2011年3月8日火曜日

バイブレーション


絵を見るとき、音楽を聴くとき、本を読むとき―いや、人間としてなにか大変なものに出くわしたときも―私は「バイブレーション」という「共振器」で良し悪しを判断する。

分かるにこしたことはない。つまり、「コミュニケ―ション」というはかりが作動している分には、それでもかまわない。が、分からないからだめだとも思わない。心身が共振するかどうか――20歳前後にある絵を見て、体がふるえたことがある。そのときの体験から感動は共振(バイブレーション)だと思い定めている。

20世紀最後の10年間にソ連・東欧圏がなだれをうって崩壊した。そのとき、やはりバイブレ―ションを感じた。それと同じようなバイブレーションを、今、イスラム社会に感じている。

今回はしかし、それにとどまらないのではないか。中国へ、いやその前にアメリカ合衆国へ(めぐりめぐって日本へ)巨大な隕石が落ちないか。恐竜=写真(いわき市石炭・化石館)=が死滅するようななにかが起きるのではないか、世界史ががらりと書き換えられてしまうのではないか、という恐れ――。そんな強いバイブレーションに支配されている。杞憂であってほしい。

世界はローカルであるべき。哲学者内山節の書物を座右に置く私は、彼にならってそう考えているのだが、チュニジア・エジプト・リビア、その他のイスラム社会の激動をみると、一気にそちらへ雪崩を打っている――そんな印象を受ける。

なぜ、ローカルなのか。こういう言い方が、あるていど有効だとしたら、の話。先進国の近代化は都市化と工業化によってなしとげられた。ならば、脱近代化(ポストモダン)は? 脱工業化は「情報化社会」として実現しつつある。脱都市化は? 一つのモデルは「森林化社会」だろう。つまりローカル、というのが、国土プランナーたちの見立てだ。

その考えに私はおおむね賛成で、ずいぶんいわきのこれからを考える力になった。それさえアメリカ流のポストモダンだったとしても。

ところが、近代化の過程を経たとはいえない国々でも「情報化」が進んだ。アメリカの思惑が別な形で早々と実現してしまった。インターネットが権力の監視と支配の「臨界」を超えた。市民の逆襲が始まった。

ポストモダンどころではない。前近代も、近代化途中もひっくるめて、市民は「情報」を手にして立ち上がった。世界はいよいよ細分化していくのではないか。そうさせまいとする旧勢力との間で、破壊と無秩序が繰り返されても。

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