2011年1月31日月曜日

在来作物を伝える意義


きのう(1月30日)の「昔野菜フェスティバル」の続き。山形大農学部准教授で、山形在来作物研究会長の江頭(えがしら)宏昌さんの講演「在来作物を伝える意義」=写真=を興味深く拝聴した。

なぜ在来作物がつくられてきたかを、江頭さんは四つに分けて解説した。

第一には、食料確保(特に冬季)のため。江戸時代だけでも寛永・享保・宝暦・天明・天保期に大きな飢饉が起きている。飢饉の年には穀物にカブをまぜて食べる――カブは準主食になりうる。山形県全域では20種近い在来カブがあるという。

第二は、地域を元気にするため。サクランボと言えば「佐藤錦」だが、これには100年の歴史がある。初めは人気がなかった。しかし、「こんなにかわいくてきれいなサクランボだ、人気が出ないはずがない」と生産者と苗木商ががんばってきた結果、人気サクランボになった。

第三は、楽しみの共有のため。例えば、月遅れ盆に帰って来る孫のためにつくる、といった具合。第四は、家宝・地域の宝として。よその地域から来た人間に種をもらった、あるいはよそから種を持ってきた――それを代々採種し、大切に保存してきた。

さてそこで、在来作物を伝える意義だが、江頭さんは「在来作物にはモノとしての側面と、情報媒体としての側面がある」という。「在来作物が伝えてきた情報に目を向けるべき。その価値は計り知れない」とも。

大きくは三つ。①つながり=時間・空間を越えて人・社会・産業などのつながりを再生する/地域の知的財産を次世代に伝えるメディアとなる/産業・教育・地域を活性化する②多様性=地域潜在力(地域の作物とその文化の多様性)の維持と継承が可能③地域の個性=地域らしさ(風土・歴史・文化・伝統知など)を見つける材料になる/地域の個性のシンボル(提示手段)になる。

欧米諸国および日本などは、工業化と都市化を実現することによって近代化をなしとげた。そして今、次の展開として「脱工業化」と「脱都市化」が言われている。脱工業化は「情報化社会」となり、脱都市化としては「森林化社会」が模索されるようになった。

未来学者アルビン・トフラーがいう「第三の波」、つまり「農業革命」「産業革命」の次の「情報革命」=知識(情報)経済社会の到来=だ。江頭さんはその流れのなかで在来作物を「地域固有の知的財産」と位置づける。それを次世代へ継承しよう、というのが結論だった。

2011年1月30日日曜日

昔野菜フェスティバル


「いわき昔野菜フェスティバル」が1月28日、いわきニュータウンにある中央台公民館で開かれた。いわき市農業振興課が、いわきリエゾンオフィス企業組合に委託して主催した。

プログラムは、①午前10~11時=これぞ故郷、伝統の技!(手づくりこんにゃくと手打ちそばの実演)②午前11時~午後0時半=在来作物の魅力に迫る(いわきに息づく在来作物の大試食会)③午後1時半~3時=講演「在来作物を伝える意義、地域らしさとは何か…」(講師:江頭宏昌山形大准教授)――の三つ。

昔野菜(在来作物)の「三春ネギ」を栽培しているために、昨夏、市の広報祇とリエゾンオフィス調査員のインタビューを受けた。その縁でフェスティバルをのぞいた。狙いは大試食会と講演。講演については別の機会に報告する。

大試食会というだけあって、14品の食べ物が用意された。いわきの昔野菜とメニューは次の通り。

オカボゴウ(混ぜおこわ)/白ジュウネン(ぼたもち)/コンニャクイモ(白あえ)/ムスメキタカ(小豆=餡おはぎ)/カラシナ(からしな漬け)/白インゲン(ようかん)/トウナ(じゅうねんあえ)/昔キュウリ(どぶ漬け)/キビ(きびだんご)/ノリマメ(豆餅)/コンニャク(きんぴら)/ソバ(手打ちそば)/千住一本ネギ合柄(焼きねぎ)/自然生(コンニャクイモ=手づくりこんにゃく)。

関係者用に部屋が用意されていて、そこで「ぼたもち」や「どぶ漬け」「焼きねぎ」など9品ほどを試食した=写真

「千住一本ネギ合柄」の「焼きねぎ」は、わがネギ栽培の師匠・塩脩一さん(平)が栽培している昔ながらの「いわきネギ」(現在、市場に流通している「いわきネギ」とは別物)。食塩が振ってある。やわらかくて甘い。春には酢味噌にするとうまいのだとか。この味を味蕾に記憶させただけでもフェスティバルに行ったかいがあった。

「トウナ」の「じゅうねんあえ」は初めて食べた。「昔キュウリ」の「どぶ漬け」はやわらかい。「ノリマメ」の「豆餅」はうまかった。

とにかく盛況だった。大試食会終了時間前から講演会場は人で埋まり、急きょ、1時すぎには主催者の計らいで生産者が料理法や栽培史などを話した。時間をつなぐ意味でもこれはよかった。

2011年1月29日土曜日

唱歌


大正時代の「童謡」運動は明治政府の「唱歌」教育に対抗して生まれた。

「唱歌」は「富国強兵」政策を補完する。「あおげば尊し」がそうだ。「身を立て、名をあげ」とあおる。経済人としての「富国」、軍人としての「強兵」を音楽の面から強要した、といえる。

その際――と、これは私の偏見だが、「富国」を担ったのは西日本の人間、「強兵」を強いられたのは東日本の人間だ。万葉集の<防人(さきもり)>以来、みちのくの人間が戦線に立つという構図は今も変わっていないのではないか。

「あおげば尊し」の原曲がアメリカにあった、という新聞記事を読んで、すぐ「唱歌」政策を推進した文部省の音楽取調掛・伊沢修二のことを思い浮かべた。記事にはなかったが、彼はアメリカ留学後、「唱歌」政策を推進する。彼が関係していないはずはない。いや、張本人ではないか。多少、「童謡」を調べてきた人間としてはそこに思いが至る。

「唱歌」は、つくり方がわりといい加減だった。子どもを感化するのにいい曲なら、原詩は意訳して「立身出世」ふうに変えてしまう。そんなことを平気でしたらしい。

♪夕空晴れて秋風吹く……の「故郷の空」がそうだ。原作者はスコットランドの国民的詩人、ロバート・バーンズ(1759~96年)。大和田建樹(1857~1917年)が適当に、きれいに意訳したが、原詩はエッチな歌だ。

一番ぴったりだと思うのが、なかにしれいさんが訳した、♪誰かさんと誰かさんがむぎばたけ チュッチュチュッチュしている いいじゃないか……。要は、ゆっくり歌えば「故郷の空」になり、陽気に歌えば「誰かさんと誰かさん」になる。「蛍の光」も、スコットランド民謡をバーンズが意訳したものがもとになっている、という説がある。

里見庫男さん(故人)に頼まれて、毎月、童謡詩人を調べては「野口雨情記念湯本温泉童謡館」でしゃべってきた。バーンズは、若い雨情が心酔した詩人のひとり。それで、北茨城市の歴史民俗資料館にある野口雨情記念館=写真=を訪ねたこともある。

まずは「唱歌」より「童謡」――そんな意識になるのは、雨情をはじめとする童謡詩人を調べているうちに、彼らが官の押しつけに反発して、ほんとうにこどもの必要とする歌をつくろう、音楽家もまたそれにこたえよう、という情熱が感じられたからだった。

「大正100年」のスパンで見ると、「唱歌」を超える歌をと始まった「童謡」運動は、その初期に大きなうねりとなって日本列島を襲った。今、孫にその歌をうたっている。

2011年1月28日金曜日

乾燥注意報


真冬の青空をバックにハクチョウが群飛する=写真。ハクチョウが越冬する夏井川沿いの住民には見慣れた光景だ。この青空のために、いわきでは冬も洗濯物を外に干すことができる。これは太平洋側の気象的特性の一つだが、マイナスに作用することもある。空気の乾燥だ。

福島県の浜通り全域に乾燥注意報が発令されている。町も、山野も乾いている。体も乾いている。足の裏と手のひらがそのセンサーだ。

半月前あたりから、かかとと手の指にカサカサ感を自覚するようになった。冬は空気が乾燥するうえに暖房器具を使う。ますます部屋の空気が乾燥する。こたつを使えば、足の裏がピンポイントでカサカサになる。「指パッチン」もすべってできない。

NHKの「あさイチ」で、かかとと手の指がカサカサする理由がわかった。そこは乾燥から肌を守る皮脂がほとんど分泌されないところだという。皮脂がないのだから、空気が乾燥すればカサカサしやすい。対策としては「尿素クリームを塗り、ラップをして3分ほどおく」ことだそうだ。

何年か前、かかとが乾きすぎてひびわれたことがある。ときどき、痛みが走った。その予防のために数日前から保湿クリームを使っている。手のひらにも。

空気が乾燥していると、静電気が発生しやすくなる。この前、いわき駅前の「ラトブ」でエレベーターに乗り、「閉める」ボタンを押したらビッときた。

「ラトブ」の地下駐車場はエレベーターの出入り口ドアも「鬼門」だ。空気が乾いていると、車を降りたとき、エレベーターの出入り口ドアを開けたとき、ビッとなる。車の場合は降りるときに一度、手で車体に触ると静電気は発生しない。建物のドアは、エレベーターのボタンは? 乾いた人間には、それが怖い。

2011年1月27日木曜日

冬のキノコ


おととい(1月25日)の昼前、生ごみを埋めに夏井川渓谷の無量庵へ出かけた。先日、洗面所の水道管が凍結・破損したため、井戸水をポンプアップするモーターの電源を切って水漏れを止めた。水は出ない。春が来て破損管を取り換えるまで“週末泊”もおあずけだ。

石油ストーブ、石油ヒーター、電気カーペット、こたつ。すべての暖房器具をつかって部屋を暖める。「物置」ではない、「家」だ。家である以上は部屋を暖めなくては――。でないと、いよいよ家が凍りつく。家のためにもぬくもりが必要だ。

そうして部屋を暖めたあとは、外に出て体を寒気にさらす。畑仕事はしばらくお休み。土がカチンカチンに凍っている。で、なにをするか。無量庵の周りを巡って冬キノコを探す。晩秋はヒラタケ、真冬はエノキタケ。必ずあるとは限らない。それでもいい。体を“寒絞め”にすることで耐性がつく。そのためにも歩く。そんな感覚がある。

前にヒラタケを採った半立ち枯れの木に、アラゲキクラゲのかたまりが姿を見せていた=写真。乾燥している。いつ発生したのだろう。ときどきチェックする庭木だから、異変には気づく。今年になってからの発生かもしれない。

ま、発生時期はどうでもいい。エノキタケの代わりにアラゲが見つかった。手を伸ばしても届かない高さだ。あえて脚立を持ち出すまでもない。写真に撮るだけにした。それで気持ちが満たされる。

2011年1月26日水曜日

大根の渋柿漬け


「たくあん漬けじゃないんですよ」。日曜日夜、県営住宅にある集会所で開かれた区の役員会に、区長さんが大根の漬物を持ってきた。

たくあんは糠漬け。糠の代わりに渋柿の実を使うのだという。たくあん漬けに干した渋柿の皮を使うのはあるが、実を使うのは初耳だ。いわば、大根の渋柿漬け。秋田出身のおふくろさんの味で、区長さんがそれを伝承し、みずから漬けた。

私も糠漬けと白菜漬けを自分でつくる。夫婦二人だけの暮らしでは、白菜漬けは一度に2玉がいいところ。11月から4月まで、2カ月に3回弱、計7回ほど漬ける。

渋柿漬けは熟する前のものをつぶして使うのだそうだ。四つ割りくらいにしてギュッとやるのだろう。二日ほど干した大根の周りにつぶした渋柿を敷き詰める。それを何段か重ねる。もちろん塩をまぶして。そもそもたくあん漬けに干した柿の皮を使うのは、たくあんに甘みを加えるため。渋柿の実も時間がたつと甘くなる。甘みが大根に浸透するのだ。

役員会が終わって、「どうぞ持ち帰ってください」となった。私は欲張って2袋もらった。さっそく、晩酌のつまみにする=写真。たくあん漬けは甘いが、渋柿漬けはほんのり甘みが感じられるていど。それがいい。砂糖とは無縁の、天然の甘味料だ。

そこ(土地)にある素材を生かして、精いっぱいおいしいものをつくろう、という母たちのワザがしのばれる食べ物だった。

2011年1月25日火曜日

鎌田山からの眺め


おととい(1月23日)のブログ「神谷地区新春の集い」の続き。いわき市平の中心市街地から東を望むと、鎌田山が見える。阿武隈高地から流れ下り、中心市街地の北をえぐるように進んできた夏井川は、鎌田山と強固な堤防に挟まれて屈曲したあと、大きく蛇行しながら太平洋へと向かう。鎌田山から河口まではすぐだ。

内藤の殿様が磐城平藩を治めていたころ、鎌田山は殿様の威勢と趣味によって「桜の名所」になり、「弥生山」の美名を持つにいたった。そのいきさつについては、昨年11月下旬に書いた。

今はその鎌田山に大学の建物が立つ。旧神谷村の「新春の集い」が、「黌窓会館」7階のレストランン(学生食堂)で開かれた。何年か前、友人とそこで食事をしたカミサンから「太平洋が見える」と聞いていたので、カメラを持って出かけた。

右岸の最後の丘は專称寺のある平山崎。そこからの眺めがいい。左岸の最後の丘はこの鎌田山。大学と切り通しをはさんだ隣に弘源寺がある。レストランからは寺のある丘がブラインドになって、旧神谷村だけが眼下に広がっていた。

「神谷耕土」と夏井川の間に常磐線と国道6号が貫通し、すきまなく建物が密集している=写真。尾根続きだった北側に平二中がある。平六小(神谷地区)から上がった子どもたちも、この景色を眺めながら登・下校したのだろう。

わが住む地域は実にわかりやすい。線路も、道路もまっすぐ伸びている。それを軸にして人家が形成された。その一軒一軒に、一人一人にこちらのはかり知れない人生がある。そう考えるだけで厳粛な気持ちになるのだった。

2011年1月24日月曜日

春の雪


けさ(1月24日)の雪は湿り気があった。南岸低気圧が東進すると湿った寒気が入りこんで太平洋側が雪になる――春に特有のボタ雪だ。

屋根という屋根が真っ白だ。空は雪雲。時折、白いものがこぼれてくる。道路はと見ると、アスファルトはのぞいているものの、ところどころうっすら雪をかぶっている=写真。坂道と橋上でのスリップ事故が頭をよぎる。きょうは外出を控えよう。

車の屋根の雪に触る。先日のパウダースノーと違って、握ると玉になる。重い。雪玉を庭木の枝に当てると、雪がパッと散った。

新聞は無事届いた。雪の前に配達が終わったか。降りかけた段階で配達が終わったか。どっちにせよ、雪には負けなかったようだ。

サラリーマンは今が出勤時間。小学生たちは歓声をあげながら家の前を通って行った。雪国では記録的な積雪がニュースになっている。いわきではちょっとした積雪がニュースになる。交通渋滞が始まるかもしれない。

2011年1月23日日曜日

神谷地区新春の集い


夏井川を挟んでいわき市平の市街地に接する平六小学区、いわゆる「神谷(かべや)地区」は、江戸時代には笠間藩の分領だった。いわきの中心市街地に城を構えた磐城平藩とは、いささかおもむきを異にする。明治維新後は分領内六つの村が合併して「神谷村」となり、昭和25年、旧平市に吸収・合併されるまで自治体として独自の道を歩んだ。

「神谷地区」は中神谷・塩・鎌田・上神谷・上片寄・下片寄の6大字からなり、大所帯の中神谷が西・南・北の3つの行政区に分かれたために、区としては8つで構成されている。

「神谷地区新春の集い」がきのう(1月22日)、鎌田山の一角にある東日本国際大学・いわき短期大学の黌窓会館7階「レストランけやき」で開かれた=写真。内藤公の時代には神谷地区も磐城平藩だったため、殿様は鎌田山を「弥生山」と名づけて桜の名所にした。その地で開くのはしかし、今年が初めてだとか。

南区の役員になったために、初めて「新春の集い」に参加した。区長や副区長のほかに、農業委員、消防団、交通安全協会、JA、婦人会、小中学校長、PTA会長、民生・児童委員、長寿会の代表など、名簿上は100人余が出席した。<よくこれだけの人がそろったものだ>。それが第一印象。市長や国会議員ら来賓も駆けつけた。

「地域デビュー」をして1年にも満たない新人には、あらかたは未知の人だった。年齢的にも先輩がほとんど。名簿で名前を追いながら、あらためて集いに参加した人たちが、団体が、地域の生活・文化・産業を支えていることを知る。

主催したのは神谷地区区長協議会(会長・新妻武弘下片寄区長)。会長さんはあいさつのなかで「神谷で生まれ、育ち、住んでよかったといえる地域づくりを進めよう」というようなことを話した。来賓の大学理事長が、これに「神谷で学んでよかった」ということを付け加えたい、と述べた。旧神谷村のアウトラインが少し見えたような気がした。

付け加えれば――。「神谷地区」は、戊辰戦争では笠間藩が官軍側についたために“四面楚歌”の目に遭った。集い参加者が多いのは、つまり結束力が強いのは、そんな史実も関係しているのではないかと、ぼんやり考えた。

2011年1月22日土曜日

冬水田んぼ


いわき市錦町で用事をすませたあと、沼部町の鮫川を訪ねた。いわきで最も早くハクチョウが飛来したところだ。ざっと30年前、勿来支局勤務時代にたびたびバードウオッチングに通った。

橋の上から上流をながめると、カモたちがかたまって羽を休めていた。ハクチョウはそのなかに3羽しかいない。橋を渡ったら、白い大きな鳥たちが目に入った。左岸の田んぼにハクチョウたちが散開している。田んぼには水が張られている。「冬水田んぼ」ではないか。その数ざっと100羽、あるいはそれ以上か。

でもよく見ると、田んぼは一枚一枚様子が違う。水をたたえた田んぼ、ぬかるんでいる田んぼ、乾いた田んぼ、枯れヨシの生えている田んぼ……。

枯れヨシの田んぼは休耕田か。いや、「いわき市水道局 管理地」という標識が立っている。田んぼだったかもしれないが、今はヨシの生えた湿地に変わった。枯れヨシは刈り取ったか野焼きをしたらしい。見通しが効くのでハクチョウたちも安心して群れている=写真

直近上流の同じ左岸に水道局の法田(はった)ポンプ場がある。地下水を一日に2トン、ポンプアップしている。ポンプ場と結びつけて考えれば、「管理地」は地下水を涵養する大地のダムの入り口になる。何もしない、ただ雨水の浸透を待つ――そんな役目をもった休耕田だろう。

ハクチョウの話だった。いわき市は、大きくは南部の鮫川流域と北部の夏井川流域に分かれる。ハクチョウは初め、鮫川に飛来し、年々、数を増やした。そのうち夏井川にも姿を見せ、今では北部の方が主な越冬地になった。日中はやはり田んぼで採餌をしている。

鮫川の水鳥、あるいは水鳥のいる鮫川にはいろいろ思い出がある。最初にハクチョウを見に行ったら、白化(アルビノ)したマガモの雄に出合った。ユリカモメが現れたこともある。鳥インフルエンザが問題になっている現代では考えられないほど、人間とハクチョウ、カモたちの距離は近かった。

2011年1月21日金曜日

ロルカが滞在した家


もう45年前になるだろうか。「詩」というものを初めて読んで引かれたものが二つある。山村暮鳥の晩年の詩と、長谷川四郎訳『ロルカ詩集』所収の「水よ おまえはどこへいく?」。17歳になるかならないころの話だ。スペインの詩人、フェデリコ・ガルシーア・ロルカ(1898―1936年)は以来、忘れられない存在になった。もちろん、暮鳥もそうだが。

先日、スペインはグラナダ在住、そして今はいわき市内郷に里帰りをしている草野弥生さんのことを紹介した。すると、グラナダでわがブログを見たダンナさん経由で弥生さんから電話が入った。私がいなかったので、カミサンが代わりに話をした。おととい(1月19日)午後、夫婦で内郷の彼女の家を訪ねた。

実家の近くにスペイン風の家がある。それが、彼女の日本のすまい。その家を設計したのは、弥生さんがグラナダ観光のガイドをして知り合ったいわきの建築家。旧知の人間だ。

スペインにいるいわき出身の画家、そしていわきで旅行代理業を営んでいる後輩だけではない。91歳のお母さんのために出張もみ療治をする鍼灸師氏も知り合いだった。その彼が間もなくやって来た。話に出てくる人、出てくる人がこちらの知り合いでもある――というのは、そうめったにあることではない。

ロルカは、そのなかでもぐっと身近な存在になった。弥生さんたちが住んでいるグラナダの家=写真(リーフフレット)=に、昔、ロルカが滞在したことがあるのだという。ロルカはスペイン南部、アンダルシア地方のグラナダ近郊で生まれ育った。詩人・劇作家として知られるようになるが、やがてフランコ軍に銃殺される。

弥生さんの姉も理不尽な死を遂げた。1997年、エジプトでイスラム原理主義者による外国人観光客無差別殺傷テロ事件(ルクソール事件)が起きる。日本人10人を含む60人余が死亡した。草野さんの姉は日本人観光客の添乗員だった。

弥生さんの家の1階居間の壁に、お姉さんの大きな写真が飾られてあった。その写真に「なぜ? WHY?」と書かれた紙が張られてある。カミサンが「あのときに……」というと、お母さんがうなずいた。ロルカとともに、弥生さんの姉・富己恵(ふみえ)さんもあらためて忘れられない人になった。

さて、リーフレットはどうやら、グラナダ市が展開している建物の「ビフォー・アフター」をPRするものらしい。世界文化遺産の「アルバイシン」地区はその奥にある。弥生さんは丘の上にある世界遺産のアルハンブラ宮殿をながめながら台所仕事をするのだという。その先にはシエラネバダ山脈。絵はがきのような世界が奥行きを持ちはじめた。

2011年1月20日木曜日

幽霊橋の下の梅の花


いわき市の東半分、夏井川流域ではどこの梅の木が真っ先に花をつけるのだろう。散歩コースの平字中神谷地内では堤防のそば、農家の庭でもう梅の花が見られる。北西の季節風が赤井岳から吹きおろし、寒さに体が震えあがる、ぎゅっと顔の皮膚が引き締まる――今年はそんな厳冬のイメージがあるものの、梅の花はもう「春近し」を告げている。

毎年、夏井川流域の幹線道路(平地は国道399号、その先は県道小野四倉線)沿いの「梅前線」を記録する。気象台の職員ではないから、たまたま通りすがりにちらりと見て、咲いていれば「開花」とメモする程度だ。

国道399号では平の中心市街地、八幡小路からお城山に架かる跨道橋「高麗橋」(通称・幽霊橋)の下の急斜面、ここに数本ある梅の木が最初に満開になる。先週の金曜日(1月14日)に通ったら、満開に近いではないか=写真。日照時間はそう多いとは思えないが、日だまりには違いない。樹木は厳しい冬のもとでもう春への準備を進めている。その目安になる。

県道小野四倉線では、夏井川が平地から山地へと急に変わる小川町・高崎あたり。知人の屋敷にある梅の古木は伐採に近い状態で剪定された。その近く、道沿いの梅の若木がちらほら花をつけ始めた。「梅前線」はそんなに遅れてはいない。

2011年1月19日水曜日

カシラダカ


庭の木に見慣れない鳥が来た=写真。スズメ大だ。同じ木の左側の枝にはヒヨドリが止まっている。スズメ大の小さな鳥は右側の枝だ。体の色はスズメだが、スズメではない。カシラダカ(頭高=短い冠羽がある)。冬鳥だ。

気持ちを落ち着けてカメラを構える。3枚ほどパチパチやったら、飛んで行った。一期一会。よく写真におさまってくれたものだ。偶然の飛来、偶然の撮影だ。

散歩するにしろ、どこかへ移動するにしろ、あるいは家にいるにしろ、デジカメをいつもそばに置いている。カメラマンではもちろんないが、なにかあったらすぐ写真に撮ろう――そんな意識が、この3年の間に生まれた。ブログを始めたからだろう。

自前の写真で勝負する。テレビの映像を撮ってアップしたこともあったが、それはもうやらない。写真がなければ載せない。それでもいい。なんだか、そんな気持ちになっている。ローカルであること――これに徹する。これを深める。それだけ。

カシラダカは北極圏から南下して、冬を日本あたりで過ごす。私が目撃するのは、無量庵のある夏井川渓谷、わが散歩コースの下流・夏井川の堤防、河川敷。ときどき小群で飛び交っている。

庭へやって来たのはただ1羽。集団生活をしているはずなのにどうしたのか。えさがないのか、たまたまひとり遠出したのか。まあ、それはキミの勝手だ。それよりなにより、写真のモデルになってくれてありがとう、である。

2011年1月18日火曜日

心平年譜作成者


詩人草野心平の年譜は同郷の長谷川渉(1934~93年)が作成した。現いわき市小川町上小川が二人のふるさと。長谷川渉とは何者か。私にはずっと気になる存在だった。ちゃんと知りたい。そんな気持ちがだんだん膨らんでいた矢先、わがブログを読んでくれている知人のはからいで、師走の上旬に渉の妹さんとお会いすることができた。

心平は明治36(1903)年生まれ。渉は昭和9(1934)年生まれ。親子ほどの年齢差がある。渉の妹さんの話から、心平の生家と渉の実家(吉埜屋=現よしのや菓子店)が近いこと、心平は吉埜屋と交流があったこと、当然、心平の子どもたちと渉は仲が良かったこと、などを知った。

なかでも、心平の弟・天平の子どもの杏平さんとは「くっついていた」ほどの仲だったという。

妹さんの話から、長谷川渉の実像が立ち上がり始めた。渉の著書(かつて勤めた業界紙の社長との合著『見聞巷説抄』=1978年刊)をお借りして読んで、彼がどんなことを考えていたのかが、少しわかった。『草野心平日記』で長谷川渉に関する記述もチェックした。心平と渉は、文学を触媒にして父子のような関係を築いていった――そんなことを感じた。

心平の「上小川村」の詩にある<ブリキ屋のとなりは下駄屋。下駄屋のとなりは……>の町並み=写真=の描写、これを実証したい思いに駆られている。そんなことを妹さんに告げたら、先日、知人を介して手描きの地図が届いた。

2011年1月17日月曜日

雪が飛んで来た


きのう(1月16日)の朝は、車が雪をかぶって白くなっていた=写真。今朝もうっすら雪をかぶっていた。気象台のデータをチェックしたら、小名浜では16日午前1時台に0.5ミリの降水量があった。つまり、積雪。平は昨日も、今日も記録の上では降水量(積雪)ゼロ。「吹っかけ」だったのだろう。

雪質は、福島県の浜通りには珍しい、さらさらした粉雪(パウダースノー)。冬型の気圧配置が強まり、日本海側に大雪をもたらした雪雲が奥羽の山を越え、阿武隈の山を越えて、太平洋側まで達したのだろう。

昨日は朝、小名浜へ用事があって恐る恐る出かけた。いわきでは、たいがいの車はノーマルタイヤだ。それで道路が冠雪すると、たちまち交通がマヒする。事故も急増する。道路が白ければ小名浜行きは中止にするつもりだったが、さいわい雪はなかった。

幹線道路はスイスイ。ところが、家並みが続く脇道はところどころ雪が残っている。冷や冷やしながら通り過ぎた。

車の屋根がうっすら白くなったくらいで、いわき人は目を丸くする。名古屋あたりでも積雪があった、などというニュースに接するたびに、いわきは気象的にはなんと恵まれたところか、と感謝したい気持ちになる。昨日午後、海岸部に住む知人がわが家にやって来て、やはりその話になった。

2011年1月16日日曜日

スペイン家庭料理教室


正月明けのいわき民報(夕刊)に、「スペイン家庭料理教室」の受講者募集記事が載った。講師はいわき市内郷出身、スペイン・グラナダ在住、草野弥生さん――。ん! スペインのグラナダでわがブログを読んでくれている内郷出身の女性ではないか。その人が里帰りをしたに違いない。ここは刺を通さなければ――。

記事によれば、1月15日と23日、会場の内郷公民館で料理教室が開かれる。きのう(1月15日)の朝9時半過ぎに公民館を訪ねた。準備中の草野さんに会って名刺を渡し、ブログの話をすると、「タカじいさんですか、どんな人かと思っていました」。これで一挙に距離感が縮まった。

2年前、同じスペインに在住している画家の奥さんの死を書いたら、草野さんからコメントが入った。交流があったのだろう。

私の後輩が海外旅行の仕事をしている。その関係でスペインはグラナダの旅行に関しては、彼女がガイドをするらしい。お会いしたのは初めてだが、画家とのつながり、後輩とのつながり、さらにはもう一人、別の知り合いとのつながりがあった。間接的にはとっくにネットワークが張り巡らされていたのだ。

ふんわりした気分になって帰宅したら、カミサンが「なんだか(この人を)知ってるような気がする」という。夕方、彼女の住所と同じ男性の名刺を差し出した。彼女のダンナさんではないか。

小名浜で毎年秋、「地球市民フェスティバル」が開かれる。3年前だったか、カミサンが関係しているブースに彼が現れ、カミサンと名刺を交換した。スペイン人である。彼も、草野さんも名刺のつくりがまったく同じだ。カミサンは名刺を見て既視感を誘われたのだろう。

料理教室=写真=には21人が参加した。男性は2人。そのうち1人はいわきキノコ同好会の仲間だった。人と人との出会い、つながりの面白さを実感した一日だった。

2011年1月15日土曜日

しぶき氷


生ごみがバケツにいっぱいになったので、カミサンが「埋めに行かないと」という。夏井川溪谷の無量庵に小さな畑がある。リサイクルを兼ねて、週に一回、そこへ生ごみを埋めに行く。一人で出かけた。

1月3日に今年最初の生ごみを埋めた。14日午後、2回目。とっくに「週一」のサイクルを越えている。生ごみ埋めのついでに、無量庵の水道管をチェックしなくてはならない。

無量庵の手前、「籠場の滝」をちらりと見たら、しぶき氷がかなり成長していた=写真。今は1月中旬。例年だと、岩盤はうっすら白くなる程度だ。が、今年は白いマントを着るのが早い。つららがあちこちに発達している。氷が厚く、広く覆っている。あとでパソコンに取り込んだ写真を見たら、走査型電子顕微鏡で何かを見ているような印象を受けた。

籠場の滝のしぶき氷に不安が募る。去年は、2月上旬に不安が的中した。台所の温水器が水を噴いていて、床が水浸しになっていたのだ。そのシーンが頭をよぎる。無量庵に着くとすぐ、水道菅をチェックした。台所、OK。風呂場、OK。洗面台、ン? 足元が水で濡れている。「凍結・破損」が一発で分かった。

対処法は決まっている。春になるまで、井戸水をポンプアップするモーターの電源を切っておく。去年がそうだった。去年だけではない。無量庵へ通い始めて15年余、数えれば4回は「凍結・破損」に見舞われ、そのつど春がくるまで水持参で無量庵へ通った。対岸の「木守の滝」もかなり氷結している。今年の冬は寒さが厳しい。

2011年1月14日金曜日

「大河」の風情


わが散歩コースの夏井川は、太平洋の河口に近い。といっても、河口からは5キロくらい上流だろうか。水源は田村市滝根町の大滝根山。水源から河口までの距離はざっと67キロだ。

前にも書いたが、夏井川は「2階建ての家」の「階段」だ。まず、いわき市の山の向こうの田村郡(2階)に水田が広がり、夏井川が渓谷を急降下したあとは海辺へと市街地(1階)を囲むように水田が展開する。

上流からは土砂が供給される。しかし、大河ではない。「だいだらぼっち」の手のひらにのるような、愛すべき河川だ。いわき市役所の“9階”、元展望台に入所した未来づくりセンターに固定双眼鏡がある。そこから水源の大滝根山が見えるのだから。

散歩コースの平・中神谷地内は水深が浅い。川幅も狭い。対岸の平・山崎ではほぼ河川敷の土砂除去工事が終わり、こちら側(右岸)でも昨年暮れに平・塩地内で土砂除去工事が始まった=写真。見た目は「大河」の風情になった。が、昨年、土砂除去工事が終わった河川敷はすでに草が生え、やがて灌木が生える運命にある。

その上流、新川との合流地点でも昨年、土砂除去工事が終わり、されにその上流で新たに土砂除去工事が始まった。今も行われている。まあ、20年に一度はこうした土砂除去工事が必要なのだろう。これが「エコな工事」なのだろう、と思えば気持ちも落ち着く。建設より維持管理の世紀だ。

2011年1月13日木曜日

大正100年


今年は「大正100年」だという。100年前、7月30日を期して、「明治45(1912)年」が「大正元年」に変わった。同じように、台湾は今年、「民国紀元100年」だ。

昨秋、仲間と台湾を旅行して2010年が「民国紀元99年」であることを知った。台湾では「9」の数字が尊ばれる。台風が台湾を直撃した民国紀元99年9月19日。私たちは台湾新幹線の旅を断念して、朝から台北近郊の新北斗温泉へ出かけた。温泉にでもつかるしかないのだった。

すると三々五々、同じ温泉ホテルに結婚式の招待客がやって来た。そのたびにスタッフが土嚢で押さえていたドア=写真=を開ける。ラッキーナンバーの「9」の数字が三つ並んだ上々吉の日である。台風にめげず、あちこちで結婚式が行われたというので、テレビや新聞がニュースに取り上げていた。

さて、日本は磐城平だ。「大正100年」の最初の四半世紀、磐城平では「大正ロマン」と「昭和モダン」が花開いた。文学運動が興隆した。その源は山村暮鳥だ。暮鳥は大正元年秋、磐城平にやって来た。つまり、「暮鳥来平100年」である。「いわきの近代詩100年」でもある。

いわき市立草野心平記念文学館は、あるいはいわき総合図書館は、なにかそれにまつわる企画展のようなものを考えているのだろうか。新聞はなにか連載物を手がける計画があるのだろうか。節目の年にはそれを喚起し、周知するようなイベントがあってもいい。

2011年1月12日水曜日

ストックブック


年末に、若い仲間が要らなくなった切手のストックブックを持ってきた=写真。切手収集は、子どもが最初に手がける“資産”づくりと言ってもいい。未使用切手を集めて、ン百円とかン千円とかと、自分の“資産”を計算する。小学3年だか4年のときに兄の影響で始めて、自分の“資産”がストックされていくのが楽しみだった。

中学校を卒業するころまで収集を続けただろうか。やがて切手への興味が薄れ、ストックブックは本棚の隅で眠りに就いた。結婚して10年あまりたったあと、今度は子どもが切手を集め始めた。ストックブックを譲り渡したが、それは今、どうなっているだろう。換金されてないか、眠っているか。

正月に子ども一家がやって来た。3歳の孫は大の鉄道好き。ストックブックに列車の切手があったのを思い出して見せたら、気に入って持ち帰った。

カミサンは記念切手をためておいて、手紙を出すときに利用する。かつて切手収集をしていた人間は、反射的に「もったいない」と思ってしまう。そんなケチクサイ反応がしばらく続いた。

そして、今回。カネの呪縛から解き放たれて、「掌中の美術品」としてストックブックを眺めることができるようになっていた。外国の切手でもいい。昆虫が描かれている。花が描かれている。それを小さな美術品として観賞する。

残念ながらキノコの切手は、なかった。あればもっと楽しめるのだが。

2011年1月11日火曜日

冠水対策工事


松の内が明けるとすぐ、家の前の道路で工事が始まった。側溝と道路中央に埋まっている下水道管をパイプでつなぐのだという。

始まりは、去年(2010年)の6月16日朝。土砂降りの雨で家の前の歩道が冠水した。大雨になるといつも冠水する。たまたま近所に用事のあった行政区長さんがそれを見て、家に飛び込んできた。「写真を撮ってください」。歩道は小学校の通学路でもある。冠水をほうっておくわけにはいかない、というのだ。

後日、市役所の職員が現地調査にやって来た。「雨水ます」を取り付ける方向で検討が始まった。しばらくたってから、工事をする業者もやって来た。「雨水ます」の設置場所は一転、二転した。最終的には「雨水ます」を設置せずに、直接、側溝と下水道管をつなぐ工法をとることになったのだろう。

車道のアスファルトを切って土を掘り出す。と、丸太が現れた=写真。松の根っこも出てきた。丸太は土止めかなにかだったのか。松の根は江戸時代の街道松か。

昭和63(1988)年に発行されたいわき地域学會図書2『わが町ウオッチング』にその答えがあった。近所に住む知人が書いている。「以前は、道の両側に壮観な松並木が見られた浜街道も、今は、その松も切り倒され、道幅も拡幅され、快適な舗装道路へと変貌した」。家の前の道路が、その「浜街道」だ。

「浜街道が、生活の道として維持されていたころには、水害などからの道の流亡防止のためや、低湿地での道の地盤強化のためなどの実利に沿った目的によって植えられ、管理されていた松並木も、現在、車の往来に不便であるという理由で切り倒されてしまった」。切り倒したものの、根っこを掘り起こすことまではしなかったのだろう。

丸太がなぜ埋まっていたのかはわからない。作業をしている人たちもしばし考えあぐねていたが、やがてチェンソーで丸太と松の根っこを切り取り、予定通り一日で工事を終えた。地中には想像もつかないものが眠っているようだ。

2011年1月10日月曜日

ネギ苗が……


いよいよ寒さが厳しくなってきた。田村市の実家(床屋)に帰り、兄に散髪してもらったら、頭のてっぺんも、うなじもスースーする。室内にいても帽子とマフラーが欠かせない――というのはウソだが、そのくらい頭部が寒さに敏感になった。

いわきの平地でさえそうなのだから、上流の夏井川渓谷ではさらに寒さがこたえる。溪谷にある無量庵は、人のにおいがするのは週末だけ。部屋に入るとすぐ寒暖計を見る。室温はこの時期、氷点下4、5度だ。夜は、暖房をしていても鼻水が垂れる。それこそ、帽子とマフラーが欠かせない。

人だけではない。植物も、動物も寒さに耐えている。無量庵の畑にある「三春ネギ」の苗の先端が黄色くなってきた。あらかたは防寒のためにもみ殻が敷き詰めてある。もみ殻がないところはどうか。毎日、霜柱が立つ。苗が持ち上げられる。日がさすと霜柱が解ける。その繰り返しで苗がずいぶん倒れた=写真。もみ殻一つでこうも違うのか。

もみ殻は、何年か前に手に入れたのがたまたま残っていた。苗床全体に敷き詰めるほどの量はなかった。

苗床は二つ。一つは畳半分くらいのスペースで、去年の初夏に採種したのを、秋にまいた。そのそばに、おととし採種し、冷蔵庫にしまい忘れていたのをまいた。こちらは紙でいうとA3くらいのスペース。もみ殻が足りずに、一部、土がむき出しになっている。その苗が倒れた。

ネギは、寒さには弱いかもしれないが乾きには強い。倒れたネギもまだ生命力を保っているはずだ。「温床」づくりを考えよう。

2011年1月9日日曜日

道は安全か


7日午後、夏井川沿いの県道小野・四倉線をさかのぼって田村市の実家へ帰った。雪はないはずだった。インターネットで田村市(船引)のアメダス情報をチェックしたら、まず大丈夫。実際、田村市は問題がなかった。その手前、田村郡小野町付近に前夜、雪が降ったらしい。小野町の目抜き通りに入ると、道路がところどころ圧雪状態になっていた。

小野町は、いわき市が「住宅」の1階部分だとすると、2階部分に相当する。「階段」に当たるのは夏井川だ。その2階部分がピンポイントで雪に見舞われたらしい。年が明けると、田村市が雪に見舞われた。そのとき、隣接する小野町はそれほどではなかった。数日後、今度は逆の降り方になった。

いわき市の最奥部、川前・五味沢と小野町の境あたりの坂道が一番の難所だ。道端にところどころ杉林がある。道が日陰になる。雪が解ける前に圧雪される。というわけで、冬は難所になるのだ。それが、どうだ。ほとんど雪がない。帰りに見ると、融雪剤(塩化カルシウム?)で白くなっていた=写真

往路の続きだ。小野町を過ぎると、阿武隈高地最高峰の大滝根山が見える。7日は強風が吹き荒れた。道端の雪が舞い、ときどき「地吹雪」になる。それがいっとき、急に収まる。大滝根山も頂上が明るいのに、ほかはかげっている。と思った瞬間、雪で山容がぼんやりする。

雪が積もることはなかった。が、たった一分のなかに四季が巡る――ノルウェーのフィヨルドを旅したときと同じような光景が、わがふるさとの“残丘”で展開されていた。

2011年1月8日土曜日

松送り


松の内の7日午後、思い立って田村市の実家へ帰った。今朝(8日)は、兄が正月飾りを片づけ、近くの神社へ持って行った。15日に焚いて送るのだという。それが本来の姿に近いのかもしれない。

いわき地方では前倒しされて、「鳥小屋」が正月送りの行事になった。松の内の7日早朝、人々が持ち寄った正月飾りや古いお札を、方形の小屋とともに焚く。昨年は寝坊して写真を撮れなかったので、今年は早めに起きて準備した。

朝6時すぎ、松飾りその他を新聞紙に包んで鳥小屋の立っている田んぼへと向かった。東の空はうっすら明るみ始めたとはいえ、頭上はまだ黒みがかった群青色。途中、「正月様」を手にした人が一人、二人と合流する。

6時半。稲わらで囲われた小屋に火が放たれた。火はたちまち大きな炎に成長して、周囲に熱を放射する=写真。そのうち、骨組みの青竹が「ボム、ボム、ボム」と音を発し始めた。中の空気が熱で膨張して竹を裂くのだ。そばにいた知人は、この音に小気味よさを感じているふうだった。

細い竹の先にさしたモチを焼いて食べると、一年間、風邪をひかないというので、用意された一本をもらって炎にかざしたが、空気が熱せられて、顔がほてり、「日焼け」ならぬ「火焼け」になりそうだった。

鳥小屋はあっという間に燃え落ちた。モチを食べて帰路に就くと、空は白銀色に変わっていた。7日の朝は、いわきのあちこちで「鳥小屋」が勢いよく燃えたことだろう。

2011年1月7日金曜日

キカラスウリ


<これは失敗だった>と、自分の行いを反省するときがある。平地のわが家にはなかったキカラスウリが、この数年、生け垣のマサキやサンゴジュにからみつくようになった。

夏井川渓谷の無量庵に生えたキノコを土ごと持ってきてほぐし、残土を庭に捨てたら、キカラスウリが芽生えて生け垣にからみついた。ヤマノイモ(ジネンジョ)もたぶん、同じ理由で捨てた土にまじっていた種が芽生えたのだろう。同じ生け垣につるをのばす。

ヤマノイモは食べられる。で、これに関しては根茎が地中でどんどん肥大するのを待とう、という気になる。キカラスウリの種を食べる人もいるようだが、そこまでは食指が動かない。放っておくだけだ。

いや、待てよ、放っておいては種が拡散する――そう実感したのは、去年のクリスマスのあと。なにげなく生け垣を見たら、レモン大のキカラスウリの果実が黄色く熟し始めていた。秋には「青いレモン」だったのが、年末には「黄色いレモン」になった=写真

「黄色いレモン」が裂けて種を散らす前に摘み取り、ごみ箱に入れて夏井川渓谷へ還流しよう。わが家の庭の「自然環境」は、渓谷ではなく平地の自然の変化にまかせるべきなのだ。手を加えすぎてはいけないのだ。

とすると、ヤマノイモも掘り取るべきだろう。いや、しかるべきときにつるを刈り取ればいいのだ。要は、花が咲き、実がなる前に手当てをする。それに尽きる。

2011年1月6日木曜日

「鳥小屋」見学


隣の行政区から「鳥小屋」ができたので見に来ませんか、という案内状が届いた。「祝い酒、甘酒、おでん等を準備してお待ちしております」。なんだか、宮沢賢治の童話にあるような話ではないか。区長さん以下、役員数人が4日午後3時半ごろ、冬田の一角に建てられた「鳥小屋」を訪ねた。私は初参加だ。

いわきの人間には、「鳥小屋」は自明の正月行事だろう。が、阿武隈の山中で生まれ育った私は、行事の意味がしかとはつかめない。7日早朝、正月飾りとともに小屋を燃やして無病息災を祈る――ということは、新聞・テレビを通して知っている。それはしかし、表層的な理解であって、民俗学的にはまた違う解釈があるらしい。

平・中神谷西地区。農業を主にした、昔からの集落だ。その周辺に新しい家がぽこぽこ建った。もともとは一つの行政区だったのが、大きくなったので三つに分かれた。“分家”して北区と南区が生まれ、“本家”は西区になった。

西区の役員さんら数人が応対してくれた。この日は民話を聴く会が開かれ、木だんご飾り(木の枝に花餅をつける)が行われたために、自由参観は午後3時から。その時間に合わせての見学だった。

稲わらで囲った「鳥小屋」は、広さがざっと2間四方だろうか。孟宗竹で骨組をつくり、それを縄でくくっている。てっぺんのブルーシートは雨除けで、「お焚き上げ」の日にははずされる。その下、“屋根裏”にはゴザが敷き詰められている。床の中央には炉が切られ、古畳が敷き詰められていた。一角に神棚があり、向かって左側にユズ、右側にキンカン?が差してある=写真

囲炉裏には自在かぎがつるされ、コンニャクの入った鍋がかかっている。炉端の青竹は1メートル強。一カ所にふたが切られていて、日本酒を温めていた。それを、竹でつくったひしゃく、とっくり、さかずきで客にふるまう。甘酒もある。コンニャクは味噌田楽になる。ほかにもいろいろ酒のつまみが用意されている。

天井のゴザは、畳は燃やすのか。ゴザはそのまま燃やすが、畳は燃やさずに近くの清掃センターへ運ぶのだという。畳は燃えにくい。鳥小屋が灰になってもくすぶっている。そもそも畳屋からもらってきた古畳だ。最後に一働きして別の場所で「お焚き上げ」となる。

時折、薪(まき)の煙が部屋の中に広がった。民話を聴く会にやって来たこどもたちがそうだったように、久しぶりにいぶられ、涙目になった。

2011年1月5日水曜日

車の運転


先日、若い人間と酒を飲んだとき、「いわきは車の運転の荒さでは有名」という話になった。とっさに、40年前の“駆け出し記者”のころの話を思い出した。

同年代の「同業他社」氏が福島からいわきにやって来た。仲良くなって、あれこれしゃべるうちに、「いわきの人間は、車の運転がおっかない。だから、青信号になってもすぐには発進しないようにしている」と言った。赤信号でも突っ込んでくる車がある、ということだろう。

彼は転勤を重ねて、やがて同じ浜通りの北部で仕事をするようになった。ある日、わが家にやって来た。「いわきは車が多い=写真。めまいするくらいだ」。<浜通りの北部はいわきより人口が少ない。車も少ない。いわきよりゆったりしているから、車の流れになじまないのだろう>と思った。

そうではなかったのだ。単に、人口を反映した車の量の違いではなくて、いわき人の荒い運転の本質が神経を刺激していたのだ。

若い人の話はこうだ。「『なにわ』と『いわき』の平仮名ナンバーは警戒される。運転が荒いから」。「なぜ、いわきの車は運転が荒いのか? ヤマ(炭鉱)とハマ(漁業)があったから」。別の「同業他社」の先輩が指摘していたのと同じ理由を述べる。

とっくに人間は一世代、交代した。社会的なルール・マナーはその間に学習しただろうが、相変わらず車の運転は荒い。

「荒れた運転」はしかし、そこに暮らす人間にはわからない。それが当たり前だから。他地区の人の運転との違いを科学的に示すようなデータはないものか。

2011年1月4日火曜日

海岸林の鳥


正月三が日は「ハレ」の日なりに過ごした。元日は年賀状書き。夜は孫がうろうろするなか、せがれたちと酒を飲んだ。二日目。カミサンの実家で年始客の応対をするはずだったが、遅れて客は帰ったあと。「箱根駅伝」を伝えるテレビにかじりつき、いわき出身の柏原竜二君の力走を見たあと、新舞子海岸の林の中にある飲食店へ出かけた。

どういうわけか、カミサンが車に常備している双眼鏡をバッグに入れた。私もつられてカメラを手にした。店は、大きな窓ガラスがはめられていて、林内を見渡せる=写真。飲み物を頼んだあと、なにげなく窓の外を見ていたら、林床に鳥がうごめいていた。

双眼鏡をのぞいていたカミサンに言われて見ると、キジバトだった。近くにアカハラもいる。アカハラは盛んにくちばしで落ち葉を散らしていた。虫でも探しているのか。

バードウオッチングが始まった。店のすぐそばの松の木にメジロが現れた。2羽。カメラを向けたが、デジカメの悪いところでけし粒のようなメジロには焦点が合わない。そのうち,目のぱちくりとしたヒタキ系の鳥が現れた。双眼鏡をのぞくと、ルリビタキの雌だった。これも写真に撮ったが、「前ピン」だった。

松を中心に木々が散在している。常緑のトベラがある。名前のわからない落葉樹もある。少し間伐したらしい。落ち葉かきもしているらしい。

アカハラが“かっ散らかしていた”のは落ち葉の山だった。そんな落ち葉の山があちこちにある。虫たちには格好のベッドだ。自然の状態だと、こうは温かい風景にはならない。窓ガラスをはさんで、内側では人間が飲食し、外側では鳥たちが食事をしている。偶然、知った探鳥スポットだ。

2011年1月3日月曜日

「ありがとう」


去年は春から秋まで毎朝、いきものがかりの「ありがとう」という歌を聴いた。NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」のテーマソングだ。いやがおうでも覚えてしまう。BSハイビジョンは7時半から放送する。これを見る。カミサンは朝食の準備をするため、台所に立っている。わが家では、昔から私が朝ドラの視聴者だ。

大みそかの紅白歌合戦――。ついつい、というか、年越しの習慣のようなもので、始まりから終わりまで見てしまった。途中で、今回は二つのキーワードでくくることができるように思った。「感謝」と「祖(父)母」だ。

「感謝」は「ありがとう」。浜崎あゆみがのっけから母親に「ありがとう」と歌う。西野カナが親友に「ありがとう」と歌う。植村花菜が祖母に「ありがとう」と歌う。いきものがかりが文字通り、「ありがとう」を歌う。

「祖(父)母」は、植村花菜の「トイレの神様」、HYの「時をこえ」。「トイレの神様」はともかく、「時をこえ」は初めて聞いた。先の戦争で沖縄は戦禍に見舞われた。そのときの体験を「おばあ」から聞いて、<誰かに伝えなくちゃ、僕らが伝えなくちゃ>と決心する。沖縄の若者の心は深い。

私には孫が二人いる。満3歳と1歳。彼らは、いずれ宇宙の塵と化する私たちをどう記憶するのだろう。私自身は、祖父の記憶はない。

祖母は二人とも、15歳前後まで生きていた。憎まれ口をたたいたこともあるから、記憶はまだ生々しい。が、父方の祖父は私が生まれてしばらくしてから死んだらしい。母方の祖父は幼いころ、暗い部屋に寝ていたのを見た記憶がある。ガンかなにかだったのだろう。が、どんな顔だったのかは、遺影で知るだけだ。

母方の祖父母の遺影を掲げる=写真。私は、半分はこの人たちの血を受け継いだ。祖母は阿武隈高地の産。祖父は“流民”。少年のころ、仙台から流れてきて阿武隈の山里に住みつき、ささやかながら土地と家を手に入れた。

紅白歌合戦から「孫の時代」を思い出し、祖父母と孫の関係に思いがめぐり、草の根の生涯を送った人々がいて私たちがいる、やはり彼らに「ありがとう」だな、という気持ちになるのだった。

2011年1月2日日曜日

スカイツリー


元日付の新聞で建設中の「東京スカイツリー」の詳細を知る。完成すれば自立式の電波塔としては世界最高の603メートルだ。去年12月はじめに、第二展望台の上にのっかるてっぺん部分(ゲイン塔)まで成長した。その時点で高さは511メートル。

台北(台湾)に「タイペイ101」と呼ばれる、高さ508メートル(軒高448メートル)の超高層建築物がある=写真。去年秋、仲間と台湾旅行をした際に訪れ、382メートルの展望台から台風の乱雲に覆われた台北の街並みを眺めた。成長するスカイツリーがついに「タイペイ101」を抜いた――師走にそんな感慨をいだいた。

「タイペイ101」は、秋の時点では世界2位だった。1年前、ドバイ(アラブ首長国連邦)に尖塔部分を含めると828メートルという超高層建築物「ブルジュ・ハリファ」が完成し、営業を始めた。軒高は160階、636メートルというから、飛びぬけて高い。「タイペイ101」はその時点で世界一の座を譲り、今また「東京スカイツリー」に追い抜かれた。

新聞によると、スカイツリーの第一展望台は375メートルの下にある。「タイペイ101」の展望台は、スカイツリーの第二展望台よりは低いが、第一展望台よりは高い。スカイツリーの第一展望台からの眺めが想像された。

鳥になれない人間は空中楼閣に立つと、腹がキュンとなって肛門がムズムズする。高さに比例して重力が恐ろしさを増す。

それはさておき、超高層建築物ではエレベーターのスピードが気になる。なぜ? 昭和43(1968)年早春、「36階147メートル」という、日本で最初の超高層ビル「霞が関ビル」が仮オープンした当初、ヘルメットと作業服姿でエレベーターボーイをしたからだ。

建設中から外側に取り付けられた仮設エレベーターの操作をまかされていた(ボタンを押すだけだが)ので、その延長でのバイトだった。本エレベーターはとにかく速かった。

「東京スカイツリー」は下から第一展望台まで約50秒だという。「タイペイ101」は5階から89階の展望台まで37秒。「タイペイ101」の方がやや速いか。「タイペイ101」のエレベーターは日本の会社がつくった。そんなことが、私にはうれしい発見だった。

2011年1月1日土曜日

『くじけないで』


2011年の幕が開けた。元日だから寝坊しようと思ったが、体が言うことをきかない。朝6時前後には起床する習慣がしみついている。ブログも休もうかなと思ったが、どうにも気持ちか落ち着かない。新聞2紙を読み終えてからパソコンを開けた。

年末に「いわき長寿学園 麦の芽会」から20周年記念文集が届いた。昨年夏、急死した知人の代わりに臨時講師を務めた縁だろう。会員には何人か旧知の人がいる。恩師の奥さんもその一人。

記念文集を開いたら、奥さんが「一遍の詩に魅せられて」と題して、今年100歳になる詩人柴田トヨさん(栃木)の詩を紹介していた。柴田さんの詩集『くじけないで』=写真=は、年末の新聞広告では「90万部突破」のベストセラーになっている。わが家にも帯に「60万部突破」と刷られた詩集がある。カミサンがいつの間にか買って読んでいたのだ。

恩師の家では産経新聞を購読している。1面の題字わきに詩の投稿欄「朝の詩(うた)」がある。<忘れもしない、平成二十年四月二十日掲載の、>と奥さんは書く。<『くじけないで』という詩が、目に留まりました。>

<柴田トヨさん(九十七歳)という方の詩です。/まず、お歳を見て驚きました。わたしは、「七十七歳の誤りではないのかしら」と。そして、この詩に心惹かれるものがあり、手帳に書き留めておきました。>

まだ作者がどんな人かも知らず、詩集にもならず、したがってマスコミで話題にもならない時点で、奥さんはしっかり柴田さんのことばを“貯金”した。こういっては失礼かもしれないが、生涯学習を旨とする普通の主婦の「慧眼」に感服した。

で、遅まきながら『くじけないで』を読む。「貯金」という詩に引かれた。<私ね 人から/やさしさを貰ったら/心に貯金をしておくの//さびしくなった時は/それを引き出して/元気になる//あなたも 今から/積んでおきなさい/年金より/いいわよ>