2011年1月23日日曜日

神谷地区新春の集い


夏井川を挟んでいわき市平の市街地に接する平六小学区、いわゆる「神谷(かべや)地区」は、江戸時代には笠間藩の分領だった。いわきの中心市街地に城を構えた磐城平藩とは、いささかおもむきを異にする。明治維新後は分領内六つの村が合併して「神谷村」となり、昭和25年、旧平市に吸収・合併されるまで自治体として独自の道を歩んだ。

「神谷地区」は中神谷・塩・鎌田・上神谷・上片寄・下片寄の6大字からなり、大所帯の中神谷が西・南・北の3つの行政区に分かれたために、区としては8つで構成されている。

「神谷地区新春の集い」がきのう(1月22日)、鎌田山の一角にある東日本国際大学・いわき短期大学の黌窓会館7階「レストランけやき」で開かれた=写真。内藤公の時代には神谷地区も磐城平藩だったため、殿様は鎌田山を「弥生山」と名づけて桜の名所にした。その地で開くのはしかし、今年が初めてだとか。

南区の役員になったために、初めて「新春の集い」に参加した。区長や副区長のほかに、農業委員、消防団、交通安全協会、JA、婦人会、小中学校長、PTA会長、民生・児童委員、長寿会の代表など、名簿上は100人余が出席した。<よくこれだけの人がそろったものだ>。それが第一印象。市長や国会議員ら来賓も駆けつけた。

「地域デビュー」をして1年にも満たない新人には、あらかたは未知の人だった。年齢的にも先輩がほとんど。名簿で名前を追いながら、あらためて集いに参加した人たちが、団体が、地域の生活・文化・産業を支えていることを知る。

主催したのは神谷地区区長協議会(会長・新妻武弘下片寄区長)。会長さんはあいさつのなかで「神谷で生まれ、育ち、住んでよかったといえる地域づくりを進めよう」というようなことを話した。来賓の大学理事長が、これに「神谷で学んでよかった」ということを付け加えたい、と述べた。旧神谷村のアウトラインが少し見えたような気がした。

付け加えれば――。「神谷地区」は、戊辰戦争では笠間藩が官軍側についたために“四面楚歌”の目に遭った。集い参加者が多いのは、つまり結束力が強いのは、そんな史実も関係しているのではないかと、ぼんやり考えた。

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