2011年1月29日土曜日

唱歌


大正時代の「童謡」運動は明治政府の「唱歌」教育に対抗して生まれた。

「唱歌」は「富国強兵」政策を補完する。「あおげば尊し」がそうだ。「身を立て、名をあげ」とあおる。経済人としての「富国」、軍人としての「強兵」を音楽の面から強要した、といえる。

その際――と、これは私の偏見だが、「富国」を担ったのは西日本の人間、「強兵」を強いられたのは東日本の人間だ。万葉集の<防人(さきもり)>以来、みちのくの人間が戦線に立つという構図は今も変わっていないのではないか。

「あおげば尊し」の原曲がアメリカにあった、という新聞記事を読んで、すぐ「唱歌」政策を推進した文部省の音楽取調掛・伊沢修二のことを思い浮かべた。記事にはなかったが、彼はアメリカ留学後、「唱歌」政策を推進する。彼が関係していないはずはない。いや、張本人ではないか。多少、「童謡」を調べてきた人間としてはそこに思いが至る。

「唱歌」は、つくり方がわりといい加減だった。子どもを感化するのにいい曲なら、原詩は意訳して「立身出世」ふうに変えてしまう。そんなことを平気でしたらしい。

♪夕空晴れて秋風吹く……の「故郷の空」がそうだ。原作者はスコットランドの国民的詩人、ロバート・バーンズ(1759~96年)。大和田建樹(1857~1917年)が適当に、きれいに意訳したが、原詩はエッチな歌だ。

一番ぴったりだと思うのが、なかにしれいさんが訳した、♪誰かさんと誰かさんがむぎばたけ チュッチュチュッチュしている いいじゃないか……。要は、ゆっくり歌えば「故郷の空」になり、陽気に歌えば「誰かさんと誰かさん」になる。「蛍の光」も、スコットランド民謡をバーンズが意訳したものがもとになっている、という説がある。

里見庫男さん(故人)に頼まれて、毎月、童謡詩人を調べては「野口雨情記念湯本温泉童謡館」でしゃべってきた。バーンズは、若い雨情が心酔した詩人のひとり。それで、北茨城市の歴史民俗資料館にある野口雨情記念館=写真=を訪ねたこともある。

まずは「唱歌」より「童謡」――そんな意識になるのは、雨情をはじめとする童謡詩人を調べているうちに、彼らが官の押しつけに反発して、ほんとうにこどもの必要とする歌をつくろう、音楽家もまたそれにこたえよう、という情熱が感じられたからだった。

「大正100年」のスパンで見ると、「唱歌」を超える歌をと始まった「童謡」運動は、その初期に大きなうねりとなって日本列島を襲った。今、孫にその歌をうたっている。

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