2011年5月31日火曜日

ホオノキの花


5月が終わる。今年は、3月も、4月も流れるように過ぎた。「4月は残酷な月だ」といったのはT・S・エリオット。エリオットの詩句を心に刻んでいた人間は、「3月こそ残酷な月だ」と、深く思ったことだろう。そして、5月は? 私はいつも草野心平の詩「五月」を思い出す。その一節。

すこし落着いてくれよ五月。
ぼうっと人がたたずむように少し休んでくれよ五月。
       ×
五月は樹木や花たちの溢れるとき。
小鳥たちの恋愛のとき。
雨とうっそうの夏になるまえのひととき五月よ。
落着き休み。
まんべんなく黒子(ほくろ)も足裏も見せてくれよ五月。

5月は花の咲き競うとき、糠漬けを始めるときだ。ところが、どうだ。まともに花と向き合えない。庭の花も、そう。まるで車窓から眺めるように、すぐそこにある花を遠いものとして見ている。

4月のサクラがそうだった。5月の庭の草木の花、イカリソウ・エビネ、そして今はマリーゴールド・シラン・イボタノキ。散歩すれば、「草野の森」のトベラ。まともに見る心の落ち着きがない。

先週の金曜日(5月27日)、小川町の草野心平記念文学館を訪ねた。駐車場につらなる斜面にホオノキがあって、大きな花をつけていた=写真

ホオノキは高木だから、正面から花を撮影したことはない。その花が私の目線と同じところで咲いていた。初めてじっくりホオノキの花を眺めた。5月の終わりに、やっと季節の花と向き合えた。

となれば、もう一つの5月、糠漬けだ。心平は昭和27(1952)年12月、平で高校生を相手に講演した。演題は「文化というもの」。糠漬けを例に「うまく食べたい、色もにおいもよく、うまく食べるにはどうすればいいかを考える」。つまり、文化は持続的な夢の発展によって創造される、夢は文化の原動力だ、と強調した。

そんなことを思い出したのは、警戒区域の浪江町からいわきにやって来た糠床があるからだ。

浪江から東京に避難した人がいる。一時帰宅か立ち入りかはわからないが、とにかく浪江の家から糠床を持ち出した。東京へは持って行けない。で、いわきに住むいとこに糠床を託した。

糠床のいのちを保つために、つまり糠漬けを続けるために、そのいとこの奥さんが米屋に食塩を買いに来た。「祖母の、祖母の、祖母の代から続く糠床」だという。

原発ごときに連綿と続いている食文化を断ち切られてたまるか。といって、手を抜くと糠床はすぐ腐敗する。100年の歴史と伝統がたちまち消滅する。

冬は塩を厚く敷いて休眠させていたことだろう。浪江の糠床よ、これからさらに100年を生き延びるのだ――。ホオノキの花に自然の力を感じ、浪江の糠床に文化の力を感じた人間は、そう念じたくなるのだった。

2011年5月30日月曜日

津波で木が茶髪に


いわきの海岸線のうち、夏井川河口をはさんだ新舞子浜には、江戸時代起源の海岸林がある。磐城平藩を治めた内藤の殿様が植林をしたのが始まり。それで、殿様の法名から「道山林(どうざんりん)」と呼ばれている。

この「防潮保安林」が津波被害を軽減したのではないか。ついては、林野庁が検討会を立ち上げ、防災林としての効果を検証する方針を打ちだした――という記事が、10日前(5月20日)のいわき民報に載った。

新舞子浜の近くに住んでいる人、実家がその近くにある人などは、直感的にそう思っているようだ。

新舞子浜では、防風林(海岸林)の先、海側に防波堤がつくられ、防風林の中を海岸道路が貫通し、その内陸側に、海岸線、防風林と並行して夏井川と仁井田川をつなぐ横川が控えている。

「3・11」の大津波は、やはり防波堤を越え、海岸林をなめて、横川になだれ込んだ。防風林南隣の滑津川河口そばの新舞子ハイツは、1階が津波に洗われた。同じく北隣の仁井田川左岸の四倉は、海岸部の町並みが津波に襲われて大きな被害を出した。

新舞子浜の津波の様子はどうだったか。けさ(5月30日)の新聞折り込みに「いわきブランド農産品通信」第47号(市農業振興課編集・発行)が入っていた。河口から1キロ離れたところにイチゴ農家の畑がある。「イチゴが心配で畑に来たが、見ているそばから海水がぐんぐん上がってきて避難するしかなかった」

河口から4キロ以上入り込んだ夏井川そばの住民の話、つまり、わが家の周辺のことである。「川の水が引いて底が見えた。やがて堤防からあふれそうになるまで水が逆流してきた」。幸い、津波が堤防を越えることはなかった。わが行政区(中神谷南区)でも、ほんとうは大津波を警戒して避難すべきだったのかもしれない。

「道山林」がこの内陸部まで救ってくれたと感じたのは、さらに、新舞子に近い人たちの話が伝わってきてからだった。

「道山林」が防波堤になった。そばにある横川が津波の受け皿(プール)になった。それに、市から委託されている住民が横川にある排水ポンプ場の水門を閉めた。で、津波は来たけれども軽微な被害で済んだ。「道山林」と横川がなかったら、わが家の近辺も津波の被害を受けていただろう、という。

藤間中の近く、舞子浜病院や長春館病院、レストラン、養護老人ホーム「徳風園」などをカバーする防風林は一部がすっかり赤茶けている=写真。津波をかぶって塩分を過剰に摂取したために「脱水症状」を起こして枯れたのか。

照葉樹だから、一年中緑に包まれている。それが異常な「紅葉」だ。クロマツも木によっては赤茶けている。花が咲き始めたトベラ、これが生えていたことは知っている。タブノキもあるだろう。あとはとんと樹種がわからない。

照葉樹の「紅葉」はやがて葉を落とすに違いない。それで終わってくれるな。なんとしても芽吹いてくれ――そんな思いがふくらむ。防風林は体を張って人間の命を救ってくれたのだから。

2011年5月29日日曜日

山崩れ


夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川地内)の無量庵へ行くとき、夏井川に沿う県道の右側に二ツ箭山が見える。必ず頂上のギザギザした岩壁を仰ぐ。

「3・11」のときは頂上の「女体山」の岩の一部が剥落した。頂上の一部が、赤みがかっている。知人の電話や、ブログ「山旅工房『とうほくトレッキング』」をのぞいて、岩が剥落したのを確かめた。

岩が剥落すると、内部の岩が露出する。初めて空気にさらされた岩の表面は赤みがかっている。「この世に生まれ出た岩の赤ちゃん」というフレーズが浮かぶ。「岩の赤ちゃん」は雨に濡れ、風になぶられ、日に焼かれ、寒気にさらされて、やがて潤いを失った大人のように白茶けてくる。

「3・11」のあと、4月11、12日と、いわきの西部(田人、三和)を震源とする「6弱」の余震が連続した。どちらかの日に、二ツ箭山の中腹で山崩れが起きた。新緑に覆われた山容の一部が、まるで皮膚炎を起こしたように、そこだけぽっかり抜けおちて赤茶けている。いつも利用する県道から、それがはっきりと見える。

場所はどこだろう。県道を通るたびに気にかかっていた。先日、知人からの電話で山崩れ現場がわかった。通称「ヤマノカミ」の「大山祇(おおやまつみ)神社」奥の院の上方だという。「二ツ箭断層」の上だ。ということは、単なる土砂崩れらしい。

知人はいわき地域学會の仲間で、いわき市内の鉱物を研究している。金曜日(5月27日)朝、知人の案内で現場を訪ねた。「一人ではこうした現場には入らないことだ。もし私が行方不明になったら、山に入ったはずと言ってほしい」という。

「ヤマノカミ」さまから先の林道は通行止めになっている。そのため、まず「ヤマノカミ」さまに、これから入り込む山中の安全を祈願した。

林道は四倉の八茎(やぐき)へと延びている。各所で落石がみられる。すぐ近くでホトトギスが鳴いた。いい声でさえずっているのはクロツグミか。内心はしかし、山全体が今にも動き出すのではないかと、びくついている。それほどアスファルト舗装がされた林道に、かすかな亀裂や隆起、落石がみられるのだ。

急坂を上っていくこと十数分、二ツ箭山の月山登山口の先が大量の土砂で埋まっていた=写真。土砂は林道を埋め、谷底の永久保川へと急斜面の杉の木をなぎ倒して駆け下った。

土砂は「真砂土(まさど)」らしい。砂よりは粗く、小石よりは小さい。要するに、砂利状。こんな砂利がむき出しになった山道が小川町や川前町には多い。日当たりがよければウドなどがよく生える。

永久保川は荒神(こうじん)川へ注ぎ、荒神川は小川の平野部で夏井川に合流する、という。土砂は川をせき止めるところまではいっていない。川と言っても、地形からみて沢のようなものだろう。

これから梅雨に入り、台風が来て土砂が大量に沢に流れ込むと、どうなるか。きのう(5月28日)から雨が降っている。しかも3日間は傘のマークだ。土砂が永久保川に絶え間なく流れ込んでいる様子が思い浮かぶ。

同じく夏井川に合流する加路(かろ)川をはさんだ二ツ箭山の向かい、JR磐越東線江田駅裏の背戸峨廊(セドガロ)に何カ所か規模は小さいが「せき止め池」のようなものができたという。これが成長して「せき止め湖」になったらコトだ。二ツ箭山の沢では土石流を、背戸峨廊では鉄砲水を警戒する必要がある。

2011年5月28日土曜日

写真集2つ


「サーファー記者」から電話がかかってきた。月曜日(5月23日)だった。「渡したいものがある」という。出先だったので、「家に戻ろうか」「いや、同じ方向に向かっているので」と、出先で落ち合った。

5月19日にできたばかりの写真集『HOPE』(いわき市海岸保全を考える会発行)=写真=をもらった。表紙に「がんばっぺいわき 3・11からの復興」という文字が躍っている。「サーファー記者」が中心になって、いや、独りやむにやまれない気持ちになって、会に諮って緊急に出版したのだろう。

後日、書店に行ったら、震災・原発関連の平積みコーナーに、この写真集が立てかけてあった。

写真集の構成は、3分の2が「3・11」以前の、いわきの各浜の姿、生業、暮らし、祭り、自然などをとらえたものだ。残り3分の1で、「3・11」の惨状・復旧への姿を伝えている。定価500円。売り上げの一部は義援金として活用されるという。

いわきの海を愛して、いわきに根っこを生やした「サーファー記者」の、愛惜と怒りと悲しみのこもった写真集だ。署名はない。が、空撮以外は「サーファー記者」の写真だということは、容易に分かる。得意の海中写真もある。「サーファー記者」は「ダイバー記者」でもある。

あるとき、といってもずいぶん前だが、夏井川渓谷の籠場の滝の話になった。「おい、潜って滝壺の写真を撮ってくれないか。そうしたら、夏井川渓谷の無量庵の物語が完成する」。籠場の滝は「魚止めの滝」だ。滝壺に魚がうようよしているに違いない。「やりますか」となったまま、ともに年を取った。

もう一つ、『HOPE』を印刷した平の八幡印刷からも、少し前、写真集『和』が届いた。こちらは「3・11」前の双葉郡および田村市都路町の姿を伝える。一コマ一コマの風景はそこにそのままあるけれども、もう出合えない「思い出の風景」になってしまうのか。いや、そうさせてはなるまい。

原発事故は山を、町を、海を、人を、生きものを、歴史を、民俗を、思い出を、情愛を、計画を、予定を、その他一切合切を、一瞬にしてご破算にした。

今、しみじみと4歳の孫の言葉をかみしめている。「原発難民」初日の真夜中、へとへとになって西郷村の那須甲子青少年自然の家にたどり着いた。わが一族というか、3家族がそろってやれやれとなったとき、孫がさらりと言ってのけたのだ。「チキュウガオコッタンダヨ」。そうだ、そうなのだ。

2011年5月27日金曜日

緊急講演会


ペシャワール会現地代表中村哲さん=写真=の講演会がおととい(5月25日)夜、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」6階会議室で開かれた。いわき市九条の会連絡会が主催した。

中村さんの講演会は、福島県九条の会の手で5月22日、いわき芸術文化交流館「アリオス」大ホールで開かれることが決まっていた。それが、東日本大震災の影響で会場使用不可となり、中止を余儀なくされた。

以前にもいわきで講演会が企画されたが、それもよんどころない事情で中止になった。「ぜひ、被災したいわき市民を応援したい」との中村さんからの申し出で、急きょ、講演会が実現した。「今度ばかりは義理を立てないと気が済まない」。中村さんは講演のなかで胸の内を明かした。「三度目の正直」だ。

ペシャワール会の資料によれば、医師の中村さんは1984年、パキスタンのペシャワール・ミッション病院ハンセン病棟に赴任し、10年間診療活動に従事した。この間、アフガニスタン難民への診療を本格的に始め、アフガン国内にも診療所を開設した。1998年にはパキスタン、アフガニスタン両国の拠点となる基地病院を建設した。

2000年夏、アフガンは大干ばつに襲われる。飲み水、農業用水が確保できないために人々は難民化し、深刻な水不足が原因で赤痢その他の感染症が急増した。このため、中村さんは医療活動と並行して井戸掘り事業を始め、2001年にアフガン空爆が始まると、避難民に緊急食糧配給を実施した。

医療から始まった活動はやがて用水路建設、自立定着村、試験農場、モスク、マドラサ、寄宿舎づくりへと、住民の生活全般にわたるものになった。

中村さんは言う。アフガンは山の国。ほとんどがヒンズークシ山脈に占められる。その山々に積もる雪がアフガンの農業を支える源だが、地球温暖化の影響で積雪量が減り、春には雪解け水が濁流となって暴れ下り、夏には干ばつに見舞われる。ひとたび雨が降れば洪水になる。

昨年夏には大洪水が起き、既設・建設中の用水路が至る所で被害を受けた。それから復旧へ、工事完成へと組織を挙げての真剣勝負が繰り広げられ、去る3月下旬、「カマ用水路」が事実上竣工した。

取水口・用水路づくりには「斜め堰」「蛇籠(じゃかご)工」「柳枝(りゅうし)工」といった日本の中・近世の伝統技術が使われた。自然を畏れ、敬い、自然と共存する中から生まれた土木技術である。しかも、その技術は現地の人々の間に根づき得るものだ。現地にある石を利用して蛇籠をつくる。壊れれば自分たちでそれを直すことができる。

大干ばつ、大洪水に見舞われるアフガンの人々と、昔の日本人の暮らしが重なる。そして、今度の大震災、自然を見くびったことによる原発事故も……。

中村さんは講演前にいわきの被災地を見て回った。根底においてはアフガンも、いわきも(ほかの被災地も)同じだという。人間と人間の関係、人間と自然の関係について、江戸時代にまでさかのぼって考え直すべき、ここで根源的な問いを発さなければ人間は滅びる――と締めくくった。

2011年5月26日木曜日

広野町湯本支所


わが家の近くのアパートに、緊急時避難準備区域に指定されている双葉郡広野町の若い夫婦が入居した。子どもはまだ小さい。小さいから、原発からの放射性物質を避けて南隣のいわき市に避難して来た。夫は広野の会社に通っている。同じ広野から避難し、四倉にアパートを借りた熟年夫婦がいる。こちらも広野に夫の会社がある。

わが家は、カミサンが米屋(実家)の支店をまかされていて、店頭に「ザ・ピープル」の古着を置いている。このところ古着を手にする人が目立つ。古着を介して、カミサンが広野から来た人たちと知り合った。江戸時代は同じ磐城平藩だったから、歴史的にも広野といわきは一体感がある。話していても違和感はない。

広野からの避難家族にも、カミサンが関係しているシャプラニール(NGO)の生活支援策が口コミで広がるようになった。「いわき市民でなくてもいいのか」「町が発行する入居決定通知書の原本があればOK」。ケータイで情報を伝え合い、シャプラに連絡を取った人もいるようだ。

町の臨時役場ともいうべき「広野町湯本支所」が常磐上湯長谷町釜ノ前5(旧いわき電子)に開設された=写真。湯本温泉街から見ると、スパリゾートハワイアンズの手前、右側にある。そのハワイアンズのホテルが広野町の2次避難所になった。

広野町民は福島高専や、災害時の相互応援協定を結んでいる埼玉県三郷市、あるいは県内外の親類縁者宅などに避難している。2次避難が始まった5月23日には、三郷市からの110人をはじめ、約230人がバスや車でホテルに到着したという(いわき民報)。臨時の町役場が近いことも2次避難所にハワイアンズを選んだ理由のひとつだろう。

ただ、ハワイアンズにいられるのは8月末まで。その間に、いわき市内に仮設住宅が建設される。わが中神谷南区にも市営住宅跡地(借地)がある。仮設の用地としては20~30軒は建てられるくらいの広さだ。区内に「ヒロノ班」ができてもいいのではないか。

さて、近所に越してきた若い母親は、夫が朝早く車で会社に出かけるため、足がない。町役場の「湯本支所」まで日中、出向くのは難しい。いざとなったら車を出してやるかと、カミサンと話している。

2011年5月25日水曜日

災害ごみ搬出


いわき市は、春と秋に「いわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動」を実施している。毎回、15万人前後の市民が参加する。ゲーテの詩ではないが、「銘々自分の戸の前を掃け/そうすれば町のどの区も清潔だ」を、いわき市民は永年実践してきた。この市民の「協働力」を、私はひそかに誇りに思っている。

今年は、春の一斉清掃が大震災の影響で中止になった。代わって、災害ごみを一掃する市民総ぐるみ運動が展開されている(回覧チラシには、津波被災地区は別途相談、とある)。わが中神谷南区では5月22日早朝(7~9時)に実施した。

区長以下役員が立ち会い、区内から出された災害ごみを「可燃」「不燃」「金属」に分別した=写真。2トントラックで1台分は出ただろうか。実施要領によれば、災害ごみは実施日から原則3日以内に市の委託業者が収集する。

翌23日(月)朝、副区長兼保健委員なので、災害ごみ収集申込書を提出するために市役所の環境整備課を訪ねた。市役所はかつての取材先。現役を離れてからはめったに行かない。少し緊張して入ったら……。

<なにごとか>と課長が飛んで来た。学校の後輩である。目ざとく見つけたのだ。来意を告げると担当者が現れた。これがまた旧知の若い職員である。部屋を見渡すと、係長も電話中だがぺこりと頭を下げた。課長・係長・担当職員、いずれも久しぶりのお顔拝見だ。

みんな、なんとなく疲れたような表情をしている。若い担当はひげをそる時間がなかったのだろう。不眠不休といったら大げさかもしれないが、それに近い状態が続いているらしい。なにしろ、いわきのガレキを処理するための総司令部だ。市民から突き上げられるときもあるに違いない。それでもいばらの道を進まなくてはならないのだ。

回覧チラシでは「実施日から原則3日以内」の収集をうたっているが、予想以上に搬出量が多いため、「1週間はかかります」という。「わかった、区長さんにはこちらから伝えるから、連絡しなくていい」

帰り際、若い担当職員が個人的な関係に戻って、小声で言った。「(私の)ブログを見て(地域の)情報を取ってます」。そうか、テレビも、新聞も見る暇がないのか。いや、見たとしても、地域の細やかな情報は得られない。定点で観測しているからこそ見えてくる情報がある。彼のような立場の人のためにも、片隅からの発信を続けることにしよう、と思うのだった。

2011年5月24日火曜日

国際NGOの底力


NGOの「シャプラニール=市民による海外協力の会」が3月19日にいわき市入りし、初期の緊急物資支援・炊き出しなどを経て、勿来地区災害ボランティアセンターの立ち上げ・運営に協力してきた。4月19日に発足した小名浜地区災害ボランティアセンターの運営にも、勿来同様、スタッフが入って協力している。

5月22日に勿来地区災害ボラセンの「閉所セレモニー」に、シャプラのスタッフから声がかかり、昼飯を食べに行った話はきのう書いた。

シャプラの副代表理事、事務局長も本部(東京)からやって来た。東京組は副代表理事ら8人。外務省の国際協力局長、「NGOを支援するNGO」の国際協力NGOセンター(JANIC)の事務局長らもいると知って、ちょっと驚く。

シャプラの副代表理事がJANICの代表をしており、外務省国際協力局の民間援助連携室ともかかわりが深いための「同舟」だった。これまでは「海外への支援」だったが、今回は「海外からの支援」の太い回路になる。内か外かはともかく、協働の関係にあるわけだ。

勿来ボラセンで、久之浜まで被災地を見に行くという一行と別れたあと、小名浜地区災害ボラセンに寄り、代表のご機嫌をうかがうことにした。代表は古着リサイクル活動を展開している「ザ・ピープル」の代表でもある。カミサンは「3・11」以後、彼女に会っていない。私は勿来地区災害ボラセンで顔を合わせた。小名浜での立ち上げを模索していたときだろう。

小名浜のセンターに着いたら「来客中」だという。しばらく待っていると、勿来で会った男性が(トイレに?)出てきた。客とはシャプラの副代表ら東京組だった。またまた一緒になって、副代表に請われるままに被災地を案内することにした。

関田須賀、錦須賀、岩間、小浜。これは勿来のセンターがカバーした津波被災地。小名浜のセンターがカバーするのは小名浜、永崎、中ノ作、江名。その北に豊間、薄磯、新舞子、四倉、久之浜が続く。岬―砂浜―岬―砂浜を繰り返す「いわき七浜」は、主に砂浜の背後地に集落が形成された。とりわけ永崎、豊間、薄磯、四倉、久之浜が甚大な被害を受けた。

小名浜から案内を頼むという。アクアマリンを目印にして、海に臨む。海岸線に沿った道路を北上した。豊間と薄磯、久之浜の被災地には初めて入った。胸が詰まる思いがした。

ここに知人の家があるけど壊れて住めない。知人の甥っ子の店があるけど壊れている。コーヒーを飲みに来た喫茶店がない……。そんなことを、私の車に同乗した局長らにつぶやく。つぶやくしかない惨状が続く。

豊間中学校の入り口で、校庭に積まれた瓦礫を、校舎の奥の体育館の壊れ方を見てもらった=写真。この日朝から、PTAは校舎1階の砂出しをしたはずである。破壊された校舎への愛情のあらわれであって、あとは教育委員会がどういう判断をするかわからないが、一つのけじめでもあっただろう。

ほんとうの支援がこれから始まる。有名人がイベント的にボランティア活動を展開する。否定はしない。どんどん来てほしい。が、ほんとうの支援とは個別・具体であるはずだ。生活者の思いをくみ取った支援が必要になる。

この2カ月余のシャプラニールの活動をウオッチングして、さらにJANICの基本方針を知って、あらためてこのNGOと関わってよかったと思った。

それはこういうことである。①地元の社協や行政を尊重する②現地のニーズから出発する③現地の価値観、文化などを尊重する④災害ボラセンにおけるボランティアコーディネートを重視する――。

ほかに留意すべきことが二つくらいはあるようだが、要するに、静かに、しかし注意深く被災者の気持ちに寄り添いながら、現地のボランティアの成長を促すということも含めて支援する。そういうことなのだろうということを、彼らと話していてわかった。

シャプラが今展開している支援策は、地元企業から調達した調理器具セットを、避難所などから仮住まいに移った被災者に提供することだ。そのための現地スタッフ(被災者)も雇用した。仮住まいに入居した被災者が孤立感を深めないようフォローもしていくという。顔の見える支援が続く。

2011年5月23日月曜日

閉所セレモニー


いわき市勿来地区災害ボランティアセンターの閉所セレモニーがきのう(5月22日)、現地で行われた。このボラセンに詰めていたNGOの「シャプラニール=市民による海外協力の会」のスタッフから、昼前、電話がかかってきた。

「2時までセレモニーをやってます。お昼にはごはんが出ます。連絡が遅れて申し訳ありません」。「昼飯」と聞いて、夫婦で出かけた。

たまたま昔からシャプラと関係している。シャプラがいわきへ支援に入ったとき、スタッフとともに旧知の(結果として勿来地区災害ボラセンのリーダーになる)T君に会いに行った。ボラセンが立ち上がる前の3月27日だった。4月9日に開所して以来、およそ1カ月半。所期の目的を果たしたので、勿来災害ボラセンは5月20日に店じまいをした。

その締めくくりに、22日の日曜日、セレモニーが開かれた。

正午すぎにボラセンに着いた。雨が降り始めた。

テント村=写真=でつくっている料理のひとつ、トン汁をいただく。昼前、植田中の吹奏楽部の演奏があったらしく、前は災害ボランティアが詰めていたコンテナハウスで、生徒たちが昼ご飯を食べていた。そこへ入った。シャプラの人たちもいた。中学生と話が弾んだ。

私と勿来ボラセンの関係で言えば、始まりは勿来とシャプラをつなぐ「触媒」、終わりはシャプラの「一員」としての参加、である。

しかも、この種の「終わり」は、シャプラ流では「始まり」だ。そこがシャプラと付き合っていて面白いところだ。シャプラの生活再建支援はすでに双葉郡広野町まで北上している。具体的な生活再建支援――日赤の「六点セット」とは違った「鍋釜支援」こそ、被災者の、主婦の気持ちに沿うものだろう。

2011年5月22日日曜日

湯本へ


先日、わが家にいわき市常磐に住む知り合いの女性2人がやって来た。人生の大先輩だ。お一人が「『ドーン、カタカタ』と山が鳴って家が揺れる」と、顔をしかめる。もうお一人は、主人が地質測量の専門家。家は岩盤の上に立っている。その違いがあるのかもしれない。「ドーン、カタカタ」の犯人は「湯ノ岳断層」だ。

常磐へは、故里見庫男さん(いわき地域学會の初代代表幹事で古滝屋社長)から月に一回招集がかかったので、よく通った。顔見知りも多い。わが家にやって来た知人の話に触発されて、湯本温泉街に出かけた。駅周辺の様子は知り合いのKさんのはがきで承知している。この目で確かめなくては、という思いがうずいていた。

JR湯本駅前。自分の和菓子店で店番をしているKさんに会う。「里見さんが生きていたら……、ほっとけないだろうね」。隣の店は液状化現象に遭って沈下し、シャッターを下ろしたまま。その隣の福島銀行湯本支店は入り口と駐車場が沈下して仮設階段をつくった=写真。Kさんの店の前の歩道には段差ができた。注意しないとつまずいてしまう。

そういえば、湯本温泉街に入ったとたん、車が洗濯板の上を走っているような感覚に襲われた。地下に坑道が張り巡らされていた「炭鉱の町」だったから、今度の大地震でその影響が出たのだろうか。「湯本をよく見ていって」。Kさんが言う。

和菓子店の、もう一つの隣のコンビニに行く。コンビニを外から眺めていたら、店の女性が私を見つけて手を振った。主婦として初めて「サンシャインガイド」に選ばれた人だ。少し話をする。一見、周りの建物はしっかりしているようだが、隣はシャッターに「要注意」の黄色い紙が張ってある。

湯本は、見た目にははっきりしないくらいに、薄く、小さく、広く地震のダメージを受けているのではないか――そんな印象を受けた。とすると、復旧までが大変だ。行政は自力でやれ、と言いかねない。

それはそれとして、ちょうどお昼どき。和菓子店の斜め向かいにある食堂「おかめ」に入った。温泉旅館は今や、原発事故を収めようと奮闘している作業員の“宿舎”だ。その彼らが食事に来る。定食の料金を値下げしてワンコイン(500円)にした、というニュースをテレビで知った。

おかみさんと顔を合わせるや、「いらっしゃい」「ニュース見たよ」。そのあと、地元の男性たちの様子を教えてくれた。「上(天国)から降りてきて指示してくれないかな、って言ってるんだから」。故里見さんのことである。里見さん亡きあとの、湯本の状況が推し量られる。その里見さんの旅館が閉館中なのが気になる。

ワンコインのとんかつ定食を食べたあと、カミサンの友人の実家を訪ねた。屋根にはブルーシートが張られていた。

帰りは、湯の岳の中腹から内郷へ抜けて白水阿弥陀堂を見ることにする。その前に、考古資料館に寄った。23年度最初の企画展「かざりの世界」が開かれている。館長と、考古資料館などを運営しているいわき市教育文化事業団の常務理事に会って、しばらく歓談した。

阿弥陀堂では、どうしても阿弥陀三尊を拝したくなった。拝観料大人一人400円を払い、寺のガイドさんの案内で堂内に入る。

阿弥陀堂はざっと850年前に建てられた。そのころ、末法思想が吹き荒れていた。天変地異もあった。「貞観地震」(西暦869年)のおよそ200年後だ。「千年の単位」で考えれば、それ以来の災厄である。

阿弥陀さまに、この大震災の死者を弔い、非常事態を鎮めてくれるようにお願いした。心の底からそう念じた。

2011年5月21日土曜日

いねむり先生


寝床に入って伊集院静の『いねむり先生』を読み始め、徹夜をしてしまい、朝飯を食べたあとも読み続けて、昼前に読了した。

“在宅ワーク”だから自分で時間を調整できるといっても、徹夜をしてまで本を読むようなことはめったにない。「3・11」以後、これほど熱中して読んだ本はなかった。いや、熱中できるような心理状態ではなかった。

「先生」(作家の色川武大=阿佐田哲也)と、30代半ばの「サブロー」(伊集院静)の、「先生」が亡くなるまでの2年間の交流物語である。麻雀は4人でやる。そのテーブルを囲むように、小説には「Kさん」(黒鉄ヒロシ)と「Iさん」(井上陽水)が登場する。「Kさん」が「先生」を紹介してくれた。

「サブロー」は女優である妻を亡くして酒浸りの日々を送る。心が壊れかかっていた。同じ幻覚に襲われるようにもなった。地平線の向こうから幌馬車がやって来て、その群れに囲まれてしまう。「ボク」はうつぶせて観念するしかなくなる。

ある日、競輪からの帰り道、「サブロー」の厄介事を聞いた「先生」が、「実は私もサブロー君と似た幻覚をずっとやってきてるんだ」と告げる。機関車が向こうから驀進してきて轢死させようとする。「もう大逃亡ですよ。しかし最終的には進退極まるんです」。対処法は、そんな夢に対して「知らん振り」を決め込むことだという。

私も物心ついたころから、「先生」と同じ夢を繰り返し見てきた。そのせいか、このくだりが私には『いねむり先生』の白眉に思える。

地平線の向こうから線路がこちらに向かって伸びている。突然、その映像が夢に現れる。けし粒ほどだった機関車が猛スピードで直進し、のしかかるほどに大きくなって、<ああ、轢き殺される>と思ったところで目が覚める。心が震え、冷や汗をかく。

小2のときの大火事体験が尾を引いているのか――。成人してから思ったものだが、ほんとうのことはわからない。結婚してからはその夢を見なくなった。

さて、この本は5月から再開した移動図書館から借りた。「東日本大震災」でラトブのいわき総合図書館がダメージを受け、閉館している。月に一回、わが家のとなりにやって来る移動図書館「いわき号」=写真=で図書館の雰囲気を味わおうと、書棚の背表紙を眺め続けて選んだ一冊がこれだった。

2011年5月20日金曜日

渋滞・アサレン


日曜日(5月15日)に夏井川渓谷の無量庵へ出かけた折、生ごみ容器を持って行くのを忘れた。「3・11」以来、ときどき<心ここにあらず>のような状態になる。日曜日の朝もそうだった。途中まで行ったところで「あんた、生ごみは?」と聞かれ、頭のなかにもやがかかった。初めてだ、畑に埋める生ごみを家に置いてきたのは。

きのう(5月19日)、早朝6時。生ごみ容器を車に積みこみ、無量庵へ出かけた。5月6日から、渓谷の落石現場で応急工事が行われている。日中はそのため、通行止めになる。下流側は小川の高崎が「検問所」だ=写真。工事が始まる前なら自己責任で直行できる。朝一番で出かければ、通行止めになる前に帰って来られるだろう。

行くのに30分。生ごみに水を入れて脱塩するのに40分(普段はもっと長い)。それを埋めて、片づけて、7時20分前後には無量庵を離れた。

ちょうど通勤・通学時間帯である。助手席に中学生だか高校生だかを乗せた車が通り過ぎた。牛小川の人間であることは、先刻承知。作業員を乗せたバンも行く。この時間帯だけ、車が狭い溪谷の道路を盛んに行き来する。

平地の小川町内に出ると、中学生たちが学校へ向かっていた。平・平窪では交通渋滞にはまった。ここではいつも、この時間帯に渋滞する。それを忘れていた。

水田が広がる脇道へと抜け、小川江筋沿いに車を走らせると、平商業高校の生徒と思われる一団が、走りながらやって来た。走りに無駄がない。きれいだ。陸上競技部員かもしれない。

「アサレン」だろう。17歳のころの、夏休み合宿。アサレンがつらかった。走るのがつらい、のではない。その時間に起きなくてはならないのが、つらかった。子どもだったのだ。

さらに進んで、切り通しを越えると平・上神谷に出る。いかにも柔道部員とわかる巨体の持ち主たちが、やはり歩道を走っていた。東日本国際大の猛者たちのアサレンだ。

通勤・通学、渋滞、アサレン……。一度は切り裂かれた日常が、ところによっては曲がりなりにも復活している。そのことを感じた。

2011年5月19日木曜日

原発事故講演会


いわきフォーラム’90の第346回ミニミニリレー講演会が5月17日夜、いわき市平下高久の根岸集落センター(地区公民館)で開かれた。「公民館」は太平洋にほど近い田園地帯の集落の一角にある。ふだん会場にしている市文化センターが市の災害対策本部になり、一般の利用ができないための会場変更だ。

講師は、日本原子力研究所で発電用原子炉の設計・研究・安全性研究・原子炉解体などに従事した星蔦雄さん。星さんは「福島第一原子力発電所事故について――放射線の理解のために」と題して、スライドを使ってわかりやすく話した。ふだんは聴講者が10人ほどだが、テーマがテーマだけに市内各地から約45人が詰めかけた=写真

原子力発電の原理、福島第一原発事故の状況、放射線とは、放射線の健康への影響、いわきの放射線レベル、我々の今後の対応の六つに分けて説明した。

「東電は今頃になって1号機の炉心溶融(メルトダウン)を言い出したが、専門家は最初の数時間で溶融したとみていた」「放射能はベクレルで表示される。ホタルと同じ。放射性物質のなかにいるホタルが1秒間に1匹(放射線が一つ)、ピカッと光れば1ベクレル。3匹か4匹かということ。光と同じで放射線は遠くへ行けば弱まる」

「20キロ圏内を一斉に避難させたのはどちらに風が吹くかわからないため」「一般人の被爆制限値は、平常時は年間1ミリシーベルト、事故対応時は20ミリシーベルト」「いわきの測定値は、県いわき合同庁舎南側の駐車場(コンクリート)のため、土よりは少し低めになっている」

頭の中で勝手に飛び交い、ぶつかりあっていた情報が、星さんの言葉によってどんどん交通整理をされていく――聴講中、そんな感覚があった。なかでもベクレル=ホタル説が腑に落ちた。5,000匹いれば5,000ベクレルだ。

で、今後どうすればいいのか。星さんは、線源は地表に沈着した放射性物質(ヨウ素、セシウム)で、現在は安定に減衰(多量の放射性物質の放出はない)している。現状では、健康に影響の出るレベルではないので、生活は普段どおりでよい。家庭菜園の野菜などはよく洗う。屋外作業後は手や顔を洗う。土ぼこりの多いときは窓を閉める――を挙げた。

講演後には質問が相次いだ。「窓は普通の天気なら開けてもいい」、エアコンについては聴講者も加わって「今の製品は外気と遮断されている。なぜ使って駄目なのかわからない」。「東電は情報を公開していない。専門家は『けしからん』と思っている。市民の不安解消のためには情報公開が必要」と締めくくった。

講演に先立ち、「公民館」前のコンクリートの駐車場で、「はかるくん」で線量を調べた。地上1メートル、地表と数値が変化する。地面に沈着したセシウムが放射線を出し続けている。物質である以上は見えなくても「粒」として存在している。

金子みすゞの詩に「星とたんぽぽ」がある。そのなかの詩句<見えぬけれどもあるんだよ>を忘れぬことだ。

2011年5月18日水曜日

地震より怖かった


わが家の前の旧国道(江戸時代の「浜街道」)は、しばらく東進して左にカーブする。カーブしかかったところに知り合いの家がある。

ある日、歩道に沿った生け垣が2~3メートルにわたって傾げ、葉を落としていた=写真。生け垣を支えるブロックも上の1列がなくなっていた。歩車道境界ブロックはなんともなかった。車がカーブにさしかかったところでブレーキもかけずに直進し、歩車道境界ブロックに乗り上げ、ジャンプするようにして知り合いの家の庭に突っ込んだのだろう。

あとで新聞に記事が載った。深夜、21歳の若者の酔っ払い運転だった。何人かが乗っていた。

きのう(5月17日)夕方、知り合いが車で外出するところにでくわした。様子を聞くと、「いやー、地震より怖かった。聞こえなかった?」と、事故を思い出して顔をしかめた。ものすごい音がしたらしい。わが家は、知り合いの家からざっと300メートルは離れている。事故には気づかなかった。

庭のそばに駐車場がある。「一番手前にあった私の車が壊れたので修理に出した。これは代車」。生け垣のブロックはおととい、職人さんが来て修繕した。全部相手方の保険から出るのでカネの心配はしなくていいけど、ともいう。

震災、原発事故とこれ以上ない恐怖を味わわされたうえに、とんでもない事故が飛び込んできた。

カーブの向こうにあるものが生け垣でなくてブロック塀だったら、コンクリート造りの建物だったら……。重大事故になっていたことは間違いない。

2011年5月17日火曜日

田植えずれこむ


例年だと5月初旬の大型連休に集中する「神谷耕土」の田植えが、今年は10日近くずれこんで14、15日に行われた。といっても全部ではない。まだ水が入り始めたばかりの田んぼがある。「神谷耕土」のほかでも、多くはこの土・日に田植えが行われた。

「東日本大震災」に伴う福島第一原発事故の影響で原発周辺13市町村の水稲の作付けが凍結された。しかし、いわきは避難指示区域や計画的避難区域、緊急時避難準備区域以外のために「作付けしても差し支えない」となった。

田おこし作業が遅れているのは、素人目にもわかった。大型連休に入っても田んぼは殺風景のまま。それがここにきてあわただしくなった。畔(あぜ)塗りが行われ、砕土されて水が入れられ、代かきが行われた。

夏井川で言えば、平地の神谷よりやや上流にある小川・柴原のカミサンの親類宅は、土曜日(14日)に田植えを終えた。それよりさらに上流、夏井川溪谷の江田では、無量庵の地主さんが日曜日(15日)に家族総出で田植えをしていた。

親類の家では、「3・11」に小屋がつぶれ、「こて絵」を施された見事な蔵の壁がはがれ=写真、全体がゆるゆるになった。当主は「修繕するにはカネがかかる」と嘆く。小屋に置いたトラクターがおしゃかになった。地主さんの家の古い蔵もがたがたになった。こちらは「解体する」という。両方とも母屋は健在だ。瓦一枚落ちなかった。

1軒1軒仔細に見れば、大地震で全く無傷という家はないのではないか。沿岸部の津波被害と違って、中山間地の農家の被害は見えにくい。総量では相当の被害額になるだろう。

さて、農家は水稲を栽培してこそ農家だ。手をこまぬいてはいられない。親類は10日遅れの田植えを終えてほっとした表情だ。先行きが案じられるとしても、今は稲の生長を見守るだけ。そうでないと、一年を貫く棒のようなものが胸の中からはずれてしまうではないか。

2011年5月16日月曜日

孫のために


息子がわが家に子どもを連れて来なくなった。孫は4歳と2歳。木造のぼろ家とくれば「低気密住宅」である。あちこちにすきまがあって、外気が入り込む。おまけに猫が戸を開けて出入りする。仮に「屋内退避」になったら、われわれ自身がどこか「高気密住宅」へ避難しなければならない。

4月下旬、上の子の誕生日にケーキを届けた。そのときに2人の孫の顔を見た。それっきりである。なぜこんな目に遭わなければないのか。地震・津波の次に襲ってきた原発事故、これが元凶だ。「3・11」以前のように、ちょくちょく来てジイバアと遊んでいたのが、夢のようだ。もうそんな普通の日は来ないのか。

3月14日も朝、父親に連れられて孫が来た。強い余震があるたびに息子が下の子を、私が上の子を抱いて庭に出る。そのうち父親は用事があって帰宅した。原発事故は深刻度を増していた。そのとき、温かい南風に誘われて庭で孫と遊んでいた。

と、3号機の建屋が炎を発して爆発し、黒煙が空高く立ち昇ったのをテレビが映し出していた。間もなく父親が血相を変えて走り込んで来た。「中に入れて!」。福島第一原発からはおよそ40キロ。とはいえ、すでに12日から大気は放射能で汚染されていた。

私は庭で遊ばせたことを後悔している。孫にすまないことをしてしまったと思っている。その孫のためにしてやれることはなんだろう。原発に関しては、私は今まで全くニュートラルだった。が、もう「脱原発」しかない。その道筋を確かなものにすること以外に孫に報いる方法はない――そう思うようになった。

「さよなら原発 放射能汚染のない平和な未来を求めるパレード!」がきのう(5月15日)午後、平で行われた。平中央公園で集会を開いたあと、目抜き通りをパレードし、いわき駅前で流れ解散をするというので、夫婦で集会をのぞいた=写真

主催したのは「いわきアクション!ママの会」と「NO NUKES MORE HEARTS」(東京)。若い母親たちのパワーが人をつなぎ、共感の輪を広げた。ざっと500人は参加しただろうか。

集会が終わるころ、近所の知り合いの店に行って、居合わせた別の知人も加えてしばらく雑談した。みんな集会に参加した。「原発難民」の体験者だ。いつ逃げたか、どういうルートで逃げたか……。話は尽きない。孫が来なくなった話をすると、「うちもそうだよ」とうなずく。いわきのジイバアは悲しみ、嘆き、怒っている。孫のために、原発にさよなら、を言わなくてはならない。

2011年5月15日日曜日

「うえいぶ」44号


そろそろ書いていいのかな。いわきの総合文化誌「うえいぶ」第44号=写真=だ。「東日本大震災」をはさんで印刷された。

故里見庫男さんに頼まれて編集人になった。担当した最初の「うえいぶ」(第42号)が亡くなった里見さんの特集号になってしまった。

担当して3冊目。発行が年1回になって、今年は「3月10日」を発行日にした(第43号は「3月26日」)。いわき市教委がスポンサーのひとつだ。市教委が主催する「吉野せい賞」の作品を掲載する。3月10日の夕方6時すぎ、必要な冊数を「市教委文化課に届けました」と、印刷会社の担当者から連絡が入った。いやーよかった、約束を守れた――。

あとは残った冊数を印刷して、いつものように書店に配り、編集委員にお願いして、在庫がないようにさばけばいいと、ほっとしたら……。翌日の午後2時46分、大地震に襲われた。

印刷会社の担当者から連絡がきた。どこの印刷会社でもそうだったろうが、被災して一時、印刷ができなくなった。それから半月ほどたってからだろうか。「印刷が終わりました」。工場も復旧し、雑誌もできてよかった、よかった。

いつものように、スポンサーと書店には印刷会社から届けてもらう。でも、届ける時期はもう少したってから、ということにした。執筆者には、私から1冊を進呈することになっている。ほかの編集委員は、今までだと発行人の招集がかかってさばける雑誌を持ち帰るという段取りだが、そんな状況ではない。

そろりそろりという感覚で前に進めることにした。書店に「うえいぶ」が並んだのを確認して、執筆者に送った。編集委員にも近いところから手渡しを始めようという段になって、「30冊を」「「10冊を」「どこに行けば買えるのか」といった連絡が入り始めた。

もう売り切れの書店があるかもしれない。が、印刷会社に少し残部がある。書店経由で注文すれば手に入ると、きのう(5月14日)は、朝と夕方にかかってきた電話にこたえた。

同じ日の昼間、街で文化課の担当者にばったり会ったら、「『うえいぶ』はこれから配ります」という。それはそうだ。3月10日に届いて、すぐ発送するなんてことはいくらなんでもできるわけがない。翌日の震災で役所は非常時態勢に切り替わった。それから2カ月余。やっとお休みが取れたので街に買い物に来た、というふうだった。

2011年5月14日土曜日

心のケア


NHKの「クローズアップ東北」を見て、また泣いた。心療内科医が子どもや若い男女の内面に向き合い、心の傷をほぐしていく。子どもや若い人だけではないだろうが、言葉を引き出すことで「封印」していた悲しみを吐き出させ、次の場所へと送り出す。それがドクターの役割だ。泣いていいんだよ――ドクターも手を握り、肩をたたき、ときに涙ぐむ。

心療内科医がそのときにいたら……。昭和31(1956)年4月17日夜。阿武隈高地のわが町が大火事になった。小学2年生になって半月もたっていなかった。自転車やアルバムが灰になった。私はだから、小学1年生までの写真は一枚もない。で、「思い出」は写真じゃないよ、心にあるんだよ」と言っても、あったらよかったなという思いはある。

地震・津波は「思い出」を海に流した。が、ガレキに残ったものもあるだろう=写真(永崎)。がれきの合間から「思い出」が回収できるなら、これは生きる心の支えになる。60歳を過ぎてなお、7歳のときまでの写真を恋しく思う。

それよりもっと大変なのは、子どもたちは大人のようには泣けないことだ。言葉に出せない分、心を封印してしまうのだ。ときには本心と違うことを言う。私の「新聞記者」像の原点がそこにある。

大火事の翌朝、同級生と二人で避難していた近くの段々畑から下りて焼け野原の通りに出た。父親が焼け跡で何やらやっていた。父親がそこにいるからには、そこがわが家なのだ。急に、大人の人に声をかけられた。「坊やたちのおうちはどこ?」。父親がそこにいるから、「あそこ」と言えばすむのだが、なぜだか「知らない」と答えた。

すると、「動かないで」。その人が言った。写真に撮られた。あとで小名浜の叔父から、写真が「お家を探す子ら」というタイトルで産経新聞に載っていた、と教えられた。私はウソをついたのかと、今でもときおり自問する。

いや、たぶんこうなのだ。大震災以後、テレビで流れるようになった宮沢章二の詩<「こころ」は/だれにも見えないけれど/「こころづかい」は見える/……>。それを聞くたびに、大人はそうかもしれないが、子どもは逆だ。まわりに気をつかって「こころ」を見せないのだと、胸の中で反論してきた。

7歳では泣かなかった「こころ」も、54歳のときの「阪神・淡路大震災」では泣いた。泣くのに47年間かかったと思った。

(12日付の「知人が東電に電話した」にコメントを寄せてくれた方、申し訳ありません。きのう、トラブルが発生し、コメントが消えてしまいました。追記=22日にコメントが復活していました)

2011年5月13日金曜日

「針と糸がほしい」


わが家のある街の空気があの日以来=写真、少し変わってきた。初めて見る人がコンビニから新聞を買ってくる。わが家(カミサンの実家の米屋の支店)に見知らぬ人が飛び込んでくる。いわき市のとなりの双葉郡から来たのかもしれない。

双葉郡から水戸市に避難したあと、少しでもふるさとに近いいわきで仮住まいをすることにした女性が、水戸に残っている人たちのために古着を求めにやって来た。

わが家には、近所から古着が届く。「ザ・ピープル」と関係していることを知っているからだろう。店が休みの日曜日など、たまにどさっとビニール袋に入った古着が置かれてある。この際、「ピープル」以前のものとして「どうぞ持って行って」となった。「ありがとうございます、ありがとうございます」。女性の半泣きの声が家に響いた。

津波で家を流された久之浜の老夫婦が近所にアパートを借りた。自転車でやってきた。奥さんから言われたのだろう。「針と糸、どこで売ってっぺ」。カミサンが余っていた針と糸を差し上げた。

そういえば、「3・11」の直後、楢葉町から近くの小学校へ避難した人の一人がやって来た。「歯ブラシありませんか」。どこかのホテルのものがあったので差し上げた。

避難所から仮住まいに移った人たちには、日赤からもらった家電だけではもちろん足りない。こまごまとした日用品が必要なのだ。鍋釜のほかに、はさみ、耳かき、爪切り、楊枝、その他いろいろ。足りないものだらけだ。そういうところに想像力を注がないと、という思いになった。

一方で――。年度替わりには人の異動がある。区の役員をおおせつかっているので、担当の班の動きが気になった。区費納入を担当の3つの班(30人弱)にお願いしたら、2世帯が転出し、1世帯が転入した。

いわき市の人口はこれから、転入してきた双葉郡の人たちを加えて、増加はしないが減少に歯止めがかかるのではないか。それはそれとして、自治体の違いによる「ルール」、たとえばごみの出し方、そんなものもこれから問題になるかもしれない。

地域ではたぶん、受け入れたいと思いながら、そういう小さなトラブルが生まれつつある予感がする。言えば分かってもらえることだが。

2011年5月12日木曜日

知人が東電に電話した


知人がきのう(5月11日)の昼前、東電から届いた資料を持って来た。東電に電話したら、補償金に関する「申出書」が郵送されてきたので、見てくれという。そういわれても、よくわからない。

知人の話と、届いた資料を見る限りでは、「30キロ圏外」でも東電に補償金を請求できる、いや「申し出る」ことができる。「30キロ圏外」の文言に関する正誤表も入っていた。「30キロ圏外だが、避難し、営業的な損失が出た。そのことを、いわき市民として東電にわからせないでどうする」という。

あとで東電のホームページをのぞいたら、<補償金お受け取りまでの流れ(標準例)>にこうあった。

「『避難』・『屋内退避』等が指示された地域以外にお住まいの方、または避難に関わる費用以外の損害についてのお申し出される方は、『②被害概況申出書のご提出』のご提出をお願いいたします」。「30キロ圏外」が「指示された地域以外」に訂正されたのは、資料で確認済みだ。

避難費用以外に、営業損失(農業・漁業その他)、休業損害(給与所得者)、財物損害、人身傷害(ケガ・病気)、検査費用、その他の損害、の項目があった。

30キロ圏内の末続・大久(久之浜)、戸渡(小川)、荻・志田名(川前=写真)だけではない。「3・11」以後の津波による原発事故で避難した30キロ圏外のいわき市民すべてが、これに該当するではないか。知人は言った。「カネの問題ではない、いわき市民が声を上げないでどうする」

<ああ、あれがそうか>と思った。5月9日のいわき民報に「『補償相談センター(コールセンター)』開設のお知らせ」=電話番号は0120―926―404(午前9時~午後9時)=なる東京電力の広告が載った。いわき民報に東電の広告が載るのはたぶん初めてではないか(3月23日におわびの全面広告が載っていた)


ポイントは2点。①補償相談センターでは、被害者の申し出に基づき被害概況申出書を送る②避難による損害への仮払補償金についての問い合わせも補償相談センターへ――である。知人は広告のコピーを持ち帰った。

2011年5月11日水曜日

マヒワ


「3・11」から2カ月が過ぎた。“世界”が一変する前、何をしていたんだっけかな――と、写真をチェックしていて思い出したことがある。3月9日、夏井川渓谷の無量庵で冬鳥のマヒワ=写真=の群れを見た。写真に撮った。目に光が入っている。小躍りした2カ月前がはるか昔のことのように思われる。

予期せぬ「死」と「破壊」が瞬時にやって来た。想像を絶する大災害の発生当初には、互助やいたわりあいのきずなが生まれた。「阪神・淡路大震災」のときがそうだった。しかし、日を追うごとに被災者の内面は変化していく。希望と失意、信頼と不信、融和と反目……。いわれなき差別、風評被害にも傷つけられた。

「阪神・淡路大震災」では、被災から半年の間に次のようなことが起きた。「避難して来た親兄弟や子どもたちを受け入れた家庭内のトラブルも深刻化している」「譲り合い、助け合うことで保たれていた避難所の雰囲気は一変した。震災直後、校舎内に満ちていたやさしさは薄れかけている」

西日本だからなのかどうかはわからないが、「震災ショックで“いじめ”がなくなった、という外部の声がある。とんでもない。隙間だらけのおとな社会で、いまなら何をしても許されると勘違いする子さえいる」。そんな一面も浮き彫りになった。(以上、酒井道雄編『神戸発阪神大震災以後』=岩波新書)

2カ月が過ぎて生活再建への支援が課題になってきた。初期に少しかかわった「勿来地区災害ボランティアセンター」が5月20日でいちおう“店じまい”をするという。役目完了、ご苦労さま。でも、次の展開がある。まったく終わるわけではないだろう。

「阪神・淡路大震災」では「次の支援」として、仮設住宅でのお年寄りの話し相手や家事の手伝い、引っ越しや掃除の手伝い、在宅障がい者の介助などが必要となった。そのあたりに支援の重点を移したNGOもある。被災者の経済的困難と精神的葛藤に思いを寄せなければ――と、そんな感慨がよぎる。

2カ月前のことでもう一つ、マヒワと同じ鳥の話を思い出した。夏井川のハクチョウはあの日、大地震の直後にきれいさっぱり姿を消した。生存本能に駆り立てられるように北国へ飛び去った。マヒワは、しばらくは夏井川渓谷にとどまっていてくれただろうが。

2011年5月10日火曜日

ポンプ空回り


夏井川渓谷には、水道はない。溪谷に散在する集落は、少ないところでは10軒を切る。それぞれの家が独自に生活用水を確保しなければならない。無量庵の水は井戸水だ。隣の東北電力夏井川第二発電所社宅跡に井戸がある=写真。それを借用している。

井戸から無量庵までざっと30メートル。真冬に凍結・破損した水道管を、5月1日に直した。そのことは、書いた。5日に「三春ネギ」苗を定植するために出かけて、水を飲もうとしたら……、ん、一滴も出ない。どうしたのだ。

ポンプ小屋へ行くと、電力本体のモーターも、無量庵のモーターも回っている。無量庵のポンプは空回りして熱を持っていた。管工事業を営む同級生に電話をしたら、「すぐ電源を切れ」とのことだった。

休日で郡山方面へ夫婦で出かけていた同級生が、帰路、夏井川渓谷ルートに変更してやって来た。本体のポンプが回っている。おかしい。水位が下がったから空回りしたのだろう――となって、翌日、東北電力のいわき技術センターを訪ねた。

定期的に巡視する班があって、出かけたあとだった。連絡がとれた。さすがというか、現地でポンプのモーター音に気づいて電源を切った、という返事だった。お互いに一安心した。

「3・11」でがけ崩れが起きたあと、夏井川渓谷の県道は通行止めになっていた。6日、応急工事が始まった。で、「本当」の通行止めになった。電力の井戸ポンプが静かになって2時間後、迂回路を使って無量庵へ出かけた。

無量庵の小さなポンプに「呼び水」を入れて、無量庵と井戸との間を何度か往復しているうちに、蛇口から水がこぼれるようになった。水位が回復したのだ。本体の井戸ポンプの誤作動は、大震災のせいだったのだろうか。

2011年5月9日月曜日

豊間の被災者


東日本大震災の大津波で多くの人が亡くなった。その一人、いわき市平豊間の高校生の話が、土曜日(5月7日)のいわき民報に載った。訪問入浴のサービスに入っていた介護福祉士らが大地震に遭遇し、利用者を担架にのせて避難していたところ、高校生の誘導で無事、高台に逃れることができた。高校生はその後、祖母を捜しに行って帰らぬ人となった。

豊間には知人が何人かいる。昨年秋、わが家を訪ねてきた元市職員氏は妻と孫二人を津波で失った。命は助かったが、主人の職場が全壊し、自宅に住めない状態になった知人は、豊間を離れて首都圏で暮らしている。大津波に襲われた翌日、5人の遺体の確認に立ち会ったという。避難所暮らしを余儀なくされたいわき地域学會の仲間もいる。

疑似孫と親がおととい(5月7日)夜、遊びに来た。豊間の話になった。国立病院機構「いわき病院」に勤める知人の話をしたら、疑似孫の父親が病院の前の大工さんを知っているという。

「仲がいい」というその男こそ、私らが消息を知りたかった人間の一人だった。40年来の付き合いだ。壊滅的な被害を受けた豊間の街道=写真=を通るたびに彼の家を眺め、一度は家に行ってみようと旧道を通ったが、通行止めで入れなかった。どこにいるものやらと案じていたのだった。

疑似孫の父親がケータイをかけた。なんとわが家の近く、ヨメサンの実家に避難していた。「すぐ来いよ」。叫ぶように言った。

間もなくやって来て酒盛りになった。お互いに被災当時の話をした。豊間の人間は、下半身が水につかったという。よく助かってくれた。「記録を残さなくては」「話すことはできるが、書くのはタカじいに任せる」。そんな暇はないから、いつかはペンを執らせようと思う。

2011年5月8日日曜日

川内への道


田村市常葉町の実家への行き帰りに、川内村をよく通る。いわき市平のわが家から夏井川渓谷の無量庵経由では、川前・荻の峠を越え、県道小野富岡線に乗り入れる。するとすぐ川内村だ=写真

小川の町はずれから二ツ箭山を巻くようにして山中を縫う国道399号も、たまには使う。春の山菜時期、秋のキノコ時期には、なぜだかこのルートが頭に浮かぶ。この沿線で山菜もキノコも採ったことはないのだが。

それから北のルート。山麓線(県道いわき浪江線)を北上して富岡町から川内に入るか、大熊町まで進んで浪江から郡山へとほぼ真西に延びる国道288号を利用するかする。288号は、川内はかすらない。どのルートを選ぶかは、まったく恣意的だ。そのときの気分次第。実家に行こうと思いながら、選ぶ道は全く違う。

それはしかし、「3・11」前のこと。今は、北ルートは立ち入り禁止になった。川内村は、村長以下、村民540人余が郡山市のビッグパレットふくしま内に避難した。仮役場と災害対策本部もそこに置かれた。

川前・荻は、いわきでは飛びぬけて放射性物質が高い。それでも、行政は見ぬふり・聞かぬふりか。そうではあるまい。何とかしたいと思っているはずだ。行政に頼るしかない人間を見捨てる公務員なんているはずがないのだ。とにかく早く住民の気持ちに触れてほしい。

さて、真ん中のルートの国道399号沿い。小川の戸渡(とわだ)を越えると、すぐ「獏原人村」(川内)だ。通称「マサイ村長」が妻のボケさんと鶏を飼って暮らしている。その卵を宅配するため、「村長」が毎週火・金の2回、いわきへ下りてくる。わが家へは金曜日にやって来る。時間があれば、茶飲み話に花が咲く。

大津波による原発事故で、川内村は東側が警戒区域に入り、残りは緊急時避難準備区域に入った。夫妻は一時、茨城県に避難したが、今は村に戻り、放射線検知器を持ってふだん通りの暮らしを続けている。

おととい(5月6日)の金曜日、卵とともに「放射能(核種)検査報告書」のコピーを持ってきた。「獏原人村」の卵を同位体研究所で検査してもらったところ、国の基準500ベクレルを大幅に下回る10ベクレル未満だった、安心して召し上がってください――と、報告書のコピーに赤い字で文章が書き加えられていた。

卵の宅配契約を打ち切った家がある。風評被害を抑えるためには、客観的・科学的データが必要と判断したのだろう。

こうして川内からいわきへやって来る人はいても、いわきから川内へ行く人は、そうはいない。私も、今、実家へ帰るとしたら、夏井川沿い、最短の県道小野四倉線を使う。

それはそれとして、下川内の国道399号沿い、木戸川べりに住む陶芸家の志賀夫妻と愛娘はどうしたろう。どこかに避難したのだろうか。情報が欲しい。

2011年5月7日土曜日

ネギ苗定植


木曜日(5月5日)は夏井川渓谷の無量庵で過ごした。肌寒い曇天下、ジャンパーを着て「三春ネギ」の苗を定植した=写真

溝を切る。苗床にスコップを入れ、ボールペン大に育った苗をばらして、針金のような未熟苗を取り除く。太い苗を中心に、溝に植え並べる。これだけで半日かかった。

「3・11」の津波による原発事故で、9日間ほど息子一家と一緒に避難した。避難所で、在来作物である「三春ネギ」の栽培をどうするか、思い悩んだ。

原発事故が深刻度を増せば、家に戻っても「屋内退避」になるかもしれない。そんな事態になると、土が、苗が放射性物質に汚染されてしまう。しかし、種を絶やしたらそれまでだ。永遠に「次」がない。どんな厳しい状況になろうと、苗を植え、種を採ることに決めた。「原発に負けねどー」である。

今シーズンは、苗床の管理が割合うまくいった。種の「ばらまき」を「すじまき」に切り替え、間引きを怠らなかった。追肥も定期的に行った。厳冬期には葉先が黄色く枯れ、雪に埋もれていた苗も、春になるとグングン成長した。4月後半には、太さがボーペン大、丈が40センチにもなった。

溪谷の県道は「通行止め」になっている。が、地元の住民は自己責任で往来している。私もそれにならって、無量庵へは自己責任で直行した。

6日に応急工事が始まり、本当の通行止めになった。迂回路があるから行けないわけではない。が、一つの区切りとして、直行できる最後の5日の「こどもの日」を作業日に選んだ。

ひとまず来年の種を採取・保存するための作業は終わった。去年植えたネギはネギ坊主を形成しつつある。5月の終わりごろには今年の種を採取・保存できるだろう。

2011年5月6日金曜日

川前・荻の放射線量


きのう(5月5日)、夏井川渓谷の無量庵へ出かけて畑仕事をした。合間に、必要があって川前の知人に連絡した。すぐ来てくれた。用事がすんだあと、「3・11」以後の話になった。原発事故が今も心に重くのしかかっているという(それは私も同じ)。川前は山間地。平野部の平よりは福島第一原発に近い。市街地の市民とは違った危機感を抱いている。

いわき市は原発事故では「無印」になった。しかし、「緊急時避難準備区域」(福島第一原発から20~30キロ圏内)に入っているところがある。北部の末続、大久。いわきの山間部では小川の戸渡、そして川内村に接する川前の荻=写真、志田名など。いずれもいわき市の行政・経済の中心地である平からはずいぶん遠い。「いわきの辺境」といってもよい。

川前は安全か――知人の不安、いらだち、怒り、孤立感は、30キロ圏内の同じ川前の住民の気持ちだろう。「どうしたものか」と聞かれても、「そうですねえ」としか言いようがない。

住民が自主的に放射性物質の線量計測を始めた。ところによっては、2.88マイクロシーベルトアワーという高い値を計測した。単純計算では、積算線量が年間25ミリシーベルト余になる。飯館村と同じような「計画的避難区域」ではないか、これは。

知人は、支所に言っても聞きおくだけだという。知人のいらだちは募る。なぜ住民本位の仕事ができないのか、住民の気持ちにこたえられないのか。

いわき市は昭和41(1966)年10月1日、14市町村が合併して誕生した。「平成の大合併」のモデルになったといってもよい。

合併のメリットは財政の効率化、デメリットは地域の問題の潜在化。合併前ならば「村の最大課題」だったのが「市の一部の課題」でしかなくなった。

「2.88マイクロシーベルトアワー」は「川前村」であれば大問題だろう。全村避難を検討しなくてはならないような危機感に襲われているはずだ。それが、いわき市の本庁からは見えないために放置されている。危機管理が末端まで行き渡らない。

いわきはハマ・マチ・ヤマの三層構造をなしている。ハマは大津波で壊滅的な打撃を受けた。マチは大地震の被害を受けたものの、ライフラインは回復した。少なくとも日常を取り戻した。ヤマはどうか。ニュースはあるのに、取材に行く記者がいないからニュースにならない。それで本庁にも問題が見えない。

同じ川前でも川と山がある。夏井川のほとりの市川前支所で「0.15マイクロシーベルト」とあっても、双葉郡により近く標高の高い山地の荻、志田名では線量が高い。もっと計測地点を増やさないことには安心は担保されない。片隅からの叫びに本庁は耳を傾けよ、誰か職員をやって実情を把握せよ――と腹立たしくなった。

2011年5月5日木曜日

災害救助犬


4月末の夕方、知人が避難している藤間中(いわき市平藤間)の体育館を、NGOのシャプラニールの職員とともに訪れた。

バングラデシュやネパールで活動しているシャプラニールが、「東日本大震災」を契機に、初めて国内での災害支援を行っている。北茨城市で緊急支援活動をしたあと、いわき入りした。3月下旬に会員であるカミサンと連絡が取れ、わが家の近くにある義伯父(故人)の家を基地にして、いわき南部に出動している。

シャプラの支援内容は、当初の緊急支援から仮住まいの生活再建支援へと変わってきた。勿来の災害ボランティアセンターに詰め、小名浜の災害ボラセンが立ち上がったあとは、小名浜にも職員が張りついている。避難所から一時提供住宅へと被災者が移る、その時点での支援策を実施するための情報収集を兼ねた藤間中訪問でもあった。

ちょうどお坊さんのグループが慰問に来ていた。2回目だという。校長さんの頼みで宵の慰問になった。曹洞宗、浄土真宗と「超党派」ならぬ「超宗派」だ。歯科医で週末はプロのシャンソン歌手も一緒だった。「笑い療法士」のお坊さんが司会を担当した。

災害救助犬もやって来た=写真。救助犬は8歳あたりまでが活動の限界。10歳だから、現役ではない。そのワンちゃん、黒毛のラプラドールが活動の一端を披露した。パートナーのことばをうけて伏せたり、立ったり、歩いたりした。

救助犬は空中に漂っている「浮遊臭」をかいで、がれきの下に埋まっている人間の存在をほえて知らせるのだという。

引退した今は災害救助犬のPRを兼ねて慰問活動を展開している。子どもたちは救助犬の周りから離れなかった。犬もまた立派なボランティアなのだと知る。

2011年5月4日水曜日

コゴミをてんぷらに


山菜を採るには絶好の季節になった。夏井川渓谷の無量庵では、いながらにして山菜が採れる。庭にヨモギやツクシが生え、若いフキが半円状に葉を広げている。庭の周辺では、コゴミ(クサソテツ)が握りこぶしのような芽を出し始めた。ワラビ=写真=とゼンマイも首を伸ばしている。

原発事故で大気と大地が放射能に汚染されたため、今年は山菜採りをあきらめていたが、足元に生えだすとやはり手が伸びる。コゴミを少し摘んだ。

きのう(5月3日)も書いたが、無量庵の畑のタラの芽はだれかに盗られてしまった。放射能を浴びたので、採るのをためらっていた。県道も「通行止め」になっている。行楽客はほとんど来ない。が、山菜狙いの人間は見逃さない。畑に侵入して一番芽をスパッとやった。

福島県がキノコと山菜の放射性物質を検査した。報道によれば、福島市などでコゴミ(露地)が、いわき市で原木シイタケ(露地)、タケノコが食品衛生法の暫定基準を上回った。福島のコゴミといわきのタケノコについては、出荷・採取の自粛を――となった。

線量計を使って数値を調べている知人がいる。夏井川渓谷に住み、原木シイタケその他を栽培している。先日会ったら、「数値は高いが、食べてる」と言う。「食べる? やるよ」。遠慮した。

タラの芽も、ワラビも今年は採取を見送る。コゴミだけにする。水でよく洗って、てんぷらにした。あくがないので、ゆでればすぐ食べられる。マヨネーズあえが簡単でおいしい。が、初物はやはりてんぷらだ。初物(食べはじめ)にして終わり初物(食べおさめ)のつもりで口にした。

2011年5月3日火曜日

山ほほえむ


冬の眠りについていた木々が目を覚ました。赤、茶、臙脂、黄、黄緑、緑……。いわきの山々は、くすんだ灰色から鮮やかなパステルカラーに変わりつつある。湯の岳も、小玉ダムの周囲の山も、夏井川溪谷=写真=も、春の息吹に包まれている。

根っこからこずえへと、樹液がどっくんどっくん音たてて吸い上げられている。天然のポンプアップだ。木の芽が吹くと、いつもそんなイメージをいだく。

5月1日の夏井川渓谷。稜線まで染まった芽吹きの色にヤマザクラのピンクが寄り添い、松とモミの濃い緑がアクセントとなって、やわらかな毛をまとった羊のような山景だった。秋の紅葉を油絵だとすると、春の芽吹きは水彩画。淡く、やさしく、温かい。

私には、春の水彩画が一年を通して極上の景観に思える。「山笑う」ということばがある。「笑う」という現象でいえば、「ワハハ」ではない、「フフフ」。今が「フフフ」の「山ほほえむ」だ。それが好ましい。

が、その風景の一部で腹がたつようなことも起きる。

わが無量庵の畑。それは県道のそばだが、集落のTさんにもらったタラボの苗木数本を植えたのが、大きく育った。「東日本大震災」から1カ月余がたったあたりから、てっぺんに一番芽が形成された。道路のそばだから人は見過ごすだろう、と思っていたのが甘かった。きれいさっぱり、鎌で切りとられていた。

犯人は分かっている。春は山菜採り、秋はキノコ採り。そんな生活文化が体にしみこんでいる人間だ。若い人間ではない。山菜採りのついでにアカヤシオを見に来たら、目の前にタラボがあった。採らなきゃ損だ、となったのだろう。どんな事態であろうと、身勝手を生きる。山里の住民の怒りを初めて知った。

その怒りを、渓流のカジカガエルのささやきが鎮めてくれた。ウグイスも、近くのヤブの中で歌っていた。ウグイスはきっと「タラボ盗り」の人間を知っている。

2011年5月2日月曜日

井戸水復活


きのう(5月1日)の午後は夏井川渓谷の無量庵で過ごした。1月中旬に凍結・破損した洗面台の水道管を直すために、管工事業を営んでいる同級生が来る。

2月に入って渓谷からケータイがかけられるようになった記念に、真っ先に彼に連絡した。「どこからかけてると思う。無量庵からだ。水道管が破裂した」。わがブログを読んでいる別の同級生から聞いていたのだろう。「知ってる」。日を決めて修繕することにした。それが2月下旬。

3月に入れば寒気が緩む。再び凍結・破損するようなことはあるまい。そろそろ修繕する日を決めようと思っていた矢先、「東日本大震災」に見舞われた。無量庵の水道管の修繕どころではない。震災で広範囲にわたって断水した。同級生の会社は復旧工事に忙殺された。

そうではあっても井戸ポンプの電源を切り、水を止めてから3カ月半。もう限界だ。4月最後の日の夜、電話をした。「そろそろやってくれよ」。今も公共事業で忙しい身だが、「わかった、おれが行くしかないか」。

同級生が洗面台のふたを開け、破損個所を見た。奥の壁にある水道管の栓を閉めれば電源を切る必要はなかったのに、という。

電源を切ってしばらくたつためにポンプは空気にさらされて赤さびていた。「呼び水」をしてもうんともすんとも言わない。電源を入れたり切ったりしながら、ポンプをいじって動かすことにした。

井戸は無量庵から30メートルほど離れた隣の広場にある。以前は、ポンプと無量庵の間を行ったり来たりして連絡しあっていたが、ケータイがかけられるようになったので、同級生はポンプのそば、私は無量庵にいて、「電源入れて」「切って」「入れて」といったやりとりをした。

しばらくそんなことを繰り返しているうちに、蛇口からゴボゴボと音を出しながら赤茶けた水がほとばしり、そのあと、きれいな水が出てきた=写真。地震とは違うトラブルだったが、無量庵のライフラインが回復した。3カ月半ぶりに頭の霧が晴れた。

2011年5月1日日曜日

5月がきた


5月がきた。風が若葉をなでて過ぎる、一年で最もさわやかな月だ。男の子のいる農家には小旗がはためき、こいのぼりが泳ぐ=写真。気温の高い日には家の戸を、窓を全開する。半袖シャツに着替える。夕方にはカツオの刺し身をつつきながらビールをグイッとやる。本来ならば、何の不安もなくそうするのだが……。

浜通り俳句協会の俳誌「浜通り」第140号が、きのう(4月30日)届いた。季刊誌である。頼まれて「いわきの大正ロマン・昭和モダン――書物の森をめぐる旅」を連載している。今度の号では俳人諸氏の作品が気になった。「東日本大震災」を詠んだものがあるのではないか。あった。

 列島を呑むかに津波山笑ふ(武川一夫)
 灯籠も墓碑も倒され春かなし(後藤青峙)
 配給の握りの冷めて氷点下(〃)
 春津波遭遇の孫生還す(林十一郎)
 激震や阿鼻叫喚の春津波(渡辺ふみ夫)
 水電気ガス無き避難春寒く(〃)

<浜通り集>に収録された作品の一部である。締め切り後に作品を差し替えた人もいたことだろう。旧知の発行人結城良一さんの作品は、

 花八つ手黙って避難両隣り
 ふくろふの範疇余震また余震
 放射能警戒レベル市域余寒

大地震・大津波、それに追い打ちをかける原発事故は、俳人にも衝撃を与えた。それぞれがそれぞれの体験を詠んでいる。身近な体験を普遍化するのが短歌や俳句のすごいところだ。いや、短詩形文学だからこそかえって鋭く大災害の姿を浮き彫りにする。

<浜通り集>は、それぞれが近詠を発表する場だろう。次号なり次々号なりで「震災俳句」を特集してはいかがか。貴重な記録になる。

5月の声とともに、いわきでは「花八つ手」に代わってフジが紫の花穂を垂らしはじめた。結城さんの句にならえば「藤の花黙って避難両隣り」というところもあるに違いない。

24年前に54歳で亡くなった、いわきの高校教諭吉田信さんの遺稿集『薄明地帯のメッセージ』に「チェルノブイリ原発事故に寄せて」と題した詩が収められている。遺稿集を頂戴したが、2階はいまだに本が散乱している。どこにあるかわからない。伊東達也編集・発行の『原発を書いた俳句 短歌 詩』(2010年7月発行)から紹介する。

 一体何のあやまちだ どうしたと言うのだ
 死の灰が降りそそぐ この美しい五月の空から
 音もなく においもなく
 北ヨーロッパの子供たちや妊婦たちは
 あんなに陽ざしが恋しい種族なのに外にも出られず
 豊かな牧畜の国々ではミルクも肉も当分おあずけだ

 「正確な情報を与えよ」
 ワルシャワやストックホルムの市民たち
 世界中の人々は耳をそばだてる
 生者だけではない
 カタコウムのされこうべたち
 ヒロシマやナガサキの死者たちも耳をそばだてる
 ルルドの聖母像もいぶかしげな視線を
 北方に投げる

 古都キエフから観光団が今日帰国
 百ピコキュリー前後の大した汚染だ
 しかし旅行者は立ち去ればよい
 死の灰を洗い流して……
 ヨゼフやイワン カテリーナたちよ
 君たちは十分知らされたのだろうか
 君たちの水や食料 土地や空気は安全なのだろうか
 ウクライナの穀倉地帯は大丈夫なのか
 ほとんどなにも知らせない政府との
 あいまいな納得づくで 君たち自身の健康や
 生まれて来る子どもたちは本当にだいじょうぶなのか

 だがこれは他人事ではない
 私たちの電力会社や政府はまたしても
 メガホンでふれ回っている
 「わが国の原子炉は形式が違うから安全だ」と
 メガホンとそれを鵜呑みにする(沈黙の多数)
 という図式は破られねばならぬ

 地獄の釜のふたが飛んだ
 一度目はスリーマイル島でおずおずと

 二度目はチェルノブイリでかなり派手に

 三度目は何処でどんな具合にはじけることだろう
                        一九八六・五・五

25年前の吉田さんの心配が現実のものになった。しかも、地元の浜通りで、激しく、過酷に。5月の美しい空はいつ戻ってくるのか。