間の長さが違うから、人生で得た経験知は断然多い。いうならば、100年のスパンと、60年のスパンの違いだ。確かに、昔は阿武隈高地でもいっぱい雪が降った。自分の子どものころの記憶からも断言できる。ここしばらくは暖冬気味に推移しているだけなのだ。

30年以上前だったか、年末に大雪が降り、電線への着雪・切断が相次いで停電になったことがある。杉山にも着雪による幹の折損という大被害が生じた。夏井川の浅瀬も凍った。それ以後、記憶に刻まれるような大雪はない。母上にはもっともっとそれ以前の雪の記憶があるのだろう。

きのうの雪は湿って重く、歩道も底が透けて見えた。寒気も12日ほどではない。雪かきは見合わせた。

で、昼前、用事ができて街へ出かけた。道路は雪が溶けて運転に支障はない。いわき駅前の「ラトブ」駐車場に車を入れようとしたら、職員が3人、入庫する車の屋根の雪を払ったり、入り口に払い落された雪に水をかけて溶かしたりしていた。屋根に雪を載せたまま入庫すると、地下駐車場の床が水浸しになる。雪に弱い「ラトブ」の一面を見た。

それに触発されて、雪の降る平市街地を記録に残しておこう――5階の窓から西の街並みをカメラに収めた=写真。雪は、昼にはやんだ。午後は明るい陽光がきらめき、夕方の散歩時には畑などを除いて、雪はあらかた消えていた。光の春は雪が降るたびに、着実に近づいている。

2010年2月18日木曜日

おかきと凍みもち


昭和30年前後といえば物心づいたころだ。小正月に「だんごさし」をして1週間ほどたったあと、そのだんご(もち)と、正月に飾ったもちをサイコロくらいの大きさになるまで砕き、油で揚げたのを食べた記憶がある。旧正月、つまり陰暦でそうしたことをやっていたように思う。

「おかき」というのだろうか。山里では冬場、サクサクして香ばしい最高のおやつだった。その「おかき」が、息子の嫁さんの実家から届いた=写真。ちょうどサイコロ大に揚げてある。サクサクしている。懐かしい食感だ。おやつはともかく、酒のつまみにはなる。焼酎を飲みながら、昔の味を楽しんだ。

「おかき」ができるのと同じころにつくられる「凍みもち」がある。春、夏、秋、いや1年を通して小腹がすいたときの「コジュウハン(小昼飯)」になる保存食だ。食べ方が少々面倒くさい。カチンカチンに乾いているので、水につけてやわらかくし、油でいためたのを醤油につけて食べる。あるいは水をふき取ったのを網渡しにのせて炭火で焼いて食べる。

子どもたちはそんなまどろっこしい食べ方はしなかった。水につけずに、硬いまま直接、火にあぶった。表面のあちこちがきつね色になれば、中まで熱が通った証拠。硬いことは硬いが、かむとカリッと砕ける。中に入っている「やまごんぼっぱ(オヤマボクチの葉)」の香りが広がる。粘りが食味を増す。

先日、いわき市三和町製の「凍みもち」を3個入手した。そのいわれは前に書いた。水につけてやわらかくして食べるのだと言われたが、私は自己流で食べたい。それで歯がぽろっといくこともないだろう、と思う。時期をはかって、我慢して、もういいかとなったときに食べる。それはやはり春がきてからだ。

2010年2月17日水曜日

バンクーバー冬季五輪


バンクーバー冬季五輪の楽しみ方を見つけた。日本の選手を応援するのは当然だが、もう一つ、ウインタースポーツの発祥地とも言うべき北欧の選手に注目する。選手の名前などは分からない。国名が表示されるたびに、選手の姿を目で追い、向こうの街や風景を思い浮かべる。それだけのこと。

ナショナリズムが高揚される場なのか、メディアは事前に日本選手のメダルへの期待をあおる。世界の強豪が競うハイレベルの大会だ。勝負は紙一重。スピードスケート男子500メートルでは銀メダルと銅メダルを取り、日本中がわいたが、期待した成績をあげられないとがっくりくる。割り引いて見るに限る。

が、それだけではつまらない。昨年秋に旅した北欧の選手たちはどうか。日本に北欧の視点を加えれば、少し幅のある見方ができるのではないか。そう思って注意していると、北欧勢がよく目につくようになった。

なかでも、気になるのがノルウェーの選手たちだ。「氷蝕地形のため、国民の4分の3は海岸から15キロメートル以内に住む」といわれるほど過酷な国土だ。海岸部(ベルゲン)でもすぐ山が迫る=写真。斜面とともに暮らしが形成されている、と言ってもいい。風土が強い足を生むのではないか。

北欧では、男性も女性も歩き方がさっそうとしている。足が長いうえに推進力がある。女性に負けまいと歩いたら、たちまち引き離された。ストックを持ったノルディックウオーキングも、クロスカントリースキーもこの歩き方に発する、質実剛健と言われる気質はそこから始まる、と思ったものだ。

少しは冬の五輪について勉強しようと、いわき総合図書館から『雪と氷のスポーツ百科』なる本を借りて読み始めた。ジャンプ競技でアナウンサーがよく「テレマーク」「テレマーク」といっていたが、それがノルウェー南部はオスロ近くのテレマーク地方を指す地名だと初めて知った。

ウインタースポーツと無縁だった人間には、書かれていることのいちいちが目新しい。狩猟の歩行補助手段だったスキーが「都市スポーツ」へと昇華するのは19世紀後半のことだという。スポーツとしては歴史が浅いのも驚きだった。にわか勉強もしないよりはした方がいいようだ。

2010年2月16日火曜日

花屋オープン


団塊世代のジュニアの一人、知り合いの娘さんが花屋をオープンした=写真。場所はいわき市平の文化交流ゾーンの一角。近くにいわき芸術文化交流館「アリオス」があり、小道をはさんだ向かい側が安濃医院だ。隣にいわき市社会福祉協議会の駐車場がある。

二十数歳、独身。花屋に勤めてウデを磨いた。不景気な世の中ながら、自分の夢を実現させるべく一歩、一歩階段を上がってきた。これは立派な起業だ。

だいぶ前からカミサンが独立話を聞いていて、あれこれアドバイスのようなことをしてきたようだった。できるだけカネをかけないようにしたい、というので、わが家にある大きな丸テーブルやガラスケース、その他を提供した。改装には大工さんが必要だ。私の中学校の同級生が請け負った。

オープン初日(2月10日)、スペインから帰って来た画家阿部幸洋らと花屋へ繰り出した。阿部やわが夫婦は、母親とは独身時代からの知り合いだ。その娘さんが店を出した――というので、阿部はお祝いに花を買った。

娘さんは母親の血を引いて絵を描く。そのセンスが、店づくりに生かされていた。母娘で話し合いながら、テーブルや鏡、カウンターの位置などを決めたのだろう。店内がソフトな色合いで統一されている。木目が浮き出るほど白茶けてお役目御免になっていた古い板も、棚として再び命を吹き込まれていた。

花屋は生きた花を扱う。「いのち」を大切にする。そういう店にふさわしく、捨てられたり、陰に隠れたりしていたモノたちが、インテリアとして再生されているのがうれしかった。店が成長するのもしないのも、本人の頑張り次第、とはいえない冬の時代。でも、この愛情があるかぎり、小さく、個性的な花屋として輝いていけるだろう。

2010年2月15日月曜日

除雪車出動


いわき地方がドカ雪に見舞われたのは、2月11日夕から12日未明にかけて。一夜明けると、街も山野も銀世界に変わっていた。

11日午後、みぞれが降るなかを夏井川渓谷の無量庵へ出かけた。台所をのぞくと、温水器が凍結・破損して水を噴き上げていた。すぐ揚水ポンプの電源を切り、ぬれた絨毯や足ふきマットを濡れ縁に出し、水浸しになった床をタオルケットでふいた。

と、一息つく間もなくみぞれが雪に変わった。漏水を止めただけよしとして、すぐ帰宅した。そのあと、どっさり雪が降ったのだ。そのことは12日に書いた。

さて――。14日・日曜日はどうしよう、道路が圧雪状態ならとても出かけられない。案じていたら、同じ夏井川渓谷の一角に実家のある知人が、「恐るおそる車で行ったら、雪はなかった。除雪車が出動した」という。

11日には台所の温水器だけに目を奪われて、外壁に取り付けてある風呂の給湯器にまで気が回らなかった。初夏、ヒーターのコンセントをはずしておいた。そのままなら凍結・破損していてもおかしくない。確かめる必要がある。

平地から夏井川渓谷へ向かうには「地獄坂」を通らなければならない。それが第一関門。次の関門は江田駅手前のS字カーブ。平地から除雪車が道端へと雪をかき分けて進んだために、車道はあらかた乾いていた=写真。関門も難なく通過できた。

無量庵の庭は雪で覆われていた。動物の足跡もなかった。すぐ、給湯器を確認する。コンセントが差しこんであった。ヒーターが作動している。給湯器の取り付け工事をしたガス屋さんがプロパンガスボンベを定期的にチェックしている。ついでに見てくれて差し込んだのだろう。職業柄、家主が忘れている例が多いのを知っているのだ、おそらく。

揚水ポンプの電源を切っていたから、水は出ない。隣家は、持ち主が解体して展望台にした。その一角に沢水を利用した蛇口がある。一年中、水が流れている。その水をやかんとポットにくんだ。昔は、水道管が凍結・破損すると、直るまでわが家から水をポリタンクに入れて運んだ。それをしなくてすむようになったのはありがたい。

水道工事業の友人は、緊急性が全くないと判断しているから、いつ直すとも言ってこない。こちらもいつか直ればいいと思っているので、催促はしない。とはいえ、いつまでも水道管を空気で満たしておくわけにはいかないだろう。そんなことを思い巡らしながら、春がどこかにきざしていないかと散歩した。

道端のモミは枝にいっぱい雪をのせ、しずくを道路に滴らせていた。1月には数輪ほど花を咲かせていたアセビも、すっかり凍えていた。冬に開花するハンノキの赤黒い花穂がいつものように垂れ下がっているばかり。渓谷に春が訪れるのはちょっと先のようだ。

2010年2月14日日曜日

グラナダへの便り


スペイン南部のグラナダから当欄にコメントが入った。発信者は草野さん。

いわき市出身の画家阿部幸洋の妻・すみえちゃんが去年9月末、急死した。訃報を10月1日に知り、すみえちゃんの思い出を書いたら、グラナダの草野さんからトメジョソの彼の自宅にお悔みの電話が入った、という。知り合いだったか。

すみえちゃんが生前、わが子のようにかわいがっていた男の子のラサロ(今は27歳の青年になった)を伴って、阿部が帰国した。平のギャラリー「界隈」で個展を開くためだ。13日にオープニングパーティーが開かれた=写真

それに先立ち、8日、二人が家へ遊びに来た。阿部からすみえちゃんのこと、ラサロのこと、グラナダでわがブログを読んでくれているいわき市内郷出身の草野さんのことなどを聞いた。2月10日のブログ「スペインから来た青年」はそうして書いた。その文章に対するコメントだった。

「はじめまして。グラナダに住んでいます草野と申します。ラサロ君が阿部さんと一緒で安心しました」

阿部は少しやせたが、ラサロがいるから、親身な大家さんがいるから、大丈夫――私はそう感じた。草野さんも同じ思いだったのだろう。

これからあとは、すみえちゃんがらみの報告。

コメントをいただいた10日の午後、喫茶&レストランも兼ねる「界隈」で「阿部すみえさんを偲ぶ会」が開かれた。30人ほどが出席した。ほぼ全員がすみえちゃんの思い出を語った。遠く離れた異国での死。みんな泣きたかった、泣く機会がなかったのだ――私はそう思った。

すみえちゃんは、阿部と結婚する前と後とでは人生観・世界観ががらりと変わった。こもごも語る思い出話から、それがよみがえった。「界隈」の前身、「らいふ」という喫茶&レストランでアルバイトをしたのが阿部と出会うきっかけだった。

すみえちゃんの弟さんが、そのころの彼女について語った。内向きで、コンプレックスのかたまりだった。「らいふ」の経営者(われらは今も彼を「マスター」と呼ぶ)も、よく食器を割っていたドジぶりを紹介した。彼女の最大の魅力はしかし、面白いと思うと肩を揺すって大声で笑うことだった。これは終生変わらなかった。

スペイン生活30年。彼女は主婦として、生活者として近所の人たちと喜怒哀楽を共にしながら、阿部のマネジャー役・通訳役を果たした。その過程で弱いもの・小さいものに対するやさしさ・慈愛の心を深めた。彼女が語る言葉の正確さがそれを物語る。

私は、「画家の妻」であると同時に、有能な「一人の文章家(エッセイスト)」となった彼女に、新聞連載を頼んだことがある。タイトルは「トメジョソの青い空」。了解をもらったが、私のずぼらさから連載は幻に終わった。

ラサロと8日にわが家へ来たとき、「すみえは何編か書いていた、それがある」と、阿部が話した。あとで原稿を見せてくれることになった。今となっては新聞連載は無理だが、なんらかのかたちで活字化して約束を果たしたい――そう思っている。

2010年2月13日土曜日

雪かき


いわき地方は、11日夕から夜にかけて雪に見舞われた。一夜明けたら、一面の銀世界。屋根や庭木がすっぽり雪をかぶっている。道路も、車のわだちの間にうっすら雪が残っていた=真。積雪量は、車の屋根の積もり具合からして10センチはあったろう。いわきでは「大雪」だ。

春先、南岸低気圧が東進すると、北から寒気が流れ込んで雪になる。いわきでは、2月に入ってもう3回目だ。雪は、眺めている分にはのどかでいいが、仕事となると別だ。冬もノーマルタイヤのいわき市ではたちまち各地で交通渋滞が起きる。

「雪かきをしなくては」。カミサンにうながされて、こたつを離れた。毎朝、家の前の歩道を集団登校の小学生が行く。7時過ぎから、竹ぼうきとスコップを使って歩道の雪かきをした。雪は、下が溶けてシャーベット状になっている。湿って重い。雪かき棒があればと思っても、「数年に一度の雪」ではその用意もない。終わるころには腰が痛くなった。

小学生たちがあいさつしながら通り過ぎる。単に朝の散歩ですれ違うときは、〈この人だれ〉という表情で無口だが、雪かきをしていると、自分たちと同じ地域に住んでいる人間で、自分たちのためにもやってくれている――そういう心理がはたらくのだろう。あいさつされるとうれしいものだ。

手に大きな雪のかたまりを持っている子もいた。タイヤチェーンを装着したバスが行く。マイカーはほとんどがチェーンなしだ。

さて――。日が差せばワケはないのだが、曇ったままなので気温が上がらない。午後、恐る恐る車を運転して街へ出かけた。幹線道路は大丈夫だったが、脇道には湿った雪が残っていた。夜から未明にかけて凍結するとコトだ。特に歩道は、シャーベット状の雪が凍ってでこぼこになる。滑って転びやすい。歩道橋もその危険がある。

けさ、起きるとすぐ歩道の様子を見た。はだら雪がバリバリに凍っている。歩道橋もツルンツルンだろう。いわき民報によれば、昨日だけで50件前後のスリップ事故が発生した。きょうは転倒事故が増えそうだ。散歩はよした。

2010年2月12日金曜日

台所が水浸しに


日曜日はたいがい夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵で過ごす。それが、1月31日、2月7日と用事があって、街にとどまった。2週も続けて足を運ばないでいると、なにか不安な気持ちになる。きのう(2月11日)午後、思い立って無量庵へ出かけた。ほぼ3週間ぶりの無量庵だ。不安が的中した。

県内の新聞社で働く後輩の名刺が戸のすきまに挟まっていた。名刺の裏に「ブログを見つけ、なつかしくなり立ち寄りました。日々の楽しみとしております」とあった。1月31日、午後1時前にやって来たようだ。〈これはすまなかった〉と思いながら部屋に上がる。そこまではよかった。

まず、水道管凍結の有無を調べる。これが冬の無量庵での習慣。で、早速、台所をのぞくと、ステンレス製のキッチンに水滴が散らばっている。おかしい。目を凝らす。温水器の継ぎ目部分から、ヒューヒュー音を出して水が噴いているではないか。

壁に掛かるタオルを針のような水が直撃し、壁をぬらし、床は水浸しになっていた。スリッパも水を含んで重い。靴下がたちまち水にぬれる。冷たい。

無量庵では地下水をポンプアップして飲み水などに使っている。揚水ポンプの電源を切ったあと、カミサンとぬれた絨毯や敷物を取り出し、タオルケットを引っ張り出して床に敷き=写真、水道工事業を営む友人に電話を入れた。

彼はこの15年間に3回ほど無量庵へ駆けつけ、凍結・破損した水道管を修理している。今度も予定を立てて直してくれることになった。

一息ついたあと、いつ継ぎ目部分が凍結・破損したのか、考えた。前に一台、同じ理由で温水器を駄目にしているので、冬は水抜きを欠かさない。水抜きはしてあったが、やられた。予防の意味がない。平地のわが家で給湯器が凍った2月7日、日曜日。その日に凍結・破損したのだ、きっと。

そうこうしているうちに、天気はみぞれから雪に変わった。ぐずぐずしてはいられない。生ごみを堆肥枠の中に埋め、風呂場や洗面台の水道管の無事を確認して無量庵を離れた。2月に入って三度目の雪。南岸低気圧が東進して北東から寒気を呼び込んだ。水道管破損、雪。このところの暖冬ですっかり忘れていた現象だ。

2010年2月11日木曜日

「たまたま」か「またまた」か


このごろ、晩酌の時間が早まりつつある。現役のころは夜7時近くだったのが、6時前半になり、ときどき5時台になる。さすがに4時台には、ブレーキがかかる。が、先日(2月6日)のように雪が降りだす=写真=と、やはり早く一杯、となってしまう。

昔、社の大先輩が退職後、大相撲が始まるとテレビ桟敷でチビリチビリやり始める、と言ったのを覚えている。随分早くから飲み始めるんだ――と思ったものだが、それと五十歩百歩か。当然、相撲が終われば酒も終わる。あとはさっさと寝る、と聞いた。奥さんを亡くして一人暮らしをしていたので、そういうことができたのだろう。

――カミサンが、風邪が抜けきれないためにぼんやりしていた。夕方の5時も、6時もよく分からなかったらしい。5時に飲み始めると、つられてつまみと晩ご飯のおかずをつくり、茶の間に戻って来て時計を見た。飲み始めて1時間近くたっている。「あら、まだ6時じゃないの」。横目でこちらをにらんだ。

確かに、ちょっと時間が早い。しかし、早く飲み始めれば早く終わる。終わる時間が同じではコトだが、前倒しするだけなら問題はあるまい。というのは、飲兵衛の屁理屈。「きょうは『たまたま』だよ」というと、「それが『またまた』になるの」と切り返された。

そうか。「たまたま」の逆は「またまた」か。逆も真なりではないが、痛いところをつかれて、へらへら笑ってとりつくろった。が、そんな笑いはすぐ揮発する。「またまた」はやはり慎まなくてはならない、と素直に思った。

2010年2月10日水曜日

スペインから来た青年


スペイン在住の画家阿部幸洋が、ふるさとのいわき市で個展を開く(13日から平・界隈)ために帰国した。8日夜6時、彼の亡き妻(すみえちゃん)がわが子のようにかわいがっていた青年ラサロ君を連れて、わが家へやって来た。

それより2時間前に連絡が入って、慌てて買い物に出かけた。カミサンは、ラサロ君は肉を食べるから肉の入った日本の料理を、そうだ「すき焼き」にしよう――となったのだろう。

「ご飯は食べて来るんだって」。すると、もうおなかはいっぱいではないか。もてなさなくては――という思いに頭を占領されている女には、軽く酒のつまみをつくるくらいでいいのではないか――という男の「相対性理論」は通じない。「絶対性理論」で平の街中へすき焼きの材料を調達しに行く運転手になるしかない。結果は、材料が「大余り」だった。

こたつを食卓にしていつもの調子で「独酌」を、いや阿部と「対酌」を始め、ハンドルキーパーのラサロ君に「さあ、食べなさい」とすき焼きを勧めたら、カミサンが席に着くまで待つという。早速、スペインと日本の文化の違いを知った。

晩酌の時間は、日本では(というより、ほかの国にそんな習慣があるのかどうか)、単身赴任でもなければ、オクサンがつまみなどを用意して、夫がテレビでも見ながら「独酌」を始める。

ところが、スペインでは家族全員が席に着いて「いただきます」となる。昭和30年代ごろまでの日本も、今思い返せばそうだった。その後の高度経済成長と軌を一にして核家族化が進んだ。一人ひとりの箱膳と、みんなで向き合うちゃぶ台の食習慣が併存したあと、ばらばらの個食(孤食)に変わった。

わが家の晩酌は、スペインの食習慣からすると一種の「男尊女卑」に映ったのかもしれない。カミサンもあとで晩酌に加わり、私以上にしゃべりまくったのだから、実質は「女尊男卑」だが、そんなことはどうでもいいのだろう。要は、一緒に食べる、一緒に話す――が大事なのだ。

ラサロ君はディズニーのアニメ映画で英語を学習した。日本語は、多少は阿部夫人のすみえちゃんを介して親しんではいただろうが、ちゃんと学んだことはない。が、英語、日本語、阿部によるスペイン語の通訳で、ほとんど違和感なくコミュニケーションが取れた。

耳がいいから言葉をまねることができる。記憶力がいいからその言葉が残る。繰り返せば自分のものになる。あっという間に日本語の語彙を増やしていく姿を目の当たりにして、秀才・天才というのはやはりいるのだなと舌を巻いた。

27歳。職業は「アート&デザイン」。コンピューターを駆使して、いまはやりの「3D」で大きな倉庫のデザインなどを手掛けている。猫が大好きだという。わが家の猫をかまうしぐさからして、それがよく分かった=写真

2010年2月9日火曜日

前知事、地方自治を語る


いわきの地域づくり運動をめざす人々の横断的団体「いわきフォーラム’90」のミニミニリレー特別講演会が7日午後、いわき市文化センターで開かれた。佐藤栄佐久前福島県知事が〈「地方自治」を語る――「知事抹殺」からみえてくるもの〉と題して話した=写真

月2回開いているふだんのミニミニリレー講演会は、受講者が数人~十数人というのが実情。ところが、ネットで開催を知り、わざわざ八戸市からやって来たという男性を含め、およそ80人が聴講した。

前知事は2006年秋、県が発注したダム建設工事をめぐる“贈収賄事件”で東京地検特捜部に逮捕された。が、前知事は一貫して潔白を主張し、一審、二審の判決を不服として上告した。前知事の主張が正しいとすれば、これはでっちあげられた事件=冤罪ということになる。

演題にある「知事抹殺」は、前知事が昨年9月に刊行した『知事抹殺――つくられた福島県汚職事件』(平凡社)による。この「知事抹殺」事件とからめながら、前知事がどんな理念・哲学に基づいて「地方自治」(福島県政)を推し進めてきたか、を語った。

そのうちの一つが、首都機能移転問題だ。これに関する朝日新聞「論壇」への投稿〈新首都は「森に沈む都市」を目指せ〉=平成8年3月=に目を見張った記憶がある。

阿武隈の山中で生まれ育った私は、ふるさとの山河が首都機能移転という名目で大改造されるのではないか、そう危惧していた。そこにコンパクトな「森に沈む都市」というイメージが付与された。

自然を改変してできあがった大都市と違って、森=自然と混然一体となった小さな「森林型社会」こそが21世紀にはふさわしい――そんな認識を持つに至ったのも、「森に沈む都市」というフレーズが少しは影響している。

講演では、前知事自身の「思想形成史」に興味を持った。高校時代に、ソ連によるハンガリー侵攻が起きる。大学時代には60年安保があった。30歳のときにチェコ事件が発生する。早くから政治に関心を抱いていた。民主主義と人権にかかわるものに無関心ではいられなかったのだろう。

それと並行して『岩波茂雄伝』を介して藤村操を知り、E・H・フロムの『自由からの逃走』などを読む。さらには、青年会議所時代に安藤昌益を知り、自分で学問をつくりあげた個性に引かれていく――書物から得たものを咀嚼し、血肉化していく知的な営為はなかなかのものだ。

少なくとも、思索を深め、理念・哲学を形成する生き方から、私は前知事が「慎み深く、考え深く」を実践しようとしている人だ、ということが理解できた。それを、この目で、耳で確かめられたのはよかった。

三木卓の詩句に「日常に堪えられない思想はだめである」というのがある。思想と行動とが違っていては駄目だよ、自分に恥ずかしいよ――そういうことだと私は解釈している。久しぶりにこの一行が思い浮かんだ。

2010年2月8日月曜日

朝風呂に入れない


朝は、6時すぎには起きる。ひところより明るくなったので、すぐ散歩に出かけ、戻って来ると、冷えた体を風呂に沈めて温める。朝風呂だ。

飲兵衛なので、現役のころは宵に家へ帰るとすぐ飲み始めた。で、50代に入ったころから、飲んだら風呂には入らない、翌朝入ってひげをそる――そういう習慣ができた。風呂で倒れたくはないから、という思いもあった。

一年を通して、体が朝風呂で目を覚ます。そういうバイオリズムができあがった。朝ご飯はそのあと、8時になってから。

きのう(2月7日)は日曜日。たいがいは早朝、散歩を休んで夏井川渓谷の無量庵へ車を走らせる。ところが、土曜日の雪が車の屋根に残っているではないか。渓谷の道路は圧雪状態に違いない。ノーマルタイヤで渓谷へ突っ込んでいく自信はない。やりかけの仕事もある。午前中はそれに充てよう。散歩もよして風呂をわかすことにした。

ん? 浴槽に付いている「運転」のマークを押し、「自動」のマークを押したが、いつものようにボッという着火音がしない。外壁に取り付けられたガス給湯器は沈黙したままだ。シャワーの「優先」マークは点灯したが、「給湯」と「ふろ」の炎のマークはつかない=写真

もしかして――。浴槽の蛇口をひねる。水が出ない。間遠な“雨だれ”だ。給湯器に滞留している水が凍ったのか。家の内外にある水道の蛇口を確かめる。室内の蛇口はOK。外の流しの蛇口は凍って水が出ない。やはり、凍結したのだ

南岸低気圧が北東の寒気を呼び込み、雪を降らせると同時に大地から熱を奪ったのだろう。水道管の破裂こそ免れたが、浴槽の給湯器が作動しなかったのは初めてだ。

蛇口を開けっぱなしにしていたら、10時ごろになって“雨だれ”が早まり、やがて細い水の糸ができて元の流れに戻った。あらためてスイッチを押すと、ボッと音がして給湯器が作動した。太陽の熱で給湯器がよみがえったのだ。――けさはちゃんと作動した。きのうがこの冬の寒気の底であったらいいのだが。

2010年2月7日日曜日

三和の漬物


ある40人余の集まりで、出席者全員が袋に入ったいわき市三和町の漬物と、できたばかりの凍みもちをお土産にいただいた=写真

去年暮れ、三和町下三坂の専業農家で「柏の里」を運営している永山シゲヨさんが、友達の家を訪ねる途中だと言って、わが家に白菜キムチと柏餅、採りたての白菜2玉を置いていった。白菜はすぐ漬け込んだ。食べると甘かった。冬の寒さが白菜の糖度を増す。「地場の白菜は三和に限る」と思った。

今回の集まりのお土産は、そのシゲヨさんが(たぶん頼まれて)持参したものだった。袋に入っていたのは、漬物が白菜キムチ・大根の塩漬け・ヤーコンの酢漬けの三つ。それに、できあがったばかりの凍みもちが3つ、

ほかに持参した永山家の白菜漬け、タクワンが酒席を回り、お膳に追加された。甘くてやわらかかった。タクワンは、昔はパリパリしたものがよかったが、今はやわらかい方が好ましい。やわらかければやわらかいほどいい。「オコウコ」が大好きでも、歯によくないから食べない、というお年寄りもこれならOK、そんなやわらかさだ。

シゲヨサンと少し話をした。白菜の糖度の高さを言うと、「白菜も大根も、これからもっと甘くなります」とうなずく。そのとき、寒冷地だから自然に甘くなるけど、それだけではありません、甘くする努力をしているのですよ――表情がそう言っていた。

自慢の白菜、そして大根、ヤーコン。冬はそれを漬物に加工して付加価値を高める。一年を通して柏もちをつくり、農作業にいそしみ、農家レストランを営む。忙しくて、楽しくてたまらないといった笑顔のかわいい人だ。

2010年2月6日土曜日

オニがさまよった夜


2月になると、いやがおうでも正月気分が消える。いや、意識を切り替えなくてはならなくなる。3日の節分の日のことだった。カミサンが、何日か前から言い続ける。「節分の豆まきをやらなくちゃだめだからね」

「フクハ~ウチ~、オニハ~ソト~」。それは長男の役目。二男坊だったので、これをやらずに済んだ。やろうとも思わないできた。結婚で様子が変わった。やるかやらないか、いつもカミサンともめる。今年はたまたま3日に飲み会の連絡が入った。喜んでOKした。声を出さなくて済む。

とはいえ、豆まきの準備まで逃げるわけにはいかない。3日当日の昼、スーパーで節分イワシを買った。次に、近くの「元気菜野菜市場」=写真=へ行って漬物用の白菜を買った。ヒイラギと豆がらのセットがあって、値段は100円だという。運営責任者は旧知の男性だ。「売れ残ってもしょうがないから、あげます」。喜んでちょうだいした。

山村暮鳥の書簡風エッセー「晩餐の後」を引用しながら、暮鳥とお隣さんの話を前に書いた。同じエッセーで暮鳥は節分の豆まきに関してこんなことを言っている。知り合いが豆を一握り持って来て、暮鳥に「豆をまきましょうか」と言った。「ありがたう、だが、鬼はゐませんから」とその親切を断った。

なるほど、キリスト教的には節分は意味がない。が、随分な断り方ではないか。暮鳥はそのとき31歳。私は暮鳥の若さを思った。

――これからあとは、3日夜の田町(いわき市平の飲み屋街)での話。

あるスナックに入ると、先客がいた。しばらくして交互にカラオケを始めた。私も歌った。で、ほかの人たちの歌を聞きながら、おかしな気分になった。〈きょうは節分、ここには家を追い出されたオニたちがいる〉。そのうち、別のオニが逃げ込んで来た。

わが仲間も、私も、豆をまかれて田町に迷い込んだオニたちではないか。節分の夜に田町で酒を飲んでるような男はろくでもないな、と思いつつ、グラスはグイッグイッと空になるのだった。

2010年2月5日金曜日

首環を付けたハクチョウ


4日は立春。暦の上では冬から春へと季節が移り変わった。2月の声を聞くと同時に、起床も早まり、3日の節分にはふだんより30分早く散歩へ出た。夏井川の堤防で、「ハクチョウおじさん」のMさんと出会った。

Mさんは、えさやりを終えて軽トラで対岸の自宅へ帰る途中、私を見つけると、車を止めてハクチョウ情報を教えてくれる。1月中は日の出が遅く、寒いので、散歩時間が7時台になることが多かった。それで、Mさんとはいつもすれ違いになっていた。今年初めての対面である。

数は? 「240~250羽かな。緑色の首環と足環を付けてるのもいる。重くはなさそうだ。首環には細いアンテナが付いてんだ」

1月10日にガン・カモ調査が行われた。後日、日本野鳥の会いわき支部は結果を速報し、併せて昨年10月、北海道・網走のクッチャラ湖で「169Y」の首環・足環を装着されたコハクチョウが飛来していることを紹介した。

わざわざ撮影に出向くことはしない、緑色の首環が目に入ったらカメラを向けよう――この半月、そう自分に言い聞かせて、街への行き帰りに堤防を利用していたのだが、いっこうにシャッターチャンスはこない。すると3日午後、砂地にハクチョウが群がり、中に緑色の首環をしているコハクチョウがいた。

人間のカップルがいたから、えさでもやったのだろう。そのおかげで、至近距離から撮影することができた=写真。首環からは、確かにMさんが言うように細いアンテナが伸びている。無線送信機で、衛星で移動経路を追跡するのだろう。足環は右が緑色、左がアルミニウムらしい銀色だ。

早起きはいい結果をもたらした。Mさんに情報をもらい、同じ日に早速、「169Y」のコハクチョウを撮影することができたのだから。

2010年2月4日木曜日

珍客来る


知人(若い女性)がペットのマルティーズを連れてやって来た。体重2.95キロの小型犬で、名前を「ミルク」という。白絹のような長い直毛が特徴の室内犬だ。両耳と鼻の周り、尾のほかは、あらかた刈り込まれている。犬の美容院へ行って来たばかりだそうで、いかにも清潔な印象を受けた。

カミサンを交えて犬談議になった。わが家には長い間、雑種の赤柴がいた。子供が小学生のとき、近所に捨てられていたのを拾ってきたのが始まり。「リョウマ」と名付けた。今年、同じような名前の大河ドラマが始まった。が、犬と人間を一緒にするのは慎もう。

で、「ミルク」ちゃんだ。抱くと最初は震えていたが、やがて落ち着いて静かになった。抱いたときの温かさ、重さ、大きさからいうと、生まれたばかりの人間の赤ん坊を一回り小さくした感じか。

飼い主が「怒らないでください」と言いながら、このメス犬の習性を教えてくれた。若い男性でないと抱かれないのだという。その「面食い」が、若くはない男性に抱かれた。それで居心地がいいようなのは「発見」でもあったか。いや、犬といえども外見ではなく、中身を見抜く力はあるのだ。

鼻の周りがなんともおかしい。そこだけ見ると、NHKテレビの「ダーウィンが来た」に登場する「ヒゲじい」だ。もっとも「ヒゲじい」はチャールズ・ダーウィンがモデルだそうだが。

写真に撮ってパソコンに取り込み、拡大したら鼻の下が黒っぽい。今度は逆に「飼い主よ、怒らないで」と言いたくなった。加藤茶の“ちょびひげ“に見えてしかたないのだ。でも、黒い瞳にはちゃんと光が宿っている=写真。かわいいので写真を進呈することにした。

2010年2月3日水曜日

雪が「ドンドン」


きのう(2月2日)、朝ご飯を食べていると、「ドンドン」と戸をたたくような音がした。少し間をおいて、また「ドンドン」という音がする。

猫が勝手に縁側のガラス戸を開けて出入りする。そのとき、縁側の荷物とガラス戸の間に置いてある、のら猫侵入防止柵(元は帳場格子)がガラス戸に当たってガタンガタンと音を出す。その音とはかなり違う。

口の不自由な人が戸をたたいているのではないか。カミサンがご飯を中断して確かめたが、人間はどこにもいない。それでも音はやまない。おかしいな。なにげなく階段を見上げたら、2階の窓ガラスを小さな影がよぎり、「ドスン」という音がした。

2階の窓を開けて外を見ると、テラスにザラメ状の雪が堆積していた。「ドンドン」は屋根の雪の落下音だった。朝日に照らされ、溶けだしたザラメ雪が瓦一枚分ずつ滑り出しては落下し、大きな音を発していたのだ。

――1日夜、南岸低気圧が本州付近を東進しながら雪を降らせた。春先に多い現象で、いわきの平地もときどき雪に見舞われる。今シーズン初積雪だ。雪はそんなに積もらなかったが、2日朝には放射冷却現象が起きたのか、道路は車道と歩道の一部が凍結して滑りやすくなっていた。

早朝、散歩に出ると、車が一台、フロントガラスに雪をのせたまま通り過ぎた。運転手の顔は雪で見えなかった。びっくりして車を目で追った。まるでトーチカの銃眼からのぞくような運転ではないか。なぜ雪を払わないのだろう、簡単なことなのに。

夏井川の堤防に出る。土手も畑も、家の屋根も、里山も阿武隈の山並みも、雪化粧をしていた=写真。救急車のサイレンが鳴りやまない。雪による転倒・スリップ事故で出動したか。集団登校中の小学生が雪の土手を犬ころのように転がり落ちて楽しんでいた。雪にはしゃぐのは子ども、悩まされるのは大人――いつの時代もこの構図は変わらない。

朝ご飯を終えたあと、茶の間で仕事を始める。屋根の雪の落下音は時間がたつにつれて違う所から聞こえるようになった。9時前後には東側の屋根から落ちていた雪が、10時前後になると西側の屋根から落下し始めた。太陽のエネルギーはすごい。たちまち雪は日陰の一部を除いて姿を消した。

2010年2月2日火曜日

海岸の“砂風”


南風であれ西風であれ、風が吹き荒れると砂塵が舞い上がる。ある年の秋だった。強風が吹き荒れる平の市街地を車で走っていたら、国道6号沿いの旧平三小校庭から砂煙が舞い上がり、歩道も車道も砂だらけになっていた。街中で見る初めての“砂風”だった。

たまたまその現場に遭遇したから記憶が刻まれただけで、土のグラウンドはいずこも、風の日には“砂風”が乱舞するに違いない。

わが散歩コースの夏井川でも、先日、対岸の土砂除去工事現場でダンプカーの動きと合わせて砂塵が舞い狂った。強い南風が吹いて寒気がゆるんだ日だった。そのとき、1月初旬に見た四倉海岸の“砂風”を思い出した。

「道の駅よつくら港」のそばを境川が流れる。やや風が強かったが、砂煙が舞うほどではない。その河口近くで、三面舗装の川面に海岸の砂が放物線を描きながらなだれ込んでいた=写真。風が運んで来たのだ。まるで堰を越える川の流れのように、とめどなく砂が流入している。川底にはかなりの砂が堆積していた。

いわきの川はどういうわけか、河口で勢いをなくす。海の波におされて河口がふさがり、横へ横へと流れて海岸に平行する「横川」ができる。夏井川がその典型だ。仁井田川と横川で結ばれており、今や夏井川の河口は仁井田川だ。

河口がふさがるのは海の波の力もあるが、風も何十分の一かは影響しているのではないか。四倉海岸はいわきでも最大級の砂浜だ。その砂が絶えず風に吹かれて境川に流入する。初めてそれを見て、河口閉塞のメカニズムは単純ではないことを思い知った。むろん、それだけが原因ではないだろうが。

――けさ(2月2日)、2階から外を見ると、家々の屋根がうっすら雪をかぶっていた。宵のうちに雪が降り、すぐやんだらしく、道路には雪はなかった。これから雪の写真を取りに行く。

2010年2月1日月曜日

万年筆“再生”


1月30~31日にいわき市平のT1ビル・いわきワシントンホテル椿山荘で、7回目のチャリティーセール新まごころが開かれた。主催したのは地元の平一・二・三町目商店街新まごころ実行委員会とラジオ福島。その一環として、坂本紙店のブースで万年筆クリーニング(無料診断)が行われた。そのブースを訪ねた。

昔、仕事を介して知り合った友人たちから、「○△祝いだ」といってネーム入りの万年筆をプレゼントしてもらったことがある。その万年筆を使っているうちに、具合が悪くなった。インクが途切れる、二つに割れる。意地が焼けてポイッとやった。というのはウソで、筆立てに差し込んだまま放っておいた。

以来、ふだんのメモ書きは万年筆からボールペンに替わった。それから何年になるだろう。5年? いや、もっとたつ。

そんな万年筆を目前に置いておく人間には、万年筆の無料診断は魅力だった。わが万年筆を間に置いて、ペンドクターが“問診”をする。即座に「これはソフトペンですから、力を入れたらインクが途切れたり、二重になったりします」。力を入れるのは私の癖だ。ということは、ペンのせいではない。私が力を入れなければいいのだ。

そのあと、ペンドクターは万年筆を分解し、時計屋さんがつかうような拡大鏡で細部を見たり、ペンライトのようなもので内部を見たりした。「ペン芯を取り替えましょう、古くなっていますから」。それと同時に、内部のインクかすを取り除き、指に力を込めてペン先を狭めた。カートリッジインクを1本差し込み、インクの出具合を見て、さあと渡してくれた。

軽くペンを走らせる。インクがすらすらと流れ出る。万年筆がよみがえった。交換した部品も、カートリッジインクも無料だという。ありがたいことだ。すがすがしい気持ちになって立ち上がると、旧知の公務員氏が後ろに立っていた。彼も診断を受けに来たのだった。

ただで帰るというわけにはいかない。ここはインクを買わないといけないなあ――そんな思いに駆られてブルーのカートリッジを注文すると、12本入り420円がチャリティーのために320円だった。

得した気分で通路に出ると、ウルトラマンが子供たちの前で「シュワッチ」をやっていた=写真。いいぞ、いいぞ。親と一緒にやって来た幼児たちが目を輝かせていた。