2010年3月31日水曜日

ツバメ到来


夕方、久しぶりに散歩へ出た。気温は上がらなかったが、晴れて風も弱い。国道6号を渡って夏井川に出た。残留オオハクチョウは? いつものコースから上流の方へ寄り道して確かめる。いた。いよいよ飛べない何かが、理由があることを確信する。

きびすを返して歩き始めると、視界をさっとよぎるものがあった。ツバメだ=真。数羽が河川敷の上空を行ったり来たりしていた。

日曜日(3月28日)に上流、小川町下小川の、やはり夏井川の上空で乱舞するツバメを見た。車を運転中だったので、ツバメか、イワツバメか、確かめようがなかったが、「ツバメ前線」がいわき市に到着したのを知った。

小名浜に測候所があったころは職員による生物季節観測が行われた。ツバメの初認日は平均して「4月11日」だった。平年値から比較すると今年は早い。厳冬だったが、生物季節は間違いなく春に向かって進んでいる。

岸辺のヤナギも芽吹いてあおさを増した。そこに、まだ冬鳥のジョウビタキやツグミ、マガモたちがいる。冬鳥から夏鳥へと野の鳥の主役が交代する時期がきた。

きょう(3月31日)は南風が吹き込んで気温が上昇するらしい。すると、ソメイヨシノも、ハクモクレンも一気に開花するのではないか。いやいや、「ないか」ではなくそうなってほしい。

2010年3月30日火曜日

在庫なし


この冬の天気にはまいった。寒暖がめまぐるしく変わる。きょうの気象情報も、いわきで最高気温8度。間もなく4月だというのに、これだ。ここまで雨・雪・曇りが多い年は、そうないのではないか。記憶はあてにならないが、温暖化が言われ始めてからは久しぶりの厳冬だった。

土曜日に夏井川渓谷の無量庵に泊まった。台所の湯沸かし器=真=は壊れたまま。着いてすぐ、牛小川の区の総会に出かけた。米をといでご飯をたくような時間はない。あったにしても台所に立つことはなかったろう。

2月初旬、水道管と湯沸かし器をつなぐ蛇腹風の管の継ぎ手が凍結・破損した。管工事業の友人に連絡したら、後日、社員が修繕に来た。合う部品がないので取り寄せることになった。

以後、連絡がない。ミニ同級会に、その友人の車で松島へ行った。道中、聞けば「部品の在庫がない、ということだった」。湯沸かし器を新しく取り付けるしかないのだという。「これからあったかくなるから、水でもいいべ」

〈こいつめ〉と思いながらも、この湯沸かし器は自分たちで買ったものではない、取引のある家電商から、前に湯沸かし器が凍結・破損したときに譲り受けたものだったことを思い出して、気持ちを鎮めた。

台所の仕事はしばらく水を使ってやるしかない。にしても、この寒気はこたえる。とっくに「余寒」が終わってもいい時期にきているのに、「余寒」とはいえない寒さが繰り返す。例年なら、もう咲き始めるアカヤシオの花が一輪も見えない。街へ下りて来たら、ハクモクレンの花が開きかけたままでこごえていた。

2010年3月29日月曜日

渓谷のカラス


夏井川渓谷(いわき市小川町)の牛小川にすむカラスは3羽らしい。どこでもそうだが、この時期、年度末の総会が行われる。牛小川でも先週末の27日夜に行われた。総会後の懇親会でカラスの話になった。牛小川のカラスは人間をバカにしているという。

牛小川でなくてもカラスは人間をバカにする。バカにする度合いが牛小川ではきつい、ということか。Kさんによる母親の体験、というよりKさんの目撃談を含めた話。

家の戸を開けて外に出たら、カラスが家の中に入り込んだ。そういうことがしょっちゅうあるらしい。それで、家のなかに変なものが落ちていたことがある。Kさんがさわってにおいをかいだら、くさい。カラスのフンだと了解するまで、母親と多少、論争があった。

カラスは人間の行動を電柱や鉄塔からじっくり見ている。Kさんの母親が戸を開けたまま家を出たら、中には人間がいないことを知っていて、家に入り込み、好き勝手なことをした。お茶菓子がなくなっていたこともある。群を離れた単独のサルか――。そう誤解したこともあるが、今は「犯人」は分かっている。カラスだ。

牛小川のカラスに名前をつけて呼ぶ人もいる。「太郎」「花子」レベルだが、住民にとってはよくも悪くも、生きている牛小川の構成員の一部には違いない。いや、カラスだけでなく、テン、イタチ、ノスリ……、鶏の敵もいっぱいいる。それらも同じ環境のなかで生きている――。

話を聞いた翌朝(3月28日)、カラスの声がした。Tさんの家の庭にある、刈り込まれた常緑樹の上にいた。写真を撮ってアップしたら、木の上に夏ミカンの皮などがあった。カラスが運んできたのだ=写真。遊ぶ、遊ぶ、遊ぶ。カラスはただの鳥ではない。あらためてそう思った。

2010年3月28日日曜日

歩かなくちゃ


今月は散歩をかなりさぼった。寒い。雨が降っている。朝も休み、夕方も休むという日が何回かあった。

すると、どうなったか。在宅ワークといえば聞こえはいいが、仕事場は茶の間だ。こたつに入ったままでパソコンとにらめっこ。背中が痛くなる。昼寝をする。まるで病院の個室にいるようなものだ。

エコノミークラス症候群になってもおかしくない。足の親指の付け根も時折、うずく。高血圧・高尿酸の薬を飲んでいる。朝晩、まじめに散歩していてようやく腹回りもおさまり、足の親指あたりのうずきも気にならずにいたのが、少し気になりだした。緩んだ気持ちにねじを巻かなくてはならない。

そんなときに思い浮かぶ人間が2人いる。若い彼と、年老いた彼と。どこのだれかは分からない。が、わが生活圏(車で動き回る範囲だから結構広い)にいて、見たときには絶えず歩いている。いや、絶えず歩いているから目に入るのだ。歩くことが目的そのものかのように。

堤防を、バイパスを、街中を、若い彼は歩く。夏の日も、冬の日も。年老いた彼もまた、堤防を、街中=写真=を、一年を通して歩き続けている。

先日、赤信号で車を止めたら、目の前を若い彼が横断した。この冬は会わなかった、いや見かけなかった。防寒・防花粉かどうか、見た目は重装備だ。それでもすぐ分かった。彼を意識して見続けるようになっていた証拠だろうか。

それに比べたら、わがウオーキングなどは生ぬるい。かといって、「森の生活」の著者がいうように、一日に何時間も歩かないと気が済まないようなタイプではない。飛び抜けたレベルのウオーカーがいることに、ただただ脱帽するしかないのだ。きょうも、彼らは歩かずにはいられないのだろう。

2010年3月27日土曜日

サマータイム


ヨーロッパでは、3月最終日曜日の28日午前1時からサマータイムに入る。10月最終日曜日まで時刻が1時間早くなるのだ。日本との時差(マイナス8時間)はそれでマイナス7時間になる。

去年、北欧を旅行したとき、デジカメが日本の時間を知るのに役立った。撮影時間は日本時間そのもの。サマータイムだから夕方の5時でも実際は4時、日本では真夜中の12時と分かるのだった。

それはさておき、俳人山口青邨(1892~1988年)は昭和初期、ノルウェーのオスロからベルゲンへ汽車の旅をした。次はその随筆の一部。

「この沿道も山岳地帯であって、とても景色がよい。松、樅、白樺の混林が多い。滝、川、湖水、はては峡江(フィヨルド)までが深く入って来て居る」

「午後7時18分、きちんとベルゲンに着く、感心した。(略)石を積み重ねて土台とした家、石を積んで壁とした家、――ベルゲン駅もそうだ、之等の石は絹雲母片岩とか、石墨片岩であって、大きく板状に石材がとれるのである」

後半の石の話はいかにも鉱山学者らしい観察だ。ベルゲン駅=写真=をそんな目で眺めたわけではないが、青邨の文章を読んで写真を見直した。なるほど灰黒っぽい石を積んでできた駅舎だ。

ついでながら、歌人の土岐善麿に「フィヨルド風景」という歌の連作がある。「断崖のいただき雪渓の突端から落ちる滝は高く飛沫(しぶき)となつて」「小さな教会堂をまんなかに七八軒の小屋が低く山かげの草地」などは、歌詠みでもない人間にも記憶の映像と重なってよく分かるようになった。

サマータイムから北欧旅行時のできごとを思い出し、ベルゲン駅について書かれた文章とフィヨルドの短歌を紹介してみた。

2010年3月26日金曜日

オオハクチョウ1羽残留


けが? 飛び立つ体力がない? それとも、つかの間の休息? オオハクチョウが1羽、平中神谷地内の夏井川に残留している。連休明けに堤防を車で通って分かった。きのう(3月25日)もいた=写真

平中神谷の上流、平中平窪で越冬していたハクチョウたちは、3月15日には1羽残らず北へ帰ったという。中神谷のハクチョウたちも連休をはさんで姿を消した。と思ったら、顔の赤っぽい1羽が残っていた。写真に撮ってアップすると、オオハクチョウだった。

改修工事が終わったばかりの護岸付近で移動したり、休んだりしながら、ひとりぽつねんと過ごしている。カルガモたちも少数が羽を休めている。とはいえ、一緒に行動するわけではない。じゃけんにするわけでもない。オオハクチョウはオオハクチョウ、カルガモはカルガモ。さっぱりした関係だ。

最初、顔と首に色が着いているので若鳥かと早合点したが、上くちばしの基部が成鳥であることを示す鮮やかな黄色だ。個体によっては頭や首が黄褐色を帯びた成鳥がいるという。それに違いあるまい。オオハクチョウがこのまま残留するとなると、いわきでは初めてのケースか。

翼を見た限りでは、折れているような様子はない。去年までいた残留コハクチョウの場合は、翼のけがの具合がはっきり見てとれた。けがでないとしたら……。ま、よけいな詮索はよして、しばらく見守るとしよう。いや、既に「白鳥おじさん」のMさんが見守っているはずだ。

2010年3月25日木曜日

松島や……


文化9(1810)年から文政元(1818)年までの6年2カ月、日向・佐土原の山伏、野田泉光院(1756~1835年)が全国を旅して回った。

石川英輔著『泉光院江戸旅日記』によれば、文化13(1814)年陰暦8月15日には、松島で中秋の名月を楽しんだ。前日には瑞巌寺を参詣している=写真(参道)。16日は朝から船で松島を一周し、昼過ぎ、塩釜に着いた。

満月の晩は、天気がよかった。「今夜の月を見ずば、回国の人間にあらずとて滞在す。昼のうちは名所一見に廻る。夜に入り月出ずれば、大島小島、月銘々に出ずる如く、絶景言葉もなし。一句、『松島や さて月今宵 月今宵』」

泉光院は俳諧上手でもあった。行く先々で托鉢をして回り、一宿一飯の世話になり、請われて句を贈ったり、祈祷をしてやったりした。

松島を訪れたあと、山寺を経由して出羽の上大塚村(現山形県東置賜郡川西町西大塚・大塚・東大塚)に入る。その地の俳諧指導者に豪農の高橋湖翠がいた。訪ねたが留守だった。「萩の戸を 叩けば空し 風の音」という句を書き残した。その後、会ったかどうかは分からない。

湖翠は初号。のちに古翠と改める。出羽の国出身で、磐城平の專称寺で修行した俳僧一具庵一具(1781~1853年)とは、同じ松窓乙二門。一具の先輩に当たる。二人は親しく交流した。

その一具に「松島や みな月もはや 下り闇」という句がある。「下り闇」がよく分からないが、「松島や ああ松島や……」を連想させる泉光院の句よりはよほどいい。

松島は「八百八島」のほかに、島の間から立ち昇る朝日と満月が売りらしい。その写真が、ホテルかどこかにかかっていた。今回は天気に恵まれなかったが、晴れて穏やかな日には、泉光院よろしく「絶景言葉もなし」という感慨を抱くのだろう。これぞという松島の名句がない(寡聞にして知らないだけだが)のは、やはり絶景すぎるからか。

2010年3月24日水曜日

デンマークのカモメ


久之浜の大久川河口でオオセグロカモメと思われる水鳥の写真を撮った。それに触発されて、デンマークのコペンハーゲンで水上遊覧中に見たカモメ=写真=を思い出し、図鑑とネットで調べた。

カモメはくちばしの斑点に特徴がある。コペンハーゲンのカモメは、くちばしが全体に白っぽく、下くちばしの斑点がやや黄色い部分と黒い部分に分かれていた。こんな色合いのカモメは、図鑑には載っていない。

いろいろ調べているうちに、このカモメは成鳥ではなく、成鳥になりかかっている個体ではないかと思った。

カモメの幼鳥は、くちばしが黒い。成長するにしたがって黒色が消え、ほぼ黄色に変化する。たとえば、セグロカモメ。オオセグロカモメもそうだが、成鳥はくちばしが黄色くなり、下くちばしに赤い斑点が現れる。成鳥になる前は、これが黒っぽい。

ということは、コペンハーゲンのカモメも、くちばしが黄色くなりかけたものの斑点はまだ赤くならずに黒色のまま――成鳥一歩手前の若鳥、とみることができる。

欧州に生息する大型のカモメはニシセグロカモメ、セグロカモメ、シロカモメなどだ。このカモメを見たのは9月下旬だったことから考えれば、デンマークで周年生息しているニシセグロカモメかもしれない。

ただし、セグロカモメであってもおかしくないし、翼が白すぎることから、セグロとシロカモメの雑種の可能性もないわけではない。要は断定できないということだ。が、私のレベルでは、断定できないところまであれこれ考えたのをよし、とすべきだろう。

2010年3月23日火曜日

車が砂だらけ


きのう(3月22日)、松島が黄砂にかすんでいる話を書いた。同級会場のホテルへ向かう途中、夕日が沈みかけた阿武隈の山並みも黄砂にかすんでいた=写真

遠景として見ている分にはよかったが、黄砂は足元にも降り注いでいた。ホテルで合流した仲間の車が汚れていた。乗っているのはプリウスだ。プリウスに乗るような人間でも車の汚れには鈍感なのか――それはしかし、誤解だった。黄砂だった。同級会から帰宅して分かった。

露天の庭に置いてある車が、屋根と言わず、窓と言わず、砂でまだら模様に汚れていた。黄砂が雨と一緒に降り注いだのだ。きのう、用事があって出かけようという段になって気づいた。

しょっちゅう洗車をするような人間ではない。よほど汚れが目立ったときだけ、水で車を洗う。そうしなくてはならないほどの汚れ方だ。が、車を洗っている暇はない。見た目は悪いが、そのまま出かけた。なんとも気持ちが落ち着かない。帰って、黄砂を洗い落とした。

夕方、スーパーへ買い物に行ったついでに、止まっている車の汚れをチェックした。駐車場から歩いて戻る、それだけの距離の間に、黄砂をかぶってまだら模様になっていた車は1台しかなかった。みんなせっせと汚れを洗い流したのだろう。

黄砂はとにかく目立つ。愛車精神の薄い人間でも砂だらけの車をそのまま走らせるのは恥ずかしい。外聞が気になる――腰が重いとか軽いとか言っていられない事態だった。

2010年3月22日月曜日

黄砂にかすむ松島


おととい(3月20日)からきのうにかけて、全国的に天気が荒れた。

土曜日。福島県の浜通りは晴れだった。男4人、いわきで合流し、青空の下を小同級会のために車で松島へ北上した。国道6号を利用した。宮城県の山元インターチェンジから、部分開通をしている常磐道に入り、仙台東部道路~三陸道を経由して松島のホテルに向かった。

山あいに夕日がしずみかけるころ、阿武隈川を渡った。遠景がなんとなくかすんでいる。「春霞」だ。松島も夕暮れだったせいか、うすぼんやりしていた。

大展望風呂につかって「八百八島」の一部をながめた。「静かな内湾」という点ではノルウェーのフィヨルドと同じだが、スケールの点でいえば極めて日本的、箱庭的だ。

日曜日。早朝6時には目が覚めた。曇っていた。それ以上に、島々がかすんでいた=真。黄砂だった。春の嵐が中国大陸から運んで来たのだろう。

雨は降っていなかったが、風が時折、強く吹いた。ホテルを出たあと、福浦橋を渡ろうとしたら、「強風のため通行禁止になりました」。大きな遊覧船は運行されていた。が、乗るのをやめて五大堂を見物した。瑞巌寺も、参道を巡るだけにした。

昼過ぎ、帰途に就く。いわき組以外の一人は仙台空港から西へ飛んだ。強風で列車が運休した。地元の幹事が空港まで送って行った。いわき組は東北道~磐越道を利用した。雲行きが怪しい。雨が降って、やんで、照って、また降って、やむ。めまぐるしく天気が変わった。

いわき三和インターチェンジを過ぎたあたりから青空になった。路面も乾いている。聞けば、いわきでは朝方、雨がちょっと降ったくらいだが、風は強かった。天気に振り回された同級会だった。

2010年3月21日日曜日

河川改修終わる


いわき市平中神谷地内の夏井川左岸で行われていた護岸工事が終わった=写真。対岸は梅の名所で知られる專称寺の平山崎地区。梅の花が満開だ。本堂へ至る斜面が白く点描されている。岸辺のヤナギも芽吹いてきた。

山崎の地名のとおり、專称寺のある山はぐっと川の方にせり出している。そのため、右から左へ向きを変えた夏井川は、次に中神谷で大きく右へ蛇行する。その旋回部が大水でえぐられた。

工事は昨年7月に始まった。土砂を運搬するダンプカーが堤防の上をひっきりなしに行き来した。対岸でも堆積した土砂を除去して河川を拡幅する工事が行われた。こちらは一足早く作業が終わった。

工事が終わってみれば、護岸はゆるやかな曲線を描き、水もそれに合わせてスムーズに流れていく、といった安心感がある。あとはむき出しになった高水敷を草が覆えば、多少は殺風景な雰囲気も改善される、というものだ。

護岸が再構築された場所は、ハクチョウが越冬地に選んだ真ん前だ。飛来当初は落ち着かなかったハクチョウたちだったが、次第に工事にも慣れ、後半には重機がうなっていても平気になった。ピーク時には、200羽は越えていただろう。今は50羽ほどに減った。北帰行が続いている。中神谷地内から姿を消すのも時間の問題だ。

残留するハクチョウはいないだろうな――。無事の帰還を祈りながらも、いなくなると、しばらくは水辺の景観がひんやりしたものに感じられる。一年を通して観察してきた「左助」「左吉」「左七」の姿が消えた(たぶん天敵にやられた)あとだけに、よけい喪失感がつのるかもしれない。が、それもすぐ慣れる。今までがそうだったように。

2010年3月20日土曜日

松島へ


去年の「秋分の日」には北欧にいた。今年の「春分の日」には松島にいる。大荒れの天気予報だが、松島の旅館で小さな同級会を開くことになり、北欧へ出かけた6人がそっくり出席する。半年ぶりの再会だ。

去年9月の後半は、19日(土)、20日(日)、21日(月=敬老の日)、22日(火=国民の休日)、23日(水=秋分の日)と休みが並んだ。この5連休を利用して、スウェーデンに住む同級生を訪ね、ノルウェーのフィヨルドなどを見て回った。スウェーデンは記録的な晴天が続いていた=写真。心に残る旅だった。

以来、この欄で再三、北欧での体験を書いてきた。向こうで見聞したものを確かめるために、図書館から本を借りてきて読む。「見聞」プラス「読」、「見聞録」ではなく「見聞読」を今も続けている。

ただし、新聞はほとんど「読」の対象にならない。この半年間で記憶に残った記事は、東京の五輪開催都市落選(10月・コペンハーゲン)、地球温暖化をめぐる国連のコペンハーゲン会議(12月)、バルト海凍結(3月)くらい。見事に北欧の情報は新聞から欠落している。

先のバンクーバー五輪では、日本だけでなく北欧勢の成績も気になった。金メダル獲得数では、ノルウェーがカナダ、ドイツに続いて、米国と同じ9個の3位、スウェーデンは中国と同じ5個だった。さすがに冬季五輪となれば北欧勢は強い。それだけ新聞にも北欧勢の記事が増えたが、今はまた静かな紙面に戻った。

そういうニュースへの興味は脇において、今は北欧を訪れた日本人がどんな記録を残したか、に興味がある。科学者、俳人、歌人、作家……。彼らが見聞きし、感じ、考えたエッセーや短歌作品などを通して、自分なりに北欧理解を深めたい――そう思っている。フィヨルドと松島を比較してみるのも面白いか。

2010年3月19日金曜日

磯貝弥の墓


山村暮鳥は大正元(1912)年9月、日本聖公会平講義所の伝道師として平町にやって来た。磐城平時代は同7年1月、水戸へ転任するまで5年3カ月に及ぶ。この間に結婚をし、詩集『三人の処女』『聖三稜玻璃』、随筆集『小さき穀倉より』を出版した。文芸雑誌「風景」も出した。文学的には暮鳥が最も高揚していた時期に当たる。

「風景」に参加した地元の文学青年に磯貝弥(わたる)がいる。大正3年5月1日発行の創刊号から作品を寄せている。目次に名前はないが、〈宝玉集〉中「その九」に登場する。作品は「『泣けなけ、たんと泣け、もつと泣け』酒は山吹いろに澄みけり」。玉石でいえば石。当時、18歳くらいではしようがあるまい。

6月号(推定)には「小曲」、8月号には「五月」を、最後の11月号には「夕空に」と題する次の詩を寄稿した。全体に感傷性の強い小品だが、最終行に個性の片鱗が感じられる。

夕空に
えんとつ、
煙かすかに
かなしみ極まり
なみだ燦爛、
身に沁みつ、
かしこに秋ぞ甦る。

磯貝弥は大正8(1919)年8月初旬、肺結核のために夭折する。訃報に接した暮鳥は深く悲しむ。暮鳥は弥を最も期待していたのだった。

去年の春分の日、カミサンの実家の墓参りに出かけたら、ある寺で知人とばったり会った。「磯貝弥は大叔父に当たる」という女性で、弥の話をすると墓を教えてくれた。法名は「乗雲院諦道静観清居士」。没年月日は「大正八年旧七月十日」、享年は「二十五才」とあった=写真

初めて磯貝弥を調べる手がかりを得られた思いがしたが、資料(遺品)は「病気が病気だったから、弥の母親が全部燃やしてしまった」という。大正8年の旧7月10日は、太陽暦では8月5日。墓誌名をアップした写真に触発されて検索したら、その日が分かった。享年も数えに違いない。満24歳なら、生まれは明治28(1895)年ということになる。

2010年3月18日木曜日

杉の木伐採


夏井川渓谷で1カ所、道沿いに植わってある杉の木の伐採が行われている=写真。平地の平から行くと、JR磐越東線・磐城街道高崎踏切の先の地獄坂を越え、ロックシェッドを過ぎて、間もなくS字カーブにさしかかる、というあたり。道路は冬も夏も、秋も春も杉並木に日光が遮られてうす暗い。

夏井川渓谷には、谷側に何カ所か杉の植えられているところがある。籠場の滝のすぐ上流は、杉の木が伐採されて細長い駐車場に変わった。上流の大滝踏切手前のカーブにある杉の木も伐採されて見上げる空の領域が広がった。さらに上流、小野町との市境近くでも杉の木が伐採されたところがある。

一ドライバーの感覚でいうと、急に現れる杉林は視界を狭める。雪が降ったあとはアイスバーンになりやすい。渓谷ではなおさら、心理的な不安と物理的な危険度が増す。その“マイナス要因”が部分的に減るのだから、杉の木の伐採には大賛成だ。

本来、天然林だけの渓谷に人工林が点在している。民有地だから、どう利用しようと第三者は文句を言えない。が、景観面からは解せないものがある。

その人工林が、夏井川渓谷に限って言えば減る方向にある。減った分、渓谷らしい景観が戻ってくる。空が広くなる。明るくなる。気分が晴れやかになる。

そうなると、あそことあそこの杉林も――と調子に乗って指摘したくなるが、それはやめよう。冬は木々が葉を落として、道路にまで日光が注いでいる、それが夏井川渓谷の本来の姿だ。

2010年3月17日水曜日

マンサクの花


夏井川渓谷の牛小川でも畑仕事が始まった。いわき市の平地では、ジャガイモ(種芋)の植え付けがピークのころもしれない。種芋は、今年は植えない。でも、春野菜の種まきが待っている。おととい(3月15日)、渓谷の無量庵へ出かけてうねづくりをした。

森も巡った。マンサクが咲いていた=写真。シジュウカラが「ツツピー、ツツピー」とさえずりながら頭上の枝を飛び交っていた。春が渓谷にやってきた。野梅は満開。牛小川の手前、江田ではヤブツバキも咲き誇っていた。

雨模様の天気だ。パラパラ降って来る前に作業を終えて帰宅した。雨は夜になって降り出した。風も強くなった。翌朝、テレビをつけると、隣の学区でコンビニ強盗事件が発生したという。歩いて行くにはちょっと遠いが、車のガソリン入れ、スーパーや魚屋、元気菜野菜市場への往復の際、店の前を通る。旧国道の交差点の一角にある。古くからの住宅地だ。

真夜中、そう背は高くない男がコンビニに現れ、包丁様のものを突き出して現金4万円を奪い、自転車で逃げた。

事件から半日後のきのう午後、警備会社の社員が家にやって来た。下の息子の同級生だった。注意喚起の訪問らしかった。

3歳の孫は、この警備会社のCMやミニカーが大好きだ。「イチ、ニ、サン……」とくると会社名を口にする。ちょうど孫が父親と遊びに来ていた。「イチ、ニ、サン……」の人だよと教えるが、人見知りをして黙ったままだ。

それはさておき、コンビニ強盗の犯人は若いのか、年を取っているのか――テレビも、新聞も伝えない。今朝の新聞に「顔を布のようなもので覆い隠していた」とあった。推定できなかったのだろう。

2010年3月16日火曜日

震度4


3月13日午後9時46分、14日午後5時8分。福島県沖を震源とする地震が起きた。いわきではどちらも震度4を記録した。

土曜夜の地震は、小学生の“孫娘”2人と母親が遊びに来て帰ったあとだった。グラッときたのは分かったが、酔っていたので、目が覚めたら忘れていた。新聞を読んでそうだった、と思い出した。揺れの強烈さがよみがえった。

2回目の震度4は、いつも行く魚屋さんの駐車場で知った。ラジオ放送を聞きながら車を止めたら、急にラジオが「緊急地震速報」を告げた。来るな。身構えて車の外へ出た。歩き始めたら、電線が揺れ出した。

一、二、三、四、……。車から出て、10歩ほど進んだと思う。多少、足元がゆらゆらする感覚はあった。そのあと、一気に電線が揺れた。「緊急地震速報」がなければ、電線に目がいったかどうかは分からない。

魚屋さんに行くと、若旦那とお客のおばさんが目を丸くして言った。「揺れましたね」「緊急地震速報が流れたから分かった」。とはいっても、歩いている人間は揺れの凄さを実感できない。自分がめまいしているのか。そう感じるくらいがオチだろう。

刺し身を買ってわが家に帰ると、カミサンが「棚からわらじが落っこちてきた」と言う=写真。重いものでなくてよかった。

2010年3月15日月曜日

童謡館の菜の花


野口雨情記念湯本温泉童謡館=写真=で月一回、主に童謡詩人についておしゃべりしてきた。そのことを3月9日に書いた。先週の13日、「暮鳥ゆかりの人々・下」を最後に、ひとまず区切りをつけた。

初代館長の故里見庫男さんに「毎月一回やるように」と宿題を与えられた。連続15回、都合17回。そろそろ種切れだ。一休みしないことにはメッキがはげる。なにしろ、童謡館がオープンするまでは、童謡はさわったことも、かじったこともない未知の世界だった。

最初、「金子みすゞをやってほしい、あとは自由」という指示があった。みすゞについては断片的な知識しかない。あわてて調べ始めた。調べてゆくうちに、水戸で生まれ、平で育った島田忠夫が金子みすゞと双璧をなす新進童謡詩人であることを知った。

「全国区」の童謡詩人であっても、どこかでいわきの人間とかかわっていないか、いわきとゆかりのある人間とつながっていないか――そういうネットワークの観点から、みすゞのほかに、みすゞの師匠の西條八十、八十の弟子のサトウハチロー、あるいは工藤直子、竹久夢二、そして雨情、暮鳥ゆかりの人々を調べては報告してきた。

西條八十についてしゃべったのは、里見さんが倒れた翌々日、つまり去年の3月28日。童謡館の前に菜の花のプランターがあって、ミツバチが花蜜を吸うために飛び交っていた。それが今も強い印象となって残っている。

「菜の花と矢車草の花が好き」――いわき市三和町の永山シゲヨさんが、雑誌「うえいぶ」42号で里見さんとの会話を書き留めている。

一年後の13日、やはり童謡館の前には菜の花のプランターがあった。花にはミツバチの代わりに、テントウムシが止まっていた。春がまためぐってきたのである。

2010年3月14日日曜日

久之浜のカモメ


いわき市の北端、久之浜は漁業と農林業の町。大久川が太平洋に注ぐあたり、右岸は平地に、左岸は崖に住家が密集している。河口部に両地区をつなぐ橋が架かっている。崖の陰に漁港がある。しかし、私のようなよそ者は用事でもない限りこの橋を渡ることはない。

初日の出の名所・波立海岸を久之浜の「玄関口」とすれば、住家が密集しているあたりの海岸は「勝手口」だ。「玄関口」から眺めると、南から北へとゆるやかに海岸が湾曲し、突き出た崖を背景にして住家と溶け合っている。

その逆、橋を渡ってすぐの崖の中腹から海岸を眺めた。用事があるカミサンを送り届けてヒマができたのだ。眼下には砂で埋まり、細々と太平洋に注ぐ大久川がある。波立へと南に伸びる海岸はコンクリートで何段にも守られている。やや離れた沖には波消しブロックが伸びている。高潮対策の結果、そうした人工的な景観が形成された。

河口の砂浜にカモメたちが羽を休めていた。大型のカモメだ。用事が済んで帰るために橋を渡ろうとしたら、1羽が欄干に止まって盛んに鳴いている=写真。至近距離から写真に撮った。

黒っぽい背中、黄色いくちばしに赤い斑点、桃色の脚。図鑑に当たったら、オオセグロカモメらしかった。頭が白くなっている。早くも夏羽に換わったのだろう。

「いわき市の鳥」は「かもめ」。カモメの仲間には何種類かあり、カモメだけに限定するわけにはいかないため、一般名としての平仮名「かもめ」にした。戸澤章著『いわきの鳥』の観察個体数からいうと、いわきで一番多いカモメの仲間はウミネコ。次いで、セグロカモメ、オオセグロカモメ、ユリカモメ、カモメの順となる。

海岸部から遠く離れた平の旧国道沿いに住む人間には、ヒトのそばにカモメのいる現実がちょっとイメージしにくい。久之浜の沿岸は漁業の町らしくカモメが当たり前の土地柄なのだろう。その延長で、去年秋、デンマークのコペンハーゲンで見たカモメが何という名前なのか、急に気になりだした。

2010年3月13日土曜日

クスノキ剪定


わが家の近所にカミサンの伯父の家がある。その庭にホオノキの苗木を植えたら、クスノキの種が土に含まれていたらしい。いつの間にか、ホオノキを押しのけて成長した。カミサンが近所の造園業Kさんに頼んで剪定してもらった=写真。二度目だ。

3年半前だったか、強烈な低気圧にもまれてわが家の庭と家の前の針葉樹、計5本が傾いた。そのあと再び「あらし」が襲った。ほうっておけなくなったので、Kさんに頼んで伐採した。ついでに庭のカキの木と、伯父の家のクスノキを剪定した。

さすがはプロ、今度もあっという間に“散髪”が終わった。若いクスノキである。風通しと、あとで葉が茂って見栄えがよくなるように、ちゃんと計算して枝葉をすいたという。うらやましいものだ。刈り込まれても、刈り込まれても、次から次に“髪の毛”が生えてくる。

ホオノキは、すっかりクスノキに光を遮られてしまった。当然、成長が遅い。いずれ枯れてしまうのだろうか。結果的にそうなったとしてもしかたがない。ただ、クスノキを成長するままにしてはおけない。見上げるような大木になって、家まで日陰になるようでは困る。

高く大きく、ではなく、低く太く――。木をいじめすぎるのはよくない、とは承知しつつも、庭木である以上は庭と家とのバランスを図るしかない。何年かに一度はKさんに刈り込んでもらう、ということになる。

2010年3月12日金曜日

東京灰燼記


大曲駒村(おおまがりくそん=1882~1943年)の『東京灰燼記――関東大震災』(中公文庫)=写真=を読んでいるさなかに、チリ大地震が起きた。古今と東西の違いはあっても、大災害に襲われた人々の悲しみや苦しみ、怒りや無念さに変わりはあるまい。チリ大地震、あるいは先のハイチ地震と関東大震災を重ね合わせながら『東京灰燼記』を読み終えた。

『東京灰燼記』は、駒村が見聞した惨状の記録と新聞記事などの資料からなっている。震災翌月の10月には早くも仙台の印刷会社から刊行された。「死せる都の傍より、生ける田園の諸君へ」震災の全貌を伝えようとした真情の書でもある。

この本を手に取ったのは、しかし単に駒村の文章を読んでみたかったからにすぎない。駒村は福島県浜通りの小高町(現南相馬市)に生まれた。俳人にして銀行マン、のちに浮世絵と川柳研究で名をなす。小高町時代、この欄でも触れたことのある憲法学者鈴木安蔵の、父(俳人にして銀行マン)や俳人の豊田君仙子と交流があった。

鈴木安蔵と、山村暮鳥のお隣さん(新田目家)とは深い関係があった。「暮鳥とお隣さん」の縁で豊田君仙子、大曲駒村まで石が転がって行き、豊田君仙子については、お孫さんが開いているスナックに行ったこともあって、その顛末をこの欄で書いた。そのとき、駒村にも少し触れた。

『東京灰燼記』に浜通りから見舞いに駆けつけた人間のことが書いてある。

「九月四日、即ち大震第四日目の朝、夜警の疲れで床の中に倒れていると、ドヤドヤと福島県の田舎から見舞の人が遣って来た。相馬の旧友たち六人である。(略)六人が六人とも、大きな荷物を重そうに背負っていた。中には白米五升は勿論のこと、種々の罐詰、味噌、松魚節(かつおぶし)等が這入っているという」

「午後から新宿を訪なうこととした。(略)牛込まで来る途中、平からやって来た遠縁の者二人に逢う。いずれも大きな布袋を背負うてウンウン唸って歩いていた。この体で川口から四里半も歩いて来たので、疲れ切ったと言う」

首都圏に住む親類の窮状を知り、食糧を持って各地から上京する人たちがいた。相馬と平の知人・縁者の例から、そんな人が群をなしていたことが分かる。

話変わって、いわき地方史研究会は昭和47年、『大曲駒村遺稿 福島県日本派俳壇史』を刊行している。その序で豊田君仙子が振り返っている。「私は大正二年に福島師範を出て郷里に帰り、半谷絹村と共に駒村等の浮舟会の句会に出た」。駒村はそのあと、勤めていた小高銀行を辞めて別の銀行へ移り、やがて上京して大震災に遭遇する。

駒村は生前、よく仲間の句集出版などに尽力した。それを知ったいわきの俳諧研究者、故雫石太郎さんが駒村顕彰の志を引き継ぎ、公刊の思いを温めていたところ、いわき地方史研究会の事業として出版が実現した。図書館には「読まれるのを待っている本」がある。私には、この『福島県日本派俳壇史』がその一冊となった。

2010年3月11日木曜日

確定申告終了


確定申告を済ませた。三度目になる。収入が収入だから、書き込みは簡単なものだ。去年の控えを参考にして、自分で計算できる部分は記入して申告書を持って行った。

特定非営利法人「シャプラニール=市民による海外協力の会」から前に通知が来ていた。2009年9月から、国税庁の「認定特定非営利活動法人」に認定され、寄付金などの税の優遇措置(寄付金控除)の対象になった。その領収書だ。月1,000円を通帳から自動的に振り込むマンスリーサポーターだから、領収書の金額は9~12月までの4,000円でしかない。

申告会場でそれを見せると、「寄付金の控除は5,000円からです」と一蹴された。それから少し問答があって、合間におしゃべりをした。何のNPOか、係員が書類を読む。「バングラデシュの貧しい人たちのために活動している団体」と口をはさむと、「バングラデシュへ行って来ましたよ、あそこは“サイキョウ”の国ですね」。

サイキョウ? 「衛生が最悪ってこと?」「いえ、道路が」。サイキョウは「最強」でも、「最凶」の反語か。「行って来るといいですよ」「それはどうも」。なんとなく気分がほぐれていくなかで申告手続きが終わり、帰宅したら、彼から電話がかかってきた。源泉徴収票を受け取るのを忘れたという。

それを見せて、計算をして、OKとなった。その票が申告書に必要なのだが、ついつい話し込んでいうるうちに申告書以外の資料をすべて返してよこした。「郵送でもいいですから」と恐縮する。「いやいや、明日持って来ますよ」。翌日、会場を訪ねると、「おしゃべりしてしまってすみませんでした」。

同じ日、シャプラニールから「フェアトレード通販カタログ 2010年春夏」号ほかが届いた=写真。彼に進呈すればよかったかな。

2010年3月10日水曜日

月桂樹のひこばえ


カミサンの実家の庭に月桂樹が植えてあった。ざっと40年前、味噌蔵と物置の北側に種をまいたら発芽したという。最初は日陰の身だったが、味噌蔵を移動すると光が差してぐんぐん成長した。幹の直径が根元で50センチほどにまでなった。

3年ほど前、倉庫を建て替えた。そのとき、月桂樹が切り倒された。カミサンの頼みで根っこが掘り起こされた。根っこは臼になるくらいに大きい。それを夏井川渓谷の無量庵に移植した。枯れるかもしれない。が、月桂樹の生命力にかけたい。なにしろフランスにいる友達との思い出が詰まった木だ。あきらめきれないのだ。

こちらは、根づくはずがないと思っているから、やる気のなさが顔に出る。重い根っこを車に載せる段からぶつぶつ言い、無量庵に着いてからも「無駄なことを」と口の中でつぶやき続けた。日当たりのいい庭に穴を掘り、二人がかりでやっと根っこを据え、土をかぶせて放置した。

すると翌年、根元から枝が伸び、若葉が芽吹いてきた。ひこばえ(徒長枝)だ。芽吹いて、芽吹いて枝の数が増え、切り株を取り囲むようになった。このままでは成長のエネルギーが分散される。育ちのいい枝2本を残してあとは刈り取った=写真

クスノキ科の常緑樹だ。葉をいっぱいまとうようになった。葉をもむといい香りがする。葉を乾燥させたものは、フランス語で「ローリエ」、英語で「ローレル」。香辛料=料理用ハーブとして広く用いられているという。

移植時の「ぶつくさ」は棚に上げて、強い生命力でよみがえりつつある「食材」の成長が楽しみになった。

2010年3月9日火曜日

雨情生家


野口雨情記念湯本温泉童謡館での、月一回のおしゃべりも今月で終わる。研究者でもない身で、あれこれ童謡詩人のことを調べて報告する。「たかが童謡」が「されど童謡」になり、「童謡」に生涯をかけた人たちの存在を知って、しばしば厳粛な気持ちになったものだ。

磐城平に5年あまり住んだ詩人山村暮鳥については、17歳のころから作品に親しんできた。野口雨情については、常磐湯本温泉で暮らしたことがある、といってもほとんど関心がなかった。童謡館の開館準備段階で目録づくりを手伝ったのを機に、調べ始め、情に厚い人となりを知るにつけ、全集だけでなく関連する本も読み漁るようになった。

そうすると、同時代の暮鳥との交流度合いが気になる。二人は何度か会っている。『定本野口雨情 第六巻』によれば、雨情が最初に暮鳥に会ったのは、暮鳥の磐城平時代だ。同じころ、雨情は湯本温泉で雌伏のときを過ごしている。そして、最後に会ったのは大正10(1935)年秋、大洗ホテルに滞在中だった親友を訪ねたとき。

「暮鳥氏の最も尊いところは、すべての物を真直ぐに見ることの出来たことです。この点に於て、又その境遇に於て、石川啄木と、人としても芸術としても一致点の多かったことを思はれて、ゆかしくなります」

それ以前のつながりはないものか。検索をかけたら、文芸誌「劇と詩」の明治44(1911)年6月号に名前を連ねていることが分かった。いや、筑波書林のふるさと文庫、野口存弥著『父 野口雨情』にちゃんとそのことが載っている。

雨情は詩「相馬宿場」を、暮鳥は詩「虞美人草」を発表した。2人は直接会わずとも、「劇と詩」を通して名前は承知していたはずだ。

「劇と詩」に作品を発表していた西宮藤朝、白鳥省吾らは、のちに暮鳥が平で発行する文芸誌「風景」の寄稿者になる。中央の雑誌を介したつながりが、暮鳥を触媒にして磐城平の雑誌を彩りあるものにした。

雨情が人と人とをつなぐ労をいとわなかったように、暮鳥もまた中央と地方とをつなぐネットワーカーとしてはたらいた。

過日、野口雨情の生家を見ておこうと思い立って、北茨城市へ出かけた。敷地の一角に、雨情も毎日見て暮らしただろうと思われる大木があった=写真。シイかカシか、はたまたクスノキか。照葉樹には特にうといので、樹種は分からなかった。が、蓄積された野口家の時間を象徴するような古木ではあった。

2010年3月8日月曜日

「かもめ」100号


日本野鳥の会いわき支部の事務局長峠順治さんから、会報「かもめ」が送られてきた。フロントページに「祝100号」とある=写真。記念号だ。先日、「夏井川河口閉塞」をネットでみていて、このブログを発見したので――と、文章が添えられてあった。ありがたいことだ。

現職のころは社に届いた会報を愛読していた。会報から何回かコラムの材料も得た。それがきっかけで京都の大学に進学した若い会員とも知り合いになった。今は時折、支部のホームページを訪ねて情報を得るようにしている。

会報「かもめ」は1993年1月に創刊号が発行された。福島県支部いわき方部会からいわき支部として独立すると同時に、会員の情報誌として産声を上げた。年6回発行を重ねて17年が経過した。「継続は力なり」だ。

野鳥は翼を持った隣人。毎回、会報から隣人たちの様子を学んできた。そして、今度の100号の恵贈だ。会員の何人かを知っており、なつかしく文章を読んだ。

海岸にハマボウフウを復活させようと、この十数年、苗から採種し、種まきを続けている会員がいる。「北白土のハナショウブ園」の主、塩脩一さんだ。「祝100号」に寄稿した文章で知った。こういう無償の取り組みには頭が下がる。

2000年12月17日に、帰化種6種を含む246種の「いわき鳥類目録」が完成した。川俣浩文さんによれば、今年1月までに34種が追加され、280種となった。記録を裏付ける画像撮影も行われ、234種の記録に成功したという。

川俣さんとは年に1、2回、夏井川渓谷で顔を合わせる。ハチクマの撮影は成功したろうか。

彼の最も撮りたい鳥の一つはアカショウビンらしい。一度だけ、夏井川渓谷でアカショウビンの鳴き声を聞いた。川俣さんと話していて、幻聴ではなかったことを実感した。

ときには、そうして情報を提供できる“支部の隣人”でありたい、と思う。

2010年3月7日日曜日

猫の手


猫はしょっちゅう毛づくろいをする。えさを食べたあとはもちろん、庭から帰って来たあとや、2匹で寄り添っているときも……。

雌の「サクラ」は一日に何度も耳の後ろをかく。そのしぐさを見ていると、こちらがむずがゆくなってくる。雄の「レン」と「チャー」もやることは一緒だが、片足を高く上げて下腹部や付け根を舌でなめているときがある。大事な部分だから念入りなのは分かるが、少々ひわいに見えなくもない。

猫の毛づくろいには体を清潔に保つ、リラックスする、体温を調節するといった効用があるらしい。

ふだんは人間が夫婦二人だけの、静かな住環境。これも猫どもは気に入っている。こたつのなかで、カウチの上で丸まって寝ていることが多い。日だまりで丸くなるのは、人間同様、体内にビタミンDを合成する意味もあるという。

人間の子どもたちがやって来ると、これが一変する。「かわいいー」と声を張り上げながら猫に突進する。猫どもは一気にパニックになる。あっという間にどこかへ消える。

3月に入ったら、急にいろんな用事が押し寄せてくるようになった。書類記入、電話連絡、校正、アッシーくん。月並みな言い方だが「猫の手」を借りたい日がある。

その「猫の手」とくれば、「片足上げ」だ。今年の正月、こたつの反対側で「レン」が「片足上げ」をやっていた。テーブルの上に足が一本、ニョキッと突き出ている。爪まで見える。こういうときは、敵に対しては無防備状態なのだろう。シャッターチャンスなのですぐさまパチリとやった=写真

今思いついたが、猫の「片足上げ」はやがて「挙手」となり、商売繁盛の「招き猫」となったのではないか。

2010年3月6日土曜日

ウグイス初音


きのう(3月5日)は朝方、雨が上がったと思ったら、一気に青空が広がり、気温が上昇した。9時すぎ、灯油のヒーターを止め、窓と戸を開ける。夕方までそのままにしておいた。

陽気に誘われて庭へ出る。地面に目を凝らす。20年以上前、伐採木の下敷きになっていたカタクリを2株ほど掘りとって移植した。高さ2センチメートルほどの、赤い“こより”が地面からのぞいていた。カタクリの葉っぱだ。地温は確実に上がっている。

午後遅く、散歩に出た。前日まで羽織っていた防寒コートの代わりにトレーナーを着る。それでも、夏井川の堤防を歩いていると汗ばんできた。きょうは啓蟄だが、人間にはきのうが啓蟄だったのだろう。見たこともないカップルが歩いていた。顔なじみのおばさんも杖をついて歩いていた。

野焼きによって黒い地肌を見せている堤防の土手が、一部淡い緑に染まっていた。カンゾウが芽生えていた=写真。対岸から聞き覚えのあるさえずりが耳に届く。かぼそい声だ。「ホー」「ホーロー」「ホーケキョ」。ウグイスの初音である。この暑さだ、春機が発動しないはずがない。

家に戻って子どもに電話をした。用が済んだあとに、「間もなくいわきの上空を国際宇宙ステーションが通過する」という話になった。

2階のテラスに出て南西の空を見つめる。青空は既に墨を流したように薄暗い。電線に止まっていたジョウビタキの雌が、しばらくすると隣家の庭の方に姿を消した。そこがねぐらか。アブラコウモリが不規則に飛び回っている。ハクチョウが3羽、音もなく東から西へ飛んで行った。

6時1分。宇宙ステーションがいわきで見える時間になった。遠近の切り替えが容易でなくなった目には、ステーションの航跡がよく分からない。

ちょうど真上に来たとき、光の点が静かに北西へ飛んで行くのが目に入った。太陽光線を浴びているので、肉眼には光点に見えるのだ。流れ星よりはむろん遅いが、ジェット旅客機よりは断然速い。動きはやはり人工的というほかない。

いろいろあった「暑い春」の一日から一転して、きょうは「寒い春」に逆戻りしそうだという。ウグイスの気持ちもしぼんでしまう、というものだ。

2010年3月5日金曜日

岩の上の馬頭尊


夏井川渓谷(いわき市小川町)を縫って走るのは県道小野・四倉線。明治十年代の中ごろ、県令三島通庸によって開設されたという。「磐城街道」と呼ばれた。

浜通り歴史の道研究会編『道の文化財――福島県浜通り地方の道標』によれば、県道小野・四倉線は、古い時代にはなかった。江戸時代に上小川の本村から川前へ、小野新町へ行くとすれば、現国道399号沿いの横川から山を越えて夏井川渓谷の江田へ下り、川前へ行く――というのがルート(本道)だった。

平野部の片石田からその先、夏井川に沿う高台の高崎、さらに奥の地獄坂~江田の間には道があったのだろうか。あったにしても脇道だったようだ。

高崎の夏井川第三発電所入り口。道路をはさんで、木橋の「勇人橋」と「湯殿山」の道標が向かい合っている。『道の文化財――』が取り上げている県道小野・四倉線沿いの道標は、この「湯殿山」と「小野町夏井高屋敷道標」の二つ。

夏井川渓谷の牛小川集落入り口付近にある「馬頭尊」は漏れた。調査に費やす時間が少なかったのか。

もっとも、この道標は頭上より高い岩の上にコンクリートで安置されている。一升瓶の入った箱をギュッと圧縮して横に広げたような大きさだ。一般の人の目にはほとんど触れない。道路改修の際に、“神棚”にでもまつるような感覚で移設されたのだろう。

先日、渓谷にある無量庵から下流の籠場の滝付近まで歩いたら、この馬頭尊にミカンが供えられていた=写真。打ち捨てられているわけではない、気に留めている人がいる――。うれしい発見だった。

マチの人からみたら取るに足らない行為かもしれないが、地域の隅っこからみると、こうした心の作用が集落維持の基礎をなしているのだということが分かる。牛小川のだれかが供えたのだろう。道端にある石碑は物としてそこにあるのではない。人の心が注がれた道端の文化財だ。

2010年3月4日木曜日

豊田君仙子の句碑


1カ月前の節分の日に、田町(いわき市平の飲食街)で酒を飲んだ。現役のころと違って、今は年に2~3回しか出向かない。別の場所でアルコールを仕込んだあとの2次会だった。仲間の案内で初めてのスナックを訪れた。その顛末は「オニがさまよった夜」に書いた。

ママさんとおしゃべりしているうちに、豊田君仙子(1894~1972年)の話になった。君仙子は、いわきと同じ浜通りの北部、小高町(現在は南相馬市)の俳人だ。ママさんはその孫だという。

小高町からは、日本の近代思想・文学を語るうえで欠かせない重要な人物が輩出している。思想面では、憲法学者の鈴木安蔵、「農人日記」で知られる平田良衛。文学面では『東京灰燼記』を著した大曲駒村、そして豊田君仙子。この人たちは親が交流していたり、幼なじみだったりして、どこかでつながっている。作家の島尾敏雄もこれに加えていいだろう。

この一年以上、山村暮鳥や野口雨情を介して「いわきの大正ロマン・昭和モダン」を調べている。そこから枝分かれした興味・関心の一つに、平時代の暮鳥のお隣さんだった弁護士一家(新田目善次郎の家族)がいる。その家でボヤが発生した話を「暮鳥とお隣さん」に書いた。新田目家とつながる小高町の人間もその過程で知ったのだった。

善次郎の奥さんが鈴木安蔵の叔母だった。安蔵の父親は早くに亡くなる。で、善次郎の子どもたちと安蔵とは、平と小高に離れていてもきょうだいのようにして育ち、やがて平のいとこたち(三姉妹)は兄とともに左傾化する。ダンナさんたちがすごい。日本の左翼史に残る人物ばかりだ。

それはさておき、君仙子さんだ。平田良衛は自著の『農人日記』に〈豊田君仙子先生と俳句〉という一章をもうけた。「先生は俳句の達人であると同時に、酒盃をとってもまさに酒聖であり、詩聖であります。絶品の俳句がすらすらと生ずる。達人です。(略)先生は時たま私宅にもお見えになり酒をたのしみます。以下はかくして生まれた先生の絶品です。」

百鶏のひるねどきなり花りんご
豚の子のそぞろあるきや紫蘇の花

〈摩辰の平田家にて 君仙子〉の前書きがある2句が紹介されている。

いわきにも二つの句碑がある。久之浜・波立寺の「紫陽花(あじさい)や潮の満干のすぐ下に」。そして、川前町の夏井川支流・鹿又川渓谷の「滝ところどころ紅葉いそぎけり」=写真。旧いわき市観光協会発行のポシェットブックス3『いわき文学碑めぐり』によれば、君仙子はいわきにもよく俳句指導に訪れた。

きのう(3月3日)、夏井川渓谷の無量庵へ行ったついでに、川前の鹿又川渓谷まで足を伸ばし、君仙子の句碑をカメラに収めた。

2010年3月3日水曜日

桃の節句


きのう(3月2日)の写真の一部に人形が写っていた。きょうは、その人形たちの話。

「桃の節句」を前に、カミサンが床の間の掛け軸を一具庵一具の句幅に替えた。同時に、本人が持っている人形を飾った=写真。私はその方面にはうといから、〈ああ、飾ってあるなぁ〉と感じる程度。よく見もしない。

わが子どもは二人とも男。5月に兜(かぶと)を飾ることはあっても、雛人形を飾ったことはない。夫婦二人だけになって久しい。それでも、桃の節句には人形を飾る、端午の節句には兜を飾る――そういうことを欠かさない。

先日、近くに住む長男一家が来た。ヨメサンは宝塚ファンだが、床の間の人形たちにはちょっと身を引いた。

いたずら盛りの孫も近づかない。もっとも、孫はどこかの文化施設の遊戯コーナーで遊んでいるうちに、とびおりそこねてネンザした。歩けないので、はって遊んでいる。それで近づかないのではない。去年、カミサンが人形の一部を棚の上に飾ったときも反応は冷ややかだった。いや、攻撃的だった。なぜか。「かわいい」よりも「怖い」のだ。

よく見ると、洋服姿の青い目、和服を着た黒い目の人形だけでなく、大小さまざまな人形が15くらいある。リアルだ。

これでは、われらが寝静まった夜中に目をぱちくりやって動き出しかねない。「おもちゃのチャチャチャ」ではないが、人間が深い眠りに入ったころ、フランス人形も、日本人形も、ほかの人形もむっくり立ちあがって遊びを始めるのではないか。

チャチャチャだけではない、いわきだからジャンガラ踊りも――来月3歳になる孫が人形と向かい合って緊張するのは、彼女たちが今にも動き出そうとしているのを察知するからではないか。

2010年3月2日火曜日

一具の句幅


江戸時代は幕末に活躍した俳僧一具庵一具(1781~1853年)の句幅が床の間に掛けられた=写真。一具は今の山形県村山市で生まれ、いわき市平山崎の專称寺で長らく修行した。福島・大円寺の住職に就いたあと、江戸へ出て俳諧の宗匠になった。

前にも書いたが、句幅はいわき地域学會初代代表幹事の故里見庫男さんにいただいた。

一具の筆の通りに難しい字を記しても意味がない。私自身が分からないのだ。『一具全集』にある活字の句で代用する。

梅咲て海鼠腸(このわた)壺の名残哉(かな)

ナマコのはらわたの塩辛が「このわた」。それが切れかかるころに梅が咲く、つまり春がきざす。寒さの冬に光の春が入り込む――そんな感じをとらえた句だろうか。

2月は1月の延長のようだったが、3月は4月の先ぶれのような感じがする。年度の終わりというよりも、新しい年度への準備に追われる月といった方がいい。のんびりしていた反動だろう。

2月の天気は少しきつかった。何度も雪が降って冷え込んだ。それでも山野には光が注ぎ、大地をぬくめて、次の季節へとめぐる準備が始まった。よその家の庭にある梅は既に満開。吹きさらしの畑の一角にある野梅もそこかしこで咲き出した。

この空の長くはもたじ梅の花
日は雲を照らして寒き野梅哉
すき間なく咲て野梅に雨近し

めまぐるしく天気が変わる今の時期を表したような一具の梅の句である。

3月。気持ちを改めるうえでも、毎日、一具の句幅を眺めて黙読する。それを介して浄土にいる人と対話する。そんな気持ちでしばらく向かい合おうと思っている。

2010年3月1日月曜日

チリ地震


チリのノーベル賞詩人パブロ・ネルーダ(1904~1973年)の詩に「チーレの海」がある。17歳のときに気に入ってノートに書き写した。チリはスペイン語読みでは「チーレ」。次は、その一部。

〈おお、チーレの海よ、おお/突き立つかがり火のように高い水よ、/圧力よ、雷鳴よ、サフィアの爪よ、/おお、塩と獅子の地震よ!/流れよ、始原よ、遊星の/海岸よ、おまえのまぶたは、/大地の正午を開き、/星々の青さに挑む。〉

チリで大地震が発生した。新聞によれば、震源は首都サンティアゴの南西約325キロメートルの沿岸地区=写真。チリは地震国だ。〈突き立つかがり火のように高い水〉とは、津波のことか。今度読み返して、そんな感じにも受け取れた。〈塩と獅子の地震〉が〈突き立つかがり火のように高い水〉をもたらす。それが太平洋を渡って日本の沿岸にも押し寄せた。

チリ地震といえば、50年前の昭和35(1960年)5月の津波被害が思い起こされる。

チリからおよそ1万7,000キロメートル隔てた日本に、地震から約22時間後に第一波が到達した。そのあと、さらに高い津波が押し寄せた。東北地方を中心に被害が続出し、いわき市でも11世帯57人が被災し、2人が死亡したという。いわきでの最大波高は3メートル以上に達した。

きのう(2月28日)は、NHKテレビが津波関連の特報を続けた。朝、用事があって新舞子海岸へ出かけた。雨がみぞれに変わり、海の波は白く砕けて荒れていた。

いわきでも避難勧告・指示が出された。午後には常磐線が運休し、海岸の道路も部分的に通行止めとなった。

この50年間に日本列島沿岸の防災設備や、情報伝達システムは一段と整備された。津波監視網も格段の進歩を遂げた。人的被害を避けるための避難勧告や指示、交通規制は、「過剰反応」に当たるくらいがちょうどいい。今回の「人的被害なし」がそれを物語る。50年前の教訓がひとまずは生かされた。