2011年2月5日土曜日

テレビがおかしくなった


わが家の液晶テレビがおかしくなった。数日前から、スイッチを入れると色のついた縦縞が現れる。それがオーロラのように激しく動く。音声はある。朝だけの現象だったのが、きのう(2月4日)は一日中そうだった。

嵐になったとき、BS放送の画面が乱れることはある=写真。それとは別だ。液晶だから寒い朝は(今年は厳冬だから)動きが鈍いのかと、おとといまでは思っていたが、どうもそうではない。液晶は室温の変動なんかは当然、計算に入れてつくられているはず。それを越えた異常さだ。

家電製品その他に詳しい若い仲間がたまたまゆうべ来て、「寿命かな」という。「えっ、ン十万もしたのに!」とカミサン。

なじみの家電商から新中古の液晶テレビを安く買った。そのあとだ。液晶テレビが安くなること、安くなること。今は同じサイズが「5万円か、3万円くらい」だと、若い仲間が言う。修理が可能か。可能だとしてどのくらいかかるのか。買い換える方がいいかもしれないですよ、という。

というわけで、一日、テレビを見ないで過ごした。きょうもそう。あしたもそう。テレビを直すにしろ、買うにしろ、テレビが見られる日までは、ニュースは新聞だけ――そういう日々が続く。

それで、あらためて思ったことがある。「地デジ」対応ができずに、7月になってテレビが見られなくなるお年寄りのことを。

何とかしないと、という区の役員の新年会でのやりとりを2月1日に書いた。今度、故障でテレビが見られない状態になって、これはやはりただごとではないと感じた。「アナログはだめ」と勝手に決めたのは国で、それは何のために、という詮索は、今はしない。

市役所と地元の区と共同で、お年寄り(ばかりではないかもしれないが)の家のテレビ調査をする。で、チューナーをつければOK,あるいは買い換えを――そこまでしなくてはならない状況にきているのではないか。

テレビメディアの若い女性アナウンサーが共同でPRしても、お年寄りにはメッセージが届かない。言葉としての「アナ」も「デジ」も風のように通り過ぎていく。区の役員になって、つまり地域の「当事者」になって初めてそれを知った。

既存メディアが地域の隅っこまで情報を届けられるほど地域は単純ではなくなった。ならば、地域に暮らす人間が、ブログでもいい、ツィッターでもいい、それを市民メディアとして補完するところにきているのではないか――そんなことを感じている。

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