2011年3月6日日曜日

田村隆一と長谷川渉


きのうに続いてきょう(3月6日)も本の話です。なんだか読書日記のようで恥ずかしいのですが。まあおつきあいください。

草野心平の年譜作成者は、心平と同郷の長谷川渉(1934~93年)。渉の妹さんから昨秋、渉の本を借りた。渉が一時、勤めていた業界紙「建設日報」(タブロイド版隔日刊)に、社長の西村直次郎氏が書き、渉が書いたコラムをそれぞれ選んで一冊(合著)にした。ハードカバーのB6判『見聞巷説抄』(1978年建設日報社発行)だ。

渉は文学的な薀蓄を抑えて、小出しにして世相を論じている。「軍歌」というタイトルではしかし、一転して詩人の田村隆一を前面に出す。「戦争をくぐり抜けてきた者として、戦後の十年間を最も先鋭的な言葉で捉えた『四千の日と夜』の詩人田村隆一氏は、ある時期、ある酒場に行くとよく軍歌を唄っていた」

その歌は「同期の桜」「若鷲の歌」「ラバウル小唄」「「加藤隼戦闘隊」「轟沈」「空の神兵」「ズンドコ節」「ダンチョネ節」その他である。「ねじり鉢巻きをし、身をよじり手拍子を打ちながら、殆んど切れ目もなく蜿蜒と続くのである」。田村隆一は心平とも親しかった。渉は隆一を間近に見ていたのだろう。

「元海軍中尉だったこの詩人は、事更さかしらに戦争の話を喋々はしない。ただ酔って軍歌を唸るだけである。それだけで氏にとっての戦争は充分に過ぎるからだろう」「本当の悲しさは沈黙をもたらす。だから、『四千の日と夜』は、言葉を失なったところからはじまる。そして黙ってその傷口の断面を見せてくれる」

『見聞巷説抄』を読んでいたころ、いわき総合図書館の新着図書コーナーに『田村隆一全集』が1冊ずつ立った。そのつど借りて読んだ。二人の本の遭遇を祝してパチリとやった=写真

渉が『草野心平日記』に最初に登場するのは、昭和30(1955)年6月。21歳のとき。以前から渉は心平の家に入りびたっていたようだ。

同30年7月には「渉君、新潮社の詩の原稿もってくる。/それを見る。園生君きたる。渉君と園生君に手伝ってもらって大体の下選びをすませる」。渉が心平の指示で新潮社へ出かけたに違いない。それはどうやら「小説新潮」の投稿詩選だった。

昭和34(1959)年11月「(略)小説新潮の詩選の仕上げ、ギリギリ。渉君くる。新潮社へとどけてもらう。10,000.平凡社にもより日本詩歌集の印税もらってきてもらう」。同「(略)宗君よりもらった切符で渉君と一緒に早慶戦を見に行く。小雨」。同12月「今日もまた庭いぢり渉君と」

渉は心平の家に出入りしては、心平の手足となり、口となり、目となり、つまり分身となって結構、忙しく立ち働いた。しかし、カネなどはもらえなかったろう。渉はそれでもよかったのだ。不思議なことだが、この『心平日記』から渉の人となりが浮かび上がってくる。

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