2011年4月30日土曜日

見舞いを兼ねて


きのうの「みどりの日」、用事があって小名浜と四倉の知人を訪ねた。どちらも街中に家がある。津波で床上浸水の被害に遭った。見舞いを兼ねた訪問になった。

小名浜・古湊。1階の畳の上40センチまで海水につかった。玄関先で話をしたが、1階の部屋はすべて畳が取り払われ、床板がむき出しになっていた。知人にとっては、本は財産、いや心の糧そのもの。全集のような重い本は1階に置いておいた。それが大震災でバタバタ倒れたところに津波が押し寄せた。書庫の本も駄目になった。

四倉・西三丁目。店舗兼住宅が1メートル以上、海水につかった。小名浜の知人の家の壁もそうだが、四倉の知人の家の壁にも浸水した水位の跡が残っていた。店の奥の部屋はやはり畳が取り払われ、大工さんが入って作業をしていた。店内には眼鏡や時計が整然と展示されている。やっとそこまで整えられたのだという。

わが家から小名浜へは海岸に沿った道路で行く。途中、豊間、永崎を通る。見覚えのある車が永崎の海岸に止まっていた。元の職場の後輩の車だ。家がそこにある。祝日で会社は休み。後輩が津波被害を受けた自宅に戻って作業をしているのだろう。

小名浜からの帰り、家をのぞいたら、後輩がいた。半壊よりひどい状況だろうか。目と鼻の先に海がある。コンクリート護岸と海岸道路の間には家が数軒。どういうわけか、そこだけ護岸が破壊された。

しばらくは避難所暮らしを余儀なくされた。近くの高台に親類のセカンドハウスがあり、今はそこで暮らしている。これも要る、あれも要る。一度は捨てようと思ったものでも必要になって、家から持ち出しているという。

「いわき七浜」に限ったことではないが、海岸部はことごとく津波被害に遭った。北から末続、久之浜=写真、四倉、新舞子、沼ノ内、薄磯、豊間、永崎、小名浜、小浜、錦・関田須賀……。被害を「統計」としてみてはいけない、一人ひとりの被害を、一軒一軒の被害をこの胸に刻みこめ、と自分に言い聞かせる。

2011年4月29日金曜日

雑誌届く


一冊だけ定期購読をしている雑誌がある。いつものように、いわき市平字二町目の角忠に注文した。顔なじみの従業員が毎月、バイクで届けてくれる。そろそろ3月号が来るころだが――。雑誌を待っているところに「東日本大震災」が起きた。角忠がペシャンコになった=写真

素人目にも古い木造建築である。狭い空間に本がびっしり並び、その重みで店内がきしんでいるような感じを、いつも抱いていた。最初に入ったのが15歳、今は62歳。この45年余(カミサンはそれ以上)、店内の印象は変わらなかった。建物が全く同じなのだから。

「3・11」以来、1カ月半近くになる。雑誌はどうなったろう、角忠はどうなるのだろうと案じていたところに、従業員が3月号と4月号の雑誌を持って来た。

あの日、店には社長が1人でいた。すぐ逃げ出して無事だった。今は平字紺屋町の教科書営業所(社長の自宅)で営業を続けている。

一時、いわき駅前再開発ビルの「ラトブに入ったらしい」という話が伝わってきたが、ただの風聞にすぎなかった。震災跡地に店を再建するという。角忠の配達システムを利用している人間には心強い再建話だ。

角忠とのつきあいは長い。といっても、いつもバイクで本を届ける彼を通してのつながりだが。

現役のころは複数の雑誌を購読していた。単行本もよく注文した。「こんな本が出ましたよ」と言って、注文もしないのに本を持ってくることがある。それがまた、こちらの読みたくなるような本だから、ついつい引き取る羽目になる。

たかが雑誌だが、届いてみると、気持ちが晴れる。どっこい角忠は生きている。配達システムも健在だ。たくましく再建への道を歩み始めた。注文しない本も、見てよかったら、今までどおり買う。角忠は角忠。それでいい。それを通す。それが再建の本質だと思う。

2011年4月28日木曜日

土蔵解体


わが家と道路をはさんで斜め向かいにある家の土蔵が解体された。「3・11」で傾き、「4・11」「4・12」でさらにダメージを受けた。あとで丸太3本を支えにしたが、それは解体作業中に崩壊するのを防ぐための措置だったろう。

真壁の土蔵を板で囲い、瓦で屋根を葺いた、重厚だが温かみのある「歴史的建造物」だった。幹線道路沿いには、ほかに土蔵は見当たらない。歩道側の生け垣とよく合い、独特の雰囲気を醸し出していた。土蔵の前を下校中の小学生が通る。絵になる光景だった。

ブロック塀で仕切られた駐車場が土蔵に隣接してある。「3・11」以後、車の持ち主は塀から5メートルも離れて車を止めるようになった。土蔵が崩壊すればブロック塀ごと車が押しつぶされる。容易に想定される事態だ。その危険性はひとまず解消された。

あの日。外に飛び出すと、近所の石塀が崩れ、あちこちで屋根瓦が落ち、向かいの土蔵が傾いていた。消防の車が来て、「人的被害は?」「ない」=写真=で、消防は次のところへ移動した。

夏井川河口からは数キロ入った内陸部。大津波の被害は免れた。河口が砂で閉塞しており、それがかえって今回は波の力を減衰する“防波堤”の役目を果たしたか。

あれからきょう(4月28日)で四十九日。原発に怯えながらの生活が続く。この間にいろんな人の死を耳にした。行方不明の話も聞いた。

ある飲食店では、災害支援のカードを首から提げたシャプラニールの職員に、レジの男性が声をかけた。「富岡町には入らないんですか。両親がいなくなりました。誰も捜してくれないから、僕が捜しに行って母親を見つけました。父親はまだ見つかりません」。黙って男性の話を聞くしかなかった。

土蔵が取り払われると、そこはノッペラボーになった。風景が欠損した。物のいのちも含めて、鎮魂の合掌をする。

2011年4月27日水曜日

アースデイ東京③


東京行は、「アースデイ東京2011」に参加している「シャプラニール=市民による海外協力の会」のテントを訪ねるのと、銀座で開催中の「阿部幸洋版画展」=写真=を見るのが目的だった。4月24日がちょうど版画展の最終日だった。

「アースデイ東京」の会場は渋谷・代々木公園。午後2時にはシャプラニールのスタッフに別れを告げ、JR山手線で原宿から新橋へと移動した。

新橋駅銀座口から徒歩6分、とある銀座六丁目の画廊を目指すものの、遠回りしてしまったらしい。歩道に立っていたタクシー運転手に松坂屋の場所を聞き、松坂屋の裏では道路を清掃しているおじさんに銀座六丁目郵便局の場所を聞いて、ようやく局と並びの画廊にたどり着いた。

ネット情報によれば、画廊の入っているビルは関東大震災の翌年(大正13年)に建てられた。高層ビルの谷間に残った銀座の小さなビルだ。5階建てで、エレベーターは扉が手動式。勝手がわからない。ギャラリーはすぐ2階にある。階段を利用した。

画廊の経営者は、阿部の企画展を手がける画廊に長年勤めていた女性で、その画廊で一度お会いしたことがある。独立して画廊を開き、版画の個展が実現した。新旧の作品がスペインから届いた。

経営者とカミサン、合間に私。亡くなった阿部夫人のこと、スペインで阿部を助けるラサロ君のこと、今度の「東日本大震災」と原発事故のことなどを、涙を流しながら語りあった。

東京ではあの日、電車がストップして10万人を超す人が「帰宅難民」になったと聞く。首都圏の人間は、そのあと「計画停電」も経験した。

画廊のあるレトロビルの地下には老舗バーがある。近所にもバーがある。あれ以来、バーのようなところは客足が途絶えたという。見るからに高級だから、庶民は行かない。庶民ではない人が行く店なのに、彼らは庶民と同じように寄りつかなくなった。

日曜日は、銀座の中央通りが歩行者天国になる。いわきへ帰るには東京駅へ行かなくてはならない。東京メトロを利用することにして、中央通りを歩いた。が、そんなに人が出ているとは思えない。人出は以前の十分の一に減った、という画廊主の言葉の通りだった。

それはしかし「停電」のためであって「原発事故」のためではない。同じ「巣篭もり」でも、福島の人間の気持ちは違う。とりわけ、いわき市民は自分の責任で―つまり、勝手に―暮らせ、そう宣告されたようなものだ。


自然災害と、原発の悪魔的な人災と、それが押しつける「心災」に、たぶんみんな病んでいる。「3・11」前の暮らしを取り戻したい、これは夢であってほしい――28日に「四十九日」がくる。彼岸へ行かなくてもよかった命が浮かばれない。その人たちのためにも、心の賠償のためにも、東電と国に対して物申すときがきた。

2011年4月26日火曜日

アースデイ東京②


「アースデイ東京2011」が4月23、24日、渋谷・代々木公園のイベント広場で行われた。震災支援でいわき入りした「シャプラニール=市民による海外協力の会」のUさんから聞いて初めてイベントの存在を知り、シャプラニールのテントでいわきの物産を展示・販売するというので、気分転換を兼ねて出かけた。

高速バスで東京駅に着いたあと、原宿へとJR山手線を利用した。代々木公園は初めてだ。方角がわからない。原宿駅から吐き出された人が大勢向かう先に公園があるとみて、人の流れにしたがった。

代々木公園は道路をはさんで森林公園とスポーツ・イベントゾーンに分かれる。森林公園を歩くが、アースデイのイベントらしい雰囲気はどこにもない。うろうろ歩いているうちに、なんとなく道路の向かい側でそれらしいものが開かれているのに気づく。

道路を渡ってすぐ、「アースデイ東京2011」のリーフレットをもらった。参加団体は400を超え、来場者も10万人を超えるという一大イベントらしく、びっしり並んだテントでは、それぞれに地球にやさしい暮らし方を呼びかけている。「東日本大震災」の被災者支援と反原発の訴えも目立つ。

シャプラニールのテントは、と探すが、見当たらない。リーフにも書かれていない。案内所に飛び込んで、やっとわかった。フェアトレードビレッジにシャプラのテントが二張りあった。道路を渡ってすぐ右、歩道橋のたもとだ。わかっていればすぐそこ、わからなかったから、はじっこまで行って、さてどこだろうとなったのだった。
 
片方のテントに、いわき市の被災状況を伝える地図と写真パネルが掲示されていた。「いわき絵のぼり」の手ぬぐい(泉)「手作りジャム」(田人)「赤米うどん・黒米そば」(四倉)のほか、「獏原人村の卵」(川内村)や凍み餅も展示・販売された=写真。「がんばっぺ日本!!いわき!!」ののぼりも立てられた。

23日は、いわきもそうだったが雨と風でさんざんだったらしい。が、24日はからりと晴れ上がり、まるで初夏の陽気。テント前のケヤキは芽吹いて若葉を広げていた。

早朝のいわきは、しかし寒かった。冬用のブレザーでちょうどよかったのが、代々木公園では若者が半そで姿で行き来している。ちょっと恥ずかしくなる。昼ごろにはさらに気温が上がった。でも、脱がない。自分の今の気持ちだから。

さてさて、決して広いとはいえない会場に次から次へと人が詰めかける。シャプラのテントにも入れ替わり立ち代わり人がやって来る。「いわきへのメッセージ」もたくさん集まった。東京は「数(規模)」が物を言うところだ、ということを実感した。

2011年4月25日月曜日

アースデイ東京①


「アースデイ東京2011」が4月23、24日、代々木公園で開かれた。勿来地区災害ボランティアセンターの運営スタッフでもある、「シャプラニール=市民による海外協力の会」が参加した。本来のフェアトレード=物品販売に合わせ、いわきの被災状況を伝えて支援を呼びかける、というので、24日に夫婦で出かけた。

東京へ行くのは何年ぶりだろう。常磐線は上野~四倉まで再開したものの、「スーパーひたち」はまだ高萩までしか運行しない。初めて高速バスを利用した。

いわき中央IC乗り場、朝7時――が予約した時間。わが家を6時すぎに出ると、カーラジオが「午前5時53分からいわき中央ICと湯本IC間が通行止め」という。のっけから常磐道が余震のパンチに見舞われた。

東京。仙台。先行ダイヤのバスが中央ICに来て客を乗せたあと、Uターンして通行可能なICまで一般道路を走る。幸い、7時前に通行止めが解除された。ひとつ前のバスより早く湯本IC乗り場に着いた。

常磐道も随分痛い目に遭った。バスがときどきバウンドする。「地震 80㎞規制」の表示が続く。それでも3時間弱で東京駅に着いた。

利根川の近くでは田植えが行われていた。首都高速に入り、隅田川を渡るころには、高層ビルが目立つようになった。ビルも、人も、車もすし詰め状態。スカイツリーが見える。河川敷ではサッカーだか野球だかに興じている=写真。高速の車はせわしなく路線を変更する。首都はなんてせかせかしたとこなんだろう。

いや、まるで「東日本大震災」とは無縁の風景がここにある。一人ひとりは放射能に怯えながらも、どこかにバリアが張られているから首都は安全と思っているのか。

23日の風雨とはうって変わった快晴、首都の日曜日はこうして事もなく過ぎていくのか――バスの車窓から見えるこぎれいな街の姿に、いわきとはずいぶん違うぞ、という思いがよぎるのだった。

2011年4月24日日曜日

堤防も緩む?


「よし、行くぞ」。このごろは、気合をかけてから散歩に出る。「屋内退避」ではないが、しばらく散歩を控えた。足の筋肉がなえてきたのがわかる。これではいけない。夕方、帽子をかぶり、気休めのマスクをして、いつものコースを歩く。

あちこちに大地震の爪痕がみられる。屋根にブルーシートとそれを押さえる重しのかかった家が目立つ。

国道6号沿い。経営者が浪江町の住人である輸入家具店は、「震災で完全閉店をすることにした。5月1~10日に最後のお礼のセールをする」といった内容の紙をシャッターに張りだした。

店がやられたのではない。家がやられた、あるいは原発が追い打ちをかけた――そういうことに違いない。どこに避難しているのだろう。浪江はあらかた「警戒区域」に入った。法的に立ち入りが禁止された。これほどの理不尽さがあるだろうか。

わが家の近所にはアパートが散在する。アパートにトラックが横付けされているときがある。地域から出ていく人と、入ってくる人と。長い間空き家だったところもふさがった。入ってくる人が多いようだ。震災・津波で家を失い、原発事故で家を追われた人たちは、基本的に行政が手を差し伸べる。それを待てずに移住しなければならない人たちなのかもしれない。

国道を渡って夏井川の堤防に出る。数日前、堤防で今年最初のツバメを見た。散歩を休んでいたせいもあるが、今年は初認がずれこんだ。厳冬だった。春の足音がなかなか聞こえなかった。桜前線も、ツバメ前線も、それで遅れたのだと思う。

キジもようやく河川敷で「ケン、ケーン」と鳴きだした。不思議なことに、ウグイスはさえずりが遠い。河川敷ではまだ2~3回しか聞いていない。

堤防の上=天端(てんぱ)=はアスファルトで舗装されている。この路面とのり面の間に隙間ができた=写真。路面は至る所で亀裂が入っている。「3・11」でゆすられ、ひび割れ、緩んだのだろう。砂が噴き出したとみられる隙間もある。「蟻の一穴」にならないだろうか。未明にまでおよんだきのう(4月23日)の雨でまた緩んだのではないか。

2011年4月23日土曜日

渓谷の落石


夏井川渓谷の特徴の一つは落石が絶えないことだろう。岩盤が至る所で露出している。風化してもろくなっているところも少なくない。

V字谷に散在する小集落をつなぐのは県道小野四倉線。無量庵へ通うたびに、と言ったら大げさだが、落石が見られる。小は大人のこぶし大、大はサッカーボール大。急傾斜地は落石を防ぐためにコンクリート吹きつけが行われるか、ワイヤネットが張られるかしている。

「3・11」で落石事故があり、通行止めになった。先日、無量庵のある小集落のKさんとスーパーでばったり出会い、様子を聞いた。

落石現場は、ロックシェッドから上流へ100メートルほど行ったところだ。ワイヤネットで崖を覆っている。そのネットが落石を受け止めて膨らんだ。落石が除去されたあとも通行止めは解除されない。地元の人間は自己責任で通行しているという。

自己責任で県道小野四倉線を通り、無量庵へ行った。何十年前だか、大規模な崖崩れがあったところにロックシェッドが設けられている。そのロックシェッドでやはり崖崩れが起きた。ロックシェッドがそれを受け止め、県道を守った=写真。人体の感覚でいうと、四つん這いになって頑張ってくれたのだなと思う。

通行止めの原因になったところはその先。ワイヤネットが膨らみ、一部で破れていた。落石は除去されていた。とはいえ、ところどころ道端に石がころがっている。余震と並行して落石が今も続いているのだろう。

地元の人間は地震のたびに落石があることを知っている。崖のどこに「浮き石」があるかも知っている。地形を熟知しているからこそ自己責任で往来しているのだ。

(4月23日午前零時25分ごろ。眠りに就いたばかりでグラッときた。目が覚めた。震源は福島県沖。広野町で震度5弱だとか。ここまで揺すられると平気ではいられない。「3・11」以来、トイレのドアが簡単には閉まらなくなった。少しずつ家がゆがんできているのだろう)

2011年4月22日金曜日

二ツ箭山


「3・11」ではなく、「4・11」の震度6弱はいわき市南部で起きた。「井戸沢断層」が動いた。専門家には周知の断層かもしれないが、いわき市民である私は、この断層があることを初めて知った。家がグラッときたうえ、地割れが走った田人町に住んでいる知人がいる。彼女もたぶん、「井戸沢断層」については知らなかったろう。

専門家ではないから、私の書くことはどこかで間違っているかもしれない。そのへんは割り引いて読んでほしい。「東北地方太平洋沖地震」はM9という巨大地震だった。巨大なだけに大きな余震が続いている。「4・11」はそれに誘発された内陸部の大きな地震だった。

余震がある。誘発地震がある。なんだか太平洋沖の地底と内陸の地底で激しい殴り合いが起きて、あごの骨が粉々になっているような印象を受ける。粉々になった一つひとつが大きな地震を引き起こす。「井戸沢断層」の地震は、その痕跡が地表まで現れた。地割れがすごい。

「井戸沢断層」はいわきの南部、鮫川流域にある。太平洋沖と向き合ったかたちでいえば、顔の右にアッパーカットを受けたようなもの。地底での「殴り合い」はそれだけに収まるまい。いわきの北部、「左あご」の夏井川流域には「二ツ箭断層」(小川町)がある。

二ツ箭山は、岩盤が露出している。向かって左が男体山、右が女体山。「3・11」の本震で女体山の南壁の一部が剥落した。剥落部分は赤茶けている=写真

詩人の草野天平(心平の弟)はふるさとの山について「周囲の山は遠からず近からず、北側は北画系の様な嶮しい山で、南側は南画風の恰度大和の様な穏かな眺めです。人はこの南側の方の景色を見た時、那須へ来た様だと云ひます」と書いた。

北画系の険しい山が二ツ箭山だ。断層の南側は沈降し、北側は隆起する。それで「嶮しい山」になった。

女体山の岩石の剥落だけでおさまればいい。断層が動かないか。動けば田人同様、小川あたりが大変な目に遭う。

M9は、いわゆる巨大技術システムの原発でも「想定外」だった。自然に対するおごり以外のなにものでもない。余震、誘発地震の違いはどうでもいい。いわき南部で起きたら北部でも起きる――平近辺の住民として直下型地震を警戒しないではいられない。

2011年4月21日木曜日

区内検分


平・中神谷南区の、今年の「区内箇所検分」がきのう(4月20日)、行われた。区の役員6人が参加した。区内のごみ集積所や消火栓の設置場所などを確認しながら、危険個所の有無をチェックした。

昨年度は区民から側溝蓋取り換えとカーブミラー設置の要望が出された。側溝と下水道管をつないでの歩道冠水防止対策もあとで浮上した。市に要望したところ、すべて年度内に解決した。そのため、改善が急がれるような個所は、当面は見当たらない。

今年は、3月11日の震度6弱で道路が何カ所か沈んだり、ひび割れたりしている。おのずと道路中心の検分になった。

「3・11」で市道と国道6号とが接続する交差点の一角が大きく陥没した。そこも区内に入る。ちょうど補修工事が行われていた=写真。ここでの陥没は大きく、早くからカラーコーンで立ち入り禁止になっていた。

車が知らずに突っ込むとバウンドするような道路の凹みが3カ所あった。行政に伝えて補修してもらわなくてはならない。

ほかには――。三面舗装の「三夜川」に一部、枯れ草が残っていた。フェンス越しに刈り払うのは、素人には至難の業。河川管理者にお願いするようになるだろう。民間住宅の入り口の側溝蓋が一枚破損していた。これは大家さんに連絡すればすむことだ。

「区内箇所検分」は区の安全、区民の無事を願っての、年度最初の行事だ。去年が初参加だった。今年は「3・11」の影響で区の総会開催が半月ほど遅れたが、検分は逆に半月ほど早く実施された。

ゲーテに「市民の義務」という短い詩がある。死の直前に書かれたというから、遺言のようなものだ。

 銘々自分の戸の前を掃け
 そうすれば町のどの区も清潔だ。
 銘々自分の課題を果たせ
 そうすれば市会は無事だ。

去年もそうだったが、今年も「区内箇所検分」をしながら、<自治の原点>ともいうべきこの詩を思い出していた。

2011年4月20日水曜日

種を採るために


地獄の釜は、蓋は開いても底が抜けては困る。そう思いつつ、夏井川渓谷の無量庵の菜園に立つ。

わが菜園には「三春ネギ」が植わってある。今は郡山市だが、阿武隈川の右岸(東側)、阿久津町で栽培されている「阿久津曲がりネギ」の系統だろう。「阿久津曲がりネギ」同様、お盆のころに植え直して、甘く、やわらかい曲がりネギにする。

週末を無量庵で過ごすようになって15年。暖冬気味だったこともあって、渓谷の春は早めにやってきた。が、去年、今年と厳冬になった。今年はさらに「東日本大震災」が加わった。福島第一原発の事故が人間の春の訪れを遅らせた。

それでも、自然の営みは途切れない。小さなネギ坊主をいただいた花茎が伸び始めた。ネギ苗もこのところの陽気でぐんぐん成長しつつある=写真

苗床は何度か草を引き抜いたので、苗の根元まで光が当たっている。うねの方は手を抜いてきた。ネギの根元が草で覆われている。これでは光合成ができない。どのくらいの放射線が降っているかわからないが、まずは草むしりだ。日曜日(4月17日)はそうして、畑で過ごした。

なんとしても在来作物の種を絶やしてはならない。苗床で成長したネギ苗を、5月には溝を掘って植える。そのあと、採種用に越冬させたネギから種を採る。毎年行ってきたネギのいのちのリレーである。東電に負けていのちの伝達を断ち切るわけにはいかないのだ。

2011年4月19日火曜日

線量計


日曜日(4月17日)は朝のうちに墓参をすませ、その足で夏井川渓谷へ出かけた。いつもの休日のように森を巡り、無量庵の菜園に立つ――「3・11」以来できなかった「普通のこと」をしたい、いやしなくてはという思いに駆り立てられる。

花見も「普通のこと」のひとつ。小川諏訪神社に寄り道をし、満開のシダレザクラを眺めた。樹齢500年、市指定天然記念物だ。拝殿に沿って長く延びたピンクのシャワーを仰ぎ見ては、だれかれなくケータイでパチパチとやっている。例年よりは少なめとはいえ、行楽客がいっぱい詰めかけていた。

非常時である。みんな打ちひしがれている。同じ青空でも、「3・11」以後はとても素直に仰ぎ見られない。が、青空の下でサクラが咲き競っている。その花を見に来る。自分を励ますように。

そのあと――。地元の人がそうするように、夏井川渓谷へは迂回路を使わず、自己責任で直行した。無量庵の対岸のアカヤシオ(イワツツジ)は、奥山まで花をつけていた。満開だった。しかし、行楽客はほんの数人。それも時折、現れる程度だ。行楽客に気兼ねをすることなく菜園の草むしりに精を出すことができた。

およそ2時間。カミサンは無量庵の片づけをすませ、私は草むしりを終えるころ、タイミングよく近くに住む「ホロスケ」氏夫妻がやって来た。「来ているかなと思って」。花見を兼ねての来庵だった。「もう花を独り占めだね」。しばらく4人で花を眺めながら雑談した。(夏井川溪谷で花見といえば、アカヤシオのことである)

夫妻は原発問題に詳しい。線量計を使い、あちこちで記録を続けているという。無量庵の庭の数値は0.291マイクロシーベルト=写真。爆発があった3月12~15日ごろはともかく、現時点では低めに推移している。花見のあと、家に入ってお茶を飲んだ。話はやはり「3・11」と、終わらない原発事故に終始した。

なにかが終わるとしても、終わらないとしても、悲観的に考えて楽観的に行動する――それにつきる、という点で一致した。

2011年4月18日月曜日

墓参り


「春分の日」には西郷村の那須甲子青少年自然の家にいた。「原発難民」だった。いわき市平の、カミサンの先祖の墓参りができなかった。1カ月余り遅れたが、日曜日のきのう(4月17日)、死んだ人たちに会いに行った。

死んだ人もコミュニティの一員。ときどき、私は死んだ人たちと話をする、いや、したつもりになる。死んだ人を思い浮かべ、こういうときにはどうしたらいいか――こうせよ、ああせよ、という答えはもとよりかえってこない。が、顔を思い浮かべるだけで対話をし、答えをもらったつもりになる。すると、現実に立ち向かう力がわいてくる

巡った墓は五つ。カミサンの先祖とその係累、家族でよく会いに行った老彫刻家、大正時代に若くして死んだ詩人、元職場の会長。

行って呆然とした。少なくない数の墓石が倒れ、落ちていた。五つの墓のうち、ほぼ無傷だったのは、戊辰の役で亡くなった先祖の係累、若者(信士)の小さな墓だけ。義父母たちが眠る墓は、一つを残して竿石がすべて倒れていた=写真。義弟から話は聞いていた。が、現実は想像を超えていた。墓地は魂のやすらぎの場ではなくなっていた。

「春分の日」に墓参りができた家はどのくらいあっただろう。花のない墓がほとんどだった。「3・11」直後に発生した福島第一原発の水素爆発に、市民は生存の危機を感じた。逃げてしばらく帰らなかった、という人がかなりいる。私たちもそうだった。「春分の日」には遠く避難先から手を合わせるしかなかった。

日曜日、私たちと同じように墓参りに来た女性と連れ合いがいた。知らない人だ。すれ違うと、「こうして墓参りに来られるのはいい方だよね」。なぜか高揚した口調で語りかけてきた。

2011年4月17日日曜日

狂風


津波被害に遭った知人の生活支援になればと、きのう(4月16日)、解体を予定しているカミサンの幼なじみの家へ出かけて洗濯機などを“回収”した。若い仲間が軽トラを出してくれた=写真

ソメイヨシノが満開の、週末の土曜日。朝から晴れ上がって気温が上昇した。あとで別の若い仲間から聞いたが、いわき市内の勿来の関公園は花見客でにぎわったそうだ。不思議なことに、この日は前日までと打って変わって、目にするサクラすべてがきれいに見えた。輝いていた。楽しい花見になったことだろう。

海辺に住む知人には、洗濯機のほかに食器類を確保した。若い仲間はテーブル、タンス、板戸などを持ち帰った。私は再び、昭和初期の本数冊を選んだ。

お昼には帰宅し、食事をして横になった。すると天気が急変し、雷雨がきた。あわてて車の窓を閉めに飛び出す。にわか雨だった。それが通過したあとは青空が戻り、猛烈な風になった。めったにないほどの“凶風”だ。あとで知ったが、いわき市好間町下好間では竜巻が発生した。(17日の福島気象台の現地調査では、竜巻の可能性はあるが特定できなかったという)

“凶風”と感じたのにはわけがある。季節は同じ春。昭和31(1956)年4月17日夜=55年前の今日、阿武隈高地の常葉町が大火事に見舞われた。

日中は、磨きをかけたような青空になった。やがて風が吹き荒れ始める。東西に延びた一筋町だ。満7歳。遊んで、遊んで、夕方、家に帰るころには澄んだ青空が燃えだし、やがて「北斎ブルー」に染まった。風はますます勢いを増し、ある家の風呂の煙突からポッと出た火の粉をとらえて町を燃やし尽くす。きのうの風には、そのとき以来の怖さを感じた。

たまたま車で出かけたが、ハンドル操作が難しい。地震でそうなのか、強風がそうさせるのか――判断に迷うほどの狂暴さだ。畑の土が吹きとばされて砂嵐のようになっているところもあった。

地震・雷・火事・津波の次には、大風・竜巻だ。加えて原発事故がある。あと、残っているのは何だろう。洪水? 「もう何でも来い、負けないぞ」。ここまで痛めつけられると、開き直って闘うしかない。そういう気持ちになるのだった。 

2011年4月16日土曜日

リサイクル


カミサンの幼なじみの家が間もなく解体される。家はいわき市の中心市街地(平)を望む坂の途中にある。母屋は和風の2階建てだが、道に面した玄関とリビングルーム、書斎は洋風だ。

3月11日の「東日本大震災」で盛り土を支えていた石垣の一部が崩れ、さらに今度の震度6弱で大きく崩れた=写真。庭に亀裂が入り、母屋からせり出した書斎が傾き、リビングルームとの間にすきまができた。風が吹き込み、雨が漏る。で、築後数十年、三代にわたる暮らしを守ってきた建物にサヨナラをすることにしたという。

「断捨離」(だんしゃり)である。とりわけ「捨」と「離」である。必要なものはきょうだいで分け合い、不必要なものは思い切って「捨てる」、モノへの執着を「離れる」――ということで、カミサンにも声がかかった。

カミサンは少し着物を知っている。形見になるもの、リサイクルに回すもの、捨てるものと整理して、リサイクル用の着物を引き取った。そのまま着る人はいないが、現代風の上着に仕立て直したり、パッチワークの材料にしたりと、古着を生かす方法はいくらでもある。私は本箱を二つもらった。

冷蔵庫や洗濯機はどうするか。タンスは、ベッドは? 要らないという。津波の被害に遭い、避難所で暮らしている知人がいる。連絡すると、ベッド以外は要るという。日を決めてトラックを手配し、洗濯機などを運び出すことにした。

未曽有の非常事態である。「3・11」から1カ月余が過ぎて、被災者は「住」を中心にした生活再建への道を歩み始めた。

震災初期には飲み水や食べ物、衣類などが必要だったが、今は家電・家具類などをどう調達するか――被災者は避難所から仮住まいへ、あるいはマイホームへと移りつつある段階に入って、悩み、案じつつある。胸がつぶれそうになるときがあるかもしれない。それに合わせた支援がこれから必要になる。

2011年4月15日金曜日

独り花見


いわき市は4月11、12日と、連続して震度6弱の地震に見舞われた。「3・11」以来の最大余震だ。南部の鮫川流域(田人)に被害が出た。

わが家では、まだ2階は「3・11」のときのまま。本箱から落下した本で足の踏み場もない。今度の6弱でまたまた本が落下した。どうせそうなるだろうと思っていたから、片づけずにおいた。しばらくそのままにしておく。

「3・11」のときもそうだったが、気になるのは夏井川渓谷(いわき市小川町上小川)の無量庵だ。「3・11」のあとは、9日間ほど「原発難民」だったこともあって、出かけるのが3月29日にずれ込んだ。今回は4月13日に出かけた。

タンスの上に小箱を置き、その上に載せておいた置時計が今度も落下していた。もともと安定が悪いのだから、しかたがない。台所ではラップ類が散乱し、ブレーカが落ちていた。茶の間の電球のかさも少しずれていた。総じて「3・11」のときほどではなく、庭の石垣も崩れが拡大することはなかった。

3月29日には、無量庵の対岸の木々はまだ裸だった。半月が過ぎた今は、急斜面に点々とアカヤシオ(土地の人は「イワツツジ」という)の花が咲いている=写真。アカヤシオは、いわきの平地のソメイヨシノとほぼ同時期に開花する。

小名浜にある旧測候所のソメイヨシノが、平年より3日遅い4月9日に開花し、東北地方に春がきたことを告げた。

平の街のソメイヨシノは満開に近い。この週末が見ごろだろう。となれば、夏井川渓谷のアカヤシオもそのころ、満開になる。

例年なら、行楽客が詰めかけてにぎやかなはずだが、「3・11」以来、夏井川渓谷を縫う県道小野四倉線は落石の影響で通行止めのまま。迂回路(国道399号~母成林道~江田)を利用してまで、見に行かなくても……なのか、行楽客の姿はない。

アカヤシオに限ったことではない。草木は、動物は、そこがふさわしい場所だからこそ、そこにある。必要なときに植物は花を咲かせ、鳥はさえずる。行楽客がいようといまいと、自然はそうした営みを繰り返してきた。行楽客がいない分、今年は自然本来の美しさが際立つ――三春ネギの苗床の草むしりをしたあと、独り花見をしながらそんなことを思った。

きょう(4月15日)は磐越東線のいわき―小野新町間の運転が再開される。余震と原発事故で花見どころではないかもしれないが、例年のように徐行運転をしてほしい。乗客はアカヤシオの点描画に目を凝らしてほしい。

2011年4月14日木曜日

水道再復旧


「3・11」以来となる震度6弱の強い余震が、4月11日午後5時16分ごろと翌12日午後2時7分ごろ、いわき市を襲った。11日は即停電したものの、およそ1時間後に明かりが戻った。東北電力の“底力”に感心し、安心した。12日は大丈夫だった。

11日、水道は浴槽に水を貯めることはできたが、間もなく断水した。あの日からちょうど1カ月で再び振り出しに戻った。12日、平市街に用があって出かけたら、水道局本庁舎で人がひっきりなしに水をくんでいた=写真。不安がまた広がる。

飲料水だけではない。12日の余震では、いわき市田人町石住地内で土砂崩れが発生し、道沿いの民家2棟がつぶれ、3人が死亡、3人がけがをした。命まで襲いにきた。

現場は、鮫川渓谷を走る「御斉所街道」(県道いわき石川線)沿いの石住小中学校近く。V字谷だから民家の裏山は険しい。

ニュース写真を見る限り、一帯は杉山だ。崩落地はたぶん伐採跡。その中央付近から土砂が崩れ落ちた。ジグザグに筋が入っているのは伐採時の作業道跡だろう。石住の前の川を渡ると戸草川溪谷。そこへ毎年春、通った。なじみの場所でもある。

知人が田人に住んでいる。平の郷ケ丘で輸入雑貨店を開いていたが、「3・11」後、店を閉めた。ブログ<「kapu」の雑多日記>を見ていて、急ななりゆきに驚いた。ハローワークに通っているという。

12、13日と自宅近辺の惨状を伝えた。「魔物」(地震)が自宅のすぐわきを通り抜け、そのまま一直線に土砂崩れのあった石住へと抜けていった、という。地割れの写真を載せている。隣家は庭の真ん中を地震が駆け抜けたために家が弓なりに曲がってしまった、ともいう。その写真がすごい。庭から家の下へと地面がえぐられていた。

今度の余震は「浜通り」が震源。錦町で6弱だったことから、いわき市南部の地中に眠る「魔物」が「3・11」に刺激されて目覚めたのだろう。ここらあたりには魑魅魍魎がひそんでいて、一気にうごめきだしたとみた方がよさそうだ。いつ襲って来るかわからない。

とはいえ、緊張ばかりしていると体が持たない。周りに宣言して、あるいは何人かに告げて、毎日5分間は花と向かい合おう。ソメイヨシノはやはり、見てもらいたがっている。レンギョウも、スイセンも、ジンチョウゲも、そうだ。花見をしなくちゃ。

さて、長期断水を覚悟した水道だが、思ったより早く復旧した。近所にある平六小の水道は健在(というより、非常用地下貯水槽が設けられている)で、13日早朝、ポリタンクに飲料水を入れて帰宅したら、家の水道も「細いけど出るようになった」とカミサン。断水はわずか一日半で済んだ。

電気も水道もやられたkapuさんには申し訳ないが、「3・11」と違って市外からの援軍が腕を撫している。それで早期復旧が可能になったのだろう。多謝、万謝、拝謝だ。

浴槽に貯めた水は、スイッチを入れて「あつめ」のボタンを押したら、沸いた。断水したら、水は張ってあっても風呂はたけない――と思い込んでいたが、たけるのだ。

水甕にしなくてすんだので、2日ぶりに風呂に入る。が、のんびりはしていられない。浴槽につかっているときにドドドッときたら、たまらない。カラスの行水にとどめた。

2011年4月13日水曜日

阿武隈はどうなる


「東日本大震災」の大津波が引き起こした福島第一原発事故は、国際評価基準で最悪の「レベル7」(チェルノブイリ原発事故と同じ)に引き上げられた。いよいよ事態は深刻の度を増している。

菅首相が記者会見をした。言っている中身は6割了解、4割懐疑――そのくらいの感覚で受け止めることにする。政府を信じながらも鵜呑みにはしない。情報公開度は直観的にそんな程度と思うからだ(これはしかし、あくまでも私個人の受け止め方に過ぎない)。

政府は「避難指示」を出している半径20キロの圏外でも放射性物質の累積量の高い地域を、「計画的避難区域」に指定することを決めた。さらに、この区域に指定されない20~30キロ圏内については、「屋内退避指示」から「緊急時避難準備区域」に切り替えた。

いわき市は、市域の一部が「屋内退避」になっているが、これは解除された。つまり、いわきは今のところ問題なし?だから、扱いは「白紙」というわけだ。市はこれを受けて11日夜、市長が臨時記者会見をし、「いわきは安全」としたと、12日付のいわき民報にあった。“朗報”だ、このまま小康状態が続くならば。

福島県の太平洋側、浜通り地方は海岸部の西に阿武隈高地が連なる。「計画的避難区域」も「緊急時避難準備区域」も、海岸部を除けばすべて阿武隈の山里だ。阿武隈はこれからどうなるのだろう。

阿武隈の山里に生まれ、あるいは移り住み、たおやかな自然と向き合いながら暮らしてきた知人はむろん、住民は避難を余儀なくされ、避難の準備に振り回されながら、どんなにか悔しい思いでいることだろう。

グーグルアースで30キロ圏内をチェックする。阿武隈高地の最高峰、大滝根山(1,193メートル)=写真=はぎりぎり圏内に入っていた。わがふるさとの田村市常葉町は、国道288号沿いにある山根小学校は圏外。近くにある、カブトムシで知られる子どもの国ムシムシランドも、中野区立常葉少年自然の家も圏外だった。

母親の実家は田村市都路町(旧都路村)にある。30キロ圏内だが、20キロの避難指示区域よりは遠い。「緊急時避難準備区域」に入る。いとこは、いやその子は実家で頑張るのだろうか。

祖母の家はそれより西側、鎌倉岳の東南麓の山中にあった。一軒家だ。

昭和30年代前後の記憶である――電気はなく、夜はランプ生活だ。飲料水を含む生活用水は沢水。不便で、夜は怖くて、闇におびえることもあった。それがなぜか、幼少期の豊かな思い出になっている。

その一軒家は、今はない。杉林に変わった。グーグルアースで確かめることができる。

記憶は、放射能には汚されない。なに、いざとなったらランプ生活に戻ればいいのだと思いつつも、大好きな阿武隈の山里を往来し、人に会って話ができなくなるのかと思うと、悲しさと腹立たしさが募る。

2011年4月12日火曜日

照島無残


照島はいわき市泉町下川字大畑地内の海岸から約250メートル沖合にある。ウ(鵜)の生息地として国の天然記念物に指定されている。知人からケータイで撮った照島のかたちを見せられて、うめいた。「ソフト帽(台形)」が「とんがり帽子(三角形)」に変わっていた。

「3・11」から1カ月。4月11日朝、海岸線に沿って勿来地区災害ボランティアセンターへ出かけた。国道6号常磐バイパスならチョク(直)で行けるが、海岸を通って照島をこの目で確かめたかったのだ。

ところどころ波打ち、亀裂が入り、段差の多い「海岸道路」を南下する。豊間を、江名を、永崎を、小名浜を過ぎる。半月前に通ったときと比べて、道路沿いの光景はそう変わっていない。そんな印象を受けた。が、よく見ると道端にがれきが集約されつつある。少しずつ復旧への歩みは進んでいるのだ。

小名浜を過ぎて高台の大畑に至り、いわきサンマリーナへと下る。閉鎖中のマリーナの入り口から、ちょっと沖にある照島を見て息をのんだ。「とんがり帽子」どころではない。海面から突き出た「竜の爪」のようだ=写真。知人がケータイで撮った場所とは違うのだろう。高台に戻り、ゴルフ場のあるホテルへと移動すると、「とんがり帽子」が見えてきた。

「竜の爪」はしかし、「3・11」で一気にできたのではあるまい。すでに少しずつ崩落が進んでいた。『いわき市の文化財』(いわき市教育委員会発行)にも、近年崖が崩れて小さくなっていく傾向がある、とある。そこへ「3・11」が起きた。

方角からいえば、「とんがり帽子」は北から、「竜の爪」は北東から照島を見たときのかたちだ。『いわき市の文化財』には断崖の頂上にウがびっしり羽を休め、そこから逆三角状に生えたトベラなどの植物が見える。添付された写真は北から見た照島。知人のケータイ写真もほぼ同じところから撮っている。

「とんがり帽子」にも、「竜の爪」にも緑はない。丸裸だ。初めて外気にさらされた赤ちゃんのように、岩肌は赤みがかっている。

「とんがり帽子」には、ウは12羽しかいなかった。「竜の爪」を見ると、10羽。もっとも、照島はウの「生息地」というより「越冬地」だ。多くは春が来て北へ帰ったのだろう。――と、これは11日朝の感慨。午後2時46分には、家で1分間の黙祷をした。

その2時間半後。夕方5時16分にまた、でかいのがきた。震度6弱。「3・11」並みだ。外へ飛び出した。しかも、今度は揺れているうちに停電した。折から雷雨が暴れていた。「地震・雷・火事・津波、そして原発」。バキッ、バキッ。少し先で火花を散らす落雷を初めて見た。本などが少し落下した。照島はさらに崩落したか。

カミサンはすぐ、風呂に水を貯めた。正解だった。電気はおよそ1時間後に復旧したが、水はその前に再度止まった。いつまで神様は試練を与え続けるのだろう。

2011年4月11日月曜日

今こそ「東北遷都」を


21年前に書いた文章ですみません。地震に強いところだから――という理由で「阿武隈遷都論」がにぎやかなときだった。「東日本大震災」に打ちのめされた今=写真、論旨としては全く逆のことになるのだが、天地がひっくりかえった、つまり否定が肯定にかわった、ということで受け取っていただけるとありがたい。

1990年1月17日付いわき民報の、わがコラム「みみずのつぶやき」の中の<鬼の末裔として>。きょう(4月11日)は「3・11」から1カ月。午後2時46分、全市的に1分間の黙祷をする。私の中では、鎮魂の意味を込めた「逆説」だ。
                  ★
阿武隈って何だろう、と最近よく自問する。かたや遷都論、こなた総合開発構想と、まるで阿武隈に虹がかかったみたいだ。そういう未来に屈託はないのだろうか。

ご存じのように、阿武隈遷都論は地理学の分野から発想されている。リゾート肯定の立場から、米国のディズニーランドのようなものを阿武隈に、と唱えているのもこの学問だ。確かに、鳥の目で日本列島を見ればそうなるのだろう。

だが、阿武隈には現に人が住んでいる。モリアオガエルがいる。ヒメザゼンソウが、タキネミヤマスミレがある。それら人間の、動植物の生活と、阿武隈遷都論は無縁でいいのか。虫の目は切り捨てられていないか。そこが、にわかに注目を集め出した阿武隈の、七彩的未来に屈託する大きな理由でもある。

阿武隈遷都論は、いうならば1200年ぶりにやってきた坂上田村麻呂。その昔、征夷大将軍が成敗した伝説の鬼とは、歴史的な解釈では、中央政府に従わない地方の豪族、阿武隈ではその先住民のリーダーのことである。

阿武隈は、わが墳墓の地。阿武隈の将来は、阿武隈に住む人が考えればいい。鬼の住む地は鬼にまかせよ。一人の阿武隈人として、鬼の末裔として、最近の風潮にはいささか抵抗を感じざるを得ない。
                  ★
自分の文章を読み返してまず思ったのは、約1,100年前に東北地方を襲った「貞観(じょうがん)地震」(869年)について、全く知らなかったことである。みぞうの「東日本大震災」だ。歴史を調べたら、「500~1,000年」単位で発生する巨大地震・津波があることがわかった。今回、同じように東北地方の太平洋沖で巨大地震が発生した。

文字通りの「天変地異」だ。国は「フクシマ」を見捨てないあかしとして、何かをしてほしい。その何かとは、たとえば「阿武隈遷都」、いや「東北遷都」だ。

首都機能が「フクシマ」に来る。震災・津波のほかに、原発事故で荒廃しつつあるところに「首都機能」を移転する。こんな明白な国策がほかにあるだろうか。20世紀末には「来ないでほしい」と思っていた「首都機能」だが、「天変地異」にあった21世紀初頭の今は、ぜひ実現してほしいテーマだ。

2011年4月10日日曜日

ボランティア作業始まる


「雨が降ったら中止」「その判断は朝7時、nakoso.netでお知らせします」。4月8日夕方の運営スタッフ会議での“確認事項”だった。

「ナコソ・ドット・ネット」は、NPO勿来まちづくりサポートセンターのHPだ。中に、勿来地区災害ボランティアセンターのHPを特設した。9日早朝のぞくと、開所します、一般ボランティアを受け付けます、とあった。

記事をアップした6時段階では「曇り」。間もなく小雨が降り始めた。が、「午後には曇り」を信じて予定通り開所したという。雨は午後になってもやまなかった。雨の中でのボランティア作業初日となった。

「災害ボランティアセンター」には、<統括責任者>の下に<会計・総務・記録担当>が置かれ、それとの連携で前線での活動を効果的なものにするために、<ニーズ調査班><ボランティア受付班><物資担当班><医療・ケア班>が配置されている。

初日9日に参加した作業ボランティアは、運営スタッフを含めておよそ60 人、いや70人くらいだったろうか。午前はセンター周辺の道路に散乱している泥や藁屑その他がまじった“津波ごみ”を撤去し、午後は沿岸部の関田須賀地区へ繰り出して、要望のあった“津波ごみ”の片づけに奮闘した=写真

スタッフが一番心配するのは作業中のけがだ。津波が運んできた泥その他のごみがヘドロ化している。長靴を履いているから安心かと言えばそうではない。ヘドロの中に釘や金属片などが混じっていて、踏み抜いたり、ゴムを裂いて足に傷をつけたりする。手にけがをすることもある。

<医療・ケア班>のある本部に、早速、作業中にけがをしたボランティアがやって来た。ボランティアは、こんな傷はたいしたことないと思いがちだが、ヘドロには病原性の微生物や有害物質が混じっている。とにかく即、消毒――これが鉄則だという。

作業は午前と午後に分けて行い、時間になればボランティアは必ずセンターに戻って来る。その際、水で長靴の泥を払い、手を消毒し、うがいする――といった衛生面でのケアが欠かせない。

無事に作業をしてもらうためには、スタッフにも知識と知恵が要る。それをスタッフは役割に応じて実践している。わずかな時間だが、事前にリハーサルを繰り返し、本番に備えてきた。被災者の生の声に学び、現場に学び、ボランティアに学び、スタッフに学ぶ。そんな有機的な関係が初日から構築されつつあるように思われた。

2011年4月9日土曜日

16歳の叫び


知人のEメールで、南相馬市の高校女子生徒が書いたという詩を読んだ。知人もまた、別の人から教えられたのだという。原文は行分け詩だが、ここでは行分けせずに、連をばらして、全文を紹介する。
                  ★
助けて下さい 福島県南相馬市の 女子高生です わたしは友達を津波で なくしました わたしの友達は 両親をなくしました わたしの無二の大親友は 南相馬でガソリンが ないため避難ができずにいます 電話やメールでしか 励ますことしかできません 親友は今も放射能の恐怖と 戦ってます だけどもう、諦めました

まだ16なのに 死を覚悟しています じわじわと死を感じてるんです もし助かったとしても この先放射能の恐怖と 隣り合わせなんです 

政治家も国家も マスコミも専門家も 原発上層部も全てが敵です 嘘つきです テレビでは原発のことが 放送されなくなりつつあります 同じ津波の映像や マスコミの心ない インタビュー 口先だけの哀悼の意

政治家はお給料でも 貯金でも叩いて助けて下さい 命令ばかりしてないで、 安全な場所から見てないで、現地で身体をはって助けて下さい 

私たちは…見捨てられました おそらく福島は隔離されます 私達被災地の人間は この先ずっと 被災者を見捨てた国を、 許さないし恨み続けます

これを見てくれた人に 伝えたいです いつ自分の大切な人が いなくなるかわからないんです 今隣で笑ってる人が 急にいなくなることを 考えてみてください そしてその人を 今よりもっと大切にして下さい 

今、青春時代をすごす 学校が遺体安置所になってます 体育や部活をやった 体育館にはもう二度と 動かない人達が横たわってます 

どうしたら真実を 1人でも多くの人に 伝えられるのか… 1人でも見て貰えれば幸いです 考えた末、勝手ながら この場をお借りしました ごめんなさい、そして ありがとうございます
                  ★
福島第一原発の事故による放射線量の累積数値が大きくなっている。政府は第一原発から半径20~30キロ圏内の「屋内退避」を「避難指示」に切り替える可能性について示唆したという。かたずをのんでテレビを見る=写真。新聞記事を丹念に読む。一進一退ながら全体的に深刻度を増している、そんな印象を受ける。

16歳の叫びは、そのまま浜通り全体の被災者の叫びになりつつある。

2011年4月8日金曜日

「勿来ボラセン」事務局始動


またか! 4月7日深夜11時32分ごろ、「3・11」の大地震に似た揺れがきた。長い。大きい。外に飛び出した。寝床に入っていたカミサンもあわてて飛び出してきた。いわきは震度5強だった。もう地震は幕引きにしてほしい――つくづくそう思う。

さて、4月3日から5日にかけて、いわき市勿来地区災害ボランティアセンターの本部づくりが行われた。場所は同市錦町原田148―1地内のクレハ社宅跡。そこにコンテナハウスが数棟立った=写真。早速、6日に運営スタッフボランティアの募集が始まった。7日に本部に詰めた。なにか役割があるわけではない。しいて言えば勝手な広報担当か。

被災地のニーズ調査が行われ、救援物資が到着するようになり、ボランティアの登録が始まって、いよいよ9日に家財道具の片づけ・掃除の手伝いがスタートする。独り暮らしのお年寄りも含む被災者への支援物資の配送も行われる。

7日夕方には、当日のボランティア受け付け、ニーズ・マッチング、現地への移動・送迎など、一日の流れに沿った打ち合わせが行われた。作業ボランティアが自分で準備するものは、雨具・マスク・タオル・弁当・飲料水・ゴーグル・筆記用具・メモ類・保険証のコピー・着替え・携帯電話などだ。

マスク・タオル・軍手・飲料水は、持ってこなかった人には提供する。釘の踏み抜き防止のために、靴はズックではなく長靴が望ましい。昼は必ず本部に戻って昼食・休憩をとる。ボランティア活動保険はいわき市社協が一括してカバーする。――そんなことを確認した。

個人・団体による救援物資や義援金の提供も活発になってきた。問い合わせ・連絡は朝9時から夕方4時まで、0246―63―5055へ。

2011年4月7日木曜日

糠床異変


一年中、漬物を欠かさない。単純化して言えば、夏場は糠漬け、冬場は白菜漬け。合間に旬の野菜の一夜漬けなどが入る。私がつくる。11月の声を聞くと白菜漬けの準備をし、5月の大型連休が終わると糠漬けを再開する。朝昼晩の食事に漬物があればいうことはない。

白菜漬けを始めると同時に、糠床は表面に厚く塩を振って冬眠させる。ところが、冬も糠漬けをつくっている、という知人がいた。白菜漬けと糠漬けを交互に食べるのだという。晩秋の漬物談議に刺激されて、私も今冬初めて糠床を眠らせずにかき回しつづけた。

とはいえ、やはり厳寒期。ゾクッとするほど糠床は冷たい。当然、乳酸菌の動きも鈍い。大根やニンジンが漬かるまでには、夏場の2~3倍の時間はかかる。

「3・11」以後、原発事故に怯えて9日間の避難所暮らしを経験した。3月23日に帰宅し、残り少ない白菜漬けを甕から取り出したあと、甕を洗って片づけた。白菜漬けはこれでおしまい。例年より一カ月以上早いが、糠漬けに切り替えよう――そう決めて糠床をのぞいたら、あれれ、アオカビがびっしり生えていた。

まだ寒気が残るとはいえ、糠床は10日以上も酸欠状態だった。それで表面が腐敗したのだ。

緑色のアオカビの層はまだ1ミリ程度で、内部の糠味噌は茶色いまま。生きている。胞子が飛ばないように、慎重にお玉で糠味噌ごとアオカビをかき取る。どこにもアオカビのかけらが見当たらないのを確かめ、布を濡らして甕の内側をきれいにしたあと、糠床をかき回した。

その後、アオカビは発生しない。ぎりぎりで糠床はふんばり、生き延びた。復活した最初の糠漬けはカブとキュウリ=真左。三和の直売所「ふれあい市場」で買ったキュウリの古漬けを塩出しして刻み、糠漬けができるまで数日間のつなぎにした。

「3・11」は広域的・複合的大災害になった。加えて、放射線物質が漏洩し、多くの「原発難民」が出た。それぞれの家に受け継がれてきた食文化が分断され、あるいは破壊された。

声優の大山のぶ代さんは俳優座養成所時代、母親の形見の糠床を守って貧乏生活をしのいだ。夏目漱石の家の糠床は江戸時代からの歴史を持つ。孫の末利子さんはその糠床とともに、「歴史探偵」半藤一利さんに嫁いだ。

有名人だから引き合いに出したが、糠床についてはそれぞれの家にそれぞれの歴史がある。生きた食文化の象徴だ。その豊かな庶民の食文化が「3・11」で相当失われたのではないか。そう思われてならない。

2011年4月6日水曜日

奇跡


わが家には猫が3匹いる。茶トラ2、ターキッシュアンゴラの雑種らしいのが1。その猫たちを残して家を離れた。

福島第一原発の1号機で3月12日午後3時過ぎ、水素爆発が起きる。14日午前11時ごろには3号機で、15日午前6時すぎには4号機で、同様の爆発事故が起きる。言いようのない不安、終わりの見えない恐怖にかられて、いわきを脱出した。

あとで脱出・帰還組の知人たちに確かめると、ほとんどが同じ15日に行動を起こしている。生存本能とでもいうべきものに突き動かされたのだろう。避難先の西郷村から3月23日に帰宅するまで、9日間ほど家を留守にした。

3匹の猫のうち、古株の「チャー」(茶トラ)は老衰が始まっていた。後ろ足を引きずって歩く。排便もきちんとできなくなった。カミサンが毎日、点々と落ちているものをふき取るしかなくなった。えさも、水も、寝床もあるとはいえ、「チャー」は衰弱して息絶え、ミイラ化しているのではないか。家から遠く離れた避難所でそんな懸念が膨らんだ。

ところがどうだ、9日後の23日、家に帰ると3匹とも元気な姿で現れた。「チャー」はミイラになるどころか、4本の足でちゃんと歩いている=写真。下半身に力が戻り、排便もきちんとできるようになった。カミサンが歓声をあげた。なぜ「チャー」はよみがえったのだろう。奇跡だ、これは。人間がいなかったからか。少なくとも一つはそうだろう。

このところ、犬や猫などペットに焦点を当てた報道が見られる。ペットとともに暮らしてきた人々にとっては、ペットは家族そのものだ。ペットとの死別、生き別れ、再会……。被災地にはペットにまつわる物語も数多くある。海上を漂流していた犬が救助され、飼い主に引き取られたというニュースにも接した。

4月5日の小欄で紹介した55年前の大火事の際にも、やはり猫の奇跡が起きた。わが家の飼い猫の「ミケ」は大火事以後、姿を見せなくなった。ほかのペット同様、焼け死んだのだろうと思われた。

ところが一週間後、私たち家族が身を寄せている親類の石屋の作業場に「ミケ」が姿を現した。自宅から親類宅までは家の前の道を進み、途中から曲がって少し行かなくてはならない。ざっと500メートルは離れている。猫が生きのびたことだけでもすごいのに、飼い主一家が避難しているところを、石屋の作業場をよくぞ嗅ぎ当て、たどり着いたものだ。

私はあまり犬猫に関心はない。が、この「ミケ」だけは特別だ。猫であっても命の尊さを感じさせる存在――大火事が命の本質を浮き彫りにした。

阿武隈高地の田村市でソメイヨシノが咲くのは4月末。いわきの平は、間もなくソメイヨシノが開花する。夏井川渓谷のアカヤシオも咲き始める。阿武隈の高原と、太平洋側の平地のマチとでは地域差がある。桜前線がやがていわきに到着し、夏井川をさかのぼっていくことだろう。

55年前の大火事で学校が3日間休みになったあと、文房具や衣類、食糧などの救援物資をもらいに登校した。物資は校庭に山積みになっていた。それが分配された。驚いたのは、小学校の校庭のへりに植わってあるソメイヨシノが満開になっていたことだ。大火事の熱気で、一晩で開花した。

今度の大震災ではまだ春に出合わない。散歩もしばらく「やめ」だ。ウグイスのさえずりが聞こえるころ、ツバメがいわきに到着するころだが……。近所のハクモクレンが半分、つぼみを開きかけていた。

2011年4月5日火曜日

大災害のあと


「3・11」以来、繰り返し胸中に浮上してくる記憶がある。55年前の昭和31(1956)年4月17日、ふるさとの現田村市常葉町を襲った大火事の「残像」だ。

『市民が書いたいわきの戦争の記録――戦中・戦後を中心に』(旧題『かぼちゃと防空ずきん』=発行・いわき地域学會、発売元・歴史春秋社)に寄稿した拙文から、抜粋・整理して紹介する――。

夜7時10分。東西に長く延びた一筋町にサイレンが鳴った。祖母が台所に立ち、こたつを囲んで晩ご飯を食べようという矢先だった。消防団に入っていた父が飛び出していく。母と弟は親類の家に出掛けていない。残ったのは祖母と小学5年生の兄、そして私だけ。私は小学2年生だった。

火事はいつものようにすぐ消える。そう思っていた。が、通りの人声がだんだん騒々しくなる。胸が騒いで表へ出ると、ものすごい風だ。黒く塗りつぶされた空の下、紅蓮の炎が伸び縮みし、激しく揺れている。かやぶき屋根を目がけて無数の火の粉が襲って来る。炎は時に天を衝くような火柱になることもあった。

犬が吠え続け、人間のシルエットがせわしなく行ったり来たりしている。これは手におえないと大人たちはすぐわかったに違いない。「◎◎ちゃん、なにしてんだ」。パーマ屋のおばさんが怒鳴った。私はハッとわれに返り、家に入ってランドセルを背負うと、おばさんたちとともに家並みの裏の段々畑に避難した。

通りからは100メートルも離れていない。烈風を遮る山際の土手のそばで、みんな(といっても10人前後だったか)、かたずをのんで炎の荒れ狂う通りを眺めている。知った顔も、知らない顔もいる。黒毛の和牛もいる。大事なものを少しばかり手に持っているほかは着の身着のままだ。

やがて炎はわが家のあたりをなぶりにかかった。わが家の柱が燃え、倒れるのをこの目に焼きつけながら、私は<買ってもらったばかりの自転車が、自転車が>と、のどぼとけの奥でつぶやくしかなかった。赤ん坊のときから小1までの写真も、ペッタも、何もかもが灰になった。(オレはどんな顔をした赤ちゃんだったのかと、還暦を過ぎた今も思う)

わずか5時間で住家・非住家約500棟が焼失した。一夜明けると、見慣れた家並みは影も形もなかった。一面の焼け野原である。あちこちで焼けぼっくいがくすぶっているほかは、すべてが灰になった。灰の町になって、遠くの方まで見渡せる。初めて見る風景の異様な広大さだ。

――大地震と大津波に襲われ、集落全体ががれきと化した東日本太平洋沿岸部の凄惨な光景(写真=いわき市平豊間地区)に、テレビが映し出す被災地の惨状に、55年前の「残像」が重なる。

大火事では、少し心身が不自由だった隣家のおばさんが焼死し、重軽傷者が数人出たほかは、人的被害はなかった。損害額は当時のカネで3億7,000万円。東日本大震災は、それとは比較にならないほど死者・行方不明者の数が多く、損害額も大きい。

復旧のテンポはどうか。がれきの町は灰の町の何倍も遅いだろう。更地同様の灰の町と違って、がれきの町は更地にするまでが一仕事だ。そのうえ、いわき市は壊れて放射線物質を出し続ける原発の直近である。文字通り「天変地異」の重苦しさを抱えながらの作業となる。

当事者としての経験からいうと、大災害はあとあとまで影響する。当初の物質的、経済的な困窮は、これは仕方がない。それはいずれ解決する。といっても、8歳の少年には、そんなことは理解できなかったが。

その後の家族の歩み、つまりそれぞれの人生――これは、神様が与えた試練だったのだと、半世紀がたった今は思うのだが、しばらくは、いや大人になってからも心穏やかではいられなかった。親たちはその何倍も心塞ぎ、ため息をつき、打ちひしがれたことだろう。現に、理容師の父親は家の再建のために小名浜への出稼ぎを余儀なくされた。

大火事の一夜を境にして、それぞれの家の暮らし向きが変わった。それぞれの人間の生き方・考え方が変わった、あるいはいやおうなく定まった。東日本大震災でも事情は同じだろう。子どもたちがやがて大人になり、自分の人生を振り返るころ、東日本大震災を境になにかが変わったことを知るはずである。

ヒロシマの原爆を体験した原民喜の「夏の花」にこうある。

<たとえば屍体の表情にしたところで、何か模型的な機械的なものに置換えられているのであった。苦悶の一瞬足掻いて硬直したらしい肢体は一種の妖しいリズムを含んでいる。(略)さっと転覆して焼けてしまったらしい電車や、巨大な胴を投出して転倒している馬を見ると、どうも、超現実派の画の世界ではないかと思えるのである>

大火事のあとにも、超現実的な家畜の焼死体をいっぱい見た。わが家のあった灰の中から、とろけてぐにゃりと曲がった十円玉も拾った。火と水の違いはある。にしても、大津波のあとの風景もまた超現実的だった。

大火事の記憶はいつも胸底から不意に現れる。思い出したくなくても、不意にやって来る。その繰り返しの中で世界観の一部が培われてきたように思う。一切は灰になる。形あるものは壊れる。

阪神淡路大震災がおきたときに、初めて私は幼いときの大火事と向き合えるようになったのかもしれない、と思った。それは、圧倒的な人的・物的被害に射すくめられたからだろう。東日本大震災はそれをはるかにしのぐ。震え、おののき、助かった。そして、再び灰の町の記憶に学ばなければならないと感じている。

2011年4月4日月曜日

勿来地区災害VCが発足


いわき市佐糠町にある吉野木材で4月2日夜、いわき市勿来地区災害ボランティアセンター会議が開かれた=写真。NPO勿来まちづくりサポートセンターが中心になり、行政に先駆けて同地区の復旧・復興への道筋をつけよう、そのための災害ボランティアセンターを立ち上げよう、というのが目的だ。

山口県宇部市職員、いわき市社会福祉協議会職員、埼玉・越谷、九州・熊本市社協職員、東日本国際大の学生、シャプラニール職員などの支援団体・支援者のほか、地震・津波被害に遭った関田須賀、錦須賀、岩間、小浜から区長さんたちが出席した。区長さんたちが現状を報告した。あらためて被害の甚大さを思った。

「津波で壊れた家がある。道路に散乱しているガレキは撤去した。避難して誰もいない家の片づけをボランティアに手伝ってもらいたい」(関田須賀)「集落の大半が押し流された。家が残っていても住めない。ガレキが散乱している。これを撤去しないと」(錦須賀)

「堤防の巨大なコンクリが転がっている。道路にあったものは自衛隊がこまかく砕いて撤去したので、車は通れるようになった。ムラの6~7割は全壊、残りは半壊、無傷なのは数軒。壊滅的な状況」(岩間)「(漁港に近い)渚地区は3分の2が全壊、あとは半壊」(小浜)

このあと支援する側、される側が質問をぶつけあい、出席者は南部からいわきの復興の芽を確かなものにしようと、心を一つにして災害ボランティアセンターの立ち上げを決めた。

同センターの活動スケジュールによれば、独居老人・老老介護・病院・老人保健施設・保育園・授産所などへの生活物資支援とニーズ調査を先行し、4月10日を期して災害ボランティアの受け付けと活動を始める。

会議終了後、区長さんたちに被災住民への「ボランティアニーズ受付票」が手渡された。ボランティアが何人必要で、何をしてもらいたいか、必要な道具は何か、といったことを記入してもらうのだ。その受付票が集まった段階でより具体的な支援のための面談調査を行うという。

ボランティアには何ができるかを登録してもらう。片づけ作業だけではない。傾聴ボランティアも、「思い出探し隊」も必要。なんでもいいのだ。災害ボランティアセンターが被災者のニーズとボランティアをつなぎ、調整する「窓口」として機能する。それによって秩序だった作業が可能になる。

一人のささやかな一歩がやがて大きな成果を生む――そんな期待が膨らむ。

私事ながら、シャプラニールが勿来地区災害ボランティアセンターの一員として加わることになったため、いわき連絡会を引き受けているカミサンともども会議に出席した。

そもそも、シャプラニールの前身である「ヘルプ・バングラデシュ・コミティ」を立ち上げたのは、いわき市三和町出身の私の友人。それもあって、シャプラニールとは長い付き合いだ。それに、昭和56(1981)年秋から3年間、私は勿来で仕事をした。たくさんの人に出会い、世話になった。恩返しの意味も込めて支援の末端に連なった。

勿来地区災害ボランティアセンターの舘敬代表のほか、会議に出席したなかにも勿来時代に知り合った人が3人いた。久しぶりに言葉を交わした。

いわき市の中心地・平から遠い南部の勿来だからこそ、行政ではなく市民パワーを発揮することができる。「勿来モデル」は必ずいわき市内の他地区に波及するだろう。そう信じて側面・後方支援を続ける。

2011年4月3日日曜日

原発難民⑦


【帰還】
避難所暮らしが5日目に入るころから、帰宅を考えなければ、という気持ちが強くなってきた。目安は3連休最終日の春分の日だ。墓参りがある。服用している薬も残り少ない。息子のヨメサンも3月23日で「自宅待機」が終わる。それらが重なって心は「帰還」へと傾いた。

それでも、ためらいがある。「孫のヘルパー」が理由とはいえ、自治会(区)の役員をしていながらいわきを離れた、という後ろめたさもある。いろんな感情が波のように寄せてはかえっていく。

で、春分の日にはぐずぐずとなって帰還を見合わせた。避難所の国立那須甲子(なすかし)青少年自然の家からいわきの方に手を合わせ、墓参の代わりとした。私ら夫婦は、春分の日までに帰ることを息子一家に告げていた。息子たちは? ヨメサンは私らと一緒に帰るという。それで逡巡した。

息子と孫2人が避難所に残るという選択肢もある。が、父親は母親とは違う。辛抱強く子どもたちと向き合えるだろうか。どちらもストレスがたまるのではないか。若い夫婦で話し合ったのだろう。23日、そろって帰ることが決まった。

さて、帰るとなると、車のガソリンが心配だ。燃料計の針は「E(空っぽ)」からわずか4つめの目盛を指しているに過ぎない。車載の取扱説明書を初めてじっくり読んだ。

で、ガソリンの容量は42リットルあることを確かめる。次に、燃料計の目盛を数える。25あった。25で42を割れば、一目盛当たり約1.8リットルということになる。車はフィット。「リッター20キロ」としてガソリン残量7.2リットル、140キロ超は走行が可能だ。いわきへの最短コース、国道289号を利用すればガス欠をせずに帰宅できるだろう。

午前10時。相部屋になったいわき市四倉町のご夫妻(わが孫たちの「第三のジイバア」)にあいさつし、20年ぶりで再会した後輩にはケータイで別れを告げ、事務室にいとまごいをして施設をあとにした。息子たちは白河市の知人に会って帰るというので、最初から別行動をとる。

西郷村は阿武隈川の源流域。国道289号に出ると、名勝「雪割橋」の案内標識があった。289号から少し入ったところにある。川にこだわる癖が出て寄り道をしようかと思ったが、ガソリンがギリギリだ。カミサンが眉をひそめる。状況がよくなったら、あとでゆっくり訪ねることにして先を急ぐ。

ただひたすら南東方向のいわき市へ――。西郷村~白河市~棚倉町~鮫川村へと進んだところで、燃料計のスタンドマーク(燃料残量警告灯)が点灯した。

警告灯は残り7リットル前後で点灯すると、取扱説明書にあった。ということは、油は10リットルほど入っていたのではないか。少なくとも取扱説明書からはそんな計算が成り立つ。フィットの性能を信じているから不安はない。

いわきへ入り、国道6号バイパスにのる。ガス欠になるならバイパス沿いの「いわき清苑」あたりがいい。若い知人がいる。そこに飛び込めばなんとかなるだろうと思いつつ、正午すぎにはバイパス終点近くのわが家へ帰還した。

水道は断水したままだった(25日には復旧=写真)。あしかけ9日間の避難所生活はひとまず終わり、すぐさま放射線物質を浴びる生活が始まった。4歳と2歳の孫を第一に考えながらも、やること、やらなければならないことがある――開き直って、「平常心」という言葉を胸に刻んで、暮らすことにした。

2011年4月2日土曜日

原発難民⑥


【高原の樹木たち】
国立那須甲子(なすかし)青少年自然の家がある「なすかしの森」は、スタッフが驚くほどの季節外れの雪に覆われていた。私たちがたどり着いたのは3月15日夜。たまたまその日だけ道路に雪はなかった。それで、白河市の県南保健福祉事務所でスクリーニングを受けたあと、ノーマルタイヤでも行ける青少年自然の家を紹介されたのだった。

翌朝起きると、玄関前の広場が雪に覆われていた。わが愛車も雪をかぶっていた。真夜中過ぎに霧が雪に変わったのだろう。

朝の光のなかで初めて、施設の周りに生えている木々を見た。シラカバが林立していた=写真。いわきでは一カ所、芝山(標高819メートル)の頂上近くにシラカバ林がある。いわきのほかのところでは見かけない「北国」の樹種だ。

テレビばかり見ていると気がめいる。しかし、テレビから目が離せない。シラカバに刺激されて、ここはひとつ、樹木ウオッチングをしてみようという気になった。

そのテレビが混乱していた。NHKは「東北関東大震災」といい、民放は「東日本大震災」という。あとで施設に届いた朝日新聞を見ると、「東日本大震災」だ。なぜNHKだけが「東北関東大震災」にこだわるのか。

二つの理由でNHKの呼称に腹が立った。一つは、語呂が悪い。二つ目は、大正12年の関東大震災に意識が引っ張られる。

震災初日はともかく、その後の状況を柔軟な目で幅広く見渡せば、「東北関東大震災」に固執する理由はなかったはずだ。報道責任者の言語感覚を疑わざるをえない。(4月1日、政府が「東日本大震災」と正式に呼ぶようになったから、NHKもそういうふうに呼び方を変えるという「言い訳」をテレビで流した。呼称で混乱を招いた責任は軽くないぞ)

それはさておき、「原発脳」を切り替えて「なすかしの森」の木々をウオッチングした。ハンノキが花穂を垂れていた。事務室前のマンサクが満開だった。焦げ茶色の球果をつけているのはヤシャブシ。アカマツやカラマツもある。

あとで事務室前の図書室で「なすかしの森」関連の刊行物を開いたら、トチ・ブナ・オオヤマザクラ・カエデ・ニワトコ・ミズナラ・ダケカンバも自生していることがわかった。ダケカンバ・シラカンバ(シラカバ)ときたら、植生は北海道や北欧に近いではないか。ダケカンバは標高のより高い那須連峰に生えているのだろう。

2011年4月1日金曜日

原発難民⑤


【人材リスト】
国立那須甲子(なすかし)青少年自然の家の避難民は一時、浜通りと近辺からやって来た人たちで700人に達した。そのころから、施設の呼びかけに応じて避難民がボランティア活動を行うようになった。

3月16日朝には雪かきボランティアが、次いで寝泊まりしている部屋の近くのトイレ清掃やごみ置き場の片づけを買って出る人が増え、やがて食堂にも配膳の手伝いをする女性たちが顔をそろえた=写真

救援物資が届くようになり、荷下ろしボランティアを募る館内放送が初めて流れたのは3月17日。確か山口県からの救援物資だった。みんなで「地の塩」を手渡ししながら、テレビCMで流れている、金子みすゞの<「遊ぼう」つていふと/「遊ぼう」つていふ。……>(「こだまでせうか」)を思い出して、ありがたくて、ありがたくて、ちょっと涙ぐむ。

18日には、施設の水道管が破裂するアクシデントが起きた。管工事の専門家を探す館内放送が流れた。避難している人は乳幼児からお年寄りまでさまざまな年代にわたる。何に困っているか、何が必要かも多岐にわたる。水道管破裂がきっかけかどうかは不明だが、それらに応えるためにも人材リストづくりが始まった。

施設を開放し、食事を提供するのは「公助」に当たる。と同時に、「共助」(避難民同士の助け合い)の流れも確かなものにしなくてはならない。大震災から一週間を過ぎたあたりで次の段階、避難民の「自治力」が求められる時期に入った。それはどこの避難所でも同じだろう。

第一歩がマンパワーの把握、人材リストづくりだった。保健・福祉・教育・電気・水道・土木・情報通信・事務・レクリエーション……、なんでもいい。施設が「共助」の機会を広げるためにも、誰がどんなウデや資格をもっているかを把握するのは大事なことだ。そのために施設が動いた。並行して避難民の要望を聞き取る作業も行われた。

必要な情報は館内放送後、玄関ロビーのボードに張り出される。一種の「壁新聞」だ。ロビーの壁には施設の目標が掲示されていた。<なすかしの森スローガン「あいさつから始まるさわやかな心>。絶えずスタッフからあいさつを受けて気持ちがなごんだ。それこそ「共助」の最初の一歩だ。