2011年3月31日木曜日

原発難民④


【なすかしの森】
国立那須甲子(なすかし)青少年自然の家は福島県中通りの南端、西郷村の甲子高原にある。標高1,000メートル前後のゆるやかな傾斜地だ。そこに学習室・事務室、生活関連棟(食堂・浴室など)、環境学習棟、交流談話室、プレイルームのほか、A・B・Cの3宿泊棟が配置されている。

施設間をつなぐのは、空港ターミナルから枝状に伸びた飛行機への搭乗通路のような「渡り廊下」だ。防風・防雪を兼ねた「トンネル」でもある。宿泊棟から食堂へ行く、事務室前のテレビを見に行く――というだけで、万歩計は毎日軽く8,000歩くらいにはなる。広い「なすかしの森」のなかに施設が散在しているのだ。

ここへたどり着いたのは3月15日の夜更けだった。私たち夫婦、妹母娘、息子一家の計8人が宿泊棟Bの12畳和室で最初の夜を過ごした。宿泊教育施設だから寝具はそろっている。なにより畳の部屋というのがありがたい。

翌日には妹母娘が肉親のいる西日本へ移ったため、新たにいわき市四倉町から避難してきた老夫婦と一緒になった。いわゆる「相部屋」だ。老夫婦はやがて孫たちの「第三のジイ・バア」になった。孫の夜泣きにはまいっただろうが、そんなことはおくびにも出さない。山登りが好きで那須方面に土地勘があった。それで青少年自然の家に来たのだという。

朝・昼・晩と食事が出る。量はもちろん少ない。が、食べる・寝るといったことを考えると、ここは最高クラスの避難所ではないか――そんな思いが入所者の間に広がる。スタッフの献身と親切が身にしみる。

やがて救援物資が届くようになり、「荷おろしのボランティアを」という館内放送が流れると、すぐ数十人が玄関にそろうようになった。手渡しで物資を受け取り、整理し、片づけるといった作業があっという間に終わるのだった=写真。このとき、学校の後輩と20年ぶりに再会した。旧知のいわき市職員OGとも出会った。

入所者はみんな車で避難した。「いわき」ナンバーが圧倒的に多い。いわきナンバーの範囲はいわき市、東白川郡、石川郡、田村郡小野町、そして双葉郡だ。相馬郡、南相馬市、相馬市は「福島」ナンバー。どちらのナンバーであれ、「原発難民」には変わりがない。相双地区から避難してきた人の中には大津波で家や肉親をもっていかれた人もいただろう。

あとで青少年自然の家の避難民を新聞で確かめた。3月16日から24日までの掲載分だけだが、17日(18日付)には避難民が700人に達した。前日は600人。私たちが駆け込んだのは、このピーク時だった。以後、日を追うごとに数は減る。とはいっても、23日現在で421人が入所していたから、今もかなりの数が避難しているに違いない。

さて、急な避難生活に体調を崩す人間も出てくる。もともと低血圧のカミサンが巡回してきた医師に診てもらったところ、「高血圧」の診断を受けた。私は断酒が効いて便秘になった。

それよりなによりきついのは、大地震の夜以来、着たきりスズメで風呂にも入れないことだ。青少年自然の家でも水不足で入浴ができない。

18日、夫婦だけで温泉の無料開放をしているちゃぽランド西郷へ徒歩で出かけた(ガソリン節約のため)。青少年自然の家からは標高にしてざっと130メートルほど低いところにある。雪道を1時間ほどかけながらたどり着き、洗髪し、体のあかを落とし、湯上がりにスーパードライを飲み、ラーメンをすすった。少し、ひとごこちがついた。

2011年3月30日水曜日

夏井川渓谷へ


きょう(3月30日)も「原発難民」記はお休みです。

気になっていたのが一つ。大地震以来、夏井川渓谷の無量庵へは行っていない。どんな状態か。

今も時折、近くに住む孫のヘルパーを続けている。西郷村の那須甲子青少年自然の家で「原発難民」生活を送っていたころは、孫2人の「いじくりこんにゃく」になった。要は孫のおもちゃだ。おもちゃになるのがジイ・バアの役目。帰宅したあともその役目に変わりはない。

一方で、大地震から半月余がたち、夏井川渓谷の無量庵のことが気になり始めた。きのう(3月29日)朝、生ごみの入った容器を車に積んで向かったら、渓谷の入り口・小川の高崎で通行止めの看板にさえぎられた。ちょうどそのとき、主夫をしている息子から「一時、ヘルパーを頼みたい」というケータイが入った。Uターンして息子の家を目指す。

カミサンは民生委員としての仕事がある。ヘルパーは私の役目。午前中、孫と過ごし、帰宅したあと、時間のあいたカミサンといっしょに再度、無量庵へ出かけた。

高崎から先には行けない。しかし、う回路がある。いったん二ツ箭山のふもとを巻くようにして国道399号を進み、横川から「母成林道」に入って江田に出る、いつもの「災害ルート」だ。この15年余の間に2回は利用している。

399号の入り口で交通警察隊が検問をしていた。福島第一原発から20キロ圏内への立ち入り規制をするのが目的だ。他県から応援に来たのだろうか。「江田の先に家がある」といっても、「江田はどこか」。う回路の話をすると了解して通してくれた。

江田から上流の渓谷は、そんなに目立った変化はなかった。が、牛小川の一つ手前、椚平の対岸は至る所で落石があったのだろう。縦に赤みがかった筋が急斜面にいくつも入っていた。通行止めの原因は磐越東線・高崎踏切から1キロ先という表示だったから、おそらく落石除けのロックシェッドがあるあたりで大規模な崩落が起きたに違いない。

としたら、県道の復旧には相当の時間がかかる。近くを走る磐越東線も当分だめだろう。「完全通行止め」という看板はそのへんのことも含めて言っているのかもしれない。

それより、わが無量庵だ。まず、瓦屋根を見る。無事だった。いちだん下の空き地とは石垣で区別されている。その一部が崩れていた=写真

室内は? 本は無事。カセットラジオも落下していなかった。安定の悪いボックスの上に載せておいた時計とそのボックスが落下し、台所のこまごましたものが散乱していたほかは、電灯のかさがずれたり、雨戸の内かぎがゆがんではずれなくなったりしただけで、割と手早く片付けが済んだ。崩れた石垣にはブルーシートをかけた。

水は真冬の凍結・破損以来、電源を切ったまま。この大災害だ。復旧には、マチ場の工事が優先されるから、かなり時間がかかるかもしれない。そんなことはしかし、かまわない。水が出ないくらい、へっちゃらだ。

2011年3月29日火曜日

「シャプラ」がきた


「原発難民」記は、きょう(3月29日)はお休み。

日曜日の27日午前、わが家にNGOの「シャプラニール=市民による海外協力の会」の副代表理事、事務局長、国内活動グループチーフの3人がやって来た。野菜の差し入れがありがたかった。カミサンがシャプラのいわき連絡会を引き受けている。いわきでの中期的な支援活動を考えているという。

19日、北茨城市に入って防災ボランティアの活動を始めた。ボランティアが集まってきたので、次はいわきへ――いわき市の「うつくしまNPOネットワーク」と連携し、22、23日と避難所への救援物資運搬活動を展開した。

北茨城からいわきへ活動拠点を移したのは、例の「原発事故」でいわきへのボランティアの足が止まっているからだ。短期から中期へ――次の戦略が必要になっている、そんな判断もある。

「シャプラ」としてなにができるか。いわき市社会福祉協議会の常務理事に会い、市市民協働課長のアドバイスを受けて、いわき市南部で復興のための活動を始めつつある「勿来ひと・まち未来会議」のリーダーに会いに行くことにした。旧知の人間だが、ケータイの番号などは知らない。

ここは市勿来支所へ駆けつけ、支所長の知恵を借りるに限る。支所長と情報交換をしているうちに、地震・津波の災害現場を見て回った副市長が偶然、支所長室にやってきた。市のナンバー2の話は、シャプラニールが何をしたらいいか、大きな参考材料になった。

やがて「未来会議」のリーダーとも連絡が取れ、津波被害に遭った海岸部で落ち合った。現場には、これまた旧知の防災コンサルタント氏(いわき市湯本出身)がいた。シャプラ関係者とも知り合いが多い。コーディネーターにはうってつけの人間だ。シャプラにとってもここから始めよう、という確信を得たのではないか。

シャプラの3人はいったん東京へ帰り、「未来会議」のリーダーやコーディネーターと具体的な支援計画を練ることになった。シャプラがいわきに入って中期的に活動するということは、原発風評を払拭するだけでなく、ほかのボランティア団体にも好影響を与えるのではないか。一気にそんな期待がふくらんだ。

「未来会議」のリーダーが「帰りに岩間と小浜を見て行ってほしい」という。大津波で壊滅的な被害に見舞われたところだ。道はと聞くと、「生活道路」だから立ち入り禁止にはなっていない。

被災地に踏み込んで息をのんだ。分厚いコンクリートの堤防が破壊され、押し流された=写真。堤防・道路・民家とつらなる海辺の風景は消え、大地がえぐられ、むき出しになっていた。小浜は海側の家並みが壊れて海がざっくり見えるではないか。

そのあと、小名浜、永崎、中ノ作、江名と回って平へ戻った。超現実的な風景が延々と続いていた。あらためて被害の甚大さを思った。

■きのう(3月28日)、コメントを寄せていただいた
静岡の高野さん、メールを待ってます。
私のアドレスはty231119@cameo.plala.or.jpです。

2011年3月28日月曜日

原発難民③


【脱出】
白河市へ――。そう絞る前には、田村市常葉町の実家へ寄ることも考えた。が、大地震の被害が広域に及び、余震が長期化している。実家も2階の壁が崩れるなどの被害に遭った。頼るべき縁者が同じ被災者というのは、前代未聞のことではないか。

そのうえ、常葉は福島第一原発から半径30キロ圏内、真西に位置する。原発難民を受け入れるどころか、自分たちが避難しなくてはならない――そんな切羽詰まった状況だろう。(現に大震災から半月たった25日、政府が半径20~30キロ圏内の住民に自主避難を促した)

15日午後1時すぎ、息子の車を先にしてカミサンの実家を出発した。地図の上では国道289号を利用するのが最も近いのだが、白河出身の友人は国道49号を利用して平田村で左折することを勧めた。それに従う。

カミサンの実家から49号まではすぐだ。49号に出ると、中通り以西へ脱出する車の列が延々と続いていた。好間町を過ぎ、三和町に入ってからもしばらくノロノロ運転を余儀なくされた。

三和町上三坂を過ぎると、間もなくいわき市と平田村の境になる。平田村へ入ったとき、<とうとういわきを離れちゃった>という感慨に打ちのめされた。

さて、そのあとが大変だった。友人に言われた交差点で左折するとすぐ、息子が道路沿いの駐車場に車を乗り入れた。ケータイで情報を取ったのだろう、「先が通行止めになっている」と言う。急遽、49号に戻り、谷田川から須賀川へ抜けて国道4号を南下するルートをとる。三角形でいえば、底辺ではなく、2辺の大回りだ。

須賀川に入ると渋滞に巻き込まれた。渋滞は白河市内へ抜けるまで続いた。途中、赤信号で流れを分断されたために、息子の車と私の車の間には十数台もの車が入り込んでいる。白河へ近づくにしたがって、ケータイで連絡を取り合うケースが多くなった。「県南保健福祉事務所でスクリーニングを受けることにしよう」。そこが落ち合う場所になった。

閑話休題。須賀川市内も被害が甚大だった。4号へ出るまでの間、倒壊した家こそ見かけなかったものの、道路両側の家々は瓦が落下し、壁が崩れ、歩道が波うっていた。姪の嫁いだ中華料理店があった。「とん珍」。外観はしっかりしている。あとで兄に確かめたら、改装したばかりだった。

平を出てからおよそ5時間半。あたりはすっかり暗くなり、小雨が降っている。ほうほうのていで県南保健福祉事務所に着いた。スクリーニングを受ける浜通りの原発難民でごった返している。孫たちと“再会”し、「除染処置不要のレベル 問題なし」の証明書をもらい、紹介された避難所(西郷村の国立那須甲子青少年自然の家)へ向かうころには、夜9時を回っていた。

ところが、そのあとに“誤算”が生じた。青少年自然の家は国道289号から少し入ったところにある。阿武隈川の源流部だ。県南保健福祉事務所からはそれなりの距離があるとはいえ、1時間もかかるようなところではない。それを最初に頭にたたきこんでおけばよかったのだが、息子にまかせきりにした。カーナビ頼りである。

県南保健福祉事務所で地図をもらい、息子が目的地の電話番号を入力してカーナビに道案内をさせたら、どんどん南下して栃木県那須町に入った。おかしい。そう気づいてUターンし、あらためて地図を確認したら、国道289号からはずいぶん離れていた。

いったん国道4号へ戻り、途中からショートカットをして289号に出る。あとは一直線。助手席のカミサンが地図を眺め、標識を確かめながら、山へ入る。と、次第に霧が深くなってきた。まさに五里霧中だ。2メートル先が見えない。それ以上、車のライトが届かないのだ。

あとで知ったが、青少年自然の家のあたりは標高およそ1,000メートル。雪でなくて霧でよかった。ノーマルタイヤだから、雪が降ればお手上げ。実際、翌朝には雪が積もっていた=写真。「ノーマルタイヤで来るのはアブノーマルですかね」。何日か後、施設のスタッフに軽口をたたいたら、彼女は真顔でうなずいた。

それはさておき、漆黒の闇の中、霧の奥にぼんやり明かりが見え、そこが青少年自然の家の玄関だと知って、ようやく車を横付けした。バッグを手にし、事務室で手続きを取ったあと、指定された和室に向かう。8人が一緒になれる12畳の大部屋だった。

長い通路を歩いて和室にたどり着くと、4歳の孫が「つかれたでしょ。おつかれさまでした」とねぎらいの言葉を吐く。あまりにもタイミングがよすぎるために「あああ、疲れた」。大げさなしぐさで畳に倒れてみせた。

2011年3月27日日曜日

原発難民②


【不安】
3月11日午後2時46分の大地震に続いて、大津波が海岸部を襲った。そのとき、福島第一原発も“瀕死の重傷”を負った。12日午後には1号機の建屋で水素爆発が起き、13日には3号機の原子炉の冷却機能が失われたとして、東京電力が国に「緊急事態」を通報した。3号機は翌14日昼前、水素爆発を起こす。

国は12日、第一、第二両原発から半径10キロ圏内の住民に避難指示を出し、さらに第一については20キロ圏内まで拡大した。15日には新たに、20~30キロ圏内の住民に屋内退避を指示した。原発内部では爆発が相次ぎ、高濃度の放射能が漏れている――これが、15日午後に「いわき脱出」を実行する前後の状況だった。

大地震直後から、テレビ=写真=に情報を頼るしかないのがもどかしかった。原発やいわきの被害、つまり身近なことがなかなか把握できない。

14日には、近くに住んで「イクメン」をしている息子が4歳、2歳になる孫を連れてきた。わが家が2人の臨時保育園になった。強い余震がくるたびに息子が2歳児を、私が4歳児を抱えて外へ飛び出す。

息子は用事があって、一時帰宅した。暖かい南風に誘われて、孫二人としばらく庭で遊んでいたら、息子があわてて駆け込んできた。「また原発(3号機建屋)が爆発した、中に入って!」。このころから不安が大きく、深くなる。

ケータイはかからない。固定電話は、かかってくる分には話ができる。同じいわき市内に住む下の息子からの電話は「いわきを脱出しないのか」。昔の同業他社氏からは見舞いの電話が、若い記者氏からはいわき脱出の準備を勧められた。

夜までに、カミサンと自分とで下着その他をバッグに詰めた。荷物が5個ほどになった。あとは移動するタイミングをはかるだけだ。

どこへ避難するか。ときどきわが家へ遊びに来る若い夫婦=わが疑似孫(小5、小3の女の子)の両親=のうち、妻は白河市出身だ。白河を目指すことにして、ルートや実家の住所と電話番号などを聞く。疑似孫はすでにそこへ疎開していた。

たまたま息子への電話が通じたので、脱出を打診する。準備はできているが、ヨメサンには職場勤務の指示が出ている。「今、脱出するわけにはいかない」という。

15日朝、息子がヨメサンを職場へ送って行く途中、わが家に寄って孫2人を置いていく。前日に続いて保育を引き受けなくてはならない。やや時間がたったころ、そろって帰ってきた。「自宅待機」になったのだという。今だ! 今しかない。まず、平・久保町のカミサンの実家へ向かうことにした。

すると、カミサンが「わたしは家に残る」と言って譲らない。民生委員なので、大地震の直後に独り暮らしの老人宅を巡って安否確認をしている。同じ日、わが家にやって来た区長さんにもお年寄りの無事を伝えた。役目は果たしたではないか、と言っても聞かない。口論の末に怒鳴ると、しぶしぶ車に乗った。

白河へ向かうのはいいとして、ガソリンが少ししかない。途中でエンストを起こすのは必至だ。カミサンの実家にガソリンの携帯タンクがあって、大地震の直後、車のほかにそれにも充填したことを聞いていた。実家に着いてすぐ確かめる。まだ使われずにあったので、譲ってもらう。携帯缶のガソリンを入れると、燃料計の針が真ん中を指した。

車はホンダのフィット。ハイブリッド車を除けば燃費ナンバーワンのエコカーだ。ガソリン食いのパジェロでなくてよかった。十分、白河へ行ける。移動する気持ちが固まった。

実家の近くに住むカミサンの妹とその娘も合流した。計8人。昼食をすませたあと、2台の車に分乗していわきを離れることにした。これは現実か、それとも夢か。カラスが近くの電信柱に来て止まった。<おまえ、大丈夫かい>。車に乗り込みながら、小さな生き物の存在がかなしく、いとおしく思われた。

2011年3月26日土曜日

原発難民①


【まえがき】
ほんとうは「あとがき」かもしれない。が、きのう(3月25日)のブログのとおり、一週間あまり「原発難民」だった。避難先の西郷村からいわき市へ戻ってきて2日目のおととい早朝、行きつけのスタンドで2時間余を待って(21台目=写真)、車のガソリンを満タンにした。

油が入れば心おきなく用を足すことができる。街へ出かけ、新聞販売店を回って、大震災以後、不配になっていた新聞を調達した。オープンしている医院に飛び込み、高血圧と尿酸の薬を処方してもらった。(テレビやラジオとは違って、新聞は一覧性がある。そこから広く、あるいは深く物事を考えるようになる。そのことをあらためて感じた)

帰りは夏井川の堤防に出た。半月ぶりに見る「わが心の川」だ。岸辺のヤナギが芽吹いていた。ハクチョウは北へ帰ったのだろう、姿はどこにもなかった。放射能が空から降ってくるというのに、いつもと変わらぬ服装で犬の散歩をしている人がいる。リスクは覚悟の上か。

きのう午後には水道も復旧した。久しぶりに風呂を楽しんだ。懸念材料が一つだけになった。残った一つは凶悪で、神出鬼没で、すぐ後ろにきたかと思うと、面前に来て笑っているかもしれない.――そんな「見えない敵」だ。

以下は本文、「東日本大震災」に発した「原発難民」の記。それは、あしたから。

2011年3月25日金曜日

震災記


あの日(3月11日)、パソコンが棚からすべって落っこちたせいではないだろう。というのは、地震に関して2回、このブログを発信できたからだ。その後、なぜかインターネットに接続できなくなり、あれこれやっているうちにますますおかしくなった。で、私の「低テクノロジー」ではどうにもならなくなって、ブログでの発信をあきらめた。

それからすぐ、隣接する双葉郡の原発が「怖い」と書いたとおりになった。わが家の近くに住む息子一家、とりわけ4歳と2歳になりつつある孫のことを考えると、ここは「自主避難」をするしかない。

息子たちと合流し、さらにカミサンの妹と娘に連絡をして、計8人、車2台でいわきを離れ、白河市へ向かい、スクリーニングを受けて、指示された西郷村の国立那須甲子青少年自然の家に入所した。

ここでの避難生活は15日夜更けから23日午前10時ごろまで、あしかけ9日間に及んだ。「なすかしの森」のスタッフのみなさんには、ほんとうにお世話になりました。

23日午後、わが家へ戻った。戻った以上はブログを再開しなければ――。とはいっても、「低テクノロジー」ではお手上げ状態に変わりはない。

公務に就いている若い友人(わがパソコンの師匠)に電話したら、「きょう(24日)はやっと早めに帰ることができる」というので、家へ直行してもらった。それで、再びインターネットを使えるようになったので、書きためていた「震災記」の一部をアップすることにした、という次第。引き続き「原発難民記」を書きます。

【3月12日】
いわきで震度6弱の「東日本大震災」に襲われた2日目だ。夜10時24分ごろ、震度5弱の横揺れがきた。12日のなかで一番大きな揺れだったかもしれない。震源地は福島県沖。11日午後2時46分ごろの、最初で最大の一撃に比べたら、時間も短く、揺れ方も弱かった。とはいえ、絶えず余震が続いている。震度5弱にはさすがに肝を冷やした。

ケータイがかからない。固定電話も田村市の実家にかけたときには通じたが、以後は「込み合っています」になった。外からはかかってくる。息子とはそれで連絡が取れた。カミサンの実家からも電話がかかってきた。

田村市の実家では、家は倒れなかったが壁が崩れた。カミサンの実家では蔵の壁が崩れた。息子のヨメサンの実家は久之浜。家並みが津波と火災に襲われた。ギリギリのところで実家は焼けずに残った。ご両親は中学校に避難している。

地震、津波だけではない。放射能にも注意が要る。避難指示の範囲が福島第一原発から半径20キロに拡大され、建屋の爆発が起きた際には一般市民が被曝したという。いわきは第二原発からは半径15キロ圏内だ。いつ避難してもいいように心の準備だけはしておかないと。

家の中の片づけも進まない。1階の茶の間、台所、寝室は片がついたものの、2階はしばらく散乱したままにしておく。片づけようという気持ちが起きないのだ。もっと落ち着いてからにしよう。

【3月13日】
朝7時ごろ、息子から給水所へ行かなくては、という電話が入る。知人から「井戸水ならあります」という連絡が入っていたので、あるかぎりの容器を持って夫婦で出かけた=写真。給水所へ出かけても待たなくてはならないので、知人の家へ向かったのだ。知人は公務員。召集がかかっていて出かけるところだった。

飲むためには一度煮沸しなくてはならない。水洗トイレには十分、間に合う。わが家は水洗ではないから水は必要がない。二度往復して、ひとまず洗い水、飲み水にはめどをつけた。

最初の地震のマグニチュードが9に修正された。徳川幕府開府以来、400年間で最大の地震だという。延宝5(1677)年11月、磐城沖で地震が発生し、津波で家屋1千戸が流失、500人が亡くなった。それ以来の巨大地震ということか。

M9に修正された結果、3日以内にM7以上の余震(6弱)が起きる可能性は70%だという。もういやというほど建物がゆすられている。ダメージがある。そこに最初のときのような揺れがくるとしたら怖い。

【3月14日】
古巣のいわき民報(夕刊)はどうなったか。わが住む平中神谷地区は東南アジアからの留学生が配達を担当している。大地震が発生した11日から夕刊が届かない。12日になっても同じだ。13日は日曜日で休刊。14日早朝、心配になって、自転車で様子を見に行った。

わが家から古巣の会社まではざっと4キロ。国道6号を走り、東日本国際大前から右折して旧国道に入り、さらに常磐線沿いの道路を西進する。平神橋の両たもとの道路がやや沈んでいる。イトーヨーカドー平店の歩道も、いわき駅周辺の歩道も部分的に沈み、波うっている。

古巣は無事だった。入り口に張り出された12日付の新聞を見て、体がふるえた。12日午後2時半現在で、いわき市内の死者は45人、行方不明者は20人。これは調査が始まった時点でのものだろう。実際、14日付の夕刊では午前11時半現在で死者117人、行方不明者31人に膨れ上がった。

「互いに励まし合い頑張ろう」。みなみ支社・荒川宏史記者が書いている。「目を覆うほどの惨状となっている被災地を歩き続け、インタビューをした永崎の女性に栄養ドリンクをもらった。瓶には砂がたくさんついている。女性の家は津波が押し寄せ、1階部分は壊滅状態。にもかかわらず『頑張って』と逆に励まされた」

惨状をできるだけ詳しく伝えようと後輩たちが走り回っている。荒川記者は自分の車が津波にのみこまれた。本人は間一髪、福島県小名浜港湾事務所に駆け込んで命拾いをした。あとで聞くと、T記者も車を津波にさらわれた。S記者は自宅が海のもくずとなった。

いわきに本社のある新聞社の宿命だろう。記者自身が被害者ながら取材を続けなくてはならない。胸にこみ上げるものを感じながら、やはり「頑張れ」と胸の中でつぶやくしかなかった。

2011年3月12日土曜日

原発が怖い


余震が続く。一発目の激しさを体験してしまったら、震度4も3もへっちゃらだ。揺れる、揺れる。「緊急地震速報」も役に立たない。グラッときて5秒ほど過ぎてからテレビが伝える。すると、<またくるのか>とこちらの行動がストップする。速報の意味がない。

福島県の浜通りには原発がある。その原発がおかしくなった。日本で、福島県で、浜通りで、起こってほしくない事態が起きた。放射能漏れが起きた可能性があるという。菅首相がヘリで原発を見に来るという。何のために?

いわき市は原発立地町の南にある。浜通りというくくりでいえば、原発をかかえたエリアに入る。原発からの避難指示が3キロから10キロに拡大された。それがさらに拡大されて、いわきまで避難指示の範囲に入るのかどうか。

それよりまず、わが家の片付けだ。1階の部屋のうち、倒れた本棚、棚から落下した物=写真=をもとに戻す。とはいっても、電気スタンドなどは壊れてガラス片が散乱している。台所の食器は、今朝、カミサンが片付け始めた。

電気は大丈夫だが、水は出ない。きのうの夕方、水が細くなったなと思ったら、宵には止まった。カミサンがコンビニに駆けつけ、氷を買ってきた。融かせば水になる。トイレも水洗ではないので問題はない。ただただ原発が怖い。

2011年3月11日金曜日

大地震がきた


3月11日午後2時46分ごろ、大地が揺れた。揺れて、波うって、今にも大地に亀裂が入るのではないか、と思われるほどの大地震になった。

茶の間で横になって本を読んでいた。だんだん揺れが大きくなった。<ただごとではない>。庭に飛び出して車の屋根に手を置いた。車がぼんぼんとびはね、前後する。二本の足では立っていられない。

1分、いやそれ以上、揺れていたのは何分だろう。揺れが収まった時点で家に入る。本棚が倒れ、食器が落ち、テレビが倒れている。2階も足の踏み場がない。

ここは、いわき市平中神谷地内。カメラを手に家の前の道路に出る。ちょうど小学生の下校時間だ。低学年の女の子が隣の駐車場にぺたりと座り込んで泣いている。石のかけらが頭にぶつかったという男の子がいた。見ると、歩道そば、民家の石塀が崩れて歩道をふさいでいた=写真。このかけらが頭に当たったのだという。

となりは元コンビニ。駐車場が広い。子どもたちはそこにひとかたまりになって、大人になだめられていた。ざっと見たかぎりでは、子どもたちは無事だった。近隣住民にもけが人などはいなかったようだ。地震からおよそ1時間たつが、とぎれることなく余震が続いている。津波が心配だ。

半月ぶりの散歩


2月下旬からおとといまでざっと半月、夕方の散歩をさぼった。風邪を引いて家にこもっていたのだ。図書館へ、イベント会場へ――必要な資料を探す、しゃべる、顔を出す。そのための外出だけにとどめた。

人の前でおしゃべりしたり、イベントに顔を出したりしなければならなかったのは、風邪がこじれる前。

熱はなかった。のどと鼻がやられた。だから、仕事はそれなりにできた。が、その中身は資料の読み込みにすぎなかった。はたから見たら単なる読書だが、4月からの新しい仕事の準備として欠かせない。「一日一冊」の読書(資料読みなら2~3冊)を日課にしている。風邪を引いていても手が抜けないのだ。

風邪、仕事。時間がない。切羽詰まると、なんだか別のことをやりたくなる。仕事と関係のない本を読み始める。法然、福沢諭吉、中村哲……。本に飽きると本を読む――というのは昔からのならいで、絶えず二本立て、三本立てで本を読んでいる。とはいっても、体は別だ。足を鍛えないと――。

いつもの散歩コースを行くと、風景の細部が変わっていた。近所の路地の下水道工事が終わりにかかっていた。国道6号から路地にかけてアスファルト舗装の工事が始まった=写真。きょうは3月11日。8日に工事を見て、9日は夕方、雨になったので散歩を中止し、10日に足を運んだら、舗装工事が完了していた。

夏井川の堤防に立つと、人間の住む「堤外」の畑ががらりと変わっていた。ネギが消えていた。今冬の収穫・出荷が終わったのだ。この半月間にネギの収穫が終わり、石灰がまかれて耕起をすませていた、そんな畑もある。耕運機を動かしている人もいた。畑は春・夏野菜の栽培準備に入った。

民家の庭の梅の木も、白い花だけでなく赤い花もつけるようになった。堤防の斜面のスイセンはすでに満開だ。先日、野焼きにあった土手では、カンゾウの若芽がびっしり生えていた。

「寒さの冬」を思わせる冷たい風が吹く一方、「光の春」がキラキラと夏井川の水面に反射していた。ウグイスの初音が聞かれるのも近いだろう。

2011年3月10日木曜日

昼の地震


このごろ、カレンダーの日曜日と自分の日曜日とが合わなくなってきた。

ざっと3年前、会社をやめたときにはまだ“残像”があって、日曜日は日曜日だった。が、1年がたち、2年が過ぎると、日曜日の行事が増えて、自分の日曜日が月曜日にずれ、火曜日にずれ、このごろは水曜日にまでずれこむようになった。

(今、ふと思った。会社人間としての現役は卒業したが、社会人間としての現役が始まったのだ)

きのう(3月9日)は朝から昼過ぎまで、夏井川渓谷で過ごした。日曜日がこの日までずれ込んだのだ。無量庵の雨戸を開けて春の光を入れる、生ごみを埋める、庭の春を探す。それらを含めて自分の時間を楽しむ――というのが最近のならいだ。

間もなく正午、というときに、家がカタカタいいはじめた。急に風が吹き始めたかと思うくらいに、揺れは外からやってきた。大地の底からグラッとくる感じではなかった。<地震かな>。軽い身震いのようなものがしばらく続いた。そのうち、全体が揺れ始めた。<やっぱり地震だ>。それでも急にグラグラとはこなかった。横揺れだった。長かった。

こたつで本を読んでいた。真正面の対岸は岩盤の露出した急斜面だ。その林を凝視し続けた=写真。前夜に雪が降ったらしい。モミや裸の木の枝が雪をかぶっていた。林床も雪化粧をしていた。急斜面だから、しょっちゅう落石がある。地震の影響(落石)がないものか。目前の山に神経を集中した。見た目では、「崩れ」はなかった。

NHKラジオはすぐ特番に切り替わり、津波への警戒を伝え始めた。臨海の役場に電話を入れて状況を聞き始めた。

<あれっ>と思った。「港に人はいませんか」。いたら注意してください――まるで命令しているようなアナウンサーの口調だ。有事になると、NHKはオカミになるわけだ。なるほど。

2011年3月9日水曜日

<いわきの宝をさがす>


いわき経営推進懇話会に所属する知人から電話があった。定例会でいわきの文化人の話を、という。何年か前にも別のテーマで引き受けたことがある。断る理由がないのでOKした。

日時はその場でメモした。会場はプリントアウトされた地図が後日、届いた。いわきの文化人といっても漠然としている。いわきの文芸史を貫く「短詩形文学」(和歌・俳句・詩)にしぼってレジュメをつくり、知人に渡した。

この種の会合にしては珍しく内郷・国道6号沿いの食堂が会場だ。ふだんは通過するだけの、内郷駅近くの「目抜き通り」である。暮れなずむ通りを、通過車両がひっきりなしに往来していた。通りを歩くのはいつ以来か、ちょっと思い出せない。店に入るのはもちろん初めてだ。

夕食をとりながら、配られた資料を読む。同懇話会の今年の年間テーマは「歴史と文化<いわきの宝をさがす>。「短詩形文学」は、それこそいわきが誇る宝だ。戦国時代の連歌師猪苗代兼載から始めて、江戸時代の俳諧大名内藤風虎とその子露沾、明治~現代編では歌僧天田愚庵から詩人草野比佐男まで、20人ほどを紹介した。

話を終えたあとは、質疑応答を兼ねてしばらく懇談した。前はいつ話したのだったか。当の本人が「20年くらい前じゃないの」というと、知人が首をかしげる。懇話会の副会長さんが記録を見ながら、正確には平成14年5月で、テーマは「アカヤシオの谷から」だったことを告げる。9年前だ。なんていい加減な記憶か。

最後に、みなさんの写真を撮らせてもらって辞去すると、9時だった。夜のとばりが下りた「目抜き通り」は寂しく静かに眠り始めていた。

2011年3月8日火曜日

バイブレーション


絵を見るとき、音楽を聴くとき、本を読むとき―いや、人間としてなにか大変なものに出くわしたときも―私は「バイブレーション」という「共振器」で良し悪しを判断する。

分かるにこしたことはない。つまり、「コミュニケ―ション」というはかりが作動している分には、それでもかまわない。が、分からないからだめだとも思わない。心身が共振するかどうか――20歳前後にある絵を見て、体がふるえたことがある。そのときの体験から感動は共振(バイブレーション)だと思い定めている。

20世紀最後の10年間にソ連・東欧圏がなだれをうって崩壊した。そのとき、やはりバイブレ―ションを感じた。それと同じようなバイブレーションを、今、イスラム社会に感じている。

今回はしかし、それにとどまらないのではないか。中国へ、いやその前にアメリカ合衆国へ(めぐりめぐって日本へ)巨大な隕石が落ちないか。恐竜=写真(いわき市石炭・化石館)=が死滅するようななにかが起きるのではないか、世界史ががらりと書き換えられてしまうのではないか、という恐れ――。そんな強いバイブレーションに支配されている。杞憂であってほしい。

世界はローカルであるべき。哲学者内山節の書物を座右に置く私は、彼にならってそう考えているのだが、チュニジア・エジプト・リビア、その他のイスラム社会の激動をみると、一気にそちらへ雪崩を打っている――そんな印象を受ける。

なぜ、ローカルなのか。こういう言い方が、あるていど有効だとしたら、の話。先進国の近代化は都市化と工業化によってなしとげられた。ならば、脱近代化(ポストモダン)は? 脱工業化は「情報化社会」として実現しつつある。脱都市化は? 一つのモデルは「森林化社会」だろう。つまりローカル、というのが、国土プランナーたちの見立てだ。

その考えに私はおおむね賛成で、ずいぶんいわきのこれからを考える力になった。それさえアメリカ流のポストモダンだったとしても。

ところが、近代化の過程を経たとはいえない国々でも「情報化」が進んだ。アメリカの思惑が別な形で早々と実現してしまった。インターネットが権力の監視と支配の「臨界」を超えた。市民の逆襲が始まった。

ポストモダンどころではない。前近代も、近代化途中もひっくるめて、市民は「情報」を手にして立ち上がった。世界はいよいよ細分化していくのではないか。そうさせまいとする旧勢力との間で、破壊と無秩序が繰り返されても。

2011年3月7日月曜日

夏井川河口の水鳥


閉塞したままの夏井川河口は、だんだん川ではなくなっているのだろうか。ちょっと北に仁井田川がある。二つの川は海岸線に沿って流れる横川でつながっている。仁井田川の河口が閉塞していたために、仁井田川の水は横川を通じて夏井川河口から太平洋へと還っていた。それが今は逆になった。「大」が「小」に吸収された。

夏井川河口には、冬、ハクチョウは飛来しなかった。翼を傷めて残留した「左助」が夏、少し上流からくだってきて、ひとり潮風に吹かれていることはあった。それがこのごろは、えさにあぶれたというより、えさをもらえなくなったために、ハクチョウたちが分散・越冬するようになり、その一部が夏井川河口に現れるようになった。

「左助」はもういない。同じように翼をけがして残留した「左吉」「左七」も星の世界に翔んで行った。

ハクチョウと違って、冬鳥のカモたちは昔から飛来してはいた。マガモ・オナガガモ・コガモ……。ほかに潜水ガモのアイサ類。カイツブリも。

ある日の夕方、左岸堤防を車で行くと、カモたちが大挙、羽を休めていた。なかに1羽、首が白く長い水鳥がせわしく泳ぎ回っていた。車に置きっぱなしの双眼鏡をのぞくと、アイサだった=写真。あとで図鑑を見たらミコアイサの雌か幼鳥らしかったが、よくはわからない。

それより、夏井川河口だ。流れが死んだようになったから、ハクチョウが羽を休めるようになった側面もあるのではないか。県は「死に体」の夏井川河口をどうよみがえらせるのか。「環境知事」ならばとっくに抜本対策を厳命しているはずだが、現実には工事を施しても海からの逆襲にあってすぐ閉塞する。

「河川改修工事」の看板が立った。今度こそ抜本対策が取られるのだろう。

2011年3月6日日曜日

田村隆一と長谷川渉


きのうに続いてきょう(3月6日)も本の話です。なんだか読書日記のようで恥ずかしいのですが。まあおつきあいください。

草野心平の年譜作成者は、心平と同郷の長谷川渉(1934~93年)。渉の妹さんから昨秋、渉の本を借りた。渉が一時、勤めていた業界紙「建設日報」(タブロイド版隔日刊)に、社長の西村直次郎氏が書き、渉が書いたコラムをそれぞれ選んで一冊(合著)にした。ハードカバーのB6判『見聞巷説抄』(1978年建設日報社発行)だ。

渉は文学的な薀蓄を抑えて、小出しにして世相を論じている。「軍歌」というタイトルではしかし、一転して詩人の田村隆一を前面に出す。「戦争をくぐり抜けてきた者として、戦後の十年間を最も先鋭的な言葉で捉えた『四千の日と夜』の詩人田村隆一氏は、ある時期、ある酒場に行くとよく軍歌を唄っていた」

その歌は「同期の桜」「若鷲の歌」「ラバウル小唄」「「加藤隼戦闘隊」「轟沈」「空の神兵」「ズンドコ節」「ダンチョネ節」その他である。「ねじり鉢巻きをし、身をよじり手拍子を打ちながら、殆んど切れ目もなく蜿蜒と続くのである」。田村隆一は心平とも親しかった。渉は隆一を間近に見ていたのだろう。

「元海軍中尉だったこの詩人は、事更さかしらに戦争の話を喋々はしない。ただ酔って軍歌を唸るだけである。それだけで氏にとっての戦争は充分に過ぎるからだろう」「本当の悲しさは沈黙をもたらす。だから、『四千の日と夜』は、言葉を失なったところからはじまる。そして黙ってその傷口の断面を見せてくれる」

『見聞巷説抄』を読んでいたころ、いわき総合図書館の新着図書コーナーに『田村隆一全集』が1冊ずつ立った。そのつど借りて読んだ。二人の本の遭遇を祝してパチリとやった=写真

渉が『草野心平日記』に最初に登場するのは、昭和30(1955)年6月。21歳のとき。以前から渉は心平の家に入りびたっていたようだ。

同30年7月には「渉君、新潮社の詩の原稿もってくる。/それを見る。園生君きたる。渉君と園生君に手伝ってもらって大体の下選びをすませる」。渉が心平の指示で新潮社へ出かけたに違いない。それはどうやら「小説新潮」の投稿詩選だった。

昭和34(1959)年11月「(略)小説新潮の詩選の仕上げ、ギリギリ。渉君くる。新潮社へとどけてもらう。10,000.平凡社にもより日本詩歌集の印税もらってきてもらう」。同「(略)宗君よりもらった切符で渉君と一緒に早慶戦を見に行く。小雨」。同12月「今日もまた庭いぢり渉君と」

渉は心平の家に出入りしては、心平の手足となり、口となり、目となり、つまり分身となって結構、忙しく立ち働いた。しかし、カネなどはもらえなかったろう。渉はそれでもよかったのだ。不思議なことだが、この『心平日記』から渉の人となりが浮かび上がってくる。

2011年3月5日土曜日

『100年前の女の子』


いつか読まなくてはならない本がある――。買って読むか、図書館にリクエストして読むか。その1冊が、去年(2010年)出た船曳由美著『100年前の女の子』(講談社)だった=写真。新聞の読書欄に載ったときにそんな思いをいだいた。

月に一度、わが家のとなりに移動図書館「いわき号」が来る。いわき駅前のラトブのなかにある総合図書館へはよく行く。それで、だいたい用は足りる。が、移動図書館ならではの本がある。これは不思議だ。で、「いわき号」の本棚ものぞく。

ただ、今回は風邪に打ちのめされていたので、地域文庫(かべやぶんこ)をやっているカミサンが選んだ本をあとでながめた。そのなかに『100年前の女の子』があった。

著者の母親は大正時代に幼・少女期を過ごした。生まれてすぐ実母と引き離され(母は里に戻ってその子を産んだあと、嫁ぎ先に帰らなかった)、もらい乳をして生き延び、幼いままよそにあずけられ、あるいは養女にやられたあと、実家に戻る。そのあと、女の子は高女へ行き、東京へ出て働きながらさらに学ぶ。新渡戸稲造さんたちの薫陶も受ける――。

生い立ちはそうだが、本は、その母親が記憶している村の四季・暮らし・行事などを聞いて生き生きと再現した。著者は編集者だ。

日本のどこにでもあった昔なつかしい村のすがたが立ち現れてくる――という認識は、著者の弟の東大教授と同年齢の人間にも納得がいく。高度経済成長政策が村の暮らしをミキサーにかけ、肉体的にはきついがのどかな時間をシュレッダーにかけた。

そうなる前の、連綿と続いていた村の暮らし――。ランプのホヤ掃除、風呂の水汲み、放課後の清掃、イナゴ捕り、田植え手伝い、富山の薬売り。良し悪しではない。ランプのホヤ掃除を除けば、少なくとも団塊の世代までには共通の思い出ではないか。

私は、阿武隈の山中に独居していた母方の祖母の家での思い出が、なにか宝物のように思われてならない。春・夏・冬休みになると、何日かそこで過ごす。兄がいたときもあるが、たいていはひとりだった。『100年前の女の子』に出てくるランプのホヤ掃除、これを小4、あるいはもっと上のころ、兄とともにやった(やらされた)記憶がある。

ホヤ掃除は手の小さい子どもの仕事。布を手に巻きつけてホヤの内側の油煙を取ってからそうっとみがく――『100年前の女の子』の世界は、そのまま昭和30年代の、阿武隈の山の中の世界だった。と同時に、ホヤをみがくときの感覚が人さし指にもどってきた。口数少ない祖母の、温和なまなざしも。

2011年3月4日金曜日

雨樋がひん曲がる


冬に逆戻りして強風に見舞われたおととい(3月2日)、西側1階の雨樋が途中からはずれてひん曲がっていた。隣の駐車場にはみだして風にもまれていたのを、知人にカミサンが教えられた。車に傷をつけたらコトだ。とりあえずはプラプラしないようにビワの木の枝にしばりつけた=写真

雨樋のメンテナンスなんかはおそらくだれもやらない。更新時期がきたのか。ざっと30年前、平屋を2階建てに改築した。そのとき、2階東側には物干し場を設けた。当然、瓦を新しくふき、雨樋を新しくした。

工事がしっかりしていたとは思われない事態がやがておきる。数年はたったあとだったか。横なぐりの雨、つまり台風その他の暴風雨がくると、物干し場の下のトイレに雨が漏る。それが今に続いている。建築を請け負った会社は倒産してすでにない。

物干し場の鉄柵も錆び始めた。いや、錆びて途中から折れてなくなっているのもある。これは、ペンキの塗り替えもせずに放置しておいたこちらの怠慢だろう。

物干し場には排水口が二つある。落ち葉や砂がたまって排水がままならなくなった。一つを棒で穴の奥までガチャガチャやっていたら、傾斜しているプラスチックの雨樋に穴が開いた。雨水は以来、そこから直接、滝のように流れ落ちる。

4歳の孫が遊びに来ると、物干し場に出たがるようになった。今のところは目を光らせているからいいが、勝手に2階に上がるようになるかもしれない。それは時間の問題だ。鉄柵を直さないと――とは思っていたが、雨樋も――となって、少し頭が痛い(のは私でしょ、とカミサンがいうに決まっている)。

2011年3月3日木曜日

テレビがきた


ほぼ1カ月ぶりだ。新しいテレビがわが家にやってきた=写真。前のテレビが駄目になった。修理が可能ならなおしてください。しかし、新品より高いなら買い換えます――と言ってあって、買い換えることになった。新品より修理代が高い。ばかばかしい。

この1カ月、ラジオになじんだ。ラジオの面白さを再発見した。NHK朝の「ラジオビタミン」なんかは、すっかり耳なじみになった。朝、ハウスで農作業をしている人たちが聞いている。私も茶の間で仕事をしながら聞いてます、とファクスを送りたくなった。というわけで、新聞の最終面(テレビ欄)はまるで必要がなかった。

テレビだけというのは、それでちょっと考えにくい。テレビとラジオを使い分ける。茶の間が仕事場だから、仕事をしているときにはむろん、テレビは見ない。現役のころはラジオも聞かなかった。が、茶の間は一人の職場だ。気兼ねする必要がない。ラジオなりの情報が入る。その最たるものが全国から寄せられる生物季節情報だろう。

梅が咲いた。フキノトウを摘んだ。ウグイスが鳴いた。スイセンが満開になった。花前線がわかる。鳥前線がわかる。いわきの「梅前線」は今、夏井川渓谷の牛小川あたりに到達した。それはこの目で確かめている。ウグイスは、いわきの平地ではまだ。ということで、時節をはかる目安にもなる。

地デジ問題でもこの1カ月で、テレビが見られないならラジオを聞く――というのが、一つの選択肢かなと思うようになった。なにがなんでもテレビという気持ちはなくなった。どうでもいい番組が多すぎる。見たいという気持ちが全然わかなかった。それも後押しをしている。

2011年3月2日水曜日

長い竹藪


草野心平の詩に「故郷の入口」がある。平駅(現いわき駅)に着いたあと、「ガソリンカー」に乗り換え、ふるさとの小川へ向かう。赤井、小川郷と駅は二つ。途中、左手に三野混沌・せいのいる好間・菊竹山の一本松が見える。

心平は回想にふける。「北海道釧路弟子屈の開墾地での苦闘の果ての失敗から。女房の骨壺をリユツクに背負い。帰つてきた猪狩満直とこの道をとほり登つていつた。/その時三野の小舎のなかには。蜜柑箱の上に死んだばかりの子供の位牌があり。香爐代りの茶箱の中の灰には線香が二三本ささつてゐた。」

ガソリンカーは赤井駅に止まって発車する。赤井と小川の境の切り通しが近づく。「切り割だ。/いつもと同じだ。/長い竹藪。/いつもと同じだ。」。下小川の「長い竹藪」は今も夏井川の両岸を小川郷駅の方へと伸びている=写真。真竹のようだ。自然繁殖をしたのだろう。竹林内はうっそうとして暗い。

心平の詩を読んでから、夏井川そばの下小川の道路を通るたびに「長い竹藪」を見る。これだって手を入れれば立派な記念物になるのではないか。

それに、間伐した真竹を利用してなにか細工する。例えば、竹炭。ただの真竹ではない。心平の詩に出てくる「長い竹藪」の真竹だ。いくらでも活用する方法があるのではないか。そんなことを思うのだが、無理か。

2011年3月1日火曜日

声が出ない


風邪をこじらせたらしい。きのう(2月28日)の朝起きて、なにかをしゃべろうとしたら、声が出ない。歌手の森進一さんどころではない。政治家の与謝野馨、平沼赳夫さんはまだまし。まったく音声にならないのだ。「あ」と言っても、「あ」のかたちの唇から空気が漏れるだけ。のどが痛い。鼻もぐずぐずしている。

おとといの日曜日でなくてよかった。その日午後、いわき市小川町の草野心平生家で「草野天平の集い」が開かれた。「生誕101年」の前日だ。いわき市立草野心平記念文学館から頼まれて、「天平の作品とふるさと」というテーマでおしゃべりをした=写真。

直前に風邪を引いた。集いの二日前から常備薬を服用していたが、治らない。かすかにのどが痛かった。それでもなんとか40分ほどしゃべった。頭がぼんやりしていたこともあって、自分の中ではしゃべろうとしていたことの80%くらいしか伝えられなかった。少し後悔した。

その最たるものは、天平の絶筆「私のふるさと」について。天平が口述し、妻の梅乃さんが筆記したものだが、その文章を読んだときの感想として、天平の魂はすでにふるさと・小川に帰っていたのではないか、ということを言いたかったのだが、すっぽり抜け落ちた。

「天平は『歩く人』」という観点で話した。息子の杏平さんもお見えになったが、ご本人にとっては当たり前の父親の姿だったろう。ただ、西行・芭蕉・賢治・ソロー・スナイダーといった「歩く人」の系譜の中で天平を語ることができたのは、私にとっては喜びだった。